『蒼の共鳴第二部-The anthem of darkness-』



当駅始発の電車がホームに滑り込んでくる。
既に女性の前には数人の客が立ち、ドアが開くのを待っていた。
東京方面への上り電車、しかも始発。
皆、ボーッとしているように見せかけているが、席を確保しようと神経を尖らせている。
この僅かにピリピリとした空気に対して何も思うことはない。これが女性にとっては日常茶飯事だからだ。

ドアが開き、みな素早く目当ての席を確保しようと車内に雪崩れ込む。
女性は会社の最寄り駅で開くドア側、その中央の席を確保した。

無事席を確保した女性はレザーのトートバッグから新聞を取り出すと、今度はそれを折りたたむ。
隣り合う人の邪魔にならないよう新聞は折りたたんで読めと言っていた父は、先月定年退職した。
今は母と二人仲良く旅行に出かけている。確か、オーストラリアに8日間と言っていただろうか。
羨ましい限りだと心の底から思いながら、女性は紙面を目で追っていく。

旅行など大学の卒業旅行で行ったきりだ。
この不景気で旅行などの娯楽に収入をつぎ込む余裕はない。
正社員も安泰とは言えなくなった世の中、備えあれば憂いなしだ。
周りの女性は最終的に結婚してしまえばいいとタカをくくって、ろくに貯蓄もせずに遊んでいる。
その暢気さが女性には理解できなかった。
時代は変わった。余程稼ぎのいいパートナーと結ばれない限り、結婚後も働かなければ子供だって作れやしない。

早く景気がよくなればいいが、一度落ちたところから持ち直すのは並大抵のことではないことくらい、経済に疎くても容易に想像ができる。
今はただ、必死に働いて貯蓄するしかない。
何かあった時に親に泣きつくことだけはしたくなかった、今まで親には散々迷惑をかけてきたのだから。

一面を読み終えた女性は、一旦新聞を広げる。
紙面をめくり、再び先程と同じように折り畳もうとした女性の目に飛び込んできたのは、紙面全体を使った広告だった。

“想い描いた未来のために”

明朝体で書かれたキャッチコピーに、女性は眉をしかめる。
2ヶ月程前から見るようになった、“新興宗教”の広告はこれまでも度々見てきたが。
正直、何度見ても胡散臭いという印象以外浮かばない。

“Awesome God”――素晴らしき神と名乗る宗教団体。
たった2ヶ月という短期間で信者数100万人を突破、今も尚その数は爆発的に増加しているという。
それだけでも胡散臭いことこの上ないというのに、未だかつて悪評を聞いたことがない。
匿名性の高いインターネットの掲示板ですら、そうした悪評が一つも出てこないのだ。
どんなものでも、悪評の一つくらい探せば見つかる“巨大掲示板”ですら何も出てこない。
出てくるのは信者とおぼしき人間の賛辞と。
それを自分と同様に気味悪がる人間の書き込みばかりだった。

早々にその紙面をめくり、次の紙面へと目を通す。
一刻も早く広告を見た時の薄気味悪さから逃れたかった。
たった一言のキャッチコピーと団体名以外何も書かれていない紙面からは活動内容など一切分からない。
それにも関わらず信者が増え続けている現実は、ただただ薄気味悪かった。

この不景気だ。
何かに縋りたくなる気持ちというのは分からなくもない。
分からなくもない、が。
幸い、得体の知れないものに縋らなければ生きていけないほど、自分は追い詰められてはいない。

ため息を吐きながら、女性は新聞を折り畳みバッグへと仕舞う。
会社の最寄り駅まではまだ数駅通過しなければならないが、少し気分が悪い。

目を伏せながら、女性はある場所を想い描く。
それは、会社の最寄り駅からそう遠くない場所にある小さな喫茶店だった。
自分より年下のマスターと、二十歳にもなっていないだろう若いウエイトレス。
そしてマスター達の友人と思われる若い女性客がいつも談笑していた温かな場所はもう、なくなってしまった。

こういう気分の時こそ、マスターの作るコーヒーを飲みたかった。
ただ美味しいだけじゃなく、心まで満たされるあの味は…おそらく二度と味わうことはないだろう。
海外に修行に行くと言っていたが、経営難での閉業である可能性の方が圧倒的に高い。

一体、この国はこれからどうなっていくのだろうか。

最寄り駅に着いたことを告げるアナウンスに、女性は立ち上がる。
立ち上がる瞬間、窓から見えた空は――分厚い灰色の雲に覆われていた。


     *    *    *


2ヶ月振りに降り立ったホームは、最後に見た時から何も変わっていなかった。
久住小春と光井愛佳は改札を目指してホームを歩く。その足取りはけして軽快なものではない。

最後の“戦い”を終えた暁に戻ってくるはずだった土地。
思わぬ形での帰還は、若い二人の心に複雑な感情を過ぎらせる。

この街が全ての始まりだった。
“共鳴”という得体の知れない感覚に引き合わされた仲間達――超能力組織リゾナンター。
2ヶ月前まで二人はそれに所属する超能力者として、悪の“超能力組織ダークネス”との戦いと、普通の人間としての生活を両立していた。

仲間達と共に戦い、傷つき、涙を流し。
心を通わせ、絆を深め、力を合わせて戦った日々――それは確かに2ヶ月前までここで起きていた現実だった。
数多の記憶が二人の脳裏に蘇り、去来する。

どちらからともなく、手を繋いだ。
“共鳴因子”を持つ者同士だけが分かる、心と心が繋がれた感覚と共に言葉では言い表せない想いが伝わり重なり合う。

大丈夫、独りじゃない。
何か起きても絶対に――守ってみせる。

改札を抜け、通い慣れた道を進んでいく。
“喫茶リゾナント”、かつてリゾナンターのリーダーである愛が経営していた店の方へと。

歩きながらも、二人は警戒を怠らない。
自分達はこの街に何の目的もなく帰還したわけではなかった。

――ダークネスの予知能力者との邂逅を果たす、そのために二人は帰還したのだから。

愛佳が視た予知夢に“干渉”してきたという彼女の目的、真意は一切不明だった。
単に話をする為だけに呼び出したとは到底考えにくい。
むしろ、今後の戦いを見据え、予知能力者である愛佳を潰す為に罠をしかけている可能性の方が余程高かった。

愛佳だけを帰還させるわけにはいかないが、だからといって集団で行動するのは周りの注目を集めすぎる。
護衛として選ばれたのは小春だった。

小春と愛佳は共鳴の相性がいい者同士であり、戦闘時におけるコンビネーションもこの街を去ってからの期間しっかりと築き上げてきた。
敵との戦闘となった場合に愛佳が一番力を発揮出来る組み合わせではあるが、実はデメリットもある。
それは、小春がトップアイドル“月島きらり”でもあるからだった。

現在、小春は芸能活動を休業しているが。
休業から僅か2ヶ月という期間しか経過していない現状では、行動中に一般人に気付かれる恐れがあった。

敵との邂逅を果たしにいくという、いつ何が起きてもおかしくない現状。
小春の存在に気付いた一般人に自分達が気を取られている、その隙を狙って敵が不意打ちをしかけてこないとも限らない。
変装として髪を染め、メガネをかけてはいるが…気休め程度のものだ。
幸い、平日かつ午前中という時間帯のおかげか、今のところは声をかけられることはなかったが。

二人が喫茶リゾナントの方へと伸びる大通りに足を踏み入れた瞬間だった。
一変する空気。
ぬるりとした感覚が一瞬、二人の全身を駆け抜ける。

敵が生み出した“結界”に捕らわれた二人は、互いに視線を合わせた。

「どうやら一人、みたいやな…」

「そうだね、でも気は抜けないよ」

愛佳の呟くような声に同じようなトーンで切り返した小春の双眸に、凛とした光が宿る。
まだ相手の姿が見える位置に到達していないというのに、強い力の気配が辺りに満ちていた。

“彼女”とはかつて仲間であり、今はリゾナンター達の心強い味方となった保田圭。
圭の情報によれば彼女は戦闘能力を保持していない、だが。
愛佳は無意識のうちに、左手首につけているブレスレットに手を伸ばす。

圭が“創造”したこのブレスレットのように、戦闘能力を持たぬ者でも戦えるよう、
特別な機能を持ったデバイスを保持している可能性は0とは言い切れなかった。

不安を断ち切るように、愛佳はブレスレットに力を籠める。
それに呼応するかのように、小春もブレスレットに手を伸ばした。
瞬間、鮮やかな紅と紫の光が放たれる。

黒の“戦闘服”に身を包んだ二人は力が放たれている中心地点へと歩き出した。

一歩、一歩進む毎に禍々しい気配が肌に纏わり付くようだった。
寒くもないのに肌が粟立つ。
深く、昏い。
光が一切届かない深海の中に、何の準備もないまま突然放り込まれたとでも言えばいいだろうか。
今まで経験したことのない“闇”の中。
しっかりと繋ぎ合ったこの手だけが頼りだった。

後10数メートル程で中心付近に到達するという時だった。
突然、小春の足が止まる。
後ろに引っ張られるようになった愛佳は、小春の方を振り返る。

「どないしたん、急に立ち止まって」

「…ここ…ミーを拾ってきた路地の近くだ…」

“ミー”という単語に、愛佳の瞳が煙るような光を湛える。
温かさと切なさが入り交じった懐かしい記憶が二人の脳裏に同時に蘇った。

ある日、小春が喫茶リゾナント近くの裏路地から拾ってきた子猫、それがミーだった。
ミーはそれまで仲間達と良好な関係を築いているとは言い難かった小春に、確かな変化と成長をもたらしたきっかけでもある。
生後2ヶ月も経たないような小ささだったミーは、リゾナントで日々健やかに成長していく――そのはずだったのだ。

その“事件”が起こったのは仕事のない放課後のことだった、喫茶リゾナントへと向かおうとする小春の携帯電話が鳴る。

ミーが突然、リゾナントから消えた。

まだ自分の足で歩行することすらままならぬ幼い子猫が何故、いなくなってしまったのか。

街中を駆けミーを探し続ける小春の心に届いた“声”。
それは、恐怖に震えた愛佳の声だった。

声がする方へ疾走した小春の視界には、黒く歪んだ結界が展開されていた。
無理矢理引き裂くように結界内に体をねじ込んだ小春が見たものは――下半身を凍りづけにされた愛佳だった。

黒いドレスに身を包んだ女が笑う。
その手で幼いミーをお手玉のように弄び、抵抗する力を持たぬ小春を嘲笑う。

刹那。

一瞬にして、ミーは氷塊へと姿を変え…砕かれた。

小春の体を駆け抜ける激しい怒りと悲しみは、戦闘系能力を保持しない小春に新たな力を与える。
“発電-エレクトロキネシス-”、その名の通り、電気を発生させそれを自在に操作・行使する能力が。

発現した力を持って敵を打ち倒した小春は、自分の無力さに悔し涙を零す。
その時に、愛佳と誓ったのだ。

もう、誰も何も傷つけないように強くなろう、と。

頭を一瞬振り、視線を上げた小春。
その瞳に宿る光の強さに、愛佳はふっと息を吐く。
禍々しい気配を退けるような眼差しの鋭さに、不安に染まっていた心へ一筋の光が差し込んだような気がした。

気を取り直し、二人は歩みを進める。
裏路地へと足を踏み入れること、数歩。

予知夢で視たとおりだった。
退廃的で生の気配がしない能面のような容貌は、同じ人間とは思えない。
黒一色の装束が白い肌を際立たせていたが、中でも二人の目をひいたのは鮮血のように赤い口紅が塗られた唇だった。

ニィッと、口角がつり上がる。
光を宿さない瞳が一瞬で二人を貫いた。
背筋に走る得体の知れない寒気に、二人は繋ぎ合う手に力を籠める。
そうしなければ相手の放つ禍々しい気配に飲み込まれてしまいそうだった。

「視た通りね…久住小春、そして光井愛佳。
 あなた達二人が来ることは私の予知通りよ」

飯田圭織。
ダークネスの“不戦の守護者”と謳わる予知能力者。
その予知能力の確度は、数十年先の未来をも正確に読み取ると言われている。

そもそも、未来は刻一刻と姿形を変えるものだ。
通常、視る対象の未来が現在より遠ければ遠いほどその確度は落ちる。
なぜならば、無数に広がる未来という“可能性”はこの瞬間にも形を変え続けているのだから。

10秒先の未来を“想像”することは予知能力者でなくとも容易い。

だが、1日先はどうだろうか。
10日後は?
1年先は?

普通の人間ならば漠然とした形でしか想い描けない未来を、僅かのズレもなく読み取る。
まさに“神”の如き所行を彼女はいとも容易くやってのけるのだ。

闇の予知能力者と光の予知能力者の邂逅。

――静寂の中、早鐘のような鼓動の音が内耳に木霊していった。


     *    *    *


「…今のところは圭織一人だけみたいね」

保田圭の呟きに、室内の空気がほんの僅かに緩む。
山梨県の青木ヶ原樹海。
広大な樹海の地下に建造された施設の一室に設置されたモニターには、飯田圭織と久住小春、光井愛佳の姿が映し出されている。

「しかし、保田さんすごいですよね…。
 あんな小さなピアスの中に音声も受信出来るカメラを内蔵しちゃうなんて」

小川麻琴の呟きに、居合わせた面々は一様に頷く。
2人が身につけている直径1センチ程の薔薇を模したピアス、小型カメラはその中に埋め込まれていた。
手にとって至近距離で見ない限り、カメラが埋め込まれているとは気づけないだろう。

圭の持つ超能力“創造-クリエイション-”。
既存の物を自分の思うがままの物へと作り替えるこの能力のおかげで、こうして二人の状況を見守ることができる。

画面から視線を外すことなく、高橋愛はブレスレットに手を触れ戦闘服を身に纏った。
それを見ていた他の面々も同じように戦闘服を身に纏っていく。

現時点では何も起きていない、が。
何か起きたその時には、すぐにでも駆けつける態勢を整えておく必要がある。
敵が一人だったということで僅かに緩んだ空気が、再びピンと張り詰めた。

見つめ合う三者の様子を見守る愛達。
重苦しい静寂を切り裂いたのは、モニターから流れる会話ではなかった。

けたたましいサイレンの音。
突然の事態に何事かと慌てふためく愛達を横目に、圭は素早くキーボードを叩く。

「…森の南、ここから500メートルの位置に何者かが侵入したようね。
 警報が鳴ったということは、間違いなく一般人じゃない」

圭の言葉に愛達は視線を交わした後、部屋を飛び出していく。
その後を追おうとした麻琴を引きとめ、引き続きモニターに映る三人の監視を続けるよう言いつけてから、圭は愛たちの後を追う。

胸騒ぎが止まらなかった。
自分の生み出した結界装置はダークネスの持つそれと同等の性能を有しているのだ。
自分の、そして愛達の居場所を特定出来ぬようにと特殊な仕掛けを施した結界は、一級の能力者でもまず感知できない。
実際、何年もの間圭はダークネスの人間に見つかることなく今日まで過ごして来られたのだから。

では、何故、侵入者が現れたのか。

警報が鳴った時から感じていた違和感、その正体は一体何なのか。
愛達の後を追いながら、圭は必死に考えていた。

先を行く愛達の姿が視界に入る頃、ようやく圭は違和感の正体に気がつく。

――結界を破壊された形跡がない。

結界を破壊することなく内部に侵入することなど、まず不可能なはずだった。
そもそも、何重にも張られた特殊な結界を破壊しようと思ったら相当なエネルギーが必要不可欠だ。
例え結界に攻撃を加えられずとも、付近にそれだけの巨大なエネルギー反応があったら監視システムが異常を感知する。

だが、そんな異常な反応は感知されなかった。
そして、結界にも攻撃を加えられた様子はない。

前を走る愛達の背中が大きくなってくる。
考え込む圭の脳裏に閃いた、あり得ないとは言い切れない、一つの可能性。

そんな、まさか。
だけど、“彼女”ならば可能かもしれない。

前を走っていた愛達が動きを止める。
追いついた圭もまた、足を止め――己の考えが的を射ていたことを知る。

かつて、ダークネスが“M”という名を名乗っていた時期。
その当時から彼女はこう呼ばれていた――“空間を支配する者”と。

“空間支配”という、他に類を見ない超能力を有し。
その能力名の通りあらゆる空間を支配する、銀翼の言霊使いと対をなす最強の能力者。

確かに彼女の能力ならば、結界に触れることなく結界内に侵入可能だ。
――彼女はこの世界のあらゆる空間を支配する者、それはおそらくこの結界内部の空間も変わらない。

「…しばらく見ないうちに老けたね、圭ちゃん。
 新垣も何だか随分大人っぽくなって…時の流れは早いねぇ、本当」

緊迫した場面に相応しくない、無邪気な微笑みはあの頃と変わらなかった。
金色のオーラを纏った彼女と圭の視線が交錯する。

――記憶の中よりも随分と大人びた“後藤真希”との再会に、圭は強く拳を握り込んだ。



警戒されている。
指先一つ動かしただけでも、彼女達は自分に飛びかかってくるに違いない。
一触即発とはまさにこのことだと内心で笑う。
まぁ、あんな呼び出し方をされて警戒するなという方が無理な話なのだが。

それにしても、強く鮮やかな光を宿した瞳だ。
――かつての自分も、あれだけの光を放っていたのだろうか。

飯田圭織は緊迫した空気を一切気にすることなく、微笑みながら対峙する二人を見つめていた。
見つめ返してくる彼女達の瞳が心地よかった。
まだ弱い、だが、いずれこの圧倒的な闇を貫く一筋の光になれる可能性は十分にある。

脳裏を過ぎる、“主”の顔。
彼女もおそらく、モニターごしに二人の少女を見つめていることだろう。
共鳴因子という無限の可能性をその身に宿した、自分達の“後継者”とも言える少女達を。

もう少し、彼女達を見ていてもよかったが。
あまり悠長に時間を過ごすわけにもいかない、自分に残されている時間はもう僅かなのだ。

とはいえど、用件だけを端的に伝えて帰還したら間違いなく主に小言を貰ってしまう。

彼女達は気付いていない。
この呼び出しを単なる罠だとしか思っていない彼女達は。

拳を振るい、能力を使うことだけが戦いではない。
本格的な戦いの前に、彼女達の心に不安の種を蒔いておくのもまた戦いのうちだ。

自身が内包する“闇”をより一層溢れさせる。
それは微かに瞬く星のような彼女達を押し潰さんばかりに、強く、重いものだった。

やがて、その闇は圭織の手のひらの上で凝縮し――1枚のカードへと形を変える。
カードに描かれていたのは、崩壊寸前の“塔”の絵柄だった。
それを無造作に2人の方へと投げ、圭織は口を開く。

「それ、あげるわ。
 圭織がついさっき視た未来、それを“形”にしてみたの。
 あ、タロット占いって分かる?
 そのカードの意味、今教えてあげてもいいけど…まぁ、絵で何となく分かるよね」

互いの情報を把握している以上、名乗り合いから会話が始まるとは思っていなかったが。
全く想定していない会話の始まりに、小春も愛佳も困惑の表情を隠せない。

小春が屈み、そのカードを拾い上げて愛佳にも見えるように胸の高さに掲げる。

崩れ落ちようとしている塔から人が落下している。
その絵柄はとても明るい未来を暗示しているとは思えなかった。
むしろ、なにか暗い霧のような、ざわざわと肌を泡立たせる不吉な粒子をそのカード自体が発している。そんな錯覚にすら囚われる。

カードを見つめ、圭織の行動の真意を探る2人。
圭織のとった行動は警戒を強めていた2人を油断させるには十分だった。
その隙を飯田圭織は見逃さない。

「あ、先に言っておくけど、今日は話をしに来ただけだから変なことしないようにね。
 圭織にもしものことがあったら…即、ダークネス幹部が何人もくるわよ。
 ――そのピアスのことは大目に見てあげるから、ね」

弛緩しかかった二人の心に走る動揺。
意味不明の言動で油断させたところにすかさず投げられた牽制球は、見事なまでに効果的だった。
だが、愛佳だけはその動揺からすぐに立ち直る。

圭織は予知能力者なのだ。
呼び出しに応じる自分達のために、圭がピアスに細工を施す未来をあらかじめ視ていてもおかしくも何ともない。
愛佳の声が伝わったのか、程なく小春の心も落ち着いてくる。

その様子を見つめながら圭織は笑みを深くする。

さすがにこの程度の牽制球では、すぐに立ち直ってしまうか。
やはり昔のようにはいかないようだ。
あの頃のまま弱い能力者であった彼女達ならば、間違いなく今の牽制球だけで冷静さを失っていただろう。
相手の放つ強い力に心を飲まれ、少し冷静になれば分かることで強く動揺していたに違いない。

彼女達は語るに値しない弱者ではなくなったのだ。
少なくとも、想い描いた未来をその通りにならないようにできるだけの力は持ち合わせるようになった。

だが、それだけだ。
それだけでは――この深い闇を貫くことはできない。

「…とはいっても、カードもあげたし…圭織が言いたいことは一つしかないの。
 ――こちら側の準備は今日で終わる、それだけよ」

言い捨て、圭織は彼女達に背を向ける。
結界内に現れた転送ゲートへと足を踏み出した圭織の背中に、どういうことだと叫ぶ声が突き刺さる。
帰りに何処かでTVを見れば分かるわと呟いた圭織は、不意に足を止める。

ああ、もう一つ言っておく必要があった。

圭織は首だけ振り返り、愛佳の瞳をしっかりと見据えて口を開く。

「予知能力…未来を予知するその力は確率を視則する能力、とも言えるの。
 まぁ、簡単に言っちゃうと、予知する対象に起こるであろう未来を確率として読み取るってことなんだけど。
 確率として読み取ることが出来るということは、その確率を変動させたり、
 変動させた確率を確定させることも可能、ってことなの。
 光井愛佳――あたしは、想い描いた未来を“確定”するわ」

「…愛佳は神様でも何でもない、けど…あんたのやることを阻止出来る力があるのに、黙って見過ごすなんてことはせぇへん。
 あんたが想い描いた“未来”を確定しようっていうんなら、愛佳はそれを阻止するわ」

“宣戦布告”に応える声に、圭織の口元に笑みが広がる。

できるものならやってみればいい。
まだ“雛鳥”でしかない、あくまでも可能性を持っているに過ぎない者達よ。

――これから待ち受ける悪夢のような未来を、変えられるものなら変えてみるがいい。

振り返ることなく圭織は転送ゲートへと足を踏み入れ、その場から消え去った。
程なく、辺りを覆っていた結界が緩やかに解けていく。

戦ったわけでもないのに、凄まじい疲労感が二人の体を支配する。

一人でここを訪れなくてよかったと、心底思う。
一人だったならば、彼女が常に放ち続けていたおぞましい闇の気配に飲まれていたに違いない。
ただ、彼女はその場に立っていただけだったというのに。

二人の体を薙いでいく温い風。
湿度を孕んだ風は、じきにここに雨が降ることを伝えている。


――だが、二人はしばらく、その場に立ち尽くしたまま動かなかった。

     *    *    *

突き刺さるような視線。
殺気にも似たプレッシャーを放つリゾナンター達を後藤真希は笑顔を崩すことなく眺めていた。
ともすれば、今にも戦闘が起きそうな程緊迫した空気がこの場を支配している。

自分自身としては、今この場で戦うことに何の躊躇いもない、が。
主を差し置いて勝手な行動をするのはさすがに気が引ける。

内に沸き上がりかかった“衝動”を押し殺しながら、真希は口を開いた。

「そんなに怖い顔しなくてもいいじゃん。
 今日は新垣に届け物を届けにきたんだ」

突然名前を呼ばれた新垣里沙の顔に動揺の色が浮かぶ。
記憶の中よりも幾分か大人びた里沙を見つめながら、真希はゆっくりと手を頭の高さから振り下ろした。
リゾナンター達にとって真希の能力は初見のものである。
張りつめた空気の只中には不釣り合いのゆったりとした動作ではあるが、振り下ろされた彼女の手に対し、彼女達は応戦すべくほぼ反射的に身構えていた。
しかし、眼前で起きた事象により、彼女達の目は驚愕の色を伴い見開かれることとなった。

何もない空間に“切れ目”が入る。
その切れ目から覗くのは、玉虫色の“亜空間”だった。
本来、能力者であってもお目にかかることはまずない光景に、圭と里沙以外の誰もが息を飲んだ。

後藤真希は勿体ぶるように、切れ目へと腕を差し入れる。
その動きの緩慢さに、一挙一動を見つめる里沙の心が大きくざわつく。

ゆっくりと引き抜かれていく腕、その手が掴んでいるのは――人の腕のようだった。

里沙の体を寒気が支配する。
徐々に腕以外の部分が見え始めるにつれ、里沙の顔から血の気が引いていった。

ぐったりとした様子の横顔は、最後に顔を合わせた時よりも大分やつれていた。
自分で立ち上がるだけの力がないのだろう、引きずられるように地面に膝を突いたのは。

「はい、新垣が大好きななっちだよー。
 ほらぁ、皆拍手しなよ、姉妹のように育った二人の麗しい再会なんだからさ」

里沙の姿を視界に捉えたなっちと呼ばれた女性は、思うように動かぬ四肢に力を籠めて立ち上がる。
一歩、一歩と焦れたくなるような速度で歩き出す女性の姿に、里沙は弾かれたように駆けだした。

里沙が両手を伸ばしたのと、女性の体が崩れ落ちたのはほぼ同時だった。
女性の体を抱き留めた里沙は、何度も何度もその名を叫ぶ。

安倍なつみ。

里沙にとっては命の恩人であり、リゾナンター達と同様にかけがえのない存在だった。
里沙を助ける為に自らの命を賭け麻琴とリゾナンター達を圭の元へ向かわせた、その後の所在が不明だったなつみ。

裏切り者には死を、それがダークネスの掟。

生存する可能性は限りなく低いと、半ば最悪の結果を覚悟していたのだ。
だが、こうして彼女は生きていた。
五体満足とは到底言い難い状態ではあるものの、生存しているという事実に里沙の胸は躍る。

早く安静にさせなければと、なつみを抱えかけた腕がピタリと止まる。

おかしい。

何故、後藤真希はわざわざなつみを自分達の元へと連れてきたのか。
しかも、なつみはあの忌々しい拘束具を装着していない。
なつみの持つ強力な能力を封じる拘束具、それを外したままの状態で解放するということはダークネスにとって脅威以外の何でもないはずだ。
一体どういうことなのか、里沙には皆目見当も付かない。

なつみと里沙の視線が交錯する。

悲しげに揺らめく瞳から涙が伝い落ちていく。
薄く開いた口が、何かを伝えようとしきりに動いている。

何を言っているのかよく聞き取れない。
口元にまで耳を寄せた里沙に届いたのは、それまで2人を静観していた真希のものだった。

「さて、帰る前に…新垣に紺野からの伝言を伝えとくね。
 “歌えないカナリア”にはもう用がないので差し上げます、だって」

歌えないカナリア?
カナリアとはなつみのことだろうか?

歌えなくなった?
あのなつみが、歌えなくなった?
一体、彼女は何を言っているのか分からない。

耳に蘇る優しい歌声、温かな話し声。
聞く者の心を優しく揺らすあの声がなくなるわけがない。

そんなことがあっていいわけがない。
なつみの歌声が、声が、この世界から消えるなんてあってはならないのだ。

600 名前:名無し募集中。。。[] 投稿日:2010/05/04(火) 15:17:21.99 0
点と点が、里沙の意思とは裏腹に綺麗に繋がっていく。
拘束具を付けていないなつみを解放する理由があるとすれば、それは。

再び、里沙となつみの視線が交錯する。

先程からしきりに動く口元からは――何の音も紡がれてはいなかった。

「うあああああああああああああ!!!!」

咆哮と共に、里沙の体から凄まじいエネルギーが放出される。
このまま里沙を放置しては、何重にも張られた強固な結界が破られかねない。
それまで事の成り行きを静観していたリゾナンター達は里沙の元へと駆け寄ろうとして、動きを止める。

苦しい。
内側から体を突き破られようとしているような激しい痛みに、皆一様に苦悶の表情を浮かべる。

里沙の激しい怒りに共鳴因子が反応しているのだ。
圭の元で“覚醒”し、以前とは比較にもならない程の共鳴が可能となったリゾナンター達にとって、今の里沙の暴走は苦痛以外の何でもなかった。
暴走する里沙を止めなければならないというのに、心は、共鳴因子は強く激しく里沙の想いに反応する。
止めるどころか、自身の力までも暴走しないように歯を食いしばり耐えるしかなかった。

7人もの強力な能力者、しかも共鳴因子の効果でその力は何倍にも何十倍にも膨れ上がる。
ここに居る全員が暴走したら間違いなく結界は破壊されるだろう。
それどころか、この森ごと吹き飛ばしかねない。

藻掻く愛達の背中に走る寒気。

敵を迎え撃つ準備が十分に出来ているとは到底言い難かった。
そもそも、この森にあるのは愛達の能力を引き出し鍛えることを主目的とした施設である。
大勢を相手に戦う為の設備があるわけではない。
加えて、ここには圭や麻琴、そしてなつみがいる。
今のこの状態では守るべき者を抱えながら戦えるだけの余裕などなかった。

「あー、心配しなくても、結界が破壊されたからってごとー達はここには来ないよ。
 ていうか、ここを潰すなら最初からみんな連れてくるし。
 ごとー個人としては、ここで戦ってもいいんだけどねぇ。
 ――んじゃあ、届け物も済んだし…帰るね」

溢れる強大な力と、藻掻くリゾナンター達。
それをしばし眺めていた真希は、不敵な微笑みを残しその場から消え去った。

怒りを向ける矛先が消えたことで、里沙の暴走はようやく止まる。

風が木々を揺らす音以外、何の音もしない空間。
苦痛から解放されたリゾナンター達はその場に膝をつく。

誰も言葉を発することが出来なかった。
ほんの数分にも満たない時間だったというのに激しく体力を消耗している。共鳴因子に逆らい続けた結果だった。

愛は必死に里沙の元へと歩み寄る。
里沙とは共鳴の相性が一番いい上に、精神感応能力の持ち主でもある愛。
誰よりも里沙の想いがダイレクトに伝わる愛の消耗は、他の仲間達の比ではなかった。
だが、愛は今にも倒れそうな体を引きずるように、一歩、また一歩と歩みを進める。

座り込み項垂れている里沙を、背中からそっと抱きしめる。
いつも頼ってきた背中がひどく小さく感じられて、胸を言いようのない感情が締め付けた。
何も言えない自分が悔しくて唇をきつく噛みしめ、涙を堪える。


――静寂が訪れた森に、里沙の嗚咽する声だけが木霊していった。

     *    *    *

駅へと向かう小春と愛佳の間に会話は殆どなかった。
無言の二人の脳裏を占めるのは、鮮やかに笑う圭織と不気味な言葉のみだった。

大勢の人が行き交う駅に直結しているデパート。
小春と愛佳はそのデパートにある家電売り場へと足を向ける。

“帰りに何処かでTVを見れば分かるわ”

一体どういうことなのか。
TVコーナーへと近付く度に、二人の心は大きく揺れ動く。

店員以外僅かな客しかいないTVコーナーへと、二人が足を踏み入れた時だった。

『続いては芸能ニュースです。
 あの伝説のアイドルが芸能界復帰、緊急記者会見を開きました』

流れてきた音声に小春の体が一瞬だけ震える。
明らかに様子がおかしい小春に言葉をかけようかと愛佳が迷う内に、映像がスタジオからVTRへと切り替わった。

幾つものTVに映るのは――伝説として今も語られるアイドル“AYA”だった。
だが、二人にとってAYAはそれだけの存在ではない。

――AYAは、ダークネスの幹部の一人“粛正人A”でもあるのだ。

圭が得たデータによると、AYAは元々類い希な能力者だったという。
ある事件に巻き込まれたAYAは、その際にMのメンバーの一人でもあった“藤本美貴”と出会う。
その能力を買われて、芸能界を引退し…Mのメンバーとして活動していた。
もっとも、AYAがMのメンバーであった期間はごく僅かなのだが。

二人とも画面から目を離さない。否、離すことが出来なかった。
質疑応答に笑顔を交えながらも淡々と答える“A”は、小春が過去に対峙した時よりも幾分か年齢を重ねているようだった。

圭織が見ろと言っていたのはおそらくこのことなのだろうが。
一体何の目的で芸能界に復帰したというのだろうか。全く意図が掴めなかった。

再び画面が切り替わる。
次に画面に映った人物を見て、小春と愛佳の心臓は大きく脈打った。

実物には未だに会ったことはない。
だが、データでは何度も見たことのある顔が笑顔を浮かべながら記者達の質問に答えている。

中澤裕子――ダークネスの総統である彼女が何故、この場にいるのか。
そこでようやく、二人は画面の端に表示されていたテロップに目を向ける。

“AYA、復帰第一弾の仕事はあの新興宗教団体の広告塔!”

二人は顔を見合わせる。
新興宗教団体という聞き慣れない単語と、Aと、中澤裕子。

この二人がいるのだ、裏でダークネスが絡んでいることは間違いないだろう。
それは分かる。
だが、言い換えればそれ以外のことは一切何も分からなかった。

立ち尽くす二人の耳に、圭織の声が蘇る。

“こちら側の準備は今日で終わる。”

得体の知れない不安、恐怖が二人の心を支配する。
どちらからともなく繋ぎ合う手と手。


――震えが止まらないことを誤魔化すように、二人は繋ぎ合う手に力を籠めた。







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44話
最終更新:2010年06月27日 13:04