~コールド・ブラッド~ <Ⅸ>


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※ところどころ視点や時系列が飛びます
「◆ ◆ ◆」がその合図です

※一部残酷な描写を含みますのでご注意ください



「……みたいだね。認めたくないけど」

小さく息を吐き、愛は小春の言葉を肯定した。
だが、その目には諦観の色はまったくない。

「…でも、そう簡単にいくかな?プロとしてのキャリアの差を甘く見ない方がいいんじゃない?」

注意深く間合いを測る愛の体が、滑らかに床の上を移動していく。
それを目で追いながら、小春は冷たい微笑を浮かべた。

「甘く見てるつもりはないけどな。高橋さんの能力 ―空間置換(リプレイス)― も何もかも全部含めてね。その上で小春の方が強い…って言ってるんだよ」
「そうやって、相手の全てを理解してるつもりになるのが一番危険だって、いつも言ってるでしょう?」
「聞き飽きるくらいね。…で?小春が高橋さんの何を理解してないって?」

―自信過剰気味なところは、自分の知る小春と変わらないな……

そんな感慨が一瞬頭を過ぎり、愛は内心微苦笑する。
そして、それを最後に「自分の知っている小春」を完全に頭の中から追い出した。

「……目の色が変わったね。確かにその目は小春の知らない高橋さんかも」

愛の瞳から感情が消えたのを見て取り、小春は僅かに身構える。

「それが甘い――って言ってるの」
「!?」

その刹那――愛が元いた場所から消えた。

小春がそれを認識したときには、愛の姿は既にその斜め後方に在った。
空中でしなやかに捩れた愛の体は、無防備な小春の側頭部への蹴撃の体勢を形作っていた。

――避けられた…!

だが、確実に捉えたと思った瞬間、愛は自らの足先が空を切るのを感じた。
その目に、寸前で攻撃を躱して跳び退る小春の嘲笑が映る。

しかし、それを見送る愛の表情はどこまでも静かだった。


――私は言ったよ、小春。プロとしてのキャリアの差を甘く見るな……って


計算通りだった。
愛の攻撃を避け得たとしても、その際に小春が回避する方向は自ずと限られる。

小春はさっき言った。
「愛より自分の方が強い」――と。
「自分が愛の何を理解していないというのか」――と。
「今の愛は確かに自分が知らない愛かもしれない」――と。

それが甘いのだ。

小春が今戦っているのは、「愛」ではなく「リゾナンター」なのだから。
この場にいる小春よりもキャリアを積んだプロは、愛だけではないのだから。


嘲りの色を帯びた小春の顔の向こう、その回避先に、静かな表情を湛えた里沙の姿が映っている。
その手に握られたつや消しのコンバットナイフが、室内の照明を微かに反射して鈍く光っていた。

愛が攻撃へと移る直前、里沙との間に交わされた一瞬のアイコンタクト。
互いにとって、それで十分だった。
無言の連係プレーは、完全に小春の命を捕捉していた。

だが―――

「後ろ―――ッ!!」

着地へと移る中で愛が目にしたのは、心臓に刃を突き立てられる小春の姿ではなかった。

さゆみの叫び声が聞こえたときには、自分と里沙との間に在ったはずの……確かに補足したはずのその姿は消え失せ、代わりに―――


――幻影(イリュージョン)……!!


永遠にも感じる一瞬の中、愛は自身の迂闊さを心底呪った。

先ほど、小春は「もうこの“幻”も無意味だね」と口にし、実際にその能力を解除した―――かに見えた。
そして、愛は無条件に無意識下で認識した。

小春はすべての“幻”を消し去った―――と。

だが、実際にはそうではなかった。
敢えて能力を解除するところを見せてそう思い込ませ、その実、小春は一部“幻”を残していたのだ。
すなわち、自身の姿を本来の場所とは違うところに映し出す“幻”を―――


そして今―――今度こそ“幻”は消え失せ、本当の小春の姿が愛の目に映っていた。
さゆみの声に反応し、後ろを振り返ろうとする里沙のその首筋に、今まさに鋭い牙を突き立てようとしている小春の姿が―――

「里沙ッ――!!」

愛の悲痛な叫びが室内に響いたときには、もうその牙は里沙の白い襟首へと食い込んでいた。
絶望的なほどに、深く、深く―――


「小春さぁ、言ったよね?何もかも全部含めて、小春の方が強い……って。ようやく意味が分かった?」

呆然と立ち尽くす愛に対し、小春はその口から滴る深紅の血をそのままに、勝ち誇ったように微笑んだ。
その脇には、虚ろな表情の中の光を失った瞳を愛に向ける、里沙の姿がある。

「そして、新垣さんはこれでもう小春の言いなり。そっちの味方はしてくれないよ。…どう?まだやる?」

里沙の顎を撫で上げるようにしながら、小春は舌を出し、唇に着いた血を舐め取る。
その舌を染める鮮やかな赤は、絶望の色に映った。

「一つだけ聞かせて?小春ちゃん」

暫時の静寂の後、さゆみが沈黙を破った。

「何?」

さゆみを振り返り、見下ろすようにしながら小春は小さく首を傾ける。

「リゾナンターに入ったのは、最初からこのためだったの?もしもわたしたちが小春ちゃんたちの敵になったときの……」
「………かもね」

僅かな間を挟み、ニコリともせずに短くそう答えると、小春は逆にさゆみに問い返した。

「で、道重さんは…どうする?小春の“仲間”になるって選択肢もまだあるけど」

それに対し、さゆみはただ静かに首を横に振る。

「…だろうね」

肩を竦める小春の表情は、またどこか僅かに淋しげにも見えた。

       ◆   ◆   ◆

「さて、じゃあ…そろそろ終わりにするよ?」

視線を愛に戻し、小春は再び冷たい薄笑いを浮かべる。
その目にはもう、かつての“仲間”への感情は、微塵も存在していなかった。

「新垣さんは道重さんをお願いしますね」

虚ろな表情で立ち尽くしていた里沙の肩に手を置きながら、小春はその耳元で囁くように“命令”した。
里沙から感情のない頷きが返ってくるのを確認し、満足げに笑う。

そして、里沙の肩から手を離そうとして―――気づいた。

手が、体が、固まったように動かないことを。
里沙の目に、いつの間にか明確な意志の光が戻っていることを。
その手に握られたコンバットナイフが、自分の心臓を今まさに捉えたところだということを―――

       ◆   ◆   ◆

「ぐ……?…なん……で……?」

信じられないという表情を露わに、小春はその場に膝をついた。
その胸には、ナイフが深々と突き刺さっている。

「甘いよ、小春。あれくらいでわたしを操った気になるなんて。…こう見えてわたし、“精神操作”のスペシャリストなんだからさ」

そう言う里沙の顔には、得意げな色はなく、ただひっそりとした悲しみだけがあった。

「まさか……わざ……と……小春に…咬ませ…た…の……?」
「…愛に言われたでしょ?プロとしてのキャリアの差を甘く見るな……って」

淋しげに笑う里沙に苦みを含んだ笑みを返しながら、小春はゆっくりと床に倒れた。

「はは……確か…に…甘……かったよ……小春の…負け…だ……」

里沙を見上げる小春の表情からは、先ほどまでの禍々しさは消えている。

「でも……そのナイフの傷くらいじゃ、きっとまた再生するよね?」
「まい……ったな……そこ…まで…お見通……し…か……」

そう言って顔をしかめる小春にはしかし、悔しそうな気配は感じられなかった。

「小春、わたしはあんたのこと……割と好きだったよ。何かと手のかかるとこも含めてさ」
「………そう」

互いに、淡々とした表情と声だった。
その思いがどこかで交わったのか……それともただすれ違ったのかは、その場の誰にも分からなかった。

もう何も言わず、里沙は小春の傍に静かに屈み込んだ。
そして、その胸に刺さったナイフを引き抜く。
吹き出した血潮が自身の体を濡らすのも構わず、里沙は小春の目を真っ直ぐに見つめ、最後に一言小さく呟いた。

「またね、小春―――」

言葉と同時に突き出された里沙の手が、再生の始まっていた小春の胸を突き破る。

朱に染まった里沙の手が静かに抜き出されたとき、小春の目は穏やかに閉じられていた。
傷の再生が始まることも―――もうなかった。

誰も、何も言わなかった。

やがて小春の体が静かに崩れ落ち、来ていた服だけを残して消滅しても尚―――静寂だけがそこにあった。

       ◆   ◆   ◆

「さて、これでようやく本当に終われそうだね」

長い沈黙の後、静かな里沙の声が室内に響いた。

半ば自失して立ち尽くしていた愛は、その声に引き戻される。
焦点を結んだ先にあったのは、穏やかに微笑む里沙の姿だった。

「ごめん、愛。リーダーの指示にないことして」
「里沙……わたしの……わたしが…頼りないから―――ごめん……ごめんね……」

視界の中で滲んでゆく里沙に、言葉を詰まらせながら繰り返し詫びることしかできない自分。
あまりにも不甲斐ない自分を、できれば里沙に思い切り罵ってほしかった。

「何言ってんのさ、愛。愛はちゃんと責任を果たしてたよ。リーダーとしての責任を……ずっと」

だが、里沙は小さく首を振り、そう言いながら愛に笑顔を向ける。

「だけど……わたしは何もできなくて……それどころか里沙のことも疑って……里沙のはずがないって…分かってたのに……」
「そういう中立な視点こそ、リーダーに不可欠なものじゃない。それにわたしは、そんな風にいつどんなときでも、誰に対しても公平な愛だから…好きなんだよ」
「里沙………」
「…小春もきっとそうだったと思う」

そう言うと、里沙は小春が倒れていた場所に視線を落とし、次いでそれをさゆみへと巡らせた。

「さっき小春に訊いたよね、さゆ。リゾナンターに入ったのは“このため”だったのか……って」
「……はい」
「最後の一瞬、小春の頭の中が見えたんだ。小春は……楽しそうに笑ってたよ。さゆや、愛や、わたしや…………みんなに囲まれて」

再び訪れた沈黙の中、3人の視線は小春の遺した服へと静かに注がれていた。


「……愛、さゆ。後のことはよろしくね」

いつまでも続いてほしい―――
愛が無意識にそう願っていた沈黙を無情にも破り、里沙が静かに愛の方へと歩み寄る。

「里沙……他に―――」

他に方法はないのか――と言いかけ、愛はその言葉を飲み込んだ。
そんなものが存在しないことを誰よりも理解しているのは、きっと里沙本人だろう。
こうしている今も自分が“人間”から離れつつあるのを、その身を以って感じているのだろうから。

「…うん、ないよ。見たでしょ?さっきの。わたしはもう……わたしじゃない」

小春の体を素手で軽々と貫いた里沙の姿が脳裏に甦る。
思考への干渉こそ能力で遮断したものの、小春によって送り込まれた“何か”がその体を“吸血鬼”へと変えつつあるのは明らかだった。

「だからお願い、愛。わたしがまだ……“人間”でいられるうちに―――」

愛の目の前に立った里沙が、微かな笑みを浮かべる。
その頬には、愛ですらいつ以来だったか思い出せないくらい久しぶりに溢れた、里沙の感情の雫が伝っていた。

―――ごめんね、里沙

再び出かかった言葉を押し止め、代わりに愛も泣き笑いを返した。

「ありがとう、里沙―――」

そしてその手をそっと里沙の左胸に当てる。
一瞬、空気を振動させるような音が響き―――里沙の体から力が抜けた。
その体をそっと抱きとめた愛を、穿たれた胸の孔から流れる温かい血が、静かに赤く染めていった―――

       ◆   ◆   ◆

どれくらいの時間、そうしていただろう。
既に里沙の体は、小春と同じように服だけを残して消滅していた。

「報告に……行ってくるよ」

ゆっくりと立ち上がりながら、愛はさゆみに視線を向けた。
きっと自分は見られないような酷い顔をしているだろう―――そう思いながら。

さゆみは何かを言いかけ――それを飲み込むようにして、一言「はい」とだけ答えた。

―わたしも一緒に行きましょうか?

さゆみがそう言いかけてやめたのは、愛にも分かった。
今は一人にしてほしい―――その自分の思いを汲み取ってくれたのだということは。

「……ありがとう」

囁くようにそう言うと、愛はさゆみに背を向け、出口へと足を踏み出した。

雲の上を歩いているかのような感覚のまま歩を進めるうち、いつしか扉は目の前にあった。
緩慢な動作で取っ手に手を掛け、押し開いた扉の隙間に体を押し込む。
―――背後で扉が閉まる音が聞こえた。

「なっ―――?」

瞬間―――愛は目にした。

信じられない光景を。
自分の目の前に在る、“あるはずのない光景”を―――