『妄想コワルスキー・Congestion』 (中)



                                ←back    next→


その「シーッ」は喫茶リゾナントを中心とする半径1キロ以内の人間の思念に伝わった。
大多数の人間は、その「シーッ」を単なる空耳として認識し、記憶の深層に埋没させ忘却の彼方へと追いやっていった。
だがしかしただの「シーッ」として捉えることが出来なかったばかりに、被害を被った例もある。

リゾナントのある町の一丁目に住む間賀時夫(37)は二歳になったばかりの愛娘と遊んでいた。
彼の娘は発育も早く賢かったので、トイレがしたいときは顔をしかめたりすることで意思表示していた。
そんな娘を早くオムツ離れさせるために、日中家にいるときは薄い布オムツで過ごさせていた。
そんな目の中に入れても痛くない自慢の娘にせがまれて、高い高いと己の頭上に掲げた時に新垣里沙の「シーッ」が到来した。

彼の娘はまだ尿意の何たるかを知らない。
いや知らないというのは正確ではない。
起きて、食べて、飲んで、遊んで、笑って、泣いて、叱られて、ほめられて、寝る。
そんなサイクルの中で身体の中である感覚が芽生えると、それはだんだん大きくなり、違和感を覚えるということは体感している。
その感覚が尿意と呼ばれていることを知らないのだ。

だが尿意の何たるかは判っている。
尿意を解消するには、身体のある器官の緊張を解放すればいいことも無意識のうちに体得している。
更に付け加えるならば、ある器官を解放することによって、身体の中の違和感を解消できたとしても、今度は身体の外側で不快感が生じる場合があることも学習してきた。

だから彼女は尿意を覚えたら、少し大袈裟なくらいに顔をしかめることにしている。
ひょっとしたらその一連の所作は、彼女の知性の高さを示すものではなく、動物的な本能の賜物なのかもしれない。
だか彼女にとってはどちらでもいいことだった。

要するに「シーッ」がしたくなれば顔をしかめる。
そうすれば周りにいる大人たちがトイレに連れて行って、わずらわしい衣類を取りのけて、「シーッ」と合図してくれる。
彼女はその「シーッ」に従って、膀胱を緩めれば「シーッ」と楽になれる。

そうすることによって濡れたオムツやベビー服で過ごすという苦行を行うことなく快適に暮らしていける。
それが生まれてから二年間で到達した境地である。

実のところ父親に高い高いをしてもらってるときに、若干の尿意を覚えてはいた。
だがしかしまだしかめっ面のサインを出すタイミングではないという判断を彼女はした。
そしてその判断は本来なら妥当なものだった。
新垣里沙の放った「シーッ」さえなければ。

父親の顔より高く差し上げられたときに、「シーッ」が来た。
賢明な彼女はその「シーッ」がいつも家人が口にする「シーッ」とは違うものだということは認識していた。
今自分がいるのが「シーッ」をする場所ではないこと、自分が「シーッ」をする体勢にはないことも判ってはいた。

だがくどいようだがただの「シーッ」ではないのだ。
希代のマインドコントローラー新垣里沙が覚悟を決めて放った「シーッ」なのだ。
かくして「シーッ」は間賀の愛娘の純粋な精神を射抜いたのだった。
まだ幼い彼女はその「シーッ」にあらがう術を知らなかった。
いや最初から抵抗しようとすらしなかった。
新垣里沙の「シーッ」に心を撃ち抜かれた時点で、「シーッ」の時なのだった。

彼女は新垣里沙の「シーッ」に従っておのれの「シーッ」を解放した。
当然の如く彼女の「シー」は薄い布オムツを濡らし、身体伝いに間賀の腕を伝っていった。
また別の経路から流れ出た「シーッ」は間賀の顔面を直撃したのだった。

ここで彼女にとって幸いだったのは、間賀が家族思いの優しい男だったということである。
そう会社の慰安旅行で日本海沿岸の温泉郷に出かけた際、宴会に呼ばれたロシア人女性のコンパニオンから猛烈にアフターの誘いを受けた際も、家族の顔を思い浮かべ穏やかに笑って固辞する。 
コンパニオンに手渡されたキスマーク入りの名刺は処分せず定期入れの奥にしまい込む。
そして月に一二度眺めながら実現することのなかったアバンチュールに思いを馳せる、でも妻に頼まれた買い物は忘れることはない。
間賀時夫とは要するにそういう男だ。

そんな間賀だから娘の「シーッ」が自分の顔や身体を汚しても、激昂することもなければ、慌てて娘を取り落とすこともなかった。

「シーッ」がかかった自分の顔や身体など気にもせず娘のオムツの始末に取り掛かる。
リンゴジュースみたいでちゅねえと微笑みさえ湛えながら。
娘の「シーッ」を顔に浴びたことなどさしたることではない。
むしろいい笑い話が出来たくらいに思う。
間賀時夫とはそういう男だ。

粗相の後始末をしながら、娘の健康を神に感謝する間賀だったが彼はしくじってしまう。
いや、少し遠い将来過ちを犯してしまうことになるのだ。

親の立場からすれば、自分の顔に娘が「シーッ」をかけたって、微笑ましい思い出の一ページとして済ませる話だろう。
しかし、当の本人からすれば顔から火が出るくらいに恥ずかしい出来事だ。ましてそれが女の子ならばなおさらだ。

十一年後、姪っ子の結婚式に家族で出席した間賀は、記念撮影の待ち時間の場つなぎに、この日のことを親戚一同に明かす。
ご丁寧に「シーッ」の擬音付きジェスチャー付きである。
勿論娘を辱めようする意図など微塵のかけらもない。
愛娘を嫁がせる寂しさに打ちひしがれている新婦の父を、少しでも元気づけようという思いから出た行動だった。
成長して小学生とは思えないぐらい大人びた雰囲気を帯びるようになった愛娘に、もう少し昔のままでいて欲しいという気持ちもあったかもしれない。

間賀時夫とはそういう男だ。

年端もいかない幼子の失敗とも言えない他愛のないエピソード。
間賀の話は愛娘との惜別に沈みがちだった新婦の父親の心を解きほぐした。
親戚一同の間に流れる温かい空気。

たった一人を除いては。

「ひ、ひどい」

間賀の娘の悲痛な声が響いた。 無理もない。
従姉妹が華美なウェディングドレスで着飾っているその場で、幼い頃の「シーッ」の不始末を暴露されたのだ。
難しい年頃の娘にとっては、耐え難い恥辱だっただろう。

「違うんだ、父さんは」

「お父さんなんか、大嫌い」

父と娘の間に深い溝が出来た瞬間だった。
その溝は生涯決して埋まることはなかった。
遅かれ早かれ訪れる父子の断絶だったのかもしれない。

しかし新垣里沙の「シーッ」さえなければ、もう少し長い時間優しい父とかわいい娘の関係でいられたかもしれない。
新垣里沙がリゾナントの郵便受けに腕を突っ込みさえしなければ。

だが今一番大切なのは、間賀時夫とその娘に訪れた運命の転変ではない。
今一番大切なのは喫茶リゾナントの入り口付近で対峙している新垣里沙と高橋愛のことだ。


「シーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」

「だから里沙ちゃん、さっきからどうしたの」

「シーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」

「だ~か~ら~、シーッて何よ」

それはカップのことだとは言えない。
言ってはならないのだ。
とりあえず頭の中に浮かんだキーワードを連発したことで、郵便受けと自分の関係から愛の目を逸らせることには成功した。
「シーッ」の連呼で自らの心の中を空白にして、愛の精神感応によるマインドスキャンから逃れることにも成功した。
しかし、その後の展開はノープランだった。
いやむしろ事態を却って悪化させているだけのような気もする。
しかし、今の自分にはこれしかない。

「シーーーーーーーーーーッ!!」

「今日の里沙ちゃんはちょっとおかしいやよ。 いやかなり変やし」

流石に愛もこれまでに無く声を荒げる。

「シーッ!! 静かに愛ちゃん」

「!!」

虚を突かれてしまい言葉に詰まる愛。
それはそうだろう。 散々大声で「シーッ」を連呼してきた里沙に静かにするようにと諌められたのだから。
それでも気を取り直してそんな里沙を詰ろうとする愛だったが、里沙の口から飛び出した思いもよらぬ言葉に驚愕してしまう。

「この郵便受けには爆弾が仕掛けられている。 だから静かにしてくれないかな、愛ちゃん」

どうよ、この展開。私ってクールじゃない。
「シーッ」の連発の最中に天から里沙に降りてきた戦略はこうだ。

自分が郵便受けの中で「凡奇湯」からの招待状を強く握り締めていることは誰にも気づかれたくない、特にれいなには。
「凡奇湯」からの招待状は絶対誰にも手渡したくない、特にれいなには。
こうなった以上人知れず「凡奇湯」への招待状を入手してこの場を立ち去り、何食わぬ顔で他のメンバー特にれいなを出し抜いて「凡奇湯」に向かうことは不可能に近い。
だとしたら、どうすればいい、こうすればいい。


ひとまず爆弾騒ぎを引き起こして人目を強制的に遠ざける。 ←今ココ
               ↓
火事場のクソ力で郵便受けを取っ払って人目のつかない場所に行き、そこでぶっ壊す。
               ↓
ぶっ壊れた郵便受けから招待状を入手した上でリゾナントに戻り、爆弾は無事解体したと言っておく。

喫茶リゾナントを爆弾の脅威から救ったヒーローとして、メンバーから尊敬の視線を浴びる。 その後何食わぬ顔で中澤の温泉宿に向かい「凡奇湯」を浴びる。
               ↓
ボン。キュッ。ボン!になった私はリゾナントに出向き、そこで皆から羨望の視線を浴びる、特にれいなから。

完璧よこれほどに完璧な作戦があっただろうか、いやない。       

冷静な第三者の視点からみれば里沙のこんな考えた方は第一段階から子供じみているとしか思えないだろう。
郵便受けに爆弾、そんなバカなwwww
流石ガキさん、身体が子供なら考え出すことも子供だと。
だがしかし彼女たち、喫茶リゾナントに集う娘たちは皆戦士なのだ。
闇を打ち払う光の戦士なのだ。
とても大切なことだけど、最近見失っている気がしたので二回言ってみた。

そうリゾナンターは戦士、ならば喫茶リゾナントはそんな戦士たちが翼を休め、戦いへの鋭気を養う母港にして城なのだ。
敵からの攻撃の対象ともなりうる。
現にこれまでにも敵の直接攻撃の対象となったことがある。
だから、愛は真に受けた。
里沙の口から出まかせの爆弾発言を真実のことだと思ってしまった。

「ば、爆弾やなんて、どうしたらええの」

ここまでは里沙の企みは思い通りに進んだ。
いや思い通りに進みすぎた。

蟹は甲羅に似せて穴を掘るという格言がある。
蟹は自分の甲羅の大きさに合わせて穴を掘るように、人は自分の身分や力量に応じた望みを持ち、行動するということのたとえである。

追い詰められた新垣里沙がありもしない爆弾の存在を言い立てた様子もその格言に当て嵌まる。
そう里沙はもしも自分が爆弾騒ぎに遭遇してしまったなら、どう行動するかを思い浮かべた。
そして愛も自分と同じように行動すると考えたのだった。


…シーッ、静かに。この郵便受けには爆弾が仕掛けられているやよ。 だから里沙ちゃん、静かに…

…どひゃーっ。


うん、自分なら爆弾の「ば」が聞こえた時点で、全力疾走で逃げるわ。
死んで花見が咲くものか。
命短し恋せよ乙女ってね。
それなのに、この女はなんで逃げないの?

「愛ちゃん、爆弾だから」 (早くお逃げなさいって)

「里沙ちゃん、どうしよう」

「危ないから、リゾナントの中のみんなをどっか避難させて」 (ぶっちゃけあんたがいると邪魔なんだよ)

「そんなことより、里沙ちゃんはどうするの」

「私のことはいいから、みんなと一緒に愛ちゃんも逃げて」 (マジでさっさとここから消えて欲しい)

「そんなことできん」

「気持ちは嬉しいけどここは危険だから」 (ボン。キュッ。ボン!の邪魔をする気ならいくら愛ちゃんでもただじゃおかないからね)

「そんな危険な場所に里沙ちゃんを一人で置いてくなんてできん」

「バカッ、愛ちゃんはリーダーなんだからそんなことを言ってちゃダメじゃないか」 (馬鹿。 もういい加減気づいてくんないかなあ)

自分の側から離れようとしない愛の頑迷さを心の中で罵りながらも、その心情を少し嬉しく思う自分に戸惑う里沙。
愛はというと、涙を流しオロオロするばかりで、その姿からは常日頃のリーダーらしさの欠片も窺われない。

「早く逃げて」 (早く消えて、お願いだから)

「逃げるなら里沙ちゃんも一緒に」

「私はダメもとで爆弾の解体にチャレンジするから」 (まあ最初から爆弾なんてないんだけど、こうでも言っとかないと私一人になれないしねえ)

「じゃあわたしも手伝うから」

「それはダメだ。 もしも失敗して愛ちゃんと私の二人が同時にいなくなったらどうするの」 (だぁか~ら、とにかく私を一人にして欲しいわけで)

「だったら爆弾なんか放っといて逃げよう」

「それは出来ないよ。 そんなことをすればリゾナントが滅茶苦茶に壊れてしまう」 (いや、気持ちは嬉しいんだけどさ)

「この店よりも里沙ちゃんの方が大切やよ」

ちっ、この女しつこいにも程がある。
爆弾が仕掛けられているという嘘八百を愛が信じ込んでしまったのは計算通りだ。
しかしこれほどまでに信じてしまうとは、リゾナンターのリーダーとしては如何なものなのか。
自分のことはさしおいて心配する里沙だったが、そんなことで「凡奇湯」への歩みを止めてはいられない。
強く言ってもダメなら優しく情に訴えかけてみようか。

「愛ちゃんの気持ちはとても嬉しいけど、それじゃあたしの気持ちが済まない」

愛が里沙の瞳を見つめた。どうして?と問いかけているようだった。

「私は愛ちゃんがこの店をどんなに大事に思ってるか知ってるよ」

でも、と言いたげな愛を制し言葉を続ける。

「私はね感謝してるんだ。 スパイだった私のことを許してくれて、受け入れてくれた愛ちゃんのこと。そんな愛ちゃんにとって大切なリゾナントを守るためなら、私は命を賭けたっていい」

一体どうしたことだろ。
口からでまかせの戯れ言を吐いているうちに、里沙は自分が本当に命懸けでリゾナントの危機を救おうとしていると思いこんでしまった。
感極まり目元には涙まで湛えている。

「里沙ちゃんがリゾナントを守るんなら、リゾナントを守る里沙ちゃんをわたしが守る」

さっきまでの狼狽えた様子はどこへやら、決然とした様子の愛は里沙の右腕を捕らえている郵便受けに手を伸ばそうとしている、慎重に。
そんな愛を見るともなしに視界に収めながら里沙は思いを巡らしていた。

実際のところ何故自分の右腕が郵便受けから抜けなくなったのか、里沙には判らない。
クソ忌々しい田中の仕業だとは思うが、リゾナンターの中でも群を抜く愚か者がそんな手の込んだ仕掛けなどを施せるものなのか。
田中の仕掛けた罠なら自分に破れない筈はないという根拠のない確信が里沙にはあった。

悪巧みを考え出す悪知恵とそれを形にする智能とは別物だ。
だとしたら協力者がいる筈…。
サブリーダーの自分を罠にはめようなどという不届きな企てに加わったのは、どのアホンダラか。
リゾナンター一人一人の顔を思い浮かべていく。

私をハメることの出来る知恵者がいるとは思えないけど。
一人のメンバーの顔が浮かぶ。
里沙の心の中で彼女は笑っていた。

愛佳、まさか愛佳なの!!





                                ←back    next→




最終更新:2011年01月22日 01:31