マルクス主義3

日本の政治体制・経済発展段階と共産主義者が採るべき革命方針に関して、「日本民主革命論争」「日本資本主義論争」と呼ばれる論争があったが、1932年にコミンテルン32年テーゼ(方針書)がモスクワから出され、これを遵守してブルジョア革命を目指す者を「講座派」、最初から社会主義革命を目指す者を「労農派」と区別した。
講座派は戦前・戦後を通じて日本共産党の理論家グループを構成し、労農派は戦後に発足した日本社会党の最左派・社会主義協会の理論家グループを構成した。
講座派は1936年、労農派は1937~38年にかけて一斉に検挙され、一時日本からマルクス主義者は消滅したが、その後も密かにマルクス主義の理論・方法論を摂取し、戦後にこれをベースに日本の政治・社会を「天皇制ファシズム」と断罪した丸山眞男のような隠れマルクス主義者も存在する。
以下、日本語版ブリタニカ百科事典より引用。

日本民主革命論争 日本のマルクス主義者・社会主義運動の指導者たちの間で、当面する日本革命の綱領・戦略を巡って戦わされて論争。
1926年日本共産党の再建の頃から、32年テーゼの発表に至る時期まで行われたもので、日本共産党の機関紙『マルクス主義』と、山川均・猪俣津南雄らの主宰する『労農』の間でやりとりされた。
主要な対立点は、当時の日本国家権力の規定すなわち、絶対主義天皇制(『マルクス主義』)か、あるいはブルジョア独裁(『労農』)かということであったが、これに関連して明治維新の歴史的評価や封建遺制の残存の有無、更には同盟軍・統一戦線の問題などが論争点となった。
32年にこの論争は一応は終結するが、以降、封建論争、あるいは資本主義論争といわれる学者・理論家の経済学的分析に関する論争へと発展する。
なお民主革命論争・資本主義論争を区別せず、総じて日本民主主義論争ということもある。
32年テーゼ 1932年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパ・ビューローによって決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書」のこと。
日本の支配体制を絶対主義的天皇制とみなし、来るべき日本革命は天皇制を打倒し。地主制を廃止するブルジョア民主主義革命であり、社会主義革命はその次の段階とする二段階革命論の立場を明確にした。
日本では河上肇翻訳で同年7月10日『赤旗』特別号に掲載され公にされた。
同種のものには27年・31年のものがある。
これらのテーゼは当時の日本の経済理論・社会主義運動理論に大きな影響を与え、活発な論争を引き起こした。
日本資本主義論争 昭和初期おもにマルクス経済学者・マルクス史学者の間で行われた日本資本主義の発達と明治維新の主体及びその性質についての論争。
1923年志賀義雄と赤松克麿の論争を発端とし、山川均派と渡辺政之輔、野呂栄太郎らの論戦によって本格化したものである。
<1> 前者(労農派)は日本における封建制は消滅し、国家権力はブルジョアジーが掌握しており、きたるべき革命は社会主義革命であるとしたのに対して、
<2> 後者(講座派)は封建制の残存物を重要視し、きたるべき革命をブルジョア民主主義革命であるとした。
32年『日本資本主義発達史講座』の刊行に伴い、労農派と講座派の論争は多岐にわたって展開された。
主なものに「小作料論争」「経済外的強制に関する論争」「マニュファクチュア論争」「明治維新に関する論争」などがある。
36年講座派検挙(コム・アカデミー事件)、37~38年労農派検挙(人民戦線事件)によって論争は中断されたが、第2次世界大戦後も講座派内部での新封建論争、国家論を巡る志賀・神山論争などに両派の問題視角は継続されている。
代表的論客は上記のほか、
<1> 労農派では猪俣津南雄、向坂逸郎、土屋喬雄らが、
<2> 講座派では山田盛太郎、平野義太郎らがいる。
講座派 1925~35年頃、日本資本主義の性格規定を巡って日本のマルクス経済学界を二分した「日本資本主義論争」において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的性格にある、と主張した人々。
講座派の名称は当初この派の人々が主に岩波書店刊行の『日本資本主義発達史講座』(1932~33)に自己の学説を唱えたことから発した。
その代表的論客は、山田盛太郎、平野義太郎であり、それぞれの主著はのちに『日本資本主義分析』(34)、『日本資本主義社会の機構』(34)として刊行された。
主な論客は他に、羽仁五郎、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。
これに対抗したのは、向坂逸郎、伊藤好道、土屋喬雄、大内兵衛らの学者・評論家のグループ(いわゆる労農派)であったが、その論争は決着をみないまま第2次世界大戦後に持ち越され、日本共産党と日本社会党との一線を画す論点の一つとなった。
労農派 1927年に創刊された雑誌『労農』の同人またはそれを軸とするマルクス主義の一系譜で、講座派に対立した潮流をいう。
第1次日本共産党の解党後、27年テーゼによる党の再建案に反対し党を離れた山川均・猪俣津南雄・荒畑寒村らは雑誌『労農』を発刊。
以後日本共産党系の学者いわゆる講座派との間に日本資本主義の分析を巡って「日本資本主義論争」を展開していった。
その主張は、明治維新は不徹底な面はあるがブルジョア革命であると規定し、当面する革命を社会主義革命とした。
主な論客は前記3名の他に、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎、宇野弘蔵らがいる。
また代表作として、『日本資本主義の諸問題』(向坂逸郎)、『日本資本主義発達史論集』(土屋喬雄)が挙げられる。
36年7月の講座派の検挙で論争は決着を見ないまま、労農派もまた翌37年12月と38年2月に一斉検挙を受けた(第1次・第2次人民戦線事件)
社会主義協会 1951年創立の社会主義理論研究集団。
第2次世界大戦前の労農派グループの山川均、大内兵衛、向坂逸郎らに、太田薫、岩井章ら実践家グループも加わり、日本社会党左派の理論的支柱となった。
67年、向坂協会派と太田協会派に分裂したが、向坂協会派は社青同(日本社会主義青年同盟)や労働大学を基盤に勢力を拡大、党の若手活動家を握った。
68年採択の「社会主義協会テーゼ」はレーニン主義による前衛党組織を採用した。
1970年代半ばから、社会党内で協会の「党中党的逸脱、共産主義的偏向」に対する反協会派の反発が強まり、78年1月の大会で協会は、「テーゼ」を「提言」と改め、また理論研究集団へと性格を変えた。

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