第3章 日本国憲法前文と基本原理

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[[阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)]]     &color(crimson){第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論   第3章 日本国憲法前文と基本原理    本文 p.121以下} <目次> #contents() ---- *■1.憲法前文 **[79] (1) 前文の意義と構造 法令の条項の前におかれる文章を前文という。 世界の憲法のなかには、前文をおかないもの、前文には憲法制定の経緯を短文で述べるにとどめるものもみられる。 これらの場合、憲法の基本原則は本文の冒頭に組み込まれることが多い(法律によく見られる、第1条の制定目的規定を想い起こせばイメージが沸く)。 これに対して、多くの国の憲法は、日本国憲法のように、前文に憲法典制定の経緯のみならず、一定の基本原則を謳っている。 日本国憲法の場合、制定の経緯と公布の事実は、前文に先立つ公布文に掲げられている。 日本国憲法における前文は、日本国憲法の一部であり、法の存在形式を意味する「法源」であることについては、今日の学説上異論はない。 学説は、前文が法源であるとして、裁判所が具体的事件に適用するという意味での法源(強い意味での法源)であるのか、それとも、具体的事件に適用されるのは本文の個別的条規であって、前文はその解釈の際尊重される程度の法源(弱い意味での法源)にとどまるのか、この点をめぐって対立してきた。 前文は、日本国憲法全体の基本理念を一般的・包括的な文章によって謳っているにとどまり、具体的事件の結論へと導く力に欠ける、と理解されるべきである。 もっとも、前文が裁判規範として弱い通用力しか持っていないということと、前文が憲法のグランド・デザインを示す重要部分であることとは、別の事柄である。 前文は、憲法の骨格、すなわち国制を描き出す重要部分である。 国制の姿はどこに描写されるか? ある姿を描こうとしたとき、すべてを明示的にするわけにはいかず、暗喩や空白部分によらざるを得ないとしても、その本質部分を前文に表したいと起草者なら考えるだろう。 確かに、日本国憲法の前文には、本質部分が描写されているようだ。 そう考えると、前文が格別重要な意味をもってくる場面のひとつが、憲法の改正との関連だ、という筋が見えてくる。 もう一度、ここで憲法改正の限界論を確認してみよう。 《憲法改正規定は、憲法典上の権限(憲法によって授権された力)であるから、憲法の根本構造を変革する力をもつことは、法理上、あり得ない》。 **[80] (2) 日本国憲法の基本原理 憲法改正の対象とはならない国制が、「日本国憲法の基本原則(原理)」と呼ばれてきたものだろう。 “これらの基本原則が、日本国憲法をして日本国憲法たらしめる必須要素であり、これらのいずれかが欠ければもはや日本国憲法ではなくなる”というわけである。 なぜ、これらの原則が必須要素となるのか、と問われたとき、通説は“なぜなら、それらが制憲権者の本質的な意思決定だからだ”と、意思主義で以って解答するだろう(*注1)。 では、制憲権者が本質的な意思決定を下した事項とは何であるのか? 従来の通説は、日本国憲法の基本原則として、国民主権(または民主主義)、基本的人権の尊重、平和主義、の3つを挙げた。 これは、我々にもお馴染みとなっている。 別の論者は、個人の尊厳、国民主権、社会国家、そして平和国家、を挙げてきた(我が国が社会国家ではないと私が理解していることは、既に [74] でふれた)。 (*注1)日本国憲法の基本的構成要素について 意思主義によらない私は、こう考えている。 《前文には、立憲主義の流れや人類の歴史的経験が反映されているに違いない。読み手としての我々が前文から読み取り重要なものとしてそれを受容するからだ》。 **[81] (3) 前文第一段の法意 ところが、次の前文一段をよく読めば、それらが必須要素だとなるはずがない。 前文一段に曰く、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」。 この一文は、各フレーズの相互関係が読み取れない悪文ではあるものの、こういっているように読める。  “日本国民は、(ア) 代表制(議会制)を統治のやり方とするが、(イ) 統治する者が戦前のように暴走しないように抑制し、(ウ) 諸外国とも協調しながら「自由」と「平和」を享受できるようにと決意して、これらの内容をもつ憲法を受け入れる。” さらに前文は、次のように続く。 「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」 「国民による信託」、「国民の権威/代表者の権力」、「普遍的原理に反する統治の国民による排除」に言及する上の引用文は、いかにもアメリカ的J. ロック解釈の表れである。 「信託」、「普遍的原理」といった言葉は、「高次の法」を彷彿とさせる。 高次の法は、憲法制定権力者をも統制する、といいたいようにみえる。 すなわち、法の支配である。 法の支配、国民主権、代議制、自由の尊重、これらは、古典的な立憲主義の要素である。 そうなると、日本国憲法の本文が権力分立を採用しているだろうことは、想像にたやすい。 本文をみればそのことはすぐに看て取れる。 以上、少なくとも前文から判読する限り、日本国憲法の基本原理は、近代立憲主義の標榜してきた、法の支配、国民主権、代議制、そして、自由の尊重である。 これに、戦争の惨禍の反省に基づいた国際協調路線という日本国憲法特有の原則が加わる。 ---- *■2.日本国憲法と法の支配 **[81] (1) 立憲主義と法の支配 日本国憲法は、立憲主義の憲法である。 立憲主義は、見方を変えていえば、統治を「規範的意味の国制」によって先導しようとする思想である(⇒[11])。 立憲主義とは法の支配と同趣旨なのだ(⇒[22])。 また、立憲主義は権力分立をその必須の構成要素とするとよくいわれる(⇒[20])。 このことは、《権力分立は、正しき法の制定とその執行を目指す装置だ》と理解すれば(⇒[54])、〔立憲主義-法の支配-権力分立〕という一連の関係として浮かび上がるだろう。 近代立憲主義憲法は、法の支配の思想を一部取り入れて、リヴァイアサンともなりがちな統治を規律しようとするのである。 もっとも、法の支配にいう「法」は、文章化されるルールを超えている(⇒[32])。 法の支配を理解するには、「法」という言葉を通して描くよりも、「正義」なかでも「形式的正義」のイメージを通して描くほうがいいだろう(この点については、先の [31] でふれた)。 我々が「正義」を語り尽くせないのと同じように、法の支配にいう「法」を法文書化することは出来ないのだ。 ということは、憲法典という法文書が法の支配を完全に実現することはない、ということになる(⇒[34])。 法の支配という考え方は、崇高な理念であって、憲法とそのもとでの統治は、その理念に最も接近するよう求められるのである。 **[82] (2) 日本国憲法における法の支配 “日本国憲法は、法の支配を取り入れている”とよくいわれる。 その論拠として、次のような個別の条文が挙げられる。 その個別条文とは、統治構造に関するものについていえば、  (ア) 司法権を一元的に通常裁判所に帰属させ、司法権の独立を保障し、さらに、特別裁判所の設置を禁止している76条、  (イ) 憲法典の最高法規性を宣言して、階梯的法規範構造を採用し、これに反する国家行為の効力を否定している98条1項、  (ウ) 司法府が、一切の国家行為につき、統治を先導する基本法(最高法規)と適合しているか否かを判断できるとする81条、 である。 こうした個別の条文は、法の支配の論拠ではない。 これらは法の支配の表れに過ぎない。 論拠は個別条文の背後にある。 そう考えたとき、我々は“権力分立が法の支配の構造的な表れだ”という命題に思い至るだろう。 日本国憲法の41、65、76条が権力分立構造における権限配分規定であること、これが「正しき法の制定→制定された法の正しき執行」を守ろうとするのである。 次いで、基本権保障に関する領域においては、  ①「国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と謳い、形式的法治主義を排除している13条(*注2)、  ②「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めて、法令の規定なく刑罰を科せられないことを確認している31条(31条の解釈によっては、実体規定の明確性まで要請しているとみることも出来る)、  ③「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」と謳って、事後処罰と二重の危険の禁止を定めている39条等に表れている。 法の支配は、理解の仕方によっては、41条にも反映されるだろう。 私は、この41条解釈が、法の支配にとって最も重要だと考えている(この点については、後の [114] [116] でふれる。また、[35] もみよ)。 (*注2)公共の福祉と法の支配の関係について 私は、公共の福祉にいう「公共」とは、“誰にとっても”という意味だと理解している。 これは、《法律は、特定可能な人々を有利に扱ったり不利に扱ったりしてはならない》という法の支配の考え方を「公共の福祉」に活かそうとする私の工夫である。 『憲法2 基本権クラシック』 [37] を参照願う。 ---- *■ご意見、情報提供 &color(green){※全体目次は[[阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)]]へ。} #comment()
[[阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)]]     &color(crimson){第Ⅱ部 日本国憲法の基礎理論   第3章 日本国憲法前文と基本原理    本文 p.121以下} <目次> #contents() ---- *■1.憲法前文 **[79] (1) 前文の意義と構造 法令の条項の前におかれる文章を前文という。 世界の憲法のなかには、前文をおかないもの、前文には憲法制定の経緯を短文で述べるにとどめるものもみられる。 これらの場合、憲法の基本原則は本文の冒頭に組み込まれることが多い(法律によく見られる、第1条の制定目的規定を想い起こせばイメージが沸く)。 これに対して、多くの国の憲法は、日本国憲法のように、前文に憲法典制定の経緯のみならず、一定の基本原則を謳っている。 日本国憲法の場合、制定の経緯と公布の事実は、前文に先立つ公布文に掲げられている。 日本国憲法における前文は、日本国憲法の一部であり、法の存在形式を意味する「法源」であることについては、今日の学説上異論はない。 学説は、 |BGCOLOR(wheat):前文が法源であるとして、裁判所が具体的事件に適用するという意味での法源(強い意味での法源)であるのか、| |BGCOLOR(wheat):それとも、具体的事件に適用されるのは本文の個別的条規であって、前文はその解釈の際尊重される程度の法源(弱い意味での法源)にとどまるのか、| この点をめぐって対立してきた。 前文は、日本国憲法全体の基本理念を一般的・包括的な文章によって謳っているにとどまり、具体的事件の結論へと導く力に欠ける、と理解されるべきである。 もっとも、 |BGCOLOR(powderblue):前文が裁判規範として弱い通用力しか持っていないということと、| |BGCOLOR(powderblue):前文が憲法のグランド・デザインを示す重要部分であること| とは、別の事柄である。 &color(green){&bold(){前文}}は、&color(green){&bold(){憲法の骨格、すなわち国制を描き出す重要部分}}である。 国制の姿はどこに描写されるか? ある姿を描こうとしたとき、すべてを明示的にするわけにはいかず、暗喩や空白部分によらざるを得ないとしても、その本質部分を前文に表したいと起草者なら考えるだろう。 確かに、日本国憲法の前文には、本質部分が描写されているようだ。 そう考えると、&color(green){&bold(){前文が格別重要な意味をもってくる場面のひとつ}}が、&color(green){&bold(){憲法の改正}}との関連だ、という筋が見えてくる。 もう一度、ここで&color(green){&bold(){憲法改正の限界論}}を確認してみよう。 《憲法改正規定は、憲法典上の権限(憲法によって授権された力)であるから、憲法の根本構造を変革する力をもつことは、法理上、あり得ない》。 **[80] (2) 日本国憲法の基本原理 &color(green){&bold(){憲法改正の対象とはならない国制}}が、「&color(green){&bold(){日本国憲法の基本原則(原理)}}」と呼ばれてきたものだろう。 “これらの基本原則が、日本国憲法をして日本国憲法たらしめる必須要素であり、これらのいずれかが欠ければもはや日本国憲法ではなくなる”というわけである。 なぜ、これらの原則が必須要素となるのか、と問われたとき、通説は“なぜなら、それらが&color(green){&bold(){制憲権者の本質的な意思決定}}だからだ”と、意思主義で以って解答するだろう(*注1)。 では、制憲権者が本質的な意思決定を下した事項とは何であるのか? 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