第9章でふれた憲法の改正が、 | 憲法に明文化された改正手続に従って、改正権者が幾つかの選択肢のなかから新しいルールを選び出す顕示的行為であるのに対して、 |
憲法変遷は、 | 国家機関が特定のプラクティスに従事していると、新しいルールが国制のなかに次第に生まれ出てくることをいう(新しいルールの法的性質については、すぐ後の[50]でふれる)。 |
① | 法は、実効性(efficacy)と妥当性(validity)というふたつの要素からなる。 |
② | 実効性とは「現に、ある規範が適用され遵守されていること」をいい、妥当性とは「規範として拘束力をもつこと」をいう。 |
③ | 実効性は、人々の継続反復する活動(プラクティス)のなかに現れ、そのパターンが人々の心理のなかに定着したとき、妥当性が生まれる(この考え方は、“慣習が人々の法的確信に支えられたとき、慣習法となる”と説明されるのと、よく似ている)。 |
④ | あるプラクティスが、妥当性をもつに至ったとき、それは法となる。 |
例1: | ある憲法典が「君主は、議会を一年に一度召集する」と規定しているとしよう。 この明文規定にもかかわらず、統治に無関心な君主(または議会嫌いの君主)が、長年にわたって召集しなかった。 そこで、業を煮やした議員たちは、期日を決めて自主的に議会に集合しえ活動し始め、今日に至っている。 このプラクティスは、上の規定を凌駕する効力を持っている。 |
例2: | ある憲法典は、内閣を国家機関のひとつであると定めておきながら、内閣における意思決定方法については何も規定していないとしよう。 長年の閣議のなかで、“内閣が意思決定するためには、閣僚の全員一致を要し、そのことを確認するために閣僚の署名を要する”とされてきた。 現在の内閣の構成員も、その慣行に拘束されるべきものと考えて、それに実際に従っている。 この慣行は、閣議の議事ルールとして効力をもっており、憲法典の空白部分を補充している。 |
(ア) | 憲法典正文の意味を補充・発展させるもの、 |
(イ) | 憲法典の欠缺部分を埋めるもの、 |
(ウ) | 憲法典の正文を凌駕するもの、 |
(a) | 憲法典正文についての公権的解釈の変更、 |
(b) | 国家機関による特定事実の反復、 |
(c) | 国家機関による特定権能の相当期間の不行使 |
(*注1)法源について 法源とは、①法を法たらしめる論拠は何か、②何が法とされているか、を知る手掛かり、つまり、如何なるかたちで法が存在しているか、を指す。 本文でいう「法源」とは②の意味である。 この場合の「法源」には、「成文/不文」「法律/命令」といった区別がある。 |
第一は、 | “ある国家機関が一定の活動を反復継続し、さらに国民の法的(規範的)確信がそれを支えるに至ったとき、その部分について変遷が成立する”とみる立場である。 この説にいう「成立する」とは、“実効性と妥当性が獲得されて憲法成文を凌駕することもある”ということを指している。 これは、イェリネックさながらの全面的肯定説である。 ところが、この説に対しては、 | |
(ア) | 改正権者の顕示的な選択よりも慣行の法力を優先させてよいか(何のための成文・成典・硬性憲法だったのか)、 | |
(イ) | 慣行が人々の確信を通して法となるという思考は正しいか、 | |
(ウ) | 憲法変遷論は、関係国家機関の法的確信を論じているはずで、「国民の確信」をここで持ち出すことは筋違いではないか、 | |
等、疑問は絶えることがない。 | ||
第二は、 | “国家機関によるプラクティスは習律(convention)を作る”とする見解である。 これは、「限定的否定説または習律説」と呼ばれることがある。 この説にいう「習律」とは、統治に携わる人々が義務的なものとして受け入れる行為規範ではあるものの、裁判所による裁定の論拠とはならないものをいう。 これを「法以前 pre-legal のルール」と表現する論者もいる。 この説によれば、変遷は国家機関を拘束する規範的力を生むが、憲法典の正文を破る法力までは持ち得ない。 なぜなら、法以前のルールが、明文の法的ルールを破るほどの妥当性をもつことはあり得ないからである。 この習律説は、変遷の問題領域を的確に捉えているばかりでなく、憲法と憲法典との区別を意識しつつ憲法の法源には不文のものもあることを指摘している点で、正当である。 | |
第三は、 | 変遷とは、国家機関による違憲のプラクティス領域にかかわる問題であるとの限定的な変遷観を前提に、“違憲事実が幾ら集積されても、それはあくまで違憲事実の積み重ねに過ぎず、その種のプラクティスが憲法典正文を破るということはあり得ない”、とする見解である。 「全面的否定説」と呼ばれることがある。 この説の根底には、変遷を肯定するとなると恒常的に制憲権が発動される状態を容認することになって、硬性憲法典の論理からしても、その事態はあり得べくもない、との見方が横たわっている。 政治的な事実の集積と法とは別種のはずだ、というわけだろう。 この説に対しては、 | |
(a) | 変遷の概念が限定的過ぎる、 | |
(b) | 「違憲」事実の集積という場合、「違憲」であるとの評価は論者による結論の先取りに過ぎない、 | |
(c) | この説を徹底すれば、憲法の法源は憲法典正文のみということになる、 | |
といった疑問が残る。 |