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<目次>

1 近代立憲主義の成立


(1) 中世立憲主義


立憲主義とは、国の統治が憲法に従って行われねばならないという考えをいう。
この思想が最初に成立するのは、ヨーロッパ近代においてであるが、その淵源はすでに中世のゲルマン法思想の中に存在した。
中世においては、「国王も神と法の下にある」(ブラクトン)といわれ、国王といえども法には従わねばならないと考えられていた。
そこにいう法とは、国王が自己の意思によって人為的に制定するものではなく、国王の意思からは独立に存在する客観的な正義であると観念されていた。
それは、現実には慣習法の形で存在したのであるが、この客観的に存在する正義としての法(慣習法)が裁判において《発見》され適用されたのである。
そして、国王がこの法に違反して恣意的な政治や裁判を行えば、それに抵抗することも正当であるとされた。
抵抗権が承認されていたのである。
もっとも、誰もが抵抗権を発動しうると考えられていたわけではない。
国王が法に従うよう監視する役割は、通常は、国王の臣下を集めた国王顧問会議(後の身分会議・等族会議の前身)が担うとされたのであり、抵抗権を発動するのも、次第にこの顧問会議の役割と考えられるようになっていく。
それはともあれ、ここには中世的な「法の支配」が見て取れるのであり、これを中世立憲主義と呼ぶことができよう。

(2) ローマ法思想と絶対主義国家の形成


法は制定するものではなく発見するものだというこのゲルマン法的観念を覆したのは、ローマ法の観念であった。
12世紀にイタリアのボローニャでユスティニアヌス法典を素材としたローマ法の研究が始まるが、そのローマ法思想によれば、法とは皇帝の意思・命令により制定されるものであった。
中世的諸身分の特権・既得権を内容とする慣習法により縛られていた国王は、この呪縛をふりほどき中央集権的国家の建設を推進するために、このローマ法思想を援用するようになる。
それが最も典型的に現れるのがフランスであったが、フランス国王は主権者たる自己の意思こそが法であると主張し、これに反対する身分会議(三部会)の招集を回避して絶対王政を確立していく。
その過程で、国王権力は対内的に最高であり、対外的に独立であると主張する「主権」の概念が、ローマ法思想を基礎に形成されたのである。

(3) 絶対主義との闘いと近代立憲主義の成立


主権者(国王)の意思が法だということになると、国王が自由に法を制定しうるということになるから、臣民(*)の権利が危険にさらされる。
ローマ法思想の下では、もはや中世的な慣習法により保障された特権・既得権という論理は通用しなくなるから、絶対君主に対抗して権利保障を主張するための新たな論理が必要であった。

(*)臣民
人民あるいは国民を権力に服するという側面に着目して捉えた観念。
ちなみに、権力に参加する、あるいは、権力の主体となるという側面に着目した観念が「市民」である(ルソー『社会契約論』参照)。
日本国憲法は「市民」の代わりに「国民」の語を用いており、注意を要する。

(ア) 統治契約論

初期の段階でこの要請に応えようとしたのは、統治契約(服従契約)の理論であった。
国王の側が主権を神から授けられたとする王権神授説を唱えたのに対し、統治契約論は、神から主権を授かったのは国王ではなく人民であり、それを服従契約により国王に委任したのであると主張した。
この理論では、国王の権力は人民との契約を根拠にするから、人民の権利(その内容は、身分的・慣習法的な既得権)を侵害すれば契約違反となり、人民は服従の義務から解放され抵抗権に訴えることが可能となるとされたのであり、多分に中世的な性格を残した理論であった。

(イ) 社会契約論

しかし、その後、ジョン・ロック(John Loche, 1632-1704)に代表されるような社会契約論が形成され、これにより権力の制限と自由の保障が理論化されるに至る。
それによれば、人は最初、社会の成立以前の「自然状態」において自然権を有していたが、その自然権をよりよく保障するために契約により社会を形成し、政府を設立して権力を信託する。
この政府の設立・信託が、憲法の制定行為にあたる。
政府の設立と権力の信託は自然権の保障が目的であるから、政府は人々のもつ自然権を侵害することは許されず、侵害した場合には、抵抗権あるいは革命が正当化されるのである。
このような論理で絶対王政に替わるべき新しい政治構造が示され、かかる思想によってアメリカの独立やフランス革命が行われ、立憲主義に基づく憲法が制定されたのである。

(ウ) 立憲主義の構成原理

かくして確立した近代立憲主義の内容は、権利(自由)の保障と権力の分立を基本原理とするものであったが、その前提として人民が主権者として憲法を制定するという原理が要求されていた。
また、権力分立や人民主権は、「法の支配」を通じての自由という中世法的理念をローマ法的観念の下で再構成するための制度原理という意味ももっていた。

以上から、近代立憲主義の基本原理として、①自由の保障、②法の支配、③権力分立、④人民主権、を指摘することができる。
以下に、それぞれについてより詳しく見ていくことにしよう。

2 近代立憲主義の内容


(1) 近代立憲主義の基本原理


(ア) 自由の保障

a) 自由に関する二つの観念

自由には二つの観念がある。
バンジャマン・コンスタン(Benjamin Constant, 1767-1830)の区別した「古代人の自由」と「近代人の自由」に由来するが、一つは、政治への参加の中に自由を見るものであり、それをここでは「権力への自由」と呼んでおこう。
もう一つは、国家によって妨害・干渉されないことの中に自由を見る見方で、「権力からの自由」と呼ばれる。

権力への自由は、古代ギリシャの都市国家に存在した自由観である。
都市国家においては、その構成員(市民)として公共の決定過程(政治)に参加することのできる者が自由人とされた。
市民は、直接民主政の下に、自らが権力の担い手となって「自己統治」し、そのことによって自由であると考えられたのである。
この自由の観念は、ルソー(J.-J. Rousseau, 1712-1778)により受け継がれ、近代立憲主義にも一定の影響を与えることになる。
ルソーは、自由とは自己自身の意思に従うことであると考え、それを可能とする政治体制として、人民主権の下に人民が直接法律を制定し、法律に従うことが自らの意思に従うことと同じとなるような体制を構想した。

この「権力への自由」に対し、「権力からの自由」は、権力に参加し、自らが権力主体となることを目指すのではなく、権力をあくまで他者と見て、その権力から干渉を受けない私的な領域を確保することの中に自由を見る。
ここには、人の生にとって決定的に重要なのは、市民として公共的なるものに参加することより、私的な領域で自己の生を生き抜くことだという価値観の転換がある。
「権力からの自由」にとっては、権力(典型的には国家権力)は自己の私的領域を他者の干渉から防御するために必要な手段として生み出された、いわば必要悪にすぎず、その権力が私的領域に干渉するとすれば、そもそもの目的に反することなのである。
しかし、この論理は、それを徹底すれば、人々は公共心を失い、自己の利益のみを追求する利己主義へと陥る危険を内包している。
これに対し、「権力への自由」は、公共的決定への参加がもたらす教育的効果を通じて人々の公共心を涵養する長所をもちうるが、この制度を実現するには全員参加が可能な小規模の社会が必要であり、大規模社会へと発展しつつある近代国家には、徹底した分権化を構想しない限り、実現が困難なものであった。

ゆえに、近代において中心となった自由観は「権力からの自由」であり、人権保障の中心に置かれたのは、かかる意味での「自由権」であった。
しかも、財産権を中心とする経済的自由権を最も重要視した点に、近代の人権保障の特徴があった。
ただし、「権力への自由」を基礎とする市民権がまったく保障されなかったわけではない。
政治への参加そのものに独自の価値があるとは考えなかったものの、政治への参加が権力をコントロールし自由権を護る手段として有用である限度で、制限選挙ではあったが参政権が認められた。

b) 権力による自由

自由の観念としては、「権力からの自由」と「権力への自由」が基本であるが、もう一つ、「権力による自由」ということがいわれることがある。
これは、権力が自由を実現するという側面を捉えた表現であるが、自由の第三の観念というよりは、本来の自由観に付随するものという性格が強い。
というのは、ここで問題とされているのは、権力が自由の存在に必要な条件や環境をつくり出すことであり、それにより実現される自由そのものは、「権力からの自由」あるいは「権力への自由」だからである。

社会契約論によれば、国家(政治社会・政治権力)は自然権を保護するために形成された。
ゆえに、国家は、その起源からして、自然権を保護する義務を負っているといわれる。
ここから、国家が保護する自由(自然権)を「国家による自由」と呼ぶこともある。
しかし、かかる意味での「国家による自由」は、自由の新たな観念でもないし、また、原則的には、基本的人権として憲法の中に取り込まれた「憲法上の権利」でもない。
国家が自由を保護するには、通常、法律が必要であり、「国家による自由」の実現は、そのための制度を法律により形成することを通じて行われる。
ゆえに、「国家による自由」は、それが権利として主張されるときには、法律の制定等、国家の何らかの積極的な行為を要求する権利という意味をもつのであり、原則的には「憲法上の権利」ではなく、「法律上の権利」と考えるべきものである。

このように、「国家による自由」は、原則的には「憲法上の権利」ではないが、例外的に憲法に取り込まれたものもある。
近代憲法においては、「裁判を受ける権利」がその最も重要な例であるが、現代憲法になると、新たに「社会権」が憲法上の権利としての地位を与えられるようになる。
たとえば、日本国憲法25条の保障する生存権がその例であるが、国は生活保護法等の社会立法を行い、生存に必要な最低限の財貨・サービスを提供する憲法上の義務を負うのである。

(イ) 法の支配

a) 「法の支配」の二つの要請

「法の支配」は「人の支配」に対する概念で、人によるその場その場の恣意的な支配を排除して、予め定められた法に基づく支配によって自由を確保することを目的とする。
法の支配により自由を実現するためには、まず第一に、自由を保障するような内容の法(正しい法)を制定することが必要であり、第二に、その法を忠実に適用し執行することが必要である。

法の忠実な執行という要請を実現するために、法を制定する権力(立法権)と執行する権力(執行権)と法の争いを裁定する権力(裁判権)を分離し異なる機関に授けるという考えが生ずるが、これが後述する権力分立の原理である。
執行権は、立法権がつくった法律を忠実に解釈適用し執行していく義務を負い、忠実に執行しているかどうかが争いになったときには、裁判所が判断するという体制である。

では、正しい法の制定という要請を実現するにはどうしたらよいか。
一つは、法律の制定に抑制・均衡(checks and balances)のメカニズムを組み込む方法がある。
チェック・アンド・バランスも権力分立の内容をなすが、たとえば議会を二院制にして法律の制定には両院の合意が必要であるとしたり、国王あるいは大統領の拒否権や裁可権を認めたり、さらには、裁判所に法律の合憲性の審査権を与えたりして、複数の機関の合意と均衡が形成された場合しか法律の制定はできないようにし、このチェック・アンド・バランスによって法律の内容が行き過ぎるのを阻止し、法律の「正しさ」を確保しようとするものである。

もう一つは、法律の制定に国民の同意を得るという方法である。
これも後述の国民主権の原理と表裏の関係にある問題であるが、国民の権利を制限するような法律を制定する場合には、少なくとも国民を代表する議会の同意を必要とすることにして、法律の内容の「正しさ」を確保しようとするのである。

現実には、この二つの方法を組み合わせて、法律の内容が自由を侵害するものとならないよう配慮している。
その具体的ありようは国により異なるが、それを支えている理念は権力分立(抑制・均衡)と国民主権である。
このように、法の支配は権力分立と国民主権の原理に密接に結びついているのである。

b) 裁判所の役割

正しい法律が制定されれば、その忠実な執行を確保すればよく、このために最も重要な役割を果たすのが裁判所である。
近代において法の支配の観点から最も重視されたのは、絶対王政を倒して国王の権力を法律の下に置くことであったから、法の支配は国王のもつ執行権(行政権)を法律に従わせることの確保を中心に制度化が構想され、その結果、国王から独立の裁判所が行政の法律適合性を裁定するという体制が目指された。
この場合、この裁定の任にあたることになったのが、イギリスのように「通常裁判所」(司法裁判所あるいはコモン・ロー裁判所とも呼ばれる)のこともあれば、フランスやドイツのように、通常裁判所とは別系統の「行政裁判所」を生み出していった国もあった。

法の支配を徹底するためには、行政が法律に従っていることを確保するだけでは不十分である。
法律が憲法に違反していないかどうかを独立の裁判所が判断する制度を実現する必要がある。
しかし、それが実現するのは、一般には現代に入ってからであり、近代の段階では、このような違憲審査制度は、唯一アメリカ合衆国において採用されていたにすぎない。
したがって、国民の権利が現実にどの程度保障されるかは、どのような内容の法律が制定されるかに依存することとなった。
イギリスでは、法的には国会主権の原理がとられ、法律が最高の力をもつとされたが、法思想としては中世以来の、国王も議会も拘束される「高次の法」が存在するという観念が強固に生き残り(*)、国民の権利を侵害するような法律がつくられることに阻止的に働いた。
フランスでも、国民主権の下に国民を代表する議会が優位する体制が確立し、法律(議会)が志向の力をもったが(**)、市民階級の成熟とともに選挙権が拡大され、第三共和政期には議会が国民の意思を反映するようになり、法律が国民の権利を侵害することは少なくなったといわれる。
これに対し、ドイツでは、市民階級の成熟が遅れ議会が力をもつに至らず、「法律に基づく行政」の原理が法律の内容・実質を問わないものと理解されるようになり、たとえ権利を制約するような法律でも、行政がそれに従ってなされる限り、「法治国家」(Rechtsstaat)が存在するとされた。
これを「形式的法治国家」と呼んでいる。

(*)イギリスのルール・オブ・ロー(rule of law)
イギリスの法の支配の特徴を定式化したダイシー(Albert Venn Dicey, 1835-1922)は、法の支配を国会主権と並ぶイギリス憲法の基本原理として提示し、この法の支配は判例法(コモン・ロー)と制定法から成る「正規の法」(regular law)の支配として確立されたと説明している。
重要なのは、コモン・ローが具体的事件の中で発見された正義(理性)と観念されたのみならず、制定法も類型的事例に関して一般的抽象的に発見された正義と観念されていたということであり、法の支配が究極的には社会の中で妥当している「高次の法」の支配と考えられたことである。

(**)フランスにおける「法律適合性の原理」(principe de Legalite)
1789年のフランス革命は、国民主権を宣言し、主権者国民を代表する国民議会を「主権的意思(一般意思)」の表明」としての法律の制定権者とし、執行権の役割を法律の執行に限定した。
この結果、執行権の行為は厳格に法律に従うことを求められた。
この原理を「法律適合性の原理」と呼び、かかる国家体制を「法律適合性国家」(Etat legal)と呼ぶ。

(ウ) 権力分立の原理

a) 権力分立論の二側面

権力分立論を定式化したのは、モンテスキュー(Montesquieu, 1689-1755)であった。
彼は当時のイギリスの制限君主制を観察し、それを、立法権・執行権・裁判権の分離の下に、立法権に君主・貴族院・庶民院の三者が参与し、そこで抑制・均衡する体制として描いた。
ここに描出された原理が、忠実な法律執行のための立法・執行・司法の「三権分立」(狭義)と正しい法律制定のための「抑制・均衡」の原理として、法の支配を制度化するメカニズムとなったことは、すでに述べた。
一般には、権力分立の原理(広義)を三権の分離と抑制・均衡の両側面を含む意味で用いている。

b) 歴史的展開図式

権力分立原理の要点は、立法、執行(行政)、裁判という国家の三つの作用(機能)を議会、国王や大統領などの執行機関、裁判所という異なる組織・機関に配分し、少なくとも一つの機関が全国家作用を独占することのないようにすることにある。
そのうえで諸権力を具体的にどのように配置するかは、国により時代により異なるが、特に立法権と執行権の関係に着目してイギリスの歴史的展開を見てみると、次のような発展図式を描くことができる。

国王が全権力を握った「絶対王政」を出発点に置くと、次にくるのが立法権を国王と議会が共有し、国王権力が議会により制限される「制限君主制」であり、これがモンテスキューが権力分立論を説くに際してモデルにした体制である。
立憲君主政も基本的には、この型に属す。
次いで君主と議会の間を調整する機関として内閣が重要な役割を果たす段階がくる。
内閣を構成する大臣は、もともとは国王の家僕にすぎず、国王の自由に任免するところであったが、議会の力が強まるとともに、議会の信任も必要とするようになり、特に議会の信任を受けた首相の指導の下に内閣が国王から相対的な独立性を獲得して、国王と議会の両者から信任を受けつつ両者の調停を行っていくようになるが、これが議院内閣制の始まりである。
18世紀末にこのような政治運営のあり方が成立するが、権力の核が国王と議会の二つにあるため、「二元型議院内閣制」と呼ばれる。
その後、民主主義の要求が次第に強まり議会の地位がさらに向上すると、国王は首相の選任権を実質上失い、議会の多数派が支持する者を任命する以外になくなり、国王の権力は名目化する。
この段階が「一元型議院内閣制」と呼ばれ、19世紀後半に実現される。
さらに議会が強くなれば、議会が内閣を完全に従属させてしまい、権力が議会に融合する体制である「議会統治制」が理論上は考えうるが、それが好ましい体制かどうかについては種々疑問もあり、現在のイギリスではこのような方向へは展開していない。

制限君主制における君主の代わりに大統領を置いたのがアメリカの大統領制である。
権力分立がもともと制限君主制の構造をモデルとしていたことから、アメリカの大統領制は厳格な権力分立体制だといわれることがあり、これに対比して、議院内閣制は穏健な権力分立の体制だといわれる。
なお、二元型議院内閣制の構造を共和政の下で採用したのが、かつてのワイマール憲法や現在の第五共和政憲法である。

《統治機構の展開図式》
【君主制】  ①絶対王政 → ②制限君主制 → ③二元型議院内閣制 → ④一元型議院内閣制
                      ↓             ↓               →   ⑤議会統治制
【共和制】             ②大統領制     ③仏第五共和政

(エ) 国民主権の原理

主権という概念は、国王が中世の権力分散的な封建社会を統合していく過程で、国王権力を正統化する目的でローマ法観念を手がかりに造形されたものである。
そこで、主権は、最初、国王の権力が対外的に(ローマ教皇や神聖ローマ皇帝等との関係で)独立であり、対内的に(封建諸侯との関係で)最高であることを表現する言葉として成立し、次いで、独立・最高の国王権力そのものを主権と呼ぶ用法も成立した。
そして、こうした主権の意味が、後に国家が成立すると、国家権力についても使われるようになった。

a) 対外的独立性

国家を前提にすると、主権は、まず、対外的に独立であり他国の干渉を許さないという国家(権力)の性質を表現し、あるいは、対外的に独立な国家権力そのものを指すのに用いられる。
そして、国際社会における国家のそのようなあり方が「主権国家」と呼ばれるようになる。
近代以降の国際社会は主権国家の共存の体制として存在しているのである。

b) 対内的最高性

これに対し、対内的な最高性については、国家権力が基本的には集権的権力であることから、最高であることは当然であり、特にそれを言う意味を失う。
対内的レベルで重要となるのは、主権的な国家権力が誰に帰属するかである。
この点で君主主権論と人民主権論が対立したが、そこで争われた問題には二つの領域の区別が必要である。

第一は、権力の正統性の根拠の問題である。
国家権力は、もともと誰に帰属するものなのか。
君主なのか人民なのか。
これが、実は、「憲法制定権力」の帰属にも関係するのである。
君主主権論は、自己の権力は神により直接授かったものであり、それに基づき自ら憲法を欽定し、その憲法により、自己の権力行使を自己制限するのであると主張する。
これに対し、人民主権論は、人民が契約により社会を形成し、憲法を制定するのだと主張する。
アメリカやフランスで確立する原理は人民主権であるが、イギリスでは君主(King)主権を「国会における君主」(King in Parliament)の主権に転換して君主と国会の共有体制をつくり、さらに君主の権力を実質上名目化して国会主権を実現するという展開をたどる。
イギリスの市民革命は、君主と議会の対立として闘われ、人民が憲法を制定するという経過をたどらなかったので、君主主権と人民主権の選択という問題には直面しなかったのである。
他方、ドイツでは、君主主権と人民主権の対立の中で、いずれに決着をつけることもできないで、主権は君主でも人民でもなく国家法人格に帰属するという「国家主権」論を生み出した。

第二の問題は、人民が憲法を制定する場合、どのような内容の制度をつくるべきかに関係する。
代表制論として論じられる問題がこれである。
フランスでは、この点で「人民」(peuple)主権論と「国民」(nation)主権論が対立した。
「人民」主権論は、主権者たる人民を政治に参加しうる独立し成熟した判断能力を備えた具体的個人(市民)の集合と捉え、個々の市民が選挙権をもつべきであり(普通選挙)、かつ、選ばれた代表者は選挙区民の命令に法的に拘束されねばならない(選挙区民と代表者のこのような関係を「命令的委任」の関係という)と主張した。
これに対し、「国民」主権論は、その国民を、過去から現在を経て未来へ連綿と継続する国民の意味に理解した。
このような「国民」は抽象的・理念的な存在にすぎないから、具体的な「人民」と異なり、自己の意思をもつことはできず、代表者の意思を自己の意思とみなす以外にない。
ところが、「国民」に帰属させられる意思は、全国民の意思であるから、それを形成する議会の代表者は、自己の選挙区民の意思に拘束されては困る。
代表者は自己の良心のみに従い、討論を通じて全国民の利益となる意思を形成しなければならないのである。
ゆえに、命令的委任は禁止されねばならない。
このようなあり方の代表を「国民代表」という。
さらに、参政権も自己の利益を離れて全国民の利益を考えることのできる者に制限されねばならない。
ここから、財産に基づく制限選挙が主張された。
近代初期に勝利するのは、この「国民」主権論であった。

(2) 近代立憲主義の二つのモデル


以上の基本原理の各々は様々な理解を許容し、現実にどのように制度化されるかは各国により異なるが、全体のあり方を大きく分ければ二つの主要なモデルに整理できる。
立憲君主政モデルと国民主権モデル(立憲民主政モデル)である。

(ア) 立憲君主政モデル

立憲君主政モデルにおいては、君主政原理(君主主権)が出発点に置かれ、そこから君主が憲法を欽定して自己の権力を制限するという論理をたどる。

そこで、まず第一に、議会が設立され、これに立法権が与えられる。
ただし、君主も議会の可決した法律の裁可権を留保する。
したがって、法律を制定するには、原則として、議会と君主の同意が必要となり、少なくとも議会の同意が必要となった限りで、君主の立法権は制限されることになる。
では、議会の同意が必要とされたのは、いかなる範囲においてか。
それは、国民の権利を制限しあるいは義務を課す場合である。
このような法規範を、ドイツでは「法規(Rechtssatz)」と呼んだが、法規の制定は法律をもってしなければならないとされたのである。
これを「法律の留保」という。
法規以外の事項については、君主はそれを議会の同意を必要としない「命令」の形式で定めることができた。
もちろん、それを法律で定めることもできたが、その場合には君主の裁可が必要であり、したがって「法規」が法律事項と命令事項の分配のキー概念だったのである。

第二に、独立の裁判所が設置され、それに法律の解釈・適用の争いを裁定させた。
そして、立法権と裁判権以外の残りの全権力が行政権として君主の手に残されたのである。

(イ) 国民主権モデル

これに対し、国民主権モデルでは、国民主権を出発点にして、主権者たる国民が憲法を制定し立法権・執行権・裁判権を創設する。
立法権を授権された議会は、国民の直接的な代表者であることから、優越的地位を与えられる。
あらゆる法定立は、まず法律によってなされなければならない。
いわば憲法の下におけるあらゆる始源的(イニシャル)決定が法律に留保されるのであり、「法規」に限らず、行政組織の基本もまず法律により規定されなければならない。
執行権は法律の執行を本来の職務とするのであり、ゆえに、そのあらゆる活動につき法律の存在が常に前提となる。
法制定の権限が否定されるわけではないが、法律の存在しないところで命令を制定するということは許されない。
命令は法律の執行に必要な細目的な定めか、あるいは、法律により委任を受けたことについてのみ規定しうるにすぎない。
他方、裁判権は、法律の執行についての争いが生じた場合に、訴えを待ってそれを最終的に裁定する権力であるとされる。

3 近代立憲主義の現代的変容


現代の憲法も基本的には近代立憲主義の原理を継承しているが、近代から現代へと展開するなかで様々な変容を受けてきている。
変化を生み出した要因は、人権の単に形式的な保障ではなく、より実質的な保障を求めた国民の要求と、それを実現するための政治参加(民主主義)の要求であった。
この要求に対応して、国家の役割についての考え方も、国家が社会に介入することを避け、可能な限り私的自治に委ねるべきだと考えた消極国家観から、社会の弱者を保護するために国家は積極的に社会に介入すべきであるという積極国家観へと変化し、これに伴い、立憲主義の諸原理の捉え方にも強調点の変化が生じるのである。
ここでその重要なものを簡単に指摘しておく。

(1) 人権論における変化


近代初期においては、国家と個人の間に存在する中間団体は、アンシャン・レジーム下の身分的・同業組合的団体と同視され、営業の自由等の近代的自由に敵対するものとして禁止された。
しかし、封建的性格の中間団体の解体が一応終わると、今度は中間団体が国家と対峙して個人の自由の防禦者となりうることに気づき、中間団体に結社の自由を認めてこれを保護するようになる。
この点は、現代憲法にも引き継がれている。

しかし、現代人権における最大の変化は、私的自治・経済的自由の制限と社会権の登場である。
社会における私的自治を重視した近代の消極国家の下では、弱者が人権を享受することなど実際上は不可能であることが判明した。
そこで私的自治を修正し、一方で、労働条件を全面的に契約の自由に委ねるのではなく最低限の水準を法律で規定し、他方で、最低水準を超える条件の取決めに際しての労働者の交渉力を強化するために、労働基本権を憲法上保障しようとする動きが生じた。
さらに、すべての国民に生存権を認めるべきだという考えも唱えられ、国家に国民の生存配慮を要請する「積極国家」の思想が支配的となった。
こうして、「権力による自由」(社会権)が強調される。
そして、弱者の声を政治に反映させるために、「権力への自由」(参政権)の強調がこれに連動する。
社会権を充実させるには、それを要求する者たちの参政権が拡大されねばならないし、参政権が拡大すれば社会権の充実が進展するのである。

社会権の充実のためには、財産権をはじめとする経済的自由権の制限が必要である。
参政権の拡大には、単に選挙権の拡大だけでなく、表現の自由をはじめとする精神的自由権の一層の強化が必要である。
こうして、「権力からの自由」においても、強調点は経済的自由から精神的自由へと移行するのである。

(2) 国民主権から人民主権へ


国民主権論には二つのポイントがあった。
一つは、政治は全国民の利益を目指さなければならないということ、もう一つは、そのためには制限選挙制度の方が優れているという判断である。
しかし、後者は国民主権論からの論理的要請ではない。
普通選挙でも全国民のための政治が可能ならば、国民主権原理に反するわけではないのである。
実際、民主政治の要求が強まるに従い、現在ではどの国でも普通選挙制度を採用するようになってきている。
命令的委任は今日でも禁止されているが、それは、普通選挙の下においても全国民のための政治が必要であり、かつ、可能であると考えているからである。
とはいえ、普通選挙の下においては、代表者は自己の支持基盤の「部分利益」を優先しがちになることは否定できず、人民主権論が支配的となるなかで、部分利益にとらわれない全国民の政治をどう実現するかという問題に直面することになる。

普通選挙の確立は近代立憲主義の機能環境を様々な点で変容させたが、政党政治や行政権の優位という現象も、かかる文脈で理解することができよう。
選挙民がその意思を政治に反映させるために、政党の役割は不可欠である。
政党のあり方は、当初のイデオロギー政党からプラグマティズム政党へと変化を見せているが、いずれにせよ、現代の民主政治は政党の働きなくしては困難であり、現実に政治の主体は個々の議員から政党へと比重を移しており、そのようなあり方を「政党国家」と呼ぶこともある。
また、選挙民の要求が政治に反映されるようになると、それに応えて国家が積極的な施策を行うことになるが、議会よりは行政に適した任務が増大することにより、行政権が優位となる「行政国家」といわれる現象が一般化するのである。

(3) 権力分立制の変容


民主主義思想の浸透に伴って、議院内閣制は二元型から一元型へと変遷する。
一元型が行政国家現象の下で機能するには、内閣、特に首相のリーダーシップの確立が必要である。
それは政党制のあり方に大きく依存する。
イギリスのように二大政党制を確立したところでは、首相は選挙における国民の支持を基礎に強い立場を形成しうる。
ここでは、権力の分立は与党と野党の対立を介して機能することになる。
第四共和政のフランスのように、極端な多党制を生み出したところでは、連立政権とならざるをえず、首相も強力なリーダーシップを発揮することが困難であった。
他方で、アメリカの大統領制においては、大統領が国民により事実上直接選出されるから、大統領の立場は強い。
しかし、大統領制においては、議会の多数派政党が大統領の政党とは異なるということが起こりうる。
そうなったときには、制度上の権力分立が政党対立により増幅され、大統領もリーダーシップの発揮が困難となる状況にしばしば直面し、それをどう克服するかが重要な課題となるのである。

(4) 法の支配の再編


行政権の優位の下に委任立法が増大し、あるいは、政党政治によって立法権と行政権が融合すると、法制定と法執行の区別が曖昧化し、その区別を前提に組み立てられていた法の支配=行政の法律適合性のコントロールはその有効性を減少せざるをえない。
そこで、それを補う様々な方法が考案されてきたが、その最も重要なものが「違憲審査制度」である。
これは立法権と憲法制定権・改正権との峻別を基礎とするものであり、現代憲法の大きな特徴となっている。

近代においては行政権から人権を護ることが最重要の課題と考えられたから、議会に期待することができた。
議会が人権を尊重した法律を制定する限り、あとは行政権をその法律に従わせれば十分だと考えられたのである。
しかし、議会が常に人権を保障するとは限らないことが分かってきた。
議会に多数派と少数派が存在する以上、どんなに民主政治が進展しようと、多数決で敗れた少数派の人権が侵害されないという保証はないのである。
こうして、議会をも法の支配の制度化の中に取り込む必要が意識されるに至った。

現代の違憲審査制度には、二つの類型が区別される。
一つは、アメリカに代表される司法審査型であり、通常の司法裁判所が審査権をもつ。
もう一つは、ドイツに代表される憲法裁判所型であり、ここでは特別に設置された憲法裁判所が審査権を独占し、通常の裁判所は、法律を違憲と審査する権限をもたない。

4 日本における立憲主義の継受と展開


(1) 明治憲法と立憲君主政モデルの採用


徳川末期に開国すると、日本にも西欧の政治思想が急激に流れ込んでくるが、立憲主義思想もその一つであった。
明治政府の手がけた最初の課題は、封建的な幕藩体制を清算して中央集権的な国家構造をつくり出すことであったが、やがて、この絶対主義的構造の形成途上で同時に立憲主義の導入をも求められることになる。
このため、1889年に制定された大日本帝国憲法(明治憲法)は、前にも触れたように(11頁参照)、絶対主義と立憲主義の妥協的性格を有していた。

統治構造における絶対主義的要素の核心は、日本古来の伝統とされた天皇統治の原則を憲法の基礎に置いた点にあり、明治憲法の条文上「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」する(4条)と規定された。
この原則の下で、立憲主義的要素としての権力分立の導入が図られたが、天皇の権力を制限する中心機関たるべき帝国議会は、天皇とともに立法権を保持するのではなく、天皇の立法権に「協賛」(5条)するものとされ、また、裁判所は「天皇ノ名ニ於テ」(57条)司法権を行うものとされていた。
天皇の行政に助言する内閣はと言えば、内閣制度は憲法に規定されておらず、天皇の勅令である内閣官制で定められていた。
憲法が規定したのは、天皇を「輔弼」(55条)する大臣の存在であり(大臣助言制)、憲法上は個々の大臣が天皇に対してのみ責任を負い、首相の下に内閣という統一体を形成し、議会に対しても責任を負うという体制ではなかった。
天皇の行為には原則として大臣の署名が必要である点で、大臣による天皇の制約という意味をある程度もちえたが、いまだ議院内閣制とは言えず、制限君主制段階のものであった。
しかも、憲法制定以前からの慣習に基づき、軍の統帥に関する事項は軍の参謀が天皇を助けることとされ、大臣による輔弼の対象ではないとされた(統帥権の独立)。
これが、のちに拡張解釈され、軍の暴走を許す口実となったのは、周知の事実である。

他方、権利保障を見れば、人権ではなく「臣民ノ権利」(明治憲法第2章の表題参照)であり、かつ、そこで保障された権利はほとんどが「法律の留保」の下に置かれていた。
法律を制定する議会が保守的な貴族院をもつ二院制であり、衆議院も当初は制限選挙の下にあったことを考えると、法の支配も形式的法治国家(25頁参照)へと方向づけられていたと評しえよう。
しかも、緊急時(8条)や有事(31条)には天皇は憲法や法律の拘束を免れることも可能であったから、形式的法治国家さえ不完全なものであった。
とはいえ、権利保障と権力分立を一応取り込んでいた点で、立憲主義の要素を最低限受け入れており、「外見的立憲主義」の憲法と言うべきであろう。

もっとも、妥協を反映して多くの規定は抽象的であり、運用次第で二元型議院内閣制の方向で運用することも、逆に絶対君主政的方向で運用することも可能な内容であった。
実際、大正デモクラシー期には二元型議院内閣制の運用が実現され、それが「憲政の常道」といわれたのである。
この期に美濃部達吉の天皇機関説が通説として受け入れられていたことも、すでに述べたとおりである。
しかし、このような運用は長くは続かず、やがて台頭する軍国主義の圧力下に、天皇統治の建前を強調する「国体」論が猛威を振るい、美濃部の著書は「国体の異説」を説くものとして発売禁止処分を受け、「大政翼賛会」的憲法運用へと突き進んで敗戦を迎えるのである。

(2) 日本国憲法と国民主権モデルの採用


(ア) ポツダム宣言の受諾と憲法改正の必要

1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に「無条件降伏」した。
ポツダム宣言は、その第10項で、「日本国政府ハ日本国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」と要求していた。
日本政府は、当初、ポツダム宣言の要求を実現するのに憲法の改正は必ずしも必要ではなく、憲法の運用で対処しうると判断していた。
しかし、連合国軍の総司令部(GHQ)から憲法改正が必要である旨を告げられ、10月25日に国務大臣松本烝治を長とする憲法問題調査委員会(通常「松本委員会」と呼ばれる)を設立した。

(イ) 松本四原則と毎日新聞によるスクープ

松本委員会は、憲法改正の調査にあたり、次の四原則を指針とした。

①天皇が統治権を総攬するという基本原則は維持する、
②天皇の大権事項を減少させ、議会が関与しうる範囲を拡大する、
③大臣の責任範囲を国務全般に拡大すると同時に、議会に対しても責任を負うことにする、
④国民の権利の保障を強化・充実させる。

このうち、②と③は議院内閣制の方向を目指すものであり、また、④も外見的立憲主義からの脱却を目指すものであり、ともに明治憲法の立憲主義的運用のための障碍となっていたものを改善するという意味をもっていた。
しかし、①により明治憲法の基本構造の外観を維持しようとしたため、全体としてはきわめて保守的な方向を目指している印象を否めなかった。
実際、松本委員会が準備した憲法改正案が、公表前に1946年2月1日の毎日新聞によりスクープされると、それを通じて改正案の概要を知った総司令部は、その内容が保守的にすぎると判断し、総司令部の側で改正案を作成して日本政府に提示する必要を感じるに至るのである。

(ウ) マッカーサー三原則とマッカーサー草案

総司令部で憲法草案を作成するにあたり、マッカーサーは次のような内容の三原則を草案に入れるよう部下に指示した。
マッカーサー三原則と呼ばれている。

①天皇は元首の地位にある。その地位継承は家系に従う。その職務と権能は、憲法に基づき行使され、憲法に規定された国民の基本的意思に従ったものとする。
②国家の主権的権利としての戦争は廃棄される。日本は、紛争を解決する手段としてのみならず、自己自身の安全を保持する手段としてさえも、それを放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理念に委ねる。日本に陸海空軍が容認されることは決してないし、交戦権が日本軍に与えられることもない。
③日本の封建制は終わりにする。貴族の権利は、皇族のものを除き、現在生存する者の代を越えて存続することはない。貴族の地位は、今後いかなる公民的・政治的権力も伴わない。予算の型はイギリスの制度に倣うこと。

マッカーサー三原則を取り込んだ憲法草案(通常「マッカーサー草案」と呼ばれている)は、10日前後の短時日のうちに作成され、2月13日に日本政府に提示された。
先に総司令部に提示していた松本案に対する回答を聞くつもりで会談に臨んだ日本政府代表(吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣等)は、予期せぬマッカーサー草案の提示に衝撃を受け、抵抗を示したが、天皇制の将来や、政府が拒否するなら直接国民に提示する用意があると総司令部側が述べたことなど、諸般の事情を勘案して、最終的には受諾を決断し、マッカーサー草案を基礎にした政府草案を作成することにしたのである。

(エ) 憲法改正案の公表・衆議院選挙・帝国議会による審議可決

政府の改正草案の作成は、その都度総司令部との折衝を重ねながら、まず3月2日案、次いで3月6日の憲法改正草案要綱へと順次整備されて、国民に公表された。
そのうえで、4月10日に衆議院の総選挙を行い(この選挙は女性の選挙権が初めて認められた選挙、また、制限連記制で行われた唯一の選挙)、選挙結果に従って5月22日に(第一次)吉田茂内閣が成立した。
金森徳次郎を憲法担当の国務大臣に任命した吉田内閣は、憲法改正草案要綱を条文化した憲法改正草案を、総選挙で構成を刷新された帝国議会に、明治憲法73条の憲法改正手続に従って提出した。
衆議院と貴族院による審議の結果、若干の修正を除き、基本的には草案通りに可決され、11月3日に公布され、翌年5月3日に施行された。

(オ) 日本国憲法の内容

かくして制定された日本国憲法は、天皇制を「象徴天皇制」として残したものの、国民主権を明示的に宣言し、人権規定を詳細に取り入れるとともに、一元型議院内閣制を採用し、さらに、アメリカ型の違憲審査制度も導入した典型的な現代立憲主義の憲法である。
問題は、それをその理念通りに運用してきたのか、どのように運用すべきなのかであるが、それを考えるのが本書の目的となる。

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