よくわかる左翼憲法論3(平和主義)

<目次>


◆3.1  憲法9条の起源


◇3.1.1  マッカーサー・ノート


9条の原型

憲法9条の原型は、占領軍総司令官であったダグラス・マッカーサーが、1946年2月、総司令部独自の新憲法の起草を決意した際に、草案に盛り込むべき基本原則として民政局のスタッフに示したいわゆるマッカーサー・ノートの第二原則である。
それは、「国権の発動たる戦争は廃止する。日本は紛争解決の手段としての戦争、さらに自己の安全を保持する手段としての戦争をも放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない」とする。
この第二原則は、起草作業を主として担当した総司令部民政局のスタッフには余りにも理想主義的であると考えられたため、彼らの用意した第一案では、この原則は憲法の本文ではなく前文に置かれ、また自衛のための武力の行使あるいは武力による威嚇の可能性を残す文案に改められた。

しかし、このような「法律家」的考慮は、戦争放棄の協調を求めるマッカーサーの完全な了解を得ることができず、自衛のための武力行使の可能性は維持されたが、彼の強い主張で、戦争放棄および戦力不保持の原則は、最終的な総司令部案では本文に移され、それを受けた日本政府の憲法草案、そして確定した日本国憲法でも本文に置かれている。

◇3.1.2  芦田修正


帝国議会での修正

衆議院での審議において、9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言が加えられた。
これは、この修正を提案した衆議院憲法改正特別委員会の委員長であった芦田均氏の名をとって、一般に「芦田修正」といわれる。
芦田氏は、この提案の当時はその趣旨を明確にしなかったが、後になって、修正後の9条は自衛のための戦争や軍備を許容しているとの見解を明らかにした(憲法調査会事務局 [1961] 503-04頁)。

極東委員会は、この修正が行われた後、現在の憲法66条2項のいわゆる文民条項を憲法に組み入れることを強く主張し、その意向を受けて、貴族院で修正が為された。
この極東委員会の要求も、芦田修正により自衛のための軍備が可能になったとの解釈を前提にしていたものと理解できる。

もっとも政府は審議中、一貫して、原案と修正後の条項は趣旨において差異はないとの説明を加えていた(憲法調査会事務局 [1961] 504頁)。


◆3.2  憲法9条の解釈


起草者の意思と解釈

ある法律の成立の経緯、あるいは起草や審議にあたった人々の考えは、その法律の解釈を決定するわけではない。
法としての効力を有するのは、あくまで条文に定式化された限りでの立法者の意思である。

それ以外の起草者や立法者の考えは、たとえそれを知ることが出来たとしても、それによって現在の我々が拘束されるべき理由は乏しく、憲法思想史や比較法上の素材と同様、解釈の参考資料となるに過ぎない。
我々はむしろ如何なる解釈が9条を憲法全体の構造と理念に整合的に位置づける最善の解釈といえるかを議論すべきであり、起草者の意思に従うべきだと主張する論者は、なぜ起草者の考えが最善の解釈といえるかを立証すべきである。

憲法9条の解釈の根底にある様々な考え方については、3.3以降で述べることとし、ここでは、9条に関するいろいろな解釈を分類学的に記述する。

◇3.2.1  憲法9条は法か?



政治的宣言か

9条の解釈にあたっては、まず、9条が果たして法としての身分を持つか否かが問題とされる。
ある立場によれば、9条は単なる政治的宣言(マニフェスト)に過ぎず、法規範としての身分は持たない(高柳 [1953])。
このため、9条は国会の審議においても、裁判所での裁判においても、他の法律や命令などがそれに違反するか否かが問われる基準とはならない。
総司令部の起草者達が、この見解をとっていたことは、前に述べた(3.1.1)。

これに対して、学界の通説は、9条は法としての身分を持つとし、それに反する国家行為は、単に政治的に不当であるにとどまらず、違憲無効と評価されるとする。
もっとも、中には、問題の高度の政治性ゆえに裁判所における判断基準(裁判規範)としての使用は控えるべきであるとの見解もあり(伊藤・憲法169頁)、この立場と、政治的宣言に過ぎないという立場との距離は小さい。

◇3.2.2  「国際紛争を解決する手段として」の戦争の放棄



1項が放棄するもの

次に、9条1項にいう「国際紛争を解決する手段として」「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を放棄するという文言が如何なる意味を持つかが議論されている。

通説は主として国際法上の慣用に基づいて、「国際紛争を解決する手段として」の戦争、武力による威嚇または武力の行使の放棄は、侵略目的による戦争、武力による威嚇または武力の行使の放棄を意味するにとどまるとする。
つまり、自衛目的や制裁目的などによる、戦争、武力による威嚇、武力の行使が許されることは当然、留保されており、これらは1項では放棄されていない。
同様の文言を含む不戦条約(1928)を締結したアメリカ、フランス、イギリスなどの国々が、その後も自衛や制裁のための戦争や武力の行使を放棄していないことは、この解釈の例証となる。
これに対して、およそ戦争は国際紛争を解決する手段であるし、また過去の日本の例を見てもわかるとおり、戦争をする国は自衛のためと主張するのが常であるという理由、さらに日本国憲法の他のどの規定も、戦争を全く予想していないと見られることから、この字句には限定的な意味はなく、1項ではあらゆる戦争、武力による威嚇、武力の行使が放棄されているとの立場もある(清宮・憲法Ⅰ112頁、宮沢・コメ161-65頁、小林・講義(上)193頁)。

◇3.2.3  「戦力」保持の禁止



(1)  戦力の意義


戦力とは

第三に、9条2項前段で保持が禁止されている「戦力」とは何かが問題となる。
陸海空軍、あるいはそれに相当するような、外敵の攻撃に対して実力をもって抵抗し、国土を防衛することを目的として設けられる人的および物的手段の組織体が通常、戦力といわれるものであるが(宮沢・コメ168頁、芦部・憲法60頁)、あらゆる戦力の保持が禁止されているか否かについて争いがある。

1項であらゆる戦争、武力による威嚇、武力の行使が放棄されているとする者はもちろん、1項では侵略目的の戦争、武力による威嚇、武力の行使のみが放棄されているとする立場の学者も、その多くは、2項前段で保持が禁止されているのはあらゆる戦力であると考える。
あらゆる戦力を放棄しない限り、正義と秩序を基調とする国際平和の実現という1項の目的は実現され得ないし、また憲法の条文中に自衛のための戦争や軍備の存在を予想した規定は存在しないからである。
この考え方からすると、現在の自衛隊は、上述の意味における憲法によって保持が禁止された戦力にあたることとなろう。
これに対して一部の学説は、1項で侵略目的の戦争、武力による威嚇、武力の行使のみが放棄されていると前提したうえで、2項冒頭の「前項の目的」という文言を、侵略戦争放棄という目的として狭く解釈し、侵略目的でない限りは戦力を保持することも許されると主張する(佐々木・憲法232-34頁)。
この立場からすれば、自衛のための戦力の保持は許されることになる。
前述したように(3.1.2)、極東委員会もこのような解釈の可能性を予想していた。
もっとも、戦争についてはなお侵略目的のものとそれ以外のものを区別し得るかも知れないが、戦力について両者を区別することがどこまで可能かという問題がある。

政府の解釈

政府は、「近代戦争を有効適切に遂行し得る装備、編成を備えるもの」として「戦力」を定義したうえで、2項前段では自衛の目的のものを含め、あらゆる「戦力」の保持が禁止されているとする一方、ここにいう「戦力」に至らない程度の、自衛のための最小限度の実力の保持は、あらゆる国家が享有する自衛権によって正当化されるとしてきた(政府の憲法解釈 25-32頁、国会の憲法論議Ⅰ 601-05頁)。
そして、政府の見解では、自衛隊は自衛のための必要最小限度の実力にとどまっているため、9条で保持を禁じられた戦力にはあたらないとされている。

しかし、何が、この「必要最小限度の実力」にあたるかは、その時々の国際情勢や軍事技術の水準等によって変化するとされる。
核兵器でさえ、防衛的な性格を持つものであれば憲法上、保持を禁止されているわけではない(政府の憲法解釈 33頁)。
現在、核兵器を保有しないのは、政府及び国会の政策的決定によるもので、それは非核三原則、原子力基本法および核兵器不拡散条約に現れているとされる。
この政府の解釈からすれば、自衛のため以外の目的で実力が行使されることは、憲法に反することとなる。

【PKOへの自衛隊の参加】
この点との関連で、国際連合の平和維持活動に自衛隊が参加することが、政府のいう自衛のための実力の行使の範囲を超えることとならないかが問題となる。

政府は、平和維持のための「武力の行使」は違憲であるが、平和維持活動に参加する自衛隊員が自己防衛のために「武器を使用」することは許されるとし(憲法の国会論議 96-107頁)、いわゆるPKO協力法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)24条1項でも、自己又は自己と共に現場に所在する他の隊員等の生命又は身体を防衛するためやむを得ない必要があると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で、当該小型武器を使用することができるとしている)。

成立当初、同法の附則2条により、自衛隊の参加する国際平和協力業務は、選挙の監視・管理、医療、被災民の救出、輸送・通信・建設業務などの人道的救援活動および後方支援業務に限られ、武力紛争の停止の遵守状況や武装解除履行の監視などのいわゆる平和維持軍(PKF)にあたる業務を含まないこととされていたが同条は2001年に削除された。
政府は、PKFへの自衛隊の部隊としての参加も、
①紛争当事者間に停戦の合意があり、
②自衛隊の参加に紛争当事者の同意があり、
③平和維持軍の活動が中立的に行われ、
④以上の条件が満たされなくなった場合に自衛隊が撤収し、
⑤自衛のためやむを得ない場合に必要最小限で武器を使用し得る、
という5原則の下では憲法に反しないとの立場をとっており、これらの原則と対応する文言はPKF協力法の中にみられる(3条1号、6条1項13項、24条1項など)。

(2)  日米安全保障条約


米軍駐留は違憲か

日米安全保障条約によって国内に駐留するアメリカ合衆国軍についても、この駐留が9条2項に違反する戦力の保持といえないかが問題とされる。
この点については、
アメリカ合衆国軍も、条約の締結という政府の行為に基づいて駐留している以上、憲法に違反するとの説と、
9条2項は我が国が戦力を保持することを禁じているだけであり、我が国に指揮監督権のない外国の軍隊が駐留することは違憲ではないとの説
が対立している。

判例では、いわゆる砂川事件第一審判決が①説の立場をとって、合衆国軍隊の駐留は憲法上、許すべからざるものとしたが、国の飛躍上告を受けた最高裁は②説をとり、外国の軍隊は9条2項にいう戦力にあたらないとしている。
もっとも、最高裁は、安保条約が違憲か否かという判断については、この条約の高度の政治性を理由に、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの」であるとし、結論としてその判断は司法審査の範囲外にあるとした。

集団的自衛権

なお、政府の解釈によれば、憲法9条は個別的自衛権の行使のみを許すもので、日本と密接な関係にある他国が武力攻撃を受けた場合、それを日本への攻撃とみなして共同して防衛にあたる集団的自衛権については、日本を防衛するための必要最小限度の実力行使の範囲を超えるものとして、憲法により禁じられている(国会の憲法論議Ⅰ 698-704頁)。
従って北大西洋条約機構(NATO)に見られるような地域的安全保障体制に参加することや、湾岸戦争に見られたような多国籍軍に参加することは憲法に違反することになる。
いわゆる周辺事態(「我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」)に対応して日本政府が実施する措置等を定め、日米安保条約の効果的な運用への寄与を図ることを目的とする周辺事態法も、日本政府がアメリカ合衆国軍に対して行う支援や捜索救助活動等を直接戦闘行為が行われることのない「後方地域」に限り、また、支援の一環としての「物品の提供」は弾薬等の「武器の提供」を含まないものとしている。

【砂川事件】
1957年7月、アメリカ駐留軍使用の立川飛行場の拡張に反対する学生、労働組合員らの一部が境界柵を数十メートルにわたって破壊した。
それに加わった被告人らは、正当な事由がないのに飛行場内に4.5メートルにわたって立ち入ったとして、日米安保条約に基づく刑事特別法違反の罪で起訴された。
第一審の東京地方裁判所は、「わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容していることは、指揮権の有無、合衆国軍隊の出動義務の有無に拘らず、日本国憲法9条2項前段によって禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当する」とし、安保条約に基づいて合衆国軍隊の施設をとくに厚く保護する刑事特別法には合理的な理由がなく、憲法31条に反するとして、無罪の判決を下した(東京地判昭和34.3.30下刑集1巻3号776頁)。

検察側の飛躍上告を受けた最高裁は、安全保障条約は「主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有するものというべきであって」、その内容が「違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的判断に委ねられるべき」であるとしたうえで、わが国が指揮権、管理権を行使し得ない外国の軍隊は、憲法9条2項で保持を禁止された軍隊にはあたらないため、安保条約が違憲無効であることが一見極めて明白に違憲無効であるとは「到底認められない」とした(最大判昭和34.12.16刑集13巻13号3225頁)。

◇3.2.4  「交戦権」の否認



交戦権とは

さらに、2項後段で否認されている「交戦権」が何を意味するかが争われている。
戦争をする権利そのものを意味するとの説もあるが、国際法上、交戦国に認められている諸権利、すなわち、占領地の行政権、船舶の臨検・拿捕権、あるいは敵の兵力を兵器で殺傷する権利などをいうとする説がより多数の支持を得ている。

たとえ戦争をする権利そのものが存在するとしても、その権利は結局は交戦国に認められる諸権利に還元されるはずであり、両説を区別する意義は明らかでない。
なお、自衛のための武力ないし実力の行使を認める立場からすれば、自衛のためには交戦国に認められる諸権利としての交戦権も認められるといわざるを得ないはずである。
敵兵を殺傷する権利なしに、実力によって自衛することは不可能であろう。


◆3.3  公共財の提供と国民主権


日本国憲法9条の法的性格をいかに考えるか、9条と自衛隊、安保条約との関係をどう考えるかは、単なる条文の字義の解釈にとどまらず、より根本的な問題についての立場の違いによるところが大きい。

公共財としての防衛サービス

防衛は、近代立憲主義の建前をとるか否かにかかわらず、ほとんどの国家がその任務の一つとしてきたものである。
なぜだろうか。
モノに限らず、サービスについても、通常は、市場において自由な取引がされ、サービスを求める人は、市場で代金と引換えにそれを手に入れる。
しかし、外敵の侵入から自己の生命・財産を守るための防衛サービスは、典型的な公共財であり、市場で手に入れることが難しい。

公共財を適切に供給するための一つの解決策は、市場ではなく、国家が防衛サービスを提供することとし、その費用は「税金」として住民全員から公平に、しかし強制的に徴収する方法である。
歴史的に見るとこの解決策が一般的に採用されてきた。
さまざまな公共財の供給は政府が実現すべき「公共の福祉」の典型例である。

防衛サービスの民主的決定

この場合、問題は、どの程度の防衛サービスを国が提供し、それに対応してどの程度の費用を国民が負担すべきかである。
市場であれば、各消費者が自分の好きなだけのサービスを自分の支払いたいだけ購入することができるが、公共財の場合はそれが不可能である。
そこで代わりに、国政の最終的な決定権者である国民が、防衛サービスの量と費用負担について、投票で決定することになり、それが困難であれば、国民の代表である議会がそれを決定する。
このような判断は、時々刻々と変化する国際情勢や技術の進展を考慮しながら、その都度、行っていく必要があろう。
砂川事件上告審判決(前掲最大判昭和34.12.16)や長沼事件控訴審判決(後掲札幌高判昭和51.8.5)が、防衛問題は、第一次的には国会や内閣、そして最終的には主権者たる国民が決定すべき問題だとしているのも、上述の議論と同じ趣旨のものと理解できる。

また、この考え方を推し進めれば、およそ憲法によって防衛のあり方を極度に限定すべきではなく、いわんや自国の軍備の保有を禁ずることは非現実的だということになる。
憲法によって軍備を限定すること、とくに日本のような極めて硬性の憲法によってそうすることは、制定時における国際情勢や技術に基づく判断によって、将来における防衛サービス提供に関する主権者の決定を拘束することになる。
9条を単なる政治的マニフェストとして扱おうとする人々は、このような懸念を前提にしていると考えられる。
従って、9条の定める理想は理想として尊重するが、現実には、その時々の情勢判断によって、保持する軍備の水準、同盟を組む相手国等を、それらが全体として日本を危険にするか安全にするか、安全にするとしても如何なるコストにおいてか等を勘案しながら決定していくしかない。

自衛権

なお、あらゆる国家には、国外からの急迫不正な侵害に対して自国を防衛するために必要な限度で武力を行使する、固有の「自衛権」なるものがあるといわれることもある。
前述した日本政府の見解(3.2.3)も、このような前提に立っている。
戦争放棄の宣言は、放棄する主体の存在と維持を前提とするものであるから、戦争放棄の宣言自体が、自衛権の存在を前提としているという議論は、一見したところもっともらしい。

しかしながら、個人の場合には、確かにその生命・身体・財産に対する急迫不正の侵害に対し実力を持って防衛する権利があるといい得るであろうが、国家は、1.1.2 で述べたとおり、それ自体としては約束事に基づく抽象的な存在に過ぎず、それに固有の自衛権があるという議論はさほど説得力のあるものではない。

【長沼事件】
北海道夕張郡長沼町に航空自衛隊のミサイル施設を設けることになり、農林大臣が森林法による、当該地域の保安林指定の解除を行ったため、原告ら地元住民がこの処分の取消を求める訴訟を提起した。

第一審の札幌地方裁判所は、自衛隊の設置は、自衛のためのものを含めて一切の戦力の保持を禁じた憲法9条2項に違反し、無効であるとした(札幌地判昭和48.9.7判時712号24頁)。
これに対し、控訴審の札幌高等裁判所は、憲法9条が自衛のための軍隊の保持を禁じているか否かは一義的に明確ではないとし、また自衛隊の組織、編成、装備が自衛のためのものでなく、侵略的なものであるかも一見極めて明白ではないとして、砂川事件上告審判決と同様の一見明白説に基づいてこの点の判断を避けた(札幌高判昭和51.8.5行集27巻8号1175頁)。
上告審で最高裁判所は、本件については訴えの利益が失われたとして、自衛隊の合憲性の問題には触れないまま上告を棄却している(最判昭和57.9.9民集36巻9号1679頁)。

【百里基地訴訟】
茨城県小川町にある航空自衛隊百里基地の予定地に土地を所有していた原告(X)は、基地反対派の住民(Y)との間で土地の売買契約を結んだが、Yは内金を支払っただけで支払い期限を過ぎても残代金を支払わなかった。
そこでXは、この土地を国に売り、Yに対しては契約の解除を主張し、所有権移転仮登記の末梢等を請求した。
Yは、契約の解除およびXから国への売買契約の効力を否定し、Xと国に対して所有権の確認を求める反訴を提起した。

第一審の水戸地方裁判所は、憲法9条は自衛のための戦力の保持を禁止していないとの前提に立ったうえで、自衛隊が同条によって保持を禁止されている侵略目的の「戦力」にあたるか否かの判断は、高度の政治的、技術的、専門的判断であるから、「一見極めて明白に違憲無効であると認められないかぎり、司法審査の対象とはなりえない」とし、結論としては、一見極めて明白に違憲無効ではなく、司法審査に親しまないとした(水戸地判昭和52.2.17判時842号22頁)。
上告審判決については、5.4.1 (2) 【百里基地訴訟】を参照。


◆3.4  民主主義の限界と憲法


公共財の供給のあり方について、主権者たる国民あるいはその代表が決定すべきだという以上の議論は、幾つかの前提のうえに成り立っている。

民主的決定の条件

第一に、 決定に参加する国民や代表は、市場での態度とは異なり、各自の私的利益ではなく、社会全体の利益を念頭に置いて審議・採決に参加すべきである。
さもなければ、せいぜい市場と同じ結果しか期待できない。
第二に、 国民や代表は、必要な情報をSべて正確に知り、冷静かつ合理的に社会全体の利益を計算したうえで、採決に加わるべきである。
第三に、 採決の結果は、政府諸機関により、スムーズに、忠実に執行されなければならない。
第四に、 下された決定は、国民の「人権」を侵害するものであってはならない。

これらの条件は、通常、満足されているであろうか。
もちろん完璧な形で満足されることを要求することは非現実的である。
多少、不完全であっても、さほど大きなコストを支払わずに民主主義が運営されているならば、その結果は主権者あるいはその代表の決定として尊重し、人権が侵害されている場合に限り、裁判所を通じて救済を与えれば足りる。

決定枠の限定

しかし、こと防衛に関する限り、民主政の欠陥はあまりにも深刻であり、失敗のコストが過大であるため、何等かの形で決定の幅自体を最初から限定しようとする立場も成り立つ。

第一に、 国民あるいは国会議員でさえも、防衛に関する情報を多くは知らされないことが通常である。
防衛に関する情報を全て公開すれば、国の安全を損なうのは確かである。
しかし、情報が限定されるなら、国民あるいは議会が的確な判断を下す能力も限定される。
第二に、 防衛に携わる政府機関が、果たして社会全体の利益を念頭にして政策の立案や執行にあたるかという疑いがある。
防衛組織は、いったん出来あがると、自己の組織の最大化や取引先ないし天下り先の利潤最大化を目指して、公開する情報の種類や国民に提示する選択肢の幅を操作するおそれがあることは否定し難い。
第三に、 国の安全に関する決定は、誤りを犯した場合、人命・財産等について膨大な犠牲を国民全体に課する。
正確な情報や冷静な計算能力を欠いた国民や国会議員が、一時の民族感情や根拠のない幻想に突き動かされて決定を行う場合にその危険が大きい。

そして、膨大なコストを要する軍備の維持は、多くの人々の情緒に即した「わかりやすい」正当化を要求する傾向がある。
とくに強力な殺傷力を持つ大量破壊兵器は、それに見合った仮想敵国の存在を求めるし、敵国が強力な殺傷力を加えられるに値するほど「邪悪」であるとの想定を要求しがちである。
戦争を一定の実定的ルールに即して正規軍同士が争う国家間のゲームとして捉える「無差別戦争観」が一般的であった近代ヨーロッパ社会と異なり、「正しい戦争」と「違法な戦争」とを区別する現代の戦争観(「正戦論」といわれる)は、この種の道徳感情を煽る危険がある。
国際政治の世界に道徳感情が過度に入り込むと、理性的な防衛サービスの維持と執行はさらに難しくなる。

以上のような危険を避けるために、その時々の多数派によっては動かし得ない政策決定の枠を憲法によって設定して措くことは、合理的な対処の一つである。

各国の合理性と国際社会の非合理性

たとえ、以上の問題が解決され民主政治が理想的に機能したとしても、なお問題は残る。
国内政治のレベルで、個人のイニシァティヴでは防衛という公共財を適切に供給し得ないという問題が、国際社会においては、ちょうど逆転した形で現れるからである。
国際社会全体としては、軍備を削減し、戦争の危険を少なくすることが、すべての人の利益にかなうはずであるが、各国政府は、他国が軍備を拡張し自国が弱い立場に置かれることを恐れて、軍拡競争に走る傾向がある。
個々の国にとっての「合理的」な行動が、国際社会全体として非合理的な軍拡競争をもたらす危険に対処する一つの方法は、各国が憲法によって軍備拡張の余地をあらかじめ限定することであろう。

9条の意義

以上のような議論を前提とすれば、国の保有し得る軍備を限定すること、あるいはさらに推し進めて、「戦力」と言い得る組織の保持を禁止する主張が現れることも不思議ではない。
そして、主権者たる国民の決定権を縛ることに憲法9条の意義があると考える以上、主権者意思に基づく憲法の「変遷」や、高度の政治性ゆえの「主権者の決定権」を持ち出すことは、こと9条に関する限りそもそも不適切だということになる。
国民を代表する国会やそれに政治責任を負う内閣が、そのことを理由に憲法9条の拘束を免れることも当然できない(長谷部 [2004])。

もちろんこのように軍備を限定する立場をとる場合には、さらに、いかにして理想とは程遠い現在の世界においてなおかつ平和を確保し得るかについて積極的な政策提言を行う必要があろう。
多国間で軍備を相互に削減し、武器輸出を抑制し、経済的協力関係や文化的交流を強化して、できる限り軍備によらずに国際平和を維持する枠組みを作り出す構想はその一つである。


◆3.5  平和的生存権


平和的生存権

他方、軍備によって国を防衛しようとすること自体が、国民の「人権」を侵害するため許されないとの主張も見られる。
「平和的生存権」がそれである。
この議論によれば、9条の要請する非武装平和主義は、憲法前文にいう「平和のうちに生存する権利」を制度面で保障するものである。
従って、国が軍備を保持することは9条に反するため憲法違反であるだけでなく、さらに、それが許されない根底的な理由は、人権たる平和的生存権を侵害する点にある。

問題はそこでいわれている「人権」という言葉の意味である。
もしこの言葉を「切り札」としての人権という強い意味に受け取るとすると、社会全体の利益を理由としてこのような人権を侵害することが許されない以上、3.3、3.4で述べたような政策的な計算をするまでもなく、軍備の保持は違憲であるし、人権を守るべき裁判所は、防衛問題についても積極的に違憲判断をすべきことになる(5.2.3 参照)。

長沼事件の第一審判決は、平和的生存権が、森林法における保安林制度の保護法益であり、住民の訴えの利益を基礎づけるとしたが(前掲札幌地判昭和48.9.7)、同事件の控訴審判決は、この権利が「裁判規範として、なんら現実的、個別的内容をもつものとして具体化されているものではない」とした(前掲行集27巻1193頁)。

平和的生存権論の難点

平和的生存権にはさまざまな反論が予想される。
自然状態で暮らしていた人々が公共財の適切な享受を求めて国家を建設する際、典型的な公共財といえる防衛サービスの供給を全面的に禁止するとは俄かに想定しにくい。
平和のうちに生存する権利は、逆に適切な軍備の保持への要請を正当化するとも考えられる。

確かに、核兵器の脅威に曝された現代では、軍備を保有すること自体が戦争と人類絶滅の危険を増大させるという議論は説得的である。
大量破壊兵器の貯蔵・配備の均衡によって長期的に平和を維持するという考え方は余程、冒険心に富んだ危険愛好者しか真面目に受け取りにくい。
また旧ソ連を含む東欧諸国が民主化し、東西の融和のすすむ今日が軍縮の大きなチャンスを提供していることも見逃すべきではない。

しかし、一国のみが通常兵器を含めて軍備を全面的に放棄してしまえば、他国は軍縮へのイニシァティヴを失ううえに、侵略によって得られる期待利益を増大させることになり、非武装によって生じた力の空白は、逆に周辺地域を含めて不安定化し、武力紛争の危険をもたらす危険がある。
冷戦が終結した後も、民族対立、宗教対立による地域紛争の危険は残っている。
いかなる個人、民族も、他国を含めた周辺地域の平和を危うくしてまで軍備を全面放棄する権利は有していないのではなかろうか。
逆の言い方をすると、通常兵器の一方的即時全廃を可能にするほど周辺諸国の国内政治および国際政治について楽観的であり得るのであれば、戦争の放棄や軍備の廃棄はさして重要な課題とはいえなくなるはずである。

現実には平和の維持も国民の生命・財産の保全も困難であるにも拘わらず、それでもなお軍備を全廃すべきであるとの主張の背後にあるのが、それが人としての「善い生き方」だからという前提があるのだとすれば、多元的な価値観が相克するこの社会において、そうした特定の「善い生き方」をすべての国民に強いることは、日本国憲法の拠って立つ立憲主義と両立し難い(長谷部 [2004])。

世界全体の究極的な平和という理想を達成するためには、理想を目指す情熱とともに冷徹な状況判断と計算の能力が必要となる。
3.3 および 3.4 で描かれたような政策判断を「人権」の観念によって遮断することが適切であるとは考えにくい。
憲法上の権利として「平和的生存権」を観念する余地があるとしても、それはあらゆる人に生まれながらにして認められる権利ではなく、平和の維持という社会全体の利益を実現するために憲法によってとくに認められた権利であり、従ってこの平和の維持をはじめとする重要な社会的利益によって制約され得る権利として捉えられるべきであろう。

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