第十一章 議院内閣制

阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)   第一部 国家と憲法の基礎理論    第十一章 議院内閣制 p.179以下

<目次>

■第一節 議院内閣制の意義


[207] (一)議院内閣制とは議会と執政府との間に政治的一致原則を実現させる制度をいう


議院内閣制 parliamentary government とは、憲法典が、議会と執政府とを法的に独立した機関と位置づけながらも、 両者間の政治的一致の原則を制度化している統治構造 をいう。
真の議院内閣制は、裁判方式による法的責任追及のための大臣訴追や弾劾制が後退し、それに代わって、執政府と議会の政治的一致の原則が認められて、はじめて始まったのである(シュミット『憲法理論』399頁)。
14世紀のイギリスにおいては、下院が大臣の 法的違背 を弾劾するために訴追し、上院がこれを判するという大臣訴追制が確立したが、議会が大臣と内閣の 政治責任 を追及する慣行が成立するに従って大臣訴追制は姿を消し、議院内閣制によって、二機関の政治方針を一致させるようになったのである。
もっとも、政治的「一致」といっても、その程度は現実には様々であり、政治的方針を共通にすることに表れることもあれば、一方の他方に対する従属として表れることもある。

[208] (ニ)議院内閣制は君主と議会という二元的対立を緩和する制度として登場する


政治的一致の原則は、君主と議会との二元的対立を克服して、政治的統一を確保しようとする試みのなかで、超然(官僚)内閣制に代わるものとして成立した。
超然内閣制とは、内閣が専ら君主の信任に基礎を置くものをいう。
議院内閣制は、これに代わって、前章でふれた議会と内閣との協同体制の合理化・具体化である。
その体制は、立憲君主と議会の狭間にあって、両者の政治的バランスを巧妙にとろうとする内閣が重要な地位を占めるに至った段階で登場する。

議院内閣制は、政治的な合目的性を理由としてイギリスにおいて登場し、次いで、イギリスの慣行を基礎にした理論体系としてフランスの公法学者、B. コンスタン(1767~1830年)によって樹立された。
コンスタンは、
立法権は議会に属すること、
君主は拒否権によってのみ立法権に参与すること、
執行権は諸大臣に属すること、
君主は議会の指名した大臣の任命、恩赦、議院解散権、等を通して他の機関の調整役(調整権限の保持者)となること
等を説いた。

ところが、ルイ18世の統治下フランスの1814年の憲法典は、右理論を否定して、国王こそが全ての国家権力の源泉であるとする命題に立って、明治憲法類似の外見的権力分立構造を採用するにとどまった(同憲法典上の立憲君主制は、はやくも1830年に国民主権原理に取って代わられた)。
その後、19世紀初頭から中葉にかけて、議院内閣制は、イギリスの慣行から離れた抽象理論として完成される。
イギリスの慣行とフランスの抽象理論の二つは、立憲君主制にみられる統治構造に「権力分立」の観点から修正を加えようとした点で共通点を有するものの、それぞれの国の歴史や権力関係を反映して、執政府と議会との優劣関係に関する見方を同じくするわけではない。
ここに、議院内閣制にも二つのタイプが存在することになる。

もっとも、いずれの制度であれ、議院内閣制なるものが憲法典上に明示されることはほとんどないのである。
同制度の体系は、イギリスにおいては政治的プラクティスの中にだけ存在し、フランスにおいては抽象理論の中にだけ存在してきた。

議院内閣制の確固とした理論は、偶然の集積であるイギリスの発展からは引き出せないのであって、イギリスを理論モデルとして参考にすることには、我々は慎重でなければならない。
これに対して、フランスにおける抽象理論は、それまでは政治過程の展開に委ねられていた議会と執政府との政治的一致の原則を、法的に統制して、「政治過程から法的過程へ」と権力を合理化・制度化するための試みである(これを「 合理化された議院内閣制 」という)。

イギリスにおける議院内閣制は、君主を補佐する官僚団に対する議会の優位、ことに民意を代表する庶民院の優位を確立する歴史の展開であった。
そこでは、「政治/行政」の概念上の区別が強調された。
そこでいう「政治」とは、議員、大臣、内閣といった国家機関の活動を指し、行政とは、内閣に直属する軍事官僚制と行政官僚制の活動を指す。
この「政治/行政」の区別は、国民から選出された勢力(議会、内閣)の為す「政治」は、非選出勢力の為す「行政」よりも優位することを論拠づける目論見をもっていた。
すなわち、「政治/行政」のモデルは、【国民→議会→内閣・大臣】→【官僚】→【国民】という統治の流れを想定しながら、政治家による官僚の統制を正当化する理論であった。
これに対して、権力分立のドグマが支配する大陸においては、「立法/司法/行政」という概念上の類別が強調された。
このモデルにおいては、大統領、首相、大臣、これを補佐する官僚団の活動が「行政」であると観念しながら、【国民・議会】→【内閣・大臣・官僚】→【国民】の流れの中で、国民・議会による「行政」の法的統制の必要が語られてきた。


■第ニ節 議院内閣制の起源とその特質


[209] (一)議会勢力の強い国では議会主義となる


議院内閣制は、議会と執政府とが、法上、別個独立の機関とされる「権力分立」的統治構造の一形態である。
「権力分立」にも、「議会優位型(国民公会型)」、「厳格分離型(アメリカの大統領制型)」、「協同体制型」等さまざまあり、議院内閣制はこれらの中の一つである。
広く世界の統治体制を類型的に概観するに当たっては、フランスの公法学者R. レズロープの論文(1918年)で説かれた次のような類型が参考となる。

アメリカ大統領制
執政府を独任制機関としながら、議会と執政府のそれぞれの選任方法についても、権能行使についても、できる限り分離しようとするタイプ。
旧ドイツの立憲君主制
執政府として独任制機関たる君主と合議制機関である政府とを置き、政府と議会の構成員の選任方法を別々としながらも、君主のもとでの政府と議会との協同体制を原則としつつ、執政府の独立、優位確保に仕える限りでの分離を維持しようとする体制。
イギリスの議会統治制
右の②と同様に、執政府が二つの機関から成るものの、名目化された権限のみをもつ君主のもとでの協同原則に、さらに、執政府(内閣)在職についての議院の信任を付け加えるタイプ。
スイスの議会統治制
議会が執政府構成員を選任してその組織を決定するのに対して、執政府は、議院解散権をもたず、議会の決定を遂行するのみで、議会の優越、執政の従属という原理のもとで維持される体制([213]もみよ)。

歴史上最初に登場した変型は、ルソー流の人民主権論を背景にした「国民公会(コンヴァンシヨン)制」または「議会主義」と呼ばれる「議会優位型」であった(レズロープの類型からすれば、右の④)。
「国民公会制」または「議会主義」とは、一般意思を反映する一院からなる議会が、立法権限を独占するだけでなく、国家の最高の意思機関となって、執政府を従属させるタイプをいう。
これにあっては、議会が執政府の長の任免権をもつばかりでなく、執政府に対して議会の決定した施策を実現するよう指揮命令する。
当然のことながら、執政府の長は、議会の解散権をもつことはない。

ところが、この「議会主義」思想は、「権力分立」論の様相をとっているものの、統治の直接的正当性を人民の統一的意思に求めながら、実は、「分立」を否定する理論であった。
さらに、そのもとでは、最高機関である議会の制定する立法こそ最高と扱われることになり、憲法典と法律との区別すら否定されてくる(「イギリスの議会は、男を女に、女を男にする以外、何事でも為し得る」という法諺に表れている如くに)。

[210] (ニ)君主の力が強い国で議院内閣制が採用された


これに対して、フランスにおける議院内閣制思想は、君主の地位を温存しようとする勢力からの巻き返しとして提唱されてくる。
彼らは、全ての国家権力の源泉である君主のもとで議会と政府(または諸大臣)とが協同して統治に当たる立憲君主制に「権力分立」構想を加味することによって、政府を正式機関として制度化し、これに執行権の中心部分を集中させようとした。
ここに「分立論」上の正式機関として「内閣」が誕生した。
この新たな誕生物は、議会と対等な地位を占めると主張することによって、議会の優位性を否定した。
彼らは、片や旧来の立憲君主制を克服し、片や押し寄せる急進的勢力を抑え込むために、中庸の政治機構を構想したのである。

その理論によれば、

君主は国家を代表し、議会から独立し、無答責であること、
現実の執政権行使に当たって君主は、一切の行為を内閣の同意に依存し、内閣が議会に対して責任を負うこと、
そのために、執政権は君主と内閣という二元的組織となること(モンテスキューが内閣・大臣の独自的存在について語らなかったことは、[200]で既にふれた)、
議会と内閣とは対等独立の地位にあり、一方が他方に従属するものであってはならず、常に、相互了解を得ながら、君主のもとで協同して統治に当たるべきであること、
相互了解・協同関係が維持できないときは、議会は内閣の不信任を表明し、内閣はこれに対する対等な抑制手段として解散権を行使できること、

といった要素が強調される。

[211] (三)オルレアン型議院内閣制は執政府の二元的組織と責任とがその特徴となる


これから分かるように、フランス流議院内閣制の特徴は、
(ア) 執政府の二元的組織、
(イ) 内閣の責任の二元性(君主 [後には大統領] への責任と、議会への責任)、
(ウ) 内閣と議会との均衡関係、
という点にある。

もっとも、右の特性のうち、執政府の二元的組織は、19世紀初頭のオルレアン王朝期に採用されたものであって、その後は、君主権限の名目化の進展に応じて、重視されなくなる。
執政権限が実質的に内閣の手に移った後は、内閣と議会との対等な関係を表象する解散権の存在こそ、ある統治構造が国民公会に近いか、それとも、議院内閣制に近いか、を識別するテストとなる(この点について [218] で再びふれる)。

内閣の議会解散権は、もともとは立憲君主制の残存物である。
内閣は、議会との均衡関係が崩れたと思われるとき、助言制度(副署権)を通して君主の有する解散権に訴えて、君主を基軸にして均衡関係を復元しようとしたのである。
議院内閣制がその起源を立憲君主制にもつといわれる理由は、この点にある。

[212] (四)議院内閣制は民主主義と直接関連するわけではない


ケルゼンは、議院内閣制とは、執政府を議会の委員会とするものであり、これは人民主権(「主権者たる人民→議会→執政府」という垂直構造)の論理必然的帰結点であって、「権力分立」の亜種でもない、とみている。
しかしながら、この見解は、議院内閣制が民主主義に立脚するとの誤った前提に出たために、同制度を「権力分立」から離してしまったのである。
これでは、議会主義(国民公会制)と議院内閣制との区別が出来なくなる。

確かに、議会と執政府との間に政治的一致の原則が制度的に認められているものを議院内閣制という点、に着目すれば、統治権限の民主的な集中制のように思われる。
なるほど、18世紀イギリスにおいて議会勢力が立法と行政の二つの権力を掌握して、《議会が内閣をその委員会にした段階で、議院内閣制は確立した》、といわれるように(W. バジョット『イギリス憲政論』は、「議院内閣制は、立法部によって選出される委員会の政治である」と述べた)、議院内閣制は、権力分立とは相容れない、権力の集中化であるように考えられる。
ところが、それは、「民主」勢力の優位を貫徹して君主権力を解体するために、立法と行政のニ権力の融合を過度に強調したためであった([208]もみよ)。
同制度は、内閣(または大臣)の議会解散権(【N. B. 15】参照)を梃子にして、連帯と反発のシステムによって政治的一致原則を実現する点をその要諦とする以上、集中型とは解し得ず、柔軟な「権力分立」の体制と位置づけるのが正当である。

【N. B. 15】議会解散権の類型について。
解散権の類型としては、その主体別に、①君主の解散権、②大統領の解散権、③大臣または内閣の解散権、④議会の自己解散権、⑤人民の請求に基づく解散権、等がある。
①の君主の解散権は、 代表機関としての議会に対して、君主の優位を確保を確保する目的をもつ。
このタイプの解散権は、議会を攻撃する武器となる。
②の大統領の解散権は、 議会との均衡を図るための手段であり、選挙民に、議会か執政府のいずれかの立場を支持する機会を与えて、両者間の政治的対立を解決させる目的をもつ。
③の大臣の解散権は、 議会多数派と大臣との間の衝突を、選挙民によって最終解決させる目的をもつ。


■第三節 議院内閣制の展開


[213] (一)立憲君主制は次第に名目化されるか消え去っていく


歴史的には、先に見たように、議院内閣制は、「権力分立」の影響力に抗し切れない立憲君主制が、君主の正当なる地位を維持し続けるための最後の依りどころであった。
その後、普通選挙制が実現され、大衆を組織する政党が政治過程の実権を握るにつれて、民意を直接反映しない立憲君主は直接機関としての地位を失って、姿を消すか、または、名目的形式的な元首となる。
なかでも、議会が民意を統一的に表示すると期待された国家においては、議会多数派の指導者が政治的指導と統率を掌握する「議会主義」となる。
これに対して、統一的民意は議会ではなく、一人の自然人によって統一的に代表されるべきであるとする思想が支配的な国にあっては、「大統領制」になる。

大統領は、立憲君主の理論的代替物であった。
すなわち、大統領は、君主の存在に似せて作られたが、選挙によって選出される点で決定的に君主とは異なる存在とされた。
大統領は、選挙人の意思を一人で統一的に代表する存在として、もう一つの代表機関である議会の優越的地位を抑制するよう期待される。
この二つの直接機関を独立させて、相互の抑制に期待するのが大統領制である。

[214] (ニ)議会と執政府との政治的一致原則を実現するために諸方策が考案された


ところが、大陸の思想家たちにとって、大統領制は、等族国家のもとでみられたと同じような、君主とと等族との対立(二元構造の矛盾)の轍を踏むことにならないか危惧された(この点については、[208]でふれた)。
彼らは、二元構造の矛盾を回避すべく、議会と執政府との間に政治的一致をもたらす統治構造を構想した。
支持的一致を確保する手段として考案されたものが、

内閣の存立を議会(特に、民選議院)の信任に依拠させること、
議会に対する内閣または宰相の責任を憲法典上明記すること、
大臣に対する質問権、大臣の議会出席要求権を議会がもつこと、等である。さらに、
これらの手段で政治的一致に達しなかった場合の最終的手段が、解散に伴う選挙において選挙民に訴えて、再び政治的一致を復元すること、である。

すなわち、普通選挙制が実現された時点以降、二つの代表機関は、選挙人という第三の勢力に訴えて、それぞれの正当性を主張するのである。
このことから、「19世紀には、確かに主権的な議会が支配的なものと見られるが、政治的指導は内閣に、政治的決定は選挙人にある」(シュミット『憲法理論』403頁)といわれるに至る。
もっとも、そこにいわれる「選挙民による政治的決定」とは、「政党というリーダーの決定」というほどの限定的な意味として捉えるべきであろう。

[215] (三)選挙民が執政府と議会との最終的均衡を復元する


議院内閣制に関する抽象的理論を比較的忠実に憲法典に取り入れたのが、ヴァイマル憲法(1919年)であった(もっとも、制定過程においては、議院内閣制としての性格づけは意識的に避けられた)。
同憲法典は、君主に代わるものとして、選挙人によって直接選出される大統領を置くと同時に、大統領が議会から超然として君臨することのないよう、大統領と議会との結合を図るための合議機関たる「政府」(宰相および大臣からなる組織体)をも置いて、二元的執政府とした。
二元的執政府は、責任の所在がそれだけ分散され、議会による責任追及が複雑となるという点で、等族国家での二元構造よりも責任政治にとって危険であるため、同憲法典は、宰相または大臣による副署によって大統領を拘束し、さらに、宰相が政治の基本方針を決定すると定めて、執政府の統一性を確保した。

宰相と大臣によって構成される政府は、一方で、大統領による任免に服し、他方で、議会による信任に依存する、という二元的な責任を負った。
政府は、議会に対しては大統領を、大統領に対しては議会を、それぞれ代弁する媒介役であった。
ヴァイマル憲法のもとで、二つの代表者、つまり議会と執政府(大統領と政府)との最終的均衡をもたらすのは、選挙民であった(表15を見よ)。
そのための権能として、選挙民には、

大統領による議会解散後の選挙、そして、
法律の公布に先立って大統領が命令する人民投票、および、
議会の提案する大統領解職のための人民投票、

が保障された。
この中でも、大統領の有する議会解散権こそ、均衡回復の梃子であると解釈され、実際そう運用された。
ヴェイマル憲法54条の定めによれば、宰相および大臣は、

(a) その職務執行について議会の信任を必要とするばかりでなく、
(b) 議会の明示的な決議により信任を失った場合には辞職しなければならない、

とされていた。
議会が執政府の責任追及手段として実際に活用したのは、曖昧な(a)ではなく、明示的な(b)であった。
この手段に対抗して宰相・大臣は副署権限を通して、大統領のもつ解散権に訴えるのである(表16を見よ)。

【表15】 議会と執政府との均衡の図式
 議会           執政府
活動能力獲得        ←  大統領の間接的召集権
     ∟          →       法律案の発案権
法律の制定権         ←           」
     ∟             →       法律の人民投票請求権
執政府不信任決議権                    」
     ∟                    →      大統領による議会解散権
人民投票による大統領解職請求権  ←           」
  ※人民が選挙または人民投票によって均衡を最終的に復元する。

【表16】 執政府内での均衡の図式
 大統領        政府
議会信任に依存しない独任機関      議会の信任に依存する合議制機関
憲法典に列挙された権限の主体             その他の一切の執政府権限の主体
(国家機関相互の調整権限主体)             (執政権の実質的主体)
その権限行使
     ∟                   →        副署権
宰相・大臣の任免権                    」
(君主権限の名残)


■第四節 議院内閣制の標識


[216] (一)議院内閣制の特性を何に求めるかについて見解は対立する


既にふれたように([208]参照)、議院内閣制は、抽象理論のなかだけに存在し、実定憲法典に明示されることはなかった。
実定憲法典上に組み込まれる統治構造は、ときには議会主義的、ときには君主制的と、さまざまの統治体制の複合体であることが圧倒的に多い。
従って、ある実定憲法典上の議会と執政府との関係につき、議会主義が採用されているという理解も、議院内閣制が採用されているという理解も、視座の取り方によっては、同時に成立する。
そればかりでなく、議院内閣制にも、イギリスの実践型とフランスの理論型との二つの流れがあるために、議院内閣制の特質をどこに求めるべきかについて、見解は分かれざるを得ない。

[217] (ニ)議院内閣制には共通の標識がある


議院内閣制は、どのような変種であれ、次の要素を共有するのが通例である。
政府または内閣の構成員が、原則として、同時に議会の構成員であること。
この要素は、モンテスキュー流の厳格な「分立」論においては否定されていた。
にも拘わらず、これが共通の要素とされるのは、議会に出席し発現できる地位を大臣に与えて、議会が大臣の政治的責任を追及し易くするためである。
政府または内閣が、多数党または多数派を構成する連立諸政党の領袖たちによって組織されること。
これは、議会が執政府の政治責任を追及し易くするために考案されたプラクティスである。
政府または内閣が、宰相または内閣総理大臣を頂点とするピラミッド構造をもつよう制度化されていること。
この要素は、①および②と関係しており、議会での指導者が、同時に執政府の頂点に立って、政治的責任の所在の統一性を体現することを意味している。
政府または内閣が、議会の過半数の信任を得ている限りにおいて、その職にとどまること。
政府または内閣が、議会と協同して統治に当たること。
政府または内閣と議会に、それぞれ自由に行使しうる相互的で対等なコントロールの権能と手段が与えられており、しかもそれらが実際に利用されること。

[218] (三)責任本質説と均衡本質説との対立は相互排他的ではないものの、後者が明確である


右の①~⑥の要素は、政治的一致の原則を実現するためにも、二つの流れがあることを示唆している。
その二つの流れは、議院内閣制の本質をめぐる論争である、責任本質説と均衡本質説に対応している。
責任本質説 とは、執政府の議会に対する「責任」または「信任」を標識とする立場である。
この立場は、議院内閣制の範型として、右の要素のうち①ないし④を重視するのである。
これに対して、 均衡本質説 とは、右の⑥にいう議会と執政府が有する武器の対等、すなわち、議会による内閣(または大臣)不信任決議と、執政府による議会解散権という機関間コントロールを重視する立場である。
両説は、実は相互排他的ではない。
責任本質説、均衡本質説ともに、議会と執政府との間の政治的一致原則を所与のものとして(すなわち、右要素のうちの⑤を前提として)、その一致を確保する手段として「責任か、均衡か」を問うのである。
責任本質説は、執政府が 恒常的に 議会の信任を受けておく点に着目するのに対して、均衡本質説は、議会が執政府不信任の意思をある時点で 特定・明示的に 表示した際に、執政府が採り得る手段に着目する。

均衡本質説といえども、執政府の議会に対する責任問題を看過しているわけではなく、「責任」という概念の曖昧さを回避したいのである。
というのは、同説によれば、議会の明示的な不信任決議が提出されない以上、執政府は継続して黙示的に信任されているのであって、「責任」は議院内閣制にとって決定的な標識にはならないからである。
「責任」概念が有意となるのは、議会において多数派が偶然に存在するときだけである(既にふれたように、ヴァイマル憲法54条は、「宰相および大臣は・・・・・・議会の信任を要する」とする前段と、「明示の議決により議会の信任を失った宰相および大臣は辞職しなければならない」とする後段から成っていたが、多数を制する政党が存在しなかったために、実際に有意な条項として援用されたのは、後段であった)。

さらに、執政府の責任の取り方にも、連帯責任、宰相の単独責任、閣僚の個別的責任という三つの方式があるうえ、議会による執政府の責任追及の仕方にも、執政府提案の法律案や予算法案の否決から、不信任決議まで多種多様であり、それは政治的に決定されざるを得ないのである。
となると、「合理化された議院内閣制」の標識は、政治過程において偶然的に決定される「責任」に求めるのではなく、議会と執政府との間の政治的一致をもたらすため均衡の制度化(公式の権限)に求めるのが正しい。
均衡とは、両者対等の協力関係を意味し、その関係が維持されなくなったとき、選挙民が最終的審判者として、政治的一致の原則を回復するのである。
そのために、執政府には議会解散権が、議会には執政府不信任決議権が、与えられる。
「議会解散権と不信任投票権は、あたかもピストンとシリンダーのように対をなすものである。両者の力強い相互作用こそ、議会制機構の車輪を回転せしめるものに他ならない」(レーヴェンシュタイン)とか、「解散権を欠いては、議院内閣制は国民公会制に変質し、議会の優位性に至る」(ビュルドー)とか指摘する立場は、均衡こそ議院内閣制の本質であるとみているのである。

[219] (四)執政府の二元的構造は議院内閣制にとって決定的要素ではない


もっとも、均衡を重視する場合であっても、議会と君主(元首)との間の均衡にウエイトを置く18世紀の図式によるか、それとも、議会と内閣(政府)との間のそれにウエイトを置く19世紀の図式によるか、二つの見方が存在する。
前者の図式によれば、
執政府が、元首と、それによって組織される内閣という二元的構造を示していること、
内閣が、元首と議会の双方の信任に依拠していること、
内閣の議会解散権は、元首の有する解散権に訴えて発動されること、
が重視される。

ところが、①の執政府の二元的構造は、君主の名残をとどめる元首が「機構運営の動力」としての地位から次第に名目化されるにつれて、決定的な標識とはならなくなる。
そして、内閣が「機構運営の動力」となるにつれて、元首との関連でいわれた②、③の要素も、議院内閣制の標識としての重要性を失うことになる。
となると、元首の存在が名目化された時点、または、元首が存在しなくなった時点で、議院内閣制の標識は、一次的には、内閣 対 議会の関係の中に求めざるを得なくなるのであsる。

[220] (五)議院内閣制は三極構造のなかで再構成されなければならない


先にふれたように、「責任」または「信任」概念の多義性を考慮した場合、責任本質説は妥当ではない。
特に同説は、「執政府の議会への責任」を強調するあまり、選挙民の最終的選択を軽視しがちとなる点でも、難点を残す(「責任」が政治責任をも含む広範なものであるとすれば、そこには何ら法学的識別標識はなく、責任追及の具体的手段を選挙民がもつことはない)。
国家の二元的構造を克服せんとした抽象理論に起源をもつ議院内閣制は、二元的構造の一つである君主の存在が名目的または無となった時点で、「内閣-(選挙民)-議会」という三極構造のなかで、再構成を迫られることになる。
すなわち、かつての議院内閣制は、「君主 対 議会」という対立を抑制・回避しながら「君主-内閣-議会」という連結関係をもたせることによって統治の安定を確保するための工夫であったのに対して、今日における議員内閣制は、選挙民を介在させることによって内閣と議会との間に連結関係をもたせる工夫である(我が国の論者の中には、[212]でみたケルゼンの理解に影響されて、「選挙民→議会→内閣」という直線的連結を重視して、この連結は民主主義の実現に適する、と説くものもみられる。しかしながら、議会、内閣ともに、法的には二つの分離・独立した機関であることに鑑みれば、「直線的連結」は比喩以上の意味を持たない。また、議院内閣制が「民主的」統治構造の一種であるとする右見解は早計である。「執政府までの民主化」は、国民公会制の狙うところであって、議院内閣制の企図するところではない)。


■第五節 日本国憲法と議院内閣制


[221] (一)明治憲法下では官僚(超然)内閣制が採用されていた


明治憲法のもとでは、天皇の輔弼機関として国務大臣が置かれた(55条1項)。
それは、立憲君主制の常道であった。
輔弼(advice)とは、意見・案を上奏して大権の執行につき過誤なきことを期することをいう。
国務大臣は、国務に関する大権を輔弼するに当たって、文書による詔勅に副署することを要した(同条2項。大臣の輔弼を要する範囲は、天皇の国務上の大権に限定され、統帥大権および栄典大権には及び得ないと解されていた)。
これは、諸外国の立憲君主制のもとで採用された 大臣助言制 である。
大臣助言制のもとでは、各大臣が君主に対して責任を負うものとされた。
君主の単独支配は、君主の恣意的な意思を法的に統制して初めて正当化される。
なぜなら、君主の裁可が補佐機関の助言に従って為されたことを要件として初めて「王は悪を為し得ず」といえるからである。
この要件が、立憲君主制を支えるための「大臣助言(責任)制」となり、さらには、議会に対して政治責任を負う合議制機関としての「内閣」となっていったのである。

明治憲法典の制定に先立って、内閣制度が勅令たる内閣官制(明治18年)によって実現されていた。
内閣は、内閣総理大臣と国務大臣によって組織され、内閣総理大臣の「統督」のもとに統一体をなす合議機関であった(旧憲法下での内閣の地位については、[396]でふれる)。
内閣の組織を命ずる権限は、天皇の大権に属した。
内閣官制制定の趣旨は、内閣はもっぱら君主の信任に依存すべきであるとする、超然内閣制を採用することにあると理解されていた(枢密院議長としての伊藤博文演説)。
そのため、明治憲法典が議院内閣制を採用していると解される余地はなかった。
それどころか、当時のいわゆる立憲主義的立場に立つ憲法学者であってさえ、議院内閣制を「事実上の慣習たるにとどまり、憲法上の制度として定められるものにあらず」と理解していた。
ただ、明治31年、憲政党が組織され、大隈重信を総理大臣とする憲政党内閣が成立して以降、当初の超然内閣制は廃棄され、衆議院の信任にかからしめる議院内閣制の「慣習」が成立したと説かれるに至った(美濃部達吉『憲法撮要』299~301頁)。

[222] (ニ)現行憲法典は議院内閣制を採用していないとする学説もある


我が国の憲法典は、議院内閣制を採用しているか否か、採用しているとすれば如何なるタイプのそれであるか。
A説は、
二元的執政府となっていないこと、
解散権のモーターたる君主または元首に相当する者が存在しないこと(天皇は、これらのいずれでもない。この点については、第二部第三章第一節の [253] [254] でふれる)、
「衆議院議員選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職しなければならない。」(70条)とされているように、議会に対する内閣の従属度が高いこと、
を理由に、日本国憲法上の統治構造は典型的な議院内閣制ではない、という。
もっとも、内閣が衆院解散権を有している以上、国民公会制でもない。
そこでこのA説は、「国民公会制を顕著に浸透させた議院内閣制」であると、結論するのである(小嶋・460頁)。

ところが、先にふれたように、二元的執政府や解散権を有する君主の存在は、議院内閣制が選挙民というモーターによって回転させられるようになった時点で、その意義を失ったのである。
また、この説の③にいう内閣の議会への従属性も、必ずしも議会の優位を意味するものではなく、新たな民意に依拠する内閣の選出を狙ったものである(また、解散権発動が7条に基づく場合には、内閣総辞職という効果を伴うというバランスも考慮されている)。

[223] (三)通説は現行憲法典が議院内閣制を採用していると解するものの、その理由を異にする


通説たるB説は、我が憲法典が議院内閣制を採用したものであるとする。
もっとも通説の論拠も一様ではない。

まずB1説(責任本質説)は、議院内閣制を「内閣の存立が議会の意思に従う統治構造」または「執政府が立法府、主として下院に対して政治的責任を負う統治体制」と定義しながら、我が憲法典は「責任」を標識とする議院内閣制を採用していると解する。
その論拠としては、
内閣は行政権の行使につき国会に対して連帯して責任を負うこと(66条3項)、
内閣総理大臣は国会議員の中から、衆議院の優越のもとに指名されること(67条1項)、
国務大臣の過半数が国会議員でなければならないこと(68条1項但書)、
内閣総理大臣その他の国務大臣は、議院に出席うる権利または義務をもつこと(63条)、
内閣は、衆議院において不信任の決議案を可決されまたは信任決議案が否決されたときは、衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならないこと(69条)、
等を挙げる。
すなわち、このB1説は、右の①ないし④が内閣の責任を明定するためのものであり、議院による責任追及の最終的手段が⑤の不信任決議の可決または信任決議の否認である、と理解するのである。

[224] (四)「責任」は議院内閣制の合理化・制度化の表示にすぎない


ところが、内閣の構成員が同時に議会の構成員であることを原則とするという、両者間の人的結合を強調すればするほど、内閣は国会に従属する「委員会」に等しいものとなってしまい、両者が法的には別個の機関である点は軽視されがちとなる。
両者は法的にはあくまで対等の独立した機関であって、だからこそ、それぞれに内部規律権と他機関に対する抑制の権能が保障されているのである。
この点こそ、「権力分立」内での議院内閣制の理解の鍵である。

さらに、先にふれた「責任」の意義・発動態様の曖昧さを考慮すれば、右のB1説は妥当ではないとの帰結をみざるを得ない。
議院内閣制の本質は、議会と執政府との均衡に求めるのが正しい。

日本国憲法が、あたかも「責任」を中心としているかのようなスタイルを採ったのは、議院内閣制を合理化・制度化するに当たって、国会と内閣との間の政治的一致を、政治過程(政治的慣行)に委ねないで、法的過程のなかで正式に確保せんとしたためである。
しかしながら、それでも「責任」は法的に捉えきれるものではない([218]参照)。

[225] (五)相互に独立した機関間の均衡を図るための権限が重要な標識となる


均衡本質説たるB2説に立った場合、議院内閣制にとっての本質的要素である解散権が、憲法典上どこに根拠をもち、如何なる要件のもとで発動されるか検討されなければならない。
この点は、いわゆる69条説、非69条説、という形で長く論争されてきた。

69条が不信任決議または信任決議の否認の効果(衆議院の解散か、内閣の総辞職か)を専ら定めたものであると解すれば、実体的解散権の所在は、69条以外に求められることになる( 非69条説 )。
これに対して、69条は、内閣総辞職を求める衆議院の意思が、同時に、解散原因ともなることを定めていると理解すれば、実体的解散権の所在を直截に69条に求めてよい( 69条説 。ヴァイマル憲法典にみられたように、大臣の不信任決議が辞職という効果を持ち得ると定める条文と、大統領の議会解散権を定める条文とが別々であれば、大臣の副署権限を介して大統領の実体的解散権に訴えるという迂回した理論構成をとらざるを得ない。内閣の天皇に対する「助言と承認」のなかに、内閣の解散権限を読み込む7条説は、これと同様の手順をとるが、我が憲法典は、内閣不信任決議と衆議院の解散権とを、69条の一条においてワンセットとしたものと解され、7条を迂回する必要はない。69条説が正しい。解散権と7条との関係については、第二部第三章第四節の [262] でふれる)。

69条は、
衆議院による不信任決議の可決等が内閣と国会との協同関係の喪失を明示的に表示するものであること、
それに直面した内閣は、総辞職か、それとも選挙民による再統合に訴えるための解散権を発動するか、という二者択一を迫られること
を定めたものである。

[226] (六)日本国憲法は、ニ機関を厳格には均衡させていない


何度も指摘したように、議院内閣制は、憲法典中に明記されることはなく、歴史的にはまず、議会と執政府との間に政治的一致原則をもたらす慣行として発生し(多くの国では憲法習律にすらならなかった)、その後に、一致原則をもたらすための制度化が図られたことによって顕在化した。
その制度化のための工夫のうち最も重要なのが、右にみてきたような解散権の所在と行使の要件であった。
議会による執政府不信任決議と、執政府による民選議院の解散とがセットとなっていることを以って、「均衡」と呼ぶのであって、その他の権限において両者が厳格に対等の関係にないとしても、議院内閣制であると判断して差し支えない。

日本国憲法の場合、41条が「国権の最高機関」であると述べていることに法的意味があるとしたとしても、議院内閣制と矛盾しない。
また、70条によって、内閣は、特別会召集時に、たとえ総選挙において選挙民の支持を得たことが明らかであっても、総辞職しなければならないとされていることは、国会の優位を示唆しはするものの、議院内閣制と矛盾しない。


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