発語内の力-オースティン-

言葉を発する、すなわち発話するという行為は、既に見たように、それ自身とは区別される社会的な行為の遂行でもある。
すなわち、発話行為(言語行為)は、発語行為の遂行であるとともに、発語内行為の遂行でもある。
しかし、あらゆる発話行為が、常に社会的な行為としての効力を持つ訳ではない。
発話行為が、何等かの発語内行為の有効適切な遂行であり得るためには、ある慣習的なルールを充たさねばならないのである。
それでは、発話行為を、社会的な行為として発効させる慣習的なルールとは、いかなるルールであるのか。
また、そのようなルールには、いかなる分類があり得るのか。

ところで、ある発話行為が、そのようなルールから見て、たとえ不適切であったとしても、それが何等かの社会的な結果を発生させ得ることまで否定される訳ではない。
すなわち、発話行為は、慣習的なルールに従っているか否かに拘わらず、自らを原因とする何等かの社会的な結果を発生させ得るのである。
このような発話行為の社会的な結果と、その社会的な効力とは、果たして、如何なる関係にあるのか。
言い換えれば、発話によって社会的な結果を達成する発語媒介行為と、発話が社会的な効力を獲得する発語内行為とは、どのように区別され得るのか。
これら一連の問いが、本節で問われる問いに外ならない。
これらの問いに答えることが、取りも直さず、言語における主観主義としての表出主義に対する、決定的な論駁を準備するのである。

オースティンによれば、発話行為が、それ自身とは区別される何等かの社会的な行為として発効する条件は、大きく三つに分類される。
その第一は、ある発話が、何等かの社会的な効力を持つ行為の遂行であるために充たすべき、慣習的な手続きあるいはルールが存在していることである。
たとえば、「~せよ」という発話が、従うべき命令として社会的な効力を持ち得るのは、そこに何等かの手続きに根拠付けられた命令権限が存在し、そのような命令権限を持つ者によって、その発話が遂行される場合に限られる、といった具合である。
従って、「~せよ」という発話が、命令権限の存在しない領域において、あるいは、命令権限のない者によって、遂行されたとしたならば、そのような発話は、命令としての社会的な効力を持ち得ない。
すなわち、何等かの手続きあるいはルールがその背景に存在しない発話行為は、それ自身とは区別される社会的な行為としては無効あるいは不適切なのである。

その第二は、発話を社会的な効力を持つ行為の遂行とするための手続きが、正しくかつ完全に従われることである。
たとえ、発話を社会的な行為として発効させる手続きが、疑いもなく存在していたとしても、それが正しくかつ完全に従わないような発話は、(それ自身とは区別される)社会的な行為としては無効あるいは不適切なのである。
そもそも、ルールが存在するということは、それに従っているか否かによって、行為の当否あるいは適切/不適切が判定され得るということなのであるから、ルールの従われていることを要請する、この第二の条件は、(第一の条件が成り立っているならば)当然と言えばあまりに当然な条件である。
しかし、この条件を敢えて独立させた背景には、司法的な判断に代表される判定宣告型の発語内行為(後述する)が、主としてこの条件の成否に拘わる社会的な行為であることへの配慮があったと思われる。

その第三は、発話がある手続きを充たすことによって社会的な効力を獲得したとき、何等かの後続する行為が義務付けられる場合、そのような行為が引き続き遂行されることである。
たとえば、「私は~を約束します」という発話が、約束を巡って存在するルールに正しくかつ完全に従うことによって、約束という社会的な行為として発効するとき、そこには、約束した行為を引き続いて遂行する責務が生じることになる。
もし、このように義務付けられた後続行為が遂行されないとするならば、「私は~を約束します」という発話は、約束という社会的な行為の遂行としては不適切である。
もちろん、このような発話は、約束という社会的な行為を発効させはする。
すなわち、このような発話は、前期の二つの条件を充たすことによって社会的な行為としての約束を成立させはする。
従って、このような発話は、社会的な行為として無効である訳ではない。
しかし、義務付けられた後続行為が遂行されないとするならば、約束という社会的な行為は、確かに成立してはいるが、完了していない、あるいは履行されてはいない。
このように未完了あるいは不履行となる約束を成立させる発話は、無効ではないが、不適切あるいは義務違反なのである。
すなわち、義務付けられた後続行為の遂行されないような行為を発効させる発話は、社会的な行為の遂行としては不適切なのである。

さらに、オースティンは、この第三の条件に、後続行為の遂行が、発話主体によって、主観的に意図されていることをも含めている。
たとえば、約束の発話が為される場合、約束の履行が発話主体によって主観的に意図されていることが、その発話が社会的な行為として適切であるための必要条件になる、と言うのである。
しかし、後続行為が事実として遂行されることと、それが主観的に意図されることとの間には、厳密に区別されるべき、重大な相違が存在する。
すなわち、行為の事実的な遂行は、たとえば外的視点から観察可能であるが、行為の主観的な意図は、行為と独立には観察不能であるという相違である。
行為の主観的な意図は、観察される行為の原因として、その背後に仮設される存在なのである。
このような発話主体の意図は、発話が社会的な行為の適切な遂行であるための条件に対して、果たして、どこまで相関的なのであろうか。
むしろ、発話主体の意図の如何に拘わらず、後続行為が事実として遂行されるのであれば、発話は社会的な行為の適切な遂行となるのではないか。
これらの問題は、発話の慣習的なルールに基づく効力と、その主観的に意図された結果との区別と密接に関係している。
従って、これらの問題は、発語内行為と発語媒介行為との区別を検討する過程において、始めてその解答を見い出し得ると思われる。

そのために、発語内行為の社会的な効力が、慣習的なルールに依存しているという事態を、また別の角度から検討してみよう。
たとえば、「私は陳謝します」という発語を伴う(後に態度表明型と分類される)発語内行為を考えてみる。
「私は陳謝します」という発語が、陳謝という社会的な行為として発効するためには、前述の三条件に分類される、様々な条件が充たされていなければならない。
ととえば、第一の条件に分類される、私の行為が(陳謝の)相手に何等かの不利益を与えたという事実の存在、また、その不利益が私の行為によっては回避し得ない不可抗力によるものではないこと、さらに、相手に不利益を与えたとしてもなお私の行為を正当化し得る理由のないこと、といった様々な条件が充たされて始めて、「私は陳謝します」という発語は、陳謝という社会的な行為として発効するのである。
これらの条件のどれか一つ、あるいはその幾つかが充たされていない場合、「私は陳謝します」という発語は、社会的な行為としては、無効あるいは不適切となる。
たとえば、相手に何の不利益も与えていないのに、「私は陳謝します」と繰り返すことは、滑稽な錯誤でなければ、不幸な病気である。
言い換えれば、「私は陳謝します」という発語が、社会的な効力を有するためには、発語をめぐる、発語自身とは独立な状況の、既述のような条件を充たしていることが、必要不可欠なのである。
すなわち、発語内行為の社会的な効力は、それに伴う発語行為の遂行される状況あるいは文脈に、決定的に依存しているのである。
従って、発語内行為は、それをめぐる状況あるいは文脈を参照することなしには、その効力を全く確定し得ないことになる。
この事態を、発語内行為の文脈依存性と呼ぶことにしよう。
発語内行為は、自らの内属する文脈が与えられて始めて、その効力を決定し得るのである。
すなわち、発語内行為の社会的な効力が、慣習的なルールに依存しているというオースティンの指摘は、取りも直さず、発語内行為は文脈依存的であるという事態の発見に外ならないのである。

ここで留意すべきは、発語内行為が、社会的に発効するための条件には、当の行為の主観的な意図は、必ずしも含まれていないということである。
たとえば、「私は陳謝します」という発語が、社会的な行為として発効するためには、陳謝の主観的な意図は、必ずしも前提されないといった具合である。
すなわち、「私は陳謝します」という発語が、既述のような条件を充たす状況あるいは文脈において遂行されているのであれば、たとえ陳謝の主観的な意図が全く存在しないとしても、陳謝という社会的な行為は成立し得るのである。
あるいは、「私は陳謝します」という発語が、たとえば、私の行為によって相手が如何なる不利益も被っていない状況において、遂行されているとするならば、それが陳謝の主観的な意図に満ち溢れているものであったとしても、陳謝という社会的な行為は決して発効し得ないのである。
すなわち、発語内行為の効力は、それに伴う発語行為が遂行される文脈にのみ依存しているのであって、その主観的な意図からは全く独立しているのである。
陳謝のような、個体の主観的な情緒の表出であると普通は考えられている発話が、その主観的な情緒とは独立に、その社会的な文脈にのみ依存して、自らの効力を確定し得るという事態は、一見、意外に見えよう。
しかし、文脈依存的な発語内行為と、言わば意図あるいは情緒表出的な発語媒介行為とが、共に何等かの社会的な効果を発生させるにも拘わらず、互いに区別されねばならないのは、まさに、このような事態が見い出されるからに外ならないのである。

発語内行為と発語行為との関係については、前章に詳しく検討した。
そこで明らかになったことは、陳述の発話といった事実確認的発話にも、前述の三条件を充たしているか否かによって、その適切性を判定し得る発語内行為の位相が存在すること、また、命令や判定や約束やの発話といった行為遂行的発話と言えども、何等かの事態を指示するという意味において、発語行為の位相が存在することであった。
すなわち、発語内行為と発語行為は、同時に一つの発話の内に存在し得る、発話行為(言語行為)の二つの位相なのである。
この意味においては、発語媒介行為もまた、発語内行為や発語行為やと同様の、発話行為の一つの位相に外ならない。
あらゆる発話は、慣習的に根拠付けられた効力を発揮する行為(発語内行為)の遂行であり、かつ、客観的に対象化された事態を指示する行為(発語行為)の遂行である、と同時に、主観的に意図された結果を達成する行為(発語媒介行為)の遂行でもあり得るのである。

それでは、発語内行為と発語媒介行為とは、如何にして区別されるのであろうか。
両者が、何等かの社会的な効果を発生させる行為である、という点においては共通するにも拘わらず、前者が慣習的なルールによって根拠付けられる行為であるのに対して、後者はそうではない、という点において区別されるということは既に述べた。
オースティン自身は、両者の区別について、実はこれ以上立ち入った検討を加えてはいない。
しかし、このままでは、社会的な効果を発生させる発話行為の内で、慣習的なルールによって根拠付けられる部分以外の総ての残余が、発語媒介行為であるということになる。
これでは、ある発話が、その意図の如何に拘わらず、言わば偶然に何等かの社会的な結果をもたらす場合でも、それは発語媒介行為の概念に包摂されることになり、概念として広きに失すると思われる。
むしろ、発語媒介行為は、発話主体によって主観的に意図された何等かの社会的な結果を、効果的に達成する手段として遂行される発話行為を指示する概念として、より限定的に使用されるべきであると思われる。
すなわち、発語内行為と発語媒介行為とを区別するメルクマールは、前者の社会的な効力を発効させる根拠が、慣習的なルールであるのに対して、後者の社会的な結果を発生させる原因は、(発話主体の)主観的な意図であるという点に求められると考えるのである。
言い換えれば、発語内行為の純粋型が、その慣習的な適切性の問われる、行為の遂行(行為遂行的発話)であり、発語行為の純粋型が、その客観的な真理性の問われる、事態の記述(事実確認的発話)であるのに対して、発語媒介行為の純粋型は、その主観的な誠実性の問われる意図の表出(言わば意図あるいは情緒表出的発話か)であると分類してみるのである。

このように考えてみるならば、あらゆる発話を、発語主体の主観的な意図や情緒や目的やの表出に帰着し尽くし得るとする、言語の表出主義が、如何なる限界をもつ主張であるかが明らかとなる。
すなわち、表出主義は、発話行為の総てを、発語媒介行為の位相に還元し尽くし得るとする主張なのである。
しかし、これまで述べてきたこおから明らかなように、発話行為は、発語行為と発語媒介行為の位相の直和には、ついに分割され得ない。
発話行為には、発語内行為の位相が、紛れもなく存在するのである。
すなわち、記述主義という、いわば言語の物理主義的な理解も、また、表出主義という、いわば言語の心理主義的な理解も、慣習的なルールに従った社会的な行為の遂行としての言語の位相を、ついに捉え切れないのである。
言い換えれば、客観的な事実でもなく、あるいは、主観的な情緒でもなく、ただ、社会的な文脈にのみ依存して、その当否を決定される言語行為の位相の、確かに存在し得ることが、捉え切られねばならないのである。

このように、発語行為とも発語媒介行為とも区別される発語内行為は、それ自身幾つかの類型に区分し得る。
言い換えれば、発話行為の発揮し得る慣習的な効力は、幾つかの種類に分割し得る。
オースティンは、この発話行為の発揮し得る慣習的な効力を、発語内の力(illocutionary forces)と呼び、その分類を、発語内の力の分類と呼んでいる。
以下に見るように、発語内の力の分類は、本節の前半に述べた、発語内行為の適切性の条件の分類と、密接に関係しているとともに、一つの発話行為が、同時に三つの位相を持つという事態とも、深く拘わっているのである。
それでは、発話行為を、それが発揮する発語内の力の類型に対応させて、言い換えれば、それが遂行する発語内行為の類型に対応させて、以下に分類してみよう。

第一の類型は、権限行使型(exercitives)である。
これは、何等かの権能を行使する発話であり、たとえば、命令や許可の発話に代表される。
この類型が、発語内行為が適切であるための第一の条件である、(権能を付与する)ルールの存在という条件を、その発語内の力の根拠とすることは明らかであろう。

第二の類型は、行為拘束型(commissives)である。
これは、何等かの後続行為を義務付けられる発話であり、たとえば、約束や支持の発話に代表される。
この類型が、発語内行為が適切であるための第三の条件である、(義務付けられた)後続行為の遂行という条件を、その発語内の力の根拠とすることは言うまでもなかろう。

第三の類型は、判定宣告型(verdictives)である。
これは、事実的な証拠や規範的な理由といった根拠に基づいて、何等かの判断を述べる発話であり、たとえば、判定や評価の発話に代表される。
この類型は、証拠や理由の開示といった論理的な手続きの充足を、その判断の根拠とするという意味において、発語内行為が適切であるための第二の条件である、手続きの充足という条件を、その発語内の力の根拠としていると考えられる。

第四の類型は、言明解説型(expositives)である。
これは、陳述や記述の発話に代表される類型であるが、オースティン自身の定義は極めて曖昧である
むしろ、この類型は、事実確認的発話に差し当たり分類される発話における、発語内行為としての位相を抽出したものである、と考えた方がよいのではないか。
すなわち、この類型は、事実確認的発話の慣習的な適切性が問われる場面を切り取ったものである、と考えられるのである。

第五の類型は、態度表明型(behabitives)である。
これは、発話主体の主観的な態度や情緒を表出する発話であり、たとえば、陳謝や祝福の発話に代表される。
しかし、この類型は、あくまで発話の持つ発話内の力の分類なのであるから、事実確認的発話や行為遂行的発話と同一平面上において対比される、情緒(あるいは意図)表出的発話それ自体ではあり得ない。
むしろ、この類型は、(発語媒介行為の純粋型である)情緒表出的発話に差し当たり分類される発話における、発語内行為としての位相を抽出したものである、と考えるべきではないか。
すなわち、この類型は、情緒表出的発話の慣習的な適切性が問われる場面を切り取ったものである、と考えられるのである。

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