「ベーシック・インカム」を支持します 2007年08月28日 / 私の意見  「VOL」(以文社)という雑誌というか出版物の第二号に、「ベーシック・インカム」の特集が載っている。雨宮処凜女史の本を読んだからかもしれないが、神保町の本屋で、何となく目について、買ってきた。冒頭に対談が出ているのだが、山森亮さんという方の話が分かりやすく、大いに興味を持った。どうやら、フィリップ・ヴァン・パレイスという人が有名らしいので、ネットで、論文をダウンロードして、斜め読みしてみた。なかなか良さそうな考え方なので、ご紹介したい。  なにせ、三日前にはじめて知った概念なので、紹介に間違いがあるかもしれないし、幾つかのバージョンがあるかも知れないのだが、気に入ったところを中心に、大雑把に、説明する。詳しくは、各種の原典、或いは、コメントとして入るかも知れない識者のご教示(宜しく、お願いします!)を参考にして欲しい。  ベーシック・インカムとは、社会の構成員、全員に、個人単位で、暮らすに足る一定の収入(=ベーシック・インカム)を、定期的に現金で配るシステムを指す(正確には、配られる収入のことを指すのだろうが)。これを受け取る個人は、働いていても、いなくても、関係ない。いわゆる「ミーンズ・テスト」(生活保護受給する際などの収入、資産の審査)は一切不要で、個人が、無条件で現金を受け取る。働いて、収入を得ている場合、ベーシック・インカムの他に収入を得て、収入には、多分課税される(消費税、資産税、キャピタルゲイン税などを財源とすることも考えられるが)。  従って、生活保護を受けられずに餓死したり、受けられたとしても、「どうして、お前は働けないのだ」とさんざん言われて、惨めな思いをするようなことはない。ベーシック・インカム分の収入は、権利として、堂々と受け取ればいい。もちろん、使い道は自由だ。  そして、基本的な考え方として、各種の社会保障・社会福祉は、できるだけベーシック・インカムに集約し、それ以上に必要な人が利用する、保険、年金、各種のサービスなどは、民間に任せる(それでも何が残るかは、各種の議論がありそうだが、福祉的制度・行政の大半は無くせるだろうし、私が、ベーシック・インカムを支持する大きな理由もそこにある)。  どこが特に気に入ったかというと、「個人単位」というところと、「働かなくてもいい」というところだ。今日の生き方の多様化を考えると、主として、世帯を単位とする現在の各種の税制や社会保障制度などは、婚姻の形態をはじめとして、個人の生活に不当に介入している。  また、人には、働かない自由もあっていいだろう。少なくとも、働かなくても、生存できるくらいの収入が保証されていれば、クビが怖くないから、個々の労働者が、もっと自由な働き方ができるし、雇い主と、より対等に交渉できるだろう。  「働かざる者、喰うべからず」とは、時に、暴力的で、危険なキャッチフレーズだ。仕事を上手く見つけられない人(摩擦的失業の場合でも失業期間はある)もいるだろうし、心身の状態によっては働けない人もいる。前者の人は焦って仕事を決めようとするだろうし(偽装請負の労働者でもいい、という気分になるだろう)、後者の人は、精神的に相当に辛いはずだ。世間の人々は、「働かないなら、死ね」とは、大っぴらには言わないのだが、生活保護を与えるか否かの判断を役人が持っている場合、「キミは、働けるはずだ」と役人に言われてしまうと、死んでしまいかねない(先般の、北九州市の悲劇のように)。  ベーシック・インカムについては、(1)幾らにするか、(2)財政的に可能か、(3)働かない人にも払っていいのか、(4)対象範囲をどうするか(外国人は?、子供は?、等)といった大きな問題がある。  (3)については、私の結論は「いい」だ。(4)は老若男女を問わず日本の居住者全部(外国籍の人も含む)でどうだろうか。(1)と(2)は、具体的に決定するには多少の算術が必要になるだろう。  直観的には、(2)が許す範囲でということだが、(1)は、生存できる額の十分上であることが必要だが、現実的には、「貧困」のレベルの下になるのではなかろうか。可能なら貧困レベルの上であってもいい理屈だが、長期的には、さすがに労働のモチベーションと、人口の増えすぎが心配だ。  全く暫定的な数字であり、これを「提案している」とは取って欲しくないが、例示のために具体的な数字を挙げると、たとえば、ベーシックインカムを一人年間100万円として、税は所得税だけだとして税率を40%のフラット・タックスとすると、年収(税込み)250万円が損得のブレーク・イーブン・ポイントになり、これは、年収250万円を課税ゼロとして、税率を40%とすると、実質的には「負の所得税」の仕組み(たとえばミルトン・フリードマン「資本主義と自由」参照)と同じだ(と、思う)。  ただ、「負の所得税」という呼び名は、いかにも陰気だし、所得を申告し、精算して、幾らかを受け取る、という仕組みよりも、その前に、「一人分、○○○円は、あなたの権利です!」と気前よくくれる方が、思想としても正しいし、制度として明るいのではないか。  数字は暫定的といいながら、金額にこだわるのは潔くないが、たとえば、上記のような制度だと、子供も平等に扱った場合、働き手の年収が250万円で4人家族なら、可処分所得は550万円になる。まあまあ、ではなかろうか。家庭の規模の経済効果を考えると、子だくさんが得かも知れない。  負担率の40%は、これで、消費税を含めた税金も、年金も、込み、ということなら、私は、全く文句はない。今度こそ、愛国心が湧いてくるかも知れない。負担率がはっきり50%を超えてきた場合に、それをフェアと感じて、納得できるかどうかは、ちょっと心配だが、まあ、慣れの問題かも知れない。  何れにせよ、数字の問題は、別途また考えよう。  年金は、どうなるか。他に、私的年金保険や確定拠出年金を認めることがあっていいかも知れないが、公的年金制度は解体できる。今や、年金官僚の働きぶりという、大きなリスク要因を解消できるのだから、それこそ、「100年(以上)安心」だ。考えてみると、老いには個人差がある。元気な65歳もいれば、草臥れた59歳もいるのだが、年齢で差別せずに、最低限の保障として貰える額は何歳でも同じ、ということで、いいのではなかろうか。  ちょっとだけ心配なのは、医療保険か。日本の健康保険制度が解体されれば、アメリカ様の保険会社が舌なめずりして参入してきそうだが、マイケル・ムーアの「シッコ」的な世界にならないように、気をつけたい。  障害者に対するベーシック・インカムは、障害者の場合、働いて稼ぐことに関して、意図せざる不自由があるわけだから、元気な人よりも多くていいような気がする。もっとも、これは、ベーシック・インカムとは別の、社会的な(生まれる時に自動的に強制加入する)保険の給付として処理するのがいいかも知れない。(注:私の場合、個人的な事情で、障害者に甘いバイアスがあるかも知れない)  何れにしても、使途の自由なベーシック・インカムを配ることで、社会保障的なものを中心に、公的制度はできるだけ削って、政府を極小化することが、財政的にも、経済効率的にも、この制度を具体化する際のポイントだろう。  労使関係は、どうなるか。  ベーシック・インカムを持っていると、労働者が、自分の働き方を選択する幅が大きく拡がる。「不当な条件では働きたくない」と低賃金労働を嫌うかも知れないし、「安くても、ベーシック・インカムにプラスされるのだから、暮らせる」と低賃金でも働くのか、どちらになるのか、判断の難しいところだが、危険な仕事、過重な労働負担、などは、労働者が、意識してこれらを避けることが出来るようになるだろう。  貿易によって、製造業賃金の「要素価格均等化」が働きやすくなるし、ソフウェアト開発のような仕事では、外国の労働者と、まともに競争することになる。また、労働者が提供するものが、製造業的肉体労働から、知識や判断によって貢献する労働に変化すると、個々人が提供できる経済価値の上下の幅は大きく拡大すると考えられる。労働の価値に連動した報酬しか受け取れないとした場合には、この報酬が、特定の地域や生活習慣の下での「人間らしい生活」をファイナンスできなくなる可能性が大いにある。ベーシック・インカムは、こうした変動を吸収するバッファーの役割を果たすだろうし、労働者が自由な意思に基づいて雇い主と対等に取引する主体であるための基盤を提供するだろう。  これで直接的に組合が壊れるわけではないだろうが、組合の必要性は、ますます薄くなるだろうし、それは、望ましいことだと、私は考えている。  一方、経営者は、自分が人殺しになる心配をせずに、稼ぎに専念できる。これは、これで、結構いいのではないか。  景気には、どうか。  一般に、低収入な人は消費性向が大きいので、ベーシック・インカムによる所得移転には、多少なりとも景気拡大効果があるだろう。  公共事業は、お金の使い方として、非効率的な場合が多く、所得再配分の手段には適さないと、私は、一応、考えている。ベーシック・インカムを導入して、公共事業は減らす、ということでいいのではなかろうか。  生活や文化には、どうか。  「喰うため」のプレッシャーが減少するのだから、たとえば、若者も、若くない者も、夢を追うことが、より容易になるはずだ。ベーシック・インカムには、「面白い奴」を養い、増やす、効果があるかも知れない。変な奴が増えて、面白くなるのではないかと期待する。  もっとも、「勝ち組・負け組」的な、勝ち負けの存在、精神的なプレッシャーなどは、簡単には、無くならないだろう。ベーシック・インカムは、「負け組」を「喰える」ようには、するが、人間は、ある意味では、本当に残酷な生き物なので、精神的な傷まではカバーできないかも知れない。もっとも、これは、ベーシック・インカム固有の欠点ではない。  ところで、ベーシック・インカムが正当化される根拠は何か。それで世の中が上手く行くなら、哲学は、暇な人が考えればいいが、「どのように正当か」という理由にも、現実的な重要性はある。  現在の人は、これまでに出来上がっていた地球、土地、人類、社会、各種の制度(昔の人が作った)、といったものを前提にして「稼ぐ」ことができるのであるから、資本その他への所有権を尊重するとしても、或いは個々人の労働の成果が主としてその人に帰属すべきだとしても、これらは環境・制度といった与件共に機能している。従って、いわば環境財・制度財に帰属するはずのメリットは、社会の成因全体で平等に分けてもいいのではないか。というのが、最大の正当化理由だ。マリー・ロスバードは、私的所有権(自分の肉体及び自分が正当に手に入れた所有物の)を、一種の自然権として解釈したが、これを、もう少し謙虚に、自分と社会の成員全体(最終的には人類全体を目指すべきだろう)の自然権としての所有権として、私的所有権を捉え直せば、リバタリアンは、割合抵抗無くベーシック・インカムを受け入れられるのではなかろうか。  まあ、面倒なことを考えなくても、単に、メンバー全員を、生かし、自由な人として行為させる、ということを、社会として目的化することに合意すればいいのだ。