第9章 憲法の改正

阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第9章 憲法の改正    本文 p.62以下

<目次>

■1.改正条項の必要性


[44] (1) 軟性憲法回避の理由


T. ジェファソン(1743~1826年)は、 “死者は生存者に対して一切権利を持ってはならない。憲法も世代ごとに - 具体的には19年ごとに - 検討し直し改正されていかなければならない”と述べた。これに対して、
J. マディソン(1751~1836年)は “毎年代わっていく世代をどこで区切るか容易なことではなく、ある年限をもって憲法が変更されると予め分かっていれば憲法への支持は弱まるだろう。法律と憲法とは性質が異なるのだ”と回答した。
ジェファソンが正しいのか、それとも、マディソンが正しいのか?
視点を換えていえば、軟性憲法が望ましいのか、それとも、硬性憲法が望ましいのか?

ある世代が憲法を制定して、“この憲法は我等の子孫を永遠に拘束する”と決定してしまうことは、一世代の傲慢な選択だろう。
ある時点での決定が永久に妥当する、という命題自体妥当ではない。
そればかりか、時代とともに世論は変化するだけでなく、制定時には予想もしない事態が生ずることは必定である。
こう考えたとき、「ジェファソンが正しい」と感じられるだろう。

ところが、国家の根本構造を定めているはずの憲法が法律と同じ重みしか持たない、というのも納得のいかない考え方だろう。
マディソンは、そこを考えたようだ。
「マディソンが正しい」というためには、“法律と憲法とは性質が異なるのだ”という論拠が説得的でなければならない。

[44続き] (2) 憲法典の重み


“憲法は法律とは重みが違う”、この命題を説得的に述べてみせたのが、先にふれたシュミットだった(⇒[41])。
《憲法典は始源的な意思の所産であるのに対して、法律制定権は憲法典上の権限にとどまる》というわけである。
「始源的な意思の所産」という意思主義を好まない人のなかには、こういう者もある。
《憲法は、我々の歴史を一種の物語として我々が共有し、これを基調としながら後世代に伝えていくための法文書である》。

「歴史という物語を語り継ぐ」、ああ、何と麗しいことか!
これを聞いた我々は、思わず「そうなんだ!」と頷いてしまいそうになる。
が、「我々の歴史」という共通項がどこにあろうか。
それがあるとしても、「物語」とは一体何なのか?
意思主義に負けないくらいミステリアスだ。

H. ケルゼンならこういうだろう。
《憲法と法律とでは、根本規範からの授権の距離が違う》。
この解答は、意思主義ではないものの、シュミットと同じように、階梯的規範構造を持ち出したものだ。

かように解答の仕方が複数があるとはいえ、“マディソンが正しい”といわざるを得ないだろう。


■2.改正の意義と限界


[45] (1) 憲法の改正


そこで、憲法典は、憲法(国制)上の社会的・政治的プラクティスの変化に対応させるべく、憲法(の一部)またはその条規に変更(削除、追加等)を加える手続を、法律の場合よりも厳格にしたうえで、組み込んでおくのが通例である。
これを「硬性憲法」と称することは、先の [10] でふれた。

憲法の定める正式の手続に従いながら、改正権者の明示的意思によって、憲法(の一部)またはその条規に変更(削除、追加等)を加えることを、「憲法の改正」という。

憲法全体の変更(全部改正)も改正といえるか、それとも、改正とは憲法中の個別的条規につき、削除、修正、追加または増補するという部分的変更(部分改正)をいうのか?
この論争が「改正限界説/改正無限界説」の一面である。
“改正とは、全部改正を含まない”などと、同じ「改正」という言葉を使いながら定義を絞り込んで限界説にでる論理は、筋が悪い。
アメリカの州の憲法の中には、全部改正を revision、一部改正を amendment と使い分けるものがある(たとえば、カリフォルニア州。同州では、“amendment”とは「憲法規定の目的をよりよく実現するために特定の憲法規定を数行付加または変更すること」を、“revision”とは「憲法規定に対する包括的な変更」、「基本的な統治の設計の大幅な変更」をいう、とされている。そのうえで、「改正」手続に違いをもたせている。これは、全部改正も改正の一種であるという前提に立っているのだ)。

我が国の通説は、“改正とは全部改正を含まない”と考えている。
もとの憲法の内容との「同一性」を保持する変更だけが「改正」であり、
「全部改正」は新たな憲法典の制定だ、
というのである。
では、「同一性」はいかにして判断されるのか?
その基準となるのが、憲法典の基礎にある constitution である。
この憲法をこの憲法として統一性をもって成立させている契機は、constitution にあるのだ。

[46] (2) 憲法改正の限界


上のように論じてくると、憲法論争としてお馴染みの「憲法改正に限界ありや」という問について、既に解答が出たようなものだ。
が、実は、その問に対する解答の仕方は、もう少し複雑なのだ。
複雑だ、というのは、改正権の法的性質を分析して初めて正答に至るからだ。

改正権の法的性質の見方には、複数ある。
見方の違いの根底には、“改正権は制憲権と如何なる関係にあるのか”という捉え方の違いが流れている。
改正権は、超法的な、事実の力としての制憲権と同質であるという理解がある。
これに拠れば、改正権には限界がないことになろう。
これに対して、シュミットのように〔制憲権→憲法→憲法律→憲法律上の権能〕という階梯的公式を採用するとなると、改正権は「憲法律上の権能」にとどまることになり、限界が現れる。
この階梯的見方は重要である。
上の階梯的公式のもとで「憲法制定」と「憲法改正」(すなわち、個々の憲法律的規定の修正)といわれる場合、前者の「憲法」とは「全体決定としての憲法」を指し、後者の「憲法」とは「憲法律」を指し、質的に異なることに留意されなければならない。
この立場によれば、改正規定はその母胎たる憲法からの派生物にとどまり、従って、“憲法律上の改正権でもって、全体としての憲法(国制)を変更できない”との結論に至る。

我が国の通説は、シュミットに倣って、改正権をもって、「法制度化された制憲権」と表現している。
「法制度化されている」という意味は、
それが発動されるためには、憲法典の改正手続規定に従わなければならないこと(手続的な制度化)、
事実の万能の力ではなく、規範的に統制された権限であること(実体的な制度化)
にあるのだろう。
この通説によるとき、いわゆる「改正限界説」以外の選択肢はない。
ところが、この改正限界説にいう実体的限界が、
改正権の母胎である制憲権自体の限界づけから必然的に出てくるものなのか、
それとも、憲法典上の権能としての改正権であることから出てくるものなのか、
そのロジックは曖昧である。
《改正権は法制度化された制憲権だ。だから、改正権には限界がある》というロジックを首尾一貫させるためには、《事実の力としての万能の制憲権が、憲法典上の権能となった(法制度化された)ために、その法的性質を激変させたのだ》と説くことだろう。


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第八章 憲法の保障と憲法の変動

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