落合仁司『保守主義の社会思想』内容紹介

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<目次> #contents() ---- *■1.はじめに &include_cache(現代保守の社会理論・はじめに) ---- *■2.落合仁司『保守主義の社会理論-ハイエク・ハート・オースティン』紹介と抜粋 //&bold(){&size(24){落合仁司『保守主義の社会理論-ハイエク・ハート・オースティン』(1987年刊)}} |&ref(http://www35.atwiki.jp/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=1636&file=%E4%BF%9D%E5%AE%88%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%90%86%E8%AB%96.jpg)|[[『保守主義の社会理論―ハイエク・ハート・オースティン 』(落合 仁司:著)>http://www.amazon.co.jp/dp/4326152044]]| |~|①F.A.ハイエクの自生的秩序論、②H.L.A.ハートの法概念論(法=社会的ルール説)、③J.L.オースティンの言語行為論という20世紀哲学の諸潮流の内的関連性を、④ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と絡めながら解説し、社会哲学の観点から「20世紀以降の保守主義の社会哲学」を論じた名著。&BR()書中に多々登場する哲学・思想用語を一つ一つ辞書等でチェックしていく根気さえあれば、論旨明快で読みやすいはず。| ---- **▼まえがき &size(12){&color(green){↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え}} #region() 本書は、現代における保守主義についての、社会哲学的な論述である。 従って、現代の保守主義を対象とした、政治学を始めとする社会科学的な分析とは、差し当たり、関係ない。 本書は、現代の保守主義を、経済哲学や法哲学さらには言語哲学を含む、社会哲学の地平において解釈する試みなのである。 しかし、20世紀末の現代において、何故に、保守主義を、しかも、社会科学ならぬ社会哲学の地平において、取り上げねばならぬのか。 今世紀末は、人間の《或るもの》からの離脱不能性と、人間による《或るもの》の操作不能性とを、倦むことなく語り続けて来た保守の精神からは、恐らく最も遠い処に漂い着いた時代である。 すなわち、今世紀末は、人間の《総てのもの》からの個体的な解放と、人間による《総てのもの》の合理的な制御とを、飽くことなく欲し続けて来た啓蒙の精神が、人類の最も誇るべき価値であるかの如き高みに昇り詰めた時代なのである。 そのような啓蒙主義への、最大の敵対者であった筈の保守主義を、今、何故に、しかも、社会哲学などという非科学的な地平において、取り上げねばならぬのか。 言い換えれば、あたかも啓蒙の進歩主義によって完全に領導されているかに見える、近代社会の唯中にあって、伝統の持続とその解釈などという営為が、果たして、いかなる意味を持ち、また、いかにして可能であるのか。 保守主義の社会哲学、すなわち、伝統の持続とその解釈という営為を引き受けるに当たって、これらの問いを避けて通る訳にはいかない。 しかし、これらの問いに答えることは、外ならぬ本論の課題である。 #endregion ---- **▼第一章 世紀末の新しい保守主義 &size(12){&color(green){↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え}} #region() ---- ***◆1.世紀末の《近代》 ---- 我々の時代は、機械と快楽の時代に見える。 産業技術と消費大衆の支配の時代である。 なるほど、この二世紀の間に、産業技術は、蒸気機関と鉄道輸送から電気機器と自動車交通へ、さらには情報処理機器とデータ通信へと大きく移行し、消費大衆は、ブルジョワジーとプロレタリアートから豊かな中間大衆へ、さらには新しい快楽的個人へと激しく変遷してきている。 しかし、技術的な合理主義と大衆的な個人主義の一貫した進展という意味において、この二世紀は、むしろ連続した平面の上にある。 すなわち、我々の時代は、フランス革命と、産業革命さらにはそれに引き続く民主革命とによって解き放たれた、合理主義と個体主義、あるいは産業主義と民主主義という、加速度運動の相の下に捉えられるのである。 言い換えれば、我々の時代は、19世紀と20世紀の200年間を通じて、あらゆる世界を席巻してきた、産業化と民主化という激浪の波頭に位置しているのである。 ここでは、この産業主義と民主主義の二世紀を、《近代》と呼ぶことにしたい。 従って、我々の時代は、20世紀末の《近代》と言うことになる。 この産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義の《近代》を称揚する思想は枚挙に暇がない。 近代自然法論や社会契約論、さらには啓蒙思想は言うに及ばず、19世紀以降に限っても、功利主義やマルクス主義、さらにはそれに引き続く、実証主義的な社会科学(たとえば分析法学、新古典派及びケインズ派経済学、機能主義社会学など)やマルクス主義的な社会科学、といった社会思想が、産業化(合理化)と民主化(固体化)の双方あるいはいずれか一方を、積極的に推進すべく、その言論を展開している。 産業主義(合理主義)あるいは民主主義(個体主義)を称揚する、これらの社会思想こそ、このニ世紀を通じて、進歩主義と呼び習わされて来た思想に外ならない。 《近代》の進歩主義は、功利主義とマルクス主義とに端を発する、《近代》社会科学によって担われて来たと言っても、決して言い過ぎではないのである。 《近代》の進歩主義は、言うまでもなく、極めて多様な傾向を孕んでいる。 そこには、自由主義的な傾向も存在すれば、社会主義的な傾向も存在する。 しかし、いずれの傾向も、その力点の置き方に多少の違いはあるとしても、合理主義と個体主義を信奉することにおいて、いささかも選ぶ処はない。 《近代》進歩主義は、人間とその社会を、理性によって目的合理的に制御し得るし、また、そうすべきである、と考える合理主義と、人間とその社会を、個体的な欲求充足に還元し得るし、また、そうすべきである、と考える個体主義とを、その共通の前提としているのである。 進歩主義は、このニ世紀に亘って、社会の合理的な管理と人間の個体的な解放という二つのスローガンを、倦むこと無く主張し続けてきた。 このニ世紀に亘って進行した、産業化あるいは管理化と、民主化あるいは大衆化という二重革命は、このような進歩主義を、その思想的な前提とし、また帰結ともしているのである。 しかし、このような産業化と民主化の進行、あるいは進歩主義の哲学に対する懐疑もまた跡を絶たない。 合理主義と個体主義の哲学に対する懐疑は、《近代》思想史のいわば裏面を形成している。 たとえば、20世紀を代表する、ウィトゲンシュタインや日常言語学派、あるいは現象学や解釈学、さらには構造主義やポスト構造主義の哲学は、多かれ少なかれ、合理主義と個体主義に対する懐疑を、その発条(バネ)として展開されている。 しかし、合理主義と個体主義に対する懐疑の歴史において、決して逸することの許されないのは、フランス革命の産み落とした合理主義と個体主義の狂気に対して、敢然と立ち向かったバーク以来の保守主義の伝統である。 保守主義は、産業化と民主化の進行とともに、怒涛の如く進撃してきた進歩主義の哲学に抗して、200年このかた、《近代》への懐疑の哲学を守り続けてきた。 合理主義と個体主義に対する懐疑の伝統は、取りも直さず、《近代》保守主義の伝統に外ならないのである。 この意味において、ウィトゲンシュタインや日常言語学派の哲学といった20世紀思想もまた、《近代》保守主義の伝統の現代的な表現である、と言って言えなくもない。 本書もまた、このような《近代》保守主義の伝統に棹さして、20世紀末における、その今日的な表現を模索する試みに外ならないのである。 《近代》の保守主義は、人間とその社会を、理性によって意識的に制御する可能性を疑う。 人間の行為は、合理的には言及し得ない偏見や暗黙知を前提として始めて可能になるのであって、意識的には制御し尽くせないからである。 また、保守主義は、人間とその社会を、個体の意図に還元する可能性を疑う。 人間の行為は、個体には帰属し得ない権威やルールに依存して始めて可能になるのであって、その意図に還元し尽くせないからである。 このように合理主義と個体主義を懐疑する立脚点こそ、伝統あるいは慣習と呼ばれるものに外ならない。 すなわち、伝統あるいは慣習とは、行為の持続的な遂行の結果として生成される秩序であるにも拘わらず、行為の意識的な対象としては制御不能であり(偏見あるいは暗黙知)、かつ、行為の主観的な意図には還元不能である(権威あるいはルール)何ものかである。 言い換えれば、伝統あるいは慣習とは、人間の行為によって生成される秩序であって、自らの存在を理由付けるいかなる根拠も持ち得ない(偏見あるいは暗黙知)にも拘わらず、自らは行為の当否を判定する根拠となり得る(権威あるいはルール)というものなのである。 保守主義は、このような伝統あるいは慣習こそが、人間とその社会の存在を辛くも可能にするのである、と主張する。 保守主義から見れば、合理主義は、人間とその社会の制御不能性を閉脚した、理性の専制支配に外ならず、また、個体主義は、人間とその社会の還元不能性を無視した、個体のアナーキーに外ならない。 《近代》保守主義は、このように合理主義と個体主義とを懐疑することによって、《近代》進歩主義の蛇蝎の如く忌み嫌う、伝統や偏見や権威やへの信仰を擁護するのである。 本書は、このような保守主義の、20世紀における新たな相貌を彫塑してみたい。 元来、保守主義は、その時代における進歩主義の様々な意匠に応じて、幾度となく変貌を繰り返しながら、進歩への疑いを懐き続けて来た。 保守主義の歴史は、進歩への懐疑という動機による、変奏曲の歴史なのである。 従って、我々の時代の保守主義もまた、進歩主義の新機軸に応じて、新たな衣装を纏いつつ立ち現われている筈である。 本書は、そのような20世紀末の新しい保守主義の容貌を、明瞭に写し撮ってみたいのである。 何故ならば、保守主義を論ずることは、産業化と民主化の行き着く処まで行き着いてしまったかに見えるこの時代、技術的な管理と快楽的な大衆ばかりが跳梁跋扈するこの時代を懐疑する、最も確かな立脚点となり得るからである。 さらにまた、保守主義を論ずることは、合理主義と個体主義とによって塗り固められた、《近代》社会科学の城壁に、蟻の一穴を穿つ社会哲学の、最も確かな橋頭堡となり得るからである。 ---- ***◆2.自生的秩序・ルール・言語行為 ---- &include_cache(自生的秩序・ルール・言語行為) #endregion ---- **▼第二章 合理と個体 &size(12){&color(green){↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え}} #region() ---- ***◆1.産業主義と合理主義 ---- 産業主義と民主主義を懐疑することなど、しかし、この20世紀末の現代において、果たして可能なのだろうか。 我々の日々の生は、産業化と民主化の奔流の中で、ただ木の葉のように翻弄されているに過ぎないのではないか。 我々は誰しも、もちろん私自身をも含めて、何程かは、効率的な経済人であり、また、快楽的な大衆人なのである。 このような我々の日常を懐疑することは、つまるところ、我々の日常の一切を否定し去ることになるのではないか。 しかし、およそ保守主義を論じようとする姿勢の内に、我々の日常の一切を否定し去ろうとする態度の含まれよう筈もない。 いやしくも保守主義と呼びうる思想には、いまここに生きられている現実への肯定が、何程かは含まれている筈である。 従って、現代における保守主義もまた、この産業主義と民主主義に魅入られた20世紀末の現実の唯中に、肯定すべき某(なにがし)かの価値を見い出していることになる。 あるいは、そのように肯定されるべき現実こそが、産業主義と民主主義に対する懐疑の疑い得ぬ立脚点なのである、と言い換えてもよい。 保守主義とは、いまここに生きられる世界に定位して、この世界の合理的な制御や個体的な還元やの、むしろ幻影であることを暴き出す営為に外ならないのである。 それでは、産業主義と民主主義の幻影は、何故に疑い得ぬ現実の姿を取って、立ち現れ得るのであろうか。 言うまでもなく、産業主義とは、絶えざる技術革新を起爆力とする、人間と社会の不断の再組織の運動である。 この運動によって追求されているのは、自然や社会や人間自身に対する制御能力の拡大、生産力の増強、効率の上昇、合理化といった、目的達成のために利用可能な手段の拡大と、その有効適切な選択の推進である。 この手段的な可能性の拡大と、その効率的な利用を追求する態度こそ、合理主義と呼ばれるに相応しい。 マックス・ウェーバーの言う目的合理性であり、タルコット・パーソンズの言う能動的手段主義である。 すなわち、産業革命によって解き放たれたこの産業主義という運動は、合理主義をその中核的な価値としているのである。 もっとも、合理主義という言葉は、効率的な手段の追求という意味に限定されている訳ではない。 元来、合理主義とは、人間理性の尊重、あるいは理性による支配の貫徹の謂であって、その理性をどのように捉えるかによって、様々な意味に分散し得る。 理性を、目的に対して効果的な手段を選択する能力として捉えるならば、いまここで述べた合理主義の意味が出て来よう。 この意味における合理主義を、他と区別する場合には、手段的あるいは機能的合理主義と呼ぶことが多い。 この手段的合理主義と、いわゆる近代合理主義との関係は、いささか微妙である。 なるほど、手段的合理主義は、主体がその目的い適合するように客体を制御する能力を良しとするのであるから、主体と客体の分離を前提するという意味においては、近代合理主義と軌を一にしている。 しかし、手段的合理主義は、必ずしも論理整合的に推論する能力としての理性のみによって、効率的な手段を選択し得るとは考えないのであって、近代経験主義と対立する意味における近代合理主義とは、一線を画しているのである。 この意味においては、手段的合理主義は、むしろ近代経験主義の後裔をもって自認している、各種の実証主義に近しい。 主観とは分離された客観的な事実によって、その真偽を検証し得る命題のみが有意味であるとする実証主義(※注釈:論理実証主義 logocal positivism)は、選択した手段のもたらす結果についての実証的な知識こそが、効果的な手段の選択には不可欠であると考える手段的合理主義の、認識論的な前提となっているのである。 あるいは、むしろ検証可能性の拡大こそが人間の進歩であると考える実証主義は、制御可能性の拡大こそが人間の進歩であると考える手段的合理主義の、最も典型的な現れであるとも言えよう。 行為論における手段的合理主義と、認識論における実証主義とは、言わば同型的に対応しているのである。 ハイエクが批判するのは、このような手段的合理主義である。 ハイエクの用語系では、手段的合理主義は、構成的合理主義(constructivist rationalism)と呼ばれる(※注釈:ハイエク著『法と立法と自由』では「設計主義的合理主義」と翻訳されているが、こちらの方が良訳である)。 構成的合理主義とは、およそ人間の行為と社会は、何等かの目的の達成のために、意識的に組織され管理され計画され操作され制御され構成されており、また、そうされるべきだとする考え方である。 すなわち、人間の行為と社会は、それを対象として捉える人間の理性によって、意識的に構成し得るし、また、すべきだと言うのである。 ハイエクによれば、この構成的合理主義の淵源は、デカルトの合理主義に遡り得る。 デカルトによる思考する主体と思考される客体の分離は、構成的合理主義の必要条件を準備するものであり、また、明証的な前提から論理的に演繹された知識のみが、疑い得ぬ確実な知識であるとするデカルトの合理主義的確証主義は、意識的に計画され構成された行為のみが、目的達成にとって有効な行為であるとする構成的合理主義と、その精神の態度を共有するものである。 すなわち、明晰で意識的な理性によって根拠付けられたもののみを信仰するという態度において、構成的合理主義は、デカルト的合理主義の紛れもない後裔なのである。 しかし、そうであるからといって、この構成的合理主義が、実証主義と対立する訳ではいささかもない。 実証主義とは、客観的な事実によって検証可能な知識のみが、疑い得ぬ確実な知識であるとする経験主義的確証主義なのであって、明晰な理性によっても疑い得ぬ絶対確実な知識を希求する確証主義という意味においては、デカルト的合理主義と選ぶ処はないのである。 従って、構成的合理主義とは、意識的な理性によっては確証され得ない一切のものを懐疑する、過激な懐疑主義の運動なのであるともいえよう。 このような構成的合理主義から見れば、伝統や慣習といった、必ずしも意識的に設計された訳ではない社会制度は、合理的な根拠のない偏見や因習として侮辱される。 伝統や慣習の軛(くびき)から解き放たれて、社会を合理的に再編成していく能力こそ、人間の理性には相応しいと言うのである。 ハイエクは、何等かの具体的な目的を達成すべく意識的に設計された社会秩序を、組織(organization)あるいはタクシス(taxis)と呼ぶ。 すなわち、組織とは、あらゆる行為を、達成されるべき目的によって評価し、配列する社会である。 ハイエクによれば、社会主義はもとより、ケインズ的なマクロ経済政策や規制などのミクロ経済政策といった、市場経済への政府介入もまた、たとえば経済的福祉という目的を達成するために、社会を一つの組織に再編成しようとする試みに外ならない。 すなわち、福祉主義をも含むあらゆるタイプの社会主義(コミューン主義、民主社会主義、ケインズ主義、国家社会主義、福祉国家、行政国家など)は、社会の総ての行為を、組織の目的に対する貢献によって評価し、配列しようとする試みなのである。 構成的合理主義、あるいは様々なタイプの社会主義は、社会を制御するための政策や手段をも含む総ての社会的行為を、それが社会にもたらすであろう帰結の、達成すべき目的に照らした優劣によって評価するのであるから、行為をその帰結によって評価するという意味における帰結主義(※注釈:consequentialism 結果主義。倫理学 ethics において、ある行為の価値は結果の良し悪しによって定まるとする学説)を含意している。 因みに、福祉主義あるいは功利主義は、典型的な帰結主義である。 この帰結主義が成功し得るためには、様々な行為のもたらす社会的な帰結の予測し得ることが不可欠である。 社会の制御を目指す政策や手段を含む様々な行為が、如何なる帰結を社会にもたらすかを予測し得て始めて、その合目的的な評価も可能になるのである。 従って、帰結主義、さらには構成的合理主義が、社会を合目的的に組織し得るか否かは、社会現象の予測可能性に懸かっていることになる。 言うまでもなく、意識的な理性に全幅の信頼を置く構成的合理主義は、社会現象の具体的な予測も原理的には可能であると、誇らしげに主張するのである。 この社会現象についての予測能力こそ、実証主義を標榜する社会科学の求めて止まぬものである。 実証主義的な社会科学は、社会を合理的に組織するための前提として役に立つ、社会予測を提供することを、その最終的な目的としているのである。 このような社会科学が標榜する実証主義とは、科学的な命題は、明証的な前提から論理的に演繹し得る命題か、あるいは、客観的な事実によって検証可能な命題のいずれかのみであるとする知識論である。 すなわち、社会をめぐる知識に対しても、真なる知識は、明晰な理性によっても疑い得ない絶対確実な根拠に基づいて判定されねばならぬとする、確証主義を要請しているのである。 ハイエクは、社会をめぐる知識に対する、このような実証主義あるいは確証主義の要請を、科学主義(scientism)と呼ぶ。 ハイエクによれば、経済学を始めとして、あらゆる近代社会科学は、この科学主義によって色濃く染め上げられている。 しかし、社会についての実証(確証)的な知識は、果たして可能なのであろうか。 あるいは、社会を、科学(主義)的な認識の対象となり得る、客観的な事実として把握することは、そもそも適切なのであろうか。 すなわち、社会制御の不可欠な前提である社会予測は、原理的に可能な行為なのであろうか。 ---- ***◆2.実証主義と記述主義 ---- ここで、社会哲学においてしばしば混乱を引き起こす、認識論上の実証主義といわゆる法実証主義との関連について触れておきたい。 認識論上の実証主義とは、言うまでもなく、これまで述べてきた実証主義のことである。 これに対して、法実証主義(legal positivism)とは、最広義には、自然法(natural law)に対立する実定法(positive law)のみが法であるとする立場を意味する。 この最広義の意味における法実証主義は、自然法論の対抗思想という以上の意味を持たないので、むしろ、自然法論に対立させて、実定法論と呼ぶべきである。 この実定法論と呼ぶべき法実証主義は、自然法あるいは実定法の様々な解釈に依存して、極めて多義的であり得る。 その内には、ハートの擁護する法実証主義も、また、ハイエクの批判する法実証主義も含まれる。 次節以降に述べるように、ハートの擁護する法実証主義はより広義の、また、ハイエクの批判する法実証主義はより狭義のそれである。 このハイエクの批判するより狭義の法実証主義こそが、認識論上の実証主義と密接に関連しているのである。 詳しい議論は次節に譲るが、ハイエクの批判する法実証主義は、あらゆる法は人間が意図的に設定したものであるとする立場のことであり、さらには、それと関連したいわゆる価値相対主義のことである。 前者の立場は、言うまでもなく、構成的合理主義の法領域における現れであり、従って、認識論上の実証主義とは、意識的な理性の支配を貫徹させるという意味において、その精神の態度を共有している。 また、後者の価値相対主義は、事実と価値の峻別をさしあたり前提とすれば、認識論上の実証主義の、価値論における論理的な帰結となっている。 ハイエクの批判する法実証主義は、まさに法的な実証主義と呼ばれるに相応しいのである。 しかし、ハートの擁護する法実証主義は、必ずしも認識論上の実証主義と関連している訳ではない。 ハートの擁護する法実証主義は、むしろ実定法論と呼ばれるに相応しいのである。 ハートの擁護する法実証主義は、法が、人々の行為の当否を判定する法的な理由として有効でるか否か、あるいは、法が、現行の法体系の下で法としての効力を持つか否かという問題と、法が、道徳や慣習やさらには自然法やといった、実定法以外の当為規範から見て正しいものであるか否かという問題とを峻別する立場である。 すなわち、法が(その法体系の究極の承認のルールによる承認によって)法として妥当することと、それが道徳的に不正でないこととは、まったく別の問題だと言うのである。 この立場は、法の妥当性を、実定法体系の内部問題として捉えるという意味において、典型的な実定法論となっている。 しかし、ハートの言う実定法体系は、後に述べるように、実は慣習の一種である究極の承認のルールを含む、様々なルールの体系のことであって、制定法や判例法やあるいは慣習法やといった、普通にイメージされる実定法を、遥かに超えたものなのである。 このように拡張された実定法論は、認識論上の実証主義(あるいは確証主義)とは、関連がないと言うよりも、むしろ対立するものである。 何故ならば、後に詳しく議論するように、究極の承認のルールは、意識的な理性によっては語り得ぬ、ただ行為において示されるのみ(従って確証不能)のルールをも含んでいるからである。 ハートは、法の妥当性とその道徳的な価値を峻別するからといって、法の正邪についての道徳的な批判を認めない訳では些(いささ)かもない。 むしろ、そのような批判を明晰に行うためにこそ、法と道徳を峻別するのである。 言うまでもなく、自然法論は、法の妥当性をその道徳的な価値によって判断する。 すなわち、道徳的に不正な法は法ではないと言うのである。 従って、道徳的に不正な法には、それが法ではないから従わないということになる。 これに対して、ハートは、道徳的に不正な法も法である、しかし、それに従うか否かは(法的ではなく)道徳的な選択の問題である、と主張する。 ハートにとって、問われるべきは、不正な行為は為すべからずという一つの道徳的要請と、妥当な法には従うべしというもう一つの道徳的要請との間の選択である。 ハートによれば、自然法論は、このような道徳的選択の問題を、法の妥当性という問題にすり替えることによって、議論を混乱させていることになる。 自然法論の誤りは、以上に尽きるものではない。 自然法論は、法の妥当性を判断する根拠となる道徳的な価値規範を、自然法と呼ぶ。 この自然法は、自然法則と同様に、意識的な理性によって発見され得る客観的な存在であると見做されている。 しかし、客観的な存在事実から当為規範を発見し得るとする目論見は、事実命題「~である」から当為命題「~すべし」は演繹し得ないとするいわゆる方法二元論によって、容易に挫折させられる。 いわゆる自然主義的誤謬である(※注釈:naturalistic fallacy 非倫理的な[事実的]前提から倫理的結論を導くことができるとする誤謬。G. E. ムーアの仮説)。 ハートの批判する自然法論は、およそこのようなものである。 しかし、ハートは、法理論における重要な対立が、自然法論と実定法論との対立に限られると主張したい訳ではない。 むしろハートは、法理論における主要な対立を、実定法論の内部にあると見ている。 ハートは、広義の法実証主義の一部に、誤れる法理論が存在すると見ているのである。 このハートの批判する法理論は、次節以降に述べるように、ハイエクの批判する狭義の法実証主義と極めて近い。 ハートも、そしてまたハイエクも、自然法論ではなく、狭義の法実証主義でもない、第三の法理論を探求しているのである。 それはさておき、(認識論上の)実証主義は、極めて素朴なレベルでかなりの信頼を得ているようである。 たとえば、実証主義は、経験に学ぶ謙虚な態度であって、極めて当然のことだといった具合である。 実証主義が、経験に学ぶ謙虚な態度であるどころか、生きられる経験を閑却した理性の傲慢以外の何ものでもないことは、次章において詳しく展開するが、しかし、実証主義が、一見、当然のことに思えてくる事情については、少しく検討するに値しよう。 確かに、実証主義は、手段的合理主義の認識論における現れである。 認識もまた人間の行為の一つなのであるから、意識的な理性によって操作可能な行為のみが有効な行為であるとする手段的合理主義が、意識的な理性によって確証可能な認識のみが有効な認識であるとする実証主義を含意することは見やすい。 しかし、実証主義への素朴な信頼は、それが手段的合理主義の現れであることのみによる訳ではない。 そこには、認識に、わけても言語による認識に固有の事情が介在する。 我々は、言語を、何等かの事実を記述するものであると素朴に考えている。 あるいは、言葉の意味は、その言葉が指示する対象的な事実にあると考えている。 従って、ある言葉が意味を持つためには、その言葉が何等かの事実(ある事態が存在しないという事実も含む)と対応していなければならぬと考えていることになる。 さらに、ある言葉が真実であるか否かを判定するためには、その言葉と対応する事実が存在するか否かを確かめればよいと考えていることも多い。 このような言語に対する考え方を、オースティンは、記述主義と呼ぶ。 この記述主義こそが、実証主義への素朴な信頼を支える言語観なのである。 オースティンによれば、記述主義(descriptivism)とは、あらゆる言明は何等かの事実の記述であるかあるいは無意味であり、かつ、有意味な言明は真か偽のいずれかであるとする立場である。 言うまでもなく、この立場は、真偽の検証可能な言明のみが有意味であるとする、実証主義とほとんど同じ立場である。 あるいは、むしろ各種の実証主義に共通する言明観を抽象したものが記述主義であると言ってもよい。 オースティンは、次章で見るように、この記述主義の言語観を、まず、徹底的に解体するのである。 オースティンは、また、記述主義の批判と並行して、記述主義的な言語観が何処からよって来るのかについても検討している。 この記述主義の由来についての検討は、素朴な実証主義の蔓延を、よく説明するように思われる。 オースティンによれば、我々が「言葉を発する」あるいは「何かを言う」ということは、以下の三つの行為を同時に遂行することに外ならない。 一つは、ある一定の音声を発する行為(音声行為)であり、 二つは、ある一定の語彙に属し、ある一定の文法に適った、ある一定の音声すなわち語を発する行為(用語行為)であり、 三つは、ある程度明確な意味(sense)と指示対象(reference)とを伴って語あるいはその連鎖としての文を発する行為(意味行為)である。 オースティンは、この三つの行為を同時に遂行する「何かを言う」という行為を、発語行為(locutionary act)と呼ぶ。 しかし、ここでは、さしあたり意味行為のみが問題になるので、音声行為及び用語行為を捨象して、発語行為の意味を、意味内容のみを指示対象とするように限定して用いることにする。 すなわち、発語行為という語によって、意味行為という語を指示するのである。 このような発語行為という概念によって言及されているのは、我々が「何かを言う」行為は、取りも直さず、何かを指示する行為に外ならないという事態である。 すなわち、発語することは、何等かの事態を指示することなのである。 このような指示機能は、我々の言語に、紛れもなく存在している。 たとえば、ウィトゲンシュタインのように、言葉の意味は他の意味との関係の内でしか決定し得ず、言葉によって指示される事態は、言葉に先立って存在するのではなく、言葉の意味と同時に分節されると考えたとしても、言葉が、何等かの事態(言葉とは独立の客観的な事実である必要はいささかもない)を指示するということは認められる。 オースティンによれば、この紛れもなく存在する言葉の指示機能すなわち発語行為の位相のみにおいて、言語を巡るあらゆる問題を取り扱おうとする所に、記述主義が生じるのである。 すなわち、あらゆる発話は何等かの事態を指示するか、さもなくば無意味である、記述主義風に言い換えれば、あらゆる発話は何等かの事実を記述するか、さもなくば無意味である、ここまでは必ずしも誤りではない。 しかし、ここから、従って、発話を巡るあらゆる問題は、事態の指示あるいは事実の記述のみを巡る問題である、と結論する処に、記述主義が始まる 記述主義は、発話を巡るあらゆる問題を、発語行為の位相に還元し尽くそうとするのである。 しかし、オースティンによれば、発話という行為は、発語行為に還元し尽くされるものではない。 後に詳しく述べるように、発話行為は、「何かを言う」ことすなわち何等かの事態を指示することである発語行為の遂行であるのみならず、「何かを言う」ことが慣習的な文脈の下で何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自体とは別の)行為でもある発語内行為(illocutionary act)の遂行でもあり、さらに、「何かを言う」ことを手段あるいは原因として何等かの目的あるいは結果を達成する行為でもある発語媒介行為(perlocutionary act)の遂行でもある。 発話行為は、以上の三つの行為を同時に遂行しているのである。 従って、オースティンによれば、発話行為を発語行為あるいは事実の記述に還元する試みは、発話行為が慣習的(発語内的)あるいは意図的(発語媒介的)な行為の遂行でもあるという事態を、全く等閑視することになる。 言い換えれば、あらゆる発話を事実の記述に還元する記述主義の成否は、発話を巡る諸問題が、発話に伴う、しかし発話それ自体とは区別される行為の遂行に、どこまで拘わっているかに依存することになる。 果たして、発話は、その社会的な文脈や話者の意図とは独立に、その意味あるいは指示機能のみによって、どこまで理解し得るのであろうか。 ---- ***◆3.民主主義と個体主義 ---- 手段的合理主義は、与えられた目的を最大限に達成すべく社会を組織する。 すなわち、社会のあらゆる行為を、与えられた目的に対する手段としての有効性によって評価する。 しかし、達成されるべき目的そのものは、いかにして与えられるのであろうか。 そもそも、手段的合理主義とは、手段としてのある行為が帰結する社会状態についての知識と、様々な社会状態を評価する規準としての目的とを前提して、目的に照らして最も高く評価される社会状態をもたらす手段を選択するという立場である。 さらに、行為の社会的な帰結についての知識の拡大それ自体を目的とする立場も、(そのような知識はいかなる目的にとっても手段になり得るとすれば)、手段的合理主義に含まれる。 しかし、最終的に達成されるべき社会状態を決定する目的そのものは、手段的合理主義にとって、その外部から与えられざるを得ないのである。 何故なら、手段的合理主義によれば、手段とその帰結についての知識は、実証主義的な手続きによってその真偽を確証し得る客観的な知識である。 これに対し、目的による社会の評価は、価値判断あるいは当為判断「~すべし」なのであって、客観的な知識としての事実判断「~である」とは峻別される。 従って、万人によって受け容れられる確証可能な知識は、事実判断と演繹論理のみであるとする実証(確証)主義と、事実判断から当為判断は演繹し得ないとする方法二元論とを認めるとすれば、当為としての目的は、万人によって受け容れられ得る客観的(確証可能)な知識ではありえないことになる。 言うまでもなく、手段的合理主義は、実証主義(と方法二元論)をその認識論的(あるいは価値論的)な前提としているのであるから、達成すべき目的は、万人によって受容され得る客観的な知識ではあり得ない。 すなわち、手段的合理主義は、意識的な理性によって確証し得ない一切のものを拒絶するがゆえに、その達成すべき目的を、自らの内部からは原理的に導き出し得ないのである。 それでは、達成されるべき目的は、いかにして与えられるのであろうか。 手段的合理主義によれば、およそ行為の目的は、主観的あるいは個体に相対的なものである。 何故なら、手段的合理主義が前提している主客二元論に基けば、およそ客観的でないものは主観的であらざるを得ないからである。 このような立場は、ほとんどの場合、行為の目的を、個体の意志や情緒や欲求やに帰着させる。 言い換えれば、このような立場は、行為を、個体の意志や情緒や欲求やの表出であると捉えるのである。 個体の意志や欲求やは、言うまでもなく個体に相対的、主観的なものであって、もとより普遍的、絶対的、客観的なものではあり得ない。 このような個体の意志から、少なくとも複数の個体によって構成される社会の全体が達成すべき目的が、果たして導出し得るであろうか。 この問題は、近代合理主義に特有の問題である。 あるいは、近代合理主義と主客二元論という卵を同じくする一卵性双生児である、近代個体主義に特有の問題であると言ってもよい。 すなわち、目的や価値や当為やは、客観的、普遍的、絶対的なものでは全くあり得ず、主観的、個体的、相対的なものに外ならない(価値相対主義)。 さらに、目的志向的な行為や価値判断や当為言明やは、個体の意志や情緒や欲求やの表出として捉えられる(表出主義)。 従って、社会全体の目的や価値や当為やは、個体の意志や情緒や欲求やに還元し得るし、また、されねばならぬ(個体主義)。 以上の条件を総て充たすような社会全体の目的を導出せよ。 これが問題である。 この問いに対する、近代特有の答えが、近代民主主義なのである。 民主主義とは、言うまでもなく、多数者すなわち大衆の支配のことである。 民主主義にあっては、個体の意志の集計において多数を占めた者が、究極的には無制限の権力を掌握する。 最高、無制限の権力を主権(sovereignty)と呼ぶことにすれば、民主主義とは、個体の意志の集計にこそ主権が存すると見る立場に外ならない。 従って、民主主義においては、社会全体の達成すべき目的は、もしそれがあるとするならば、個体の意志の集計に還元されねばならないのである。 何故なら、社会のあらゆる行為をその達成への貢献によって評価し得る目的とは、その社会における主権者(sovereign)の意志であると言ってもほとんど言い過ぎではないからである。 言い換えれば、民主主義とは、個体の意志の集計によって、社会全体の目的を選択する、社会的選択の装置なのである。 ハイエクが批判するのは、多数者の意志に主権を付与する、このような無制限の民主主義である。 元来、近代の立憲主義は、権力の制限を目的としていた筈である。 なるほど、近代憲法は、人権の保障と権力の分立とを規定することによって、権力の制限を目指してはいる。 しかし、近代立憲主義は、憲法をも含めたあらゆる法を制定し得る究極的な権力としての(いわゆる憲法制定権力をも含めた)主権の制限という問題に対して、確定した解答をほとんど持ち合わせていない。 そもそも、最高、無制限の権力としての主権の制限を云々すること自体が自己矛盾なのである。 ハイエクによれば、このような自己矛盾が生じて来るのは、あらゆる法は人間によって意図的に制定し得るし、また、すべきであると考えることによる。 すなわち、あらゆる法に立法者が存在すると考えるならば、その立法者自身が従う法にも立法者が存在する筈である。 従って、ある立法者が従う法の立法者をその立法者より上位の立法者と呼ぶことにすれば、より上位の立法者の存在しない立法者、言い換えれば、究極(最上位)の立法者は、いかなる法にも従わないことになる。 何故なら、究極の立法者の従う法が存在するならば、その法の立法者も存在することになり、より上位の立法者の不在という究極の立法者の定義に矛盾するからである。 言い換えれば、あらゆる法が人間によって意図的に制定されると考えるならば、究極的な法制定主体の(立法)権力を法によって制限することは、論理的に不可能となるのである。 従って、究極的な立法者は、無制限であらざるを得ない。 すなわち、最高(究極)かつ無制限の(立法)権力としての主権の存在は、あらゆる法は人間によって意図的に制定されるとする立場の、必然的な帰結なのである。 従って、たとえ憲法といえども、いずれかの主体によって意図的に制定されたとする限り、(究極的な立法者としての)主権者を制限することなど不可能なのである。 近代立憲主義は、あらゆる法に制定主体が存在すると考える限り、主権者の権力の制限に、原理的に失敗するのである。 このような主権者すなわち究極的かつ無制限な立法者の存在を必然的に帰結する、あらゆる法は人間によって意図的に設定されるとする立場は、言うまでもなく、構成的合理主義のコロラリー(※注釈:corollary 必然的に推論される帰結)となっている。 すなわち、法もまた、社会一般と同じように、理性によって意図的に制御されるべきだ、あるいは、社会全体の目的を達成する手段として有効に設定されるべきだ、という訳である。 さらに、究極的に法を設定するのは主権者なのであるから、このような法の捉え方は、法とは主権者の目的あるいは意志の表出に外ならないと主張していることになる。 言い換えれば、このような立場は、法とは主権者の命令であると主張しているのである。 確かに、命令は当為言明の一種であると言い得るので、当為言明としての法を命令として捉えることは一見尤(もっと)もらしい。 しかし、法を命令わけても主権者の命令と見ることに、何の不都合も生じ得ないのであろうか。 次節で詳しく述べるように、ハートもまた、この問いとほとんど同じ問いを問うのである。 ところで、民主主義においては、主権者とは、言うまでもなく、多数者大衆である。 すなわち、民主主義における主権は、大衆の意志の集計に存するのである。 従って、国民主権を標榜する民主主義においては、国民大衆の(究極的な)権力は原理的に無制限である。 言い換えれば、民主主義とは、大衆が無制限の権力を掌握した社会なのである。 究極かつ無制限の権力としての主権概念そのものは、確かに、構成的合理主義の論理的帰結である。 しかし、大衆の意志に主権を付与する民主主義的な主権概念は、必ずしも合理主義のみから帰結する訳ではない。 民主主義の前提には、近代合理主義の精神的な双生児である近代個体主義が準備されている筈である。 ハイエクによれば、無制限な民主主義の前提には、価値相対主義が準備されていることになる。 ハイエクは、あらゆる法は人間によって意図的に設定されるとする考え方を、法実証主義と呼ぶ。 すなわち、ハイエクは、構成的合理主義の法への適用を、法実証主義と呼ぶのである。 このような法実証主義によって、ハイエクは、ベンサムやオースティン(本書で取り上げるJ・L・オースティンではなく、19世紀のイギリスの法理学者で、ベンサムの友人のJ・オースティン)、あるいはケルゼンの法実証主義を指示している。 このハイエクの言う法実証主義、わけてもケルゼンの法実証主義こそが、価値相対主義を明らかに含意しているのである。 このような法実証主義が前提している、認識論上の実証主義、あるいはより広く確証主義の立場に立てば、法命題を含むあらゆる当為命題は、万人によって一致して受け容れられ得る、確実に証明された命題ではあり得ない。 当為言明は、意識的な理性によっては、その正当性を確証し得ないのである。 このように客観的、普遍妥当的ではあり得ない当為言明は、つまるところ、個体の意志や情緒や欲求やの表出なのであって、主観的、相対的であらざるを得ない。 従って、法あるいは当為をめぐる問題は、客観的、普遍的な理性の問題であると言うよりも、むしろ主観的、個体的な意志の問題であると言うことになる。 しかし、法といい当為といい、ある社会を構成する総ての個体の行為を拘束する規範の問題である。 個体的な意志の問題として法や当為やを取り扱う視点から、いかにして社会的な規範の問題としての法や当為やを捉えるか。 ここに、価値相対主義を民主主義に結び付ける契機が存在するのである。 民主主義とは、社会を構成する諸個体の意志を集計することによって、社会全体の意志を形成する社会的装置である。 従って、法や当為の言明を、民主主義的に形成された社会全体の意志の表出であると考えるならば、価値相対主義は、社会規範としての法や当為の問題をも一貫して取り扱えることになる。 すなわち、社会規範としての法や当為を、その時点における多数者の意志に相対的なものとして捉えるのである。 言い換えれば、価値相対主義は、民主主義と結び付くことによって、あらゆる法や社会的当為は、(究極的には)多数者大衆の意志に還元されると主張するのである。 もっとも、価値相対主義は、必ずしも常に民主主義と結び付く訳ではない。 価値相対主義とは、価値あるいは当為の問題は、客観的、普遍的な認識あるいは理性の問題ではなく、主観的、個体的な実践あるいは意志の問題であるという主張以上のものではない。 従って、価値相対主義は、個体的な意志から、いかにして社会的な規範あるいは社会全体の意志が形成されるかという問題に対して、その幾通りもの解答と両立し得るのである。 しかし、価値相対主義は、万人が一致して受け容れ得る理性的な論証のみによっては、社会規範あるいは社会全体の意志が形成されることは、決して有り得ないと考えるのであるから、理性的な論証以外の方法によって社会全体の意志を形成する解答としか両立し得ないことは言うまでもない。 そもそも、個体の意志や情緒や欲求やは、さらには、個体の価値や利益や目的やは、一致するどころか、一般的には共存さえしていない。 従って、このように対立する価値や利益や目的やが犠牲にされざるを得ないことになる。 理性的な論証によるこの問題(社会全体の意志を形成する問題)の解決は不可能だというのであるから、そこでは、何等かの実力による解決が要請されることになろう。 まさに、民主主義とは、この問題を、人間の頭数の多寡という実力によって解決しようとする試みなのである。 もちろん、票数以外にも様々な実力があり得る。 その究極的な形態は、いうまでもなく、赤裸々な暴力に外ならない。 いずれにせよ、価値相対主義は、社会全体の意志を形成するという問題に対して、何等かの実力による決着という解答を帰結せざるを得ないのである。 言うまでもなく、民主主義は、そのような解答の有力な一つとして位置付けられる。 すなわち、民主主義とは、多数者大衆の実力によって、社会全体の意志や利益や目的を決定Sる、パワー・ポリティックスに外ならないのである。 このような、何等かの実力による社会的意志決定を帰結する、価値相対主義と、究極かつ無制限の主権を帰結する、あらゆる法は意図的に設定されるとする考え方が、互いに結び付けられることによって始めて、多数者大衆は無制限の権力を掌握するのである。 何故なら、価値相対主義の下では、究極の社会的意志決定者である主権者とは、自らの実力によって社会全体の意志を決定し得る者に外ならないからである。 まさに、カール・シュミットの言うように、主権者とは、(実力行使をも辞さない)非常事態において、全体的な決断を下し得る者なのである。 それが、多数者大衆自身であるか、あるいは大衆の歓呼によって迎えられたその指導者であるかは、問題ではない。 構成的合理主義の法への適用と、その一卵性双生児である価値相対主義との結合が、大衆に無制限の権力を委ねるという事態を帰結することに、いささかの変りも無いからである。 ハイエクは、構成的合理主義の法への適用とともに価値相対主義をも含意する言葉として、法実証主義を用いることがある。 このように用いられた法実証主義が、大衆を主権者の高みに昇らせる、充分な前提となっていることは言うまでもない。 ハイエクが、根底的に批判するのは、まさに、このような意味における法実証主義なのである。 しかし、ハイエクは、このような法実証主義を批判するからといって、必ずしも自然法論に与する訳ではない。 ハイエクは、ハートによる自然法論の批判に、ほとんど全く同意している。 この意味においては、ハイエクもまた、ハートの言う実定法論者なのである。 ハイエクは、さらに、法実証主義と自然法論という二分法それ自体が、そもそも誤りなのであると主張する。 ハイエクは、(次節に述べるように、ハートもまた)法実証主義でも自然法論でもない、第三の法理論を指向しているのである。 ---- ***◆4.主権主義と表出主義 ---- 人間によって意図される対象としての客観的なものと、意図する人間主体の在りかとしての主観的なものとを峻別する、いわゆる方法二元論は、近代合理主義と同時に、近代個体主義をも産み落とした。 すなわち、主客二元論は、近代合理主義、わけても、あらゆる知識はそれに対応する客観的なものに根拠付けられねばならぬとする客観主義と、近代個体主義、わけても、あらゆる行為はそれを意図する主観的なものに帰属されねばならぬとする主観主義という、一卵性双生児の母なのである。 認識論上の実証主義がこのような客観主義の、また、ハイエクの言う法実証主義がこのような主観主義のコロラリー(※注釈:必然的帰結)であることは言うまでもない。 ハートの批判する法の主権理論もまた、このような主観主義のコロラリーなのである。 ハートの批判する法理論は、法とは、主権者によって発せられた威嚇を背景とする命令であるとする立場である。 縮めて言えば、法とは、主権者の強制命令であるとする立場、あるいは、法の主権者命令説である。 ここで言う主権者が、最高かつ無制限の立法権力を有する者であることは言うまでもない。 このハートの批判する法の主権者命令説は、あらゆる法体系には、それを設定する最高、無制限の主権者が存在すると考える主権理論と、あらゆる法は、その逸脱に対する制裁の威嚇によって強制された命令であると考える命令理論との、大きく二つの部分に分けられる。 この法の主権理論こそが、近代個体主義あるいは主観主義の論理的帰結なのである。 あらゆる法は、主体によって意図的に設定されるとする立場から、最高かつ無制限の主権の存在が論理的に帰結することは、既に前節において見た通りである。 この、あらゆる法は、主体によって意図的に設定されるとする立場は、あらゆる行為は、それを意図する主体あるいは主観の存在を含意しているとする主観主義(主体主義)の、法における現れであると見ることが出来る。 何故なら、法もまた、人間の(必ずしも意図的とは限らない)行為の帰結であることに変わりは無いからである。 従って、最高かつ無制限の主権の存在は、このような主観主義の論理的な帰結であるとも考え得るのである。 すなわち、ハイエクの批判する法実証主義も、ハートの批判する法の主権理論も、このような主観主義の論理的な帰結となっているのである。 ハートは、法の主権理論に対して、様々な角度から疑問を提出する。 法とは、最高かつ無制限の立法権力を有する主権者によって、意図的に設定されたものであるとしよう。 このとき、主権者を主権者たらしめる根拠は、もはや法ではあり得ない。 何故なら、主権者が法によって主権者たり得るとするならば、その法を設定した主権者が存在することになり、主権の最高性と矛盾するからである。 あるいは、そもそも法を根拠とする主権は、主権の法的無制限性に矛盾すると言ってもよい。 いずれにせよ、主権者は、法以外の根拠によって主権者たり得るのである。 従って、憲法などの法によって立法権力を付与される立法府のような主体が、主権者たり得ることはあり得ない。 それでは、主権者とは一体誰であるのか。 それは、立法府を選挙する国民であるのか。 あるいは、何が法であるかを最終的に判定し得る司法府であるのか。 あるいは、大衆の歓呼によって推戴された大統領であるのか。 しかし、司法府はもとより、選挙民もまた、憲法によって授権された機関なのであって、主権者たり得よう筈もない。 なるほど、(憲法上の機関としての選挙民とは区別される)国民大衆あるいはその指導者は、主権者たり得るかも知れないが、このとき、大衆に主権を付与する根拠は一体何なのか。 言うまでもなく、主権理論は、ここで、自然法論(あるいは自然権論)を持ち出す訳にはいかない。 主権理論によれば、自然法もまた法である限り、いずれかの主権者によって設定された筈のものだからである。 それでは、大衆を主権者に推戴し得るのは、一体いかなる根拠によるのか。 主権理論の内部においては、そのような根拠は遂に示し得ない。 主権理論は、この、誰が主権者たり得るのかという問題を、常に開かれた疑問として留め置かざるを得ないのである。 主権者は、いかなる法によっても制限され得ないのであるから、当然、自己自身の設定した法によっても制限され得ない。 主権者は、自己自身を法的には制限し得ないのである。 従って、たとえば、主権者が、過去において制定した立法手続を、未来において遵守しなかったとしても、それは法的な責務に対する違反とはなり得ないし、また、主権者が、過去において締結した条約を、未来において履行しなかったとしても、それも法的な責務に対する違反とはなり得ない。 主権者が、過去において設定した法を、未来において無視したとしても、それは主権者の意志が変更された、つまりは気が変わったということに過ぎない。 主権者の意志の変更が、立法の名宛人や条約の相手方との約束に、たとえ違背することになったとしても、それは決して法的な責務に対する違反とはなり得ないのである。 すなわち、主権理論によれば、主権者の行為に対して、法を根拠として責務を問う可能性は、決して存在し得ないのである。 主権理論をめぐるこれらの問題、すなわち、主権者を主権者たらしめる法的な根拠は存在し得ないという問題、あるいは、主権者は自己自身を法的には制限し得ないという問題は、主権者という存在が、法体系の内部においては、遂に根拠を持ち得ないということを指し示している。 むしろ、主権者とは、法体系の外部から、法体系それ自体を根拠づけるものとして与えられて来たのである。 従って、主権者が、法体系の内部にその根拠を持ち得ないのはむしろ当然である。 主権者とは、法体系の外部にあって、法体系そのものを根拠づける、たとえば政治的な存在なのである。 しかし、法体系の根拠を問うに際して、このような主権者の存在は、果たして必然なのであろうか。 言い換えれば、法の根拠には、それを意図的に設定する主体が、不可避的に要請されるのであろうか。 言うまでもなく、このような主体の要請は、あらゆる行為には、これを意図する主観が不可避的に要請されるとする主観主義の必然的な帰結である。 ハートは、法の根拠を問うに際して、このような主観主義の要請が、全く不要であることを明らかにする。 法の主権理論は、法現象の最も中核的な部分を把握することに失敗すると言うのである。 しかし、ハートの法理論は積極的な展開は、以下の諸章の課題である。 ハートは、また、法とは威嚇を背景とした命令である、すなわち、法とは強制的命令であるとする法の命令理論を徹底的に批判している。 ハートによれば、法は、 第一に、その制定者自身にも適用されるという点において、 第二に、責務のみではなく権能をも付与するという点において、 第三に、慣習法のように意図的な立法にはよらないものが存在するという点において、 強制的命令と同一視する訳にはいかない。 さらに、ハートは、これらの問題点を踏まえて修正された命令理論をも一蹴する。 すなわち、第三の問題点を修正した、黙示の命令という考え方、第二の問題点を修正した、あらゆる法は公機関に向けられた命令であるとする立場、第一の問題点を修正した、公的資格において命令する立法者と私的資格において命令されるそれとを区別する試みの、一切を否定し去るのである。 しかし、ハートの命令理論批判それ自体は、本書の主題と必ずしも密接に関連する訳ではないので、主権理論批判に必要な限りにおいて触れることに留めたい。 ハートの批判する法の主権理論、あるいはハイエクの批判する法実証主義を帰結する主観主義は、あらゆる知識はそれに対応する客観的なものによって根拠付けられねばならぬとする客観主義の、一卵性の兄弟/姉妹であった。 オースティンの批判する言語の記述主義が、この意味における客観主義のコロラリーであることは言うまでもない。 オースティンもまた、ハイエクやハートと同じように、客観主義と切り結んだ刀で、主観主義とも渡り合っている。 この客観主義と主観主義という、近代のロムルスとレムスとの闘いにおいては、二正面作戦以外の如何なる戦力もあり得ないのである。 オースティンの批判する記述主義は、言葉とは何等かの事実を記述するものであり、その真偽はそれが記述する事実の存否によって検証し得るとする考え方であった。 オースティンによれば、このような記述主義の淵源には、何等かの事態を指示する(言及する、記述する)という言葉の機能、すなわち言葉の指示機能のみに、言葉の持つあらゆる機能を還元しようとする態度が存在していた。 あるいは、オースティンの用語系に即して言い換えれば、記述主義とは、発話という行為を、指示行為(意味行為)という意味における発語行為に還元し尽くそうとする態度なのであった。 このような記述主義が、言葉についての客観主義であることは明らかであろう。 すなわち、言葉は、客観的な事実を記述することによって始めて意味を持つという訳である。 これに対して、オースティンの批判する、言葉についての主観主義とは、言葉とは(発話主体の)主観的な意図や情緒や欲求やの表出であると考える、言語の表出主義(expressivism)に外ならない。 言うまでもなく、言語には、発話主体に係わる何等かの事情(必ずしも主観的な心理とは限らない)を表現するという機能が、紛れもなく存在している。 従って、ある発話を了解するに当たって、その発話に表現されている発話主体の主観的な意図を無視してよい訳では些かもない。 しかし、あらゆる発話を、発話主体の主観的な意図に還元して理解するとなると、問題はまた別である。 表出主義とは、あらゆる発話を、発話主体の主観的な意図の表出に還元し尽くそうとする、言い換えれば、言葉の持つあらゆる機能を、その表現機能に還元し尽くそうとする態度に外ならないのである。 このような表出主義が、発話という行為には、それを意図する主観が必ず存在せねばならないと考える点において、言葉についての主観主義であることは明らかであろう。 オースティンは、記述主義とともに、このような表出主義をも根底的に批判するのである。 オースティンの用語系に即して言い換えれば、表出行為とは、発話という行為を、発話を手段として何ごとかを達成する行為である、発語媒介行為に還元し尽くそうとする態度に外ならない。 もっとも、オースティンの言う発語媒介行為は、必ずしも発話主体によって意図された行為のみに限られる訳ではない。 オースティンの言う発語媒介行為は、それが意図されたものであるか否かにかかわらず、発語の帰結として何等かの効果を達成する行為なのである。 もちろん、オースティンにおいても、何等かの帰結あるいは目的を達成すべく意図された発語媒介行為が重要であることは言うまでもない。 しかし、オースティンは、意図されざる帰結をもたらす発語媒介行為をも、その射程に捉えているのである。 それでは、発語によって何等かの帰結を達成する(発語それ自身とは区別された)行為は、総て、発語媒介行為となるのであろうか。 発語が何等かの社会的な効力を持つ(発語それ自身とは区別された)行為である発語内行為と、発語媒介行為は一体どこが違うのであろうか。 オースティンによれば、発語によって何等かの効果を達成する発語媒介行為と、発語が何等かの効力を獲得する発語内行為とは、発語のもたらす効果が、慣習的(conventional)なものであるか否かによって区別されるのである。 すなわち、発語媒介行為において達成される効果は、発語に後続することが、必ずしも慣習的には期待され得ないのに対して、発語内行為において獲得される効力は、発語に随伴することが、慣習的な規則によって支持されているのである。 言い換えれば、発語媒介行為の効果は、慣習以外の何ものか(たとえば威嚇や強制や)によって達成されるのに対して、発語内行為の効力は、それを有効適切なものとする慣習の存在を俟ってはじめて獲得されるのである。 オースティンの言う慣習(convention)は、もちろん、本書の問う慣習と密接に関連するものであるが、後に述べるように、むしろ、ハートの言うルールに極めて近い概念である。 従って、オースティンの言う発語媒介行為とは、発語によって何等かの帰結を達成する行為の内で、いかなる慣習にも依存せず、またルールにも従わない類いのものを指し示していることになる。 このような発語媒介行為は、確かに、発話行為によって意図された行為である場合が最も重要なのではあるが、しかし、意図されない行為をも明らかに含むものである。 従って、あらゆる発話を発語媒介行為に還元しようとする態度と、あらゆる発話を(発話主体の)主観的な意図の表出に帰着しようとする表出主義とは、必ずしも正確に一致する訳ではない。 発語媒介行為一元論は、表出主義をも包含する、より広い概念なのである。 このような発語媒介行為一元論を批判することによって、オースティンは、表出主義をもその批判の射程に収めていると言うことも出来よう。 しかし、慣習あるいはルールに依存も服従もしない行為(発語媒介行為)の内で、その主観的な意図のみによって了解し得る行為(表出行為)を除いたものが、差し当たり緊要であるとも思われないので、以下の行論においては、誤解の怖れの生じない限り、発語媒介行為一元論と表出主義とを互換的に用いることにしたい。(このことについては、後に再び述べる機会があると思われる。) すなわち、発語媒介行為一元論の批判は、取りも直さず表出主義の批判に外ならないのである。 以上に見てきたように、産業主義と民主主義、あるいは、合理主義と個体主義は、我々の近代社会において、極めて当然のこととして受け容れられている。 しかし、以上に見てきたことが示しているのは、我々が当然のこととして受け容れている合理主義と個体主義には、ある特徴的な前提が共有されているということである。 その前提とは、およそ人間とその社会は、目的志向的(intentional)な理性の客体であるか或いは主体であるとするものの見方である。 このようなものの見方に立って、人間とその社会を、目的志向的な理性の客体と捉える処に、手段的合理主義や実証主義あるいは確証主義、さらには記述主義といった、一連の客体主義あるいは客観主義(objectivism)が生じるのであり、また、人間とその社会を、目的志向的な理性の客体と捉える処に、個体主義や主権主義あるいは価値相対主義、さらには表出主義といった、一連の主体主義あるいは主観主義(subjectivism)が生じるのである。 このようなものの見方それ自体を、(近代)合理主義と呼ぶことも、かなり一般的ではあるが、合理主義は広狭様々な意味に用いられるので、ここでは、このようなものの見方を、志向主義(intentionalism)と呼ぶことにしたい。 いかにも熟さない命名であるが、本書の立場である慣習主義(conventionalism)との対比を意識してのことである。 従って、産業主義と民主主義の近代は、志向主義をその哲学的な前提としていることになる。 産業主義と民主主義は、志向主義という双面神の二つの顔である客観主義と主観主義の、もう一つの《ペルソナ》なのである。 #endregion ---- **▼第三章 暗黙の言及 &size(12){&color(green){↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え}} #region() ---- ***◆1.暗黙的秩序 - ハイエク - ---- &include_cache(暗黙的秩序-ハイエク-) ---- ***◆2.外的視点 - ハート - ---- &include_cache(外的視点-ハート-) ---- ***◆3.発語的行為 - オースティン - ---- &include_cache(発語的行為-オースティン-) #endregion ---- **▼第四章 規範の文脈 &size(12){&color(green){↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え}} #region() ---- ***◆1.規範的秩序 - ハイエク - ---- &include_cache(規範的秩序-ハイエク-) ---- ***◆2.内的視点 - ハート - ---- &include_cache(内的視点-ハート-) ---- ***◆3.発語内の力 - オースティン - ---- &include_cache(発語内の力-オースティン-) #endregion ---- **▼第五章 慣行と遂行 &size(12){&color(green){↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え}} #region() ---- ***◆1.慣習あるいは《遂行的なるもの》 ---- &include_cache(慣習あるいは《遂行的なるもの》) ---- ***◆2.新しい保守主義 ---- &include_cache(新しい保守主義) ---- ***◆3.保守主義とは何でないか ---- &include_cache(保守主義とは何でないか) #endregion ---- **▼第六章 解釈学的社会学としての保守主義 &size(12){&color(green){↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え}} #region() ---- ***◆1.解釈学的社会学へ ---- 本書のこれまでの諸章は、オースティンの言語行為論やウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と、保守主義の社会哲学との関連を述べている。 主としてイギリスの20世紀哲学と保守主義との関連を述べて来たのである。 尤も、オースティンとハートは、確かにオックスフォードの人であるが、ウィトゲンシュタインとハイエクは、言うまでもなくウィーンの人である。 しかし、今世紀初頭のウィーン哲学は、必ずしもドイツ哲学の本流とは言い得ず、むしろイギリスにおいて活躍する人々の方が多かったと言っても過言ではない。 ウィーンの哲学は、ドイツにおけるイギリス哲学なのである。 いずれにせよ、本書のこれまでの諸章は、イギリス哲学に焦点を絞って来たのである。 ところが、これまでの論述において、20世紀イギリス哲学の行き着いた地平を辿って行く内に、それが、20世紀ドイツ哲学わけても解釈学的哲学の行き着いた地平と、極めて類似していることに幾度となく気付かされざるを得なかった。 村上泰亮の言葉を借りれば、「後期のウィトゲンシュタインは、ほとんど現象学への - 言わば裏側からの - 復帰を果たしているように映るのである」。 従って、20世紀イギリス哲学の帰結に、保守主義の社会哲学を読み込む本書としては、20世紀ドイツ哲学わけても解釈学的哲学と、それがもたらす社会哲学上の帰結に目を向けない訳にはいかない。 本書は、解釈学的社会学の方へと、呼ばれざるを得ないのである。 しかし、19・20世紀におけるドイツの社会哲学を取り上げるには、いささかの勇気が必要とされる。 それは、私自身が、これまで主としてイギリスの社会哲学を読み継いで来たという、研究経歴上の問題のためだけではない。 19・20世紀ドイツの社会哲学が輝かしいものであればある程、何故にドイツは、今世紀の二つの大戦において、あのように凄惨な敗北を喫さねばならなかったのか、という問いが否応なく覆い被さって来るからである。 もとより、ある言語による社会哲学に、その言語圏に属する国家社会の歴史的運命への、直接の責任が有り得よう筈もない。 しかし、ある社会における思想の在り様が、その社会の歴史的な運命に全く無関係であることもまた有り得ない。 ドイツの社会哲学は、ドイツの運命的な敗北に、何等かの関係を持っている筈なのである。 それでは、近代ドイツ思想と近代ドイツ社会の運命は、如何ように交錯するのであろうか。 この問いを問い切るためにこそ、些かの勇気が必要とされるのである。 何故ならば、この問いに対する答え方によっては、いわゆる戦後的な「常識」に、真っ正面から対立せざるを得なくなる場合も、充分に想像し得るからである。 このような勇気は、決定的な敗北ということをついぞ知らない、近代イギリスの社会哲学を取り上げるに当たっては、必ずしも必要とはされない。 しかし、たとえば近代日本の社会哲学を取り上げようとするならば、是が非でも必要とされるものである。 蓋し、近代日本社会もまた、過ぐる大戦において歴史的な敗北を喫したのであり、そのことと、近代日本思想との関係もまた、避けては通れない問いだからである。 いずれにせよ、近代ドイツの社会哲学あるいは近代日本の社会哲学を取り上げんとする試みは、少なくとも私には、些かの勇気を必要とする試みであるように思えてならないのである。 従って、以下の試みは、ささやかな覚悟を秘めてのことである。 20世紀末の時点に立って、ドイツの哲学を概観するならば、そこには、大きく三つの潮流の存在していることが見て取れる。 一つは、現象学あるいは解釈学に代表される潮流であり、二つは、フランクフルト学派あるいは批判理論に代表される潮流であり、三つは、分析哲学あるいは批判的合理主義に代表される潮流である。 これらの三潮流は、それぞれに社会哲学上の帰結を含意している。 すなわち、第一の潮流は、解釈学的社会学を、第二の潮流は、批判社会学を、第三の潮流は、機能主義社会学を含意しているのである。 これら三潮流を、その相互連関に留意しつつ、大胆に要約するならば、まず、第二の批判理論とは、たとえば人間の解放といった普遍妥当的とされる根拠に基づいて、社会の総体を批判しさらには変革し得るとする哲学であって、マルクスとフロイトの継承線上に位置することを、自他共に認める立場である。 次に、第三の批判的合理主義あるいは機能主義とは、人間の知識に普遍妥当的な根拠付けなど可能ではなく、知識とは、自らを妥当させる根拠(たとえば反証可能性基準)それ自体の選択をも含めた、自由な決断に外ならないとする哲学であって、三潮流の中で唯一、現代的な科学の方法論であり得ることを自負している立場である。 これらに対して、第一の解釈学とは、人間とその社会あるいは文化の解釈は、たとえば社会の伝統といった自らを妥当させる根拠をも、自らの対象とせざるを得ないのであるから、自らの普遍妥当性を根拠付け得る筈もなく、しかし、自らの妥当根拠を自由に選択し得る訳でもないとする哲学であって、19世紀以来のテクストあるいはコンテクスト解釈学の伝統に棹さす立場である。 言い換えれば、  批判理論とは、価値と認識についての普遍主義あるいは客観主義の視点に立つ、実践の哲学であり、  批判的合理主義とは、価値と認識についての相対主義あるいは主観主義の視点に立つ、科学の哲学であるのに対して、  解釈学とは、客観主義あるいは主観主義のいずれでもない言わば第三の視点に立つ、伝統の哲学なのである。 このような大胆な要約を示されれば即座に、幾つもの疑問が涌き上がって来て当然である。 たとえば、解釈学のいう伝統と、現象学の言う《生活世界》とは、果たして如何なる関係にあるのか、また、実践哲学の復権が言われる中で、批判理論は、果たして如何なる位置を占めるのか、さらに、批判的合理主義の言う仮説選択と、機能主義の言う《システム》選択とは、果たして異なった概念であるのか、等々の疑問である。 しかし、本論においては、これらの疑問にこれ以上立ち入ることはしない。 これらの疑問を詳細に検討するためには、遥かに充分な準備が必要とされるからである。 むしろ、本論においては、人間とその社会あるいは文化を解釈するという、解釈学的な問題の構造を解析することによって、何故に、批判理論と機能主義(批判的合理主義)が社会理論として不可能となり、解釈学的な社会理論のみが可能となるのかを検討してみたい。 さらに本論においては、そのような解釈学的社会学が、何故に保守主義であらねばならぬのかも検討してみたい。 これらの検討を通じて、伝統へ回帰することが、社会を解釈することの、逃れ得ぬ条件であり、かつ、避けられぬ帰結であることが、明らかになると思われる。 ---- ***◆2.自己関係性の構造 ---- 人間や社会や文化を解釈するという行為は、一体、いかなる特徴を持った行為であるのか。 この問いを問う前に、まず、社会という事態を如何に把握すべきかについて、多少なりとも議論して措く必要がある。 社会とは、差し当たり、人間の行為の集合である。 しかし、このような行為空間に、何等かの構造、形式あるいは秩序が導入されて始めて、社会は、社会として発見され得る。 すなわち、社会とは、何等かの構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間なのである。 ここに言う、行為空間に何等かの構造、形式あるいは秩序が存在するとは、ある行為空間に内属する行為が、何等かの根拠に基づいて、その妥当であるか否か、あるいは、その有効であるか否かを、ほとんどあらゆる場合に決定され得る、という事態に外ならない。 言い換えれば、構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間とは、自らに内属する殆どあらゆる行為の、妥当であるか否か、あるいは、有効であるか否かを、常に決定し得る行為空間なのである。 ここでは、この意味において、構造、形式あるいは秩序の存在する行為空間を、秩序付けられた行為空間と呼び、そのように行為空間を秩序付ける、すなわち、行為の妥当性あるいは有効性を決定する根拠となるものを、行為のノルム(規範)、ルール(規則)あるいはコンテクスト(文脈)と呼ぶことにしたい。 すなわち、行為は、何等かの規範、規則あるいは文脈に依することによって始めて、自らの妥当し得るか否かを決定し得るのであり、また、行為空間は、何等かの規範、規則あるいは文脈が導入されて始めて、秩序付けられるのである。 従って、社会とは、何等かの文脈によって秩序付けられた、行為空間に外ならないことになる。 言い換えれば、社会とは、何等かの文脈に依存することによって始めて、自らの妥当しうるか否かを決定し得る、行為の集合に外ならないのである。 このような社会という事態を解釈する行為は、一体、如何なる特徴を持つのであろうか。 行為という事態を、一篇のテクストに譬えることが許されるならば、ある文脈に依存することによって始めて、自らの当否を決定し得る場合、すなわち社会を解釈する行為は、あるコンテクストに依拠することによって始めて、自らの意味を決定し得るテクストの集合を解釈する行為に外ならない。 言い換えれば、社会の解釈とは、あるコンテクストを共に織り成している、テクストの束を解する行為に外ならないのである。 さらに言えば、この解釈する行為それ自身もまた、一篇のテクストに外ならず、何等かのコンテクストに依拠することによって初めて、自らの意味を決定し得る。 すなわち、解釈する行為それ自身もまた、行為である以上、何等かの文脈に依存することによって初めて、自らの妥当し得るか否かを決定し得るのである。 従って、社会を解釈する行為は、自らの対象とする社会、すなわち秩序付けられた行為空間とは差し当たり区別される、何等かの秩序付けられた行為空間に内属することになる。 すなわち、社会を解釈する行為は、それ自身もまた行為であるがゆえに、言わばメタ社会とでも呼ぶべき社会に内属せざるを得ないのである。 この解釈行為の内属する(メタ)社会と、解釈行為の対象とする(対象)社会とが、同一ではないとするならば、社会を解釈するに当たって特徴的な問題は生じ得ない。 言い換えれば、解釈行為の依存する文脈と、対象社会を秩序付ける文脈とが、異なるものであるとするならば、次節以降に述べるような問題は生じ得ないのである。 しかし、社会を解釈するという課題は、対象社会とメタ社会との峻別を、ついに許さない。 対象社会を秩序付ける文脈と、メタ社会を秩序付ける文脈とは、究極的には一致せざるを得ないのである。 何故ならば、秩序付けられた解釈行為の空間としてのメタ社会もまた、社会である以上、当然に解釈行為の対象となり得るのであって、社会の全体を解釈せんとする行為は、自らの内属する社会をも、自らの対象とせざるを得ないからである。 すなわち、社会の全体を解釈せんとするならば、対象社会は、メタ社会それ自体をも包含せざるを得ないのである。 従って、メタ社会を秩序付ける文脈、すなわち解釈行為の依存する文脈は、対象社会を秩序付ける文脈の一部分とならざるを得ない。 言い換えれば、社会全体を解釈せんとする行為は、自らの妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体をも、自らの対象とせざるを得ないのである。 このように、解釈行為の対象となっている社会に内属する行為の妥当根拠が、同時に、解釈行為それ自身の妥当根拠でもある事態を、ブプナーに従って、自己関係的な事態、あるいは、自己関係性と呼ぶことにしよう。 すなわち、社会全体を対象とする解釈行為は、自らの根拠を自らの対象とせざるを得ないという意味において、自己関係性の構造を余儀なくされるのである。 もっとも、解釈の行為が、必ずしも社会の全体を対象とする必然はない。 従って、社会の部分を対象としている限り、解釈の行為が、自己関係性の構造を引き受けなくとも済む場合もあり得よう。 しかし、解釈の行為が、自らの内属する社会、すなわち秩序付けられた解釈空間それ自体を対象とする場合には、依然として、自己関係性の構造を避け得ない。 そのような場合とは、解釈の行為とその妥当根拠とを反省的に解釈する場合、言い換えれば、解釈学的な行為の遂行される場合である。 すなわち、解釈学的行為は、その対象である解釈行為の妥当根拠と、それ自身の妥当根拠が厳密に一致するという意味において、まさに自己関係性の構造を遂行しているのである。 従って、自己関係性の構造が問題とされるのは、社会全体を対象とする解釈行為の場合と、解釈行為それ自体を対象とする解釈行為、すなわち解釈学的行為の場合とに限られることになる。 このような自己関係性の構造、すなわち自らの妥当根拠を自らの解釈対象とする構造こそ、解釈学的循環と呼ばれる構造に外ならない。 言い換えれば、自らのコンテクストを自らのテクストとする処に、解釈学的循環が生じるのである。 解釈学的循環は、解釈学の全歴史を通底する根本構造である。 解釈学の主要なメッセージは、押し並べて、この解釈学的循環から帰結されると言っても過言ではない。 本論の以下の諸節もまた、この解釈学的循環あるいは自己関係性の諸帰結を検討することに費やされる。 そこでは、自己関係性の帰結として、批判理論と機能主義あるいは批判的合理主義の不可能であることが、明らかにされると共に、解釈学的循環の帰結として、保守主義あるいは伝統再生の不可避であることが、示される筈である。 ---- ***◆3.基礎付けの不可能 ---- 自己関係性を引き受ける解釈行為、すなわち、社会全体を対象とする解釈行為、あるいは、自己自身の妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当し得るか否かを、如何にして決定し得るのであろうか。 言い換えれば、自らの妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当性を、如何にして根拠付け得るのであろうか。 たとえば、自らの妥当根拠に対する解釈を遂行して、そこには「自らの妥当根拠に対する解釈は妥当でない」という準則が含まれている、と解釈する場合を考えてみよう。 この場合、自らの妥当根拠に対する解釈が妥当であるとするならば、その解釈の妥当でないことが帰結され、逆に、自らの妥当根拠に対する解釈が妥当でないとするならば、その解釈の妥当であることが帰結される。 従って、この場合、自らの妥当根拠に対する解釈の妥当であるか否かは、全く決定し得ないことになる。 すなわち、自らの妥当根拠を対象とする解釈行為は、自らの妥当性を、全く根拠付け得ないのである。 このような決定不能性あるいは根拠付けの不可能は、自らの当否を自らが決定する構造、言い換えれば、自らを根拠として自らを正当化する構造の存在する処では、何処にでも生じ得るパラドックスである。 従って、自己関係性の構造の存在が、自らの妥当根拠に対する解釈の決定不能あるいは根拠付けの不可能を帰結するのは、このような自己決定あるいは自己正当化のパラドックスの、一つの例であるとも言い得るのである。 いずれにせよ、社会の全体を対象とする解釈の行為、あるいは、自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為は、自らの妥当性の決定不能あるいは根拠付けの不可能に陥らさるを得ない。 言い換えれば、社会の全体を対象とする解釈の行為、あるいは、自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為は、そもそも、合理的な行為としては成立し得ないのである。 社会の全体あるいは自らの妥当根拠を対象とする解釈の行為が、自らの当否を決定し得る、如何なる根拠をも持ち得ないという事態は、批判理論の遂行せんとしている、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判の行為が、必ずしも可能ではあり得ないことを示唆している。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判は、自らの妥当根拠それ自体をも批判の対象とせざるを得ず、そのような批判は、自らの妥当し得るか否かを、ついに決定し得ないのである。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする批判には、自らを妥当させる究極的な根拠など、決して存在し得ないのである。 従って、批判理論は、ついに可能ではあり得ない。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会に対する、疑い得ぬ確実な根拠に基づいた、普遍妥当的な批判など、全く不可能なのである。 このことは、同時に、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、合理的な言及や制御や変革やの、不可能であることも含意している。 何故ならば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、言及や制御や変革やの行為は、批判の行為と同様に、自らの妥当根拠を自らの行為対象とせざるを得ず、自らの妥当性を、全く根拠付け得ないからである。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする、言及や制御や変革やの行為は、合理的な行為としては決して成立し得ないのである。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会は、合理的な言及や制御や変革やといった行為の対象とは、ついになり得ないのである。 従って、社会の全体あるいは当該行為の内属する社会は、言及/制御/変革不能という意味において、まさに暗黙的となるのである。 社会の全体あるいは制御行為の内属する社会が、制御不能であるということは、取りも直さず、社会の全体を秩序付けている文脈、あるいは、制御行為の依存している文脈もまた、制御不能であるということに外ならない。 すなわち、社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的なのである。 従って、社会全体を秩序付ける文脈は、意図的に設定される事態ではあり得ない。 そのような文脈は、行為の意図にはよらず、行為の結果として、自生的に生成される事態なのである。 また、制御の行為は、自らの意識的には制御し得ない文脈に依存して初めて、自らの行為を可能にし得ることになる。 この制御行為の依存する文脈もまた、制御行為の遂行の累積的な帰結として、自生的に生成される事態なのである。 すなわち、社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的なのである。社会全体を秩序付ける文脈、あるいは、制御行為の依存する文脈は、暗黙的であるがゆえに、ただ遂行的となるのである。 言い換えれば、そのような文脈は、意識的に語り得ないがゆえに、ただ遂行的に示されるのみなのである。 ---- ***◆4.《選択肢》の不在 ---- 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの当否を決定し得る、如何なる根拠をも持ち得ない。 自らの内属する社会を解釈する行為には、究極的な妥当根拠など、決して存在し得ないのである。 それでは、自らの内属する社会を解釈する行為に、言わば暫定的な妥当根拠を付与する試みは可能であろうか。 なるほど、自らの内属する社会への解釈に、究極的な妥当根拠など存在し得ない。 しかし、そのような解釈に、暫定的な妥当根拠を付与することによって、そのような解釈の、差し当たり妥当し得るか否かを決定することは可能ではないか。 ただし、ここに言う妥当根拠の暫定的であるとは取りも直さず、自らの内属する社会への解釈の、妥当し得るか否かを決定する根拠それ自体には、その妥当であるか否かを決定し得る、いかなる根拠も存在し得ない、ということに外ならない。 すなわち、暫定的な妥当根拠とは、解釈行為自らの内属する社会の解釈に、その妥当根拠を与えつつ、それ自体は、いかなる妥当根拠をも持ち得ない事態なのである。 言い換えれば、暫定的な妥当根拠は、自らの妥当根拠それ自体への遡行を、言わば中断することによって、解釈行為自らの内属する社会の解釈に、その妥当根拠を付与するのである。 自らの内属する社会への解釈は、このように、自らの妥当根拠を暫定的に付与されることによって、差し当たり、自らの妥当し得るか否かを決定し得るかも知れない。 従って、そのような解釈は、差し当たり、自らの妥当性を根拠付け得る、いわゆる科学的な言明として遂行され得るかも知れない。 しかし、そのような科学的言明の妥当性を根拠付けている、その妥当根拠は、あくまでも暫定的なものであって、自らの妥当性を根拠付ける、いかなる妥当根拠も存在し得ない。 科学的言明とは、さらなる根拠への遡行を中断することによって初めて可能となる、暫定的に根拠付けられた解釈の行為なのである。 それでは、自らの内属する社会への解釈を暫定的に根拠付ける、妥当根拠それ自体は、どのようにして与えられるのであろうか。 もとより、そのような妥当根拠それ自体には、いかなる妥当根拠も存在し得ないのであるから、そのような妥当根拠を、何等かの根拠に基づいて選択することは不可能である。 従って、そのような妥当根拠は、もし選択することが可能であるとするならば、いかなる根拠にも囚われない、いわば自由な決断によって選択されざるを得ない。 すなわち、暫定的な妥当根拠は、その選択可能を前提とするならば、解釈主体の自由な決断によって与えられるのである。 この意味において、科学的な言明とは、究極的には自由な決断に依存している行為に外ならない。 普遍的な妥当根拠の果てる処、自由な決断あるのみ、という訳である。 しかし、暫定的な妥当根拠を選択する、解釈主体の自由な決断が可能であるためには、そもそも、暫定的な妥当根拠それ自体を選択することが可能であらねばならない。 すなわち、妥当根拠が選択可能であるためには、妥当根拠についての、ある一つの選択に代替し得る、それ以外の選択肢が存在しておらねばならないのである。 ところが、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の、暫定的な妥当根拠には、いかなる選択肢も存在し得ないことが示され得る。 すなわち、妥当根拠が選択可能であるためには、妥当根拠についての、ある一つの選択に代替し得る、それ以外の選択肢が存在しておらねばならないのである。自己関係的な解釈行為は、たとえ暫定的なそれであったとしても、些かの選択可能性も持ち得ないのである。 何故ならば、自己関係的な解釈行為においては、自らの行為の妥当根拠と、自らの対象の妥当根拠とが一致せざるを得ない。 従って、社会の全体なり、あるいは、解釈行為自らの内属する社会なりを、解釈の対象とするならば、自らの対象としての社会全体を秩序付ける文脈(妥当根拠)、あるいは、自らの対象としての自らの内属する社会を秩序付ける文脈(妥当根拠)それ自体を、自らの行為の依存する文脈(妥当根拠)とせざるを得ないことになる。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする解釈の行為は、自らの行為の妥当根拠として、自らの対象の妥当根拠以外の、いかなる選択肢も持ち得ないのである。 言い換えれば、自らの内属する社会を解釈する行為の妥当根拠は、些かも選択可能ではあり得ないのである。 従って、自らの内属する社会に対する解釈の妥当根拠を、解釈。主体の自由な決断に委ねることは、全く不可能となる 何故ならば、そのような解釈の妥当根拠には、選択肢が全く不在であるために、解釈主体による自由な決断の余地は、些かも残されてはいないからである。 このことは、科学的言明の妥当根拠(たとえば反証可能性基準)を、自由な決断に委任する、批判的合理主義の、必ずしも可能ではあり得ないことを示している。 すなわち、科学的言明の妥当根拠を、如何なる根拠にも囚われない自由な決断に委ねることによって、そのような妥当根拠によって秩序付けられた、科学的言明のゲームを展開せんとする、批判的合理主義の試みは、社会の全体あるいは自らの内属する社会を対象とする言明の妥当根拠に、如何なる選択肢も存在し得ないという事態によって、挫折せざるを得ないのである。 言い換えれば、批判的合理主義の含意する、科学的言明の妥当根拠それ自体についての相対主義、いわゆるパラダイム相対主義は、社会の全体あるいは言明行為自らの内蔵する社会を対象とするパラダイムに、選択可能性の全く不在であるがゆえに、失敗せざるを得ないのである。 従って、批判的合理主義によるパラダイムの選択は、全く不可能となる。 このことは、機能主義による社会システムの選択が不可能であることと、ほとんど同型的に対応する事態であると思われる。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の妥当根拠が、解釈主体の自由な決断によっては選択され得ないという事態は、そのような解釈の行為が、自らの対象とする社会を秩序付けている文脈から、ついに自由ではあり得ないことを示している。 すなわち、そのような解釈の行為は、自らの対象とする文脈、従って、自らの依存する文脈から、ついに離脱し得ないのである。 言い換えれば、解釈行為という(メタ)テクストは、自らのテクストでありかつ自らも織り込まれているコンテクストから、決して離脱し得ないのである。 そのようなコンテクストは、解釈の行為(メタ・テクスト)に先立って遂行されている、言わば先行的な解釈(テクスト)の累積であるとも言えよう。 従って、解釈の行為は、先行的な解釈に拘束されて初めて可能であることになる。 すなわち、解釈の行為とは、言わば先行解釈の地平に投げ出されて在る行為に外ならないのである。 ---- ***◆5.再び伝統とは何か ---- 社会の伝統あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの妥当し得るか否かを究極的には決定し得ず、また、自らの妥当性を根拠付ける文脈を暫定的にすら選択し得ない。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、自らの対象とする社会を秩序付ける文脈を、究極的には操作し得ず、しかも、そのような文脈から、暫定的にすら離脱し得ないのである。 すなわち、解釈の行為が、自らの対象とし、従って、自らの依存する文脈は、究極的には操作不能であり、暫定的にも離脱不能である、何ものかなのである。 このような解釈行為の文脈こそ、伝統と呼ばれるものに外ならない。 すなわち、伝統とは、操作不能という意味において拘束的であり、解釈行為の遂行において従われる外はない事態なのである。 言い換えれば、伝統とは、解釈行為の語り得ず、ただ示し得る事態であると共に、解釈行為の逃れ得ず、ただ従うべき事態なのである。 従って、解釈の行為とは、このような伝統に従いつつ、このような伝統を示す、すなわち、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為に外ならないことになる。 言い換えれば、社会の全体あるいは自らの内属する社会を秩序付ける文脈、すなわち、伝統を解釈する行為とは、伝統から離脱するのではなく、伝統に依拠しつつ、伝統を操作するのではなく、伝統を再生する行為に外ならないのである。 このように、伝統に依拠しつつ、伝統を再生する行為の遂行を、保守主義と呼ばずして、一体、何を保守疑義と呼び得るのか。 すなわち、社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為の遂行は、保守主義以外の何ものでもないのである。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、伝統を普遍的に批判し得る根拠を持ち得ないが故に、伝統を生成し、また、伝統を自由に選択し得る選択肢を持ち得ないがゆえに、伝統に依存する行為であらざるを得ない。 すなわち、唯一可能な社会理論として、批判理論や機能主義と決別する解釈学的社会学の遂行は、取りも直さず、保守主義の外ではあり得ない。 解釈学的社会学の保守主義たる所以である。 社会の全体あるいは自らの内属する社会を解釈する行為は、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為である、という命題は、解釈学的社会学の根本命題である。 本論は、この根本命題の含意を、簡単にスケッチしたに留まる。 論じ残された問題は数多い。 たとえば、ある歴史的な社会を解釈の対象に据えた場合、その歴史的な社会を秩序付けている文脈と、解釈の行為の内在する社会を秩序付けている文脈とは、必ずしも常には一致しない。 従って、そこには、解釈の対象とする(対象)社会の文脈と、解釈の内蔵する(メタ)社会の文脈とが一致する、いわゆる自己関係性の構造は、必ずしも見い出されない。 しかし、そもそも、解釈の行為は、対象社会の文脈とメタ社会の文脈との間に、何等かの一致を前提することによって、初めて可能になるとも考えられるし、あるいは、それらの間に、何等かの一致を帰結することによって、初めて実現し得るとも考えられる。 すなわち、解釈の行為は、自己関係性の構造を、その前提とも帰結ともしているのではないか、と考えられるのである。 この場合、解釈を遂行する過程において、対象社会の文脈とメタ社会の文脈とは、どのように離反し、あるいは、どのように一致していくのか、このことが問われねばならない。 この問いは、解釈の遂行課程において、自己関係性の構造が、どのように生成されて来るのかを問うことに外ならない。 ガーダマーの言う、地平融合の問題である。 しかし、本論は、この問いに答えない。 解釈学的社会学の理論的彫塑は、今後の課題である。 解釈学的社会学が、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為に外ならないとするあらば、日本における解釈学的社会学は、日本の伝統を生成する行為を閉却する訳にはいかない。 もっとも、日本の伝統というと、即座に、古代以来の天皇制や、中世以来のイエ社会やを思い浮かべ、中国文明やあるいは近代文明の影響を受けていない、言わばナショナリスティックな伝統を考える向きがしばしば見受けられるが、ここに言う伝統は、必ずしもそのようなものではあり得ない。 日本において解釈学的社会学を遂行する場合、私の差し当たり対象としたい伝統は、17世紀ないし19世紀以降の近世あるいは近代日本の伝統である。 すなわち、近代文明の一翼を担う地域文化としての日本の伝統を対象としたいのである。 この間の事情は、ドイツにおいて解釈学的社会学の遂行される場合と大した違いはない。 ドイツの解釈学もまた、17世紀ないし19世紀以降の近代ドイツの哲学的な伝統を、差し当たり継承しているのである。 いずれにせよ、日本における解釈学的社会学を遂行するに当たって、差し当たり対象としたいのは、近世あるいは近代日本における哲学的な伝統である。 そのような伝統を解釈することによって、伝統に依存しつつ、伝統を生成する行為の一端を担ってみたいのである。 このこともまた、今後の課題に外ならない。 #endregion ---- **▼原注 &size(12){&color(green){↓本文はここをクリックして表示/非表示切り替え}} #region() ---- &bold(){第一章  世紀末の新しい保守主義} (省略) &bold(){第二章  合理と個体} (省略) &bold(){第三章  暗黙の言及} (*6) Polanyi, Michael ("Personal Knowledge"1958 長尾史郎訳 『個人的知識』1985) ハイエクは、ポランニーから多くの影響を受けている。 たとえば、自生的秩序の概念は、ポランニーから譲り受けたものである。 確かに、ハイエクは、ポランニーの暗黙知の概念を、言葉としては用いていないが、内容的には同様の考え方に立っている。 (*7) 橋爪大三郎 (『言語ゲームと社会理論 -ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン-』 1985) ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論から、ハイエクが直接の示唆を受けているか否かは定かでない。 従って、ここに言う家族的類似は、両者の理論が結果として類似しているという主張以上のものではない。 なお、ハイエクは、ウィトゲンシュタインの伝記を手掛けたことがあるそうである。 (他は省略) &bold(){第四章  規範の文脈} (*5) 土屋俊 (『心の科学は可能か』 1986) 自己言及性という概念の採用に当たっては、土屋(1986)に大きな示唆を受けた。 (*8) 土屋俊 (『心の科学は可能か』 1986) 文脈依存性という概念の採用に当たっては、土屋(1986)に大きな示唆を受けた。 (*18) 土屋俊 (「何種類の言語行為があるか -言語ゲームとしての言語行為-」 講座『思考の関数1 ゲームの臨界 -アゴーンとシステム-』 1983) 発語内行為の分類に関しては、土屋(1983)に示唆を受けた。 (他は省略) &bold(){第五章  慣習と遂行} (*1) Popper, Karl R. ("Objective Knowledge"1972 森博訳 『客観的知識 -進化論的アプローチ-』1974) 《世界Ⅰ》 《世界Ⅱ》 《世界Ⅲ》 の概念については、Popper に示唆を受けた。 (*2) これは、行為の累積的な帰結として生成される秩序が、何故に、行為の発効し得るか否かを決定する根拠すなわち、行為の依存する文脈となり得るのか、という問題である。 もし、行為の依存する文脈が、行為によって意図的に設定されるとするならば、そこには、自己言及あるいは自己回帰のパラドックスが生ずることになり、行為の発効し得るか否かは決定不能に陥らざるを得ない。 従って、行為の発効し得るか否かが決定可能である、すなわち、行為の依存する文脈が存在し得るとするならば、それは、たとえ行為の累積的な帰結として生成される秩序であったとしても、行為の意図的な設定にはよらないことが明らかになる。 言い換えれば、行為の依存する文脈は、もしそれが存在し得るとするならば、行為の累積的な帰結からは必ずしも独立していないにも拘わらず、行為の意図的な帰結からは全く独立しているのである。 (*3) 行為の発効し得るか否かを決定する根拠、言い換えれば、行為を根拠付けあるいは正当化する文脈に対する言及の総てが、自己言及あるいは自己回帰の行為となる訳では必ずしもない。 ある特定の行為秩序を正当化する文脈、すなわち、ある特定の社会ゲームを構成するルールに対する言及は、必ずしも自己に回帰する言及とはならず、ある特定の行為秩序あるいは社会ゲームを制御さらには設定する行為は常に可能である。 しかし、この場合、ある特定の文脈あるいはルールに言及する行為それ自身の依存する文脈あるいはルールは、差し当たり、言及の対象になっていない。 もちろん、ある特定の文脈に言及する行為を正当化する文脈それ自体に対する言及も、常に可能である。 しかも、そのような言及は無限に遡及し得る。 何故ならば、文脈あるいはルールの全体に言及する行為それ自身の依存する文脈あるいはルールに対する、新たな言及が、常に可能なのであるから、もとの言及は、文脈あるいはルールの全体を対象とする言及とは決してなり得ないのである。 このことは、文脈あるいはルールの全体に対する言及が、もし存在し得るとするならば、それは、自らを正当化する文脈あるいはルールそれ自体をも対象とする言及、すなわち、自己言及あるいは自己回帰の行為とならざるを得ず、そのような言及の発効し得るか否かを決定することは、すなわち、そのような言及の行為そのものが、原理的に不可能となるのである。 従って、ある特定の文脈によって正当化される行為秩序、あるいは、ある特定のルールによって構成される社会ゲームの制御さらには設定ならばいざ知らず、行為秩序あるいは社会ゲームの全体を対象とする制御さらには設定の行為は、原理的に不可能とならざるを得ない。 すなわち、行為秩序あるいは社会ゲームの全体に対する制御さらには設定は、自己回帰的な行為であらざるを得ないがゆえに、不可能となるのである。 (*4) 自生的秩序やルール、あるいは言語ゲームといった、《遂行的なるもの》は、行為の累積的な遂行としてのみ示されるという意味において、行為累積的である。 行為は、自らの文脈としての《遂行的なるもの》に、自らの発効し得るか否かを依存しているという意味において、文脈依存的である。 しかし、《遂行的なるもの》の全体を対象とする行為は、自らの依存する文脈をも対象とせざるを得ないという意味において、自己回帰的であり、自らの発効し得るか否かを決定し得ない。 すなわち、《遂行的なるもの》全体を対象とする行為は、自己回帰的であるがゆえに不可能なのである。 従って、行為の累積である《遂行的なるもの》に、行為が自らの発効し得るか否かを依存したとしても、《遂行的なるもの》の全体は行為の対象とはなり得ないのであるから、必ずしも矛盾は生じない。 言い換えれば、《遂行的なるもの》は、行為の累積的な帰結であるにも拘わらず、行為の意図的な対象とはなり得ないがゆえに、行為の規範的な文脈となり得るのである。 (*14) 累積的、規範的、暗黙的な事態としての《遂行的なるもの》と、社会との同一性は、本書に述べた社会哲学の最も基本的な命題である。 すなわち、社会は、《遂行的なるもの》と同様に、行為の累積的な遂行それ自体であるという意味において、累積的であり、また、行為の発効し得るか否かの依存する文脈であるという意味において、規範的であり、さらに、その全体を対象とする行為の自己に回帰するがゆえに不可能であるという意味において、暗黙的である。 保守主義は、累積的な伝統と、規範的な権威と、暗黙的な偏見との擁護し得ること、あるいは、擁護すべきことを見出すことによって、この意味における社会を、近代において初めて発見したのである。 保守主義のこのような捉え方は、保守主義を、言わば社会学として捉えることに外ならない。 言い換えれば、本書は、保守主義の伝統の中に、社会学の最良の部分を見出そうとする試みなのである。 なお、保守主義の社会学的な側面以外の諸相については、次節において簡単に検討したい。 (他は省略) &bold(){第六章  解釈学的社会学としての保守主義} (省略) #endregion ---- *■3.まとめ、参考図表 &include_cache(現代保守の社会理論・まとめ、参考図表) ---- *■4.ご意見、情報提供 #comment #include_cache(政治理論・共通)
&include_cache(落合仁司『保守主義の社会理論』内容紹介)

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