リベラル・デモクラシー、国民主権、法の支配 

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「政策を立案するのは少数の者のみであるが、それを判断することは我々全てが出来るのである」
~ ペリクレスによる戦士葬送演説(トゥキディディス『戦史』より)

リベラル・デモクラシー(“自由”に価値を置く“民主制”)を如何に守るか

<目次>


■1.初めに


「自由」を最優先に守るべき価値とする「民主政体」を「リベラル・デモクラシー(liberal democracy 自由民主制、自由民主政体)」という。
日本・アメリカ合衆国・英国・ドイツなど現在の先進諸国の政体(政治体制)は、いずれもリベラル・デモクラシーである。
しかし世界には、リベラル・デモクラシー(自由民主制)以外の国も多くあり、またリベラル・デモクラシーから全体主義体制や権威主義体制に転落していった過去を持つ国々も幾つもある(戦前の我が国も決して例外ではない)。
このページでは、様々な政治体制の分類を手始めに、私達が常識だと思っている「国民主権」原理の内実、そして「法の支配」理念の正確な意味を考えいく。


■2.政治的スタンスと政治体制


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※詳しくは 政治学の概念整理と、政治思想の対立軸 参照。


■3.政治体制の説明


◆1.リベラル・デモクラシー(自由民主制、自由民主政体、自由民主政治)


(1) 英語版 wikipedia(liberal democracy wiki の項)より定義部分のみ翻訳   ※ブリタニカ百科事典には項目なしのためwikipediaで代用
自由民主制(liberal democracy)は(ブルジョア民主制(bourgeois democracy)あるいは立憲民主制(constitutional democracy))は代議制民主制(代表制デモクラシー representative democracy)の一般的な形態である。
自由民主制の原則によれば、①選挙は自由で公平であるべきであり、②政治的プロセスは競争的であるべきである。政治的多元性(政治的複数性 political pluralism)は通常、複数の明瞭に区別された諸政党の存在によって同定される。
自由民主制は様々な憲法形態をとることが可能である。それはアメリカ・ブラジル・インド・ドイツのような①連邦共和国(federal republic)が可能であり、また英国・日本・カナダ・スペインのような②立憲君主国(constitutional monarchy)が可能である。
それ(自由民主制)はまた、①大統領制(predidential system アメリカ・ブラジル)、②議会制(paliamentary system = Westminster system 英国と共同体諸国 UK and commonwealth countries)、あるいは③混成・半大統領制(hybrid, semi-presidential system フランス・ロシア)が可能である。
※オックスフォード英語辞典・コリンズ-コウビルド英語辞典にも liberal democracy の項目なし。

「自由」を最優先に守るべき価値とする「民主政体」を「リベラル・デモクラシー(liberal democracy 自由民主制、自由民主政体)」という。
日本・英国などは「政体」という意味では、厳密には「立憲君主政体(constitutional monarcy 立憲君主制)」であるが、その政治権力の所在・運用の実質に照らして「デモクラシー(民主政治)」が行われている、と言ってよい。

なお、スウェーデン・ノルウェー・デンマークの北欧3ヶ国は、立憲君主制に加えて、「リベラル(自由主義的)」ではなく「ソーシャル(社会主義的)」な価値をより重視して長年国家を運営しており、共和制で同様な国家運営をしているフィンランド・アイスランドを加えたこの北欧5ヶ国は「ソーシャル・デモクラシー(社会民主制、社会主義的民主政体)」と表現する方が適切、とする見解もある(但し social democracy は政体よりも政治的イデオロギーを現す言葉として用いられるのが常なので、代わりにこれら北欧諸国の政治体制を表す言葉として Scandinavian wealfare model あるいは Nordic model が用いられるようである)。

※これに対して、「自由」に価値を置かず、「民主政体(民主制)」でもない政治体制の国も世界には沢山ある。

◆2.全体主義体制(totalitarian regime)


(1) ブリタニカ・コンサイス百科事典(totalitarianismの項)より全文翻訳
市民生活の全領域を国家の権威の下に置く政府の形態(Form of government)であって、唯一のカリスマ的な指導者を究極的な権威とするもの。
この言葉は1920年代初期にベニト・ムッソリーニによって鋳造されたが、全体主義は全歴史・全世界を通して存在してきた(例えば支那の秦王朝)。
全体主義は既成の全ての政治機構や全ての古い法的・社会的伝統を、通常高度に重点的な国家の必要に合致する新しいものに取り替える点で、独裁制(dictatorship)や権威主義(authoritarianism)と区別される。
大規模で組織的な暴力が合法化され得る。警察は法や規則の制約なしに活動する。国家目標の追求はこの様な政府の唯一の思想的基礎である一方で、そうした目標の追行過程は決して一般に知らされない。ハンナ・アーレント『全体主義の起源』(1951)はこの主題の標準的著作である。
(2) オックスフォード英語事典(totaritarianの項)より抜粋翻訳
<1> 中央集権的で独裁的であり、国家に対する完全な服従を要求する政治システムに関するもの。
<2> 全体主義的な政治システムを唱導する人物
(3) コウビルド英語事典(totalitarianの項)より全文翻訳
<1> 全体主義的政治システムとは、唯一の政党が全てをコントロールし一切の反対党を許さないものである。
<2> 全体主義者とは、全体主義的政治理念あるいはシステムを支持する人物である。

共産党・労働党などが一党独裁する中国・北朝鮮・キューバなど共産主義国がその一つの典型であり、これを「全体主義的独裁政体(totalitarian tyranny)」と呼ぶ。
これらの国は「人民民主主義(people's democracy)」という偽物のデモクラシーを称する場合がある(totalitalian democracy とも言う)。

◆3.権威主義体制(authoritarian regime)


(1) ブリタニカ・コンサイス百科事典(authoritarianismの項)より全文翻訳
権威への無制限の服従の原理であって、個人の思想や行動の自由に反するもの。
政治的システムとしての権威主義は反民主的(anti-democratic)であり、政治的権力は被統治者に対して何ら憲法上の責務を負わない単一の指導者または少数エリートに集中される。
権威主義的政府は通常、①指針となるイデオロギーを欠くこと、②社会的機構に幾らかの複数性を許容すること、③国民的な目標の追求に全人口を投入する権力を欠いていること、④相対的に予測可能な制限の範囲で権力を行使すること、から全体主義とは区別される。
絶対主義(Absolutism)、独裁制(Dictatorship)を参照せよ。
(2) オックスフォード英語事典(authoritarianの項)より抜粋翻訳
<1> 個人の自由を犠牲にして、権威に対する厳格な服従を志向し強制すること
<2> 他人の意思や意見への関心が欠けていることを示すこと。独断的な。
<3> 権威主義的な人物
(3) コウビルド英語事典(authoritarianの項)より全文翻訳
<1> 貴方が、ある人物や組織が権威主義であると描写する場合、貴方は、彼らが人々が自身で物事を決定することを許容せず全てのことをコンロトールすることに批判的であることを意味する。
<2> オーソリタリアンとは権威主義的な人物である。

ロシアやエジプト、シンガポールのようにデモクラシーの外観は備えているが、事実上一つの党派や個人が独裁的な権力を握っている権威主義的体制(authoritarian regime)」を取る国々は、いわゆる第三世界(アジア・アフリカ・ラテンアメリカなど)の国々に非常に多く、シンガポールのように経済的には先進国と対等な地位を築いた国にもそうした実例は多い。

※次に、日本の政治体制を憲法の規定から確認する。


■4.日本の政治体制


◆1.現行憲法:前文第一段の内容(基本理念)


現行憲法の前文第一段は、「自由」に価値を置き、「代表制デモクラシー」を採用することを宣言している。
前文第一段 内容 関連ページ
日本国民は、
正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、 代表制デモクラシー デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る
われらとわれらの子孫のために、
諸国民との協和による成果と、 国際協調主義
わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、 自由主義 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜
政府の行為によって 自虐史観 戦後レジームの正体
再び戦争の惨禍が起ることのないやうに決意し、 非戦主義
ここに主権が国民に存することを宣言し、 国民主権 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価
この憲法を確定する。 立憲主義 「法の支配(rule of law)」とは何か 立憲主義とは何か
※なお、憲法問題の全般的な解説ページ⇒日本国憲法改正問題(上級編)も参照

◆2.現行憲法の問題点


ここで予め現行憲法の問題点を指摘すると、
(1) 現行憲法は昭和天皇の裁可によって辛うじて正統性を付与されているものの、その制定過程に重大な瑕疵があったことは否めない。
(2) 内容面でも、現行憲法は、日本の歴史・伝統を無視あるいは蔑視し、事実に反する一方的な贖罪意識を日本人に刷り込みかねない誤った文理解釈を招く文章を幾つも含むばかりか、文言のうえで明らかに日本国民の基本的な自存自衛の権利を蔑ろにし、国家共同体を解体に導きかねない憲法解釈(左翼的憲法解釈)の横行を長年に渡って助長し続けている。
(3) 従って現行憲法は、<1>現行憲法第96条の改正手続きによるか、<2>破棄宣言し明治憲法下の体制に形式上一旦戻した上で明治憲法の改正手続きによって改正するか、といった手続き面に関わらず、内容的には、特に原理・原則面に踏み込んだ抜本的な変更を行う必要がある(ただし統治機構や権利章典の個別の条項については現行憲法典のものをそのまま維持することが妥当なものも多い)。
(4) なお、現在の緊張した東アジアの国際状況下では、特に憲法九条限定の部分改正について他の条項に先駆けての緊急対応を要すると思われる。
以上を踏まえた上で、前文第一段に示された現行憲法の基本理念について、その当否を論じる。

◆3.前文第一段の評価と展望


(1) 「自由」を最高の価値とし「代表制デモクラシー」を採用すること、つまり「リベラル・デモクラシー(自由民主制)」を維持することに全く異存はない。
但し現行憲法では文言上曖昧となっている「立憲主義」について、日本の歴史・伝統に照らして「立憲君主政体(立憲君主制)」であることを明確に規定すべきである。
(2) 「自虐史観」に基づく「非戦主義」の規定は、所謂「奴隷の平和(主義)」であり、日本国民の正当な自存自衛の権利に違反するため、全面的に排除する必要がある。
(3) 「国際協調主義」は日本国の正当な権利が保証される限りにおいて意味を持つのであり、事実に基づかない贖罪意識により日本国が一方的に譲歩させられること(所謂「土下座外交」)を誘発するような規定は排除されるべきである。
(4) 現行憲法では無制限的な「国民主権」を強調する解釈が横行しているが、既に「デモクラシー(民衆による政治)」が過剰に行き渡った現在の状況で安易な「国民主権」の強調は、デモクラシーのモボクラシー(衆愚政治)化を助長するだけである(⇒ デモクラシーと衆愚制 ~ 「民主主義」信仰を打ち破る 参照)。
更に「国民主権」は「自由」という最高の価値とも実は両立し難い要注意語であって、「リベラル・デモクラシー(自由民主制)」を正しく保証すぺく「国民主権」の語自体もその具体的意味を確定しつつ慎重に排除していく必要がある。(⇒政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価参照)


■5.「国民主権」から「法の支配」へ


◆1.「国民主権」では「自由」を保障できない


国民主権」あるいは「人民主権」(以降併せて「主権在民」論と呼ぶ)の概念は、欧州大陸の絶対君主の唱えた「君主主権」に対抗して登場した。
(1) 「君主主権」では、 君主の恣意的な命令が「法」となり、臣民の「自由」は理屈の上では無制限に奪われる。
(2) 「主権在民」論では、 君主の恣意的な命令こそ排除されるものの、“主権者”である全ての国民(ないし人民)の意思が一致するわけではないので、結局、比較的多数派の意思が「法」となって、比較的少数派の意思を圧殺することになる。
つまりこの場合でも比較的少数派の「自由」は理屈の上ではやはり無制限に奪われる。

これを防ぐ一つの有力な方法は、何人も奪われぬ「自由」の領域、即ち「多数派であっても変更不可能な自由の領域」を予め憲法典に明記して置くこと、であり、日本国憲法もこの方法に従って多数の基本権が列挙されている(基本権カタログ)。
しかしながら、この方法は「法=主権者の意志・命令」という構造である以上、主権者がたとえ君主から国民(ないし人民)に代わろうと、そうした「主権者」が自らの意思を押し通す誘惑・危険から逃れられない。即ち、
「法=主権者の意思・命令」 であれば、 憲法典自体が主権者の恣意的な構築物であるのだから、
主権者は、 ①不都合な条文を勝手に改変したり、
②憲法典そのものを停止宣言することによって、
幾らでも少数派の憲法上保障された権利・自由を奪えることになってしまうのである。

以上述べた「法=主権者の意思・命令」説は、デカルト以来主にフランス・ドイツなど欧州大陸で発展した所謂「大陸合理論」と東ローマ帝国のユスティニアヌス法典に起源を持つ「大陸法」の伝統からの帰結である。 ⇒ 大陸合理論・イギリス経験論については 国家解体思想の正体 参照

◆2.「法の支配」が「自由」を守る


これに対して英国では、中世期のマグナ・カルタに代表されるゲルマン祖法から自生的に発展した慣習法こそ真の法である、とする伝統、すなわち「法=歴史的に形成された自生的秩序」であり、意図せざる人為の産物(=ノモス)である、とする観念が育った。
この所謂「イギリス経験論」あるいは「英米法」の考え方によれば、
“法”を定める“主権者”なる者は存在せず、
“法”は気の遠くなるほど長い年月をかけて無数の先人達の叡智と経験の積み重ねの中から徐々に“発見”されてきたものであり、
それゆえに確実な権威を持つものであって、
何人であろうと(君主であろうと議会の多数派であろうと)勝手に改変することは許されない、とされた。
このような「国王といえども神と法の下にある」状態を「法の支配」(rule of law)と呼ぶ。(★注1)

すなわち英米法の伝統では、恣意的に法を改変できる“主権者”なるものは存在せず、強いて言えば「“法”が王様」即ち「“法”主権」である。(★注2)

※この場合の“法(law)”とは、君主の定める「勅令(imperial(royal) ordinance)」や、議会の定める「法律(legislation)」とは区別される、世代を重ねて歴史的に形成された不文の慣習法を指し、一方制定法は、こうした慣習法を明確化するための補完的存在となる。
「自由」を保障するのは、こうした全ての人に差別なく適用され、世代を超えて遵守される、自生的な慣習法に起源を持つ一般ルールである。

(★注1)なお、現代の英米法理論では「法の支配」を「正義の一般ルール」と限定して捉える見解が主流となっているため、「王といえども神と法の下にある」とする伝統的な意味での「法の支配」を「広義の法の支配」ないし「ノモスの支配(ノモクラシー)」と呼ぶのが妥当である。(⇒「法の支配(rule of law)」とは何か参照)

(★注2)ちなみに「国民主権」ないし「主権在民」の英訳とされる popular sovereignty をブリタニカ百科事典で引くと
popular sovereignty (南北戦争以前に)アメリカの連邦保有地の入植者達に、自由州または奴隷州としてユニオンに加盟する決定を下すことを許容した政策(以下省略)
とだけ記載されており、「国民主権」「主権在民」という意味は一切見当たらない。
またオックスフォード英語辞典やコリンズ-コウビルド英語辞典には popular sovereignty という言葉がそもそも登録されていない。
すなわち、英米圏では、かってフランス・ドイツなど欧州大陸諸国で強調され、日本の憲法学で現在でも過剰に強調されている popular sovereignty(国民主権)なる概念自体が、存在していないのである(※詳しくは⇒中川八洋『国民の憲法改正』抜粋参照)

※ここで英米法と大陸法の、法と権利に関する考え方の違いを対比し整理しておく。

◆3.法と権利の本質に関する2つの考え方


  歴史主義・伝統主義 (英米法) 反歴史主義・リセット主義 (大陸法)
権利の本質 人間は長い歴史を通じて、社会の中で試行錯誤を繰り返しながら、社会的叡智の結晶として歴史的権利を「慣習」という形で個別に見出してきた、とする立場 人間は自然状態において、生来的に自然権(natural right)を有していたが、社会契約(social contract)を結んで自然権を一部または全部放棄し、人定法実定法:positive law)を定めた、とする立場
法の本質 法は特定の共同体の中で人々の社会的ルールとして自生した(特定の人物の意思によらずに時間をかけて次第に生成されてきた)(法=社会的ルール説)(★注3)
⇒この立場は、真の法=ノモス(個別の共同体毎に自生的に発展してきた人為的ではあるが特定の意思によらざる法)とする見解と親和的である。
法はそれを作成した主権者の意思であり命令である(法=主権者意思[命令]説)(★注1、★注2)
⇒この立場には、①真の法=理性から演繹された自然法(フュシス)とする近代的自然法論、および、②真の法など存在せず主権者の意思・命令としての人為法があるのみとする純然たる法実証主義、の2通りの見解がある。
誰が法を作るのか 法は幾世代にも渡る無数の人々の叡智が積み重ねられて自生的に発展したもの(経験主義、批判的合理主義
⇒「法は“発見”するもの」⇒制憲権(憲法制定権力)否認
(特定時点の世代の人々が制定できるのは原則として「憲法典(形式憲法)」迄であって、「国制(実質憲法)」は世代を重ねて徐々に確立されていくものに過ぎない)
法は主権者の委任を受けた立法者(エリート)が合理的に設計するもの(設計主義的合理主義
⇒「法は“主権者”が作るもの」⇒制憲権(憲法制定権力)肯定
(特定時点の世代の人々は「憲法典(形式憲法)」のみならず「国制(実質憲法)」をも意図的に確立することが可能である)
補足 共同体毎に個別的→共同体に固有の「国民の権利」と「一般的自由」の二元論と親和的
価値多元的・相対主義的、
帰納的、保守主義・自由主義・非形而上学的な分析哲学と親和的
法の支配ないし立憲主義と順接
全人類に普遍的→共同体や歴史的経緯を超える普遍的な人権イデオロギーと親和的
絶対主義的(但し価値一元的な傾向と価値相対主義的な傾向との両面がある)
演繹的、急進主義・全体主義・形而上学的な観念論哲学と親和的
国民主権法治主義と順接
実例 英国の不文憲法が典型例。またアメリカ憲法は意外にも独立宣言にあった社会契約説的な色彩を極力消した形で制定され歴史主義の立場に基づいて運用されてきた。
大日本帝国憲法(明治憲法)も日本の歴史的伝統を重んじる形で当時としては最大限に熟慮を重ねて制定された
フランスの数々の憲法、ドイツのワイマール憲法が典型例。
日本国憲法は前文で「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とロックの社会契約説的な制定理由を明記しており、残念ながら形式上この範疇に入る(GHQ草案翻訳憲法)
※但し“解釈”により日本の歴史・伝統を過剰に毀損しない慎重な運用が為されてきた
主な提唱者 コーク、ブラックストーン、バーク、ハミルトン
なお第二次大戦後の代表的論者は、ハイエク、ハート
ホッブズ、ロック、ルソー
なお第二次大戦後の代表的論者は、ロールズ、ノージック

(★注1)「法=主権者意思[命令]説」は、主権者を誰と見なすかによって以下に分類される。
君主主権 君主一人が主権者。(1)社会契約説以前の王権神授説や、(2)ホッブズの社会契約説が代表例。
人民主権 君主以外の人民 people が主権者であり人民は各々主権を分有し人民自らがそれを行使する(=プープル主権説)。ルソーの社会契約説が代表例。
国民主権 君主を含めて国民全員が主権者(但し左翼の多い日本の憲法学者には「君主は国民に含めない」として、実質的に人民主権と同一とする者が多い)。
なお国民主権の具体的意味については、(1)最高機関意思説と、(2)制憲権(憲法制定権力)説が対立しており、
さらに(2)は、<1>ナシオン主権説と<2>プープル主権説に分かれる(プープル主権説は実質的に②人民主権説)。
一般的に国民主権という場合は、<1>ナシオン主権説(観念的統一体としての国民が制憲権を保有するとする説)を指す。
議会主権 英国の憲法学者A.V.ダイシーの用語で、正確には「議会における国王/女王(the king/queen in parliament)」を主権者とする。君主主権や国民主権の語を避けるために考え出された理論
国家主権 帝政時代のドイツで、君主を含む「国家」が主権者であるとして君主主権や国民主権の語を避けた理論。戦前の日本の美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説もこの説の一種である
⇒教科書は、戦後の日本は「国民主権」だが、戦前の日本は「君主主権」の絶対主義国家だった、とする刷り込みを行っている。しかし実の所は、
大日本帝国憲法(明治憲法)は制定時において明確に歴史主義の立場を取っており、そもそも「xx主権」という立場(法=主権者命令説)ではなかった。強いて言えば
“法”主権 つまり「法の支配」・・・歴史的に形成された統治に関する慣習法(=国体法 constitutional law)及びそれを可能な範囲で実定化した憲法典(constitutional code)が天皇をも含めた国家の全構成員を拘束するという立場だった。
⇒なお、大正デモクラシー期には、ドイツ法学の「⑤国家主権説」を直輸入した美濃部達吉の「天皇機関説」が通説となり、それがさらに天皇機関説事件によっていわゆる①君主主権説に転換したのは昭和10年(1935年)以降の僅か10年間である。

(★注2)「法=主権者意思[命令]説」は、法を特定の立法者/思想家の価値観(例:カントやヘーゲルのドイツ観念論的法思想や自然法論・人権論)あるいは政治イデオロギー(例:マルクス主義やナチス期ドイツ思想)に還元してしまう危険が高く、全体主義への接近を許してしまう。
※以下、「法=主権者意思[命令]説」の法体系モデル。


※図が見づらい場合⇒こちら を参照
※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。
このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。
(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。)


(★注3)「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1960年以降にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。
※以下、「法=社会的ルール説」の法体系モデル。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照。

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※上記のように、ハート法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。
※なお、自由を巡る西洋思想の二つの潮流について詳しくは ⇒ 国家解体思想の正体 参照

※(補足説明)ハート法=社会的ルール説のいう「ルール(rule)」という用語は、図にあるように、①事実(外的視点からの捉え方)②規範(内的視点からの捉え方)二重構造(=観測者から見れば①事実(社会的事実)だが、法共同体の構成員から見れば②規範だ、という③第3のカテゴリー)になっている、という独特の意味で使用されており、①事実②規範峻別する方法二元論(ケルゼンら新カント学派の方法論)と大きく異なっている点に注意(→こうした①事実でもあり②規範でもある③第3のカテゴリーの導入によって、ハート理論は「単なる①事実(=認識)から、なぜ②規範(=価値判断)が生まれるのか」という難問のクリアを図っている)。


◆4.大陸法の「国民主権」原理ではなく英米法の「法の支配」理念の正確な把握が必要である


(1) かってフランスがルソーの革命思想に燃えるジャコバン党の恐怖政治に覆われたとき、強烈な反撃の狼煙を上げたのは英国だった。
(2) ナチス・ドイツが欧州大陸を席巻したとき、ただ一国で踏みとどまってヒトラーの自滅を誘ったのも英国であり、最終的にこれを壊滅させたのは米国だった。
(3) ソ連との持久戦に耐えて遂にこれを崩壊に導いたのは、サッチャー&レーガンの英・米同盟だった。
これまでに世界を襲った恐怖政治と全体主義の脅威から、三度までも「自由」と「デモクラシー」を守ったのは、結局のところイギリスであり、(日本人にとっては些か不本意ではあるが)アメリカであったのは、おそらく偶然ではないはずである。

結局、「リベラル・デモクラシー」は英米法の伝統の中で発展してきた政治体制であり、
フランス・ドイツで発展した大陸法の「国民主権」あるいは「人民主権」といった「法=主権者意思・命令」説、理性からの演繹による自然法論あるいはその裏返しとしてのケルゼン流の純然たる法実証主義(人定法一元論)では、これを安定的に維持するのは難しい、というのが歴史の教訓である。
従って我々としては、明治以来継授してきた大陸法の主権在民論/制憲権論の弊害をまず正確に認識した上で、英米法の「法の支配」理念の正しい理解に努め、それを日本に固有の法体系に無理なく接合していく必要がある。

にも関わらず、中川八洋氏(筑波大学名誉教授)によれば、英米法の「法の支配」理念を正しく理解している憲法学者は、ほぼ皆無(既に高齢の英米法学者・伊藤正巳氏くらい)との事である。
確かに戦後日本の憲法学の通説となっている故・芦部信喜(宮沢俊義の弟子であり東大憲法学の代表学者=左翼)の『憲法 第5版』からは、芦部氏がルソーの人民主権論にシンパシーを寄せ、英米法の「法の支配」の原理を「人権の観念と固く結びつくもの」と(おそらく意図的に)曲解している様子しか伺えない。
※参考ページ⇒よくわかる現代左翼の憲法論Ⅰ(芦部信喜・撃墜編)

また芦部説に次ぐ有力説である佐藤幸治(大石義雄の弟子であり京大憲法学の代表学者=中間派)の『憲法 第三版』は、「法の支配」に関連してハイエクの「ノモスとテシス論」や「ノモスの主権論」を一通り説明するなどルソー主義の芦部氏よりも幾分マトモではあるものの、ベースになる思想ロックの社会契約論(つまり「国民主権」論)であるために、結局は、英米法の本流である「法の支配」(国民主権=制憲権=社会契約論の否定)とは相容れない立場にしか立っていない。

この点に関して、保守主義(伝統保守・旧保守)ではなくリベラル右派(新保守)のスタンスではあるが阪本昌成氏(憲法学者)の「国民主権・法の支配」論が非常に参考になるので、当ページからさらに深く理解したい方は、後述の■6.用語集・関連ページ欄に進まれることを願う。


■6.用語集、関連ページ


憲法問題の全般的な解説ページ 日本国憲法改正問題(上級編)
関連用語集 【用語集】主権論・国民主権等
憲法論のガイドライン 憲法論の二段構造:①実質憲法(=法価値論)と、②形式憲法(=法解釈論)
「法の支配」と国民主権 「法の支配(rule of law)」とは何か
阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第一部 第8章 国民主権あるいは憲法制定権力
阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第七章 国民主権と憲法制定権力
芦部信喜・佐藤幸治・阪本昌成・中川八洋etc.の「国民主権論」比較・評価 政治的スタンス毎の「国民主権」論比較・評価


■7.ご意見、情報提供


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  • 『国民主権』は『ルソー主義』であり『共産主義』であり全面否定しなければならない -- 名無しさん (2011-01-12 10:54:28)
  • 『国民主権』論には『ナシオン主権論』と『プープル主権論』の2つがありルソーが唱えたのは『プープル主権論』である -- 名無しさん (2011-01-17 14:22:17)
  • http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010122901000218.html -- 名無しさん (2011-01-28 15:15:58)
  • 阪本昌成教授の著書「法の支配~オーストリア学派の自由論と国家論~」がよいと思います -- 名無しさん (2011-12-16 01:45:25)
  • 私はデモクラシーとは一種の精神安定剤だと思っています。デモクラシーを平和的な(血を見ない)政権交代の手段として評価し守っていくべきではありますが、それ自体を目的としてとらえ、人民主権論に走れば、必然的に全体主義を招来することを我々は歴史から学ぶことができます。適量の服用は気持ちを落ち着かせても、飲みすぎれば発狂する向精神薬と非常に似ていると思うのは私だけでしょうか。 -- 政治家志望の一高校生 (2012-01-09 04:48:15)
  • ◆4についてなんだけど、ヒトラー失脚はソ連と米に喧嘩売ったせいだと思う 不利になった英は何としてでも米を戦争に引き込もうと躍起になっていたし、結果論だが英がヒトラーに譲歩したことが原因ともいわれる。共産主義の悪しきところは蛮行、危険思想だからと決めつけるのは良くない、自由を捨てることが堕落だとしても、自由を追求した結果も堕落、貧富の差が激しく不道徳な結果が起こっているのにそれに何も感じないなんて社会おかしい 英米的法の支配に対する批判も少し欲しい。基礎としてそちらを主軸とするべきという主張はいいと思うけど、良い面だけを教えられると信用していいのかと不安になる。 自分で様々な立場の本読むのが一番いいかもなんですが - 名無しさん 2015-11-14 01:28:18
    • 上の高校生?のコメントを参照してみてください。その為の情報収集だと思います。 - 名無しさん 2016-02-17 21:16:38
    • 続きです。恐らく記事作成主の言いたいことは、英米法で主流とされる「法の支配」の理解がどうなのかという点であって、自由の追求云々は言及しないに尽きたのではないかと思われます。法の支配を「英米法のまま」で導入すれば、それこそ日本の國体法に沿うわけがありませんから、日本法体系式の「法の支配」が必要不可欠となるわけです。その例が大日本帝国憲法であり、児嶋惟謙に始まる司法権の独立に沿う形が歴史上見られたものではないかと個人的には思いますね。つまり、法の支配は「良き慣習と伝統」が前提条件にありますから、慣習法が国民生活に沿わなければ、法の支配が機能しにくいことになるのではないでしょうか。批判は書籍等を見ると案外多いものですが、日本式にはどうか?を何度も自問自答して考えるようにすれば、記事作成主の言いたいこともわからなくないと思います(あくまで私見ですが)。 - 名無しさん 2016-02-17 21:28:57
    • ふと思い出したので、何度も失礼いたしますが付け足します。共産主義の悪しき~の件で、キリスト教が悪しき~という話を誰かがしていた覚えがあります。沿う考えますと、名無しさんの考えも一理あると思います。 - 名無しさん 2016-02-17 21:32:35


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  • 『国民主権』は『ルソー主義』であり『共産主義』であり全面否定しなければならない -- 名無しさん (2011-01-12 10:54:28)
  • 『国民主権』論には『ナシオン主権論』と『プープル主権論』の2つがありルソーが唱えたのは『プープル主権論』である -- 名無しさん (2011-01-17 14:22:17)
  • http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010122901000218.html -- 名無しさん (2011-01-28 15:15:58)
  • 阪本昌成教授の著書「法の支配~オーストリア学派の自由論と国家論~」がよいと思います -- 名無しさん (2011-12-16 01:45:25)
  • 私はデモクラシーとは一種の精神安定剤だと思っています。デモクラシーを平和的な(血を見ない)政権交代の手段として評価し守っていくべきではありますが、それ自体を目的としてとらえ、人民主権論に走れば、必然的に全体主義を招来することを我々は歴史から学ぶことができます。適量の服用は気持ちを落ち着かせても、飲みすぎれば発狂する向精神薬と非常に似ていると思うのは私だけでしょうか。 -- 政治家志望の一高校生 (2012-01-09 04:48:15)
  • ◆4についてなんだけど、ヒトラー失脚はソ連と米に喧嘩売ったせいだと思う 不利になった英は何としてでも米を戦争に引き込もうと躍起になっていたし、結果論だが英がヒトラーに譲歩したことが原因ともいわれる。共産主義の悪しきところは蛮行、危険思想だからと決めつけるのは良くない、自由を捨てることが堕落だとしても、自由を追求した結果も堕落、貧富の差が激しく不道徳な結果が起こっているのにそれに何も感じないなんて社会おかしい 英米的法の支配に対する批判も少し欲しい。基礎としてそちらを主軸とするべきという主張はいいと思うけど、良い面だけを教えられると信用していいのかと不安になる。 自分で様々な立場の本読むのが一番いいかもなんですが - 名無しさん 2015-11-14 01:28:18
    • 上の高校生?のコメントを参照してみてください。その為の情報収集だと思います。 - 名無しさん 2016-02-17 21:16:38
    • 続きです。恐らく記事作成主の言いたいことは、英米法で主流とされる「法の支配」の理解がどうなのかという点であって、自由の追求云々は言及しないに尽きたのではないかと思われます。法の支配を「英米法のまま」で導入すれば、それこそ日本の國体法に沿うわけがありませんから、日本法体系式の「法の支配」が必要不可欠となるわけです。その例が大日本帝国憲法であり、児嶋惟謙に始まる司法権の独立に沿う形が歴史上見られたものではないかと個人的には思いますね。つまり、法の支配は「良き慣習と伝統」が前提条件にありますから、慣習法が国民生活に沿わなければ、法の支配が機能しにくいことになるのではないでしょうか。批判は書籍等を見ると案外多いものですが、日本式にはどうか?を何度も自問自答して考えるようにすれば、記事作成主の言いたいこともわからなくないと思います(あくまで私見ですが)。 - 名無しさん 2016-02-17 21:28:57
    • ふと思い出したので、何度も失礼いたしますが付け足します。共産主義の悪しき~の件で、キリスト教が悪しき~という話を誰かがしていた覚えがあります。沿う考えますと、名無しさんの考えも一理あると思います。 - 名無しさん 2016-02-17 21:32:35
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最終更新:2015年06月05日 00:38