第ニ章 憲法前文

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[[阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)]]  &color(crimson){第二部 実定憲法理論    第ニ章 憲法前文 p.221以下} <目次> #contents() ---- *■第一節 前文の構造と基本理念 **[249] (一)前文に示されている原則は、いわゆる「三原則」だけではない 法令の条項の前に置かれる文章を前文という。 日本国憲法の前文は、憲法典制定の経緯のみならず、一定の基本的理念を明らかにしている。 従来、日本国憲法の基本原則については、国民主権(または民主主義)、基本的人権の尊重、平和主義の三つを挙げるもの(佐藤功・62頁、清宮・33頁)、個人の尊厳、国民主権、社会国家および平和国家の四つを挙げるものもあるが(宮沢『憲法』68頁)、次のような前文一段からすれば、それらに限定されるわけではない(清宮『憲法Ⅰ[第三版]』55~67頁は、日本国憲法の根本規範として、同様の三原則を挙げるが、人権尊重を、自由主義、平等主義、福祉主義に関連させながら、それぞれ、自由権、平等権、社会権へと具体化されることを説く点に、特異さをみせる)。 前文一段に曰く、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」 この一文は、 |BGCOLOR(khaki):①|BGCOLOR(khaki):我が国の統治が代表によって為されること、| |BGCOLOR(khaki):②|BGCOLOR(khaki):日本国民が「自由」と「平和」とを時空を超えて尊重することを内容とする憲法典を、| |BGCOLOR(khaki):③|BGCOLOR(khaki):制憲権主体としての国民が選びとったこと、| を、明らかにしている。 **[250] (ニ)前文は「自由」の保護を第一義として立体的構造をもつ 以上の、代表制、自由主義、国際協調・平和主義、および国民主権、という日本国憲法の基本原則は、並列的関係にあるのではなく、既にふれたような憲法典の存在理由からして([48] [49] をみよ)、「自由」の保護を第一としていると解すべきである。 憲法典一般および日本国憲法が、人権保障に関し、いかなる歴史的変転を経て、どのような自由を保障しているか、については、『憲法理論Ⅱ』で論ずる。 日本国憲法は、自由を第一義として、 |BGCOLOR(khaki):①|BGCOLOR(khaki):直接民主制のもとでの人民意思の恒常的・直接的な発動が自由にとって苛酷であることに鑑みて代表制を採用し、| |BGCOLOR(khaki):②|BGCOLOR(khaki):戦争や武力行使が自由破滅的となってきた人類史を省みて、戦争の惨禍が起こされることのないよう、他国家との協力のもとに平和を積極的に希求し、| |BGCOLOR(khaki):③|BGCOLOR(khaki):国民全体が、右の原則を盛り込んだ憲法典を制定し、統治をこのルールのもとに置こうとしたのである。| なお、昭和21年6月25日の衆議院本会議において、吉田茂首相は、「憲法改正草案」の提案理由の説明のなかで、国民主権、基本的人権の尊重、民主的責任政治、戦争放棄・平和主義、法の支配、という五大原則を挙げた。 ---- *■第ニ節 前文の法源性と「平和的生存権」の性質 **[251] (一)前文は弱い意味での憲法法源にとどまる 前文は、単なる公布の事実を告げている明治憲法の上諭や日本国憲法の冒頭にみられる公布文とは違って、日本国憲法の一部であり、憲法の法源としての意義を有していることについては、学説上異論はない。 学説は、前文が法源であるとして、裁判所が具体的事件において適用するという意味でのそれ(強い意味での法源)であるのか、それとも、具体的事件に適用されるのは本文の個別的条規であって、前文はその解釈のさい尊重される程度(弱い意味での法源)にとどまるのか、この点をめぐって対立している。 前文が、一般的・包括的な文書によって、日本国憲法全体の基本理念を謳っている以上、基本的には、具体的紛争解決の際の解釈の際に尊重される程度となるにとどまり、合憲か違憲かの決定的な規準とはなり得ない、と理解すべきである。 **[252] (ニ)「平和的生存権」はグローバルな理念を掲げたものである 前文は、「平和のうちに生存する権利」に言及する。 それは、日本国憲法の最大の目的である「自由」の保護が、統治機構上の平和主義と結びつくことによって、基本的理念であることを超えた基本権としての「平和的生存権」を新たに生み出したことを、含意しているのかも知れない。 古くは、前文の右の関連箇所は、9条の基本的理念を表したものと理解され、基本権を通しての平和の実現という構想と関連づけられなかった。 その後、自衛隊の基地建設を目的とする保安林指定解除の合憲性が争われた長沼事件を契機にして、学説のなかには、9条の平和主義の意義を人権思想によって肉付けして、「平和的生存権」は独自の意義をもつ、と主張する者も出てきた。 ところが、その権利の内実となると、学説は一定せず、平和確保のための積極的措置を統治機関が取るよう積極的に義務付け、その実現に向けて国民が積極的に参加する権利であるとするもの、軍事基地・施設等を設置する国家行為を阻止・排除する権利であるとするもの等様々である。 そればかりでなく、同権利の憲法上の根拠として、前文の当該部分で十分とするもの、9条を具体的根拠とするもの、13条の幸福追求権を根拠とするもの等区々(まちまち)である。 長沼事件第一審判決(札幌地判昭48.9.7、判時712号24頁)は、前文が「明確な法規範」であると指摘しながら、前文の当該部分をもって「全世界の国民に共通する基本的人権そのものであることを宣言するもの」であって、同権利は「憲法第三章の各条項によって、個別的に基本的人権の形で具体化され、規定されている」と述べた。 すなわち、右第一審判決は、「平和的生存権」をもって、日本国憲法の平和主義の反射的利益にとどまるのではなく、国民一人ひとりが平和のうちに生存し、かつ、幸福追求できる権利である、と捉えたのである。 これに対して、その控訴審判決(札幌高判、昭51.8.5、行集27巻1175頁)は、前文が法的拘束力を持つとはいえ、当該部分は理念としての平和の内容を具体的かつ特定的に規定しているわけではないことを根拠として、「平和のうちに生存する権利」が基本権ではなく、裁判規範としての内容を持つものではない、と判断した。 百里基地訴訟において、裁判所は、第一審から上告審まで(水戸地判昭52.2.17、判時842号22頁、東京高判昭56.7.7、判時1004号3頁、最判平1.6.20、民集43巻385頁)、一貫して、「平和的生存権」の裁判規範性を否定している。 「平和的生存権」の享有主体は、「全世界の国民」となっていること、戦争の不存在という意味での「平和」を維持する手段も、完全非武装から最新鋭の軍隊の存在を前提とするもの等、様々であって、右条項の内包と外延があくまで抽象的であることを考慮すれば、その裁判規範性の承認には消極的とならざるを得ない。 「われらは、全世界の国民が、・・・・・・平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と高々と謳いあげたのは、グローバルな理念を世界に向けて発信するためであった(田岡良一『国際法Ⅲ[新版]』145頁は、平和主義という場合にも、二つの異なる動機に立脚するという。一つは、戦争によってもたらされる個人的損失・犠牲を忌避する感情を基礎とするもの、他の一つは、相手国民や人類にもたらす犠牲を忌避する感情を基礎とするもの、である。前文にいう「平和的生存権」は、後者を基礎としたものと考えられ、日本国民またはその一部の犠牲だけを考慮したものであってはならない)。 ---- *■ご意見、情報提供 &color(green){※全体目次は[[阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)]]へ。} #comment()

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