第三章 憲法(典)の存在理由とその特性

阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)   第一部 国家と憲法の基礎理論    第三章 憲法(典)の存在理由とその特性 p.45以下

<目次>

■第一節 憲法(典)の存在理由


[48] (一)憲法(典)の存在理由は、共通のルールを設定して、各人の「自由」を守ることにある


「自由」という言葉は多義的である。
本書でいう「自由」とは、強制のないこと、すなわち、「 消極的自由 」(negative freedom)をいう。
その自由は、他者からの強制を受けることなく、各人の望むところを、自ら有する知識に立脚して追求し得ることをいう(ハイエク『自由の条件Ⅰ』)。

「消極的自由」は、政治参加して権力を獲得すること(「国家への自由」と呼ばれる政治的自由)ではなく、「求めるものを実現する力」でもなく、また、平等の実現でもない。
さらに、「消極的自由」は、「国家による自由」と呼ばれる各人の幸福実現でもない。
「自由」とは、万人に共通する究極目的の存在を否定し、究極の目的設定とその実現を各人に委ねることを意味する(自由の意義および価値については『憲法理論Ⅱ』 [48]~[53]で詳論する)。

このように、真の自由は究極目的を知らない。
ただし、自由は、各人の意図追求にとって必要な手段についてのみ合意を生み出す。
各人がその望むところを追求するにあたって必要とするその手段こそ、共通の体系的ルールであった。
自由な国家に共通の善が存在するとすれば、それは、個人的意図の追求に便宜となる普通妥当な共通のルール、すなわち法を国家が提供し、維持することである。

[49] (二)強制は避けられない


いかに自由な社会であっても、強制は避けられない。
自由は強制を基本的には忌避するものの、貴方の自由に対して強制を加える者に、国家機構が強制を加えざるを得ない。
強制を排除して、貴方の自由を保護するためには、国家機構の強制に拠らざるを得ないからである。
これを「 自由のパラドックス 」という(「自由」全般については『憲法理論Ⅱ』でふれる)。

法という一般的抽象的ルールは、その強制を最小化し、自由を最大化するための工夫として、人間が長期に亘って学習し、受容してきた自生的装置であり、抽象的な知識である。
法は、国家による強制を最小化しつつ貴方の自由を最大化すること以外の目的を持ってはならない。
また、法は一定の条件を満たす成員全員に等しく向けられていなければならず、特定の目的を持ってはならない。
法は、ある人が何を為さなければならないかを決定できないのであり、何を為してはならないかを受範者を特定しないで決定するものでなければならない(それは、丁度我々がルールによって「フェアプレイ」を求めたとしても、それが何であるか語り尽くせず、ただ「アンフェアなプレイ」だけを具体的な文脈の中で排除できることと似ている。先の[47]で「負の力」という表現を用いたのは、これを念頭に置いている)。

法の中でも憲法(典)は、国家機構による強制の及び得る範囲を画定し、各人の自由を最大化することを目的としている。

[50] (三)もっとも「自由」は統治構造のあり方について明示的な指示をするわけではない


「自由」は、各人の生活設計について各自の判断に委ねるよう指示するものの、万人にとっての共通の目的を持たないだけに、統治機構の具体的なあり方については何も指示しない。
「自由」は統治権力に対する「負の力」にとどまる。

そこで我々は、「自由」のために、憲法(典)において、歴史的経験的に学びながら、「自由」を諸基本権カタログとして類型・具体化し、なおかつ、各人の選好を強制のない中で統治に反映させながら、「制限された政府」として相応しい統治の機構(強制を最小化する国家機構)を定めようとするのである。
その結果、憲法は、「統治機構と基本権の部から成る」、と言われるに至る。
中でも、ヨーロッパ大陸では、その絶対主義の崩壊期に、政治的統一体としての国家を維持するためには、組織的な統一性を法文書として書き込むことが必要であった。
それが、成文憲法、すなわち、憲法典である。
成文憲法の原点は、この観点からすれば、個人の自由権を文書の上で確定することにあるのではなく、政治的統一体としての国家の構成を明示することにあった。
換言すれば、憲法典は、第一に、国家との関係で市民が自由に行為できる領域を確認すること、第二に、市民の自由な領域を最大化するに相応しい国家機構を設計図として描くこと、を目的として制定されたのである。

[51] (四)統治権力から各人の「自由」を擁護するための憲法を近代立憲主義的憲法という


近代立憲主義的意味での憲法とは、強制の不存在という意味での消極的自由を擁護するために、「 配分原理 」および「 組織技術 」(権力分立という統治技術)を内容として組み込んだルールをいう(権力分立については、後の第10章の [185] 以下でふれる)。
「配分原理」とは、自由は法の許容(国家の意思)によってもたらされるものではないからこそ、原則として無限定に各人に保障されるのに対し、その領域を侵害する国家の権能は限定されること をいう。

近代立憲主義は、多くの場合、成文、成典かつ硬性の形式をもつ憲法典のもとでの統治を実現しようとした(この時点から、憲法と憲法典とが同視され易くなる)。
立憲主義憲法は、「実質的意味での憲法」(成文、不文を問わず、およそ国家の組織・作用の基礎に関する constitution)を、「形式的意味での憲法」(憲法典という成文成典形式で存在する憲法)の中に可視化させながら可能な限り閉じ込めた。
そればかりでなく、憲法典は、最高法規という実質をもつことによって下位法に対する拘束力を併せ持った。
またさらに、それは、権力分立という組織技術に拠りながら、統治権力の行使を制限することによって、国民の自由を保障するという「配分原理」を狙ったのである。

もっとも、国民の自由とは消極的自由をいう、と先に定義づけたものの、近代立憲主義のモデルを、フランス革命に求めるか、それともアメリカ革命に求めるかによって、「自由」や憲法の存在理由を捉える方向は変わってこよう。
この点は、次の[54]でふれる。

[52] (五)近代立憲主義は「法による統治の先導・統制」を実現する目論見である


「立憲制とは、制限された政府を意味する」(ハイエク)といわれる。
近代立憲主義的意味での憲法は「制限された政府」を実現するための法文書である。
そのためには、統治に先行しそれを指導する規範を可能な限り明文化することによって、統治権力を制約することを構想しなければならない(もっとも、その規範が全面的に明文化されることはない)。
そのルールこそ「法の支配」という思想である(この点は、後の第四章[64]~[75]でふれる)。


■第二節 近代立憲主義にいう「自由」と「民主」


[53] (一)自由主義は法がどうあるべきかに関する思想である


「自由」とは、[48]で述べたように、外的強制のないことをいう。
自由主義とは、国家の強制力を制限し、法がどうあるべきか(または、誰が権限保持者であれ、権力者に課せられるべき制限、国家活動の範囲にかかわる体系)に関する思想体系である。

自由主義は、個人の自由を最優先する思想体系であるが、それは、次の二つの要素から成る。
第一は、 国家の統治活動を法の支配のもとにおいて国家の強制力の使用を最小限とすることであり、
第二は、 国民の経済活動に対する国家の介入を最小限とすることによって「市場での自由経済」を維持することである。
この第一の要素と第二のそれは、無関係ではない。
真の自由主義は、国家の経済政策をも法の支配のもとに置くことを考えたのである。

自由の領域から防御権としての個別的な基本権が生ずるとした場合(この点については、『憲法理論Ⅱ』 [55] で述べる)、基本権は超国家的・前国家的に存在するものであって、国家が法律によって授与するものではない、と考えられ易い(その思考法が自然権思想である)。
しかし、自由といえども国家内に存在し、国家によって保護されると考えるのが正しい。

国家と憲法の存在理由は、個人の自由領域を保護し、それをカタログとして例示し、自由を根源とする基本権保護に奉仕する点にある。
もっとも、自由と基本権とは同義ではない。
自由は、諸基本権を獲得するための条件を各人に提供する基盤である。
諸基本権は、一般的自由を基幹として保障されるに至るのである(この点については、『憲法理論Ⅱ』 [52]~[55] 参照)。

民主主義なる語は、個人的自由を尊重する体制を指すものとして度々用いられてきている。
ところが正確には、自由と民主は包摂関係にも、対立関係にもない、相互独立の概念である。

[54] (ニ)自由は法と対立せず、法と不可分である


自由は法と対立するものか否か、歴史を通じて絶えず論争されてきた。
かたや古代ギリシャ時代の主流思想から始まって、ロック、スコットランドの自由主義者から、今日のアメリカの政治学者に至るまで、《自由は法なしには存在しない》と説いてきた。
彼らにとって、法は、個人に何を為すべきかを指示するものではなく、個人の選択の機会を保障するものとされ、そのために、自由と法とが不可分であると考えられたのである。
他方、ホッブズ、ベンサム、フランスの思想家、そして近代の法実証主義者たちは、法は基本的に自由への侵害であり、従って、「自由とは法の禁じていないことを為す一切の権利である」(ベンサム)と説いてきた。

この見解の対立は、法に対する見方の違いを反映している。
法実証主義者は、法が人間の合理的設計(意思)に従って作られるであろうことに期待を寄せ、法(law)と立法(legislation)とを同一視しながら、設計の外に漏れやすい自由を法(立法)に従わせようとする。
このため、法と自由が対峙され、法の自由侵害性が説かれるのである。

これに対してスコットランド啓蒙思想の流れを汲む自由論者は、法は合理的設計によって語り尽くされるものではなく、人々の自由な営為の積み重ねのなかで修得されて生まれ出るものであって、権力者の意思(立法)がその法を侵害しないところにこそ自由あり(【N. B. 9】参照)、とみるのである。

【N. B. 9】自由と法の見方の変遷について。
自由の概念は、次のように、歴史的に様々な変転をみせてきた。
E. クック(1552~1634)時代の自由は、普通法上保障されてきた、具体的で伝統的な特権すべてを意味した。
その後の啓蒙期には、自由は、人であれば先験的・無条件的に有するはずの抽象的な権利(人権)を意味するようになる。
その射程も、フランス啓蒙思想と、スコットランド的それとで、異なってくる。
真の意味の自由は、後者である。
「現代における個人的自由は、17世紀のイギリスより以前に遡ることは、ほとんど不可能である」(ハイエク)。
「自由」を知らない大陸では、自由は権力に近づくことである、とか、自由は理性の命ずるところであると捉えて、抽象的な自由の議論を作り上げた。
そうしたフランス的啓蒙思想を反映したフランス革命は、貧困の撲滅から幸福の条件まで、自由の名で実現すると約束した。
それは、国家による経済市場への介入、ユートピア的社会への全面変革を容認する思想へと膨らんでいった。
これに対して、アメリカ革命は、「独立宣言」にみられるように「幸福の追求」を個人に保障しようとしたに過ぎず、権力を用いて富を再分配したり幸福の条件を整えることは論外であった。
アメリカ革命を支えた思想は、スコットランドの啓蒙思想であって、それは、自由な社会システムに諸問題の解決を委ねたのである。
こうした二つの流れは、自由とは理性によって統制された(されるべき)ものとみるか、それとも、「画一的な目的も終局も措定することもない」もの(オークショット)とみるか、「二つの自由論」として、今日まで論争されてきている。
本書は、スコットランド啓蒙思想にいう「自由」を妥当と考える。
その自由は、消極的で無内容にみえるものの、「それが積極的になるのは、我々がそれから生み出すものを通じてのみである」(ハイエク『自由の条件Ⅰ』33頁)。

[55] (三)民主主義は何が法となるかに関する思想である


民主主義とは、多数意見による決定方式に基づきながら、何が法となるかについての教義をいう。
その教義は、これまで国民主権の理論のみならず、基本的人権の尊重思想と不可分の形で、あたかも統治の目的であるかのように議論されてきた(目的としての民主主義観)。
民主主義が自由の条件であるかのように説くとすれば、それは民主主義という用語の濫用である。
自由の範囲は、政治的意思決定の及ぶ干渉の範囲によって左右されるのである。

民主主義とは、望ましい統治の方法・手段をいうのであって、統治の目的ではない。
それは、誰が権力を如何に行使するかを問うのである。

自由主義と民主主義との関係の捉え方は、次のように様々である。
第一の見解は、両者の融合・調和的に捉える立場である。
これは、フランスにみられてきた伝統的思考である。
フランスにおいては、ローマ教会との争いのなかで、教権から自由に、統治形態について自己決定することが「自由主義」の眼目であると捉えられたために、自由主義運動が容易に民主主義運動と結びついたのである。
我が国の社会科学の相当数が、民主主義は自由の擁護を内包する政治体制である、と説くのは、この影響を物語っている。
ところが、「民主主義への道を自由への道と考えた人々は、一時的な手段が究極の目的と誤解したのである」(F. メイトランド)。
これに対して、両者を対立的に捉える立場も有力である。
その代表的論者がC. シュミットである。
彼は、自由主義と民主主義とが結合したといわれる現代議会主義の危機を摘出するにあたって、こう述べる。
自由主義は抽象的人間に対して自由と形式的平等とを保障する点で異質性に根底を置き分散的であるのに対して、民主主義は人間を政治的な利害をもち政治的に規定された公民とみる点で、その同質性を原理とするのであって、両者は区別されなければならない。現代の議会主義の危機は、両者を区別しない見解にこそ内在しているのである(シュミット著、稲葉素之訳『現代議会主義の精神史的地位』参照)。
第三の見解は、本書で示したように、両者を独立した概念と捉える立場である。
自由主義と民主主義が、相互に独立する概念であることは、その反対物を挙げれば、はっきりする。
民主主義の反対物は権威主義であり、自由主義の反対物は全体主義である。

「民主主義」(democracy)は、ギリシャ語のデーモス(demos = 多くの人々)のクラトス(kratos = 権力)を語源とすることから分かるように、「権力は人々に属す」の意であり、「多くの人々による支配」を表すにとどまる。
「民主」なる用語の濫用の典型例が、「実体的民主主義」とでもいうべき民主主義観である。
この立場は、実体価値として、特に「自由で平等なる市民(シティズン)としての価値」を重視し、市民を自由で平等な道徳的・自律的存在として処遇することこそ民主主義的である、とみるのである。
先にふれたように、この見方が、残念ながら我が国にも深く浸透してきた。

確かに、民主制を専制と対比しながら、前者の特徴が「自律」による統治または「自己統治」にあり、後者のそれは「他律」による統治にある、と説くことは、専制に対するプロパガンダとしては有効であった。
ところが、個人の尊厳保障を民主制の条件と説いて、自由または平等にまで言及することは、あまりに実体的価値を吹き込んだ誤用である。
また、利益・選好を異にする多数者国民による政治的決定を「自己決定」と呼ぶことはできない。
「自己決定」は、あくまで個人についていい得るだけである。
これに対して、先に示した民主主義の意義づけは、「 手続的民主主義 」とでもいえる考え方であり、これは、国民が被統治者であるという事実を率直に承認しながら、その政治参加の手続(投票、言論、請願、ロビー活動等)を民主主義の中身におくのである。

[56] (四)民主主義はなぜ正当化されるか


民主主義がなぜ正当であるのかという疑問に関しては、通常、次のような解答が寄せられてきた。
(ア) 個人的自由の安全装置であること。
例えば、ケルゼンは、民主制が自由な個人意思と国家秩序との間のギャップを最小限にするシステムである、と説く。
それは、民主制とは、誰もが一票を等しく持って、いつでも多数派となる自由をもつ政体である、とする実体と形式とを合一しようとする民主主義観である。
しかし、これも誤用である。
自由が守られるかどうかは、多数者の意思次第であって、民主主義は自由にとって脆弱な防御壁に過ぎない。
多数決原理は、単なる便宜である。
基本権はその便宜を破るのである。
(イ) 長期的にみれば、多数者意思を形成するよう国民を教育する効果的な方法であること。
または「討論に基づく統治」であるから、合理的な決定に至るであろうこと。
しかし、この点を過信してはならない。
多数の意思は激情となるかも知れない。
また「討論による統治論」は、いつでもプロセスを強調するのみであって、それが何をもたらすか明確でない。
我々の政治的選好は、全生活のなかで形成されるのであって、討論によって形成される領域は限られている。
(ウ) 具体的に現存する人民と、政治的統一体としての人民とが同一であるという原理に適合すること。
例えば、シュミットは、民主制が「支配と被支配の可能な限りの同一性」を保持する国家形式であるとして、その正当性を主張した(シュミット『憲法理論』288頁)。
ところが、その同質性が、人間の同質性とは別個の、民族や国民精神の同一性として捉えられるや否や、それは、代表技術を許容しないばかりか、「敵/味方」の峻別を政治世界に要請させることになり、「味方」の意思のみによる過酷でハードな統治を呼びがちとなる。
ソフトな政治は、同一性を具現するためのものではなく、多元的な意思・利害・選好を調整することにある。
多数者の歓呼による直接民主制(【N. B. 10】参照)は、健全な多数者意思の形成にとっても、自由にとっても、危険である。
(エ) 平和的な政権交代の方法であること、すなわち、最大の投票数に支えられる選択肢(指導者ないし政策)が、より少数の投票に支えられている選択肢に平和裡に取って代わること。
この点こそ、ハイエクやK. ポパーの想定する正当化理由である。
従来の政治理論または公法理論は、国民主権の理論を民主制論と直接に連結して、国民が主権者である以上、実定憲法には、国民が政治的な最終的決定者となるための機構が整備されていなければならない、と説いてきた([130]参照)。
これに対して、ハイエク、ポパー等の見識は、民主主義を国民主権と連結することを敢えて避けているのである。
これは、民主主義をもって、被治者が治者に有効な手続的統制を加えることをいうとする現実の統治を見据えたものであって、まさに炯眼といわなければならない。

被治者が治者に対して有効な統制を加える最大の機会が選挙である。
選挙権の法的性質については後にふれるが([167]以下参照)、選挙とは機関としての国民(または主権者としての国民)の行為ではなく、各人の手続的な権利として捉えられねばならない。
もっとも、民主主義は、選挙後の平和的な政権交替の前提として、投票期において次のような条件を満たしていなければならない。
【投票期における三条件】
1. 選択肢間の選好表明、つまり投票を、最大限の構成員が遂行すること(包括度の最大化)。
2. 各個人の投票に与えられる比重は同一であること(形式的平等化の徹底)。
3. 最大多数の票によって支持された選択肢が、勝利を得た選択だと公然と声明されること。

【N. B. 10】「直接民主制」のタイプについて。
直接民主制の中にも、市民全員が集まって議案・事項につき自ら決定する場合と、受任者を決定する場合とがある。
前者を「レファレンダム」(※注釈: referendum 一般的な国民[人民]投票)と呼び、後者を「プレビシット」(※注釈: plebiscite 領土帰属や統治者選択のための人民投票)と呼ぶ。
レファレンダムは、英米においては direct legislation と呼ばれることがある。
これらは、多数者の選好を直截に表示する政治的意思決定方法であり、確かに民主的なやり方だといえる。
が、しかし、この方法は少数となる者の自由にとって望ましくないだろう。
たとえ、レファレンダムが少数者の自由に対して危険であるかどうか不問とするにしても、これは、民主主義が自由や個人の尊厳を保障する政治体制ではない、ということを我々に気づかせる材料となっているはずである。
また、プレビシットは、「英雄」の出現を待望しがちな権威主義的投票人が第二のナポレオンを選出しはしないか、と歴史的に恐れられてきた。
直接民主制、間接民主制の意義については、[162]をみよ。

[57] (五)包括度・自由度等を満たした政体を民主制という


民主主義の正当化理由もさることながら、それを制度化するに当っての条件の検討も必要である。
その検討は、R. ダールによって為された。
彼は、ポリアーキィ(※注釈: polyarchy)(民主制に最も近い「多頭制」という政体)の条件として、次の諸点を挙げている(ダール『ポリアーキー』)。
選挙民となる人口(包括度)が大であること、
政府に対して自由に異議申立する機会(自由度)が大であること、
市民(シティズン)には、平等で秘密の投票の機会が与えられること、
複数の競合的な政党が存在すること(ポリアーキィにとっては、二大政党制よりも、多党制が望ましい、とダールはいう)、
複数の政党または指導者が、投票を求めて自由に競争すること
等である。


■第三節 憲法典の意義とその規律方式・事項


[58] (NO TITLE)


憲法典とは、国家の統治の基本的事項、つまり、constitution の内容を組織的に編纂した法典(実定法)をいう。
それを「国家のあり方を国家全体との関係において規律するところの究極的法規範」と言い換えてもよい(佐藤・20頁)。
憲法典には、日本国憲法やアメリカ合衆国憲法のような単一成文典方式と、スウェーデン、フランス第三共和国のような複数制定方式とがある。
明治憲法時代には、大日本帝国憲法と皇室典範という二つの成文成典から成る複数制定方式が採られた。

憲法典が、国家の統治の基本的事項を規制するものである以上、その規制事項としては、
(ア) 統治権を意味する主権の所在、
(イ) 統治機構(立憲主義的憲法であれば、権力分立機構)の大綱、
(ウ) 国民の主要な基本権カタログ、
を最低限その内容として取り込まなければならない。
その他、対外的独立性という意味での主権や、国家の支配権という意味での主権の及ぶ範囲(領土)等に言及している例もあるものの、これらは、国際法上決定されるものであって、国内法たる憲法典で規制しても無力である。


■第四節 憲法典の特性


[59] (一)憲法典は統治権力の割当と制限に関する究極の法である


憲法典の特質として、通常、「法の法としての憲法」に言及され、それはさらに、①授権規範としての憲法典、②制限規範としての憲法典、③最高規範としての憲法典、に分類される(清宮Ⅰ・16~38頁)。
そのことを、ハート流にまとめれば、憲法典とは、ある実定法体系内での「確認のルール」のうち、最上位に位置するルールである、ということになろう([47]参照)。

憲法典は、統治に関する制限規範(実体規範)であると同時に、最上位の授権規範(手続規範)である。
換言すれば、憲法典は、赤裸々な政治上の事実の力によってもたらされがちな政治的秩序を、「確認のルール」のもとで統制し、なまの力である権力(power)を権威(authority)へと転化させるばかりでなく、憲法典以外の法規範に対して妥当性(validity)を付与する成文の法規範である。

[60] (ニ)憲法典自身の規範性は常に疑問視される


法規範が、妥当性と実効性とを持たなければならないとした場合、憲法典という法規範は、常に、両者について疑問視され、「 憲法の規範性問題 」として論議され続けている。
憲法典に規範性を持たせる一つの工夫が違憲審査制(憲法典に裁定のルールを組み入れること)である。
しかし、全ての憲法的紛争が、権威をもって最終的に裁定されるわけではなく、その制度をもってしても、規範性を確保し続けることは困難である。

[61] (三)憲法典自身の妥当性を根拠づけることは容易ではない


憲法典の妥当性について、通常は、人民の意思(合意)によって作られたことがその根拠として挙げられる。
しかし、意思の力はあくまで事実上の力であって、意思が妥当性をもたらすという保証はない(Iこの点は、憲法制定権力の性質を論ずる際に [118]~[132] で再びふれることになろう)。
たとえ社会契約に示された意思が妥当性をもたらすとしても、その妥当性は、政治的統一体の始源的権力の創出および獲得の段階についてまで言い得るに過ぎない。
始源的権力によって作り上げられた憲法典と、憲法典上の統治機構によって行使される権限の妥当性は、いまだ謎に包まれたままである(社会契約によって創出された政治的統一体と、憲法契約によって創出された権限とは、同一ではない)。

憲法典と憲法典上の統治機構の妥当性を意思に基礎づけようとする論者は、憲法典が民意を反映する統治メカニズムを組み入れていることを挙げたり(この点は、ときに「実定憲法上の構成原理としての統治制度の民主化の要請」といわれることがある [佐藤・100頁])、人民による定期的な選挙に服することを挙げたりして、その正当性を説いてきた(ロック)。
しかしながら、この説明が憲法の規範性問題の解決に成功している訳ではない。
意思を基礎とする理論は、その意思それ自体を拘束するルールを解明しない限り、意思から生ずる万能の権力を説かざるを得なくなるであろう(シュミットが述べた如く、「意欲すれば足りる」という仕儀に至る)。

憲法典の妥当性の根拠を意思以外に求める思考として、憲法典自身に授権する「根本規範」または「始源規範」を仮定するものがある。
その根本規範の妥当性は、疑問視され得ないものとして仮定されるのである。
基本法である憲法典に対して妥当性を付与するその実体は何であろうか(この点については、最高法規性を論ずる第六章の [93]~[95] で再述する)。

[62] (四)憲法典自身に実効性をもたせるために憲法典に工夫が施される


制裁規定に発する拘束力をもつのが通例である他の法令とは違って、憲法は、簡潔・大綱的でその細目と制裁方法とを下位法に委ねているために、拘束力(または実効性)をもたず、常に実効的であるとは限らない。
ケルゼン流に、拘束力をもつ法規範(「もし、・・・ならば、その場合は・・・・・・」という仮設の形で示されて、後件に制裁を用意しているもの)だけを「真正の法規範」と呼ぶとすれば、憲法は、真正の法規範ではない(ただし、彼の理論の是非をここでは問うてはいない)。
ケルゼンはこういう。
「実質的憲法の諸規範は、それを基礎として創設されたサンクションを定める諸規範との有機的な結合においてのみ法」となるのであって、憲法諸規範自体は、独立した完全な規範ではない(ケルゼン『法と国家の一般理論』240頁)。
こうした特性をもつことに着目して、憲法され自体は「直接有効な法ではない」といわれることがある(小嶋・29頁)。

アメリカ憲法典が、司法審査制を導入し、「国の最高法規」であると自ら宣言したのは、憲法典を、その内部から「直接有効な法」にしようとした試みである。
我が憲法典もこれに倣った。
それでも、その内部的装置の妥当性を根拠づける規範問題が解決されたわけではなく、またさらに、憲法典のなかには、政治的マニフェストやプログラム規定が残されていることを考慮に入れれば、すべての憲法上の規定が直接有効とされるわけでもない。

[63] (五)憲法典の特性として基礎性・大綱性をあげる見解は曖昧である


その他、憲法の特質として、根本性、基礎性、大綱性等が指摘されることが多いが、いずれも不明確といわざるを得ない(例えば、美濃部『憲法撮要』71頁は、憲法とは、国家の組織および作用に関する基礎法をいうとして、基礎性の要素を、国家の領土の範囲、国民たる資格要件、国家の統治組織の大綱、国家と国民との関係に関する基礎法則をあげるが、これらの事項が基礎性という特性を有しているといえるか、疑問である)。
本書は、憲法典が「究極の確認のルール」に基礎を置きつつ、他の実定法に妥当性を付与する「確認のルール」である点にその特質をみてとる([47]参照)。


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