第12章 議院内閣制

阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第12章 議院内閣制    本文 p.83以下

<目次>

■1.権力分立のなかの議院内閣制


[59] (1) 連携か分立か


“日本国憲法は議院内閣制を採用している”といわれ続けてきたために、「そうに違いない」と我々は信じてきた。
それと同時に、“日本国憲法は権力分立制を採用している”とも教示されて、「そうに違いない」とも信じてきた。

ところが、権力分立制を「完全分離論」で理解したとき、上のふたつの命題が両立するのか、疑問を抱いて当然だ。
また、権力分立を“議会(国会)と執政府(内閣)との間に抑制と均衡をもたせることだ”と理解するとしても、内閣が国会の信任に依存する議院内閣制は権力分立とどうもしっくりこない、と薄々感じざるを得ない。
なぜなら、国会の多数派から内閣総理大臣のみならず、多数の閣僚が選出される制度は、国会と内閣との連携関係をくっきりと浮かび上がらせるからだ。
そればかりでなく、現実の我が国の統治過程をみたときには、内閣が議会の信任に依存するのではなく、議会が内閣に指導されているようにもみえる。

さらに現実をみれば、先の第11章でもみたように、内閣は議会制定法に従いながらそれを執行する「行政」部門ではなく、官僚団を従えながら法律案を作成し、国家の基本方針を模索し、予算を作成し、外交関係を舵取りしていく・・・・・・国政の最高機関のようだ。

ひょっとすると、現実が理論から外れているのかも知れない。
が、その現実は、短期間、我が国だけに現れた例外現象でもなさそうだ。
議院内閣制の母国といわれるイギリスにおいても、強力なリーダーシップを発揮する首相のもとで、国会(野党)が事後的な監督作用に専心しているかのようである。
国会の多数派が内閣の構成員を送り出そうとするとき、彼らは多数派のリーダーたちを選出するだろう。
そうなると、〔議会-その多数派-内閣〕という連携が生まれるに違いない。
この三者の連携におけるリーダーシップの序列は、〔内閣>その多数派>議会〕となるだろう。
このイギリスにおける統治の実態は、「議会中心の統治」と称するより「内閣主導型統治」あるいは「首相指導型」というほうが適切である。

議会と内閣の上のような関係は、果たして権力分立なのか、はたまた、議会を中心とする統治= parliamentary government であるのか?
議院内閣制の真の意味を知ることは、予想以上に難題のようだ。

[60] (2) 議院内閣制の歴史的展開


“議院内閣制は、行政権を民主的にコントロールしようとしてイギリスに産まれた”とよくいわれる。
ところがこの説明は、ふたつの不正確な部分を残している。
第一に、 イギリスで誕生したのは憲法上の制度ではなく、統治の慣行としてだったという点である。
第二に、 民主的にコントロールしようとした相手方は、内閣ではなく、官僚団だった点である(厳密な意味での「行政」部門を民主的部門が統制しようとしたのだ)。
つまり、
君主を「尊厳の部分」に置くことが確固とした国制となり、しかも、
〔国民→議会→内閣〕という民主的な垂直的な関係が国制の慣行となった次の課題が、
非公選部門でありながら情報と権限を蓄積しつつあった官僚団をいかに民主的に統制するか、であった。
そのための慣行が、《政と官とは分離されておりながら、政が官に優位する》という規範となった。
これが parliamentary government (※注釈:議会政治)である。


■2.議院内閣制の合理化


[60続き] (1) 大陸の動き


議会中心の統治を憲法に制度化しようとしたのは民主主義を渇望してきた大陸においてだった(⇒[53])。
大陸においては、長い二元的統治の歴史があった。
二元的統治とは、国家のなかに君主と等族という、ふたつの「国家内国家」が存在したことをいう。
もし「君主-議会」というふたつの国家機関が存在するとすれば、統治を安定させない二元的統治が再び演じられるだろう。
君主は「われが血筋または伝統の力によって最高機関である」といい、議会は「われは国民の代表機関であるが故に最高機関である」というだろうから。
これを避けるためには、君主と議会との間にあって、両者の蝶番(ちょうつがい)となる機関を置けばいい。
君主に対しては議会の声を伝え、議会に対しては君主の意思を伝える導管役である。
この役が大臣団、後の政府または内閣である。

ちょうど歴史は、立憲君主制にまで到達していた。
立憲君主制は、《大臣を置かなければならない政治体制》である。
それは、すべての国家権力の源泉を君主に帰属せしめながらも、君主を無答責とするために大臣が助言する体制だった。
大臣助言制における責任は法的なそれであり、大臣の法的責任を追及するために議会の用いた手段が弾劾裁判だった(この法的責任追及によって法治国が完成した、といわれることもあった。が、責任の構成要件は曖昧だった)。

[60続き2] (2) 法的責任から政治的責任へ


その後、議会勢力が次第に優勢となるにつれ、“君主こそすべての国家権力の源泉だ”との主張はもはや通用しなくなる。
立憲君主制は、議会が立法の中心部分を担当する、という権力分立構想に歩み寄ることを余儀なくされたのだ。
そのため、立憲君主制を採用する憲法は、立法権を君主と議会とが共同行使する、という手続を組み入れた。
そればかりでなく、執政権の中心部分は大臣団(政府)に移行し、これが憲法上の正式機関としての地位も得た。

ここに、権力分立構造における機関のひとつとして、内閣が誕生したのだ。
この新たな誕生物は、議会と対等な地位を占めると主張することによって、議会の優越性を否定するイデオロギッシュな働きもした。

憲法上の正式機関として内閣が誕生したことで、ふたつの変化が現れた。

第一は、 君主権限が内閣の執政権によって控除されて「中性的権力」へと限定されていったことだ。
「中性的権力」とは、国家諸機関間の憲法抗争を最終的に調整・中和する君主権限である。
大臣の任命権、議会召集権、民選儀院の解散権、恩赦権等の調整権がこれである。
これらの調整権限がさらに形式化・儀式化されたときの主体は「元首」と呼ばれることがある。
第二は、 大臣の責任の性質が変化したことだ。
上にふれたように、大臣助言制のもとでの責任は、もともと法的責任であり、議会による追及方法が弾劾裁判だった。
大臣の守備範囲が広くなるにつれて、議会は政治的な責任を問い始めた。
そうなると、大臣訴追や弾劾制の方法は後退し、それに代わって、内閣の活動は議会の統治の基本方針と食い違ってはいないか、という政治責任追及の方向が望まれた。
議会は「内閣が議会の統治の基本方針から明らかに逸れている」と判断したとき、議会は内閣の政治責任を問う、弾劾権とは別の武器を持とうとした。

このふたつの政治的な展開が、議院内閣制を憲法上設計する際の参考とされた。

[60続き3] (3) 統治方針一致原則の固定化


議会と内閣との間に、統治方針の一致原則を恒常的に維持するにはどうすればいいか?
政治の成り行きに任せて慣行が出来上がるのを待つことでは、この一致原則は心許なくなる。
一致原則を憲法上の制度として取り込むことだ。
「政治過程から法的過程へ」固定化すればよい。
この選択は「議院内閣制の合理化」と呼ばれることがある。

統治の基本方針を一致させるという原則を憲法に制度として固定するにはどうすればよいか?
選択肢はふたつだ。
ひとつは、 “内閣(または大臣)は、恒常的に議会の信任に依存する”と規定することだ。
他のひとつは、 “議会が格別に責任を追及しようとしないときには内閣は信任を受けているものとみなされるが、統治方針一致原則は破綻したと議会が判断したとき、内閣は政治責任を正式に追及され、場合によっては辞職しなければならない”と規定することだ。

制度の真価は、危機の際に発揮されるのが世の常である。
ということは、憲法上制度化されるにあたって最重視されたのが、後者の方法である(但し、ある憲法が“議院内閣制を採用する”と明文で述べることはない)。
もっとも、後者に従うとしても、“議会と対立したときは、内閣は辞職すべし”との議会の判定だけが決め手だとされれば、内閣はあたかも議会の中の委員会の如くなってしまうだろう(このタイプは、「議会統治制」とか「議会主義」と呼ばれ、議院内閣制とは区別される)。
そうならないためには、内閣または大臣が議会に対抗する武器を持たなければならない。
その武器が《君主・元首への副署権を通して、君主・元首の持っている中性権(調整権)としての議会解散権に訴えること》だ。
《連携せよ、さもなくば抑制し合え、然らば新たな均衡がもたらされよう》というわけだ([52]と比較せよ)。


■3.議院内閣制の特質


[61] (1) 権力分立の変形


このように、議院内閣制は、権力分立の変種となるよう、設計主義のもとで抽象理論として大陸に登場した。
権力分立と同じように、憲法に取り込まれるとき、当該国家の歴史と政治状況のなかで「変容」させられた。
議院内閣制の実態が、国によって大いに異なるのはそのためだ。
そのことは承知のうえで、議院内閣制の特質をまとめるとすれば、次のようになる。
第一は、 権力分立の一態様だ、という点である。
確かに、議院内閣制は、執政府と議会との協働体制であって「分立」の形跡すらないではないか、との疑問が生ずる。
しかし、議院内閣制は、議会も、政府(内閣)も、憲法上はそれぞれ独立したひとつの機関であるという点で、議会に権力を集中する、先にふれた「議会統治制」ではない。
そしてまた、次にふれるように、協働の体制ばかりではないのだ。
第二は、 権力分立の一態様であることの証左として、執政府と議会とが抑制の関係におかれている点である。
これが、上で既にふれた、「議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による(元首の調整権を通しての)議会解散権」である。
この解散または辞職によって、再び、議会と執政府との間の統治方針一致原則を取り戻そうというのである。
第三は、 執政府が二元構造となっており、内閣は議会および君主の双方に責任を負う点である。
但し、歴史の流れを振り返ったとき、元首または(および)大統領が君主に取って代わったことが多く、二元構造も変わってきた。
なかでも、内閣とは別に、公選にかかる大統領が存在する場合、大統領は解散権を発動し、選挙民の選挙を通して、議会と執政府との間の統治方針一致原則を回復しようとすることがある(この点が、アメリカの大統領制との違いである。確かに、アメリカにおいても「内閣」は存在するが、それはあくまで大統領への諮問機関である。また、アメリカの大統領は議会の解散権を持たない)。
特に、大統領が均衡の回復起点を選挙民の投票に委ねるとき、国民が主役となり、大統領の調整(解散)権は二次的な意味しか持たなくなった。

上の第三の特徴に留意したとき、議院内閣制は、権力分立の場合と似て(⇒[58])、〔国民-議会-大統領〕という構造のなかで捉え直されるべきだろう。
それでもなお、治者と被治者の分離が厳然たる事実であることを軽視しないとなると、治者の中での〔議会-内閣・大統領〕の関係こそ決定的な意味をもっている。

[61続き] (2) 責任か均衡か


〔議会-内閣・大統領〕という決定的な局面で、「これぞ議院内閣制の本質を表す要素だ」といえるのが、先にふれた〔議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による(元首の調整権を通しての)議会解散権〕である。
この見方は「均衡本質説」、または執政府がふたつあることに注目されたとき「二元説」と呼ばれることがある。
それは、《議会解散権と不信任決議権とが、あたかもピストンとシリンダーのように対をなして作用することこそ、議院内閣制の本質だ》というのである。
換言すれば、議院内閣制を決定するものは、〔議会-内閣・大統領〕の連携関係(統治方針一致の原則)が一旦崩壊したとき、それぞれが、どのような公式権限を発動するか、という反発・抑制関係にある。
反発・抑制関係が残されているからこそ、議院内閣制は権力分立の一種だ、ともいえるのである。

〔議会-内閣・大統領〕の間に、統治方針の一致をもたらす工夫は、勿論、これ以外にも複数ある。
たとえば、
議会に対する内閣または宰相の責任を憲法典に明記すること、
大臣に対する質問権、大臣の議会出席要求権を議会がもつこと、
首相は議会構成員から選出すること、
大臣の一定数を議会構成員から選出するよう総理大臣に義務づけること、
等である。
②~④は、①にいう「議会に対する責任」を内閣をして全うさせる手段である。
①に集約され得る工夫をもって「これぞ議院内閣制の本質を表す要素だ」と捉える立場が「責任本質説」である。

「均衡本質説/責任本質説」の対立は、実は相互排他的ではない。
責任本質説、均衡本質説ともに、〔議会-内閣・大統領〕の間に統治方針一致の原則をもたらすことを念頭に置きながら、その一致を確保する手段として「責任か、均衡か」を問うのである。
責任本質説は、執政府が恒常的に議会の信任を受けておく点に着目するのに対して、均衡本質説は、議会が執政府不信任の意思をある時点で特定・明示的に表示した際に、執政府が取り得る公式権限に着目する。
一方がポジの接近法であり、他方がネガのそれである。
この場合に限っては、ネガの接近法が我々の目に鮮やかである。
というのも、責任本質説にいう「責任」または「信任」概念は多義的であり、しかも、「内閣の議会への責任」を強調するあまり、選挙民の最終的選択を軽視しがちとなるからだ。


■4.日本国憲法と議院内閣制


[62] (1) 明治憲法との比較


明治憲法のもとでは、天皇の輔弼機関として国務大臣が置かれた(55条1項)。
大臣助言制は、立憲君主制の常道であったが、明治憲法での輔弼は、主任の大臣が意見・案を上奏して大権の執行につき過誤なきことを期すばかりでなく、天皇の責任部分を「空」とするためだった。
国務大臣は、担当の国務に関する大権を輔弼するにあたって、文書による詔勅に副署することを要した(同条2項。大臣の輔弼を要する範囲は、天皇の国務上の大権に限定され、統帥大権および栄典大権には及び得ないと解されていた)。
これは、諸外国の立憲君主制のもとで採用された大臣助言制に倣ったものといわれるが、輔弼の法的拘束力について通説は「国務大臣の進言を嘉納せらるゝや否やは聖断に存する」ということにしている。
この大臣助言類似の制度のもとでは、主任の大臣は天皇に対して責任を負うにとどまり、議会から超然としていた。
超然内閣制である。
これに対して、日本国憲法は内閣が連帯して国会に対して責任を負うことを明示した(66条3項)。
超然内閣制を排斥したのである。
では、日本国憲法における内閣と国会との関係は、どう捉えられるべきか?
圧倒的多数の学説は、内閣と国会の関係を議院内閣制だ、と捉えてきた。
ところが、学説が議院内閣制というとき、その念頭に置かれるモデルと狙いは曖昧だった。
ある論者は、イギリス型の議院内閣制がモデルとなっているとみて、“議会が内閣の進退を左右し得ることをその核心とする制度だ”と説明してみせた。
ところが、当のイギリスにおいては、先の [60〕 でふれたように、「議会中心の統治」ではなく「内閣主導型統治」となっていた。
また、同論者は、議院内閣制の狙いとして、「行政権を民主的なコントロールの下に置こうとするにある」ことを挙げた。
この説明は、“明治憲法下にあっては議会の権限が弱すぎた”という反省も手伝ってか、多くの人を納得させた。
が、戦後、内閣が統治を先導し議会が事後的に監視している、という政治状況がほぼ一貫して続くなか、この理論は、“議会が内閣の進退を左右する”どころか、内閣が議会の進退を決定している実状を説明できなかった。
学者のなかには、“現状のごとき議院内閣制は、権力分立の趣旨に悖(もと)る”と考える者もあった。
その論者の頭の中には、“国会が統治の基本方針を決定し、国会によって法令化された事柄だけを内閣が執行することこそ議院内閣制または権力分立制のはずだ”という思考がこびりついているのだろう(⇒[140])。

現状が理論から逸脱し過ぎたのだろうか?
それとも、理論がもともと間違っていたのだろうか?
あるいは、理論は正しいものの、そのモデルとして取り上げたサンプリングに間違いがあったのだろうか?
さらには、もっと根源に立ち返って、“日本国憲法は議院内閣制を採用したとは言い難い”と問い直すべきなのか?
最後の疑義が私の頭にある。

[62a] (2) 議院内閣制の特徴 - 再確認


議院内閣制の特徴は何であったのか、もう一度、ここで確認してみよう。
その特徴のなかでも、ここで最も重要な点は、
 (ア) 執政府が二元構造となっていること、
 (イ) 〔議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による議会解散権〕という対等の権限を有していること、
 (ウ) 「内閣の議会(民選議院)解散権」は、二元構造の執政府のひとつである元首または大統領の調整権に淵源するもので、内閣自体が有しているわけではないこと、
である。

日本国憲法の場合、上の (ア)~(ウ) 特徴をすべて欠いているようにみえる。
“執政府が二元構造となっている”というためには、天皇が国政に関する権限をもっていることが必須となろう。
だが、そう論ずる学説は稀有である。
次に、(イ)は、なるほど、満たされているように思える、が、戦後ほぼ一貫して内閣が不信任決議を待たないで、7条に基づいて衆議院を解散してきていることを解明できない。
また、(ウ)については、学説論争に決着はついていない(この学説の対立については、内閣の助言と承認を論ずる [87] でふれることにしよう)。

学説は議院内閣制のイメージを当初から描き損なったように私にはみえる。
通説の議院内閣制は、41条のいう「国会は、国権の最高機関」のイメージに引きずられて、国民を代表する国会が内閣を民主的にコントロールする、という〔国民→国会→内閣〕という垂直的配列を説いた。
だからこそ、“内閣の存否が議会の信任に依存する”という責任本質説が影響力をもったのだ。

議院内閣制という概念は、日本国憲法を理解していくうえで、予想以上に不毛だった、と私は感じている。
最近の学説のなかには、議院内閣制というタームに代えて、「国民内閣」と表現しつつ、内閣が統治し、国会がこれを監視しているという実態を上手く説明しようとするものがある。
これを「国民内閣制」というかどうかは別として、思考の筋としてはこれが妥当だろう。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


■用語集、関連ページ


阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第十一章 議院内閣制

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最終更新:2013年03月23日 19:59