第一章 現行憲法制定の法理

阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第二部 実定憲法理論    第一章 現行憲法制定の法理 p.215以下

<目次>

■第一節 明治憲法の特徴


[241] (一)近代国家建設のために憲法典制定が求められた


明治政府にとっては、近代国家の支柱である官僚群と軍隊を擁する中央集権国家の建設が第一課題であった。
近代国家建設のためには、なによりも国制の整備が求められた。
そのために伊藤博文等の憲法調査団が、明治15年、ヨーロッパに派遣された。

伊藤等は、主としてドイツ、オーストリアの憲法を学んで帰国し、まず、貴族院への布石として華族令を、太政官制を改め内閣制度樹立のために内閣官制を制定し(明治18年)、その後明治19年から憲法典の起草に着手した。
憲法典を起草するに当たっては、
欽定憲法とすること、
漸進的性格とすること、
議会の権限を希釈すること
等が前提とされていた。

[242] (ニ)明治憲法は「国体」を宣言することを至上の狙いとした


明治憲法制定の目的は、制定以前から、「国体」を宣言することにあった。
「国体」とは、発布勅語にいう「祖宗ノ遺烈ヲ承ケ」た主権(統治権および制憲権)が天皇に帰属することのみならず、天皇家や天皇の身体について国民またはその代表者が容喙すべきでないことを意味した。
そこでまず明治憲法は、その告文で、「皇室典範及憲法ヲ制定」する目的は「皇祖皇宗ノ後裔ニ胎シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スル」ことにある点が明らかにされた。
つづいて、
(ア) 発布勅語において、「朕カ祖宗ニ承クルノ大権」という天照大神にまで遡る神勅による制憲権を謳ったうえで、
(イ) 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)と定めることによって、神権主義的天皇制を採用することを明示し、また、
(ウ) 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(3条)と定めることによって天皇の政治的・刑事的無答責のみならず、不敬の禁止、廃立の禁止を含意させていた。さらに、
(エ) 「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」することを謳った4条は、天皇が対外的に元首であるばかりか、対内的に統治権の主体であることを鮮明にした。そればかりでなく、
(オ) 告文が「皇室典範及憲法ヲ制定ス」と述べたように、明治憲法と並んで、皇室典範が国制のルールの一部として予定されていた。
これは、「憲法」に属する法形式を「政務法」とし、皇室典範に属する法形式を「宮務法」とする二元的国制体系を意味するものである。

[243] (三)明治憲法は「自己拘束する」立憲君主制によった


明治憲法は、そればかりでなく、立憲君主制を導入しようとした。
その点は、大臣助言制を採用して責任政治体制を敷いた点に表れていた。
しかし、統治権の神授者としての天皇が存在する限り、法文書によって神権を統制し得るものではなかった。
そのことをもって後世は、明治憲法典が「外見的」立憲主義にとどまったと評価することになる。

なるほど憲法発布勅語は「朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムルヘキコトヲ宣言ス」と謳って、「自己拘束の理論」によったものの、その理論でもってしては、本来万能の統治権を有する一自然人の意思を有効に統制することは不可能であった。

[244] (四)明治憲法は議会権限を意図的に弱めた


国体の宣言を第一義とする明治憲法のもとにおいては、天皇権限が議会によって不当に制限されないよう当初より意図されていた。

なるほど明治憲法は、諸外国の近代立憲主義に倣って、一見、権力分立技術と基本権保障を組み入れたかのようにみえる。
そのことは、法律の制定に議会の協賛を要すること(37条)、司法権を行政権から分離したこと、に表れた(57条1項)。
しかしながら、それは、立憲君主制の支える規定にとどまった([197]参照)。
さらには、同憲法典のもとでは、「法律の留保」が当然視されていた。
「法律の留保」とは、憲法典の保障する基本権を制約するには議会制定法によることを要し(執政府の命令によってはならず)、その現実の保障範囲は同制定法が決することをいう。
それは、ドイツ流の形式的意味での法治主義を導入したものである。

そのうえ、統治権の総攬者としての天皇には、大権事項として、緊急命令、独立命令という命令制定権が与えられた。
緊急命令とは、議会閉会中緊急の必要があるとき、議会の協賛を経ないで、制定される法形式をいう(8条)。
独立命令とは、公共の安寧秩序を保持するために(この命令は「警察命令」と呼ばれた)、または、国民の幸福を増進するために(これは「保育命令」と呼ばれた)、法律とは無関係に制定される法形式を指す(9条)。
ただし、この独立命令をもって法律を変更することは許されなかった(9条但書)。
これらの権限は、立憲君主制では説明し切れない、日本の「国体」観に基づく君主制に固有のものであった。

なかでも、11条の統帥権は、その内容が明示されなかったこともあって、憲法による統制が及ばないように運用された。
「統帥権の独立」という言い方がこれである。
統帥権は、議会からも政府からも統制されることなく、軍部の意向を実現する「悪魔の森」となった。


■第ニ節 明治憲法から昭和憲法へ


[245] (一)ポツダム宣言の受諾は「国体」の変更を余儀なくした


昭和20年7月26日に連合国の発したポツダム宣言は、「全日本国軍隊ノ無条件降伏」を要求し、国家と政府の継続性を承認したうえで「平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府」が「日本国民ノ自由ニ表明スル意思ニ従ヒ」樹立されること(12項)、その実現まで占領軍が支配力をもち、日本国の独立性は否定されること、等を明らかにしていた。
日本政府は、同宣言が国体の変更まで要求していないことを確認しようとしたものの、連合国側の拒否を受け、昭和20年8月14日、これを受諾した。
これによって日本の占領が開始されたが、その占領の方式は、間接占領であったために、占領軍の指令と、その黙認または許可のもとでの日本政府の法という二元的な体系とならざるを得なかった。
二元的法体系のもとで、日本国があたかも無条件降伏をしたかのように、占領軍の指令が日本国憲法体系に優位する形で運用されてしまった。

[246] (ニ)明治憲法の全面変更が憲法「改正」として議会に附議された


当時の内閣をはじめとする統治者たちは、憲法改正は不要であると考えていた。
しかし、ポツダム宣言にいう「日本国民ノ自由ニ表明スル意思ニ従ヒ」とは、政治組織の決定権が国民にあることを示している以上、憲法改正の要あり、と連合軍最高司令官マッカーサーからしじされ、幣原内閣は憲法問題調査委員会を設置して改正作業に入った。
ところが、国体に変更を加えないとする同委員会での松本私案が、総司令部に知れるところとなった。
総司令部は、同私案を拒否し、
元首たる地位に置かれる天皇の権限は、憲法に基づいて行使されること、
国家の主権的権利としての戦争を、紛争解決のためであれ自衛のためであれ、放棄すること、
日本の封建制を廃止し、予算のタイプを英国の制度に倣うこと、
を示した、マッカーサー三原則に基づく草案作成を司令部民政局に命令した。
そこにおいて作成されたマッカーサー草案が昭和21年2月に政府に提示され、政府はこれに基づいて憲法改正草案要綱を作成した(昭和21年3月)。

同要綱に若干の修正を加えた帝国憲法改正案が枢密顧問の諮詢を経て、明治憲法73条所定の改正手続によるものとして、勅書(「朕・・・・・・国民の自由に表明した意思による憲法の全面改正を意図し、・・・・・・」)を以って第90帝国議会に附議された(昭和21年6月)。
衆議院がこれに若干の修正を加えて可決し、貴族院も若干の修正の後可決し、枢密顧問の諮詢、さらに天皇の裁可を経て、公式令3条により日本国憲法として昭和21年11月3日に公布され、22年5月3日から施行された。

[247] (三)日本国憲法の制定が明治憲法の「改正」として正当化されうるか


右にみたように、日本国憲法は、明治憲法73条の改正手続に依拠して、制憲権の所在を天皇から国民へと転換せしめた。
それは、憲法典上の権能によって制憲権の所在に変更を加えるものであるだけに、法理上、あり得ない事態ではなかったか、との疑問に遭遇する([145]参照)。
この点について、学説は、次のような対立する解決法をみせた。

まず、A説は、改正権は制憲権に変更を加えられないという改正限界論に立って、明治憲法の改正手続で国制の根本を変更することは、法理上不能である(欽定憲法の「改正」によって民定憲法が生まれ出る、とすることは理論上不可能である)、とする。
従って、国制の根本の変更に至った理由は、別の特段の理由に求められねばならない。
そこでA説は、ポツダム宣言が「日本国民ノ自由ニ表明スル意思ニ」より日本国の統治形態を決すべしとしていた条件を受諾した時点で(昭和20年8月11日)、我が国は、国民主権へと主権原理を転換していたのであって、この事態は革命として理解されなければならない、と説く(宮沢俊義『憲法』47~8頁にみられる、いわゆる八月革命説)。
これに対してB説は、憲法改正に限界がないこと、ポツダム宣言とそれに基づく降伏文書のごとき国際法上の法文書は、A説の説くような国内法的意味を持たないこと、を挙げながら、明治憲法改正による新たな欽定憲法が制定されたものと説明する(佐々木・113頁)。
以上のA説、B説は、理論構成を異にするとはいえ、現憲法典が有効に成立したと解する点では、結論を同じくしている。
これに対して、外国から強制された「改正」であること、改正権を踰越していること等からして無効であるとするC1説(無効説)、占領下ではやむを得ないとしても、占領終了後は失効すべきものであるとするC2説(失効説)もみられる。

[248] (四)本書は憲法改正として法的連続性を承認する


制憲権の帰属は、国際法によって決定されるものではないことを考えた場合、A説に説得力のないこと、明白である(そればかりでなく、ポ宣言の「日本国民ノ自由ニ表明スル意思ニ従ヒ」とは、現実の政治過程が国民の自由意思によって決定されることを含意しているに過ぎない。小嶋和司はこれを「事実の確認としての国民主権」と呼んだ。本書は、民主主義の実現というほどの意であると理解する)。
憲法改正権に実体的な限界なしとする本書の立場からすれば、B説に帰着する。
ただし、B説にいう欽定憲法であるとの理解には与しない。
日本国憲法前文が「日本国民は、・・・・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と述べている以上、それは民定憲法である。
制憲権が現実の政治過程では少数の統治者によって行使されたとしても、抽象的観念的存在たる国民の名で制定されれば、それを民定憲法と呼んで差し支えない。

改正権に限界ありとする立場からすれば、現行憲法の「改正」は、実は、新たな憲法典の制定ということになり、明治憲法の改正手続に従ったのは、政治的混乱を回避する便宜的策である、と説明されることになろう。
しかし、現行憲法典の成立の法理を便宜に求めること自体、余りに便宜的といわざるを得ない。
また、新旧の法的連続性を否定するはずの革命説によりながら、《新憲法に抵触しない限度で旧憲法の条項も有効である》といえるだろうか。


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最終更新:2013年03月18日 19:00