従軍慰安婦問題の年表

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従軍慰安婦問題の年表 - (2009/09/08 (火) 00:06:42) のソース

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*戦前から戦中・戦後まで
|明治5年(1872)10月2日|大政官布告第295号『[[人身売買同様ノ所業ヲ禁シ娼芸妓年季奉公人一切解放]]』|この布告により、江戸時代から続いた人身売買の慣習を禁じて、娼妓(しょうぎ)を解放しました。※1|
|――|――|やがて、娼妓は建前として、貸座敷業者から部屋を借りて売春を営むようになります。|
|――|――|そして、国際的な世間体のために、国家が関与するのを避けようとして、取り締まりや保護などの細部を地方自治体に委ねました。|
|――|――|その後、終身拘束を無くし、前借金(ぜんしゃくきん)と返済のための年季契約を導入しました。政府は登録・検診による精微な法体系や統制方式を作り上げてゆきます。 ※2|
|――|――|官として統制しやすいように集娼方式が好まれました。集娼によって娼妓が1つの地域に集まった所を「遊郭」と呼びます。※3|
|――|――|しかし、娼妓が自由を奪われている現状は変わらず、救世軍による廃娼運動が盛り上がりました。|
|明治33年(1900)10月|内務省令第44号『[[娼妓取締規則]]』|全国的な統一基準を制定。この規則によって近代公娼制度の確立となった。前借金が残っていても廃業の自由が認められる、居住・営業場所の制限、検診の義務化、18歳という年齢制限等が定めました。|
|――|――|しかし、必ずしも実態が改善した訳ではありませんでした。年齢制限などは有名無実になります。取り締まりを強化するほど私娼が繁昌し、検診制度の効果を低下させました。|
|――|――|この規則は狭義の娼妓しか対象とせず、地方自治体に委ねた部分が少なくありませんでした。そのため、法の目をかいくぐろうとする売春業者、廃娼運動家、その中で板ばさみになる警察との間で泥沼状態になってゆきます。※4|
|大正時代(1912~)|――|酌婦(しゃくふ)といって「料理店で飲酒の接待をする」という建前で売春をする人が出現しました。|
|昭和時代(1926~)|――|酌婦は年齢制限がゆるく、前借金が安いので、大正から昭和までに激増しました。|
|――|――|この時期、カフェ・バーの女給やダンサーなどが売春予備軍とされました。実際に娼妓などへ転向した人も少なくなかったのです。|
|昭和31年(1956)5月24日|法律第18号『売春防止法』|これにより売春は完全に禁止されました。|
※1、吉原の娼妓の事を花魁(おいらん)といいます。
※2、藤目ゆき助教授(フジメユキじょきょうじゅ)によると、これは欧州の近代公娼制を参考にした物であるといいます。実際にフランスの警察制度を学んだ初代警視総監、川路利良の影響が大きいと評しています。
※3、散娼と集娼という種類があり、前者は娼妓が個々に諸処へ散在して売淫する、後者は表に書いてある通りです。
※4、娼妓以外には、芸妓(げいぎ)という「芸を売る」人がいました。実際には娼妓と芸妓を兼務する人が多かった。その人たちは2枚の免許を持つので「2枚鑑札(にまいかんさつ)」と呼ばれました。地方自治体の中にも「芸娼妓取締規則」というように、両者まとめて規則を設けました。
*戦後から現在まで
|昭和47年(1972)|女性史研究家の山崎朋子が、山崎朋子 著『サンダカン八番娼館 底辺女性史序章』(筑摩書房 刊)を出版する。|海外に渡って娼婦になった日本人の女性たち、「からゆきさん」を取材した書籍。|
|昭和48年(1973)|千田夏光 著『従軍慰安婦 “声なき女"八万人の告発』(双葉社 刊)が出版される。|「慰安婦」という言葉に勝手に「従軍」などという接頭語をつけたのはこの書籍が初めてであり、この造語の作者が著者、千田夏光である。|
|昭和49年(1974)|千田夏光 著『従軍慰安婦 続(償われざる女八万人の慟哭)』(双葉社 刊)が出版される。|〃|
|昭和50年(1975)|禾晴道 著『海軍特別警察隊 アンボン島BC級戦犯の手記』(太平出版社 刊)が出版される。|――|
|昭和51年(1976)|金一勉 著『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(三一書房 刊)が出版される。|――|
|昭和52年(1977)3月|吉田清治 著『朝鮮人慰安婦と日本人 元下関労報動員部長の手記』(新人物往来社 刊)が出版される。|労報に入るまでの苦労話と、下関での朝鮮人慰安婦調達に関わる体験談という内容。|
|12月|金一勉 著『軍隊慰安婦 戦争と人間の記録』(現代史出版会 刊)が出版される。|――|
|昭和53年(1978)12月|山田清吉 著『武漢兵站』(図書出版社 刊)が出版される。|――|
|昭和57年(1982)6月26日|『朝日新聞』が「日本の教科書が『華北への侵略』を『進出』に書き換えさせられた。」と報道する。|この記事を韓国の新聞が引用したときに「中国・韓国への侵略」と勝手に「韓国」を追加して報道した。|
|9月・11月|第一次サハリン裁判にて、吉田清治氏が済州島(チェジュとう)における朝鮮人の「奴隷狩り」を原告側の証人として証言した。|――|
|昭和58年(1983)7月|吉田清治 著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 刊)が出版。|――|
|12月|吉田清治が韓国に謝罪碑を建てるために訪韓する。|天安市の国立墓地に「元労報徴用隊長」の名義で建てた。|
|昭和59年(1984)5月26日|元慰安婦でタイ在住の朝鮮人が42年ぶりに韓国へ里帰り|――|
|昭和60年(1985)8月15日|「かにた婦人の村」(館山)に城田すず子の発意で慰安婦の碑を建立。|[[『朝日新聞』8月19日付け]]|
|昭和62年(1987)2月|ペ=ポンギの一代記である、川田文子 著『赤瓦の家 朝鮮から来た従軍慰安婦』(筑摩書房 刊)が出版。|――|
|昭和63年(1988)2月|韓国女性グループ{尹貞玉(ユン=ジョンオク)ら}の沖縄調査、元慰安婦ペ=ポンギと会見。|――|
|平成元年(1989)5月|朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を百人委員会事務局の青柳敦子局員が『朝日ジャーナル』(朝日新聞社 刊)に隔週で15回にわたって意見広告を掲載。|青柳敦子は大分県在住で勤務医を夫に持つ40歳の3児の母親、そして、朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を百人委員会の宋斗会代表は在日朝鮮人です。要するに朝鮮人が自ら「私達に謝れ」と、青柳局員を通じて言っているのです。しかも15回にわたって。|
|8月|吉田清治 著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 刊)が韓国にて朝鮮語に翻訳されチョンゲ研究所から出版。|――|
|8月14日|『済州新聞(チェジュしんぶん)』の許栄善記者が吉田清治の著書に関する現地調査をし、そのルポを発表。さらに郷土史家の金奉玉氏が追跡調査した。|これにより、吉田清治の著書がでたらめであると判明した。憤慨した金奉玉はこう言った。「この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と。|
|11月19日|青柳敦子・宋斗会の両氏が韓国において「慰安婦裁判の原告募集というビラをまく。|このビラには「訴訟費用を負担する」という条件が書いてある。ということは「勝訴すれば賠償金をもらえ、敗訴してもリスクはない。」、ノーリスクハイリターンという事になる。|
|平成2年(1990)1月4~24日|『ハンギョレ新聞』にて、韓国の梨花女子大学の尹貞玉教授が、「“挺身隊”怨念の足跡取材記」を連載。|――|
|3月|ソウルで遺族会とともに説明会|――|
|5月|韓国女性団体、訪日する盧大統領へ補償、謝罪を求める声明を発表|――|
|6月6日|参議院予算委員会において、日本社会党の本岡昭次議員が朝鮮人の強制連行に関する質問をする。|[[『参議院予算委員会会議録』平成2年6月6日付け]]|
|7月10日|韓国において「挺身隊研究会」が決済される。|後の「韓国挺身隊研究所」である。|
|10月17日|韓国の37の女性団体が当時の海部俊樹総理大臣に公開書簡を送付する。|この書簡には、6項目の要求が書かれていた。|
|11月16日|韓国において韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が発足する。|このときから毎週水曜日に慰安婦問題に関してデモを行うようになった。通称「水曜デモ」|
|平成3年(1991)4月1日|日本社会党の本岡昭次議員が再び質問する。|これに労働省の政府委員は「手がかりになる資料がない」という旨の答弁をする。|
|4月24日|在ソウル日本大使館が挺隊協の尹貞玉(ユン=ジョンオク)代表を呼び、「6項目の要求を拒否」を回答する。|――|
|5月22日|『朝日新聞』大阪版にて「木剣ふるい無理やり動員」という見出しで記事が掲載される。|内容は、吉田清治の慰安婦狩りの証言と、それに関する写真を掲載した。|
|8月11日|『朝日新聞』ソウル支局の植村隆記者が「元従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」との見出しで記事を掲載する。|――|
|8月14日|元慰安婦とされる金学順(キム=ハクスン)氏が記者会見を開く。|――|
|8月15日|『ハンギョレ新聞』の報道により、金学順(キム=ハクスン)が「親に売り飛ばされた」と証言していた事が発覚する。|――|
|10月10日|『朝日新聞』大阪版が井上祐雅編集委員による吉田清治のインタビューを掲載する。|――|
|12月6日|金学順(キム=ハクスン)ら3名の元慰安婦を含む32人の原告が日本政府を相手取り東京地方裁判所へ提訴する。|このときの原告の主任弁護士は高木健一弁護士である。|
|12月末~年始|中央大学の吉見義明教授が防衛庁防衛研究所図書館に行って慰安所関係を中心に資料を探す。同じ頃、千葉大学の秦郁彦教授は旧知の吉見教授から「資料の発見」と「近く新聞に出る」という事を聞いていた。|吉見が『世界』1992年3月号 (岩波書店 刊)にこの「資料発見の経緯」を載せた。|
|平成4年(1992)1月11日|『朝日新聞』朝刊の1面にて、辰濃哲郎記者が「慰安所、軍関与示す資料」という見出しで報じる。|辰濃記者が吉見教授から情報を入手したのは12月24日ごろなので、2週間以上も寝かされていたと思われる。|
|〃|韓国の報道機関が『朝日新聞』から引用して報道する。|『朝日新聞』夕刊より引用。|
|〃|韓国の当時の李相玉外相が韓国記者らに語る。|「韓日首脳会談では元従軍慰安婦問題に関する日本側の適切な立場表明があると考えている(後略)」『朝日新聞』夕刊より引用。|
|1月12日|朝日新聞社が朝刊に「歴史から目をそむけまい」と題した社説を載せる。|「16日からの宮沢首相の訪韓では……前向きの姿勢を望みたい」|
|1月13日|当時の加藤紘一官房長官が談話を発表。|通称「加藤談話」。これは事実調査をせぬままに『お詫びと反省』という内容を盛り込んでしまった談話であった。|
|〃|英字新聞『Japan Times』が当時の外務省の渡辺美智雄大臣の発言を誇張させて報道する。|11日夜のTV番組で「50年以上前の話、はっきり証拠ない」「何らかの関与は認めざるを得ない」という旨の発言をしたが、記事では「この発言は政治家が『日本軍がWWⅡ中に何10万人ものアジア人に対する強制売春に加担した』と初めて認めた」と、『朝日新聞』にさえ書いてないような事を付け加えた。|
|1月14日|韓国のマスコミが、「国民学校の生徒まで慰安婦にさせた」などと報道した。|これは慰安婦と挺身隊の混同による誤報である。挺身隊を“勤労動員した”と書いたのが原因と思われる。|
|1月16日|当時の故宮澤喜一総理大臣が韓国を訪問する。11日の『朝日新聞』の報道の影響により、反日デモのお出迎え。首脳会談では8回謝罪し、「真相究明」を約束した。|本来なら「真相究明」をしてから、謝罪するのかしないのかを決めるべきでしょう。有罪か無罪かも分からぬまま謝罪するなどという蛮行を行ったのが、故宮澤喜1である。|
|1月23日|『朝日新聞』夕刊「窓」欄のインタビューにて、吉田清治氏が「強制連行した女性はすくなくみても950人」と発言|――|
|2月17日|日本弁護士連合会(日弁連)の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会において、慰安婦問題を人道上の罪だとして国連の介入を求める。|――|
|5月25日|『朝日新聞』が吉田清治氏が韓国に「謝罪の旅」に出る予定と紹介する。|――|
|5月|『正論』6月号(扶桑社 刊)で、秦郁彦教授が済州島での実地調査を発表する。|これにより、吉田清治氏の嘘が暴かれた。|
|7月6日|日本政府が吉見義明教授の資料発見を受けて行った慰安婦問題に関する調査結果を発表する。100を超える関係資料を公開した。|内閣官房の加藤紘一長官は「強制連行の資料はなかったが、慰安所の設置や運営監督に政府が関与していた」ことをはじめて公式に認める。|
|7月31日|韓国政府が『日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書』で「日本政府による慰安婦の威圧的連行があった」と主張する。|――|
|8月12日|吉田清治氏が訪韓する。金学順(キム=ハクスン)に頭を下げて謝罪する。|――|
|12月|吉見義明 編・解説 『従軍慰安婦資料集』(大月書店 刊)が出版される。|このときから「広義の強制」という言葉がでてきた。|
|12月|『週刊新潮』(新潮社 刊)に吉田清治氏のコメントが載る。|吉田氏「私が書いた事は全部事実」|
|12月25日|韓国釜山市などの元慰安婦ら10名が、日本政府に公式謝罪と賠償を求めて山口地方裁判所に提訴する|――|
|平成5年(1993)2月1日|韓国挺身隊問題対策協議会、挺身隊研究会「強制連行された朝鮮人『慰安婦』たち」が刊行される。|この本の日本語版は10月に、韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 編、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク 訳『証言-強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』として出版された。|
|2月|『現代コリア』2~3月号(現代コリア研究所 刊)で、現代史研究家、加藤雅夫氏が、千田夏光 著 講談社文庫『従軍慰安婦』(講談社 刊)の中の嘘を暴露する。|この本は千田夏光 著『従軍慰安婦』(双葉社 刊)の文庫版である。千田を問い詰めたところ、「従軍慰安婦」という言葉は千田が勝手に作ったものであり、内容も島田俊彦 著 中公新書『関東軍 在満陸軍の独走』(中央公論社 刊)を参考にしたもので、直接取材はしていない事が判明した。|
|2月|ソウル大学の安乗直教授ら「挺身隊研究会」が慰安婦40数人に本格的な聞き取り調査をする。|――|
|3月29日|韓国政府が国内の元慰安婦約135名に対して約74万円の支給などの支援策を発表する。また、日本の教科書に慰安婦に関した記述をするように求める。|――|
|4月2日|フィリピンの19人の元慰安婦らが日本政府の謝罪と保証を求めて東京地裁に提訴する。|原告は、最終的には46名となる。|
|4月5日|元慰安婦の宋神道が、「7年間も従軍慰安婦とされ、肉体的精神的苦痛を受けた。」として、日本政府を相手取り東京地裁に提訴する。|――|
|6月310日|高校日本史の検定済み教科書7社9種類すべてに、従軍慰安婦に関する記述が掲載される事が判明する。|――|
|6月11日|韓国は「日帝下日本軍慰安婦に対する生活安定支援法」を制定する。同年8月から元「慰安婦」に一時金、生活費の支給を行う。|――|
|8月4日|日本政府が「慰安婦問題に関する第二次調査報告結果」を公表する。それに関連し、当時の河野洋平官房長官が日本軍の強制連行を認める、いわゆる「河野談話」を発表する。|河野談話の全文と解説は[[河野談話>慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話]]を参照してください。|
|月日不明|高木健一弁護士ら、13人の弁護士がインドネシアの地元紙に「日本政府に対して保証を求める裁判のために元慰安婦は名乗り出て欲しい」という内容の広告を出す。|――|
|平成6年(1994)5月3日|当時の法務省の永野茂門大臣が記者会見で、「慰安婦は当時の公娼であって、それを今の目から女性蔑視とか、韓国人差別とかは言えない」と述べ、中国、韓国を初め、アジア諸国の激しい反発を招く。4日後、永野大臣は謝罪し、就任からわずか10日で引責辞任した。|――|
|8月31日|日本社会党の村山富一総理大臣が、「平和友好交流計画」に関する談話の中で、従軍慰安婦について謝罪した。|――|
|11月23日|「国際法律家委員会」が、「慰安婦被害者には個人補償請求権がある」とする報告書を発表した。|――|
|平成6年(1995)1月|『週刊新潮』1月5日号(新潮社 刊)が、吉田清治氏の証言は事実無根である事が判明したとの記事を掲載した。|――|
|1月24日|日本弁護士連合会(日弁連)が「従軍慰安婦問題に関する提言」を政府に提出。立法措置などにより、元慰安婦らに補償するよう求める。|――|
|7月19日|日本政府の主導で「財団法人 女性のためのアジア平和国民基金」が発足する。|――|
|8月15日|日本社会党の村山富一総理大臣が、いわゆる「村山談話」発表する。|――|
|8月22日|韓国で、元「慰安婦」および支援35団体が、「民間基金構想撤回と被害者個人への謝罪と補償を求める共同声明」を発表する。|――|
|平成7年(1996)4月19日|スイスのジュネーヴで開かれた国際連合人権委員会で、女性のクマラスワミ特別質問者が「女性への暴力特別報告(通称 クマラスワミ報告書)」と題する報告書を提出する。|付属文書で「慰安婦」を「性的奴隷」と規定し、日本の行為を「『人道に対する罪』、奴隷制度を禁じた国際慣習法に違反する」と断定。採択はされるが、評価基準は最下であった。|
|5月|『週刊新潮』5月2日号(新潮社 刊)で、でのインタビューで、吉田清治は著書の記述に一部創作があったと認める。|――|
|6月4日|元法務大臣で自民党の奥野誠亮議員が「従軍記者や従軍看護婦はいたが、『従軍』慰安婦はいない。強制連行はなかった。」と発言した。韓国人元慰安婦(73歳)が参議院で自民党の板垣正議員と面会。「1部の日本人が強制がなかったとか妄言を吐く」と訴える。対価としてお金をもらっていないとの元慰安婦の話に板垣は「そういう例があったとはまったく信じられない」と疑問を呈した。|――|
|6月末|当時の故橋下龍太郎総理大臣が韓国の金泳三大統領との首脳会談後、慰安婦問題を謝罪した。|――|
|6月27日|教科書を発行する7社が一斉に「強制連行の一環として「慰安婦」問題を掲載したと判明する。|――|
|8月|『SAPIO』8月7日~2月26日号(小学館 刊)内、小林よしのり 著『新・ゴーマニズム宣言』にて、慰安婦問題を取り上げる。|――|
|9月20日|日本を守る国民会議が、教科書からの「慰安婦」関連記述の削除を求めて、1ヵ月の全国縦断キャラバンを開始した。|――|
|12月2日|藤岡信勝、西尾幹二、小林よしのり、坂本多加雄、高橋史郎ら9名の呼びかけで「新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)」が結成される。|――|
|平成9年(1997)1月31日|『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)で吉見義明教授が「植民地での奴隷狩り的強制連行と挺身隊が慰安婦にさせられた例は確認されていない」ことを認める。|――|
|1月310日|「つくる会」が文部省の小杉隆文大臣に教科書の慰安婦についての記述の削除を申し入れる。|――|
|2月27日|当時の安倍晋三議員の主導で「日本の前述と歴史教育を考える若手議員の会」が結成される。|――|
|3月9日|元内閣官房副長官の石原信雄氏が『産経新聞』のインタビューで、日本側のデータには強制連行を裏付けるものはなかったことなど『河野談話』発表に至る経緯を明かす。|元官房長官の河野洋平は、『産経新聞』のインタビューを断ったが、3月末の『朝日新聞』のインタビューには応じた。|
|3月10日|櫻井よしこ氏が『文藝春秋』4月号(文藝春秋 刊)の「密約外交の代償」と題する論文で、証拠に基づかずに、政治的判断・妥協で強制連行を認めた政府の外交を批判した。|――|
|3月12日|内閣官房内閣外政審議室の平林博室長は、参議院予算委員会で「政府の発見した資料の中には強制連行を直接示す記述は見当たらなかったが、総合的な調査の結果についての総合判断により、一定の強制性を認めた」旨の答弁をする。|――|
|3月31日|『朝日新聞』が吉田清治氏の証言に関し、「真偽は確認できない」と掲載した。元官房長官の河野洋平氏のインタビューも掲載した。|自分から火に油を注いでおいて、あまりにも無責任ではないだろうか。|
|4月|平成3年度用社会科教科書の検定に合格した7種すべてに慰安婦に関する記述があることが判明した。|――|
|5月|中学校教科書の慰安婦の記述削除を求める請願が各地の地方議会で相次ぐ|――|
|6月17日|河野洋平氏が「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」主催の講演で「強制連行をしたという資料はなかったことは事実。しかし資料がなかったからと言って(強制連行も)なかったと決められるかどうか」と発言した。|「真実は神のみぞ知る」。たしかに資料がなかったからといって、強制連行が無かったとは必ずしも言えない。しかし、人間は神ではない。資料や裏づけのある証言がすべてである。資料がないのに何でも分かるのならば、「どこに邪馬台国があったか」なんかでもめるはずが無い。|
|平成10年(1998)4月27日|元慰安婦3人と元挺身隊員7人の計10人の韓国人女性が日本政府に総額5億6千4百万円の損害賠償と公式謝罪を求めた訴訟(通称、関釜裁判)で初の司法判断(河野談話が強制連行の証拠と認定されるが、最終的には慰安婦側の敗訴が確定)|――|
|7月31日|農林水産省の中川昭一大臣が就任直後に「中学校の教科書に従軍慰安婦の記載があるのは疑問」と述べ、中韓からの反発。翌日撤回|――|
|8月|国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会で、「マクドガル報告書」が採択された。|――|
|8月|韓国で「日本軍慰安婦歴史館」が開館した。|――|
|8月4日|『読売新聞』が「『慰安婦』問題をもてあそぶな」と題した社説で『朝日新聞』を暗に批判した。|――|
|8月11日|『読売新聞』が「国連の権威損なう『慰安婦』報告」と題し、慰安婦強制連行説を捏造した者とそれを追認した『河野談話』を厳しく批判した。|――|
|9月2日|秦郁彦教授が吉田清治氏に電話する。「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと進めたら、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、85歳になっても今さら……このままにしておきましょう」との返事。|――|
|10月|『諸君!』11月号(文藝春秋 刊)において、秦郁彦教授が吉田清治氏本人が自著をフィクションであることを認めたと述べる。|――|
|11月|改訂版として出版された新村出 編『広辞苑』第五版(岩波書店 刊)に、初めて「従軍慰安婦」の語が収録される。|――|
|平成12年(2000)4月|『戦時性的強制被害者問題解決促進法案』を野党が参議院に提出した。|――|
|12月8日から12日|VAWW-NETジャパンを初め、日本とアジアの非政府組織(NGO)が東京にて女性国際戦犯法廷を開いた。|――|
|3月1日|『読売新聞』が社説で慰安婦問題は捏造であると指摘した。|――|
|5月8日|韓国政府が日本政府に対してつくる会の中学校の歴史教科書などの記述修正を要求した。|――|
|5月16日|中国政府が日本政府に対し、つくる会の歴史教科書の8項目について記述修正を要求する。|――|
|7月9日|文部科学省が韓国・中国政府の修正要求に対して、つくる会の歴史教科書に対する訂正は求めない方針を示す。|――|
|7月|VAWW-NETジャパンが「女性国際戦犯法廷」のNHKの番組編集に不満、提訴した。|――|
|平成14年(2002)1月|アメリカとイギリスで田中ユキ 著「Japan's Comfort Women」という英文の書が出版される。|田中ユキは正体不明である。|
|2月23日|韓国女性省が、慰安婦問題に関して教育に力を入れる方針を発表した。|――|
|2月24日|「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム(朝日新聞社 後援)で金貴玉教授が、朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったと発表した。|――|
|3月218日|在日韓国人で唯一元慰安婦であると名乗り出た宋神道(80歳)が日本政府を相手取り、謝罪と賠償を求めていた訴訟で敗訴が確定する。|――|
|平成15年(2003)1月31日|民主党の岡崎トミ子議員らが「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」を参議院に再度提出する。|――|
|2月12日|日本の国会議員が挺身隊集会に初参加と中央日報が報じる。参加したのは岡崎トミ子議員、当時の田嶋陽子議員など|――|
|3月24日|「関釜裁判」の上告が棄却され、慰安婦側の敗訴が確定した。|――|
|9月2日|ソウル大学経済学部の李栄薫教授が、慰安婦を売春業になぞらえたような発言で、韓国で批判される。|――|
|11月27日|文部科学省の中山成彬大臣が歴史教科書について「やっと最近、従軍慰安婦とか強制連行といった言葉が減ってきて本当に良かった」と述べ、反発を招く。|――|
|12月|金完燮(キム=ワンソプ)氏が平成8年に19万部のベストセラーとなった「娼婦論」に慰安婦制度を肯定する最終章を加えた日本語版、金完燮 著『娼婦論』(日本文芸社 刊)を出版した。|「日本軍用女性性奴隷」という用語は、「日本の国家的イメージを失墜させようとする意図が見え隠れする」と指摘した。|
|平成17年(2005)1月12日|『朝日新聞』が「安倍、中川両氏がVAWW-NETジャパン主催の『女性国際戦犯法廷』NHKの番組改編に圧力」と報じる。|――|
|4月6日|中学歴史教科書では、「慰安婦」の記載は申請段階で帝国書院1社となる。|――|
|6月12日|中山成彬大臣が「従軍慰安婦という言葉は当時無かった」と発言し、韓国から反発を招く。|――|
|8月10日|第2次世界大戦終結60周年世界60都市同時集会・デモが、東京、ソウル、マニラ、サンフランシスコなどで開かれ、日本政府に対し、国連勧告に従い元「慰安婦」への賠償を訴える。「アムネスティ=インターナショナル」が、「水曜デモ」を機に、慰安婦とその支援者らに賛同することを発表する。|――|
|平成18年(2006)4月10日|アメリカの合衆国代議院(アメリカ下院)の対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会の調査局の報告書に「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として、「吉田清治の証言」が明記されている事が判明した。|――|
|9月13日|アメリカ下院国際関係委員会が「慰安婦問題」で日本政府を非難する決議案を議決|――|
|10月5日|安倍晋三首相が「河野談話」を「私の内閣で変更するものではない」とし、政府として引き継いでいく事を明言する。|――|
|10月25日|内閣官房の下村博文副長官が講演で、「河野談話」について、「もう少し事実関係をよく研究し、客観的に科学的な知識を収集し考えるべきだ」と述べる。|――|
|平成19年(2007)1月31日|アメリカにて、民主党のマイク=ホンダ議員ら6人の民主党の下院議員が共同署名で慰安婦問題に関する対日非難決議案を提出する。|――|
|2月15日|下院外交委員会アジア太平洋・地球環境小委員会における公聴会で、李容洙、金君子、ジャン=ラフ=オハーンの3人の元慰安婦が証言した。|――|
|2月19日|当時の外務省の麻生太郎大臣が慰安婦をめぐる対日非難決議案に対して不快感を表明した。|――|
|2月25日|『報道2001』(フジテレビ)でマイク=ホンダ議員は、強制連行があった根拠を「被害者の証言」や「アジア女性基金による支援」、「河野談話」、「総理の謝罪」と主張した。|――|
|3月1日|自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が「慰安婦に対して、日本軍の強制連行はなかった」との見解を表明した。安倍晋三首相が「河野談話」に関する記者の質問に対して「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と語り、国内外から波紋を呼ぶ。|――|
|3月5日|安倍晋三首相が、「(アメリカ下院)決議案は客観的事実に基づいていない」、「決議があっても謝罪する事は無い」と答弁した。|――|
|3月11日|当時の麻生太郎大臣が対日非難決議案について「日米(関係)を離間させる有効な手段だ」と発言した。|――|
|3月16日|日本政府は「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」とする答弁書を出す。|――|
|3月23日|元首相で元海軍将校だった中曽根康弘氏がボルネオ島で「慰安所」を設営したと回顧録で述べていることに対し、外国人ジャーナリストらが追及する。|――|
|3月24日|『ワシントン=ポスト』が「安倍晋三の2枚舌(Shinzo Abe's Double Talk)」と題する社説を掲載した。|――|
|3月28日|アメリカで最も使われている歴史教科書「伝統と出会い:過去に対する世界的展望」に、日本軍が当時、最大30万人に達する女性たちを慰安婦として強制連行したとの記述があることが判明した|――|
|3月31日|元従軍慰安婦への償い事業を12年間行ってきた「アジア女性基金」が解散する。国民の浄財5億円が集められ、15年間で40億円の事務費は税金から支払われた。|――|
|3月31日|『ニューヨーク=タイムズ』が国際面の1ページを使って吉見義明のインタビューを掲載した。|――|
|4月3日|アメリカ議会調査局の専門家らが「日本軍の『慰安婦』システム」と題する、議員の審議用資料の報告書を作成した。|――|
|4月17日|関東学院大学の林博史教授が外国特派員協会における記者会見にて、「従軍慰安婦」問題に関する新資料7点を発表。戦後の東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書が旧日本軍が強制連行し、性行為を強要したことを示していることを指摘した。|――|
|4月26日|『ワシントン=ポスト』が「慰安婦問題ワシントン連合」(徐玉子会長)をはじめとする在米韓国人団体の「慰安婦の真実」と題した全面広告を掲載した。「日本はこの犯罪に全面的な責任を取ったことは1度も無い」と非難し、慰安婦問題に関し日本政府の謝罪を求める下院対日決議案の採択を求める。|――|
|4月27日|総理として初訪米した安倍晋三首相はブッシュ大統領との会談と連邦議会における上下両院幹部との階段で、元慰安婦らに対する同情とお詫びを表明。幹部との会談では自ら「せっかくの機会なので一言、念のために申し上げたい。私の真意や発言が正しく伝わっていない。」と発言。これを受けて日系のダニエル・イノウエ上院議員は「残念なのは慰安婦問題をめぐる米国内の動きだ。これまで7人の首相が謝罪しているのにもかかわらず、こういうことが今後も続くのかと思うと、疑問を感じる」と発言した。|――|
|6月14日|作曲家のすぎやまこういち氏らが従軍慰安婦に関する意見広告を『ワシントン・ポスト』に掲載した。|――|
|6月26日|アメリカ下院の「慰安婦決議案」が外交委員会で可決された。|――|
|7月31|アメリカ下院の「慰安婦決議案」が本会議で可決された。|この日の決議は、手続きを簡略化し、下院(定数435)の定足数(218)未満でも審議できる「議事規則の適用停止」が適用された。実際に出席した議員は10人で、発声による投票で異議は出されず、議長が可決と認定した。|