第十章 権限・機関の区別(「権力分立」)論

阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)   第一部 国家と憲法の基礎理論    第十章 権限・機関の区別(「権力分立」)論 p.160以下


<目次>

■第一節 「権力分立」の意義


[185] (一)「権力分立」は国家権力を分離・独立させるわけではない


国家権力を分割可能とする理論 が、歴史上、二度登場する。
一度目は、立憲国家を根拠づけるため、二度目は、連邦国家を構成するため、である。
前者での分割は、「 自由な政府は、信頼ではなく警戒心によって樹立される 」(ジェファースン)とみて、権限の集中を排除する「権力分立」によって、国民の政治的自由を保護するための統治技術である。

その技術は、
国家機関を理論上区別し、
担当機関を区別し、
さらには人をも分離(兼業を禁止)し、
いったん区別した国家作用を複数の機関に分有させることによって、
相互の抑制を図り、
その結果として均衡を生み出そうとする狙いをもつ。

「権力の分立は、単に分離のためのものではない。もしそうだとすれば、ばらばらの国家の諸活動の脈絡のない並存が生ずるであろうから。むしろ、権力の区分は、権力の均衡、『平衡』を実現するためのものである」(シュミット『憲法理論』228頁)。

[186] (ニ)「権力分立」は国家権力の不可分性とは矛盾しない


「権力分立」理論を構成するに当って、克服すべき難題が残される。
方法論的集団主義([1]参照)のもとで、国家を統一体として法的に把握するその当然の帰結として、国家権力の統一性と不可分性の理論が生まれる。
この理論と、国家権力を分割可能とする理論が、すぐさま、対立したのである。

この対立を解決するために、まず、不可分の憲法制定権力が国民に存し、個々の権限は憲法典上のそれである、とする理論が考案されることになる。
すなわち、主権者たる国民が制憲権を発動して憲法を創設し、さらに憲法典を制定するに当たって、複数の代表的共同意思の担い手を憲法典上の単位として承認したのだ、と説く道筋である。

また、国家法人説は、次のような別の解決案を提示する。
すなわち、国家における主権を意味する国家権力は、本来、単一不可分であるのに対して、国家という法人のもつ権利を意味する統治権は、分割可能である、とするのである。
権利が分割可能であると同様に、統治権は、統治技術上、その発動目的または発動形式に応じた権限に区別でき、そして権限担当機関を区別しうる、というわけである。

そのほか、主権は一体的に国民または国家に帰属するものの、その行使態様は分割しうるとする説明法もみられるが、これは言葉上の単純な議論と評さざるを得ない。

[187] (三)「権力分立」論の目指すところは「権限の区別」の技術と表現されるべきである


右に述べた統治上の技術は、通常、「権力分立原理」と呼ばれる。
しかしながら、その用語は正確とは言い難い。
権力「分立」とは、「分立」(division)でも、「分離」(separation)でもない。
「分立」とは、正確には、立法権を第一院と第二院とに分割することにみられるような同一機関内での区別をいい、「分離」とは孤立化を意味する(シュミット『憲法理論』231頁)。

いわゆる「権力分立」とは、先に引用したシュミットの一文に示されているように、国家の統治権を分離してそれを孤立化するものではなく、むしろ、統治形式別に編成された組織(機関)が、相互にどう作用すべきか(ときには、どう統合されるべきか)にかかわる理論である。
複数機関が一つの権限を相互に分有しているからこそ分立論の目指す「機関間コントロール」が可能となるのである。
「権力分立」をもって、「三権分立」と同義と捉えて、対等な三権が並列的に独立して存在する機構とイメージすることは、避けられねばならない。
そればかりでなく、例えば、中央集権に対する地方自治、連邦に対する州、二院制議会における上院に対する下院といった「機関内コントロール」の構造も、「権力分立」論の射程内にあるからである。

「権力分立」が「三権分立」と単純に同視されるに至ったのは、アメリカ合衆国憲法制定以降である。
合衆国憲法策案者たちは、司法権に独自の地位を与えようとして、「三権の分立」を強調したのであった([194]参照)。

以上の諸点に配慮すれば、「権力分立」は、「権限」の「区別」と表現されるべきである。

[188] (四)「権力分立」論をドグマとしてはならない


「権力分立」をあまりに教説(ドグマ)化することは、柔軟な思考を妨げる。
国家には必ずしも「三権」が存在すべきものでもなく、その担当者も三つに分割されるべき必然性は、どこにもない。
レーヴェンシュタインの指摘するがごとく、「権力分立」は、政治的自由の保障をその目的(テロス(※注釈:telos 目的因、究極の目的))とするけれども、異なった諸機関によって権能が行使されるほうが分業技術上好都合であることにも、その存在理由をもっている。

論者によっては、「権力分立」を民主制と結びつけるものもあるが、それは正しくない。
なぜなら、第一に、徹底した民主制である直接民主制のもとでは、同理論の働くべき余地はないのであり、第二に、それは確かに、統治機構の民主化を目指した国民代表なる概念の登場と密接に関連しているとはいえ、同理論は、国民代表機関の法的最高機関性を否定する狙いを持っていたからである。
従って、ケルゼンのいうように、「権力分立の原則を民主的なものと唱えるのは、理論上の浅慮か政治的意図かの何れかによる」(ケルゼン『デモクラシー論』21頁)というのが正しい。
権力分立技術は、民主主義の産物ではなく、自由主義の産物である(但し、二院制が採用されている「権力分立」機構のうちの民選議院それ自体の地位と権能については、民主主義との関連を否定できない)。

[189] (五)「自由」は消極的で「負の力」にとどまるが故に統治構造上「権力分立」が組み込まれる


「権力分立」は政治的自由の保護をその目的とするとはいえ、「自由は何物をも作り出さない」(シュミット『憲法論』234頁)、換言すれば、自由は、個人にとっては「正の力」であっても、国家に対しては「負の力」にとどまり、統治のあり方について特に積極的・明示的には何も指示していない。
だからこそ近代立憲主義憲法典は、その経験上自由にとって相応しい分業的統治の形体として「権力分立」を明示的に組み込んできたのである([50]~[51]参照)。
もっとも、「権力分立」にも、実定憲法上さまざまなヴァリエーションがあり、それは、政治的自由の保障という基本理念が変わらぬところまで妥協する柔軟な統治技術である。
この点については、すぐ後の第三節([195]~[197])でふれる。


■第ニ節 「権力分立」論の体系化


[190] (一)「権力分立」の理論化は国家作用の類型化からは始まる


「権力分立」を理論化するに当たっては、二つの方向がある。
一つは、国家機関から国家作用を類型化する方向であり、他の一つは、国家作用を理論的に類型化することから始める方向である。
前者は、既存の国家機関の有する権限を、国家作用として羅列する傾向をみせる。
これに対して、国家作用の理論的類型化から始めて、担当機関の区別という「権力分立」を説いたのが、J. ロック(1632~1704年)の『市民政府論』(『統治論』とも訳出される)第二編、そして、C. モンテスキュー(1689~1759年)の『法の精神』の第11編第六章である(巻末の人名解説をみよ)。

[191] (二)ロックは立憲君主制を擁護するための理論を考えた


ロックは、政治社会には、①立法、②執行、③防衛、という三つの作用が存在すること、そして、この三つの作用は各人の「生命、自由および財産」(property)の保障装置として政治機構化されて、それぞれ①立法権、②執行権、③連合権、となること、を説いた(作用上の三権の理論的区別)。
第一の立法作用は、 一般性・抽象性、公知性・予測可能性という条件を満たす法定立行為であり、
第二の執行作用は、 一般的・抽象的法を特定事案へ適用する行為であり、立法を理論的前提として存在する機能である。
第三の連合権は、 国家であれば当然にもつ対外的自己防衛作用である。
さらに、イギリス法特有の概念である国王の大権作用(prerogatives)が、突然として、そこに付加される。
彼の理論によれば、結局、四つの作用が存在することになる。

それらの作用中、ロックは、立法の一般性、公知性等の属性を重視し、執行作用を立法作用に従属させた。
なぜなら、一般的抽象的規範を定立するという立法機能は、理論上、執行の機能に先行するという意味で優越するばかりでなく、人民から直接立法府に信託されたものであるから、その由来からしても、執行権に優越していなければならないからである(「 信託の理論 」)。

[192] (三)ロックは四作用の担当機関を二つに統合する


次に、担当機関の区別となると、ロックは理論的というより実務的な観点から、非常設の議会と、不断に活動するための常設の執行機関との分業を説く。
執行権と連合権については、同一の命令のもとに統一性を保持する必要性から、その担当者は単一機関、すなわち、国王であるとされる。
国王は、そればかりでなく、議会による抑制から差し引いた後に残される大権をも有する。
大権は、正当なる君主が、人民の福祉を守るために用いる、非常時の自由裁量として残されるべきもの、と位置づけられている。

かくして、国家の四作用は、ニ機関に統合されるのである(表13をみよ)。
ロックの目的は、専制君主制に代わる立憲君主制を擁護することにあったのであり、この観点から、国民(その代表機関としての議会)の有すべき作用と、国王の有すべき作用との区別に言及しながら、二機関の均衡を説いたのである。
ニ機関の均衡論は、立法権をめぐって典型的にみられる。
つまり、ロックは、君主が立法府の構成者たる資格において(これを「議会における国王」“King in Parliament”という)、立法権の主体となると説いて、議会と君主の力を均衡させようとしたのである(そのうえで、彼は議院と君主によって構成される議会をもって最高機関と位置づけた)。

【表13】 J. ロックの権力分立論
作用(客体の区別)   担当機関(主体の区別)
立法権          国民の代表 + 国王
執行権          国王
同盟権          国王
国王大権         国王

[193] (四)モンテスキュー理論は国家作用の類型別の担当機関を考えた


法を制定し執行してきた君主に対抗する勢力として、市民によって選出される代表からなる議会が登場した。
議会は、万人に影響する事柄に関して法を制定する権限を、君主から奪い始めた。
この歴史的展開のもとで、モンテスキューは、議会による法の制定と、君主や裁判所による法の執行が、正義に適うといいうるための国家統合のあり方を考えた。
彼の理論は、現実に見て取れる統治権の種別(軍事権、治水権、課税権、裁判権等々)を束ねたものでもなければ、統治に必要な「審議→執行→裁判」という三段階を理論化したものでもなかった。
その理論のユニークな点は、誰が、どのように法を制定してそれを執行すれば、それらの国家作用は正しいといえるか、という問に対して、次のように答えた点にある。

(1) 「正しき法→正しき法の制定→その法の正しき執行」という条件を満たすには、「一般的・抽象的法規範を制定する立法権→それを執行する行政権と裁判権」というように、国家作用を重層的に類型化すること。
(2) 誰も、すべての国家作用を独占すべきでないことは勿論、一つの作用をも独占してはならないこと(権限の分有)。
(3) 誰も、複数の機関を担当してはならないこと(兼職の禁止)。

右のような観点に立って、モンテスキューは、すべての国家には立法権、執行権(万民法に関する事項の執行権)および裁判権(市民法に関する事項の執行権)が存在する点を指摘して、国家作用を三つに分割する。
しかる後に、当時存在していた三つの社会的勢力、つまり、貴族、市民および君主に、それぞれの国家作用を分配することによって、相互間の抑制機能を発揮させ、権力の集中を阻止しつつ、均衡ある統治(混合政体または中庸政治)を実現することを彼は構想した。
彼にとっては、権力が権力を抑制することによって権力の均衡の達成される国家が理想国であった。

権力が権力を抑制できるためには、諸権力の分離ではなく、相互的な阻止と結合の体系がその構造の前提とされている。
そのことは、立法に当たっての立法府と執政府との関係に顕著に表れる。
執政府は、立法にあたって「阻止する権限」を行使することによって立法に参与する。
執政府は、同権限によってのみ、立法権に参与すべきであって、議会での討論に参加すべきでなく、また提案すべきでもない。
反面、立法府は、その制定した法律がいかに執行されたかにつき監督権限をもつことによって、執政権に参与するのである。
立法府は、執政府権限への「阻止する権限」を持ってはならない。
なんとなれば、執政府は立法のもとに置かれていることから、本性上、立法権に拘束されており、これ以上制限される必要はないからである。

このように、「権力分立」論は、ある一つの作用を複数の機関が分有することを理論的前提としているのであって、厳格な権限の分離を説いているのではない(表14をみよ)。
これを「 相互作用理論 」と呼ぶことにしよう。
機関間の相互作用を説く彼の理論は、(a)複数の機関が一つの作用を分有することを前提とした、(b)既存の社会的勢力間の混合政体論、であった。
そのために、(a)の点について、後世の法理論家は、実質的作用と形式的作用との理論的識別に悩まされていき、(b)の点については、B. コンスタン等のごとき、中途半端な分立論であるとの消極的な評価を下したのである。

【表14】 モンテスキューの分立論の概要
国家作用の別   関係する国家機関
立法権      ①君主が議会を召集すれば、議会は活動能力を与えられて、法律制定の審議に入り得る。
②1院が審議した後、2院が審議して、これに同意することによって、議会は「制定する権限」をもつ。
③君主が、立法を「阻止する権限」をもつ。
執政権      ①君主が議会制定法を執行する。
②議会が、君主による執行を監督する。
裁判権       人民の代表者が、非常時の機関を構成して、議会制定法に従って、裁判する。

[194] (五)モンテスキューは裁判権を権限相互の抑制関係から除外している


モンテスキューは、立法権、執行権そして裁判権という三権限を挙げておきながら、裁判権については常設的な組織体に担当させない点を強調するにとどまり、第三権としての地位を与えていない。
彼にとっての権力の抑制とは、①執行権の担当者たる君主、②立法府の一院を構成する貴族団、そして、③同じく立法府の他の一院を構成する市民(ブルジョアジー)、という三つの社会的勢力間の抑制であった。

裁判権は、その結果たる均衡とを壊すものであってはならない、という意味で、権力としても「無」でなければならない、と論じられた。
裁判権が「無」であるためには、それは常設的組織によって担われるべきでなく、しかもその「判決はまさに法の明文に他ならぬというほどに固定的であるべきである」、「裁判官は法の言葉を述べる口」でなければならない、と強調された。
もともとモンテスキューは、裁判権を他の二権と同列に扱ってはいなかった。

彼の構想は、
(ア) 立法権と執行権との本質的な違いを論ずることによって、両者を区別すべきことを説く部分と、
(イ) 裁判権を他の二権から区別することを説く部分と、
から成っていた。
このうち、(ア)については、「権力が権力を抑制する」ための様々な相互手段のあることが詳論され、(イ)については、抑制の関係から除外され、立法府の示したことを語る口である点だけが強調された。
裁判権の位置づけは、分立論からではなく、もともと「法の支配」から来ていた([68]参照)。
司法権の独立は、ある権限の主従関係(従たる機関の重要でない関与)を説く分立論とは別の構想に基づいていたのである。

こにように、モンテスキュー理論においては、三権が同一軸に従って並列的に置かれているわけでもなければ、三権の「抑制と均衡」関係が構想されていたわけでもないのである([198]参照)。
彼の理論にとっては、抑制が第一次的であって、均衡はその副産物であった。
だからこそ、裁判権は「無」の地位に置かれるだけで済んだ。

ところが、早くもフランス革命期に、立法権は議会に集中されるべきであるとするルソー理論の影響を受けたために、「権力分立」論とは、完全に分離された三権を三機関が別々に担当することである、と理解され始めた。
この理解を「完全分離イメージ」と呼ぶことにしよう。
完全分離イメージに影響されて後世は、「立法」、「行政」、「司法」という三権の均衡こそ分立論の眼目であると受け取った。
例えば、《執政府は、議会召集権、法律発案権、法律の共同可決権、拒否権、認証・公布権、議会解散権のいずれも持ってはならず、兼業禁止を厳格に実行しなければならない》とか、《議会は、執政府の選出権、執政府に対する弾劾権、不信任決議権のいずれも持ってはならず、執政府をその信任に依存させてはならない》と説かれたのも、完全分離イメージの影響であった。
アメリカの判例が、《裁判所は司法審査権の担い手でもある》とする解釈を打ち立てたことも、完全分離的理解に拍車をかけた。
というのも、モンテスキュー理論においては「無」であった司法府が司法審査の機関として顕在化された段階で、「三権の均衡」の図式が完成されたようにみえたからである。
ところが、アメリカの建国の父たちが採用したのは、完全分離イメージではなく、相互作用理論のほうであった([196]をみよ)。


■第三節 理論上のシェーマから実定憲法での受容へ


[195] (一)「権力分立」は純粋なかたちで実定憲法典に実現されたことはない


「権力分立」論は、国民代表という観念、そしてその権力組織たる議会の存在なくしては、登場し得なかった。
とはいえ、ロックやモンテスキューにみられた古典的「権力分立」論は、一面では、権力組織としての議会に対して「正当なる君主の大権」を擁護する理論、または「混合政体」内部における立憲君主の地位を擁護するための理論であった。
もともと、その理論によって、君主と議会との間の生きた政治的権力関係を正確な均衡状態に置くことは期待できなかったのである。

この混合政体論は、イギリスのW. ブラックストーンにもみられた。
曰く、「立法においては、庶民は貴族に対する抑制者であり、貴族は庶民に対する抑制者である。両者はそれぞれ、他方が決めたことを拒否する権利を持つ。これに対して国王は、この両者に対する抑制者である。この抑制によって執行権は侵害から守られる」。

こうした混合政体論は、二元的対立構造をなお強く示していた大陸諸国、なかでもドイツにおいて、君主と貴族との二元的抑制関係の部分を強調する、立憲君主制擁護のための理論へと変質させられていった(この点については、[197]でふれる)。
それにも拘わらず「権力分立」論は、その後も、公理の如く扱われ、今日でさえ、過大に評価されている。
現実には、その理論は、実定憲法に導入されるに当たって、各国の政治力学や法文化の前に大きく変容せしめられており、不動の中核部分すら欠いているかのようである
もともと「権力分立」論は、君主の位置を中心にして抑制の図式を描いた超実定憲法的な制限政体論なのであるから、現実の執政府と議会との力関係が実定憲法上の「権力分立」構造を決定した。

[196] (ニ)アメリカは厳格分離イメージに比較的忠実であったといわれるが、独特の分立理論によっている


アメリカの13州は、制憲権理論または国民主権理論を基礎としつつ、「権力分立」論をも憲法典に採用した。
それに続くアメリカ合衆国憲法(1788年)は、先にふれたように、厳格な三権の分立形態を受容した、と一般的にいわれる。
確かに、君主に似て非なる大統領が議会の信任に依存しない点、議員の兼職が禁止されている点、執政府(Executive Branch(【N. B. 13】参照))が法案提出権や議会の解散権を持たない、とされている点では、執政府と議会とを最大限分離する方向にあるようにみえる。

【N. B. 13】「執政府」なる用語について。
本書は、 Executive にあたるものを「 執政 」と表現する。
なざなら、通常それは「執行」といわれるところであるが、いずれ [400]、[402] でふれるように、Executive とは、本来「法令から自由な活動領域」を意味し、議会制定法を執行していくことではないからである。
なお、Executive の類似語として、Administration がある。
Administration とは、 執政府の指揮監督のもとで、公務の遂行に当たる人々の全体またはそのための組織 をいう。
通常は、Executive、Administrative ともに、「 行政 」と表現されるが、それは誤導的である。
本書では、前者を「執政」、後者を「行政」と使い分ける([402] もみよ)。

ところが、連邦議会のもつ宣戦権、上院のもつ承認権(条約承認、公務員任命の承認)、弾劾裁判権にみられるように、議会または院は三作用全てを自らに集中しているのであって、厳格な権限の区別に立っているわけではない。
さらには、大統領の停止的拒否権(Veto Power)、審議勧告権、非常事態における議会召集権は、厳格分離イメージから程遠い。
かつまた、アメリカ建国の父たちの構想した司法審査制は、古典的「権力分立」論を大きく変容させた([194]参照)。

[197] (三)「権力分立」は立憲君主制下で新たな局面を迎えた


「権力分立」理論は、執政府と立法府との抑制関係のあり方を最大の関心事としてきた。
その具体的内容は、その国ごとの、執政府と議会の正当性を支える理論と実践によって当然に異なってくる。
なかでも、執政府の長として、君主以外に、大統領や宰相が登場してくると、「権力分立」の実相は大きく変容してくる。

例えば、イギリスのように君主の基盤が弱く、議会の正当性が強い国では、議会優位の君主制(議会主義的君主制)となった。
これに対して、君主の基盤の強い国々では、「権力分立」論は、近代立憲主義思想の普及と共に、「自己拘束する立憲君主制(【N. B. 14】参照)」を支える理論として援用されてくるのである。

【N. B. 14】「立憲君主制」の意義について。
立憲君主制の指標は、
議会が法律を制定すること(ただし、その場合であっても、君主が何らかの形で立法過程に参与する。例えば、君主の力が強い国家にあっては、君主の裁可権が立法の成立要因とされる)、
議会が政治活動を監督すること、
大臣が君主の行為に副署して、責任所在を明確にすること(大臣助言制が採用されていること)、
裁判所が独立していること、
君主と議会(または議院)の双方が直接的国家機関として存在すること、
に求められる。
なお、君主権限の強い国家においては、君主を輔弼するための大臣たちの緩やかな組織体が登場することがある。
この組織体は、一体的な輔弼機関としての「内閣」とも異なる存在であって、両者を区別するために、前者については「 政府 」なる呼称が用いられる。

「自己拘束する立憲君主制」の理論のもとで、「権力分立」は、新しい局面をもつに至る。
その局面は、執政権と立法権の厳格な分離・抑制の体制に代わる、君主のもとでの「 諸権力の協同体制 」と称せられる。
協同体制の指標としては、
(a) 君主が国家権力の源泉であることを大前提として、
(b) 君主に対する政府(大臣)の助言制度が採られていること、
(c) 君主と議会が立法権を共同行使すること(立法に関して、君主の裁可が必要とされること)、といった権限行使方法が中心となるばかりでなく、
(d) 君主が議会会期の開閉の決定権限をもっていること、
(e) 君主が民選議院の解散権を有していること、
(f) 大臣と議員との兼職が容認されること、
(g) 大臣が議会への出席発言権をもつこと等、機関間の相互作用も挙げられている(詳しくは、第11章の「議院内閣制」、なかでも [214]、[217]参照)。

このように、協同体制が強調される分立論のもとでは、一方では、唯一の国民代表機関である立法機関を最高機関足り得なくし、他方では、君主を憲法的拘束のもとに置くことが試みられるのである。


■第四節 「権力分立」論の語らないもの


[198] (一)モンテスキューは三権を「法」のもとに置こうと考えていた


先にふれたように([192] および [195] 参照)、古典的「分立」論は、一面では、当時新しく発生しつつあった議会を、君主制という既存の海図に上手く位置づけようとする試みであった。
ところが、そればかりではない。
「分立」論は、制限政体にとって本質的な「法」のもとに、「政法」(今日いう「公法」)を制定する議会を置き、さらにそのもとに、政法を自動機械さながらに執行する執政府・司法府を置くという、垂直的に発動される国家作用の序列を説いたのである。
そして、「これら三つの権能は静止または不動の均衡状態を形成しなければならない」とするフォーマルな視点に立って、各機関間の抑制が説かれた。
国民の国制上の地位は扱われなかった。

[199] (ニ)「法」づくりと「立法」は同義ではなかった


国家作用のうち、中心的位置を占めてきたのが執政権である。
このことは、歴史を通して真実である。
立憲主義は、恒常的に発動されて流動的となりがちな、国家作用の中心たる執政権をいかに統制するべきか、苦慮してきた。
「権力分立」論は、それへの解答の一つであった。

モンテスキューの「権力分立」論は、立法・執政を統制する「法」を置いて、「法→立法→執政・裁判」という垂直的統治構造による執政権の制限を説いたのである。
彼は、「各国民の政法・市民法は・・・・・・人間理性 [という法] が適用される個々の場合であるべきである」と述べており、「法」(law)と「制定法(legislation)とを同視していたわけではなかった。

ところが、その後の思想家たち、なかでも法実証主義的公法学者たちは、その「法」を立法府の制定する「立法、制定法」と等置してしまった。
そのために、通俗的理解による「権力分立」論は、「モンテスキューが立法(制定法)のもとに行政作用と裁判作用を置いて、国家統治権を民主主義化することを構想したもの」と早計にも即断してしまった。
だからこそ、「議会による決定→内閣(政府)による執行」という図式が強調され、《権力分立は自由主義的でもあり、民主主義的でもある》という誤った理解が普及してきたのである。

[200] (三)執政権は行政権と同義ではなかった


立法活動は、間歇的にのみ姿を現すのに対して、執政は恒常的に行われなければならない。
直接機関を基軸にして形式的に国家作用を範疇化する思考で以ってしては、動態的な執政作用を把握しきれない。
執政の客体たる実質的意味での執政(動態的側面)と、執政主体(静態的側面)との間には、齟齬が生ずるのも当然である。

その齟齬部分は、いわゆる「行政控除説」によって埋められたかのようにみえた(しかしながら、控除説は分立論の皮相的理解の産物であった。行政の意義については、[402]参照)。
法治主義思想は、その控除部分を法律のもとに置くべく努力するものの、それが成功したわけではない。

実は、モンテスキュー以降の分立論が、執政権を「法律のもとに置かれる『行政権』」に等置してしまった段階で、国家作用に関する正確な把握は困難となったのである。
特に、モンテスキュー理論は、大臣やその会議体である政府という存在を知らなかった。
分立論は、君主と大臣とが一体足るべきものとの前提に立っていた。
ところが、立憲君主制は、大臣を憲法典上の別個の機関として置かなければならない「機関内コントロール」体制である(これに対して、君主制は大臣を置いてもよい体制であった)。
この時点で既に、大臣の活動と君主権限とを「行政権」という一つの概念で説明することは出来なくなっていたのである。

これに対して、イギリスの法的伝統は、行政権には還元できない「国王の大権」を知っていた([192]参照)。
その伝統を一部受け継ぐアメリカも、大統領の執政権限(Executive Power)と、行政機関の為す行政(administration)との区別を知っていた([196]参照)。
我が国の明治憲法典下の天皇の宮務大権や統帥権等も「権力分立」概念では説明できなかった。
複雑な国家作用を三権の類型で論じ尽くすことが、もともと不可能だったのである(イェリネック『一般国家学』496~98頁参照。また、[336]もみよ)。
ところが、憲法学は、「執政/行政」の別を軽視して、両者を一体として捉えるか、さもなくば、後者の行政に関する統一的理論体系の樹立を放擲して、それを行政学に全面的に委ねてしまった([492]もみよ)。

また、19世紀の諸外国の憲法典にみられた会計検査院の存在は、議会からも執政府からも独立した特異な機関であった。
さらには、アメリカに登場した独立行政委員会や、スカンジナビア諸国に登場したオムブズマン(行政監察官)とその変種も、「権力分立」論のなかで余すところなく説明できるわけではない。

[201] (四)裁判は「立法」を語る口ではなかった


また、「権力分立」論は、裁判の扱いにも疑問を残している。
モンテスキューは、裁判が「法」を語る口であることを望んだ。
ところが、その「法」は、先にふれたように([199]参照)、後世の法実証主義者によって、立法であると誤解された。
ここから、行政と裁判とは、共に立法府の指示を具体的ケースに適用することであり、本質的な違いはない、とする理解を生んだのである。
この理解のもとで後世は、行政と裁判とを区別することは凡そ不可能であり、歴史的に解明し得るのみと説明することを余儀なくされる(「裁判」と「司法」との違い、「司法」の本質については、第二部第10章第一節の [420] でふれる。ここでは、取り敢えず原則として「裁判」なる用語で議論を展開する)。

[202] (五)「権力分立」論はインフォーマルな政治過程を説明しきれない


さらに、現代国家においては、フォーマルな「分立」論では処理しきれない現象が次々に現れてくる。
その現象の一つが現代国家にみられる「政党国家」(権力奪取を恒常的に目指しながら活動する政党の噴出)現象であり、他の一つが国家による「社会的領域」への介入を顕在化させている「積極国家」現象である。

この現代国家における権力抑制構造は、「立法府 対 執政府」といった公式に制度化された権力組織相互間の抑制にあるというよりも、「議会内部の与党 対 野党」の抑制、そして「(政党によって組織化された)国民 対 政治部門」の抑制、という非公式で流動的な形をとる。
そして、その主たる抑制対象も、フォーマルな統治過程(例えば、法律案の成立の阻止)であるよりも、官僚による政策立案過程に向けられなければならない。
官僚による政策立案領域は、今日では、法律案の作成といった立法の準備にとどまらず、経済政策、文化政策、外交・防衛政策等、国家や国民生活にとって極めて重要な分野にまで及び、しかも、それらは「法令から自由な活動領域」として実行されているのが実状である。
この領域をいかに有効にコントロールするかという側面こそ、現代立憲主義の直面する課題である。

「法令から自由な活動領域」の典型例が戦争の遂行である。
確かに、軍隊の組織や経費負担等を定め、戦争権限を手続的に拘束する例は多くの国の憲法典にみられるものの、展開予想の不可能な戦争遂行に当たって具体的個別的な確固たる規準が与えられることはない(戦争権限は、先にふれた執政行為または統治行為の領域に属する)。
古典的な「権力分立」論は、この古くて新しい現象に対して、ほとんど何の回答も与えていないようにみえる。

「立法府 対 執政府」の抑制機能が減退をみせてくると、裁判所による政治部門の抑制機能が分立論のなかで脚光を浴びてくる。
第一次世界大戦以降、各国が違憲審査制の導入に踏み切ったのは、「分立論」のなかに「法の支配」を復活させんがためであった。
その理念を統治構造に反映させるに当たって最も適格な組織体は、司法府であると目された([438]参照)。

[203] (六)「権力分立論」小括


「権力分立」の思想は、統治を完全に民主化しないための技術であって、自由主義の産物である。
それは、「専制政治」から自由を擁護するためのイデオロギーであって、「貴族制」を否定するものではなく、それどころか、立憲君主制や混合政体を支援するための理論であった。

こうした陰の部分を多く持つにも拘わらず、同理論が、多くの国の憲法典に受容されたのは、レーヴェンシュタインの指摘しているように、「個人的自由を『権力』の分立と同一視した」ためもあろうが(レーヴェンシュタイン『新訂 現代憲法論』50頁)、そればかりでなく、統治権すべてを法のもとに置いて統治の安定化を狙ったためである。

こうした本来の狙いを考慮すれば、我が国の古典的理解のように(清宮『権力分立制の研究』)、同技術をもって自由主義的でもあり民主主義的でもあるとすることは誤りだということが分かる。
このことを誤りだといわないためには、《古典的な権力分立論は、国民主権原理が採用された段階で、大きな変更を受けた》という説明を介在させることを要する。
つまり、古典的な権力分立論は、主権者・国民という要素を知らなかったのに対して、19世紀以降の国制には有権者団という国家機関が不可欠の要素となった、という視野をもつことである。
この視野をもったとき、議院内閣制における議会と執政府との均衡は、最終的には国民の選挙によってもたらされるに至る、という展開が理解できるようになる([215] 参照)。

分立理論は、これまでの実定憲法典中に実現されたことはなく、その統治技術は、自由の保障という基本理念が変わらぬぎりぎりのところまで妥協するほどに柔軟である。
また、分立論は、制度化された権限間での抑止のメカニズムを説くために、現代国家の動態的でインフォーマルな憲法現象を十分に捕捉し切れない。

とはいえ、近代立憲主義憲法典が、「分立」論に依拠して、次のような二重の制御メカニズムを用意している点は忘れてはならない。
第一は、 統治権限の分割 である。
これは、ある一つの憲法典上の行為が幾つかの権力保持者の協同によって成立したときのみ有効となる、とされる場合をいう。BR()例えば、立法機能の両院への分割、憲法改正の議会による発案と国民投票への分割等がこれに当たる。
第二は、 統治権限の阻止 である。
これは、ある権限保持者の行為に対して、他の権限保持者がこれを受動的に阻止する場合をいう。
例えば、アメリカの大統領の立法への拒否権、議会による内閣不信任決議に対する内閣の議会解散権、違憲審査制等がこれである。

権力分立論における右のメカニズムを理解できれば、我々は、次のような了解に達するであろう。
権力分立論は、一機関に一権限を分配する理論ではない(完全分離イメージは正しくない)。
権力分立論は、国家作用を三つに限定するための理論ではない。主体別に作用を配列すれば、三つ以外の作用が出てくるのは当然である。
権力分立論は、統治過程を静態的に捉えている、という評価は正しくない。分立論は、統治過程を連続したものと捉えながら、諸機関の相互作用のあり方を動態的に分析した結果である。

なお、「権力分立」論の狙いが、三権の分離ではなく、統治権限の分割にあるとする以上、それは、議会内部での分割(二院制)、地方分権(地方自治)、さらには連邦制をも射程内に取り込むことになる。
もっとも、二院制は、モンテスキューの説いたところであるが、後世代はこれを「権力分立」の必須要素とは考えなかった。


■第五節 日本国憲法と「権力分立」


[204] (一)「権力分立」の純粋理論に従った条文スタイルはこうなる


「権力分立」は、「立法」、「執政」、「裁判」の三権に平等の地位と権限を付与するものではなく、また、それぞれが分離独立することを意味するものでもない。
確かに、厳格分離イメージによれば、

「立法権は、機関1に与えられる(に属する)。」
「執政権は、機関2に与えられる(に属する)。」
「裁判権は、機関3に与えられる(に属する)。」

という権限配分規定形式によることになろう(アメリカ合衆国憲法典の条文は忠実にこれに従っている)。

ところが、実定憲法典に「権力分立」理論が組み入れられる際に、その当時の政治的権力関係を反映して、その実現態は一様でなくなることについては既にふれた([195]参照)。
特に、君主主権を放棄しようとしない国々においては、君主が統治権を掌握するものとの前提に立って、

「立法権は、君主および機関Aが共同して行使する。」
「裁判権は、機関Bが行使する。」

という「権限行使方法」が憲法典に規定され、「分立」論の名のもとで「統治権限の分割」が前面に押し出されてくる。

[205] (ニ)明治憲法は純粋の「権力分立」制を採用しなかった


明治憲法は、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」(4条)と定めた。
これは、統治権を三分し君主がその一部を担当するという「分立論」を拒否する趣旨である。
明治憲法体制においては、国家作用は、まず宮務と国務(広義)とに分けられ、広義の国務はさらに、統帥事務と狭義の国務とに分けられた。
狭義の国務は、さらに、立法、行政(このなかでも、会計検査院と賞勲局には独立性があった)、司法へと分けられた。
そのうえで、三権の行使方法は次のように規定された。

「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」 (5条)
「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」 (55条1項)
「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」 (57条1項)

これは、立憲君主制の明示にとどまり、「権力分立」さながらではない。
明治憲法典が「外見的」権力分立を採用したと、ときに称せられるのは、天皇の統一的統治権を不動のものとしながらも、立法、司法の権限行使方法に言及している点に、統治権の区別であるかのような外観が与えられるからである(美濃部達吉『憲法撮要』67~70頁は、立憲政体を、①スイス流の直接民主主義、②アメリカ流の三権分立主義、③イギリス流の議院内閣主義、④ドイツ流の官僚内閣主義、に分類して、明治憲法下の政体は①、②ではなく、日本独自のものであると指摘した。また、③、④は憲法典上の分類ではなく、慣行上出現した政体の分類に過ぎない、とされている)。
明治憲法典は、天皇の自己拘束の理論のもとで、立憲君主制を採用し、君主権限行使を無制限とはしないために、その行使方法と程度とを規定したのである。

[206] (三)現行憲法は独特の「権力分立」制を採用した


我が国の憲法典は、「権力分立」理論に影響されて、立法・行政・司法という国家作用の区分のもとで、立法のもとに行政と裁判とを置いた。
さらに、担当機関も分離して、国会・内閣・裁判所を置いて、それぞれの機関に三作用を分属させた。
ここまでは、厳格な「権力分立」の基本構想さながらである。
そのことは、現行憲法典の次のような条文スタイルに反映されている。

「国会は、・・・・・・唯一の立法機関である。」 (41条)
「行政権は、内閣に属する。」 (65条)
「すべての司法権は、最高裁判所・・・・・・に属する。」 (76条)

ところが、三機関の相互関係となると、我が国独自のものとなる。
まず、立法府と執政府との関係については、日本国憲法は、その二元的対立を避けるために大統領制によらなかった。
両者の関係につき41条が「国会は、国権の最高機関であって、」としている部分は、国会に権限を集中する独特の統治構造であると理解する余地を残す(この点については、[222]参照)。
これに対して、内閣の国会に対する連帯責任に言及する66条2項等は、国家と内閣との協同体制たる議院内閣制を含意するようでもある(議院内閣制については、次章でふれる)。
さらに、司法審査制に関する81条は、アメリカ的な「三権の均衡重視」を示唆するかのようである(司法審査制については、第二部第10章第三節の [437] 以下でふれる)。


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