■ルーシー・ヴァイパー■(3)


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 ■ルーシー・ヴァイパー■ No.6-1



 一週間後―――

 伊吹は個室の窓際で、外の景色を眺めていた。

 ここは彼の自宅から車で40分程度の距離にある、総合病院だ。


 九鳳院の救急医療施設から転院後の数日間は、慌しかった。

 どうやら競技空手の有望選手である伊吹入院の報が、学校側から洩れてしまったらしく、連日マスコミが押し
かけては病院関係者や家族、空手部の後輩達が追い帰すという状態が繰り返された。報道関係者をシャットアウト
した後も、過去のコネに縋ってネチネチと話を聞きだそうとする者や、病院関係者を装った服装で隠し持った機材
を持ち込む人間すら出る始末。

 ただこうした状況は、両親がガードマンを雇い入れる事を真剣に検討しはじめた辺りで、ピタリと止んだ。

 病院関係者は胸を撫で下ろし、両親は訝しんでいたが、伊吹自身はその不自然な成り行きを黙って受け入れた。
十中八九、自分達を助けた勢力が手を回した結果に違いない。

 そして恐らく、これは自分に事件前の日常に戻ることを促している、という事でもあるのだろう。取敢えず周囲
が静かになったのは良いが、やはり何とも言えない心地は拭えなかった。

 それにしても。今回の事件に、ここまでの力が振るわれる背景があるのなら・・・柔沢の置かれた立場は、思った以上
に厄介なものなのかも知れない。伊吹とジュウの間には考えて何かを察せられる程の付き合いはないが、しかし、
一旦この違和感に触れてしまうと何も考えない訳にもいかなかった。

 柔沢ジュウ―――あいつは一体、どういう人間なのだろう。


 伊吹は思考の狭間でふと芳香に引かれ、傍らに置かれた林檎に視線を移す。それは自分のよく知る女生徒が差し
入れてくれた、見舞いの品だった。



 今日も、慌しく駆け込んできた彼女の瞳。それは最後に見た時の悲しみと理解の淡い光ではなく、真夏の太陽の
様な輝きを放っていた。真直ぐで力強い、自分がよく知る堕花光の本来の色彩。

 もっとも光の方は一週間前に伊吹が大怪我を負ったと聞いて、それどころではなかった。他人を巻き込み、自分
もまた大怪我を負ったジュウをありとあらゆる手段で攻め立てながら、伊吹の面会謝絶が解かれる日を待った彼女
は、その報を受けるや、取るも取敢えず九鳳院の病室に乗り込んだのだった。

 その日以来、光は転院後も足繁く見舞いに来る。そして伊吹の回復の様子を見るついでに、何くれとなく身の回り
の世話をしてくれるのだ。伊吹が謝辞しても、にっこりと微笑むだけ。その様子は、まるで伊吹の負傷に責任を感じ
ているかの様でもあった。

 しかし、ややもすると陰気になりがちな、消毒薬や患者達の体臭が漂う病院内。彼女が居ると、ただそれだけで
部屋の空気が明るく感じられた。不思議な子だ、と思う。


 暖かさと明朗さと情熱に満ちた光の視線。それは伊吹の目に眩く映る。かつては、その大きな瞳を通して集光
され、自分に注がれてきた・・・そして他ならぬ自分自身が、粗略に扱ってしまった輝き。

 今なら分る。あの時の自分はどうしようもなく―――未熟だった。

 正しく見詰めて居れば、見抜けた筈だったのだ。彼女が“顔見知りに過ぎない他人でも、災いの渦中にある者を
捨て身で助けようとできる人間だ”という事を。そして本当の穢れとも言うべき思惑が、自分達の身内に巣食って
いた事を。

 空手部で起こった一連の事件が終わった後。その後の調べで事態の元凶が鏑木だったことが判明した。その事実
が明るみに出た後でも、鏑木は光に罵声を浴びせた部員達の中で只一人、関係者への謝罪を拒絶。責任の履行を
条件に行った、伊吹との組手で叩きのめされた彼は、それでも尚謝罪する事を拒否し続けた。

 部から飛び出す形で去る際、事の理由を問われたかつての主将は、腫上った顔に醜悪なせせら笑いを浮かべて、
こう吐き出した。

 「お前はうぜえんだよ、伊吹。そのバカ面が間抜けなザマァ晒しゃ、面白ぇと思ってよ」

 あの写真は、鏑木が付き合っている広瀬という女子から仕入れた物だった。また、手紙の件が鏑木の仕込みだった
事を、数人の部員が知っていた事も分った。事が明るみに出たのは、その内一人の告白があったからでもある。
彼等にすれば勉強も出来て家柄も良く、空手の実力にも秀でた伊吹の存在は、酷く目障りに映ったらしい。そんな
連中にとって自分の晒した醜態は、ある意味で胸がすくような光景だったそうだ。

 それだけなら、いい。良しとできる。実際のところ、伊吹が多方面に才能を発揮しだした頃から、その類の話は
珍しくもなかった。光の姉、堕花雨といったか、彼女の説明にあった「幸せ潰し」の件を聞いた時、普通なら
突拍子もない話を割にあっさりと納得できたのは、他ならぬ伊吹自身にも心当りがあったからだ。



 だが、それらの一切に光は関係ない。勿論、柔沢も。そんな彼等に、自分は何をした。何をしてしまったのか。

 出自の怪しい話を頭から信じ込み、光から事情を聞こうともせず、件の写真も捨てたきりに放置して部員に
晒されるのを止めなかった。

 道場に現れ、事情を話そうとする柔沢に殴りかかった鏑木を本気で止める事もしなかった。今にして思えば、
あの時の鏑木は柔沢の説明を邪魔していたのだ。

 光がどんな目に遭わされたかを聞いて激怒した柔沢を叩き、部員達の殴るに任せた。そして奴の話を聞くことも、
関わる事も拒絶しながら「話の証明をしてみせろ」と一方的な条件を突き付け、それに失敗した柔沢が仕掛けた
タイマン勝負では抵抗しない人間を殴り、蹴った。


 その後で事情を理解した時の感覚は、床が抜けた様な墜落感。

 光の姉に頼んで彼女を呼び出してもらい、取るも取敢えず謝罪したが―――話の途中で向かった柔沢のもとから
戻るなり、光は開口一番

 「事情はどうあれ、無抵抗の素人をあんなになるまで殴るなんて・・・伊吹先輩、一体どういう積りですかっ!!」

 これで全国空手道大会の優勝者!聞いて呆れる、チンピラ以下の無様さだ。怒る彼女の正論はどこまでも正しく、
伊吹は語る言葉を持てなかった。そんな自分に対しても光は撥ね付ける事はせず、辛抱強く最後まで話を続けてくれた。

 またその際、彼女自身に降り懸かった事実上のリンチについては、触れられる事すら無かった。結局、伊吹の方
から強引に話を持ち出し、部内で話し合って適切に始末を付ける旨を伝えたが「誤解が解けたなら、それはもういいです」
と言われる始末。

 彼女も、そして柔沢も彼等自身の事では怒らなかった。怒るのは、他人の身に起きた理不尽に対してだけ。その
潔さに比べて、彼等を汚れた連中の様に扱った自分は―――この俺は、どうだったというのか。

 取り返しのつかない失態をしでかした己自身を嫌悪し、砂を食む様な苦悶の日々を過ごしたが・・・起こった事実を
無かった事には出来ない。当然だ。

 そして今だからこそ分る。自分との間にそんな事があっても、光は伊吹が理不尽な災いに見舞われていたなら、
やはり何とかして助けようとしてくれるのだろう。場合によっては、それこそ捨て身ででも。

 だが、その優しさは今や博愛に類するもの。とても暖かいけれど、かつて寄せられた熱い想いとは異なる。そして
彼女自身は気付いていないが、その気持ちは恐らく別の男に対して開きつつあるのだ。




 淡く、苦笑を漏らす。

 今になって自覚する、自分にも芽吹きかけていた燠火の様な想い。それは対象を失ってから、小さな炎になった。
ちりちりと心臓を焼く、慙愧の炎。未練や恋心などではない。既に、そういうものではないのだ。

 今回の件で自分がジュウに加担したのは、言ってしまえば、その痛みに耐えかねての事だった。

 『こっちにはこっちの都合がある』

 あれは嘘偽りの無い、己の本心。光の優しさや、柔沢の奇妙な心意気とは違う。結局、自分は―――


 「失礼します」


 かけられた声で、伊吹は沈んだ思考から我に返った。振り向くと、何時の間にか開かれていた個室の入り口に、
小柄な人影が佇んでいる。

 顔の上半分を覆う長い前髪に、学校指定のセーラー服。この独特のスタイルは、見間違え様もない。光の姉
―――堕花雨だ。

 彼女は伊吹の驚いた様子に気付くと、頭を下げた。

 「申し訳ありません。ノックはしたのですが」

 伊吹は気にしていない、という意思表示に軽く手を振ると、さりげなく雨の背後を見遣った。奴の、柔沢の影は
ない様だ。実は伊吹は前にジュウが現れた時、もう見舞いには来ない様に告げていた。


 『俺が勝手にやった事だ』

 『それに、むさ苦しい面を見せられていたら怪我の治りが悪くなる。容態を気遣うなら、もう来るな』


 自身の怪我を押して見舞いに訪れた人間に対し、何とも悪し様に言い放ったものだが、今回のこの件では、奴に
妙な気遣いをされたくなかった。きちんとした形で出会い直す、その日まで。自分と柔沢は今まで通り、無縁の
人間であるべきなのだ。我ながら持て余す性分ではあるが、仕切り直すなら、きちんと仕切り直したい。


 「光ちゃんなら、1時間ほど前に帰りましたよ。それとも」

 苦笑と溜息を交えて、言う。

 「・・・柔沢に言われて、来てくれたのかな?」

 雨は小さく首をかしげると、伊吹の疑念にはっきりと応じた。

 「いえ。ジュウ様は近日中に、また自らお運びになられます。先日、こちらを辞した折に『勝手ばかり言うな
 こっちにはこっちの都合がある』と仰せでした」


 伊吹は思わず噴き出してしまった。痛い、痛い! あいつは、全く―――俺の怪我を酷くする積りか!

 ちょっと笑い過ぎてむせる見舞いの相手を、雨は静かに眺めていた。



 伊吹が落ち着くのを見計らって、彼女は手土産を差し出した。それは大量の漫画本。今や古典とも言える、世紀末
武闘アクションの名作。

 「入院中は退屈かと思い、一応、全巻持参しました。個人的には第一部、長兄編の完結までがお勧めです」

 受け取った本の表紙では、独特の色使いで描かれた主人公が炎の様なオーラを身に纏い、冷たい視線をこちらに
向けている。このお洒落さとは方向性が異なる、黒々とした表紙の本を平然と差し出してくる光の姉は―――やはり
変わった娘の様だ。

 実のところ、真面目な伊吹は学校や予備校の授業に出来る限り遅れない様、毎日無理が祟らない辺りまで勉強
している為、それほど暇という訳ではない。ただ漫画の類は彼の家では強固に規制されている対象物で、普段は
興味があっても手が出せない品だった。伊吹はずっと以前、家庭内のそんな事情を光に漏らした事がある。

 雨は恐らく、それを妹から聞いて気を回してくれたのだろう。確かに入院中の息子に贈られた見舞いの品なら、
あの厳格な両親と言えども無下にはできまい。それに、どうせ部活に費やす分の時間が浮いているのだ。伊吹は
苦笑を噛み殺すと、雨に礼を言った。

 「有難う。実はこれ、前から読みたかったんだよ」


 見舞いの挨拶の後で、雨は伊吹の容態を確認する質問を幾つか投げかけ、伊吹が正確な答を返すと納得した様
に頷いた。まるで大病院に患者を取られた、かかりつけの医者の様な態度だ。伊吹はまた少し、脇腹が痛くなった。
ジュウと雨の奇妙な関係を初めて目の当たりにした時は流石に戸惑ったが・・・成程、こうしてみると似合いの者
同士にも思える。


 一通りの会話を終えると、雨は姿勢を改めた。伊吹も笑みを消して、彼女の言葉を待つ。どうやらここから、
本題に入るらしい。

 「実は今日、こちらに一人でお邪魔させて頂いたのは、改めて個人的にお礼を申し上げる為と―――」

 「以前のお見舞いでは、訊けなかったお話があるからなのです」





 ■ルーシー・ヴァイパー■ No.6-2


 雨から強く請われ、伊吹は自分の知る事件の状況を語った。興味本位の連中やマスコミなどには到底話せないが、
雨の場合は事情が違う。それくらいの事は、彼にも分っていた。

 「―――柔沢は頼もしかったが・・・正直、危険だとも思った」

 「あの時のあいつは、学校の道場の時とはまるで違っていたよ。倒れた男の頭を蹴り上げていたが、あの様子
では相手が死んでも不思議じゃなかった」

 伊吹は起こった事柄を正確に伝える様努めると同時に、その時自分が感じた事も包み隠さず話した。雨が知り
たい事は、恐らく自分の知る全て。忌憚無く話す方が、彼女の望みに適うと思ったのだ。

 20分程も話したろうか。あまり饒舌でない自分が、ここまでスムーズに一つの事柄について話した事を自覚し、
伊吹は不思議に思った。どうやら聞き手としての堕花雨は、非常に優秀な人材の様だ。知る限りの事を粗方伝え
終えた伊吹は、話を締めくくる。

 「俺が知ってるのはそのくらいまでだね。黒人にやられた後の事は、分らない」

 話が一段落し、沈黙が降りた。


 遠くで、風が樹々を撫でる音がする。それに混じって時折聞こえる、鳥の声。特徴的なこの鳴き声は、シジュウカラ
だろうか。肉体に直接刻み込まれた陰惨な事件とは対照的な音と風景が、窓外に広がっている。


 ふと、雨が言葉を漏らした。

 「ジュウ様は―――ご自分の為だけなら、その様な振る舞いはなさいません」

 言い置いて立ち上がると、彼女は持参した花を生ける作業を始めた。室内の洗面所で花瓶に水を汲み、束ねられた
花の包みを剥がす。伊吹は、やや躊躇いを覚えながらも、その背中に問いかけた。

 「それは、どういう意味?」

 「貴方の介入がなければ、ジュウ様はかなりの確率で誘拐されていただろう、という意味です」

 そう聞いても、ジュウとさして親しくない伊吹には分らない。振り返り、その様子を見て取った雨は、作業を続け
ながら静かに自論を開帳した。

 「ジュウ様は本当に危険な敵対者が相手でも、その影響がご自身で収まる範囲である限り、とことんまで冷酷には
 なられません。勿論、上手く立ち回って何とかしようとはなさいますが、究極的には“本気で戦って相手を死なせる
 事に比べれば、自分が誘拐された方がマシ”―――思考というより心で、そういう結果を受け入れてしまいかねない
 部分をお持ちなのです」

 「・・・・・・」



 パチンッ。病室に、紐を切る音が響いた。雨は更に一本一本の茎の長さを整え、束ね直した花束を花瓶に挿す。
沈黙の間が生じたが、伊吹には口を挟むことが憚られた。やがて花を整える音に紛らわす様に、雨は呟いた。

 「私は、それが怖い」

 手が止まる。

 「・・・とても怖いのです」


 作業を終えた雨は、花瓶を窓際に置いた。患者から遠過ぎず、近過ぎない絶妙の位置。彼女は会話の相手に向き直る。

 その顔に、伊吹は「いや、まさか」とは言えなかった。むしろ、あの時のジュウの行動に合点がいった気がしたのだ。
自分が柔沢の足手纏いになったとまでは思わないが、しかし奴があの日、あそこまで非情になり切ろうとしたのは
―――俺の為か。

 「・・・敵わないな」

 感心より、むしろ呆れた様な心地で呟く。雨の話が本当なら、そんな優しさ(それを優しさと言うなら、だが)を
負いながら危険に関ろうとするなど、殆ど自滅行為だ。よくも今まで―――


 「勿論、何人もジュウ様には敵いません」

 何を今更、という語調で雨が首肯する。伊吹は少し驚いた。彼女の口調に、常ならぬ冷淡さを感じたのだ。

 「あの懐の広さは、ジュウ様の御心とお力の上にしか成立しません。しかし、あの方も不死身ではない」

 雨の言葉は何時しか、伊吹には理解し難い熱を帯び始めていた。前髪の向こうの瞳から、自分に強い視線が注がれ
ているのが分る。彼女は一体、何を言おうとしているのだろう。

 「私は貴方にとても感謝しています。貴方の助力がなければ、恐らくジュウ様は誘拐され、取り返しの付かない
 事態に陥っていた事でしょう。それは、私にとって地獄を越える地獄。ですが・・・」

 室内の空気が鋭気を帯びたまま停止した。伊吹は続く言葉を待ったが、彼女は口を閉ざしたまま。その姿は鉱物
の様に不動に見える一方で、何かを躊躇している様にも見えた。

 沈黙の数十秒が過ぎた頃。気詰まりする空気に耐えかねた伊吹が口を開きかけた矢先、雨は核心に触れる言葉を
放った。

 「ですが、同時に私は妬ましい―――本来ならジュウ様が危急にある時、傍に控えているのは貴方ではなく、私で
 なければならなかった」



 伊吹は黙って雨を見つめた。平たい常識に照らして見れば、彼女の言い分は矛盾している。少なくともジュウを
救って深手を負い、今尚入院中の患者に言うべき言葉ではない。

 だが、彼女は全て分っているのだ。何もかもを分っていて尚、どうしようもなく悔やんでいる。その気持ちが、
今の伊吹にはよく分った。

 かつての自分が光の危機に際し、柔沢が居た位置に居れたなら。過ぎた出来事に“もし”は有得ないと重々承知
していながら“もし、立場が違っていたなら”。そう考えてしまう自分は、確かに居る。


 全てを承知している筈の、堕花雨。彼女が敢えて、こうした醜態を晒して見せるのは―――恐らく、自分に代わって
大事な人を守った人間への、彼女なりの誠意なのだろう。


 「大事なのは、今後じゃないかな」

 自然に言葉がこぼれた。自力で幾度も繰り返し辿りついていながら、独りではどこか上滑りしていた答。それが
人に語る段になって、初めて実感を伴って腑に落ちる。

 そう、大事な事はこの先にある。自分も堕花雨も、この先幾度も試される筈だ。振り返った後になって、運命
だの人生だのと呼ばれるものに。

 「俺があの場に居たのは、ただの偶然だ。力になれたなら、良かったとは思うけどね」

 そう言って複雑な笑みを浮かべる伊吹の顔を、光の姉はじっと見つめていた。

 やがて、小さく頭を下げる。

 「益体もない事を言ってしまいました。申し訳ありません」

 そして。再び顔を上げた彼女の顔には、初めて見る表情が浮かんでいた。小さな、微笑み。

 「ままならないものですね」

 伊吹も軽く頷くと、苦笑を交えて応じた。

 「全くだよ」



 そうして少し雑談した後、堕花雨は帰っていった。

 何となく、この後の彼女が柔沢の元に直行している様な気がしたが、それはまあ只の想像に過ぎない。いずれに
せよ、自分は当面入院だ。


 伊吹は、幾分すっきりした頭で考える。つい先程まで落ち込んで居たのに、不思議なものだ。


 潔癖症は、ある種の病。過剰に白く染められた心は脆く、容易に特定の色に染まってしまう。己の価値観―――
尊敬する両親から受けた薫陶も相応な理由あってのものに違いないが、それだけで全てを測るには、この世は複雑だ。

 自分はもっと自身の在り様を考えて行かねばならないらしい。あれだけの事があって、その程度の教訓を学べ
ないなら、それこそ本当の大馬鹿だ。かつては見向きもしなかった対象の中にも、綺麗なものが混じっている場合
がある事を、今の自分は知っているのだから。

 それに冷静になって思い返してみれば、あの鏑木をおかしな行動に駆り立てた原因の一端は、自分にもあったの
かも知れない。現在の空手部は実質的には伊吹が中心になって居て、粗野な鏑木は一定の実力を認められつつも、
部員の大半にあまり尊重されていなかったのだ。殆ど敬遠されていた、と言っていい。

 対して伊吹は道場通いに予備校等、部に出る日が限られる身でありながら部員と顧問の信頼が厚い。彼個人は
そうした出席体制故に副将という位置に留まったのだが、それが他の部員や鏑木にどう受け取られているかに
ついては、ついぞ考えた事がなかった。

 ただ改めて思うに、鏑木が主将の座を占めるに至った経緯は、或いは彼の自尊心をいたく傷付けたのかも知れ
なかった。実際、鏑木の乱暴な言動や問題傾向は、彼が主将に就いた昨年辺りから加速度的に酷くなった様に思う。
殊更の示威的な態度は元々の性格もさる事ながら、焦りや苛立ちの反映だった可能性も否めないのだ。

 これまでの自分は部員個々人の事情として、その種の問題からは一定の距離を置き、敢えて触れない方針を
とって来たが・・・それも事と次第による、という事なのかも知れない。


 退院したらもう一度、鏑木とも話し合ってみよう。無駄に終わるかもしれないが、彼とて長らく一緒に練習に
取り組み、合宿では同じ釜の飯を食い、共に笑いあった事もある人間だ。また問題行動こそ多かったものの、過去
2年余りを空手部に注ぎ込み、主将にまでなった部員でもある。その全てが嘘だったと切り捨ててしまうのは、
早過ぎるかも知れない。

 それに今年の大会に、自分は出られない。後輩を指導できる人間が必要なのだ。相手あっての事だけに、結果
がどう転ぶかは分らないが―――試せる余地がある限りは試してみなければ。


 「でもまあ、今できるのは本を読むくらいか」


 伊吹は、光の姉が差し入れてくれた漫画本を手に取った。表紙では相変わらず、主人公が冷たい視線をこちら
に向けている。この差し入れについては厳格な両親も目こぼしをくれる可能性は充分あったが、一応、彼等の目
の届く前に読んでおく事にする。


 「どれ・・・痛てて」



 その後、空手部員達が見舞いに訪れるまでの数時間、個室は涼やかな香りとページを繰る音で占められた。





 ■ルーシー・ヴァイパー■ Ep



 時は遡って――――――事件後、真九朗が立ち寄った山浦医院での一幕。



 「ただの唾液だ」


 山浦医師は呆れた様に首を横に振ると、真九朗に分析結果を告げた。

 「しかし女に耳を舐めさせといて、それを分析してくれってのはなあ・・・お前それでも男か?」

 山浦の傍らで、かつての東西南―――現・山浦南は深い溜息を盛大に吐き出し、軽蔑する様に言い放つ。

 「はあ~ぁ。真九朗くんてば、だっさっ!しょっぼっ!」

 それまで真九朗の足に抱きついて遊んでいた、現在5歳になる山浦家の長女・真南が、下から母親と彼を交互
に見比べて尋ねてきた。

 「しんくろ、しょぼいの?」

 この幼女はどういう訳だか真九朗が大のお気に入りらしく、彼が医院に来るのを楽しみにしている。外科病院
に来る患者の体には、つまり何らかの問題が生じている訳だが―――その辺はあまり気にならない様で、真九朗
はかつてカルテの電話番号に連絡してきた真南から「けが、まだ?」と訊かれた事があった。その上、彼女の強い
執着は彼の芳しくない方面の評判に信憑性を与えてもいたのだが・・・それはともかく。

 南は、愛情の滲む微笑を浮かべて娘の前にしゃがみ込むと、母が人生の秘訣を伝授する口調で応じた。

 「ん~ん、ださしょぼいの。しんくろはださしょぼいのよ」


 乗せられてはいけない。ださくても、しょぼくても、しょうもなくても、三流の小心者であっても自分は死ぬ訳
にはいかないのだ。沢山の重い約束があるのだ。そのための警戒なんだから、他人にどう言われようと何でもない。
ああ、何でもないとも。影から弥生にジト目で睨まれてようが、だーれも分ってくれなかろうが自分には理解者
が3人も居る。紫や夕乃や銀子が居るのだ。



 ところで、やはりルーシー・メイは毒を仕込んでいた。勿論、仕込まない訳がなかった。


 毒は遅効性ながら確実に役割を果たし、真九朗は訳の分らないまま彼女の悪意を全身で浴びるハメになる。

 それは経過確認と引継ぎの為に、九鳳院に赴いた時。

 どういう訳だか許婚に散々に叱られ、ヘコみながらも崩月に事の顛末を報告に上がった時。

 静かに微笑む師範から強制された稽古でズダボロになった後、出国前の僅かな癒しを求めて風味亭に寄った時、
の三度に渡って彼を叩きのめした。


 実際、その被害たるや惨々たるもの。心身共にボロ雑巾の様に成り果てた真九朗は、ここに来てようやっと
ルーシーの悪意に思い至った。

 「あっ、あんの蛇女ぁ~~~~~~~~~~~っ!!!」

 その真九朗の雄叫びに応じる声は、あくまでも冷ややかで容赦がない。

 「・・・いやらしいわね、女のせいにする積り? これ以上穢れを店に持ち込まれても迷惑だから、さっさと
 行きなさいよロリコン。臭くてたまらないわ」


 毒の正体は化粧品。真九朗の耳を咥えて注意を逸らし、その隙にさりげなく胸元深くに吹き付けられた―――
地味な香りのパフュームだった。



 □Fin.
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