『水辺の誓い』




血の海にすべてが沈む姿を、ただ見ている事しかできなかった。
こんな事したくない。そう心が叫んでいるのに、止める術をそこには有していなかった。
目の前に立つものすべてを破壊し尽くさんと、両の手を紅く染め、世界を闇に閉ざしていった。

「やめて……」

懇願する声を振り払うように、私はゆっくりと刀を振り下ろした。





「っ――――!!」

声にならない叫びをあげて、里保は目を覚ました。
悪夢を、何度も見る。
血の雨を降らせたあの夜光景は、里保の脳裏に焼き付いて離れない。
繰り返される夢は、現実の続きにも思える。
あの夜以降、一度たりとも「赤眼」の自分は姿を現していない。
だけど、いつ再び顔を出しても不思議ではない。

能力を行使するその手前で、里保は常に躊躇する。その隙に首を刈られそうになったことだって何度もあった。
その度に聖や衣梨奈、香音からの助けを得て、何とか窮地を脱している。
状況はあの時から、何一つ変わってはいない。そればかりか、さらに悪化の一途を辿っている。
里保が一歩踏み出すのを拒むその理由を、彼女はまだ、仲間に話せていないのだから。


「眠り姫はっけーん」

額に滲んだ汗を拭おうとした矢先、背中に声をかけられた。
「眠り姫」ということは、先ほどから見られていたのだろうかとも思ったし、そんな長い間声をかけたなかったのだろうかと疑問にも感じた。
深入りしない事が大人の約束だと里保は前髪を撫で「どうして此処に?」と訊ねて腰を上げた。
プールサイドという特殊な床に座っていたせいか、臀部と太腿に痕が残った。
ちくちくする痛みとジンジンという痺れに顔を歪めると「キミこそ何でこんな場所で寝るかな」と逆に返される。

「やっぱ、水が好き?」

さゆみはそう言うと、里保の隣に腰を下ろした。
道重さん、お尻痛くなっちゃいますよとは言わず、黙って見下ろす格好になる。
水が張られたプールに、微かに波が立った。壊れっぱなしの窓から、冷たい夜風が吹き込んでくる。
此処も随分、荒らしてしまったなと思う。

最初は、蛍光灯だった。
勢いに任せて水砲を打ち上げたら、プールサイドにいた彼女の服を濡らすばかりか、天井に設置されていたそれを破壊した。

次に壊したのは、窓。
先輩2人にそそのかされて、水龍を作り上げて天上へと走ったそれは、派手な音を立ててガラスが割り、巨大な黒雲に呑みこまれていった。

そして最後は、壁。
打ち上げた水龍を制御しきれず、勢いそのままにシャワーへとぶち当たった。
ガシャガシャと派手な音を立ててシャワーが蛇のように撥ねたかと思うと、壁に亀裂が入り、そこから水がちょろちょろと流れ始めた。
水道管まで破壊し、それはそれは青ざめたのを覚えている。


「水は、嫌いです」

記憶とともにじっとりとした湿気を振り払うように、風が通り抜けた。
彼女が顔を上げる気配を感じる。
怒られているようにも、慰められているようにも、そのいずれでもないようにも感じる瞳は、ただとても、美しかった。

「私は……壊します」

その瞳から逃れるように、両の手を広げた。
あの夜、真紅に染まったそれは、ただひたすらに、雨を降らせた。


―――「破壊と絶望を振り翳し、世界を統一するための、狂気を」


大切な人を、失いかけた。
自分が未熟故に。能力を過信した故に。
ポテンシャルという名の狂気、世界のすべてを闇に帰すほどの絶望を解放しかけた。
紅を纏った自らの姿は、血に飢えた、狼と同じだ。

「それもひっくるめて、キミ自身でしょ」

さゆみはいつの間にか立ち上がり、里保より視線を高くしていた。
黒髪が夜風に揺蕩い、心地良さそうだった。
両の手を広げて、世界を感じるその姿が大きくて、凛々しくて、美しい。

「寝るのが怖いからって、変な場所で寝落ちすると体壊しちゃうよ?」

そして案の定、ばれている。
お見通しなんだ、この人は。私のことを、メンバーのことを、仲間のことをなんでも知っている。


「鞘師―――」

リーダーとしてふさわしい器を携え、しっかりと私を捉えるその声に、応えられない。
怖いのかもしれない。
あと少しで此処から去っていくこの人に、なにひとつ私は返せない。


―――「そんなこと、鞘師は、しない」


覗き込んだ深淵の先、黒き翼を携えた魔王を見ても、さゆみは最後まで里保を信じた。
その黒曜石の瞳で、幼くて純粋な輝きを護ろうと必死に息を繰り返した。
そんな強くて優しい人に、私はなにを―――

と、思考を巡らせていると、さゆみはスタート台へと昇った。
その姿は、前にも一度目にしたことがある。
そうあのときは…確か、そう。柔らかい眼差しの彼女が、「よーしっ」と両手を挙げて「せーのっ」と膝を折ったんだ。

止める余裕もなく、気付いたときには、さゆみはは水の中に飛び込んでいた。
その様はまったく、2年前に見た彼女の姿とうり二つだった。

「道重さんっ!?」

思わず飛び込んで掬い上げようかとしたが、それより先にさゆみが水面に顔を出した。
ぷはぁっと水を受け、髪を濡らしたその姿は、雨に濡れた、女神と同じだ。
手足を少し動かし、ぷくぷくと浮かぶ彼女を見てほっとしたのも束の間、すぐに身体ごと引き上げようと水面に手を翳す。


が、遠雷を聞き、雨音が耳に飛び込んできた瞬間、その手に力を込められなかった。
何かが、自分の中の何かが警鐘を鳴らす。
動かしても良いのか。使っても良いのか。能力を解放しても良いのか。


―――「……虫みたい」


標本のように男を磔にした、あの赤眼の自分が、そこに居る。
動かすな。動かすな。ダメだ。これは。まだ。私は。私は……

「りほりほー。引っ張って?」

一瞬の躊躇の隙に、さゆみは既に里保のすぐ足元にまで泳いで、というか漂ってきていた。
ぺったりと貼り付いたシャツで肌が透ける。
風の彼女よりも真っ白な肌が眩くて、思わず頬が紅潮するのを感じた。

里保はぐっと息を呑み、膝を曲げる。
黙ってそっとさゆみに手を伸ばし、掴む。

「わわっ!」

引き上げようとしたときだった。
里保が膝を伸ばして力を込めるより先に、さゆみは両手で彼女の手首を強く引いた。
バランスを崩した里保は、そのまま水の中に飛び込んだ。


派手な水音を立てて、ふたりはプールの底へと落ちていく。
次々と泡が浮かび、たくさんの水が口から鼻からと浸食していく。
それらを空気とともに吐き出して、ぐんと右腕に力を込めるが、さゆみはそれでも、里保を奥底へと引きずろうとする。


何を考えているんですか―――!

そう言おうとした言葉は、当然のように泡になって消える。
水の中で、さゆみの顔が歪む。
この両の目に溢れていたのは、プールの水なのか、それとも体内から伝った涙なのか、それすら判別することができなかった。


―――喜んで


あなたは確かにそう云った。
私に聴こえるまで、その“音”を捉えるまで傍に居てくれる、とそう云った。
なのに。なのに私は。私はあなたを―――


―――「鞘師のこと、信じてるから」


言葉が想いとなって自らを包む。
気付けばすぐそこにあって、だけどいつの間にか遠ざかってしまう。
大切だと気付いたときには、もうカウントダウンは始まっていた。
それでも私はそれに縋る。彼女のくれる感情は、いつだって宝物だから。


里保は右腕でさゆみを引き上げると同時に、左手に力を込めた。
微かに熱くなるそれを水中で大きく回し、拳を握り締めた。

すると、水底が大きくうねりを上げた。眠りを覚まされた不機嫌な水龍が、ふたりの身体を一気に水面へと押し上げた。
ざばあっという派手な音のあと、ふたりはほぼ同時に顔を出し、息を吐き出した。


「っ…げほっ!!」

塩素の強い水を吐き出しながら、「道重さんっ!」と声をかける。

「大丈夫ですか?!」
「やーっとチカラ使ったねぇ……」

里保の問いには答えず、さゆみはいつものように柔らかく笑った。
くらくらするような輝きを携えたその眼差しに、思わず目を背けてしまいそうになる。
さゆみはそれを赦さずに、水面で揺蕩いながら、里保の身体を引き寄せた。
一瞬で、ふたりの距離がゼロになる。
互いの服は濡れ、ぺったりと貼り付いて気持ち悪い。
だけど、そのぶん、相手の温もりをしっかりと感じられて、何とも愛しかった。

どくん。と鼓動がしたのを感じ取った。
その心音がどちらのものなのか、里保にもさゆみにも、分からなかったけれど。

「一人じゃないって云ったじゃない」
「えっ……」
「さゆみは確かに鞘師を止めた。だけど、さゆみ一人で止められたものを、ほかのみんなが止められないと思う?」

さゆみ、リゾナンターの中で最弱王だよ?とおどけてみせる彼女に、「そんなことっ!」と言葉を継ぐ。
だが、さゆみはそれ以上里保に想いを語らせることなく、「自惚れないで」とつづけた。

「さゆみは鞘師を過大評価してないし、みんなを過小評価してない」

ふたりだけの地下プールに、さゆみの声が響く。
共鳴して、反響して、あちこちに弾かれた声が、最後に水面に浮かんで里保のもとへと飛び込んでくる。
感情の衝突は、不快さなどはひとつも携えていなかったが、まるで透明なガラスのように真っ直ぐに尖っていた。


さくりと抉ったその心の先で、紅き血が流れるのを感じる。
それでも里保は、何も言わずにさゆみを待った。
待つこと自体、弱さなのかもしれないけれど。それでも里保は、さゆみを待った。
いつだって、鞘師里保を護ってくれる、道重さゆみという大きくて尊い存在を。

「もっと信じて。さゆみだけじゃなくて、フクちゃんも、生田も、鈴木も…みんなのこと、もっと信じて」

波紋が広がり、そして凪が訪れた。
波が収まるのを感じるのは、あの日と同じ光景だった。
感情の刃ですべてを壊しかけたその瞬間さえも、彼女はバラバラになる心を繋ぎとめてくれた。
これが、時代を紡いできた彼女の、唯一無二のチカラなのだと実感する。

「みっしげさん……」

里保はそっと、彼女の背中に腕を回す。
いつかは、赤眼の己と対峙し、淘汰しなければいけない日が訪れるかもしれない。
だが、その時に自分は一人じゃないと、何度でも彼女は諭してくれる。

此処に来て4年。
人を斬り、心を殺し、時に仲間を傷つけ、膝を折りかけた日々が繰り返されてきても。
それでも絶えず時間は巡り、季節は流れ、仲間を送り出し、新しく迎え、変わらずに絆を結んできた。

初めて出逢ったあの冬も、地下プールを壊し始めたあの夏も、コインをひっくり返されて自分を失いかけたあの春も。
すべての時を超えて、彼女との最後の秋が訪れる。

「さゆみは、水が好きだよ?」

そうしてさゆみは、揺れる水面を掬い上げ、ぱちゃりと里保の頬にかけた。
真っ赤に染まった里保の瞳は、あの日に見た赤眼のそれとは全く違う、幼さと純粋さと、そして凛とした強さを有していた。


「道重さんっ……」
「うん?」

里保は鼻を啜り、ひとつ、息を吸う。彼女の瞳を、今度こそまっすぐに見つめる。
何度迷っても、何度振り返っても、何度立ち止まっても、必ず歩き出す強さを、この人はくれる。
だから私は、ひとつだけでも、返したい。
此処を、仲間を、私たちを護りつづけてくれたこの人に。愛をもって、支えてくれた、この人に。

「ちゃんと、直します。壁も、天井も、窓も」

里保の言葉に一瞬きょとんとしたあと、さゆみは周囲を見回して「ああ」と笑った。
破壊しつくされたこの場所は、修繕作業が追いつかなくて、結局放置されたままになっている。
そんなお金ないし、此処使うのぶっちゃけ鞘師だけだからねと、さゆみはいつも愚痴のようにこぼしていた。

「直ったら、また見に来てくれますか?」

そして再び、風が撫でた。
水滴を浴びて重くなったそれは、先ほどのように靡かないけれど。
鼻を擽る夜風は、すっかり冬の匂いを携えている。
何かが焦げたような、痛みと、鋭さと、そして切なさと、複雑に交じり合うそれが、身体の熱を奪っていく。
それでもさゆみは、彼女の肩をしっかりと抱き、新しい熱を授けてくれた。

4年も前から変わらずにくれたその温もりを、里保は大事に大事に受け止める。

「直すだけじゃなくて、もっと設備とかいろいろ豪華にしといてね?」

甘やかすことをせず、微かに突き放すそれは、白き鬣を揺らし、孤高の中で吠える百獣の王のようだった。
そんなさゆみに里保はすっかり絆されてしまい、出来が悪く叱られた子どものように、くしゃりと顔を崩して肩を竦めた。
閉じられた瞼から溢れる涙を拭うこともせずに、「がんばります、みんなと」としっかり笑った。
その笑顔が尊くて、ずっと見ていたくて、そろそろプールから上がりたいなぁという言葉を、さゆみはすっかり呑み込んだ。





投稿日:2014/11/25(火) 23:20:26.74 0





















最終更新:2014年11月26日 16:51