第3章 「憲法」の意義 - 正確には「国制」

阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)     第Ⅰ部 統治と憲法   第3章 「憲法」の意義 - 正確には「国制」    本文 p.11以下

<目次>

■1.国制の意義と類型


[9] (1) 憲法の意義


英語で constitution、ドイツ語で Verfassung といわれるとき、それらは、我々が日常において「憲法」と呼ぶものとはニュアンスを異にする。
我々が「憲法」という言葉を聞いたとき、第一に、“それは法の一種だろう”と直感し、第二に、“日本国憲法のように、成文化された法のことだろう”とイメージするだろう(因みに、“憲法とは法律の一種だ”と貴方がもし考えているとすれば、それは大いに不正確である。その理由は、本書を読み続けていれば判明するはずだ)。

Constitution, Verfassung は、大きく、二つの意味をもつ。
第一は、 国家統治の根本構造のことである。
この場合、constitution, Verfassung は、《そこにある、事実としての国家構造》を指している。
第二は、 国家統治の根本構造とその作用を決定するルールのことである。
この場合、constitution, Verfassung は、国家の根本構造と作用を一定の枠に閉じ込めるための設計図を指している。
この場合には、そこにある国家の根本構造を記述・描写しているわけではなく、《あるべきものとしての国家構造とその作用》をいっているのである。

「かくあるべし」という命題を「規範的」という。
「記述/規範」は、哲学でお馴染みの「認識/価値判断」と同じ区別だ、と考えればよい。
この区別を利用して、
第一の憲法を 「記述的意味の国制」、
第二の憲法を 「規範的意味の国制」
と呼ぶことにしよう。
constitution, Verfassung は、これら二つの意味を同時に持っている。
どちらにせよ、日本語としてそれらは「国制」と訳出されるべきだった。
にも拘わらず、それらが「憲法」と訳されてきたために、本章の冒頭でふれたような感覚を我々は持ってしまうのだ。

本書では、規範的意味の国制だけを「憲法」と呼ぶことにしよう。
いうまでもなく、ここでいう「憲法」は、成文化されているとは限らない。

[10] (2) 国制の類型


規範的意味の国制、すなわち「憲法」が、
慣習に依拠しているとき 「不文憲法」と呼ばれ、
文書化され編・章等に整序されているとき 「成文憲法」と呼ばれる。
憲法は、成文の部分と不文の部分とから成る。
そのことは、「不文憲法の国、イギリス」においても、「成文憲法の国、日本」においても、変わらない。
国家の根本構造とその作用に係るルール全体が憲法なのだ。
この憲法は、ときに「実質的意味の憲法」と呼ばれることがある。
この場合の憲法には、憲法典、憲法慣習法、憲法習律、重要法律(内閣法、国会法、裁判所法等)が含まれる。

なお、不文のルールを人の意思で《語り得るもの》にすることを、《実定化する=ポジティヴとする》という。
legal positivism, positivist が、それぞれ“法実証主義”“法実証主義者”といわれるのは、そのためなのだ。
実定化された国制のうち、法律(すなわち、議会制定法)の改廃と同じ手続によって改正されるものは「軟性憲法」と呼ばれ、法律の場合よりも加重された改正手続を要するとされているものは「硬性憲法」と呼ばれる。


■2.基本法としての憲法(国制)


[11] (1) 憲法(規範的意味の国制)の特性


この硬性と似て非なるものに、「基本法 fundamental law」という概念がある。
これは、《憲法とは、成文化されているか否かに拘わらず、法令を制定し執行する者を拘束する根本的ルールだ》という属性を示す言葉である。
私はこのことを《憲法は、強制力を発動しようとする全ての国家機関の活動を統制するルールだ》、《統治を先導するルールだ》ということにしている。
こえが、先にふれた「規範的意味の国制」のことである。

何を以って fundamental だと考えるか、憲法の「基本」の内容は歴史上多様だった(その歴史的展開については、すぐ後に述べる)。
このうち歴史を転回させたのは、近代啓蒙主義者の説いた自然法思想だった。
その「自然」とは、その時代の人間中心の世界観を反映して、人間の本性(nature)を指した。
これが近代自然法思想である(因みに、私は natural law を「自然法」と訳すことに疑問をもっている。「人間本性の法則」とでも訳すほうが真のニュアンスを伝えるだろう)。

ある啓蒙思想家は、《憲法は自然権を保全する基本法だからこそ、主権者といえども、憲法に従って統治しなければならない》と主張した。
また別の啓蒙思想家は、《憲法は、この世の基本単位である個々人が社会契約という始源的な契約を締結することに合意したのだから、基本法だ》と主張した。
ここでいう「基本」とは《人間の理性によって選択されたもの》または《全員が合意しうるもの》を指している。
これは、これまで君主がもっていた絶対権を打ち破る狙いをもっていた。

君主という存在が影を薄くし、さらには歴史から姿を消して、身分制議会が統治の中心点となった後は、「基本」という属性は、実体(中身)ではなく、手続の側面でも活かされていった。
つまり、こうである。
憲法は、議会を含めた統治者から被治者の権利を守る基本法である以上、身分制議会が立法権の一環として憲法を制定すべきではない。
憲法改正も、身分制議会の法改正と同じように為されてはならない。

この主張は、
《国制を成文化する作業は議会ではなく憲法制定会議という特別の機関が担当しなければならない》、
《改正に当たっても、法律を改廃するが如くに議会が取り扱ってはならない》
と、制定・改廃の手続に活かされた(この理論は「憲法制定権力論」と絡んでいる。これについては、また後の [46] でふれる)。

[11続き] (2) 憲法の手続・実体的特徴


「基本法としての国制」は、上のように、手続的な装置を内臓している。
国制が法律とは別の手続によって制定されて憲法典となったとき、“憲法の効力は、他の様々な国法形式(法律、命令、規則等)よりも、優位する”と表現されることもある。
硬性憲法は、法の存在形式においても、他の国法に優位している、というわけである。
硬性憲法の場合、単に手続面や形式的効力において特異であるのみならず、《この憲法は、他の国法形式よりも、実体的な価値において優位する》と、実体的な統制力(基本法に相応しい中味の法力)を組み込むよう工夫されることが多い。
例えば、「この憲法は、国家の最高法規である」「ここに保障する事柄は、将来に亘って永久に保障されねばならない」「ここに保障されている重要事項は、改正の対象としてはならない」等々を、憲法が、自らの内部で宣明するのである。
もっとも、憲法自らが「この憲法は、最高法規であって、これに反する条規は無効なり」と述べても、それは有名な「自己言及のパラドックス(*注1)」に過ぎない。
そこで憲法は、その最高の効力規定が自己言及に終わらないよう、その規定に執行力を付与すべく、国法の効力関係を審判する権限を特定の国家機関に与えることもある(その典型例が違憲審査制である。違憲審査制、司法審査制、違憲審査制の限界については、後の [15] [16] でふれる)。

このように、憲法は、手続的にも実体的にも、他の国法とは違った特性をもつことによって「国家の基本法」となるのである(この点については、法の支配にふれる際、再びふれるだろう)。
憲法は「国家の基本法」であるため、国家の統治にとっての大綱をその規律対象として取り込むものと成らざるを得ない。
そのため、憲法は、国家統治の詳細部分を「法律によって定める」よう議会に授権するのが通例である。

(*注1)「自己言及のパラドックス」について
ある本の表紙に「この書籍に書かれていること、妥当せず」と見出しに書かれているとしよう。
この見出しが妥当するとすれば、書籍に書かれていることは、まさに妥当しない。
が、自ら「書かれていることは妥当しない」というのだから、見出し自身が妥当しないだろう。
となると、この本に書かれている事柄は?????


※以上で、この章の本文終了。
※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。


■用語集、関連ページ


阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第三章 憲法(典)の存在理由とその特性

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最終更新:2013年03月22日 00:19