発語的行為-オースティン-

言葉は、つまるところ、何等かの事実を記述している。
あるいは、言葉の意味は、それが記述する対象である、さらには、言葉は、それが記述する事実の存否によって、その真偽を確定しうる、あるいは、言葉は、その真偽の確定し得る場合にのみ、有意味である、といった記述主義の言語観を、オースティンは批判する。
オースティンの用語系によれば、記述主義とは、差し当たり、言葉を発すること、すなわち発言(発話)の総ては、事実を記述し、真偽を確定し得る、事実確認的(constattive)発言に還元されるか、さもなくば、ナンセンスに帰着するという主張に外ならない。
しかし、あらゆる発言を、事実確認的発言に還元し尽くすことは、果たして可能なのだろうか。

たとえば、何等かの権能に基づいて指図する場合の指図や、あるいは、何等かの判定理由を明らかにして審判する場合の審判の発言や、さらには、何等かの行為の履歴を約束する場合の約束の発言やは、事実を記述している訳でもないし、また、その真偽が問題となっている訳でもない。
しかし、これらの発言が、社会生活において、極めて重要な種類の発言であることは論を俟たない。
財産権や人格権の行使や、契約や、あるいは、それらを巡る裁判やは、社会生活の根幹を成している。
記述主義は、このような指図や審判や約束やの発言を、その焦点から外してしまっているのである。
(もちろん、記述主義が、これらの発言に、何の位置付けも与えていない訳ではない。前章で述べたように、記述主義から見れば、これらの発言は、主観的な意図の表出に外ならないことになる。しかし、この点についての検討は、次章の課題である。)

指図や審判や約束やの発言は、その発言を遂行することそれ自体が、指図や審判や約束やといった、社会的行為そのものを遂行することになる種類の発言である。
たとえば、「~を約束します」と発言することは、取りも直さず、約束という社会的行為を遂行することに外ならない。
すなわち、これらの発言においては、言うことが、行うこととなっているのである。
このように、発言することが、(発言という行為とは区別される)社会的行為を遂行することになる種類の発言を、オースティンは、差し当たり、行為遂行的(performative)発言と呼ぶ。
事実確認的発言に焦点を合わせている記述主義は、この行為遂行的発言を捕捉し得ないのである。
行為遂行的発言は、もとより、事実を記述している訳ではなく、従って、その真偽も確定し得ない。
行為遂行的発言は、真偽いずれでもないのである。

しかし、行為遂行的発言であれば、いかなるものでも、社会的行為として効力を発揮するという訳でもない。
たとえば、指図する権限のない者による指図や、判定理由を示し得ない審判は無効であり、約束された行為が履行されない約束は不実である。
すなわち、行為遂行的発言は、何等かの条件を充たすことによって始めて、社会的行為としての効力を獲得するのである。
オースティンは、この、行為遂行的発言を社会的行為として発効させる条件を、行為遂行的発言の適切性(felicity)の条件あるいはルールと呼んでいる。
従って、行為遂行的発言は、それを発効させるルールを根拠として、適切あるいは不適切のいずれかに判定されるのである。
しかし、いかなる行為遂行的発言が適切であるかを決定するルールの検討は、次章に委ねられる。
ここでは、事実確認的発言と対比される意味での行為遂行的発言の検討に議論を限定したい。
行為遂行的発言の概念こそが、記述主義の批判に対して、最も有力な手掛かりを与え得るからである。

この行為遂行的発言の概念と、言語行為(speech act)の一般理論との関係は、オースティン本人においても、かなり微妙である。
もちろん、行為遂行的発言の発見なしには、言語行為の一般理論が構想され得なかったであろうことは言うまでもない。
しかし、言語行為の一般理論が構成されるに及んで、行為遂行的発言の概念が後景に退けられたこともまた明らかである。
行為遂行的発言と言語行為とは、果たして、如何なる関係に置かれているのであろうか。

前章で述べたように、オースティンによれば、言葉を発すること、すなわち発言(発話、発語)することは、以下の三種の行為を同時に遂行することに外ならない。
言い換えれば、言うことは、以下の三種の位相において、行うことなのである。
その第一は、発語という行為それ自体が、何等かの事態を意味する、すなわち何等かの事態を指示する行為に外ならないという発語行為(簡単のために、ここでは、音声行為および用語行為を捨象して、発語行為を意味行為あるいは指示行為に限定している)の位相であり、
第二は、発語することが、何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自身とは区別される)行為を遂行することになるという発語内行為の位相であり、
第三は、発語することを手段として、発語主体の意図する、何等かの結果を達成することが目指されるという発語媒介行為(ここでは、発語主体の意図せざる結果を捨象している)の位相である。
オースティンは、以上の三種の行為を総称して、言語行為と呼んでいる。
すなわち、言語を発話することは、以上の三種の位相において、行為を遂行することなのである。

行為遂行的発言と発語内行為、さらには、事実確認的発言と発語行為が密接に関連していることは一見して明らかであろう。
しかし、両者は同じものではあり得ない。
何故なら、行為遂行的発言と事実確認的発言との区別は、ある一つの発言をいずれかのカテゴリーに分類するための区別であるのに対して、発語内行為と発語行為との区別は、ある一つの発言を幾つかの(行為の)位相に分解するための区別だからである。
すなわち、ある一つの発言が、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言のいずれに分類されたとしても、その発言には、発語内行為および発語行為(さらには発語媒介行為)の位相が常に存在し得るのである。
従って、行為遂行的発言も、発語行為の位相を持つという意味において、何等かの事実を指し示していることになるし、また、事実確認的発言も発語内行為の位相を持つという意味において、何等かの行為を遂行していることになる。
このような、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言と発語内行為あるいは発語行為との関係を、つぶさに検討することによって、記述主義を乗り越える言語行為論の射程が、詳(つまび)らかにされるのである。

ところで、何等かの社会的効果を帰結する点においては共通している、発語内行為と発語媒介行為との相違は、前章で述べたように、発語内行為の効力が、そのような効力を発生させる根拠となる、何等かの慣習によって支えられているのに対して、発語媒介行為の結果は、そのような慣習に支えられなくとも達成され得るという点にある。
言い換えれば、発語内行為は、慣習に従う限りにおいて、その社会的な効力を発揮し得る言語行為の位相であるのに対して、発語媒介行為は、慣習に従うか否かに拘わらず、その(発語主体の意図する)社会的な結果を達成し得る言語行為の位相なのである。
ここに言う慣習が、すでに述べた、行為遂行的発言にちての適切性のルールと同じものであることは、確認されねばならない。
すなわち、発語内行為の効力の存否を判定する根拠は、(行為遂行的発言についての)適切性のルールなのである。
従って、発語媒介行為は、発語行為のように、それが指示する事実に基づいて、その真偽を判定し得る訳ではなく、また、発語内行為のようにそれが従うルールに基づいて、その当否(適切・不適切)を判定し得る訳でもない、言語行為の第三の位相ということになる。(実は、発語媒介行為は、それが達成しようとする発語主体の意図に基づいて、その成否を判定し得るのであるが、この点についてはここでは触れない。)
しかし、発語内行為の当否を判定し、また、発語内行為と発語媒介行為とを区別する、慣習あるいは適切性のルールについての検討は、次章の課題である。
ここでは、発語内行為と行為遂行的発言との関連、および、発語内行為と発語行為との区別に議論を限定したい。

それでは、行為遂行的発言あるいは事実確認的発言と発語内行為および発語行為とは、いかなる関係に置かれているのであろうか。
まず、事実確認的発言は、言うまでもなく、事実を記述し、その真偽を、それが記述する事実の存否に基づいて判定し得る種類の発言なのであるから、紛れもなく、発語行為の位相を保有している。
このような事実確認的発言は、果たして、発語内行為の位相をも保有しているのであろうか。

たとえば、「現在のフランス国王は禿である。」という発言を考えてみよう。
この発言は、典型的な記述命題であって、明らかに事実確認的発言である。
しかし、現在のフランスに国王など存在しないのであるから、その国王が禿であるか否か、言い換えれば、この発言の真偽を、事実に基づいて判定することは不可能である。
それでは、この発言は、無意味であろうか。
否である。
この発言の指示する対象は(それが事実として存在しているか否かに拘わらず)明瞭である。
この発言が奇異な感じを与えるのは、それが無意味だからではなく、むしろ、事実として存在していない対象についての記述命題が、発言として不適切だからである。
すなわち、記述命題という事実確認的発言は、それが術定する対象(ここでは現在のフランス国王)が、事実として存在し得るという条件を充たすことによって始めて、有効あるいは適切な発言として遂行されるのである。
これは、たとえば指図という行為遂行的発言が、指図する権能が存在するという条件を充たすことによって始めて、社会的な効力を有する適切な発言として遂行されるという場合に類似している。
言い換えれば、事実確認的発言と言えども、その真偽が問題とされる以前に、事実確認あるいは記述という社会的行為を遂行する発言として、有効/適切であるか否かが問題とされるのである。
従って、事実確認的発言においても、行為遂行的発言と同様に、その発言が、社会的な効力を持つか否か、あるいは、適切であるか否かが問われる位相が存在することになる。
すなわち、事実確認的発言にも、発語内行為の位相が、確かに存在するのである。

また、「現在のフランス国王は禿である。」という発言は、「禿でないならば現在のフランス国王ではない。」という発言を論理的に帰結する。
従って、ひとたび前者の発言を遂行したならば、後者の発言を拒否することは、論理のルールに違反することになる。
これは、ある行為の履行を約束する発言を遂行したならば、その行為を履行しないことは、約束のルールに違反することになる場合に類似している。
すなわち、いずれの場合においても、ある発言の遂行が、何等かの行為の遂行を義務付け、その行為の遂行を拒否した場合、何等かのルール違反に問われるのである。
言い換えれば、約束と言う行為遂行的発言が、その目的あるいは帰結としての行為の履行されなかった場合に、不誠実あるいは不適切(ルール違反)になるのと同様に、記述という事実確認的発言もまた、その(論理的な)帰結としての行為の履行されなかった場合、不適切(ルール違反)になるのである。
従って、ここでもまた、事実確認的発言は、その真偽を問われる以前に、社会的行為を遂行する発言として、適切であるか否かを問われることになる。
すなわち、事実確認的発言には、発語内行為の位相が、確かに存在しているのである。

続いて、行為遂行的発言を取り上げよう。
行為遂行的発言に、発語内行為の位相が存在していることは、言うまでもなかろう。
それでは、行為遂行的発言に、果たして、発語行為の位相は存在するのであろうか。
たとえば、判決という行為遂行的発言を考えてみよう。
判決という発言は、言うまでもなく、ある行為の当否を、潜在的には明示し得る判定理由に基づいて判定するという社会的行為の遂行である。
通常の場合、この判決理由は、あるカテゴリーに属する行為の当否を規定している一般ルールと、問題となっている行為がそのカテゴリーに属するか否かについての判断から構成されている。
すなわち、当該行為は、ある一般的なルールの違反に該当する故に、妥当ではないと判決するといった具合である。
このとき、問題となっている行為が、一般的なルールに違反するカテゴリーの行為に該当するか否かについての判断は、記述命題の真偽についての判断と極めて類似している。
いずれの判断も、それが指示する事実に基づいて、その分類が決定されるからである。
因みに、前者の判断は、後者の判断と同じく、事前判断と呼ばれることも多い。
従って、判決という行為遂行的発言は、その社会的な効力を根拠付ける判定理由の核心において、事実確認的発言あるいは発語行為を常に前提せざるを得ないのである。

また、判決という行為遂行的発言は、たとえば、「甲は乙に損害賠償を支払うべし。」といった当為命題であることが多い。
このような当為命題は、「甲は乙に損害賠償を支払う。」という記述的あるいは指示的(phrastic)と、「~すべし」という指図的あるいは承認的部分(neustic)とに分解することが常に可能である。
ここで言う記述的あるいは指示的部分が、発語行為の位相を持っていることは明らかであろう。
すなわち、当為命題という行為遂行的発言は、その記述的あるいは指示的部分が常に存在するが故に、発語行為の位相を必ず内包しているのである。
行為遂行的発言における発語行為の位相の存在についてのこのような説明は、オースティン本人のそれと言うよりも、むしろ、ヘアあるいはサールによるものである。
他の点はいざ知らず、この点に関しては、ヘアあるいはサールの議論は、オースティンの言語行為論の理解にとって、極めて有効な視座を提供していると思われる。
行為遂行的発言を、記述的あるいは指示的部分という発語行為の意味を指定する核心部分と、指図的あるいは承認的部分という発語内行為の効力を指定する境界部分に分解して理解することは、ある一つの言語行為には、常に三種類の(行為の)位相が存在していると考える、言語行為論の着眼を、より明晰な分析枠組みに高めるものである。
記述主義は、このような分析枠組みの獲得によって、ようやく乗り越えられることになるのである。

これまで述べてきたように、事実確認的発言もあるいは行為遂行的発言も、発語内行為および発語行為の位相を同時に保有していることが明らかになった。
従って、事実確認的発言と行為遂行的発言との区別は、実は相対的なものであって、むしろ、両者は、発語行為の位相をその核心部分に持ち、各々に種類の異なる発語内行為の位相をその境界部分に持つ、一連の言語行為の二つの種類であると考えられるのである。
言い換えれば、事実確認的発言は、記述(言明解説)という発語内行為を遂行する言語行為なのであり、行為遂行的発言は、指図(権能行使)や判決(判定宣告)や約束(行為拘束)やという発語内行為を遂行する言語行為なのであって、また、いずれも、何等かの事態を指示する部分として発語行為を内包する言語行為なのである。

このような言語行為論の視点から見れば、記述行為は、言語行為という多元的な現実を、その記述的あるいは指示的な部分のみに一元化して把握しようとする、対象指示一元論あるいは意味行為一元論であることが明らかになる。
記述主義は、言語行為の唯一つの位相しか捉えていないのである。
しかし、我々の言語の現実の在り方である言語行為は、対象指示に還元し尽くされる筈もない。
如何なる対象指示と言えども、発語内行為の種類が指定されることによって始めて、言語行為、すなわち、発話として社会的に発効するのである。
従って、記述の発話と言えども、それが社会的な効力を有する適切な発話であるためには、何等かのルールに従っていなければならないことになる。
しかし、言語行為の従うルールについての検討は、次章の課題である。

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