第7章 法の支配

阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第7章 法の支配    本文 p.41以下

<目次>

■1.「法の支配」の捉え方


[30] (1) 法の支配とは何でないのか


「法の支配」は、多くの人が口にする基本概念でありながら、その実体につき合意をみない難問である。
とはいえ、法の支配の目指すところについては、論者の間におおよその合意がある。
“その目的は、可能な限りすべての国家機関の行為を法のもとにおいて、その恣意的な活動を統制し、もって人々の基本権を保障せんとするところにある。”
が、この機能論的な説明は、法の実体の解明にはなっていない。

また、法の支配とは何でないのか、という疑問についても、法学者の間で合意がみられる。
その解答としては、次のふたつがある。
第一。 “法の支配は、絶対君主の統治にみられたような「人に支配」、すなわち、ルールに基かない、その場当たりの恣意的な権力発動を通して人々を支配することではない。”
第二。 “法の支配は、法治主義ではない。法治主義とは、国民の権利義務に変動を与えるとき、その国家意思は議会の意思を通して実定法化されるべきこと、そして、行政はその議会法を執行し(“法律なければ行政なし”)、裁判所は議会制定法に準拠して法的紛争を解決すること、をいう。”

[30続き] (2) 法の支配と法治主義


上の第一の「恣意的な人の支配」に代わろうとしたのが第二の法治主義である。
法治主義(*注1)は、民主的な国民代表機関に法規を創造する権限を集中さえ(法規という特異な概念については、[111]でふれる)、非民主的な行政機関と裁判所とを議会制定法(人為法)のもとに置こうとする民主化の思想だった。

「法の支配」にいう法は、民主的機関である議会の制定する法律をも統制し、主権者の意思をも統制する機能をもっている。
この機能については、法学者は異論を唱えないだろう。
未解決の争点は、“その狙いのために、法の支配にいう「法」がいかなる属性をもっているのか”というところにある。

法の支配を考えるに当たって重要なことは、
《人権または個人の尊厳をよりよく保障することが、法の支配の云いたいところである》などといった機能論も、
《法の支配は人の支配でもなく、法治主義でもない》という消去法も、
上の問いに答えてはいない、と気づくことだ。
《法の支配とは、何であるのか》真剣に正面から検討することが必要である。

(*注1) 「法治主義」について
法治主義なるタームは、日本法学の造語だ、といわれる。
我が国の行政法学は、ドイツでの「法治国諸原理」のうち、「行政の法律適合性原則」を指すものとして、このタームを使用してきた(「法治国原理」については、[22a]をみよ)。
「行政の法律適合性原則」は、ドイツにおける法実証主義と不即不離であり、公法についていえば、次のような思考を基礎としている。
(1) 法学の任務は、自由意思の発動の系譜・手続をたどることにある。
法令の中味についてその正邪を評定しようとすれば、価値相対主義のもとでは「神々の闘争」となってしまう。
(2) 議会制定法、すなわち法律は、憲法所定の手続に従って発動された議会意思の所産である。
命令は、行政機関(または君主)意思の所産である。
(3) 国民の自由と財産にとっての“危険は君主からやってきた”。
この危険に対処するには、命令という国法形式を、法律という国法形式のもとに置けばよい。
国法形式の優劣関係は、客観的に認識できる。
(4) 法律(議会制定法)によって行政活動を統制する国家が「法治国」である。
我が国の公法学は、上のように、法実証主義のもとの「法律 - 命令」の形式的効力関係の捉え方を「形式的法治主義」と呼んできている。

[31] (3) 法の支配と正義


法の支配とは、《主権者といえども、人為の法を超える高次の法のもとにある》という思想を起源とする。
それは、法(law)と立法(legislation)との区別のもとで、前者が後者を指導する、という思想である。
高次の法 higher law とは、[11]でふれた“fundamental law”と同じである。
Higher law または fundamental law の内容は、《正義に適っているルール》を指してきた。
ところが、「正義」の捉え方は歴史によって変転し、論者によって様々となっているために私たちを混乱させているのだ。
法の支配を正義と関連づけるとき、その捉え方には、大きくふたつの流れがみられた。
第一は、 問題の法令の実質・内容を問う立場である。
正義の種類からいえば、実質的正義論に属する。
その典型的立場が自然法論である。
第二は、 問題の法令の形式を重視するタイプである。
正義の種類でいえば、形式的正義論である。
これは、問題の法令が、どのような特定の人々をも対象とせず、特定の目的も知らず、一般的で普遍的な形式を満たしているか否かを問うのである。
これは、《人為法が普遍的に妥当する形式をもっていれば、不正を最小化できる》といいたいのだ(この点については [35] でもふれる)。

長い歴史のうえで、盛んに説かれてきたのが、第一の立場だった。
神こそこの世の中心だ、と考えられていた時代にあっては、不可謬の神の意思がこの世の法則決定者だと考えられ、人間こそこの世の中心だと考えられるに至った時代にあっては、人間の理性がこの世の法則を決定づけている、とみられた。
神の意思や人間の理性と、法の支配とを関連づける立場は、“法とは実質的正義を体現しているものをいう”と理解しているのである。
実質的正義に依拠する法の支配論は、今日においても根強い。
なかでも、人間の理性的能力を強調する見解は、“恣意を理性によって統制すべし”とする法の支配の考えと調和的であるために、人々を納得させがちである。
が、「理性/恣意」の峻別は容易ではない。
「理性」は、実に多義的で、恣意的に用いられてきた。
また、人間が理性の塊ではないことは、C. ダーウイン、G. フロイトによって暴露された以上、人間理性と正義(法)とを関連づける理論の信憑性は疑わしい。
かといってこれ以外に実質的な正義の中味をいうとなると、常に論争を呼ぶ「神々の闘争」となって決着はつきそうもない。

そのために、法の支配と密接不可分な正義概念を、手続的に、または、形式的に捉えようとする論者が登場するのである。
「実質的正義/形式的正義」という正義論のふたつの流れは、国法の役割を考えるに当たって、無視できない違いをもたらしている。
実質的正義を強調する論者は、“国法は、ある実体をもった正義を実現しなければならない”と、正義を実現されるべき最適規範と捉えがちとなる。
これに対して、形式的正義を強調する論者は、“国法は、誰であれ、無作為に抽出した受範者に等しく適用される形式をもっていなければならない”と主張するだろう。
この主張には、《正義は積極的に実現されるべき目標ではない》という含意があるのだ。


■2.「法の支配」の理論と憲法典


[32] (1) 法の支配の理論化


法の支配を脱実体化しながら理論体系としたのが、イギリスの法学者A. ダイシー(1835~1922年)である。
彼は、臨機(場当たり)でなく、誰もが知りえて、特定可能な対象にではなく、誰に対しても等しく恒常的に適用され得る法の形式を、「正規の法 regular law」と呼んだ。
それは、《類似の事案は同じように法的に解決される》という平等原則の中から浮かび出た形式である。
それは、多年にわたる実践と蓄積のなかで、次第しだいに、人間が獲得してきた法的知識だった。
その法的知識を専門的に修得するのが法曹であり、なかでも裁判官である。
身分の独立保障をうけてきた裁判官は、当事者の主張に耳を傾けながら、正しい解決のために、誰に対しても等しく適用されてきた論拠を発見するのである。

公正な判断を求めようとする法的紛争の当事者は、誰であれ、この裁判の手続にのるよう求められる。
ダイシーは、このことを《何人も通常の裁判所の審判権に服する》と表現した。
フランスと違って、イギリスが行政裁判所という特別の裁判所を持たないことが、誰に対しても特権を与えない正規の法の表れでもあったのだ。
さらに、ダイシーにとって、国家の強制力を「人権保障規定」によって統制しようとすることは、必要でないばかりか、望ましくもなかった。
自由や権利は、正規の法の展開がもたらすはずのものであって、人為的な法規定によって与えられるべきものではなかった。

ダイシーの法の支配理論は、上のように、
正規の法が人為法に絶対的に優位すること、
誰であれ、通常裁判所の審判権に服すること、
自由や権利は、正規の法によってこそ守られること、
の三点を説いたのだった。

[33] (2) 法の支配の突出部


形式的正義論をベースとする法の支配の考え方には、
(ア) 法は特権を容認せず、一般的普遍的な形式をもたなければならない、
(イ) 法は公知(誰もが前もって知りうるもの)で恒常的でなければならない、
(ウ) その適用に矛盾があってはならない、
という命題が伴っている。

これらの命題は、法の予見性・安定性に資し、経済自由市場における交易を一挙に促進することとなった。
自由市場の生育を可能としたのは、法の支配という憲法上の基本概念だった。

法の支配が、経済的自由、身体・生命の自由その他の自由へと拡大するにつれて、自由主義国家の基盤が出来上がっていったのだ。

法の支配は、経済市場における諸自由だけでなく、国家の刑罰権と課税権とを有効に統制する論拠となった。
罪刑法定主義と租税法律主義が、法令の遡及的適用を排除したり、慣習を法源足り得ないとしたり、法令の裁量的適用に警戒的であるのは、法の支配の思想が、一部実定法上に突出したためである。
それでも法の支配にいう法は実定化され尽くすことはない。

法の支配は、我々の権利義務に関する実定法(人為法)を指導するメタ・ルールである。
法の支配という思想は、あるルールを実定化するにあたって実定法を先導する上位のルールである。
たとえ憲法を含む実定法が法の支配を謳ったとしても、それこそが「自己言及のパラドックス」にすぎないのだ([11]での脚注参照)。

[34] (3) 法の支配と憲法との関係


法の支配は、国家の不正義を最小化するための理念として、歴史上様々な論者がそれに肉付けしてきた。
この理念は、sovereignty、なかでも、君主の有してきたそれをまず統制しようとした。
sovereignty は、「主権」と訳出されるが、この訳語では伝えきれないニュアンスをもった言葉である。
それは、「主権」というよりも、絶対権または最高権といったほうがいいだろう(⇒[37])。

憲法は、最高・絶対の主権を統制するための「基本法」として、歴史に登場した。
このことからも分かるように、憲法は、法の支配という構想の必須部なのだ(が、しかし、憲法が法の支配にいう法ではない)。

主権の帰属先が君主から国民になった場合でも、法の支配の理念に変更はない。
今日においても、すべての国家機関、なかでも国民の主権と、国民代表機関である議会とを、法のもとにおく必要があるのだ。

そのために、憲法は法の支配の理念の一部を組み込もうとする。
統治の機構においては、 ①独立の保障される司法部、②特別裁判所設置の禁止、③憲法条規の最高法規性の宣言、がこれであり、
権利章典の部においては、 ①適正手続保障、②遡及処罰の禁止、③公正な裁判の保障、等がこれである。
もっとも、こうした個別の条規を列挙することは、憲法と法の支配との関係を考えるにあたっては二次的な意味しかもたない。
法の支配と憲法との関係を考えるに当たって最も重要な視点は、権力分立構造という全体的なパースペクティブ(※注釈:見通し、展望、大局観)を持つことだ。
権力分立構造は、ある時点から、違憲審査制または司法審査制の実現によって大きな「変容」をみせるが、この「変容」も、法の支配と関連している(この点に関しては、後の [55] でもふれるが、しかし、違憲審査制は法の支配の内容ではなく、法の支配を有効とするための装置である)。

教科書の中には、法の支配について、
(ア) 憲法の最高法規性、
(イ) 基本権の尊重、
(ウ) 適正手続保障、
(エ) 司法審査制、
を列挙するものがある。
もし、この思考が法の支配の論拠を日本国憲法典に求めようとしているのであれば、ひとつの体系内に根拠を求める「自己言及のパラドックス」に陥ってしまっている。
もし論拠を示したものではなく、“法の支配がかような諸点に現れている”というのであれば、(イ)と(ウ)はダブルカウントであり、(エ)は法の支配の内在的な要素ではなく(英国には、司法審査制はない)、法の支配を有効にするための手段に過ぎないことの説明に欠けている。

このように、憲法と法の支配との関係をみるとしても、要注意点は、《憲法典という実定化された法が法の支配にいう“法”ではない》ということである。
確かに、憲法典は法の支配の理念を一部活かしている。
が、しかし、「憲法典=法の支配」ではない(⇒[82])。

[34続き] (4) 法の支配と主権との関係


《法の支配は憲法典や主権をも統制する》とのテーゼを理解するためには、次の(ア)~(ウ)に留意しておかなければならない。
(ア) 一般の教科書によれば、国民主権にいう「主権」とは、憲法制定権力のことを指す(*注2)(この点については、後の [38] [39] でふれる)。
(イ) 主権は、国制を意味する憲法を創出する力であり(憲法を作り出す力としての主権。以後、憲法制定権力を「制憲権」という)、憲法典は、この制憲権によって作り出される([41]もみよ)。
(ウ) 〔制憲権→憲法典〕という理論上の順序関係を考えれば、憲法典によって主権を統制することは出来ない([46] もみよ)。

では、「憲法典によって主権を統制することは出来ない」とき、主権(制憲権)は何によって規範的な拘束を受けているのだろうか?
実体的正義論者は、自然法、人間の理性、人間の尊厳、等をあげるだろう。
これらの実体的要素はいずれも客観性に欠けるとみる批判的な論者であれば、「主権者の自己拘束だ」というかもしれない。
それらの解答を、私はいずれも受容しない。
《主権を規範的に統制するもの、それが法の支配だ》、これが私の解答である。
法の支配にいう「法」とは、実定的な法ではなく、最低限の形式的正義のことだ、と私は理解している。

(*注2) 主権・制憲権について
主権や制憲権の意義にふれない段階で、読者は本文のような記述を理解し難いだろう。
制憲権というテーマを読了してこの部分をもう一度読んでみれば、真意が判明するだろう。

[35] (5) 法の支配と法律との関係


法の支配は、先に触れたように、国民の主権や、国民代表機関である議会の権限(法律制定権)をも統制する理念である。
では、法の支配は、議会の立法権(法律制定権)をどのように統制するか?

実体的正義論者は、この問に関しても、主権を統制するものについて与えた解答と同じものを挙げるだろう。(※注釈:自然法、人間の理性、人間の尊厳、等)
「主権の自己拘束」説に立つ論者は、ここでの問に対して「議会の自己拘束だ」と答えるだろうか。
どうもそうではなく、解答は与えられていないようだ。

私のような、形式的正義論者は、こう解答するだろう。
《議会が法律を制定するにあたっては、一般的普遍的な形式をもたせなければならない》。
この解答は、日本国憲法41条の「立法」の解釈に活かされるだろう(後述の [116] を参照せよ)。

立法(法律)が一般的普遍的であるという形式を満たすとき、それは第一に、一定の要件を満たす限り誰に対しても適用され得るとする点で道徳的にみて正当であり、第二に、予見可能性・法的安定性を増すという点で経済的にみて合理的である。

法の一般性・普遍性とは、法規範の名宛人が事前に特定可能でないことをいう。
法の支配にとって最も警戒され続けてきた点は、法が人的な属性に言及しながら、特定可能な人びとを特別扱いすることだった。
法の支配は、人的な特権を忌避して、誰であれ自分の限界効用を自由に(国家から公法規制や指令を受けないで)満足させてよい、とする思想でもあるのだ。

近代法が、なぜ人間を「人」または「人格」と抽象的に形式的に言い表したのか、我々は近代法のこの発想の基本をもう一度振り返ったほうがよさそうだ(⇒[23])。
そうすれば、正義の女神が、なぜ目隠しをしているのか、すぐに理解できるだろう。
正義とは不正義を排除することなのだ。

ところが、現代法は「強者/弱者」という曖昧な二分法を強調することによって、「人」というケテゴリーの中に様々なサブ・カテゴリーを作り上げて社会的正義を積極的に人為的に(行政法や社会法という実定法を通して)実現しようとしてきている(⇒[25])。
これが正義というものだろうか?
「社会的正義」とは一体何だったのだろう?


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


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