歴史問題の基礎知識

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歴史問題の基礎知識 - (2020/03/12 (木) 22:40:00) のソース

#center(){&italic(){&sizex(4){「 我々を歴史から引き離す理由を捜し索めんが為めのみに歴史を学ぶ 」   ~   ブルュンティエール(仏批評家 1899年講演 「仏蘭西精神の敵」)}}}
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<目次>
#contents

*■1.はじめに
近現代史は政治そのものであり、古代史ですら現代政治を抜きにして語れない。現在、主流を占める歴史認識(あるいは現在の歴史教科書の記述)が正しくて、今後もその認識がそのまま続くとは誰も保証できないことは、戦前~戦後の日本の歴史教育の変転をみても、近隣諸国の歴史教育の有様を見ても明らかである。
これを踏まえて、近代以降の日本における歴史認識問題の基本構図をここで一旦まとめておく。
なお、南京虐殺問題や慰安婦問題、満州事変・支那事変や大東亜戦争の性格といった個別の論点は、各々の専用ページを参照されたい。

*■2.日本人が持つべき国家観・歴史観

|CENTER:&youtube(http://www.youtube.com/watch?v=ciTzbPyrGow&feature=related){500,}|[[【チャンネル桜】防人の道 今日の自衛隊 -平成20年4月8日号 ◆ 坂川隆人(元海将補)2/3>http://www.youtube.com/watch?v=ciTzbPyrGow&feature=related]]&br()&br()◇『論語』子路第十三の十八&br()葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾が黨に直躬(ちょくきゅう)なる者有り。&br()其の父、羊を攘(ぬす)みて、子之を證す。&br()孔子曰わく、吾が黨の直(なお)き者は是に異なり。&br()父は子の爲に隱し、子は父の爲に隱す。&br()直きこと其の中に在り。|
|CENTER:&youtube(http://www.youtube.com/watch?v=RFXsSeKDcFY&feature=related){500,}|[[【チャンネル桜】防人の道 今日の自衛隊 -平成20年4月8日号 ◆ 坂川隆人(元海将補)3/3>http://www.youtube.com/watch?v=RFXsSeKDcFY&feature=related]]|

*■3.劣化著しい戦後の歴史学界

大東亜戦争敗戦後に、後述の羽仁五郎(マルクス主義歴史学者・初代日教組代表・革新系参議院議員)を暫定委員長として再建され史学界を仕切ってきた歴史学研究会(マルクス主義史観の歴史学者の学術団体)が、ソ連崩壊後の1993年に至って、以下のような序文を付した雑誌を発行している。今となっては余りにも馬鹿馬鹿しい内容であるが、彼らの発言をここで一度しっかり確認しておこう。

**<参考1>[[歴史学研究会「戦後歴史学と歴研のあゆみ」-創立60周年記念>http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4250930173.html]]-1993年5月刊行-
|BGCOLOR(lightgrey):&size(12){はじめに  -批判的史学をめざして-}&br()&size(12){1932年12月に創立された歴史学研究会は、自らの歴史を振り返ってすでに『歴史学研究会 四十年のあゆみ』、『歴研半世紀のあゆみ』を刊行している。昨年、六十周年を迎えるにあたっても記念行事・出版を考えたが・・・財政的にもあまり余裕のない状況だったので、つつましい企画で満足することにした。}&br()&size(12){・・・}&br()&size(12){歴史学研究会の創立は、必ずしも反「史学会」とか、その後有力になっていく&color(crimson){皇国史観に逸早く対抗する}とかの意識をもってのことではなかったようだ。・・・だが、&color(crimson){第二次世界大戦後、歴研はマルクス主義者を中心に時代のエートスに応える歴史研究者の団体として大きな影響力を及ぼすに至った}。いわゆる「戦後史学」の中軸をになったと言ってよかろう。しかし&color(crimson){1970年代}になると、&color(crimson){「戦後史学」はイデオロギーの面でも歴史研究の方法の点でも批判に晒されるようになった}。その頃の特徴は批判者の多くが歴研と同根の「左翼」の人々であったことである。}&br()&size(12){&color(crimson){1980年代の末ともなると、ソ連邦が消滅する}という、それを長らく願っていたような人ですら意表をつかれるような事態が生じた。歴研を批判していた「左翼」にとっても歴研批判どころではなくなり、土台が一緒に揺らいだと言える。・・・歴研委員会の中ですら、&color(crimson){歴研にとっては馴染みの「人民的・変革的・科学的」という言葉に対する違和感が表明された}。}&br()&size(12){私は、1990年の総会の答弁で述べたとおり、その三つの言葉を「下からのまなざしをもち、現実の矛盾から目を逸らさず、学問的な手続きをきちんとふむ」ことと理解する。・・・&color(crimson){歴研は今もこの三つを追及しようという人々の集まりである}。あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう。そして、江口委員長の時代から、党派的分裂の危機を何度も乗り越えてきた伝統を持っている。}&br()&size(12){その伝統と観点に立って、1992年12月5日(土)、東京大学本郷キャンパスで「いま、なぜ歴史学か」というテーマを掲げてシンポジウムを開催し、約200名の参加を得た。・・・}&br()&size(12){さらに、&color(crimson){全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)}と&color(crimson){「国民国家を問う」(青木書店)との出版}を準備している。これも六十周年記念企画の一環である。}&br()&size(12){以上すべての企画に協力された方々に深く感謝したい。とくに若い委員の諸君に。そうした若い諸君の存在こそが歴研の未来を保証してくれるのである。}&br()&size(12){1993年3月 委員長 西川 正雄}|
※「あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう」⇒日本国の現状と歴史を常に否定的に見るのが「歴研」の使命だと告白。 
※「全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)と「国民国家を問う」(青木書店)との出版を準備している」⇒要するに日本で出版される歴史全集はマルクス主義者が執筆。 

・以下は、同じく歴研の2002年発行の雑誌のあとがきである。&color(crimson){&bold(){こんなトンデモ団体が未だに跋扈している}}のが日本の史学界の現状である。
**<参考2>[[歴史学研究会「戦後歴史学を検証する」-歴研創立70周年記念>http://www.amazon.co.jp/dp/4250202461]]-2002年12月刊行-
|BGCOLOR(lightgrey):&size(12){あとがき}&br()&size(12){(前略)60年、70年ごろと現在では歴史学をとりまく状況も学問のスタイルも大きく異なっている。最近の委員の中に、&color(crimson){自分は社会主義者であると自認}したり、&color(crimson){人民闘争史を追求していると自己紹介}したりする人は&color(crimson){皆無}といってもいい。しかし、では&color(crimson){戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか}。私にはとてもそのようには思えない。&color(crimson){60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの}、そこから今につながっている地下水脈を確認することが、&color(crimson){歴史学の危機とまでいわれる現在の状況}の中で、&color(crimson){歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう}。三回にわたった討論会はいずれも予定時間を超過して、活発な議論が交わされた。70年なんてまだ生まれていなかった、という若い会員も多いだろうが、是非、三つの討論会記録をお読みいただきたいと思う(後略)}&br()&size(12){2002年12月14日 歴研創立70周年記念誌作成担当 榎原 雅治}|
|&ref(http://www35.atwiki.jp/kolia?cmd=upload&act=open&pageid=399&file=rekiken.jpg)|※「戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか」⇒完全に無駄・無意味でした。もういい加減にしましょう。&br()※「60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの・・・歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう」⇒嘘の上塗りは止めましょう。|

*■4.歴史認識(歴史観)の対立構図

満州事変・支那事変や大東亜戦争といった日本の戦争は侵略戦争だったのか否か、いわゆる南京大虐殺や従軍慰安婦は事実だったのか否かetc.といった個々の歴史問題の背景に、より大きな構図として、戦前から続く歴史学者間の歴史認識(史観)の対立、より具体的にいうと、

|BGCOLOR(lightgrey):①|BGCOLOR(aqua):日本の歩みを常に肯定的に捉える正統史観(後述のように戦後は左翼からのレッテルとして“皇国史観”と蔑称された史観)|と、|
|BGCOLOR(lightgrey):②|BGCOLOR(pink):日本の歩みを常に否定的に捉えるマルクス主義史観(戦後は“東京裁判史観”とも呼ばれ、また近年は特に批判者から“自虐史観”と蔑称されている史観)|の対立がある。|

**◆1.歴史認識:見取り図

|BGCOLOR(OLIVE):|>|BGCOLOR(OLIVE):COLOR(white):CENTER:戦前~戦中 (『國史』教科書時代)|BGCOLOR(OLIVE):COLOR(white):CENTER:敗戦|>|>|BGCOLOR(OLIVE):COLOR(white):CENTER:戦後 (『日本史』教科書時代)|
|BGCOLOR(aqua):保守|>|BGCOLOR(aqua):&bold(){&size(17){皇国史観(皇国護持史観)}}&br() ・那珂通世(神武天皇即位紀元に関する讖緯説(辛酉革命説)を提唱)&br()・白鳥庫吉(東宮御学問御用掛として後の昭和天皇に進講)&br()・平泉澄(東大国史学科主任教授、皇国史観の中心人物と見做され戦後公職追放。最近もNHKがJAPANデビュー第二回【天皇と憲法】の中で博士を理不尽なまでに激しく糾弾した。⇒[[NHKの正体・上級編]]参照)&br()・津田左右吉(戦後、唯物史観派からは「津田史学は唯物史観」として自派の源流のように言われたが、津田氏本人は「唯物史観などは学問じゃありません」と猛反発し否定、逆に皇室擁護の論陣を張っている)|&bold(){&size(20){⇒}}|BGCOLOR(aqua):保守|>|BGCOLOR(aqua):&bold(){&size(17){正統史観(正統史学)}}&br() ・平泉澄(平泉博士は昭和59(1984)年まで存命し、日本の正統史学の権威として精力的に活動を続けた)&BR()・田中卓(平泉澄博士の学問的後継者、建国記念日(紀元節)復活に貢献)&br()・大原康夫&br()・高森明勅|
|  |BGCOLOR(lightgrey):右翼|BGCOLOR(lightgrey):&bold(){&size(17){皇国美化史観}}&br() ・大川周明(国家社会主義と有色人種解放論のイデオローグ)&br()・田中智学(アジア解放のスローガン「八紘一宇」論の提唱者)&br()・加藤玄智(天皇絶対神論・国家神道論の提唱者)|消滅|  |BGCOLOR(lime):自由主義|BGCOLOR(lime):&bold(){&size(17){自由主義史観}}&br() ・藤岡信勝&br()・西尾幹二|
|  ||‡唯物史観への対抗イデオロギーとして出現||||‡過度の自虐史観への反動として出現|
|BGCOLOR(pink):左翼|>|BGCOLOR(pink):&bold(){&size(17){唯物史観(マルクス主義史観)}}&br() ・羽仁五郎(講座派)&br()・井上清(講座派、のち共産党員)&BR()・土屋喬雄(労農派)|&bold(){&size(20){⇒}}|BGCOLOR(pink):左翼|>|BGCOLOR(pink):&bold(){&size(17){東京裁判史観(自虐史観)}}&br() ・羽仁五郎([[日教組代表>日教組の正体]]、参院議員)&br()・井上光貞&br()・家永三郎&br()・色川大吉&br()・直木孝次郎&br()・[[丸山眞男>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7]](政治学者、隠れマルクス主義者)|

**◆2.用語解説

(1)皇国史観(皇国護持史観・正統史観)
(2)皇国美化史観
(3)マルクス主義史観(唯物史観・東京裁判史観・自虐史観)
(4)自由主義史観

について順に解説する。

***◇(1)皇国史観(皇国護持史観、正統史観)

※皇国史観(正統史観)とは何か

・古事記/日本書紀以来の日本の正統な歴史伝承・歴史事実に基づく史観。(ページ下に参考図書あり)
・当然ながら記紀を日本民族の大切な伝承として扱い、これを否定しない。
・神武天皇即位紀元が過大に引き伸ばされている件については、讖緯説(辛酉革命説)に基づく年代設定と解釈している。(那珂通世の説)(参考1)。
・初代神武天皇から第十代崇神天皇までの間の所謂「欠史八代」については、戦後発見された稲荷山古墳鉄剣銘文に第八代孝元天皇の皇子大彦命と解釈できる人物が見えることから、唯物史観派のいうように頭から欠史八代の実在を否定するのは不当と主張している。(参考2)
・記紀成立後、六国史編纂を経て、神皇正統紀、大日本史さらに江戸時代後期の国学の成果を踏まえて、明治以降の国史学に至る。
・なお、平成12年の森首相(当時)の「神の国」発言(日本は天皇を中心とした神の国である、とする発言)は、この伝統的な日本人の国家観・歴史観の素朴な表現と思われる。

****参考1:[[神武天皇即位紀元が紀元前660年とされた根拠>http://niwango.jp/mobile/search/niwango_wiki.php?wid=34143&b=02&f=hbv99b]](讖緯説・辛酉革命説)
|BGCOLOR(WHITE):&size(12){干支は60年の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。そのため神武天皇の即位年の「辛酉年」は日本書紀の編年から遡ると紀元前660年に相当することになる。&br()明治時代に歴史学者那珂通世が、日本書紀はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説(しんいせつ)を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から逆算して1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた(参考8:『日本書紀(一)』補注(巻第三)一八 400頁)。&br()これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉(しんゆう)年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)という事に因む。&br()辛酉年の春正月の朔(訓はつひたち、新月すなわち月齢0=太陰太陽暦では常に1日で、このときの干支は庚辰)に、天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇の元年とす。(「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条)。}|
****参考2:[[欠史八代の実在性>http://niwango.jp/mobile/search/niwango_wiki.php?wid=8607&b=000101&f=hbv99b]](稲荷山古墳鉄剣銘文)
|BGCOLOR(WHITE):&size(12){稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣の銘によれば5世紀中葉の地方豪族が8世代にもわたる系図を作成したのは事実である(参考1)&br()稲荷山古墳鉄剣銘文は「意富比魁(オホヒコ)」から「乎獲居臣(ヲワケの臣)」にいたる8人の系図を記録している。銘文にある「意富比魁(オホヒコ)」を『古事記』、『日本書紀』が記録する第八代孝元天皇の第一皇子「大彦命」であるとする説がある。「意富比魁(オホヒコ)」と「大彦命」が同一人物を指すなら、『古事記』、『日本書紀』(四道将軍の一人)の大彦命の記事と稲荷山古墳鉄剣銘文の記録が結びつくことになる。&br()川口勝康(首都大学東京教授)は次のように解説する。「稲荷山古墳出土の鉄剣銘文中の乎視居臣 (おわけのおみ) なる人物の系譜にみえる上祖の意富比魁は、オホヒコとよまれ、記紀の大彦命にあたる可能性が高い(平凡社『世界大百科事典』)」。&br()また、岸俊男(京都大学名誉教授)は次のように解説する。「ヲワケを東国国造の系譜に属する者と考える説と、上祖オホヒコを記紀に阿倍臣や膳臣 (かしわでのおみ) の始祖としてみえる孝元天皇の皇子大彦命とし、あるいは杖刀人は阿倍臣に従属する丈部(はせつかべ) であるとみて、ヲワケを中央豪族の一員と考える説に大きく見解が分かれている(平凡社『世界大百科事典』)」。&br()安本美典は、『本朝皇胤紹運録』によると「大彦命」の孫は「豐韓別命」であり、鉄剣銘文の「意富比魁(オホヒコ)」の孫「弖已加利獲居(テヨカリワケ)」と読み方が似ているとする}|

***◇(2)皇国美化史観

・明治末以降に、皇国史観(正統史観)に加上する形で民間に発生。
・提唱者は意外にも仏教系が多く(田中智学は日蓮宗系、加藤玄智は浄土真宗系)、明治維新により疎外感を抱いた一部仏教界の過剰な擦り寄りとも解釈できる。
・1930年前後の経済恐慌期に、①アジア主義・②国家社会主義と結びつき、マルクス主義の対抗イデオロギーとして急速に流布(この時期の代表的イデオローグは大川周明)。
・また、田中智学の造語「八紘一宇」は、大東亜戦争のスローガンとなった。
・大東亜戦争の敗戦により史観としての存立基盤は消滅したが、戦後も無自覚のうちにこのイデオロギーに影響された言説を唱える者は多い。
・5.15事件など青年将校の暴発を引き起こす思想的背景をなし、また天皇機関説事件/津田左右吉博士筆禍事件などの過激行為の源として批判されるべきは、この(マルクス主義とはコインの裏表の関係の)皇国美化史観の方であるが、戦後、左翼側は是と本来の皇国史観(皇国護持史観・正統史観)をワザと混同し、皇室否定論・日本悪玉論に強引に結び付ける執拗なネガティブ・キャンペーンを繰り返している。
⇒ [[政治の基礎知識]] [[右翼・左翼の歴史]] [[NHKの正体・上級編]] 参照

****参考1:用語解説
|BGCOLOR(WHITE):&size(12){[[「皇国史観」>http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-03-19/ftp20080319faq12_01_0.html]](赤旗より引用)という用語は、「早くても昭和17(1942)年6月頃から、大体は昭和18(1943)年頃から文部省周辺の人々によって使われだしたもの」(昆野伸幸『[[近代日本の国体論>http://book.asahi.com/review/TKY200803040093.html]]』より引用)であり、戦前/戦中の史学者自身が使った用語ではない(戦後にマルクス主義史家が「レッテル」として普及させた用語である)。&br()そして、その内容としては、[[①国史学者・平泉澄博士に代表される「あくまで歴史の範囲で思考する」流れと、②アジア主義者/国家改造運動家・大川周明に代表される「日本を盟主とするアジア解放を主張する」流れ>http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/14338/1/L1H170204.pdf]](昆野氏論文)の2つがあったが、戦後に史学界を占拠したマルクス主義史家は、皇室や日本国を貶めんがために、日本の伝統的な歴史観/国家観に根ざした①、と、大東亜共栄圏を包摂せんとする新しい思想を示した②、をワザと混用して「戦前/戦中の史学=皇国史観=軍国主義、アジア侵略、全体主義」という刷り込みを行った。&br()これに関して平泉澄博士の門下生の田中卓博士は、[[「一概に皇国史観といってもそれは、・・・①平泉史学による「皇国護持史観」と、②戦争末期という時代に迎合して浅薄な国体賛美に努めた「皇国美化史観」と呼ばれるべきもの(の2つ)がある」>http://since1853.blog45.fc2.com/blog-entry-37.html]]と述べ、平泉博士や自らの史観は、日本の伝統を正しく受け継ぐ[[「正統史観」>http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=402594&start=41&log=200702&maxcount=41]]であると述べている。&br()なお、ソ連が崩壊した1991年以降は、史学界(主流は、未だ隠れマルクス主義者と思われる)も、従来のように(彼らの言う)「皇国史観」に対して実証研究もせずレッテルだけ貼って一方的に批判することは許されなくなってきており、リンク先にある赤旗や長谷川氏・昆野氏のように戦前/戦中の資料を実際に読んで「実は皇国史観にも多様な内容があった」「実は皇国史観は1940年代に作られた用語だった」などと軌道修正を図っているが、そんな姑息な事をする位ならば、<1>彼らが戦後一貫して貶めようとしてきた①平泉博士・田中博士らの史観(皇室や日本国を常に善いものと見る正統史観)は実は全体主義とも侵略思想とも無関係だった、<2>国家改造とアジア解放を唱えた②は実はマルクス主義(具体的にはコミンテルン)の脅威への対抗イデオロギーとして生まれた(実際に、全体主義であり侵略思想であったのはマルクス主義の方だった)、と素直に認めればよいのである。(そうする勇気など、とてもないだろうが)}|

***◇(3)唯物史観(マルクス主義史観)

※唯物史観(マルクス主義史観)とは何か

****<1>唯物史観とは:概説
・カール・マルクスが、普遍的な歴史発展法則として提唱したもので、下部構造(経済関係)が上部構造(歴史の展開)を規定すると見る歴史観である。
・人類の歴史の発展段階として、①原始共産制社会→②古代奴隷制社会→③中世封建制社会(農奴(コロヌス)が生産に従事)→④近世重商主義社会(絶対王制)→⑤近代資本主義社会(ブルジョワ革命により絶対王制を打破=第一革命)→⑥プロレタリア革命(=第二革命)による社会主義社会の到来→⑦共産主義社会への移行、を想定した。
・最終的に、プロレタリア(労働者階級)がブルジョワ(資本家階級)を打倒する、という意味で「階級闘争史観」ともいう。
・明治維新以降の日本資本主義の性格規定と、日本に来るべき革命の形態(第一革命か第二革命か)を巡って、以下の論争が行われた。

****<2>日本資本主義論争
*****「1」講座派(日本共産党の思想的基盤)
|BGCOLOR(WHITE):&size(12){講座派とは、1925-35年頃、マルクス主義経済学者・史学者を二分した日本資本主義論争において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的段階にあるとして、来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」(第一革命)であると主張した論者達であり、戦前~戦後を通じて日本共産党の思想的基盤を為した。主な論者として山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎(マルクス主義歴史学者。戦後に日教組代表・参議院議員となり国会図書館法前文を起草)、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。}|
*****「2」労農派(社会主義協会(日本社会党左派)の思想的基盤)
|BGCOLOR(WHITE):&size(12){労農派とは、日本資本主義論争において、明治維新は不完全ながらブルジョワ革命であり、日本における封建制は消滅しており、現下で国家権力を握っているのはブルジョワジーであるとして、来るべき革命を「社会主義革命」(第二革命)であると主張した論者達であり、のちの社会主義協会(日本社会党の最左派にして主流勢力)の思想的基盤を為した。主な論者として山川均、猪俣津南男、荒畑寒村、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎(マルクス主義経済学者。戦後に向坂派社会主義協会を擁して日本社会党の最大のイデオローグとなる)、宇野弘蔵らがいる。}|

&size(12){※このようにマルクス主義者が二派に別れて論争した事が、戦後に日本共産党・日本社会党(左派)の二つの階級政党が並立して社会主義(共産主義)革命を目指す原因となった。}

***◇(4)自由主義史観

後述

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*■5.戦後のマルクス主義史観(自虐史観)の横行

**◆1.GHQの干渉とマルクス主義歴史学者の協力

日本の「民主化」を旗印に掲げるGHQは、羽仁五郎など戦前からのマルクス主義者を利用し、日本の歴史教育の「改革」を強引に推し進めていった。
・戦前は小学生にも必修であった「国史」を廃止し、社会科の一分野として「歴史」(中学校)「日本史」(高校)を設定。新制中学の教科として新たに「公民」教育を導入し、「歴史」より優先的に教育することとした。 
・日本国憲法/教育基本法の理念を日本人学童/学生に押し付ける組織として教員組合の結成を指令した(のちの日教組) 
・国会図書館法を制定しGHQ焚書を実行。連合国にとって都合の悪い書籍を隠蔽・抹殺したと思われる。

***(参考1):羽仁五郎(代表的な共産主義イデオローグ・皇室否定論者・GHQ協力者・日教組代表)
|BGCOLOR(WHITE):&size(12){マルクス主義史観最大のイデオローグで、昭和20年3月に北京で逮捕され東京で収監されていたが、GHQにより釈放(出獄)された。その直後から猛烈な皇室否定・廃止論を発表。更にGHQの後ろ盾で[[日教組代表>日教組の正体]]となり、その組織票で参議院議員に当選。GHQの指令を受けて[[国立国会図書館の設立に関与し連合国にとって不都合な図書の隠滅(GHQ焚書)に協力>国立国会図書館法改正案の正体]]したとされる。現在の[[国立国会図書館法>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8]]の前文「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命としてここに設立される」は羽仁五郎の起草である。}|
***(参考2):井上光貞(代表的な古代史家)
|BGCOLOR(WHITE):&size(12){歴史教科書から古代の皇室の記述を大幅に削除し、皇室の起源を応神天皇(のち崇神天皇)など出来る限り遅い時代に設定する学説を打ち立てたが、最晩年には自説に無理があることを認めたといわれる。なお井上光貞の全集第11巻「私と古代史学」(岩波書店)にアメリカ人学者から「日本の史学者はマルクス主義史観一辺倒・結論先にありきに陥っている」と批判されたことを告白するエッセーが載っている。また山川出版の「高校日本史」教科書(1951年の初版)や中公文庫の「日本の歴史」の古代史は井上が根本部分を執筆している。}|
***(参考3):色川大吉(代表的な近代史家)
|BGCOLOR(WHITE):&size(12){東大国史学科で平泉澄博士の最後の教え子の一人だったが、終戦後にあっさり転向して当時公職追放の身となっていた恩師を「狂信的な皇国史観の指導者」として猛烈に批判した(公正な学問的批判ではなく平泉博士への卑劣な人格攻撃だったとされる)。小田実(ベトナム反戦運動で活躍したが、近年KGBのエージェントだった事が判明)と共に日市連(昭和天皇の闘病中に「天皇が死んでも戦争の責任は消えない」と書かれた横断幕を掲げて都心でデモを行ったサヨク市民団体)の共同代表を務めた。現在でも毎日新聞に自虐的な歴史観を披露した記事がよく掲載される。中公文庫「日本の歴史」の近代史の執筆者の一人。[[WIKIPEDIA>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E5%B7%9D%E5%A4%A7%E5%90%89]]}|

**◆2.唯物史観の隆盛(東京裁判史観と一体化)

日本の歴史を肯定的に捉えようとする学術研究者・教育者は、GHQによって容赦なく公職追放・教職追放され、東大を始めとする有名大学の史学部や学術書籍の出版社(岩波書店・中央公論社など)はマルクス主義者(唯物史観派)が制圧した。 
彼らは、反対派との正々堂々の議論は徹底的に回避し、マスコミの支援で一般国民に一方的に自らの史観を刷り込む活動に専念した。 

唯物史観派は、「実証主義」の名目で、古事記/日本書紀の上古の伝承を完全に否定し教科書への記載も廃止した(井上光貞の説明参照)。 
その結果、日本の歴史教科書の記述は古代の農村遺跡などの記述や、中国の史書からの引用で始まる諸外国と較べて特異な形態となった。 
また皇室の起源としては、応神天皇を最古の実在した天皇とする説、崇神天皇を最古の実在した天皇とする説、騎馬民族到来説、朝鮮王族侵入説など様々な新説が提唱された。 
明治維新以降の記述については、征韓論から以降、一貫して侵略史観に染まった内容となった。

**◆3.日教組の洗脳教育

・1945年12月の連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)の指令に基づき、全教(全日本教員組合)・教全連(教員組合全国同盟)などの教員組合が発足。
・日本国憲法の公布(1946年11月)/施行(1947年5月)・教育基本法制定(1947年3月)に呼応して、全教・教全連などが、1947(昭和22)年6月、日本国憲法/教育基本法の理念普及と、階級闘争を運動方針とする統一的な教員組合として日教組を結成。ここでもマルクス主義史学者の羽仁五郎が代表に就任。 ⇒ 参考 [[GHQの占領政策と影響]] [[日教組の正体]]
・「階級闘争」「抵抗教育」「革命運動」を実践し、日本の国号と天皇・日の丸・君が代への反対運動を行う。
・学童/学生に「平和教育」を施し、自虐史観を刷り込む。
・「広く全日本および全世界の労働者農民諸君と手をたずさえて我国に残存するあらゆる悪秩序と闘い、これを徹底的に打破して、豊かな民主主義教育・文化の建設に邁進することを厳粛に誓う」(1947年、日教組結成大会での宣言)
・「一人々々の組合員が自らのプチブル的傾向を脱皮し教育界に温存されている封建的残滓を打破して階級的立場を明確にし、分会、地区、府県、地域、中央へと日常闘争を進めることによって初めて日教組の組織は強化されるのである」(1949年、日教組第五回定期大会の運動方針)
・「日本教職員組合の運動方針には『教育労働者として階級的立場を明らかにして闘う』と書いてありますが、われわれはそのように、日本の貧しい人々、つまり、労働者の側に立って、日本の横暴な資産階級のわがままと闘うのであります」(1953年、日教組のパンフレット『新しく教師となった人々に』)
・日教組が発足する前年の1946年から約十年間は、過激な自虐贖罪教育が行われた時期で、この期間に学童/学生期間を過ごした者は、現在に至るも非常に偏った反日的思想傾向を持つとされる。
・自社55年体制がスタートした、1955(昭和30)年頃から教育正常化運動が始まり、ようやく日教組の横暴に歯止めがかかったが、その影響力は現代に至るまで長く続いている。

**◆4.中韓の歴史教育干渉と史学界の劣化 ~ 教科書問題と近隣諸国条項

鈴木善幸首相/宮沢喜一官房長官の在任中の1980年に歴史教科書問題が発生。教科書検定基準に「近隣諸国条項」が追加された。 
・&color(crimson){出鱈目な史観を学生に押し付け続けたツケ}として、&color(crimson){史学部進学者/新進歴史学者の劣化が進行}
・近年において、注目すべき歴史論・国家論を著した人物に歴史学者は皆無であり、こうした異常な歴史認識に囚われていない英文学者・数学者・経済学者などから返って有力な歴史論・国家論が発表されている。

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*■6.日本の伝統的な国家観・歴史観を守ろうとする活動

上記のような圧倒的な唯物史観派(自虐史観派)の優勢に対抗して、トップの動画にあるような日本の伝統的な歴史観・国家観を守ろうとする活動も存在した。

**◆1.津田左右吉博士の皇室擁護・唯物史観批判

・津田左右吉氏は、邪馬台国北九州説を主張した東洋史学者の白鳥庫吉氏の高弟で、白鳥を介して那珂通世氏の孫弟子にあたる。
・戦前に古事記/日本書紀の文献批判を通じて神武東征に疑問を表明する等、記紀の神話部分は後世の潤色が強いとする説(津田学説)を表明したことから、右翼急進派から皇室冒涜として攻撃を受け、1940(昭和15)年に著書4冊が発禁処分、津田氏は早大教授を辞職し、著書出版元の岩波茂雄と共に出版法違反で起訴されるに至った(津田左右吉博士筆禍事件。1942(昭和17)年一審で禁錮3ヶ月/執行猶予2年の有罪判決、但し1944(昭和19)年控訴審で免訴)。
・終戦後、GHQの解放指令により出獄した羽仁五郎氏らマルクス主義史学者は、歴史学研究会(歴研)の再建(実際には唯物史観派による乗っ取り)にあたって、当時岩手県に疎開していた史学者として信用の高い津田博士を会長に担ぎ上げようとした。
・ところが津田博士は、GHQ進駐直後に始まった羽仁五郎氏らの岩波書店・毎日新聞を通じた反天皇キャンペーンに吃驚し、むしろ危惧を深めており、羽仁氏から派遣された井上清氏(羽仁の弟子で歴史学者・共産党員)の会長就任の懇願を即座に拒否したばかりか、岩波書店の雑誌『世界』1946(昭和21)年4月号に論文「建国の事情と万世一系の思想」を発表して、極めて情熱的な皇室擁護論を展開し、マルクス主義史観(唯物史観)に傾く史学界に痛烈な打撃を与えた。
・唯物史観派は、現在でも自分たちの皇室否定論・記紀否定論の起源を戦前の津田学説に置く姿勢を見せる(wikipediaにもそのように記述されている)が、実際には津田博士の学説は、神武東征などの記紀の伝承に疑問を表明しているものの、初代天皇としての神武天皇以下の初期の天皇の実在性自体を否定する説ではなく(津田博士自身が繰り返し、そう明言している)、戦後に流布した羽仁五郎氏や家永三郎氏・井上光貞氏らの記紀否定論は、津田学説を換骨奪胎したエセ学説といえる。
・津田学説を踏み台として、戦後に皇室の起源を極力後代に置き、古事記/日本書紀の記述(特に初期の天皇の実在性)を否定する学説を提唱した井上光貞氏は、晩年の津田氏について「博士は既に老齢に入っておられ、あまりにも急激に変転しつつある時代とともに進む柔軟性を失っていられた」と評したが、井上光貞氏自身が、その最晩年に、自分の学説は(余りにも唯物史観の演繹的手法に囚われて、最新の考古学的成果や文献考証に照らして)無理がある、と認めている。
・しかし井上光貞氏の学説を更に踏み台として、様々な皇室否定論・唯物史観に基づく学説を発表していた戦後史学界の主流は、津田氏の皇室擁護・唯物史観批判ばかりか、この井上光貞氏の自説撤回をも無視したまま現在に至っている。

**◆2.建国記念日(紀元節)復活を巡る対立

・1951(昭和26)年、吉田茂首相が「講和後、紀元節を復活したい」と表明。GHQによって廃止された紀元節の復活(神武天皇即位の日と伝承のある2月11日の祝日化)運動が始まる。
・唯物史観派は、8月革命説を信奉し、戦後日本は戦前とは別の国家だとして、紀元節を祝日として復活することに総力で反対した。
 ※日本社会党(もとの労農派)は、日本国憲法施行日(5月3日、現在の憲法記念日)を「新日本建国の日」として、これで十分と主張。
 ※日本共産党(もとの講座派)は、現在の日本はまだ天皇制と米帝が支配しており、真の建国は人民が将来革命によって勝ち取る、として「建国記念日」の制定自体に反対。
・正統史観派および一般国民・政府は、戦前の紀元節を建国記念日として祝日に復活させることを要望していた(根底に、戦前~戦後を通じて国体は護持されたとの認識があった)。
・長期の紛糾の末、1966(昭和41)年6月に、「建国記念日」を「建国記念の日」と名称変更して与野党で祝日復活することをようやく決議。
・しかし井上光貞氏を始めとする唯物史観派は「非科学的な“建国の日”に反対する」と、わざと文言を摩り替えて反対を続けた。(「建国記念の日」は、日本の建国を記念する日であり、必ずしも歴史的事実としての建国日ではないことに注意。)

**◆3.自由主義史観の登場~過度の自虐史観への反動として

・村山富市社会党首相による村山談話が出された翌年の1996年、自虐史観の行き過ぎに対する反動から藤岡信勝氏の提唱で「新しい教科書をつくる会」が結成され、西尾幹二氏らが参加。
・「自虐史観にも大東亜戦争肯定史観にも囚われない新しい教科書を作る」との方針の下、中学の歴史分野と公民分野の教科書を作成し、2001年4月と2005年4月の文部科学省の検定にも合格したが、左翼団体の激しい教科書採択反対運動がおこり、実際にこの教科書を採用する学校は非常に少なかった。
・しかし一般図書として販売された教科書と同一内容の本が売れ、その内容のまともさと共に、これに反対する左翼団体の異様さが広く一般国民に知られるようになり、他の一般に採用されている教科書の内容の一部正常化に繋がった(「従軍慰安婦」や「南京大虐殺30万人」の記述の取り止めなど)。
・藤岡信勝氏など代表的メンバーは実は左派からの転向者が多く、高森明勅氏が理事に名を連ねるなど人材の交流はあるものの正統史観(正統史学)派とは区別する必要がある。(「つくる会」は一般には保守系団体と見做される場合が多いが、当サイトでは敢えて「リベラル(自由主義)」と分類している。)
・左派からの転向者が多い(代表の藤岡氏自身が元共産党員)ことが一つの原因となって、「つくる会」内部で教科書の執筆方針を巡って残念ながら、度々内紛が発生している。
・屋山太郎氏ら親米保守(親英米派)のメンバーが2007年に「つくる会」から脱退し「教科書改善の会」を結成。従来「つくる会」の教科書を出版してきた扶桑社と産経新聞がこれを支援している。
・一方、「つくる会」は、出版社を扶桑社から自由社に変更して2009年4月検定合格の最も新しい教科書を発行。横浜市の18地区中8地区での採択が決定した。

&SIZE(20){ &bold(){「つくる会」の新しい教科書の動画紹介と他社の歴史・公民教科書の問題点指摘 ⇒ [[偏向教科書の正体]] へ}}

*■7.参考図書
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【関連】 [[自虐史観の正体]] [[政治の基礎知識]] [[日本主義とは何か]]

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*■8.ご意見、情報提供
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