第2章 現行憲法制定の法理

阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論   第2章 現行憲法制定の法理    本文 p.115以下

<目次>

■1.大日本帝国憲法の制定とその特質


[76] (1) 明治維新と大日本帝国憲法の制定


明治維新は、復古の名のもとで国民国家を樹立した(「維新」は、グローバル・スタンダードでいえば、市民革命または王政復古のいずれかである。明治維新は市民革命ではない、と私はみている。我が国の維新期の指導者たちが「国民国家」を市民革命によらずして樹立したことこそ、まさに、革命だった)。
国民国家の樹立は、それまでの藩体制(日本版等族国家)を否定し中央政府を作り上げることから始まった(そのための施策としては、廃藩置県が最重要だった。これによって初めて、国民国家の基礎である租税徴収体制を全国一律に張り巡らせることが可能となったのだ)。

議会の開設を約束した明治政府の課題は、何よりも国制(憲法)を整備することにあった。
先進国における憲法事情調査のために、伊藤博文等の憲法調査団が、明治15年、ヨーロッパに派遣された。
伊藤等は、主としてプロイセン、オーストリアにおいて、憲法を制定することの意義についてL. シュタインやグナイスト等から修得して帰国した。
憲法制定の狙いは、復古の体制を堅固とすることにあり、そのために、まず、貴族院への布石として華族令が(明治17年)、内閣への布石として内閣官制が制定された(明治22年)。
憲法典の起草に着手されたのは明治19年になってからだった。

[76続き] (2) 明治憲法の特質


憲法典を起草するにあたっては、プロイセンの範に倣って、
(ア) 欽定憲法とすること、
(イ) 漸進的性格とすること、
(ウ) 議会の権限を希釈すること、
(エ) 天皇の地位を不可侵とすること、
等が前提とされていた。
が、プロイセン憲法とは別の特異さも準備された。

明治維新が復古の形式をとった関係上、大日本帝国憲法(以下、「明治憲法」という)は、「国体」を宣言することを目的とした。
「国体」とは、発布勅語にいう「祖宗ノ遺烈ヲ承ケ」た主権(統治権および制憲権)が天皇に帰属することのみならず、天皇家や天皇の身体について国民またはその代表者が容喙すべきでないことを意味した。
そこでまず明治憲法は、その告文で、「皇室典範及憲法ヲ制定」する目的は「皇祖皇宗ノ後裔ニ胎シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スル」ことにある点が明らかにされた(平易にいえば、「先祖代々と天皇の子孫に伝えられた統治の手本を受け継ぎ、これによる」こと)。
続いて、発布勅語に、「朕カ祖宗ニ承クルノ大権」という天照大神にまで遡る神勅による制憲権を謳ったうえで、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)と定めた。
神権主義的天皇制の採用である。
また、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(3条)との定めは、天皇の政治的・刑事的無答責のみならず、不敬の禁止、廃立の禁止を含意していた。

これらは後知恵からいえば、西洋の王権神授説を遥かに超えた、自らを神としようとする選択を近代憲法の中で敢えて謳う無謀な国制だった。
しかしながら、当時の指導者の立場に立ったとき、それは国民国家を人為的に樹立するためには止むを得ざる選択だったように思われる。
とはいえ、その神秘的色合いが、皇室による無数の神道儀式、教育勅語、軍人勅諭、戦陣訓等々、憲法周辺のプラクティスの中で次第に増幅されてしまった。
この点が現行の憲法と比較されたとき、負の部分として浮かび上がり、「昭和維新」以後、民主主義論者による批判の対象となった。

現行憲法との比較や後知恵の助けなしに明治憲法をみたとき、それは誕生したばかりの国民国家に立憲主義を平和裡に植え付けたのであり、まさに革命的な事柄だった。
このことは、フランス革命やアメリカ革命が流血の惨事を掻い潜った後に立憲主義を誕生させたことと対照すればよく分かるだろう。

「明治憲法が立憲主義を我が国に植え付けた」といっても、それは、立憲君主制を限定的に採用したことを指す。
立憲主義よりも国体を優先させる憲法は西洋の立憲君主制からはズレていた。
明治憲法は、近代立憲主義の核心である法の支配、権力分立、さらには「行政の法律適合性原則」等の理論を、理論どおりには実現しなかった。
そのことを以って後世は、明治憲法典が「外見的」立憲主義を採用したにとどまった、と評価することになる。

明治憲法が立憲君主制的な色合いを持っていることは、
天皇は統治権の総攬者であること(4条)、
天皇は議会の協賛をもって立法権を行使し(5条)、法律の裁可権を有すること(6条)、
天皇の輔弼機関として大臣が置かれること(55条)、
憲法典の明文保障する基本権を制約するには「法律の留保(*注1)」原則を満たさねばならないが、それ以外の利益は勅令や命令により得るとされていること、
に典型的に表れている([56]もみよ)。

ところがそれでも、明治憲法における立憲君主制の基調は、憲法発布勅語にみられるように、「此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ」統治することを約する「主権者の自己拘束の理論」にあった。
そればかりか、告文や発布勅語にみられる神権主義は、立憲君主制にも、西洋の王権神授的絶対主義にもみられない要素だった。

(*注1)法律の留保の意義について
法律の留保といわれるものにも、ふたつの用法がある。
第一は、本文に述べた用法である。
第二は、“基本権は法律の範囲内で保障される”という用法である。
後者においては、この言葉が基本権規定に使われているとき、“議会は法律によって基本権を制限できる”ことを意味している。

[77] (3) 明治憲法の病理


「此ノ憲法ノ条章」の間隙に現れたのが「統帥権の独立」というマジカル・タームだった。
明治憲法は、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(11条)と定めていた。
統帥事項は、陸海軍の編成・兵額の決定(12条)とは違って、議会や内閣の関与を許さない事項だ、との解釈が幅を利かせ、ガン細胞のごとく増殖し、日本という国を蝕んでいったのである。
その病巣は、明治憲法の抱えていた神権主義的憲法観が立憲君主制思想に打ち勝つうちに、ますます転移していった。
それが、我が国特有の「国体」護持として、太平洋戦争の敗戦後まで国家の哲学とされてしまった。


■2.明治憲法から新憲法へ


[77] (1) 全面改正までの経緯


アメリカ、イギリス、ソ連、中国が発したポツダム宣言は、「平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府」が「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ」樹立されること(12項)、その実現まで占領軍が支配力をもち、日本国の独立性は否定されること、等を明らかにしていた。
日本政府は、同宣言が「国体」の変更まで要求していないことを確認しようとしたものの、連合国側の拒否を受けたまま、昭和20年8月14日、同宣言を受諾した。
この受諾は、決して無条件降伏の承認ではなかった。
にもかかわらず、連合軍による日本の占領が開始された後、無条件降伏であることが前提了解であったかのように、占領政策が進められた。

占領政策の最重要課題が明治憲法の「改正」だった。
連合軍最高司令官D. マッカーサーは、ポツダム宣言にいう「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従」う、民主的な憲法制定を当時の幣原内閣に指示した。
松本蒸治を委員長とする憲法問題調査委員会が憲法の改正作業に入った。
同調査会は、国体に変更を加えない方針だった。
これを知った連合国軍総司令部は、
(ア) 元首たる地位におかれる天皇の権限は、憲法に基づいて行使されること、
(イ) 国家の主権的権利としての戦争を、紛争解決のためであれ自衛のためであれ、放棄すること、
(ウ) 日本の封建制を廃止し、予算のタイプを英国の制度に倣うこと、
の三原則を内閣に示した。
「マッカーサー三原則」である。

マッカーサーは総司令部民生局に憲法草案の検討を命じ、9日間で作成された「マッカーサー草案」が昭和21年2月に政府に提示された。
これを拒絶することは許されない雰囲気のなかで、政府はこれを基礎にして憲法改正草案要綱を作成した(昭和21年3月)。
同要綱に若干の修正を加えた帝国憲法改正案が、枢密顧問の諮詢を経て、明治憲法73条所定の改正手続に従って第90帝国議会に附議された(昭和21年6月)。
その際の勅書は、「朕・・・・・・国民の自由に表明した意思による憲法の全面改正を意図し、・・・・・・」と述べた(頭点は阪本)。
この全面改正案は、衆議院による若干の修正の後可決され、貴族院によっても若干の修正のうえ可決された後、枢密顧問の諮詢さらに天皇の裁可を経て、公式令3条により、日本国憲法として昭和21年11月3日に公布された(施行は昭和22年5月3日)。

[78] (2) 「改正」論争


このように、日本国憲法は、明治憲法73条の改正手続に従って、国家における主権(制憲権)の所在を天皇から国民へと転換せしめた。
これは、改正という名のもとでの新憲法の制定であっただけに、“法理上、あり得ない事態ではなかったか?”との疑問が生じてくる。
これが、先に憲法改正の限界を論じた際にふれた、制憲権と改正権との繋がり如何、という論点である(⇒[46])。
今日まで日本国憲法の素性の正当性に疑問を抱く人たちがいるのは、日本国憲法が「明治憲法の改正」として成立したこの事情も絡んでいる。

上のような日本国憲法「制定」の経緯は、通説的な憲法改正限界説に立つとき、一貫性をもって解明することは困難である。
通説的な憲法改正限界説は、《改正権は制憲権に変更を加えられない》という前提に出ることは既にふれた(⇒[46])。
そうなると、明治憲法の「改正」手続で国家の根本構造を変更することは法理上不能だ、ということになる。
しかし、だからといって、“改正権の限界を超えて制定された日本国憲法は無効だ”と結論することは避けたい(無効だ、と主張する少数説もないわけではない)。
そう考えた論者は、国家の根本構造が変わったという契機を明治憲法の改正という国内の事情に求めないで、ポツダム宣言の受諾という国際的な事情に求めた。
つまり、同宣言の受諾にあたって寄せられた連合国の回答(バーンズ回答)にいう「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ依リ決定セラルヘキモノ」との条件を日本国が受諾した時点で(昭和20年8月11日)、“我が国は国民主権へと主権原理を転換していたのだ”というわけである。
この説の提唱者は、これを「8月革命」と名付けた。

8月革命説は、数々の弱点を持っていた。
たとえば、ポツダム宣言とそれに基づく降伏文書のごとき国際法上の法文書が国内における主権の転換をもたらすことはあり得ないはずだった。
が、それでも、改正限界説を前提とする限り、これ以外に説得的な論理がなかったために8月革命説は世に受け入れられていったようだ。
憲法改正無限界説にでる論者であれば、欽定から民定へと制憲権帰属をまったく異にする新たな憲法が「改正」によって誕生すると説くことは、容易なはずだった。
実際、ある学者は、“日本国憲法は明治憲法の改正によって成立した欽定憲法だ”と論じてみせた。
ところが、学界では、主権在民を謳う新憲法(民定憲法)護持の立場が圧倒的で、改正無限界説からの分析は精緻にされることはなかった。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


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最終更新:2013年03月23日 21:50