あだ名と名前と現状維持と


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

「めずらしーね。田中っち一人?」

雨に濡れた身体をハンカチで拭きながら、里沙が驚いたような声をあげた。
「リゾナント」の中にいたのはれいな一人。店主の愛すらいない。
休憩時間だから当然といえば当然なのかもしれないが、毎日のように店にメンバーがいて
それぞれ勝手にくつろいでいるのを知っているだけに、里沙は今日のこの状況が少し意外だった。

「さゆと愛佳がさっきまでおったんやけど、愛ちゃんにおつかい頼まれよったけん出てった。
 その愛ちゃんは、夏祭りの打ち合わせで町内会の会議に参加しとぉ。絵里・・・・・・
 絵里は知らんけど、どうせどっかで道草くっとるっちゃろ。で、小春とジュンリンはたぶん仕事」
「そっか、田中っちはお留守番してるのか。ご苦労さま~」

なおも身体を拭き続けながら里沙は相槌を打った。
説明を終えたれいなは、いったん裏に下がり、タオルを手にして戻ってくる。

「ガキさん、タオル使うと?」
「おっ、さんきゅー。気が利くねー、田中っち」

それにしても里沙はびしょ濡れだった。
傘を持っていないということは、さっきのあの土砂降りの中を傘を差さずに歩いてきたということだろうか。
れいなは、信じられないという顔で里沙を見る。


「いやー、まいったまいった!家を出た時は雨なんて降ってなかったからさぁ。
 移動はタクシーが多いしまあ大丈夫だろうと思ったら、いきなり雨がドッバーってきて!
 しかも、タクシーから降りて歩いてる時にだよ!もう勘弁してほしいよね、ホント」
「・・・ガキさんって、たまに絵里みたいなことしよぉね。適当っていうか、いいかげんっていうか・・・」
「え~!カメと一緒にしないでよー!私はあそこまで適当じゃないからー!」

里沙はその後もぷりぷりと何事かを言っていたが、雨で髪形が崩れるのを嫌うれいなにとって、
この時季に傘を持たずに出かけようとする人の心は理解できない。
改めて、自分の周りには変な人が多いなぁとれいなは思った。





外に出た愛とさゆみと愛佳が、なかなか店に戻って来ない。
逆に、絵里や小春やジュンジュンやリンリンがやって来る気配もない。
里沙とれいな。
仲が悪いわけではないけれど特別に仲がいいわけでもない二人が共に過ごす時間は、
浮き沈みすることなく緩やかに流れていった。


「そういや、田中っちってさあ」
「なんー?」

里沙は持参した雑誌を読みながら、何気ない口調でれいなに話しかけた。
れいなも、携帯電話の画面から目を離さずに応じる。

「“田中っち”って呼ばれるの、やだ?」
「・・・はっ?」

いきなり何を言い出すのか、と言わんばかりに、れいなは勢いよく里沙のほうを向いた。
それを受けて里沙も顔を上げる。
れいなが数分ぶりに見た里沙の顔は、怒ってもいないし笑ってもいなかった。

「なんそれ?誰がそんなこと言いよーと?」
「えっとー・・・さゆみんだったかな。『ふざけて田中っちって呼んだら本気で嫌がられた~』って言ってた」
「あれはちがっ・・・!あん時はさゆが人をめっちゃバカにした感じで言いよったけん、
 ムカついたと!ガキさんに言われるのは、全然いいっちゃ」

そう。
れいなは別に、“田中っち”と呼ばれるのがいやなわけではない。

そりゃあ、『可愛さのかけらもないストレートなあだ名だなぁ』と思ったこともあったけど。
今ではもう慣れてしまったし、そんなひねりのないネーミングがかえって里沙らしいと思えるようにもなってきた。
カッコよくは決まってないけど、まっすぐでわかりやすい辺りが。


「そうなの?もし田中っちが名前で呼んでほしいならそうするけど」
「今更せんでいいっちゃ、そんなん」
「あ、そう。わかった」
「うん」

そして二人は元の体勢に戻る。
里沙は広げた雑誌を読む体勢に、れいなは携帯電話をいじる体勢に。

けれども、れいなの気持ちはさっきまでと同じようにはいかなかった。



「・・・ガキさん」
「なーにー?」

携帯電話を置いて、れいなは再び里沙に向き直る。

れいなには、少し確かめてみたいことがあった。
できれば、他のメンバーがいないうちに。


「いっぺん、名前で呼んでみて」
「・・・へっ?」

今度は里沙が目を丸くする番だった。
いきなり何を、と言わんばかりに、里沙は勢いよく顔を上げる。
里沙が数十秒ぶりに見たれいなの顔は、少し赤みが差していた。

「さっきは、いいって言ったじゃん」
「事情が変わったと。あ、“れいなっちー”とか、あだ名っぽく言うのはNGやけんね」
「はあ・・・・・・」

どうにもついていけないが、名前で呼んでほしいというならそうするべきなんだろう。
そもそもの言い出しっぺは自分なんだし。

覚悟を決めて、里沙は息を吸い込んだ。
      • 覚悟というのは、照れくささと向き合う覚悟のことだ。
周りに誰もいないとはいえ、改まって名前を呼ぶというのは照れくさい。



「・・・れいな」



れいなの顔の赤みがだんだん濃くなっていくのがわかる。
だけど、それと同じくらい自分の顔が熱を持っていることも里沙は自覚していた。

「あのー、れいな?」
「・・・・・・」
「れいなさーん・・・?」
「い、いっぺんでいいってゆったやろ!そんななんべんも呼ばんでよかっ!」
「ええー!?自分から言っておいてー!?」

怒られた。
名前で呼んでみてと言われたのでそうしたら、その本人に怒られた。
それがれいななりの照れ隠しであるとは知っているけど、やっぱり理不尽だと里沙は思う。

しかし、れいなも必死だった。
里沙に名前で呼ばれるのはどんな感じなのだろうという好奇心でやってみた『呼び捨て実験』だが、
それがこう、思った以上に心地よかったのだ。
けれど、当のれいながその事実を認めるのはやはり気恥ずかしいし、里沙にそれを気取られるのはもっと気恥ずかしい。
れいなは必死だった。
照れ隠し、なんてもんじゃないほどに。


「あぁーもう!とにかくっ!今の、絶対みんなにはナイショやけんね!」
「今の、って・・・」
「もしみんなの前で呼んだりしたら、怒る」
「・・・・・・ん?それって、二人きりの時ならいいってこと?」
「なあっ!?ななな何言っとーよ!!」

本当に何気なさそうな里沙のツッコミで、れいなの顔がさらに朱に染まる。
いや、だって“みんなの前”とか言うから・・・・・・ねぇ?

否定しようにもうまい言葉が見つからないという様子であたふたしているれいなは確かに可愛かったのだけれど、
見てると余計に怒られそうな気がしたので、里沙は横を向いてれいなから目を逸らした。



――――やっぱ田中っちは苦手だわ。

どうもれいなに対してだけは、ちょうどよい距離感というのが掴めない。
こっちが行けば向こうが下がるし、こっちが下がれば向こうが来るの繰り返し。
縮まらない。だけど離れない。
二人の間には常に一定の距離がある。

だけど、常に一定というのはつまり「安定している」ということであって。
無理に切り崩そうとして不安定になるくらいなら、今の距離を保つほうがよっぽどいい。
だから。


「・・・ま、いっか」

もうしばらくは、このままで。