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日本国憲法は、その前文第1段落1文で、日本国民が主権者として、代表者を通じて、本憲法を制定するものであるという「国民主権の原理」を宣言した後、それに続く2文・3文で「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」と述べている。
本書は、日本国憲法がコミットする「人類普遍の原理」を、ヨーロッパで歴史的に形成された「立憲主義の原理」として析出し、日本国憲法をこの原理を受容した一事例と位置づけ、かかる視角からその具体的内容を分析しようとするものである。

日本国憲法の特徴は、一般には、国民主権、人権尊重および平和主義にあるといわれる。
たしかに、この三点は、明治憲法と比較した場合の日本国憲法の大きな特色であることに違いない。
しかし、比較憲法史的な視野から日本国憲法を位置づけようとする場合、その最大の特徴は、現代立憲主義の本流的思想を受け入れた点にある。
それは、個人の尊厳を基本価値とし、人権尊重・国民主権・権力分立・法の支配という立憲主義憲法の基本原理すべてにコミットして構成されている。
もちろん、「人類普遍の原理」としての立憲主義の具体的制度化のありようは、国により異なりうるのであり、その違いが各立憲主義国の特質をなすが、しかし、かかる特質は、立憲主義という共通性を前提としたうえでの二次的差異にすぎない。
この意味での日本国憲法の特殊性は、立憲主義の一つの実験であり、立憲主義の深化に貢献こそすれ障害や危険となることはない。

しかし、日本の憲法の特殊性が語られるとき、立憲主義にとって深刻な問題が含意されていることもある。
それは、その特殊性が立憲主義と対立する文脈で援用されるときである。
そのような可能性をもつ問題領域として、本章で象徴天皇制と戦争放棄の問題を取り上げておきたい。

<目次>


Ⅰ 象徴天皇制


1 天皇統治から象徴天皇制へ


立憲主義は西欧で成立した思想であり、明治政府はそれを継受しようとした。
当然、そこでは日本の伝統との軋轢が問題となる。
明治憲法の制定に際して政府のとった基本的態度は、伝統を基本として必要な限度で立憲主義を接ぎ木するというものであった。
そのことは、元老院議長に対して憲法草案の起草を命じた勅語「朕爰(ここ)ニ建国ノ体ニ基キ、広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シ、以テ国憲ヲ定メントス」の中に表現されていた。
明治憲法は、「国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ」(上諭 前文)との論理に立ち、1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定めた。
これが日本に伝統的な「天皇統治」(天皇主権)の「国体」規定と解釈されることになった。
のみならず、軍国主義の台頭するなかで日本の独自性が強調されるようになると、捕らえどころのない情緒的な「日本的なるもの」が国体の中に読み込まれ「万邦無比の国体」が語られることになったのである。
明治憲法が継受した立憲主義は、「建国ノ体」が強調されれば、そのみせかけ性(外見性)を露わにせざるをえない。
立憲主義の継受が成功するためには、立憲主義の論理が受け入れられ、それと矛盾する「日本文化」が変容を経ねばならないが、明治憲法体制は、最後には国体論の強調に走り、それと矛盾する立憲主義の方を否定したのである。

敗戦に直面し、明治憲法体制の崩壊が迫ったとき、時の支配層にとって最大の課題として意識されたのは、「国体の護持」であった。
日本に降伏を迫って発せられたポツダム宣言は、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルル」(12項)ことを求めていた。
日本政府は、「右宣言ハ天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」と回答するが、連合国からはこの「了解」を肯定する返信を得られず、やむなく天皇自身による無留保の受諾の「御聖断」を仰いだのである。
それでも、「終戦ノ詔書」には「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ・・・・・・」と述べられていた。
宣言にいう「日本国国民」を政府と対抗する国民ではなく、政府と国民の両者を包摂する総体としての国民の意味に解すれば、宣言は天皇統治の基本原則を必ずしも否定するものではないと理解したのである。
先に見た「松本四原則」が統治権の総攬者としての天皇の地位を変更する必要がないと判断したのも、かかる理解による。

しかし、このような解釈は無理な解釈であり、結局は降伏条件の受諾を根拠とする総司令部からの要求により、天皇統治を否定し国民主権を基礎に天皇を象徴と位置づける憲法制定を行うことになった。
このため、国体が護持されたのかどうか激しい論争がもちあがったのである(「国体論争」)。

また、新憲法の制定に際してとられた手続にも、法理的な問題が伏在していた。
すなわち、新憲法は、前章で見たように、明治憲法73条が定めていた憲法改正の手続に従って、明治憲法の「改正」として成立したのであるが、明治憲法の「根本規範」である天皇主権を国民主権に変更するという大変革を「改正」として行いうるかが、法理論上問題になりえたからである(「八月革命説」)。

(1) 国体論争


国体が変更されたかどうかをめぐる論争として著名なものは、佐々木・和辻論争と尾高・宮沢論争である。

(ア) 佐々木・和辻論争

憲法学者の佐々木惣一は、国体とは誰が統治権の総攬者(主権者)かにより決まる国家の形体であるという理解を前提に、新憲法により主権者が天皇から国民に変わったから国体は君主国体から民主国体に変更したといわざるをえないと論じた。
これに対し、哲学者の和辻哲郎は、国体とは一般には日本の歴史を一貫する特性をいうと考えられているが、日本の歴史を貫いて存在する事実は天皇が日本国民の統一の象徴であったということであり、この事実は日本国憲法においても変化していないと主張した。
この対立は、国体という言葉を変転しやすい政治体制的な側面で理解するか、持続性をもつ文化的・風土的側面で理解するかの違いから生じたものであるが、その視角の違いは両者の研究経歴の違いを反映していて興味深い。

(イ) 尾高・宮沢論争

法哲学者の尾高朝雄は、国体は天皇主権から国民主権への変更により変わったと主張する論者が主権を国家における最高の政治権力と理解している点を問題とし、かかる理解は法と力の関係において「力は法なり」を認めることに帰着すると批判した。
尾高によれば、いかなる力も超えてはならない矩(のり)というものがあり、それがノモス(法の理念)と呼ばれるが、国家における最高の権威を主権というなら、ノモスにこそ主権があるというべきであり、天皇統治も国民主権もノモスを政治の最高原理とする点で違いはないから、この変化は国体の変革などと大騒ぎするようなことではない。

これに対し、憲法学者の宮沢俊義は、次のように批判した。
ここで問題となっている主権とは、政治のあり方を最終的に決める力、意志を意味し、それが天皇に帰属するか国民に帰属するかが問われているのである。
尾高は、主権はノモスにあると言うが、仮にそれを認めるとしても、その場合の真の問題は、そのノモスの具体的内容を最終的に決めるのは天皇か国民かということなのであり、この問いへの答えを回避するノモス主権論は、国民主権により天皇制に加えられた致命傷を包み隠そうとする「ホウタイ」の役割を果たす理論にすぎない、と。


以上の二つの論争にみられるように、国体論争は、現象的には、国体という語をいかなる意味で用いるべきかをめぐってなされた。
国体には、二つの主要な意味が区別できる。
一つは、憲法学上の概念としての国体であり、主権の所在により君主国体と民主国体が区別される。
この意味での国体が変更したことは疑いない。
もう一つは、文化的・社会的概念としての国体であり、ここでは天皇が法的・政治的権限をもつかどうかは問題ではなく、天皇が国民の精神的つながりの支えとして存在していることこそ国体の本質とされる。
この立場からは、象徴天皇制も国体を継続するものと理解することが可能となる。
いずれの立場に立つかは、後述の天皇が象徴するものの理解に影響を及ぼし、ひいては日本国憲法の基本価値の理解に影響を及ぼしうる意味をもち、今日でも重要性を失わない論点を構成している。

(2) 八月革命説


日本国憲法は、明治憲法の改正という手続をとって制定された。
これは、国際法上の理由から「自主憲法」であるべきことを配慮した総司令部の要請でもあり、また、できる限り大変革ではないという外観を装うことを欲した日本政府の望むところでもあった。
しかし、憲法改正には限界があるというのが明治憲法下の支配的学説であったから、日本国憲法は改正権の限界を超える違憲の憲法改正ではないかが問題となった。
これに答えたのが宮沢俊義の唱えた八月革命説である。
宮沢によれば、ポツダム宣言は明治憲法の基本原理と相容れない国民主権の要求を含んでいたのであり、これを八月に受け入れた時点で主権の所在は変更し、法学的意味での「革命」が成立した。
ゆえに、ポツダム宣言の趣旨に反する限りで明治憲法は失効したのであり、にもかかわらず明治憲法の改正手続を用いて新憲法の制定を行ったのは、混乱を防止しようという政策的な配慮にすぎない。

この八月革命説は、日本国憲法の成立を法学的に説明する法理としては、広く受け入れられてきた。
しかし、革命を起源とするということは、明治憲法とは法的な連続性がないということであるから、日本国憲法が正統な憲法として効力を有することの説明が別途必要となる。
国民主権の憲法が正統とされるためには、少なくとも国民の意思が制定過程に反映されたということが必要である。
この点については、当時発表された草案大綱および草案が国民に好意的に受け取られたこと、議会の審議の前に衆議院議員の総選挙が行われたこと、などが重要な意味をもとう。

しかし、それにしても問題となるのは、新憲法の制定が占領下においてさなれることである。
対外的な主権がなかったということは、国民主権の前提が完全ではなかったということであり、この点の瑕疵は否定できない。
しかし、日本の独立後今日まで、国民が自由な意思に基づき日本国憲法を支持してきたことにより、今ではその瑕疵は治癒されていると考えるべきであろう。

2 象徴天皇制の内容


(1) 象徴としての地位の根拠


日本国憲法1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定する。
明治憲法における天皇が、その地位の根拠を神勅に置いたのに対し、ここでは主権者国民の総意に置いている。
地位の根拠が完全に変化したのである。
ゆえに、日本国憲法における天皇の地位は、もはや憲法改正の限界を構成せず、憲法改正により象徴天皇制を廃止することも可能なのである。
また、日本国憲法における象徴としての地位は、主権者としての地位を失った天皇に残った地位ではなく、主権者たる国民がまったく新たに創設した地位と理解しなければならない。
明治憲法の天皇と日本国憲法の天皇の間には、その地位に断絶があるのである。

(2) 何を象徴するか


天皇は「日本国」および「日本国民の統合」の象徴とされる。
日本国民の統合したものが日本国であるから、両者を特に区別する必要はないが、重要なのは国民統合の基本原理をどう理解するかである。
憲法の基本価値が個人の尊厳である以上、相互に異なる個性をもった個々人がその個性を尊重し合うというルールを基礎に結合した団体を国家と考えなければならず、天皇はそのような国民統合を象徴するのである。
しかし、ここに日本の伝統的文化を強調する立場からの反論がある。
それによれば、日本人は個人として我を主張するのではなく、集団(共同体)の中で他者と和して生きてきたのであり、自己の権利を主張する前に、その前提として集団のために果たすべき自己の責務を重視してきた。
国民の統合は、集団の価値を認め集団のために自己の責務を果たすことを引き受ける個人の集まりとして理解されねばならず、天皇はそのような統合を象徴するのである、と。
この立場からは、日本国憲法の人権保障については、本来国民の義務規定が先行すべきなのに、それが欠けている点で日本の伝統に合わないものであり、改正すべきだと主張され、象徴天皇制については、こうした日本の伝統的文化を象徴するものとして、元首としての地位を明確に認めるなど、その地位を強化すべきであると主張されている。
ここにかつての国体論が形を変えて継承されているのである。

象徴とは、目に見えない抽象的・観念的・無形的・超感覚的なことがらを、目に見える具体的・実在的・有形的・感覚的なものにより表すことであるが、象徴するものが象徴されるものと不適合であるときは、象徴されるものの本来の意味が見失われる危険がある。
たとえば、平和の象徴を鳩ではなく鷹に求めたとしたらどうであろうか。
象徴天皇制もこのような問題をはらんでいるのである。
世襲制である点で身分制に基礎を置く天皇が、個人の尊厳に基礎を置く国民統合を象徴するという理解を持続させるには、緊張感を必要とする。
緊張感を失えば、日本国憲法の基本価値の対立物を象徴するものへと転化する危険を常にもつ。
逆にいえば、象徴天皇制は、我々に、我々を形成した伝統に正当な敬意を払いつつも、新たな伝統を意識的に形成していくことを求めているのであり、そのことを常に意識化させる作用を果たすべきものと理解する必要がある。

(3) 国事行為


天皇は、「憲法の定める国事に関する行為のみを」行うことができ(4条1項)、かつ、この国事行為を行うには内閣の助言と承認を必要とする(3条)。
内閣の助言と承認に従って行うことを要求したのは、天皇に一切の判断権を与えないで、助言と承認通りに行うことを要求したものであり、ゆえに国事行為はまったく形式的・儀礼的行為であり、天皇は「国政に関する権能を有しない」(4条1項)のである。
国事行為としては、憲法6条の規定する内閣総理大臣および最高裁判所長官の任命、7条が規定する①憲法改正・法律・政令・条約の公布、②国会の召集、③衆議院の解散、④国会議員の総選挙施行の公示、⑤国務大臣等の任免、全権委任状の認証、大使・公使の信任状の認証、⑥恩赦の認証、⑦栄典の授与、⑧批准書・外交文書の認証、⑨外国大使・公使の接受、⑩儀式を行うこと、に限定される。

しかし、現実には、これらの列挙に該当するかどうか疑問のある行為がしばしば行われ、議論を呼んできた。
たとえば、国会の開会式における天皇の「おことば」とか、地方への行幸、外国への親善訪問・外国元首等との会見などである。
これらは私的行為とは言えず、かといって国事行為で説明することも容易でない。
そこで多くの学説は、国事行為ではない天皇の公的行為も許される場合があると主張するようになった。
一つの学説は、天皇には国家機関として行う国事行為のはかに象徴としての地位に基づいて行う行為もあると説明する。
しかし、天皇には象徴としての地位しか認められていないのであり、それに対応する行為が国事行為であるから、この説明には無理なところがある。
他の学説は、ちょうど首相が憲法上の権限行使のほかに「公人」としての立場から様々な儀礼的行為を行うように、天皇も象徴として行う国事行為のほかに公人として様々な行為を行いうるのだと説明する。
たしかに、「公人」が正規の権限外に儀礼的な行為を行うことはよく見られることであり、天皇も例外ではないといえよう。
しかし、かかる行為は内閣の助言と承認の下にあるかどうかも不明確であるし、仮に内閣の助言と承認が必要と解しても、時の内閣が天皇を利用することに対する歯止めにはならない。
むしろ、天皇の公的行為は国事行為に限定し、上述のような行為は⑩の「儀式を行うこと」により説明するのが無難であろう。
多くの学説は、「儀式を行ふこと」(7条10号)とは「儀式を主宰すること」を意味するという解釈の下に、そのような説明は困難とするが、儀式を行うとは、儀式的・儀礼的行為を行うことと解することも不可能ではなく、そう解することにより天皇の公的行為を国事行為に限定することができるのである。

(4) 「象徴」であることの法的効果


天皇が「象徴」であることにいかなる法的効果が伴いうるかが議論されてきた。
そのいくつかに触れておく。
第一に、天皇に民事裁判権は及ぶか。
天皇を被告に不当利得返還請求を行った訴訟につき、最高裁は象徴である天皇には民事裁判権は及ばないと解した(最二判平成元年11月20日民集3巻10号1160頁)。
事件が象徴としての地位とは関係しない純粋に個人的な争いに関する場合には、民事裁判権が及ぶと解すべきであろう。
なお、刑事裁判権に関しては、天皇の国務遂行の必要から天皇の地位にある限り刑事裁判権に服すことはないと解されている。
第二に、「君が代」を法律で国歌と定めることは許されるか。
君が代は、明治憲法下において主権者天皇を讃える意味をもつものと理解され、またそのように機能したものであるから、明治憲法の基本原理を否定し国民主権を採用した日本国憲法の下においては、これを国歌と定めることは許されないとの見解もある。
しかし、象徴天皇制を採用している以上、君が代を国歌と定めた「国旗及び国歌に関する法律」を、その政策的当否は別にして、違憲とまではいえないだろう。
ただし、君が代の斉唱を強制することがこれに反対する者の思想・良心の自由を侵害することがありうることは、別問題である。

第三に、天皇の象徴としての地位を傷つけるような表現行為を規制しうるか。
天皇の個人的な名誉を傷つけるような表現行為が通常の表現行為にあたるのは当然である。
問題は、象徴であることを理由に、通常の名誉毀損よりも重いサンクションを科したり、あるいは、通常の名誉毀損に該当しない場合にまでその範囲を拡大することが許されるかである。
明治憲法下においては、刑法に不敬罪の規定(74条・76条)があり、重く処罰されていたが、戦後1947年に刑法改正により削除された。
では、終戦後削除されるまでの間は、この規定は効力を有したのか。
この間に行われた行為を理由に不敬罪で起訴された事件において、不敬罪の効力が争われたが、最高裁は、起訴後に不敬罪の恩赦がなされたことを理由に免訴とし、不敬罪の効力についての判断には立ち入らなかった(最大判昭和23年5月26日刑集2巻6号529頁)。
もし不敬罪が明治憲法における天皇の統治権の総攬者としての地位と不可分のものであれば、戦後その地位が否定された時点でこの規定も失効したということになるが、もし不敬罪が象徴としての地位を基礎にしたものであるとすれば、象徴としての地位は日本国憲法に継承されたと解する場合には、必ずしも日本国憲法と矛盾するわけではなく、象徴としての地位を保護するための新たな立法は許されるということになる。
しかし、同じく象徴といっても、明治憲法におけるそれと日本国憲法におけるそれとは質的な違いがあり、断絶することなく継承されたと解するのは困難であろう。
日本国憲法の下においては、象徴性を保護するための表現の規制は表現の自由を侵害する可能性が強い。

このことと関連して、いわゆる「天皇コラージュ事件」に注意しておく必要がある。
これは天皇の肖像と女性ヌードをコラージュした作品をめぐって生じた事件であるが、この作品を入手した美術館が、これを展示・公開することに対する執拗な反対運動が生じたので、混乱を避けるために非公開とし、最終的には売却してしまったというものである。
これに対して、作品の制作者および一般の鑑賞希望者が県等を被告に損害賠償請求等の訴訟を提起した。
もしこの作品が名誉毀損にあたるならば、非公開・売却が違法とされることはない。
しかし、名誉毀損とはいえないが、象徴性を害するものだという理由でなされたものだとすれば、それが正当な理由となるのかが問題となるところである。
現実には、非公開は混乱を避けるためという理由でなされたのであるが、混乱が生ずるとすれば、作品を「不敬」であると主張する側に主たる責任があるのであり、主張すること自体は表現の自由により保障されるとしても、混乱を引き起こすことまでが許されるわけではない。
訴訟での争い方に困難が伴ったこともあり、高裁判決(名古屋高金沢支判平成12年2月16日判時1726号111頁)は、管理権者の専門的裁量の範囲内として請求を棄却し、最高裁も上告を理由なしとして棄却した(最決平成12年10月27日判例集未登載)が、表現の自由が「不敬」を理由に事実上妨害されるということがあってはならない。

3 天皇制運用上の規則と機関


(1) 皇位継承のルール


天皇の地位の継承について、憲法は「世襲」(2条)と定めるのみで、順序等の詳細は「皇室典範」(同条)という法律の規定に委ねた。
皇室典範は、男系・男子・長子の原則を採用している(典1条・2条)。
その地位が世襲である点で、首相や議員等の地位とは本質を異にし、個人の平等原理とは相容れない身分制原理に基づく地位である。
皇室典範が定めた男系男子主義は憲法の要請ではないから、皇室典範の改正により女性による皇位の継承を認めることは可能であるが、憲法自体が身分制原理に基づく天皇制を採用している以上、天皇制には人権原理は一般国民に対すると同様には妥当せず、女帝を認めていない現行皇室典範を不合理な性差別で違憲だとはいえないであろう。

(2) 国事行為の代行


天皇が成年に達しないとき(18歳未満、典22条参照)や、重大な精神的・身分的な疾患・事故により天皇自ら国事行為をなしえないと皇室会議で決定されたときには、「摂政」が置かれ、摂政が天皇の国事行為を代行する(憲5条、典16条)。
摂政を置くほどではない精神的・身体的な故障の場合(たとえば海外旅行や長期療養)には、天皇が国事行為を「臨時代行」に委任する(憲4条2項、国事代行2条)。
摂政や臨時代行による国事行為も、当然、内閣の助言と承認を必要とする。

(3) 皇室の経費


戦前には莫大な皇室財産が存在し、皇室の財政の大部分は議会のコントロールの外にあったが、日本国憲法は、皇室財産をすべて国有財産とし、すべての皇室の費用を国会の議決する予算に基づかせることにした(88条)。
さらに、戦前のように皇室に財産が集積されるのを防ぐために、皇室への財産移転には国会の議決が必要としている(8条)。

毎年の予算に計上されるべき皇室費用を、皇室経済法は内廷費・宮廷費・皇族費の三種に分けている(皇経3条)。
内廷費は天皇の家族の日常的な生活費に充てられるもので天皇家の私費として扱われる。
宮廷費は宮廷の公務に充てられる公費であり、宮内庁で経理する。
皇族費は、内廷にある者以外の皇族の生活費に充てられる費用で、毎年支給されるものと、初めて独立の生計を営む際ならびに皇族の身分を離れる際に一時的に支給されるものとがあるが、いずれも宮内庁の経理する公費ではない(同4条・5条・6条)。

(4) 皇室事務に関する諸機関


一般的な皇室事務の処理には、内閣府に置かれた宮内庁(内閣府48条)があたるが、特別の機関として皇室会議(典28条以下)と皇室経済会議(皇経8条以下)が設置されている。
皇室会議は、摂政の設置(典16条)、立后および皇族男子の婚姻の承認(同10条)等、皇室典範の定める諸事項を決定するために置かれたものであるが、両院議長、内閣総理大臣、最高裁判所長官を構成員に含む特異な機関であり(同28条2項)、象徴天皇制を運用するために特別に設置された、通常の行政機構の外に位置する機関と理解すべきであろう。


Ⅱ 平和主義と戦争の放棄


1 立憲主義との順接


日本国憲法は、第二次世界大戦の反省に立ち、前文において、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」し、そのために人類普遍の原理としての立憲主義にコミットすると同時に、さらに平和主義の理想を掲げ「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」し、国際社会と協調してかかる理想の実現に向かうことを宣言した。
この平和主義と国際協調主義の理念は、憲法本文においては、9条の戦争放棄と98条2項の条約・国際法規遵守義務の規定に具体化されている。
この限りでは、平和主義は立憲主義と相携えて自由を実現するものと位置づけられている。
実際、「平和のうちに生存する権利」の実現なくしては立憲主義も意味がなく、平和主義・平和的生存権は立憲主義の前提をなすとも言えよう。

しかし、平和主義の具体化として日本国憲法が採用した戦争の放棄条項(9条)は、必ずしも平和主義あるいは立憲主義からの論理的帰結というわけではない。
むしろ、立憲主義にコミットしているほとんどの諸外国は、日本のような戦争放棄条項をもっていない。
その意味で、戦争放棄は日本の特殊性を表現している。
もっとも、象徴天皇制が立憲主義と対立する可能性を秘めた日本の特殊性であるのに対し、戦争放棄は立憲主義と順接する可能性の高い特殊性である。
立憲主義にとって重要なのは、この二つの特殊性の立憲主義との位置関係を明確に意識し、両者に対する反発が立憲主義への攻撃として手を結ぶことのないよう注意を怠らないことである。

2 憲法9条の制定経緯と初期の解釈学説


(1) 9条制定の発端


憲法9条は、戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認を規定している。
憲法で戦争放棄を謳う例は、これまでにもなかったわけではない。
早くは1791年のフランス憲法が征服戦争を放棄した(第6編)例があり、第二次世界大戦後には1946年のフランス第四共和政憲法や1949年のドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)なども放棄を宣言している。
また、戦争をなくすための国際的な努力も、1919年の国際連盟規約、1928年の「戦争抛棄ニ関スル条約」(不戦条約)、1945年の国際連合憲章などに結実している。
日本国憲法の戦争放棄も、間接的には、これらのいわば世界史的な努力の中に位置づけられるものであることはいうまでもない。
しかし、これらの努力が対象としたのは、侵略的な戦争の放棄であり、あらゆる戦争の放棄を対象としたわけではなかった。

日本国憲法9条の直接的な起源は、通常、マッカーサー・ノートの第二原則に求められる。
そこには、「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は紛争解決の手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する」旨が記されていた。
マッカーサーがかかる考えを抱くに至ったのは、その少し前の幣原喜重郎首相との会談で幣原が同旨の考えを述べたことがヒントになったといわれている。

日本政府に手交されるマッカーサー草案は、マッカーサー原則を基礎に作成されるが、「自己の安全を保持するための手段としての戦争」の放棄まで明示するのは不穏当ではないかとする意見が起草者の中にあったために、マッカーサー草案ではこの点を明示する文言は避けられた。

マッカーサー草案を手交された日本政府は、この規定に驚くが、連合国の中には天皇を戦争裁判にかけるべきだと主張する国もあり、天皇への攻撃を避け天皇制を存続させるには、この規定が一種の「避雷針」として不可欠との認識に至り、これを受け入れることになる。

(2) 審議過程における政府答弁


憲法改正草案が議会で審議されたとき、9条が自衛権に基づく戦争まで放棄するものなのかどうかが論点の一つとして議論されたが、吉田首相は、憲法9条は直接には自衛権を否定はしていないが、9条2項において一切の軍備と交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も交戦権も放棄したことになると述べ、過去の戦争の多くは自衛権の名において戦われたのであり、我が国は好戦国との疑惑をもたれているから、この誤解を解くためにいかなる名義における交戦権も放棄するということを世界に向けて表明することが必要なのだと答弁している。

(3) 芦田修正


草案の文言は、衆議院の審議で若干修正される(1項の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言が、2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言が付加された。「芦田修正」と呼ばれている)が、原案の意味の修正を意図するものではないと説明され、そのように了解されて受け入れられた。
したがって、制定当時の理解としては、9条は自衛権を放棄するものではないが、自衛権の発動としての戦争も放棄し、一切の戦力と交戦権を否定したものと解されていたのである。

もっとも、芦田修正により、将来自衛のための戦力をもつ可能性が開かれたと解釈する向きが極東委員会の中に存在し、このため総司令部の要求により、軍の文民統制を考慮して大臣資格を文民に限る条項が挿入された(66条2項)。

(4) 学説


9条解釈について、当初最大の論争点となったのは、自衛のための戦争までも放棄されたのかどうかであった。
この点で、放棄説と非放棄説が大きく分かれる。
このうち放棄説は、その説明の仕方の違いにより、さらに二つに分かれた。
第一説は、9条1項の文言が、侵略戦争を禁止した不戦条約の文言に似ていることを手がかりに、1項では自衛のための戦争は放棄されていないと解し、そのうえで、2項前段であらゆる戦力の保持が禁止される結果、自衛のための戦力ももつことができず、自衛のための戦争も放棄したのと同じこととなると説明する。
このように解釈するために、2項の「前項の目的」は、1項の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」して戦争を放棄するという点を受けていると解し、非放棄説の主張する「国際紛争を解決する手段としては」放棄するという点だけを受けるという読み方を排する。
第二説は、1項を不戦条約等の文言と関連づけて解釈することを否定し、日本国憲法独自の意味を探るという立場から、1項は自衛のための戦争をも含め一切の戦争を放棄したものと解すべきであるとする。
こう解すれば、2項の前段も後段も、何の技巧も施すことなく文言通りの意味に解することができ、この点が強みであると主張する。

これに対し、非放棄説は、1項については放棄説の第一説と歩調を合わせるが、2項の「前項の目的」を1項の「国際紛争を解決する手段としては」を受けるものと解し、したがって自衛のための戦力の保持は禁止されていないと読む。
しかし、この説の最大の弱点は、2項の後段の理解に現れる。
ここでは、前段と句点で区切られているため、「前項の目的を達するため」を後段にまで及ぼすことができず、自衛のための「交戦権」は否定されないと読むことが困難である。
そのため、交戦権の意味に技巧をこらし、国際法上交戦国に認められる(敵の船舶を拿捕したり、敵の領土を占領統治したりする)権利の意味であるとし、かかる意味での交戦権は否定されたが、戦う権利が否定されたわけではないと説明する。
しかし、もし自衛のための戦争・戦力が認められるなら、なぜかかる意味での交戦権が否定されねばならないのか説明が困難であろうと批判されている。

3 自衛隊の創設と有事法制の確立


(1) 政府による9条解釈の変遷


(ア) 警察予備隊から自衛隊の創設へ

政府による9条解釈の転機は、1950年の朝鮮戦争の勃発により生じた。
日本に駐留していた軍隊を朝鮮に派遣する必要に迫られた総司令部は、駐留軍に代わって日本の治安・防衛にあたるために7万5千人から成る「警察予備隊」の創設を日本政府に要求してきた。
この警察予備隊が憲法の禁ずる「戦力」にあたらないかが問題となったが、政府はこれを戦力に至らない警察力にとどまると説明した。
これに納得できなかった当時の社会党委員長が警察予備隊は憲法違反だと主張して直接最高裁に提訴した(警察予備隊違憲訴訟)が、最高裁はこのような抽象的憲法訴訟を受理する権限はないとしてこれを却下した(後述参照)。
警察予備隊は、1952年に保安隊と警備隊に改組され、かつ増強された。
このときも憲法違反との批判がなされたが、政府は、憲法の禁止する戦力とは、近代戦争遂行能力をもつ規模のものをいい、保安隊・警備隊はその規模に達していないから合憲であると説明した。
さらに、1954年には、日米相互防衛援助協定により負った防衛力増強義務を果たすために自衛隊法が制定され、保安隊・警備隊は自衛隊に改組された。
政府としても、防衛目的を掲げて増強された自衛隊を軍隊でないといい続けることに次第に困難を感ずるようになり、一時は鳩山一郎内閣が憲法改正の必要を国民に訴えるが、衆議院総選挙で憲法改正に必要な3分の2の多数を得ることができず、以降、護憲派から「解釈改憲」と批判された9条解釈の変更により自衛隊の正当化を行う道を選ぶことになる。
そこで採用された解釈によれば、憲法9条は国家固有の権利としての自衛権を否定するものではなく、自衛権がある以上、自衛権を行使するための実力を保持することも禁止されない。
自衛のために必要な最小限度の実力が「自衛力」であるが、自衛力は憲法の禁止する「戦力」とは異なる、というものである。
解釈の変更とはいっても、一切の戦力の否定という当初の解釈は、形式論理的には維持されている。
自衛隊合憲説には、9条1項は自衛のための戦争・武力行使を否定したものではないとの前提の立ち(この点は、1項の文言が不戦条約の系譜をひくものであることから、政府をはじめ多くの学説により承認されている)、2項の「前項の目的を達するため」を、芦田修正の底意を強調しながら、侵略戦争を禁止する趣旨に解釈して、自衛のための戦力の保持は許されるとするものもあるが、政府はかかる解釈への変更はしなかった。

なお、政府は、2項の交戦権の否認の意味については、交戦権を国際法上交戦国に認められる諸権利と解し、戦いを交わす権利を放棄したものではないと解している。

(イ) 専守防衛と集団的自衛権行使の否認

政府解釈の最大の問題は、自衛権の発動が許される場合や自衛力と戦力の違いが必ずしも明確ではないことにある。
とはいえ、これまでの国会における質疑から、自衛権・自衛力に関する政府の理解として、次のような一定の輪郭は明らかにされてきた。

まず、自衛権については、認められるのは個別的自衛権のみで、集団的自衛権の行使は認められない。
個別的自衛権とは、急迫不正の侵略を自国が受けたときに、自衛の行動をとる権利である。
集団的自衛権とは、他国との取決めで、他国への攻撃も自国への攻撃とみなして協同して防衛行動をとる権利であり、この場合には自国への攻撃がなくとも軍事行動に出ることが認められる。
国際連合憲章51条は、個別的・集団的自衛権の両者を国家の固有の権利と認めているが、日本国憲法は国際法上は認められた集団的自衛権の行使を自主的に放棄したものと解したのである。
認められているのは個別的自衛権のみであり、それは自国に対する攻撃があった場合に(現実の攻撃がなくとも、攻撃が確実という差し迫った状況が現出すれば、この段階での反撃は「先制攻撃」ではないと説明されている)、自国を守るためにのみ(敵国の発進基地等を「たたく」ことも自国を守るためということに含まれる)発動しうるものであるから、自衛隊を軍事行動(武力行使)のために海外に派遣することは許されない。

次に、自衛力については、それは「自衛のために必要最小限度」のものでなければならないから、他国に侵略の脅威を与えるような攻撃的武器は禁止される。
しかし、防衛的なものなら、核兵器も憲法上禁止されるわけではない。
ただし、日本は政策として「非核三原則」(核兵器を持たない、作らない、持ち込ませない)を厳守する、とされている。
ちなみに、日本は、非核兵器国に対し核兵器の製造・取得を禁止する「核兵器の不拡散に関する条約」を批准している。

(2) 自衛隊違憲訴訟


これまでに自衛隊の合憲性を争う訴訟がいくつか提起されたが、最高裁は一貫して判断を回避しており、今までのところこの問題についての最高裁判例は存在しない。

(ア) 恵庭事件

自衛隊の合憲性が争われた最初の事件は、自衛隊演習用の通信線を切断して自衛隊法121条の「武器、弾薬、航空機その他の防衛の用に供する物」の損壊罪に問われた恵庭事件であるが、札幌地裁は、演習用の通信線はこの構成要件に該当せず無罪と判断し、自衛隊法121条の合憲性判断を回避した(札幌地判昭和42年3月29日下刑集9巻3号359頁)。

(イ) 長沼訴訟

これは、長沼町(北海道)に航空自衛隊のナイキ基地を建設するために農林大臣が行った国有保安林指定解除処分の取消しを地域住民が求めた訴訟である。
保安林の指定を解除する処分をするには「公益上の理由」(森林26条2項)が必要とされているが、自衛隊の基地の建設という目的は憲法9条に反し、公益上の理由にあたらないのではないかが問題とされた。
第一審の札幌地裁は、自衛隊が憲法の禁止する戦力に該当することを認めて処分の取消しを行った(札幌地判昭和48年9月7日判時712号24頁)が、札幌高裁は、保安林が解除されても、政府は水害等を防止するための代替工事等の措置を十分に施したから、住民には訴えの利益がなくなったとして原判決を取り消すとともに、自衛隊が憲法に反するかどうかの問題は統治行為に属すから、それが一見極めて明白に違憲である場合を除き、司法審査の範囲外にあるとの理由を付加した(札幌高判昭和51年8月5日行集27巻8号1175頁)。
最高裁は、訴えの利益の点について原判決を維持し、憲法問題には立ち入らなかった(最一判昭和57年9月9日民集36巻9号1679頁)。

(ウ) 百里基地訴訟

この事件では、自衛隊百里基地(茨城県)の用地買収をめぐって自衛隊の合憲性が争われた。
この訴訟では、基地用地に予定された農地の所有者(原告)が、それを最初基地反対派の一人(被告)に売却したが、後に代金の一部未払を理由に契約を解除し、今度は国に売却し、国とともに原告となり登記抹消・所有権確認等を請求する訴訟を提起したものであり、この訴訟の中で、契約の解除や国との売買契約が憲法9条に違反しないかが問題となった。
最高裁判所は、憲法が直接適用されるのは公権力の行使の性格をもつ行為であり、私人と対等な立場で締結する私法上の契約に対しては民法90条を介して間接的に適用されるにすぎないとの考えを提示し、本件は後者の事例であり、民法90条の適用が問題となるが、契約当時かかる契約が反社会的な行為であると一般的に解されていたということはできず、民法90条に反するとはいえない、と判示し、自衛隊の合憲性に正面から答えることを回避した(最三判平成元年6月20日民集43巻6号385頁)。

(3) 有事法制の確立


有事とは、広くは大地震などの自然災害も含めて、緊急な対応を要請される事態をいうが、通常は外国からの武力侵攻や国内の武力蜂起のような場合を指し、したがって、軍隊の出動が要請されるような緊急事態をいう。
そのため、もともと軍隊の存在を予定していなかった日本国憲法においては、有事に関する規定が置かれていない(国家緊急権に関する422頁以下の説明参照)。
政府は、自衛隊の創設とともに、有事の際の対処方法を法律で定めようとしてきたが、国民の反対が強くて長い間立法には至らず、いざというときには超法規的に対応する以外にない状態に置かれてきた。
ところが、冷戦終結以降、日米安保条約の見直しや北朝鮮問題などが議論されるなかで世論も微妙に変化をみせ、2003年に有事に関する基本法の性質をもついわゆる「武力攻撃事態法」(平成15年6月13日法79号、正式名称は「武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」)が制定された。
そこでは、外国から武力攻撃を受けた場合、その切迫した危険が生じた場合、あるいは、その危険が高度に予測される場合に、内閣がとるべき措置(対処基本方針の作成等)と手続が定められ、その際に自衛隊に防衛出動を命ずるには、原則として国会の事前の承認が必要とされている(自衛76条1項、武力攻撃事態9条4項)。
次いで、2004年に、武力攻撃事態に際して住民を避難させる仕組みを定めた「国民保護法」(平成16年6月18日法112号、正式名称は「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)、アメリカ軍が日本を守るための行動を円滑に行いうるようにするための「米軍行動円滑化法」(平成16年6月18日法113号、正式名称は「武力攻撃事態等におけるアメリカ合衆国の軍隊の行動に伴い我が国が実施する措置に関する法律」)、外国の軍用品等を海上輸送する船舶を臨検するための「外国軍用品等海上輸送規制法」(平成16年6月18日法116号、正式名称は「武力攻撃事態等における外国軍用品等の海上輸送の規制に関する法律」)等の法律が制定され、有事法制の一応の整備が終わった。
ここでその内容の詳細に立ち入ることはできないが、自衛隊法や安保条約の合憲・違憲問題は別にしても、事の性質上国民の人権(財産権・居住移転の自由等)の制約を伴うものであり、その規定の仕方と運用が「公共の福祉」により正当化しうる範囲内にとどまるのかどうか、今後の検討課題に残されている。

4 安保条約をめぐる憲法問題


(1) 日米安保条約の締結とその性格


日本国憲法は、国際協調主義を掲げ、憲法制定当時は将来の日本の安全保障を国際連合等の国際組織に期待していたといわれる。
しかし、冷戦の進行によりその現実性は失われ、西側陣営に所属する決意をして講和条約を結び(1951年署名、1952年発効。西側陣営に属する連合国のみとの講和であったために片面講和といわれた)、同時に日本の防衛をアメリカに頼って日米安保条約を締結した。
当初の安保条約は日米の対等性に欠けるところがあるということで、1960年に新安保条約が締結され現在に至っている。
しかし、対等といっても、日本国憲法が集団的自衛権を禁止していることから、アメリカには日本が攻撃を受けたとき日本を防衛する義務はあるが、日本にはアメリカが攻撃を受けても、それが同時に日本に対する直接的な攻撃でない限り、アメリカを防衛する義務はない。
日米安保条約に込めた目的は、日本とアメリカでは異なるのである。
アメリカにとっての目的は、極東(当初の理解では、フィリピン以北ならびに日本とその周辺地域で、韓国・台湾を含むとされたが、後に、ベトナム戦争や湾岸戦争に際して米軍が日本から発進するということが起こったので、1996年の協議で「アジア太平洋地域」にまで及びうる意味へと「再定義」された)におけるアメリカの軍事戦略として、日本にアメリカ軍の基地を設置し使用することにあるのに対し、日本にとっての目的は、日本の防衛をアメリカに協力してもらうことにある。
いわば基地使用と防衛協力が対価関係に置かれているのであり、アメリカによる基地使用は、日本を防衛するという目的に限定されず、極東における軍事行動のためにも使用しうるのである(安保約6条参照)。

(2) 砂川事件判決


このような目的の安保条約は、憲法の平和主義や戦力不保持に反しないであろうか。
それが争われたのが、砂川事件であった。
これは、アメリカ軍の使用する立川飛行場(東京都)の拡張に反対するデモ隊が基地内に数メートル乱入したために、旧安保条約3条に基づく刑事特別法2条違反で起訴された事件である。
東京地裁は、駐留軍が憲法9条2項の戦力に該当し違憲と判断したために(東京地判昭和34年3月30日判時180号2頁)、最高裁に飛躍上告がなされた。
最高裁は、アメリカ軍の駐留を許すことは、戦力不保持に反しないかの問題につき、9条にいう「戦力」とは「わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しない」として9条違反の主張を斥け、では日米安保条約は平和主義の精神に反しないかの問題については、国の防衛をどのように行うかという問題は高度に政治性を有するものであり、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外」のものであるとし、裁量論の混在した独特の統治行為論を提示して判断を回避した(最大判昭和34年12月16日刑集13巻13号3225頁)。

(3) 日米防衛協力のための新ガイドライン


日米安保体制はもともと冷戦構造に規定された性格をもっていた。
ゆえに、冷戦の終結とともに、見直しが必要となった。
そこで、この際日本の自主的防衛政策の観点から従来の日米安保のあり方を根本的に再検討すべきだとの意見もあったが、政府はアメリカの強い要請を受けて、従前以上にアメリカ極東戦略への協力に深くコミットする方向を選んだ。
すなわち、従来はアメリカが日本の領土・領海外の極東で日本の防衛とは直接関係しない軍事行動をとる場合、日本はこれを支援する責任を必ずしも負っていなかったが、1997年に日米間で合意された「日米防衛協力のための指針」により、このような場合にも日本はより積極的な協力を行うことを承認した。
この約束を実現するために制定されたのが1999年の「周辺事態法」(正式名称は「周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」)である。
この法律は、「周辺事態」(「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」(1条))が勃発したとき、アメリカに協力して我が国が実施する措置とその手続を定めたものであるが、その措置の主要なものは「後方地域支援」と「後方地域捜索救助活動」とされている。
前者は、周辺事態に際して前線で活動するアメリカ軍に対し我が国が後方地域において行う物品・役務の提供等の支援であり、後者は、戦闘行為によって遭難したアメリカ兵等を我が国が後方地域で捜索・救助する活動である(3条1項1号・2号)。
ここに後方地域とは、前線の戦闘とは分離された地域と想定されているが、現代戦争ではそのような分離は不可能だとの批判もある。
また、それは日本周辺の公海およびその上空も含むとされており(3条1項3号)、かつ、任務遂行に際して部隊員の生命・身体の防護に必要ならば「武器使用」(「武力行使」とは区別された)も認められている(11条)から、海外派兵の禁止や集団的自衛権の禁止との関連で重大な疑問をはらんでいる。

5 国際協力と憲法9条


湾岸戦争(1991年)に際して、日本も自衛隊を派遣して国際平和の維持のための活動に積極的に貢献すべきだという声が内外で聞かれた。
日本は、従来、憲法9条に抵触するおそれがあるという理由で自衛隊の海外派遣には消極的態度をとってきた。
しかし、国連による平和維持活動(PKO=Peace Keeping Operation)への協力は、武力の行使を伴わないものは当然のこと、たとえ任務の目的からして武力の行使を伴う可能性の高い活動への参加であっても「海外派兵」とは異なるのではないかとの見解もあり、そこで政府は、平和維持軍(PKF=Peace Keeping Force)的な活動への参加が許容されるための原則として、
①紛争当事者間における停戦合意の成立、
②PKFへの日本の参加に対する紛争当事国の同意
③PKFの中立的立場の厳守
④以上の条件が満たされなかった場合の日本の撤収、
⑤自衛のためにやむをえない場合に限り必要最小限度の武器使用を認める、
という五原則(PKO五原則と呼ばれることもある)を提示し、1992年にこれに基づく「PKO協力法」(正式名称は「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」)を制定した。
なお、制定当初は、この法律の附則2条で、停戦監視、緩衝地帯の駐留・巡回等のPKF本体業務は、別に法律で定めるまで実施しないとしていたが、2001年の法改正により実施に移された。
選挙監視・生活物資の配布・輸送等の周辺業務については、これまでに、この法律に基づいて、自衛隊をカンボジア・モザンビーク・ルワンダ等に派遣している。
なお、自衛隊法3条2項2号は、国際平和協力業務を自衛隊の任務と規定している。

自衛隊が部隊として外国に派遣され、そこで武器も使用するとすれば、「海外派兵」の禁止とどう関連するかが、当然問題となる。
当初は、この問題を回避するために、武器使用を正当防衛・緊急避難の場合に限定し、必要性の判断を隊員個々人に委ねたが、カンボジアでの活動の経験を踏まえて、上官の命令による武器使用を認めることにした。
その分、部隊としての武器使用の性格が強まったことになり、海外派兵との境界が不明確になったことは否めない。

2001年9月11日に米国で起こったニューヨーク貿易センタービルに対するテロ攻撃を契機にアフガン戦争とイラク戦争が生じたが、これに対する日本政府の対応として、アフガン戦争の「後方支援」とイラクの戦後復興支援を可能にするために、いわゆる「テロ対策特別措置法」(平成13年11月2日法113号)と「イラク支援特別措置法」(平成15年8月1日法137号)が制定された(ともに時限立法。なお、前者は平成19年11月2日に失効し、「新テロ特置法」(平成20年1月16日法1号)となったが、これも平成22年1月16日に失効した)。
両法とも、国連決議を踏まえての国際協力という形をとっていたが、停戦合意のないところでの支援・協力である等、PKO協力とは性格を異にするものであり、政府は「非戦闘地域」における協力であるとして正当化していたものの、政府が従来説明してきた自衛隊海外派遣の許容限度を超えて集団的自衛権の行使に踏み込んでいるのではないかとの批判も強かった。
実際、イラク支援特別措置法に基づく自衛隊のイラク派遣が平和的生存権を侵害するとして違憲の確認と国家賠償等を請求した訴訟において、名古屋高裁は、平和的生存権の具体的権利性を認めたうえで、イラクでの航空自衛隊の活動は「戦闘地域」において「他国による武力行使」と一体化して行われており、イラク特措法に反すると同時に憲法9条1項にも違反すると判示している(名古屋高判平成20年4月17日判時2056号74頁)。
もっとも、結論的には、違憲確認請求については確認の利益がない、国家賠償請求については平和的生存権の侵害にまでは至っていない、等を理由として控訴は棄却され、控訴人側が上告をしなかったので、国からは上告しえない形で終結している。

自衛隊の「国際貢献」に対する憲法上の疑問を払拭するために、憲法9条は国際連合の決定に基づく協力には適用されないとする解釈も提唱されている。
たしかに、国際連合が指揮する軍隊の場合には、憲法9条の問題にはならないという解釈もありえよう。
しかし、今までのところ、正規の(国連憲章第7章が定める、国連の指揮下に置かれる)「国連軍」というものは存在せず(安保理の決議に基づくいわゆる「多国籍軍」も基本的には各国政府の指揮下にあり、国連軍ではない)、国連の決議に基づく協力としての自衛隊活動も、日本政府の指揮の下に行動するのであり、そうである限り9条の適用を免れることは困難である。

6 立憲主義からの選択


憲法9条と自衛隊・安保条約・国際貢献の現実との矛盾は、誰の目にも明らかであろう。
では、どうしたらよいか。
ここで、現実に対応しうるように憲法を改正すべきだという意見と改正すべきでないという意見が対立する。
立憲主義にとってのそれぞれの問題点を検討しておこう。

(1) 改正論


改正論者は次のように主張するであろう。
憲法規範に反する実態が続くことは、憲法に対する規範意識を鈍磨させ、立憲主義にとって害が大きすぎる。
圧倒的多数の国民が実態の方を支持している現実があるとすれば、実態に合わせて憲法を改正する方がよいのではないか。
政府は9条が非現実的だという世論の支持をよいことに、歯止めのない「解釈改憲」の道を歩んでいる。
これ以上「解釈改憲」を許すことは、立憲主義の基礎を掘り崩すことになり、かえって危険である。
むしろ憲法改正により、現実に即して憲法上許されることと許されないこととの線引きを明確化し、今後は憲法を厳格に守っていくことを誓った方がよいのではないか。
改正したからといって、自衛隊や安保条約の保持が憲法上義務づけられることになるわけではない。
戦争放棄の理想が現実性を獲得し、多数の国民の支持を受けるときには、その政策を実現することは、改正憲法により禁止されはしないのである。

この主張には、現実とかけ離れた憲法はかえって立憲主義を形骸化するという重要な指摘が含まれているが、次のようなマイナス面をもつことも忘れてはならない。
すなわち、平和を求める戦後の真摯な運動は、9条に鼓舞されて行われてきたが、この9条がなくなれば、こうした運動は大きな支えを失うことになろう。
このことが平和運動を困難とすることは否定できず、このことのもつ意味の大きさを過小に評価してはならないであろう。

(2) 改正反対論


改正に反対の人も、自衛隊は違憲であり直ちに廃止すべきだなどとは主張しないであろう。
時間をかけて9条の規範内容を実現していくべきだと考えていると思われる。
では、その間の憲法規範と現実との矛盾はどう説明するのであろうか。
その矛盾が確認さえされていれば、矛盾が長期にわたって継続してもよいと考えるのであろうか。
それでは、憲法を遵守すべきだという立憲主義の精神は、ご都合主義的なものとして後退せざるをえないのではなかろうか。

そこで、9条の維持と立憲主義とのバランスをはかる理論構成を考えてみよう。
一つは、憲法変遷論に訴えることが考えられる(憲法変遷論については、427頁参照)。
憲法9条の変遷を解釈論として認めれば、自衛隊を違憲という必要はなくなる。
しかも、憲法9条は消滅するわけではなく、一時的に妥当性を失い「眠り」についているにすぎない。
国民意識が変化し、9条を支持するに至れば、9条は眠りから覚めうるのである。
問題は、この解釈をとるためには、憲法変遷の成立要件をある程度緩和しなければならず、そのことが立憲主義をその分形骸化させる危険をもつことである。

他の方法としては、9条の規範性の妥当領域を政治の領域に限定し、裁判所での機能を限定することが考えられる。
たとえば、9条をプログラム規定と解する立場は、その一つと考えることができよう。
もし、この説は9条を政治の指針にすぎないとするから政治領域の規範性さえ否定するもので支持できない、というなら、統治行為論に訴えることも考えうる。
そうすれば、規範性は維持しつつ、裁判所が介入することは回避することができる。
ちなみに、かかる観点から問題を捉えれば、最高裁が訴訟上の法技術を駆使して自衛隊の憲法判断を避けてきたのは高く評価されるべきことといえよう。
そのうえ、判断回避の法技術が尽きたときの最後の回避方法として統治行為論が控えていることになる。
実際、長沼訴訟の高裁判決や百里基地訴訟の地裁判決は、統治行為論を援用したのである。
しかし、ここでも統治行為論のもつ反立憲主義的性格を考慮に入れて、その採用の可否を判断する必要がある。

いずれにせよ、現行9条を維持しようとする立場は、9条が自衛隊の拡張にブレーキをかけてきたということのみならず、我々が追求すべき理想のシンボル的意味をもつことを強調する。
このプラス面は貴重であるが、他方で、それに反する現実により立憲主義の精神が磨滅していく危険に恒常的に直面していることも無視すべきではない。
このマイナスと9条を改正することに伴うマイナスの間の厳しい選択を求められているのである。

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