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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)  第一部 国家と憲法の基礎理論    第一章 国家とその法的把握 p.3以下 <目次> #contents() ---- *■第一節 国家論の変転 **[1] (一)国家の見方には二つある 国家に対する社会科学的なアプローチは、大きく分けて、二つある(事実の記述によって国家の諸モデルを追究する歴史的方法は、ここでは論じない。人間の知的・道徳的行為は自然史には属さない)。 一つは、「方法論的個人主義」といわれるものである。 これは、[23]以下でふれる社会契約論にみられるごとく、国家(そして社会その他の制度)の本質を、その構成員の個別の意思や行動から、分析するやり方である。 この立場によれば、個々人を動かしている主観的要素は、国家・社会を分析するうえでの不可欠のデータであって、この分析なき理論は空論として忌避される(『憲法理論Ⅱ』[9]をも参照)。 他の一つは、「方法論的集団主義」とでもいうものであって、社会的集合体の行為や意思自体も、個人のそれと同じように客観的に理解可能とみて、個々人の主観とは独立に存在する集団の行為や意思を認識対象としながら、その本質の分析に従事するやり方である。 大陸における国家の法学・政治学的分析は、主にこれによった。 以下に述べる国家論の主流は、方法論的集団主義の典型である。 **[2] (ニ)歴史上まず絶対主義国家論が登場した 国家は、16世紀に生まれた。 それは、「絶対主義国家」と呼ばれる国家であった。 絶対主義国家の最初の理論体系化は、フランスにおいてはJ. ボダン(1529~96)によって、イギリスにおいてはT. ホッブズ(1588~1679)によって為された(巻末の人名解説をみよ)。 絶対主義とは、君主の権威が、いかなる権威または機関によっても拘束されない政治システムをいう。 絶対主義国家においては、国家の主権は君主の人格に体現され、それは、すべての法の源泉であり、一切の法に優越し最高である、と説かれた。 ボダンは主権を定義して「国家の市民および臣民に対する最高、絶対、恒久の権力である」と述べた。 主権のなかでも、彼が最も重視したものが、立法権であった。 法は、君主の意思であり、何の拘束をも受けるはずのないものであった(この発想に法実証主義の萌芽が既にみられる)。 絶対主義の行き着く先は、君主と国家との同一視であり、それは王権神授説によって頂点に達した。 神授権説は、神聖ローマ帝国の権勢の衰退のなかで、君主が法王と同じ権力を獲得するための試みとして前面に押し出された(例えば、戴冠式において、君主が聖油によって聖別され、可死の神とされるための儀式は、17世紀の中葉でピークに達した)。 もっとも、絶対的権力といわれている君主権といえども、臣民に慈愛と正義をもって対すべし、とする神の法の制約下に置かれるのが通例であった。 絶対主義国家は、ギルドや封建領主、地縁団体等の中間団体を否定しながら、中世封建社会から近代国家への過渡期に現れ、常備軍、徴税制度等に支えられていった。 中間団体を解体することによって国家は、権力のメタ機構となりえたのである。 なかでも、君主の権力が強大になるにつれ、統治活動の多くが一群の専門的集団によって担われるようになる。 それが、後世にいう大臣助言制、内閣制や官僚制となっていく(これらの制度が整備され、統治を実際に担当し始めると、君主は名目的な存在となっていく。絶対君主制によって生み出された大臣助言制等が、逆に、君主権限を削減することとなるのは、歴史の皮肉であろう。大臣助言制については、後の[200]でふれる)。 合理的官僚制という国家装置によって支配や一定のサーヴィス提供が為される段階に至った国家を、「近代国家」という。 「近代国家」は、市民革命前に(イギリスにおいては17世紀、フランスにおいては18世紀に)成立をみた。 近代国家は、神のもとに服し、共同体に所属しながら生活する人々を、宗教的、身分的に解放することによって成立した。 それは、物理的手段と、技術的な行政手段とを、教会、領主その他の地方組織の任務から排除して、自らのものとして出来上がった(ウェーバー著、浜島朗訳『権力と支配』11、263頁以下参照)。 この近代国家は、従来の従属・連帯という社会形態から個人を解放したのである。 ここに、国家と対立して、自立する個人という概念が成立した。 この個々人がさらに成熟して作りあげた社会を後に「市民社会」というのである([4]参照)。 **[3] (三)続いて立憲国家論が登場する 近代国家の成立を理論的に解明し、正当化しようとしたのが、啓蒙期の社会契約論である。 この理論は、「神による社会の設立」というこれまでの理論に代えて、宗教的権力から解放された国民(民族)国家の成立を合理的に説明しようとしたのである。 社会契約論によれば、契約によって樹立された国家と個人的自由とは調和・両立するものとみられた。 なぜなら、社会契約締結主体は、能動的市民、すなわち、公民(シトワイアン)であり、彼らによって樹立された社会が市民社会であり、「国民国家」であったからである。 社会契約理論は、国家樹立の目的は公共善の実現にある、と説いたアリストテレス以来の、西洋の伝統的国家観の影響を示している。 この伝統を抜け出て、「市民社会」に関する新たな見方を体系化したのが、A. スミス(1723~94)であった。 彼は、脱宗教化によって成立した政治社会を、さらに脱政治化することによって、経済社会としての「市民社会」という、別個の領域を作り上げた。 彼がイメージする「市民社会」は、政治的な契約によってではなく、経済的な市場によって自己調整される領域を指した。 このスミスの理論によって、個人の権利を擁護する政治的自由主義哲学と、市場において発生する秩序を信奉する経済的自由主義とが、初めて、結びついたのである。 この国民国家が constitution によって統制されるに至った段階のものを、「立憲国家」という(「国制」については、後の[29]以下でふれる)。 立憲国家とは、統治権力から各人の「自由」を擁護するための統治上のルールを持っている近代国家をいう(そのための憲法の具体的内容については、[76]~[77]でふれる)。 立憲国家論は、18世紀の産物である。 その理論は、絶対主義国家が余りにも不可能な前提(一人の意思の絶対性と国家との同一視)に立脚していたことの反省に基づいて、近代国家を法的に合理化しようとするところから生じた。 神の如き君主は、現実には存在せず、君主の意思が人民の利益に一致しないことが判明したのである。 もっとも、立憲国家の理論的起源となると、それは中世に遡る。 中世から18世紀を通して、暗黙かつ不文の慣習が、統治者の行動様式を制約するよう組み込まれている、と考えられていた。 H. ブラクトン(?~1268)やE. クック(1552~1634)等の思想家たちは、その慣習全体をもって、基本法 fundamental law であると主張した。 また、H. ボーリングブルク(1678~1751)のような理論家は、国民の歴史から確定されるはずの実体的な原理として、「太古からの憲法」 (ancient constitution) が存在してきた、とも主張した(この主張が、第四章の [64] 以下でふれる「立憲主義」または「法の支配」の思想となる)。 **[4] (四)立憲国家は個人の倫理的自律領域を尊重する国家である 立憲国家は、「国家/市民社会」という峻別論に立っていた。 この二分法は、国家も社会も集団であることを前提としつつ、それぞれを規律する法体系が異質であるとみるからこそ成立するのである。 前者を規律する法が公法と呼ばれ、後者のそれが私法と呼ばれた。 ここから、「国家(政治社会)/市民社会」は「公的領域/私的領域」または「政治的領域(【N. B. 1】参照)/私的領域」と相互互換的に用いられることになる。 |【N. B. 1】|「政治」の意義の歴史的変転について。| |>|古典的意義における「政治」とは、自由で平等な人間の間から成る共同社会での、一定のルールを共有する支配・服従関係を指した。&br()その後、中世ヨーロッパの絶対主義時代には、政治とは、支配する者が何らの拘束も受けずに、臣民を命令支配することであると観念された。&br()G. イェリネック(1885~1913)のいう「公権力とは、命令権であって、それは、それ自体の実力によって存在する」とか、E. エスマン(1848~1913)のいう「国家主権は、他に優越する権力を認めない」とする思考は、絶対主義的思考の残滓であり、政治の本質を国家による命令支配権に求めているのである。&br()これに対して、中世の根本法優位の思想、それを発展させた「法の支配」は、古典的意義における政治を意識しつつ、政治を再び法共同体における支配被支配関係として捉え直そうとするのである(この点については、第四章の「法の支配」において再論する)。| 18世紀以降、資本主義という経済活動を中心に展開される「社会」的領域が登場するに至る。 そこでいう「社会」とは、身分制的拘束から解放された原子的諸個人の集合体として捉えられた。 この「社会」は、契約を自由に締結する主体が単位となって構成される集団であって、組織規律を異にするもう一つの集団たる国家と厳密に区別された。 これが、古典的自由主義者のいう「国家/社会」の二分論である。 これに対して、社会学という研究分野が登場して以来、国家は社会のサブシステムと位置づけられてくる。 なかでも、マルクス主義思想においては、利己心によって支えられた市民(ブルジョア)社会での競争が、政治のあり方を決定するものと想定され、政治は経済的権力関係を集約するものと考えられるに至る。 この思考が、政治を法共同体とは異質な次元へと移行させたのである。 それ以降、政治概念の独自性を求めて様々な理論が提唱され、その一例がR. ダール(1915~)の「政治とは、コントロール、影響、権力等を含む人間関係の持続的パターン」とする定義である。 この定義は、政治を社会関係にまで拡散するために、国家と国民との関係を中心とした政治概念から遠ざかっていく。 今日では、政治の意義を、①国家と国民との関係から捉えること、②自由人からなる共同社会における、ルールに基づいた全体利益に係わる権力活動であること、を視座にして捉えようと試みられている(なお、[402]をみよ)。 右にいう「市民社会」の意味するところは、論者によって一様ではないが、主には、絶対主義国家の打倒の後に出現した、個人の生命、自由および所有に対する個人の権利を尊重する社会を指す(なお、「市民」の様々な意義については、後掲【N. B. 2】を参照)。 市民社会とは、絶対政国家から解放された市民生活の領域と考えられた。 それには、まず第一に、ブルジョアジーが教会の正統主義に対して戦い取ったその自律性、第二に、封建的・絶対主義的支配に対して個人主義的自由が含まれていた。 このことから、市民社会とは、教会および国家の権威から解放された市民の生活領域を言い表したのである。 見方を変えていえば、市民社会とは、平等かつ自由な経済主体の交換市場である。 そこでのエートスは、自分自身とその財産について、各人が自己決定し自己責任を負うことである。 そのことが可能となるには、諸個人の法律上の自由と平等が保障されなければならなかった。 これに基づいて、諸個人は、強権的干渉によって妨げられることのない、完全な契約の自由によってお互いに交易し、かつ自分自身の私有財産を自由に処分することができるようになったのである(ヘーゲル=マルクス主義者にとって市民社会は、特定階級の不自由と不平等によって特徴づけられる階級社会である。彼らは、非難を込めて、市民社会を「ブルジョア社会」と呼ぶ)。 立憲国家論において、権力の制限のために援用された思想が「公的(国家)領域/私的(市民社会)領域」の分離論であった。 国家は、組織規律を異にする私的領域に侵入することなかれ、というわけである。 そこでいう「私的領域」は、道徳的存在としての人間に保障されるべき自律(倫理的自律)領域と同義であった。 道徳的で理性的な個人の自由な意思によって自律的に法律関係を形成できることが「私的自治」と呼ばれた。 **[5] (五)立憲国家は経済的自律を尊重する「夜警国家」となる 19世紀後半に入ると、A. スミス(1723~90)、D. リカード(1772~1823)等の国民経済学派の説いた経済市場での自律的法則性に影響されて、「私的自治」に経済的な意味合いが吹き込まれ、これによって近代立憲国家観も変容した。 これが、F. ラッサール(1825~64)が揶揄の意味を込めて名付けた「夜警国家」観である。 その国家観のもと、こういわれた。  近代立憲国家においては、個々人の活動領域全体の秩序は、「市民社会」の自律的展開に委ね、他方、「国家」の政治的領域は、夜警機能(軍事、警察、および司法事務)に限定されるべし。 この「夜警国家」観は、経済的な力の自由な展開を認めれば、正しい社会秩序が必然的に現れる、とする「古典的自由主義」思想の産物である。 この時点で、もともとは倫理的な意味合いをもっていた「私的自治」が、個人の自由意思による私法関係の形成という「契約自由の原則」と相互互換的に用いられていくのである。 その思想は、当然に、私的所有の不可侵性を説いた。 **[6] (六)立憲国家は階級国家となるとする主張がでてきた これに対して、G. ヘーゲル(1770~1831)にとっては、市民社会は経済社会であり、欲望の体系であった。 市民社会を基礎づけるものは、労働にほかならなかった。 労働によって、主体は客体となり、意識は物に外化されて相互行為となりうるからである。 相互行為として、相互に承認されるためには、普遍的原理が必要となる。 その原理を、市民社会の外から与えるのが、国家である。 この理論によって、市民社会の公共善や合意によって政治社会(国家)を正当化するヨーロッパ的伝統(一元的思考)は断ち切られ、その断絶はK. マルクス(1818~83)の哲学において絶頂に達した。 彼らの影響のもとにある論者にとって、「私的」とは、利己的、手段合理的、戦略的と同義であった。 この見方は、必然的に、私的自治のみならず、自由経済体制の批判となる。 彼らによれば、立憲国家とは、なるほど人であれば当然に普遍的に有する権利を保障しようとする国家であるが、実際にその権利を実定法化する際には、政治的権力関係を反映して、その中心的関心を当時勃興しつつあった市民(【N. B. 2】参照)層の権利・利益の擁護に置く国家であった。 これを「階級国家」と呼ぶ。 「国家/市民社会」の峻別論も、一面では、階級国家の実現に奉仕する結果となった。 憲法典は、普遍的な価値を目指すようでありながら、個別的な利益を擁護する、アンビヴァレントな目的をも、もっていたのである。 |>|【N. B. 2】「市民」の三つの用法について。| |①|18世紀中葉までの古典的用法では、「市民」とは公的・政治的能力を有する有徳の人=公民を意味した。&br()それをもとにいう「市民社会」とは、国家という政治的支配形式と同義であった。| |②|19世紀初頭には、別の新用法が現れた。&br()そこでいう「市民」とは、自由、平等な私人、つまり、所有者としても相互に独立した存在を意味した。&br()自由・独立の市民の集団たる、「市民社会」とは、政治的支配を排除した「脱政治・脱国家的領域」をいう、と観念された。| |③|19世紀後半からマルクス主義の影響を受けて、さらに第三の用法が登場する。&br()それによれば、市民とは有産階級をいう。&br()従って、「市民社会」とは、資本と労働の対立に基礎をおく社会を意味することになる。&br()このマルクス主義的用法に決定的な影響を与えたのが、ヘーゲル哲学であった。&br()彼のいうブルジョアとは、自分のためと家族のために労働し契約を結ぶ私人を指し、シトワイアンとは、万民のために働く公民を指す。| **[7] (七)近代立憲国家は「契約から身分へ」の転換を迫られる マルクスは、これまでの公法・政治理論が国家を集団と捉えてきた流れとは違って、国家を支配機構と捉える独特の視点に立った。 彼の主張の是非はさておき、その影響力は計り知れないものがあった。 近代立憲国家の憲法典は、人の類型として「市民(シトワイアン、シティズン)」、「臣民(シュジェ、サブジェクト)」、そして「外国人」しか知らなかった。 ところが、マルクス主義の勃興以降の憲法典は、各人の置かれた人的条件を意味する「身分」(estate)という類型を意識し始め、その身分を強行法規によって保護しようとしてくる。 その身分の一例が、労働者という範疇である。 現代法は、個人の意思による法形成という大前提を崩すことなく、労働者と使用者の関係を法的規律に服せしめようとする。 この現象はときに「契約から身分へ」と表される(これは、いうまでもなくH. メインの「身分から契約へ」という公式を逆転させたものであるが、今日いわれる「身分」とは、生まれによって決定されている個人的要素を指すのではなく、個人が自由意思によって入った法関係内での地位をいう)。 この段階に至った国家を、これまでの近代立憲国家と区別して、「現代立憲国家」と呼ぶ(現代立憲主義については、[83]~[92]でふれる)。 **[8] (八)国家を社会的制度の一つとみて公役務国家観を説く立場も登場した 現代立憲国家観が成熟するまでに、様々な国家観が提唱された。 国家が、もし、一般意思を体現し、個人の主観的権利を統合する存在であれば、国家に対立するものは何もないはずである。 この矛盾を回避するために、主権概念には言及されなくなっていった。 その祖は、社会分業論で有名なE. デュルケームであった。 その影響のもとで、フランスにおいて、L. デュギー(1859~1928)は、国家の人格および主権という二つの概念を否定し、さらに、権利概念および公権力概念をも形而上学的産物に過ぎないとして否定し、次のように主張した。  18世紀の法律家たちは、国家を人格化して、国家なる人格が命令権をもつとか、その意思によって法が創造されるといった、有害無益な形而上学的理論を構築した。  ところが、国家を命令権の主体として説く理論は、死滅しなければならない。  国家は客観法に従って作られた制度であり、統治者はその制度のなかで、援助、教育等の社会的連帯を推進するために公役務に従事する作為義務を負う。  国家はもはや主権的権力ではなく、公共的役務を創造し管理するために権力を使用する個人の集団である。 以上のデュギーの国家観と似ているのがM. オリュウ(1856~1929)のそれである。 彼は、国家を一個の主権団体と扱わないで、公共役務機能を果たす諸制度(組織)の一つとみて、法人格としての国家の有する公権力(命令権)を、公法上の要素とは考えないのである。 これらの立場は、国家の命令権を国家の本質とはみない興味深い把握の仕方をみせる。 ところがそれは、個人だけを思考の基礎とする「方法論的個人主義」に徹したために、かえって国家の本質を見逃した。 そればかりでなく、社会の連帯を強調したために、民族主義的な連帯感情を刺激して危険な帰結をもたらしたのである。 公法から権力の観念を除いて「管理」を説き、公法の基礎として統治者の社会的機能(公共役務)だけを据え置く思考は、失敗する運命にあった。 その理論は、万人に対して、公共役務に相応しい義務を押し付け、公法の体系を義務の体系へと変質させた。 そればかりでなく、公共役務の増加は、皮肉にも、納税者の責務と統治者の権力を増加させるばかりである。 統治者の行為は権力作用ではなく「管理行為」であると説明しても解決にはならなかったのである。 デュギー、オリュウの時代は、サン・シモン(1760~1825)やA. コント(1798~1857)に代表されるように、フランス特有の科学主義の蔓延した時代であった。 彼らは、個々の科学(実証主義)的知識に期待して、形而上学的道徳に代わる実証主義的道徳のもとで、支配に代わる管理という公共役務を計画・設計する制度(組織)としての国家を夢想したのである。 しかし、国家という機構は、技術者の手による計画・設計のもとに置いて捉えきれるものではなかった。 **[9] (九)多元的国家論は社会集団を出発点とした 右のフランスの国家論が、フランスの思想家としては珍しく個人を出発点としたのに対して、20世紀イギリスに登場した多元的国家論は、政治過程に噴出した多様な利益集団こそ政治の重要な要素となって機能している現実を直視した。 そして、「個人 対 国家」という図式に代えて「社会集団 対 国家(政府)」を軸に、個人的自由の観念を再構成しようとした(イギリス的「方法論的集団主義」)。 H. ラスキ(1893~1950)を代表とする多元的国家論者は、権力が多くの集団に分散されればされるほど、各人はより自由となる、と考えた。 彼らは、国家といえども社会のなかに生成する集団の一つであって、主権的権力者ではないとみた。 多元的国家においては、全能で包括的な権威の唯一の源泉など存在しないのである。 この多元的国家論の目論見は、ボダン以来の国家の最高の命令権としての主権概念を否定して、国家の役割を、デュギーが主張したような、国家構成員の最高・最善の生活のための調整に限定しようとするところにあった。 もっとも、「社会集団/国家」でいう「国家」については、彼らの多くは、その正確な分析を示さなかった。 また、国家の限定的な調整役によって、多元的な利益が構成員全員にとっての利益となる、との証明も為されなかった。 一人が多数の社会集団に属していれば、権力は分散されて自由な国家がもたらされる、と信奉する多元論の楽観的立場は明白であった。 現実の多元的集団は、一般的・抽象的ルールから自分だけの免除を求める政治勢力となって、民主過程に進出し、自由を歪めてきたのである。 難点は、そればかりでない。 多元論者は、結社(集団)が、国家と同様に偏狭で、個人の自由にとって外在的抑圧者であることを軽視した。 多元論の前提には、人格的存在としての個人の集合体である結社は、同時に、人格的である、との想定が働いているように見受けられる。 ところが、現実の結社は、マフィアから圧力団体まで、多種多様であり、国家による規制の必要性の程度も一様ではない。 規制の必要な程度、対象を吟味しないまま、調整役としての国家を語るだけの理論の不十分さは、明白である(黒田覚「多元的国家論と政治概念」法学論叢31巻6号931頁)。 **[10] (十)国家はどこまでも強制する国家である 我々は、アナーキー状態で共存することは出来ない。 かといって、資源も限られ、人々の利害も対立しているという現実を直視すれば、ユートピアの実現も簡単ではない。 アナーキー状態を回避し、少しでもユートピア社会に近づくために、国家には、国家構成員に対して強制しうる法力(統治権)が与えられる。 この統治権を有する国家は、他の社会集団と同質ではない。 なるほど国家の支配は、命令によって為されてはならない。 しかし、命令ではないからといって、国家は国家構成員の利害の調整という公役務を遂行するわけではない。 国家はあくまで国家であって、他者を強制する正当な権限を法的に独占している特殊な機構である。 C. シュミットが、政治的なるものの概念が国家の本質を成すとみたのも、こうした観点に出たからであった。 **[11] (十一)「現代国家」は二つの顔をもつ 近代国家と対照されるものに「現代国家」と呼ばれるものがある。 現代国家の正確な性格づけについては、定見をみないものの |①|原子化したマス(大衆)を統合するための利益集団が政治過程に噴出している国家、中でも、政党によって指導されている国家、| |②|財政・金融政策によって積極的に経済市場に介入している国家、| |③|国民の所得再分配に関与する国家、| |④|その活動量の増大に伴って、専門職業集団としての公務員が増大し、彼らによって為される政策立案が国家の基本方針を実質的に決定している国家| を指して言われているようである。 この現代国家は、権力組織としての顔と、実質的平等・実体的正義の実現や国民の生存配慮などといった高次の目的にも仕えようとする二つの顔をもつ。 こうした近代国家から現代国家への変化は、政党の憲法上の地位、福祉政策と自由との対立、官僚制の法的統制といった「現代立憲主義」に特有な課題を憲法学に背負い込ませることになる(政党については第12章を、現代立憲主義については [83]~[92] を参照)。 |【表1】|国家の展開| |>|中世封建社会の崩壊 → (16世紀) 絶対主義国家の誕生 → (17~18世紀)近代国家へ → (18世紀) 近代立憲国家 → (20世紀) 「現代立憲国家」or階級国家を超克せんとする社会主義国家| ---- *■第二節 国家の諸要素の法的地位 **[12] (一)ドイツ国家学は「支配機構」としてよりも「団体」として国家を捉えた 国家(state)とは、もともと一元的な支配機構を意味した。 一元的な支配が「統治」と呼ばれた([402]もみよ)。 16~17世紀においては、重層的な封建支配システムを一元的機構にまとめあげた絶対君主の支配機構が国家であった。 これに対して、近代市民革命は支配機構の正当性の基礎を君主から国民に置き換えた。 後の [113]~[117] でみるフランスの国民主権論争は、国民による支配機構を正当化するための議論であった。 これに対して、市民革命の挫折を経験したドイツでは、君主と国民とを包み込む、独特の「団体としての国家概念」が打ち立てられた。 それ以来、機構として国家を捉えないで、国家を団体として抽象的に捉える国家学(方法論的集団主義)が隆盛を極めることになる(巻末の人名解説をみよ)。 G. イェリネック(1851~1911)の次のような国家法人説は、その頂点に位置する。 国家法人説は、国家を、①領土、②国民、③主権の三要素から成ると捉える。 国家法人説は、国家の三要素を羅列しているわけではなく、これらの関係を法的に統合して、法的団体としての国家の姿を解明しようとしたのである(これに対して、マルクス主義の国家観は、機構としての国家を視座にして、官僚制、警察、軍事機構から成る支配装置から国家を特徴づけようとした)。 以下の(ニ)~(四)において、まず国家の三要素の意義を検討して、その後に、次節の [16]~[19] において、それらを法的に統合するイェリネックを中心とする法的国家観を検討しよう。 **[13] (ニ)国家が支配行為を展開する地域を領土という 国家はその存立のための地域を必要とする。 国家が支配行為を展開する地域を「領土」という。 その地域の法的意味は、他の支配を排除するという消極面と、その上に住む人々に支配権を及ぼすという積極面とに、分れる。 領土の上で行使される国家権力を「領土高権」という。 領土の範囲は、領有事実に対する黙示的承認または明示的合意たる条約によって定められる。 憲法典でこれを定めても、その範囲は国際法的に決定される事項であるために、無力である(我が国の場合、ポツダム宣言によって、その範囲は「本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラル」と決せられている)。 **[14] (三)国家に所属する人間の全体を国民という 国家を成立せしめている構成員の総体を「国民」という。 国家に所属しその構成員となる国民は、国家権力の主体としての地位に立つ場合(主体としての国民、または、能動的な地位を占める国民)と、国家行為の対象となる場合(客体としての国民、または、義務の主体としての国民)とに分けられる。 絶対主義国家においては、国民は専ら後者の地位にあった。 近代立憲主義国家においては、国民は双方の地位を持つと同時に、基本権の主体ともなる。 国民となる資格(権利享有の基礎)を「国籍」という。 何人が国民となるかは国内法によって決せられる。 我が憲法も「国民たる要件は、法律でこれを定める」(10条)という(国籍の法的性質については、『憲法理論Ⅱ』 [148] でふれる)。 **[15] (四)主権概念は歴史上さまざまな変転をみせる 団体としての国家は、始源的な意思力を持ち、対外的にはその意思の独立性を、対内的には、その意思の最高性を主張できるとされる。 こうした国家の独立・最高の法的支配権を「主権」(sovereignty)という。 もっとも、この国家の主権という概念が成立するまでに、sovereignty なる概念は、複雑な歴史的変転を示した。 その変転は次のごとくである。 |(ア)|中世ヨーロッパにおいては、sovereignty とは、皇帝と法王の支配権のいずれが「優越的」か、という意味で用いられたり、第一の高位を有する全ての者の権威を表すものとして用いられたりした。| |(イ)|その後、国王が、片や、国内の封建諸侯のもつ支配権を統合し、片や、法王からの独立を勝ち取るなかで絶対主義国家が成立すると([2]参照)、主権は、高位者のうちでの第一の者、すなわち君主に関してのみ用いられるようになる。&br()この時点で、それは法王の支配権を否定するための防御的概念から、君主の支配権を支えるための権力的・攻撃的概念へと構成し直されるものの、それでもなお君主の権力の属性を表す概念にとどまった。&br()ところが主権なる用語は、やがて、君主の権力そのものを指すようになる。&br()その用法を初めて示したのが、J. ボダンの『国家論』六篇(1576年)である。&br()ボダンは「国外のあらゆるものは王を拘束しえず、・・・・・・国内のすべての権力は王からの派生物に過ぎない」と説き、①対外的な独立性、②対内的最高性のみならず、その③始源的性格にも言及した。&br()さらに主権の理論的体系化に当って参考にされたのが、ローマ法上のイムペリウム(imperium)、ドミニウム(dominium)という概念であった(【N. B. 3】参照)。| |(ウ)|君主という一人格が有する命令権としての主権に対抗する形で、市民革命時に人民は、人民という一人格の有する主権概念を君主に叩きつけた。&br()ここにおいて、主権は国家内権力の源を問う概念となる。&br()それが、「国民主権」といわれる場合の用法である。&br()この場合の主権とは、通常は、全体としての国民の意思作用を指す。&br()その思考は、かつての君主という一人格の意思に代えて、国民という一人格の意思に据え代える単純な同型の理論であった。| |(エ)|さらには、19世紀後半になると、次節にふれるイェリネックの国家法人説のように、法人としての国家が有する権利をもって主権と捉える立場も登場する(この国家法人説は「方法論的集団主義」の結晶である)。| こうした歴史的変転を背景にして、主権なる用語は、次のように様々な意義を持つものとして用いられる。 |①|伝統的または伝来的な支配権とは区別される、始源的な国家の法的支配権そのもの、または、意思力を指す場合。ときに、それは「国権」と呼ばれることもある。| |②|国際社会における国の対外的独立性を指す場合。| |③|法人としての国家が有する権利を総称する場合。これは「統治権」とも呼ばれる。| |④|最終的支配意思の源を指す場合。これは、国家の統治のあり方を最終的に決定する力または権威が誰に帰属するか、を問う場合の用法である。| |⑤|また、主権とは、具体的政治機関のうち、優越的な決定権をもつ機関を指す場合がある(イギリスに於いては、「議会主権」となっている、と言われる如し)。| 右のうち、④ないし⑤の用法は、国家論において議論する主権概念とは異質である。 |【N. B. 3】|ローマ法上の概念と主権との関連性について。| |>|権利と主権的権力という概念は、それぞれローマ法にいうドミニウム(個人の所有権)とイムペリウム(支配者の命令する絶対不可分の権利)から派生した。&br()ローマ法は、個人または団体の他者に対して強制する能力を、この二つの権利として形而上学的に構成したのだった。&br()この二つのローマ法上の概念は、13世紀にはほぼ姿を消していたにも拘らず、これらを復活させたのは、17世紀末のフランス君主制とそれに手を貸した法律家(今日いう法実証主義者)たちであった。&br()彼らは、国家を人格化して、その意思によって法が創造されるとか、国家なる人格が命令権をもつと説いた。&br()そして、国家なる人格は、君主という一人の人格に化体して体現される、と説かれた。&br()その思考のもとで、フランスにおいては、裁判権により全ての者に対し平和を保持する君主の権利(命令権)がイムペリウムの中心的要素であり、君主の領主権(領土所有権)がドミニウムであるとされた。&br()かくて18世紀には、主権とは君主の有する絶対不可分の命令権をいう、とする用法が定着したのである。&br()その後の近代国家においては、イムペリウムの発現形式が立法権、行政権、裁判権とされ、その実体はあくまで不可分の権利であるとされたのである。| ---- *■第三節 法的国家観 **[16] (一)イェリネックは国家を権利主体としての社団と把握する イェリネックの国家法人説は、右にみた領土、国民および主権という三要素を、権利主体としての国家という基軸のもとで相互に関連づけることに成功した(イェリネックは「この理論によってのみ国家の統一性、国家組織の統一性、意思の統一性も法学的に説明できる」と自負する)。 ではなぜ、国家は主体たりうるのか。 それを考察するために彼は事実の認識から始めて、規範的分析に至る方法をとる(方法ニ元論。また、[151]でふれるように、事実の反復から法が発生するとの彼の憲法変遷論もこれと軌を一にする)。 彼は、国家をまず社会学的に認識して、国家は「(構成員の服従を承認する意思によって)始源的な支配力を付与された、定住せる人間の団体統一体」とみる。 人々の意思関係を統一するもの、それが団体目的である(国家という団体の目的については、[26]~[28]でふれる)。 次に彼は、社会学的に把握された国家を法的に理論構成して、こういう。  法的に捉えられる国家は、統一的団体目的をもった権利主体としての社団(法人格を有する社団)であって、始源的な支配力を備えた定住せる国民の社団または始源的支配力を備えた領土社団である(なお、「始源的」とは、伝統的、伝来的と対比される、という意味である)。 以上のイェリネック理論は、擬人的発想に立って、国家とは一定目的のもとに組織された「人」、すなわち始源的支配権の主体たる「法人」であると捉え、その支配権が国家にとっては権利である、とする。 国家の個人に対する命令は、この権利の行使に他ならない。 **[17] (ニ)国家法人説は「権利」と「権力」との区別を真剣に受けとめていない 国家を「権利」主体と構成することは、国際法上の技術的理解にとって、または、権利義務の帰属先を明確化する際には有用であろう。 しかし、国内法上、国家を擬人的に権利主体としながら、その権利が同時に「統治権力」となると説くことは、「権利」と「権力」との本質的違いを問わないことになろう。 権力の行使のなかに権利の行使をみるのは、大きな誤りである。 また、構成員の服従意思から始源的支配力を説くことは、ホッブズ流の無制限の国家を容認することとなる。 確かに、イェリネックは、ときに国家の自己拘束の理論から、またときに、人間の「人格的存在」という性質から、国家は無制約ではないことを説いた。 しかし、自己拘束は国家の恣意的意思に一方的に依存するに過ぎず、国家の本来的絶対万能性を前提とするものであり、また、「人格的存在」が何を意味するか明らかにされている訳ではない(「人格的存在」から説くイェリネックの公権論については、『憲法理論Ⅱ』 [91] でふれる)。 |>|>|【表2】イェリネックの国家観| |①社会学的にみた国家 |=|始源的支配力をもつ人的団体統一体| |②法的にみた国家   |=|始源的支配力をもつ領土社団(法人)| **[18] (三)国家法人説は技術的でもあり、イデオロギッシュでもある 国家法人説は、国家が支配の主体となり、その行為は機関によって遂行され、その効果は国家に帰属することを、法技術的に見事に解明した。 そればかりでなく、国家の最高権力(主権)は、国家内の最高権力(統治権)とは無関係であることを明らかにして、混同されやすい主権と統治権とを見事に峻別する。 すなわち、統治権は、国家の権利であるから分割可能であるのに対して、国家主権は単一不可分である、という理論が貫徹されているのである。 こうした明晰性をもつ彼の理論は、当時の時代状況を反映して、従来の保守的な君主主権論を基礎づける訳でもなく、当時のラディカルな国民主権論にも与しない、第三の中庸な国家論となっている。 彼は、国家の主権が、君主でもなく、国民でもなく、法人たる国家自体に帰属するということによって、君主または国民を国家内の一機関としてとどめたのである。 ところが、国家の主権を論ずる段となると、彼は国家支配権の本質的万能性を前面に出し、支配すること(始源的権力を有すること)が、国家を他の全ての権力から区別させる基準であるとみて、曰く。  「国家の本質は多数人の意思関係である。命令する人と、この命令に服従することを承認する人が国家の基礎を成す」(もっとも、近代国家においては、イェリネックにおいても、国家支配権は、後の [27] でふれる国家の目的からして、内在的に法的に秩序づけられている、と論じられている)。 **[19] (四)ケルゼンは法秩序そのものを国家とみる イェリネックの如くに多数人の服従意思によって国家を正当化することは、実は、「特定集団の意思・利益=国家」となり易いのではないか、とH. ケルゼン(1881~1973)には思えた(巻末の人名解説をみよ)。 また、彼にとって、事実から規範が生ずるとする方法二元論は実証主義哲学の前には、ありえないものと映った。 「当為は当為によってのみ、規範は規範によってのみ基礎づけられる」と考えるケルゼンは、そこで、従来の因果的国家論に代えて、規範的国家論を説く。 その成果が、国家を法秩序とみる規範的国家観である(彼の国家観については、後の [33] でふれる)。 なるほど、規範による政治権力の統制を目指すことは、理解しうるとしても、当為がなぜ当為を正当化するのか、ケルゼン理論には謎が多い。 彼のいう法実証主義も、根本規範も、それへの解答となりうるとは思われない。 彼の理論は、現実に支配する国家を、規範の名で正当化してしまうイデオロギッシュな理論となる危険性すら孕んでいる(根本規範については、後の [94] でふれる)。 国家は、法の支配を維持するための機構であって、それ自体が法秩序である、という命題によって国家の本質が解明されることはない(J. マリタン著、久保正幡=稲垣良典訳『人間と国家』37頁参照)。 ---- *■第四節 国家の正当化論(何ゆえに各人が国家を承認し、国家に服従するのか) **[20] (一)国家の存在とその正当化理由は常に論争されてきた アリストテレスがその著書『政治学』において、共同体はいずれも共同善を実現するために設立されたと説いて以来、国家の目的に関する話題は、長く国家学の根本問題とされてきた。 ところが、ロマン主義によって、この問題の立て方が否定され、《国家は自己目的的である》といわれた段階から、国家学の課題から排除されてしまった。 憲法学が限定化されて、その対象から国家学や国法学が放擲されたのは、その為である。 我々は、国家の目的を考えることから再出発しなければならない。 国家とは、「一定の地域を基盤として、その所属員の包括的な共同目的の達成を目的に、固有の支配権によって統一された非限時的の団体である」といわれる(佐藤・54頁)。 確かに、国家に独特の標識は、支配権を合法的に独占していることにあるものの、「共同目的の達成」の内容の捉え方は、論者によって様々である。 また、国家を統一的な団体として、あたかも実体として実在するかのように把握することが正しいか否かについても、論者の間に鋭い対立がある。 右にみた国家の定義は、国家が実在する団体であり、法人である、という伝統的把握の仕方の名残を感じさせる。 国家は、実在する団体ではなく、様々な制度、団体、権限の組み合わせを抽象化した際に顕現する機構である。 こうした論争は、国家とは何か、その存在理由はどこにあるか、如何なる国家であれば正当化されるか、といった争点と不可分である。 これらの争点は、抽象的で取りとめもない議論へと我々を誘う。 そこで、論者によっては、国家について語ることを断念し、「政府(【N. B. 4】参照)」についてのみ考察すべきである、とする者もある。 しかしながら、国家と政府とは、同義ではない。 政府の変更が国家の変更とはならないことからしても、同義ではないことは直ぐに了知されよう。 |>|【N. B. 4】「政府」の意義に関する三つのタイプについて。| |>|政府(government)の意義については、三つの流れがある。| |①|一つは、イギリスのそれであり、法律を誠実に執行する職務またはそのための組織体、すなわち、行政府を意味する。| |②|これに対して、アメリカでは、政府とは、政治の舵取り役または公権力を指し、執政府のみならず、立法府および司法府をも含めた意味で用いられる。| |③|ドイツやフランス等の大陸諸国でのそれは、概して、大統領制の場合のように、権力分立内での執政府に限定して用いられている。| なお、「内閣」と「政府」との区別については、[197]参照。 **[21] (二)国家は常にその正当性を主張してきた 国家の国家たる本質は、既に [10] で述べたように、強制の権力手段を独占している点にある。 その権力手段は、政治権力と呼ばれることが多い。 このことから、「政治的」と「国家的」とがしばしば同義語として用いられる。 政治権力は、なまの実力であってはならない。 政治権力は、何らかの意味において、服従者の、権力への自覚的な承認であり、この承認なくしては、権力は単なる剥き出しの暴力となってしまう。 換言すれば、国家が政治権力の保持者であるためには、治者の権力プラス正当性を必要とする。 その正当性を、すべての歴史上の国家は求めてきた(ダンドレーブ『国家とは何か』参照)。 「実力を法に、恐怖を尊敬に、強制を同意に変形させる」ための理論が必要とされてきたのである。 力は権威を生み出さず、人は正当な権威にのみ従う義務を負うのである(ルソー)。 **[22] (三)現代国家は「基礎をもたない支配システム」となりつつある ところが、現代国家は、貨幣と官僚という手段合理性を重視するシステムによって規定され、その権力創出の源泉としての民衆のコンセンサスという基盤から不断に離脱していく傾向をみせている(「基礎をもたない支配システム」といわれる)。 一方で国民の脱政治化(私生活中心主義)が進み、他方で政治権力の自己目的化が進む中で、特に、現代国家の正当性が根本から問われなければならない。 **[23] (四)国家の正当性を問う理論は次第に合理的なものとなっていく 歴史上、国家正当化論としては、次のような諸説がみられた。 |①|宗教的・神学的基礎づけ(典型的には、王権神授説)&br()これは、国家が神によって創られ、または神の摂理によって存在するものであり、従って、何人も神の命令により国家を承認し、その秩序に服する義務を負うとする立場である。&br()ところが、この見解は、神学の衰退とともに、その不合理な神秘性を露わにして、以後、影響力を失う。| |②|実力説&br()これは、国家が強者による弱者の支配機構であると理解し、この支配関係は自然の法則によって基礎づけられたものである、とする。&br()この見解は、古くはソフィストたち(紀元前5世紀後半)によって信奉された。&br()近くは、マルクス、F. エンゲルス(1820~95)が「国家は全ての典型的時期において例外なく支配階級の国家であり、またあらゆる場合において本質的に被抑圧階級、被搾取階級を抑圧するための機関である」と述べたところに典型的に表れている。&br()ところが、こうした見解は、国家の否定的側面を強調するばかりであって、「実力説の実際的帰結は、国家を基礎づけることにはならず、国家の破壊に至る」であろう(イェリネック『一般国家学』156頁)。| |③|家父長説&br()これは、国家を拡張された家族とみて、家父長としての君主が子としての臣民を正当に支配する、とする立場である(R. フィルマー(1588~1653)の『族父論』に代表される見解。M. ウェーバーは、この説を「伝統的支配」の原型と考えた)。&br()G. ヘーゲル(1770~1831)が理想とした人倫国家は、自然的愛情を基礎とする家族を範型にして説かれた。&br()人倫国家においては、慈愛あふれる君主が臣民を統治するのである。| |④|契約説&br()これは、各人が国家の形成に合意したからこそ、その国家は正当であるとする意思中心の理論である。&br()プラトン(紀元前427~347)以来、人々は自由意思により不正行為から自らを守るために国家を形成した、と説かれてきた。&br()ところが、歴史的にまず前面に登場したのは、「契約によって生まれるのは、国家そのものではなく、王である」とする統治契約の考え方であった。&br()つまり、これは、王への服従契約を説くのである。&br()それが、ホッブズの理論として完成された。&br()彼の理論は、神秘的な王権神授説に代わって、支配者の権利のための合理的な論拠を見出すことを目的としていた。&br()これまでの政治理論が契約に先立つ社会集団としての人民を想定していたのに対して、彼の理論は、原子論的個人を出発点とした。&br()ここに、初めて、個人が国家と対面することになったのである。&br()&br()これに対して、それ以降の契約論は、個々人(正確には、所有権主体である家長)の自由意思による合理的国家(市民の政治的統一体)の成立を説明すべく登場した。&br()まず、J. ロック(1632~1704)の社会契約論は、アダムの子孫たる我々の自由な合意によって国家が成立する、との聖書の解釈を前提とした(巻末の人名解説をみよ)。&br()そのうえで彼は、自然状態のなかで人々は完全に自由であるものの、様々な不都合があるために、その救済策として市民政府を合意によって作り上げる、と説いた。&br()その論証のために、彼は、「意思の一致→『契約は守られなければならない』という客観的当為(規範)→正当な服従義務」という公式を援用したのである。&br()ところが、この理論は、自然状態の不都合と国家の発生との論理的関係につき明晰さを欠くばかりでなく、人々の合意形成の実体に関しても曖昧なところを残したままである。&br()次に、J. ルソー(1712~78)の社会契約論は「契約によって一つの精神的で集合的な団体が成立する」との前提に立った(巻末の人名解説をみよ)。&br()「その団体は、この同じ行為から、その統一、・・・・・・その生命およびその意思を受けとる。このように、全ての人々の結合によって形成される&br()この公的人格は、かつては都市(シテ)という名前をもっていたが、今では共和国または政治体という名前をもっている」と説く(『社会契約論』第一編第六章)。&br()これは、政治的統一体の一般意思に各人の意思が含まれる故に正当であり、各人は自己を強制するだけである、故に、一般意思を脅威と感ずる必要もない、とする楽観論でもあり、集団意思中心主義の議論でもある。&br()彼の社会契約論は、正当な国家の成立と、自由の保障の必然性を見事に説いたかのようにみえる。&br()しかしながら、彼のいう社会契約は、服従契約でもあった。&br()すなわち、市民としての各人は、契約によって、共同体意思に参加するものの、同時に、臣民として共同体意思に服従するのである。&br()ルソーは、この二面性をディレンマとは考えなかったのである(この点は、I. カント(1724~1804)の理論も同型である。彼は、人民が原始的契約によって国家を構成し、これによって自己の自由を放棄するものの、即座にその自由を共同体すなわち国家の一構成員として受け取る、とナイーヴに考えている)。&br()&br()現実の統治は、一般意思による統治ではない。&br()それでも、ルソーは、多数によって決せられる事態につき「私の意見に反対の意見が勝つときには、それは、私が間違っていたこと、私が一般意思だと思っていたものが、実はそうではなかった、ということを、証明しているに過ぎない」と解答するのみである(『社会契約論』第四編第二章)。&br()その解答は大胆すぎる。&br()「大多数の意思はあくまでも大多数の意思であって、『人民』の意思でないことは明白である。人民の意思は大多数の意思によっては到底『代表』され得ない積み木細工の如きもの」(J. シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義 [中巻]』509頁)と考える方が正しい。&br()何ら実体のない「集団的意思」や「集団精神」といった語の使用は、避けなければならない。&br()後にふれる人民(プープル)主権論は([108]参照)、その類の意思を基礎とするだけに脆弱である。| **[24] (五)社会契約論が今日まで最も影響力をもってきている 以上の諸理論のうち、今日まで最も強い影響力をもってきたのは、社会契約論であった。 この理論は、支配者と被支配者との自然的秩序を、個々人が人為(意思、合意)によって解体することを目指した。 ところが、この社会契約論も、歴史的根拠に欠ける、と常に批判されてきた。 しかし、この批判は決定的ではない。 契約論者は、合理的な国家のあり方を説いたのである。 とはいえ、その論理には、一度の同意でなぜ人々を恒久的に拘束できるのか、という決定的な疑問が残されている。 「人民の同意によって発生する主権」は、「神の恩恵による主権(神授権)」を否定するところでその役割は終わるのではないか(A. コント)、とか、契約であれば、人民は解除の自由を有するはずで、この理論は国家を基礎づけるのではなく国家を解体することになRないか(イェリネック)、などの批判が寄せられてきたのも当然である。 しかしながら、こうした批判を徹底すれば、法の継続性を無視することになるばかりでなく、近代国家の正当性を、可能な限り、合法性のなかに取り込もうとする立憲主義思想をも無視することになる。 社会契約を解除する自由は、法の継続性および国家の合法性という前提によって拘束を受けており、その例外として存在するのは、[136] でふれる国民の抵抗権だけである。 社会契約説には、様々な欠陥や疑問点があるとはいえ、それは、法思想史上、無視できないほどの貢献をみせた。 それは、契約の主体が、主体であることをやめないで、さらに自らを客体となる、と説く、一見、見事な論理であった。 イェリネックが指摘するように、自由権の理念、法治国家建設の要請および個人的公権の司法的救済の要請等は全て、契約説に帰せられるのである。 契約説は、新しい国民主権論と密接に結合することによって、国家存在の正当化理由、統治権限の淵源、その統治権限を制約する自然権等を、一つの仮設体系のなかで明らかにして身分制社会、絶対王政を打倒する重要な役割を果たした。 そして、社会契約的発想は、[89]~[90] でふれるR. ノージックやJ. ロールズといった今日の政治哲学者にも深い影響を与えている(巻末の人名解説をみよ)。 その今日の社会契約論的な思考は、「方法論的個人主義」によりながら、個々人の意思を超えるルールや秩序の生まれ出る源を解明しようとするのである。 **[25] (六)国家の正当化は国家目的とも関連する これまで歴史的に論じられてきた国家正当化論は、抽象的形而上学的思索の産物であった。 この思索上の産物をもってしては、現実に存在する、または歴史的に存在してきた国家を全面的に正当化することは不可能である。 国家がなぜ正当化されるかという問題点は、現実の当該国家が果たす目的によってのみ正当化される。 かくして、我々の考察は、国家目的論へと移行する。 ---- *■第五節 国家目的論(国家によって何を目指すか) **[26] (一)法的な国家観は国家目的を真剣に論ずる M. ウェーバー(1864~1920)のように、国家目的は多種多様であって確定すること困難とみて、国家の性格を暴力行使という手段によってのみ定義しようとする立場もありえよう(『社会学の根本概念』15頁)。 しかし、それはあくまで社会学的な観点からみた結論である。 法の視点から国家を考えるとすれば、既に指摘したように、国家を国家たらしめるものが、単に権力以上のものであることを真剣に受けとめなければならない。 国家を国家足らしめているものは、ひとり国家のみが為し得る課題・目的である。 **[27] (二)国家目的をめぐって絶対的、相対的理論の二つがある 国家が目的統一体であると考えられている以上、その目的が明らかにされなければならない。 その目的については、歴史上、様々に論議されてきた。 その方向には、二つのものがみられる。 一つは、歴史・時間を超越した国家目的を観念的に探る絶対(理念)的目的論であり、他の一つは歴史的に変化する具体的な目的を探る相対的(個別的)目的論である。 ここで議論する国家目的論は、現実に存在する国家について問おうとする相対的目的論である。 イェリネックの提唱した国家法人説は、実は、絶対的国家目的論に代わる、相対的目的論の産物であった。 彼は、法人としての国家の目的が、個人、国民および人類の連帯的諸利益を全体の進歩的な発展という方向で満足させることにある、と結論した。 しかしながらこの見解に対しては、 ①個人、国民、人類を同一レヴェルに置いてよいか、 ②「連帯利益」は、多数者の名における人権抑制を正当化するのではないか、 ③全体として、なお理念的に過ぎないか、 といった疑問を抱かざるを得ない。 **[28] (三)経験論的な国家目的論が最も参考となる 我々にとっては、大陸的な啓蒙哲学の説く国家目的論よりも、スコットランド啓蒙思想の流れを汲む経験論的な議論のほうが参考になる。 例えば、D. ヒューム(1711~76)は、①所有の安定性、②同意による財産譲渡、および③約束の履行、という三つの基本的な法の遵守を維持することを国家統治の目的と考えた。 また、H. ハート(1907~1992)に従って、「大抵の人間は通常生き続けることを望むという極めて偶然的な事実」を仮定して、共に上手く生存しようとする慎ましい目的の維持を、ここで挙げてもよい。 これらの経験論的国家目的論からすれば、F. ハイエク(1899~1992)の言う如く、国家や国民を一つの独立した集合体として論ずること自体全く幻想と映る(巻末の人名解説をみよ)。 国家や国民を擬人的に捉えて、一つの実在する意思を有すると説くこと(方法論的集団主義)は、避けられるべき過度の単純化である。 国家の存在目的は、各人が互いに自由に各自の望むところを望むやり方で追求するなかで自生的に出てきた秩序を維持し、確認することによって、我々の共生を上手く実現させることにある。 そのためのルールが法というルールである。 国家が独占する実力・強制力は、法というルールのもとにあって、その枠内でのみ行使されるなら、正当である。 法というルールの本質と機能とを明らかにすることが、本書を通じての課題である。

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