■ルーシー・ヴァイパー■(2)


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 ■ルーシー・ヴァイパー■ No.3-1


 ジュウは雨の姿を認めると、溜息をついた。今すぐ雪姫や円堂、そしてこの雨に対しても「逃げろ」と言い「関って
来るな」と怒鳴るべきだった。事実、つい先程自分に加担した伊吹は大怪我を負ってしまったのだ。そんな事が
もし彼女等の身に起こりでもしたら自分は一生、己自身を許せなくなってしまうだろう。

 だが実際に口を突いて出た言葉は、そういう類のものとは違っていた。声の調子も、半ば呆れた様なもの。

 「お前、よく俺の居場所が分ったな」

 この何とも言い難い心地のせいだろうか、つい訊いてしまう。同時に、答は殆ど分り切っていると思った―――
こいつは自分を驚かせた後、決まってこう言うのだから。

 「前世の絆です」


 そうかよ。我知らず、ジュウは小さな苦笑を漏らす。そんじゃまあ、取敢えず伊吹は雪姫と円堂に任せて、もう
ひと暴れいってみようか。

 ―――と、その前に。

 「おい」

 「はい。ジュウ様」

 「もっと体を隠せ。こいつらに飛び道具があったらどうすんだよ」

 「しかし、ジュウ様。それでは射角範囲が・・・」


 「命令だ」


 関るなら、この条件は絶対―――その強い意思を感じたのか、雨はジュウの言葉に大人しく従い、可能な範囲一杯
まで体を隠した。勿論、ルーシーへの照準は外さないままだったが。



 ジュウはホッと息をつく。自分の言葉の一体何が、彼の護衛に関して頑なな雨に通じたのか分らないが・・・取敢えず
安堵。この場に光が居れば確実に「鈍感野郎!」とでも罵られていただろう場面、周囲を警戒するジュウの思考が、
ふと変な方を向く。

 それにしても、こう幾度もいいタイミングで「前世の絆」を云々され続けていると―――何時か自分も乗せられて
しまうんじゃないか?

 緊迫した状況にも関らずジュウは一瞬そんな想像に捕らわれ、慌ててかぶりを振った。いやいやいや。あいつの言う
前世とやらは紀元前にあったとかいう、剣と“魔法”の世界だぞ? 剣はともかく魔法はない。いや、だからって剣なら
アリと言う訳じゃないが・・・


 突然、重い衝撃音が響いた。その鋭い轟きが、妙な感じになりかかったジュウの精神を争いの場に引き戻す。


 眇められたジュウの視線の先では、黒人の巨漢が膝を立てた姿勢で地面に拳を突き立てていた。狂的な怒りと、
受けたダメージによって酷く歪んだ顔。幾分当りが浅かったのか僅かに開いた右目で周囲を睨め付け、ギリギリと
歯を軋ませる様子は、感情のブレーキが壊れた人間の憎悪そのもの。正視し難い醜悪さだ。

 やがて憎悪の塊はジュウの姿を捉えると声にならない雄叫びを上げて立ち上がり、猛突進を開始した。瞬時に
危険を察した雨のスリングが高い精度で“鉄腕”の額を捉えたが、鉛玉は埋め込まれた鋼板に弾かれ、突進を止める
事ができない。


 雨がスリングに次弾をつがえ 残る悪宇の男達が動き 雪姫が走り ジュウが身構えた


 その刹那―――様々な想定外の出来事が、同時に発生する。


 突如、ジュウの脇を後方から擦過した影が怪物の突進と激突。次いで悪宇の男達に銃弾と“苦内”の雨が降り注ぐ。
銃撃は主に制止に主眼を置いた威嚇射撃だったが、伊吹と円に近い位置まで達した一部の男達は、苦内にその四肢
を貫かれ、苦悶の叫びをあげた。



 一斉に舞い上がる砂埃。各人各様に生じる騒乱。その諸々が幾分薄まった頃、事態の中央に静止する小山の様な
巨漢の影が浮かび上がった。

 否、正確にはもう一人。

 “鉄腕”を受け止めた影の正体は、驚いた事にジュウより背の低い青年。彼はそのまま力勝負に持ち込む様に、
ガッシリと巨漢と両手を組み合っている。

 それは実に奇妙な光景だった。

 勢いに乗った2メートル超の熊の様な巨漢と、中背でどちらかと言えば細身の青年がぶつかったのだ。普通に考え
れば、体重にアドバンテージがある方が有利に決まっている。その両者の重量差は、傍目にも明らかに倍以上。

 それに相当な衝撃が生じたのだろう。衝突の瞬間に生じた音は―――人体同士がぶつかった音としては―――耳
を覆いたくなる様な物凄い音だった。しかも“鉄腕”はその名が示す通り、両腕を金属製の特殊な義手で武装した、一種
の戦闘サイボーグ。これに生身の人体がぶつかるという事は、先のジュウや伊吹が受けた打撃と同じく、ムクの鋼材
に体当たりする様なものだ。到底、ただで済む筈がなかった。

 だが現実には巨漢が動きを止められ、両者は今も組み合ったまま静止している。それも、ただの静止ではない。
背景にある凄まじい力の鬩ぎ合いを示す様に、細かく震えて軋む、二人の肉体の上に成り立つ静止状態だ。



 そのまま、緩慢な数秒間が過ぎる。岩の様な筋肉を強張らせ、驚愕に目を剥く“鉄腕”が苦しげな呻き声を漏らした。

 「・・・貴、様・・・崩月の・・・ッ」

 青年の声が、軽い感じで応じる。緊迫した状況にそぐわない、涼やかな声。

 「へえ、アロハは止めたんだ」

 “鉄腕”は動揺の為か、早くも額に脂汗を浮かべていた。その顔を軽く見上げ、真九朗は続けた。

 「でも今着てるのも、あんまり高い服じゃなさそうだな。薄給で肉体労働ってのもキツいよね“鉄腕”?」

 この相手を見て正気に戻ったらしい“鉄腕”は、苦しげな息の下で切れ切れに言葉を返す。

 「・・・戦闘屋が・・・ッ、仕事中にブランド物なんて着れるか!」

 「成程」

 納得したのか、頷く真九朗。そして益々酷くなる震えと軋み。その最中で“鉄腕”は全身にびっしりと粘る汗を
浮かべ、歯を食いしばって耐えている。一方の真九朗は、この状態をさして苦にしていない様子。

 「ところで、悪いんだけど今日は旧交を温めてる暇がなくてさ」

 「・・・ッ?!」

 「そんな訳だから、名乗りも省略って事で勘弁な!」

 真九朗は両手を組んだまま羽のように宙に浮かび上がり、“鉄腕”の顎を目掛けて、全身を引き伸ばす強烈な蹴り
を放った。細身の体から発したものとは思えない、凄まじい剛力―――だが崩月流を戦鬼の技たらしめる角は、未だ
出現していない。

 それでも余程の衝撃だったのだろう。壁の様な“鉄腕”の巨体が激しく仰け反った。衝撃をまともに喰らった顎は
口内を圧迫し、鮮血と共に数本の歯が飛び散る。真九朗は戦闘屋の手から離れて地面に降り立つと、瞬間移動を思わ
せる急加速で再度肉薄。巨漢の胸部と頭部周辺で、乾いた音が響き渡った。

 全ては一瞬の出来事。悪宇商会所属の戦闘屋“鉄腕”ダニエル・ブランチャードは、立ったまま白目を剥くと、吊糸
が切れた人形の様に崩折れた。





 ■ルーシー・ヴァイパー■ No.3-2


 そこからの展開は急速だった。真九朗が懐から取り出した小型通信機に小声で何事か告げると、救急隊員が大挙
して押し寄せ、ルーシーの手下達との静かな乱闘を開始する。各街路に配置されていた十数名の悪宇の人員も、押
しやられる形で集まってきていたが、とても抗し切れない。数で圧倒された悪宇商会側は、暴力や薬物で昏倒させ
られた者から順に次々とストレッチャーに拘束され、隊員達に運び去られていった。


 今や無事な者はルーシー周辺の5名のみ。他は散発的に続く周囲の争いで手一杯の状態だ。それも長くは持ちそう
にない。真九朗はルーシーの方に歩み寄り、飛び掛ってきた一名を蹴りの一閃で黙らせる。その傍らには何時の間
にか、一人の女性が立っていた。

 後頭で束ねた髪に細い目。服装は霞がかかった様なダークグレーで整えられている。この女性は全体に渡って印象
が希薄だった。仮に街中で見かけても次の瞬間には忘れている様な、淡い佇まい。だが、そんな彼女の両手には使い
込まれた苦内が握られている。

 犬塚弥生―――柔沢紅香を主に戴く、彼女の腹心にして現代の忍だった。


 真九朗が残る内の二名を、後の二名を弥生が黙らせる。何れも瞬時に片がついた。抵抗を諦めたか、憮然と押し
黙るルーシーの傍らに立った真九朗は、未だ周辺で乱闘をやめようとしない悪宇商会の残党に穏やかな声で呼びかけた。


 「あー動かないで。そのまま、そのまま。あなた方の見張りはご覧の通りで、現在、周囲はこちらの人間が張ってる。
そこの彼女達は柔沢君の友人だって言うから、特別にお通ししたけどね。」

 傍らで黙っていた弥生が、真九朗にだけ聞こえる声で呟いた。

 「まだ高校生の『円堂』に見返りを要求していた様ですが」

 真九朗は聞こえない振り。

 「警察には“事前の”撮影許可を取ってある。だから、ここでは何があっても問題ないんだ。例えば」

 一呼吸置いて続けた。

 「あなた方が“物凄く酷い目に遭う様なシーン”でもね」



 どうにも・・・この警告は迫力を欠いたか、今一つ聞いてもらえなかった様で、乱闘が止まない。やっぱり総倒し
にするしかないらしい。ああ、頼むよ本当にもう。誰も死ななきゃいいのだが。

 大体、こんな風に力を背景に無理矢理押し切るなんて、まるで悪役になった気分だ。交渉もへったくれもあった
もんじゃない。弥生さんはフォローしてくれないし。

 深く被った狡猾面の仮面の下で、真九朗は誰にともなくボヤいた。まあ、どう考えても今回の悪役はジュウの誘拐
を目論んだ悪宇商会なのだし、弥生が一切口を出さない事も、状況全体を自分が担っている為と言えなくもないのだが。

 やっぱり紅香と自分では根元から違う気がする。どういう訳だか同じ様な場面でも、あの女帝がやるとスカッと
決まってしまうのだから―――全く世の中は不公平だ。自分には到底、あの真似はできない。

 真九朗は心中で溜息をついた。

 まあ、とはいえ・・・始めた案件は、きっちり背負って最後までやり通さねば。圧倒的優位からでも、圧倒的不利
からでもだ。最も根本的な、この原則だけは揉め事処理屋を営む者の矜持。それを思えば多少嫌な奴っぽい振る舞い
も、この際仕方あるまい。大体、他にやり様もないのだし。

 真九朗は瞬時に気を取り直すと、まだしも話が通じそうな顔見知りに声をかけた。


 「どうも。お久し振りです、ルーシーさん」





 ■ルーシー・ヴァイパー■ No.4-1


 「伊吹ッ!!」


 ジュウは円に体を預ける伊吹の傍に駆け寄った。膝をついて苦しい息を抑えつけ、必死に呼びかける。勢い込む
ジュウを見、朦朧としている伊吹の代わりに円が応えた。

 「落ち着きなさい、柔沢君。あなたが焦ったところで仕方がないわ」

 「そうか・・・いや、だが、そう、いや救急車を・・・ッ」

 慌てて尻ポケットの携帯に手をやったが強張った指は殆ど動かず、中々取り出す事が出来ない。挙句、散々四苦
八苦して取り出したそれは―――先の乱闘で男達が放った鉄棒の一撃からジュウの身を守った代償に―――破壊され
ていた。傍らの雪姫が視線の先で何か見出し、宥める様にジュウの肩に手を置く。

 「その必要は無いみたいだぞ」

 彼女が顎で示す先にジュウが視線を向けると、救急救命士と思しき男達が器具を抱えて、こちらに向かって来る
ところだった。

 安堵しかけて、瞬時に思い直す。つい先程まで周囲では同じ格好をした人間達が乱闘を繰り広げ、あの誘拐犯ども
を叩きのめしていたのだ。危急の状況下では味方にも見えたが、後者も怪しげな連中である事に違いはない。再び
警戒を強めたジュウは彼等を睨みつけると立ち上がった。その様子は、まるきり手負いの獣の様。その腕を円が掴
んで止める。

 「大丈夫よ。彼等に任せた方が、救急車を呼ぶより何倍も良い待遇が受けられるわ」

 「・・・周りの様を見て、何でそんな事が言えるんだ?」

 ジュウは救命士姿の男達に視線を向けたまま、警戒を解かない声で訊き返した。彼等はジュウの剣呑な視線を受け、
戸惑ったように立ち止まる。円は溜息を付くと一転、厳しい声を発した。

 「伊吹を巻き込んだ事に責任を感じるなら!邪魔をしないで彼等に仕事をさせなさい、柔沢君!!」

 痛いところを容赦なく抉られ、思わず強張るジュウ。彼女の声を聞き取った救命士達は、ジュウに警戒の視線を
向けつつ伊吹に駆け寄った。次いで、てきぱきと作業を始める様子を見守りながら、円堂円は説明を再開する。

 「さっき、あなたを助けた人ね。ちょっとした有名人なのよ」

 「九鳳院で―――と言ってもあなたは知らないわね。とにかく、伊吹は国内最高の治療を受けられる。そういう
手筈になってるの」

 押し黙るジュウを見て、雪姫がフォローを入れた。

 「伊吹はウチの高校の空手部員だぞ、柔沢。円がおかしな連中に任せる訳がない」

 説得力のある説明だった。確かに、円の様子からは落ち着いた気配しか感じない。



 ここで、やっとジュウは警戒を解いた―――解く事が、できた。緊張が解かれた肉体から、急速に力が抜けていく。

 一度緩んでしまうと後はもうガタガタだった。足が崩れ、がっくりと肩が下がる。とても立っては居られず、膝を
ついて倒れかけるジュウを雪姫が慌てて支えた。ジュウの意識とは別に強張った肺は焼け付く様な荒い息を吐き出し、
全身の筋肉は痺れて震え、噴き出す汗が滝の様に流れ落ちる。

 実際、ジュウの体の状態は酷いものだった。至る所に打撲傷や裂傷、擦過傷。また、夢中で争う最中で気付かな
かったが、肋骨の一部も骨折していた。中でも特にダメージが目立つのは両手で、強張ったまま開かない拳から血
が溢れ出している。内部でかなり深い傷を負っているのは明らかだった。

 その様を見て雪姫が黙り込み、円が顔をしかめる。それまでのジュウがあまりに平然と動いていた為、彼の怪我
の程度を見誤っていたのだ。

 「あなたこそ・・・ズダボロじゃない」

 円は伊吹の処置をしている救命士に向かって、何事か訊ねた。ジュウの手当ての段取りをつける積りらしい。

 無言でジュウの手を取る雪姫。握った右手の肉には時計の鎖がめり込み、左の掌には無数の尖ったコンクリート
片が埋もれていた。雪姫は黙ったまま、一本づつ指を解いていく。壊れ物に触るように慎重で、優しい手つき。
その暖かい手触りにジュウは安堵した。周囲に居るのは皆味方で、もう襲われる事もなければ襲う必要もないのだ。

 ただ当の雪姫は手つきに反して、不自然なまでの無表情。その顔には抑え難い怒りの色が浮かんでいた。これは
ナイフを手にする彼女には、とても珍しい事だ。何時もと異なる雪姫の反応に気付き、ジュウは落ち着かなくなった。
どこか宥める様な声で言う。

 「こんな怪我なんざ大した事ねえよ―――それより、済まねえ。またお前等を巻き込んじまって」

 巻き込んだという事実関係は本当で、深い感謝と謝罪の気持ちに偽りはないが、この時のジュウの言葉は空回りした
様だった。押し黙ったまま作業を続ける雪姫。手配を終えた円も、今はじっと様子を見守るだけで一言も発さない。

 何時果てるともつかない沈黙に耐えかね、再び何事か話そうとしたジュウの耳に微かな声が届いたのは、そんな
時だった。

 「・・・何か、言ったか?」

 よく聞き取れず、ジュウは訊き返したが、応じる声はない。その言葉は円の方には届いたものの、意味までは
伝わらなかった。ふと手を止めた雪姫が、小さく漏らした呟き。


 「―――痛い」


 ジュウの方にも救命士が到着し、応急処置を始めるまで雪姫はジュウの手を離そうとしなかった。





 ■ルーシー・ヴァイパー■ No.4-2


 周囲の状況は、かなり落ち着きを取り戻していた。事後処理の緊張下で怒鳴りあう声や、慌しく作業に従事する
人々の騒音は其処此処で起こっているが、害意の篭った騒乱とは異なる気配。一定の深刻さが感じられる非常時な
がら、危機下とは異なる空気だった。

 伊吹が慎重にストレッチャーに乗せられる様子を見、ジュウは付き添いに行こうと雪姫の肩を借りて立ち上がる。

 つい先程まで、彼自身もストレッチャーで搬送されるべきだと雪姫と円が主張していたのだが、現場入りした
救急車のサイズから自分が乗せられてしまっては伊吹と同乗できなくなる為、ジュウはこれを拒否。仕方なく雪姫が
肩を貸したものの、円は「好きにしなさい」と言ったきり、伊吹の方に行ってしまった。どうやら即座に彼を運び去り、
ジュウを置いて行く事で安静に搬送させようという事らしい。緩慢に、だが可能な限り急いで歩み始めるジュウ。

 背中に耳慣れた声がかけられたのは、その直後だった。

 「ジュウ様!」

 ジュウと雪姫が振り返る。先を行く円は少し離れた場所から、駆け寄ってくる雨とジュウ達を見遣った。

 「申し訳ありません。辺りを封鎖している者達が聞き分けてくれず、遅くなってしまいました」

 雪姫や円と違い、一人狙撃位置に居た雨は現場入りが難しかったらしい。よく見ると髪や服装が幾分乱れ、息が
弾んでいる。唇を噛締める様子から雨が相当に怒り、また落ち込んで居る事が見て取れた。これはこれで、とても
珍しい佇まいだ。登場した時は冷静な様に見えた彼女だが、内心は気が気でなかったに違いない。

 ジュウはろくに動かない手を持ち上げ、その甲を雨の頭にぽんと乗せた。血の付いていない箇所で、優しく触れる。

 「さっきは本当に助かった。有難うな」

 雨は一瞬頬を染めて俯いたが、再び目を上げると怪我だらけのジュウを気遣わしげに見つめた。徐々に顔から血の
気が引いてゆく。どうやら見かけより酷い怪我が、早々にバレてしまったらしい。ジュウは頭を掻く事も出来ず、
立っているのがやっとの状態だった。

 雨は急場の止血が施されたジュウの手をそっと取ると、それを俯く額に当てた。震えだす肩。前髪に隠れた瞳は
窺えないが、ジュウは彼女の呟きから激しい感情の揺れを感じた。

 「ジュウ様・・・」

 またやってしまった。今回は自分で招いた事ではないとはいえ、それで雨にかける心配が軽減される訳でもない。
くそっ、ババアめ・・・ここ暫く音信不通になったと思ったら次はこれか?今度絶対、事情を吐かせてやる。

 その傍らに立つ雪姫が、二人の様子を複雑な表情で見つめている事に、この時のジュウは気付けなかった。



 円は伊吹に付き添って先行している為、立ち止まってしまったジュウ達との間には距離が開きつつある。彼女は
歩きながら、ストレッチャーに臥せた功労者に向って呟いた。

 「伊吹。礼を言わせてもうらうわ―――ありがとう」


 もしジュウが連れ去られたり、殺されでもしていたら、あの友人達はどうなっていただろう。二人との付き合い
が長い円だが、それだけに彼女等のポテンシャルが最大限に発揮された場合の状況は、あまり考えたくないもの
だった。間違いなく彼女等には地獄が、そして相手組織にも相応の被害が生じていたに違いない。

 今回それが紙一重で防がれたのは、間違いなく伊吹のお陰だった。担架に臥して細い息を吐く、この優男は傷
つき、気を失っていたが・・・外傷自体は時間をかければ回復できそうだ。悪宇商会の戦闘屋とやりあった結果
としては、まだしも軽い方なのかも知れない。

 ただ、この様子では今年の公式戦は断念せざるを得まい。空手に打ち込むこの生真面目な男に、それは相当厳
しい事実の筈だ。否、それどころか今回の傷害事件が歪な形で公になれば、伊吹の選手人生に今以上の深刻な影
を落とす可能性もあった。だが恐らく、彼はそれを知りつつも助力せずには居られなかったのだろう。

 それにしても、あの男――――――

 「全く、ろくでもない」

 目に険を寄せ、尖った声で呟く。言わぬ事ではない。以前、光雲高校の食堂で突きつけた警告が現実のものに
なりかけたのだ。円は多大な迷惑をかけるなら雨達の前から消える様、ジュウに言い渡した際、彼が寄こした返事
を思い出す。

 『そんな事になる前に、あいつらは俺に飽きる』

 あの男は特異な内面故か、無責任に他人の好意を引き寄せる割に、その重さには殆ど頓着しない。自分など何時
でも捨ててくれ―――本心からそういう態度なのだ。

 では、周囲の人間達がそうできなければ「それは他人の勝手だから、どれほど苦しもうと気にならない」とでも
言う積りか!・・・そう言って通じる相手なら、どれ程楽な事だろう。

 まあ、どうやら今回の騒動は、災難の方から降りかかってきたものらしい。だが怪我は怪我、死は死、失踪は
失踪。周囲の者にとって、原因は起こった現象を構成する二次的要素であって、現象が齎す欠損とは関係ない。
これは無自覚が免罪符になる問題ではないのだ。大体、何だってあの男の周囲ではこうトラブルばかり起こるのか。

 これまでのところ、自分はあの男については静観を決め込む積りでいた。しかし、結局は何時も巻き込まれて
しまうのだ。まあ、あの奇妙に善良で時折魅せる人間性は、それなりに評価できるものではあるが・・・自分との
接点については未だによく分らない。彼との出会いの意味は、一体どの辺りにあるのか―――そこでふと、円は
ブロッコリー並に嫌悪する男の事で、頭を悩ませる己に気付く。

 やっぱり、ろくでもない。



 一方、ジュウはようやっと歩きだしはしたものの、依然震えたままの雨をどうやって鎮めたものか、未だに悩
んでいた。如何に平気を装うとも、彼女の目はジュウの怪我の度合いを正確に見抜いてしまっている。強がって
見せる事は、彼女の安心には繋がらないだろう。

 ジュウはどこか言い訳めいた自分の挙動を自覚しながら、軽めに切り出した。ぐらぐらと体を揺らしながらな
ので、どうにも不恰好だったが。

 「これから、凄い治療施設に行くらしい」

 「・・・九鳳院、でしょうか?」

 「よく知らんが、円堂が言うにはそうらしいな」

 ジュウは一呼吸置く。こう続ける事には、何故か度胸が必要だった。


 「お前も、ついて来てくれるか?」


 勿論、彼女の返事は言うまでもないが・・・それに留まらず、何故か雨はぴたりと固まり―――耳まで真赤に
なった。頭から湯気でも出そうな雰囲気。


 ナイフを仕舞った雪姫が、膨れっ面で口を挟んだ。

 「柔沢くんさあ。あたしにも何か言うコト、忘れてない?」





 ■ルーシー・ヴァイパー■ No.5



 「一人で戻ったりしたら、わたしは社長に殺されちゃいますよ!!」


 大声で怒鳴るルーシーを見やり、真九朗は困ったように応えた。

 「でも、それは石を蹴飛ばしたら足を怪我したって話でしょう?そんな事言われても困ります」

 まあ、あの柔沢家の直系を石に譬えるなんてとんでもない話ですけど、と笑いを含んだ声で続ける。

 「それにもうすぐ、紅香さんの部下が沢山やって来ます。ここに残ってるのはマズいでしょう?」

 意に沿わぬ展開に、傍らに立つ弥生が口を開いた。

 「紅さん、勝手に紅香様の敵を逃がす様な真似は―――」

 真九朗は弥生の苦情に柔らかく、しかし筋の通る声で応じた。

 「僕はまだ、この件で誰かに雇われた訳じゃありませんからね」

 この状況に於いて、真九朗と弥生は僅かに立ち位置が異なる。現場を制しているのは紅香の部下ではないのだ。

 「それに、ルーシーさんにはちょっとした借りがあって・・・弥生さんもご存知ですよね?ホテル跡地の、例の
一件です」

 弥生は少し考える様に間を置いた後、微かに呆れた声で言った。

 「・・・随分、昔の話を持ち出したものですね。」

 真九朗は視線で、離れた場所に立つジュウの方を示し

 「時計の縁でもあります。今回だけっ!お願いしますよ」

 「・・・・・・」

 拝む様に両手を合わせる真九朗を軽く睨みつけ、弥生は沈黙した。



 一先ず黙って成り行きを見守っていたルーシーが、真九朗に向き直り

 「紅さん―――」

 「言っておきますが、これ以上の交渉は無理ですよルーシーさん」

 打って変わった鋭い声と目線でルーシーを押さえ付け、言い放つ真九朗。

 「俺の手札はこれ一枚きりで、他に弥生さんを説得できるネタはありません。弥生さんも、あの時の助力を
酌んで見逃してくれるだけです。今回に限り、貴方だけは五体満足で帰れる。柔沢君への狼藉を思えば破格の
お話でしょう?」

 一拍置いて、ストレッチャーに拘束されて運ばれる連中を親指で指し示し

 「勿論、彼等には色々と訊くことになりますが・・・まあ、死んだりはしないでしょう。多分ね」

 考える様に沈黙する、ルーシー。真九朗は目を眇めて救急車に搬送される伊吹とジュウ達の様子を確認し、彼女
にちらりと視線を向ける。

 「それから柔沢君と、助っ人に入った学生達の件ですが―――彼等の事は俺が預かります。今後彼等の周囲で
何か問題が起こった場合、それがどんなに些細な事だろうと貴方の仕業と判断して、然るべき対処を行います
から。くれぐれも宜しく」

 「・・・あの空手学生の両親には、怪我の原因をどう説明されるお積りですか」

 「主犯が“鉄腕”の集団傷害事件に巻き込まれたことにします。傷痕も一致しますし、問題ないでしょう・・・
おっと、彼の事は諦めてくださいね。この件の辻褄合わせが必要ですし、それに」

 “鉄腕”は実行犯としてやり過ぎた。真九朗としては庇いようが無いし、また庇う理由も無い。

 実際のところ、今回真九朗がルーシーを見逃すのは、単に過去の借りに免じての事ではなかった。むしろ裏稼業
最大手の人材派遣会社・悪宇商会内部とのコネクションを維持する事の方が理由に近い。

 しかし、それは場の優位を掌握しているとはいえ真九朗個人の都合でしかない以上、提示条件には限度がある。
本来ならルーシーは悪宇内部の情報を洗いざらい吐かされた後で、内密に処理されても文句が言える立場ではない
のだ。実際、後続する紅香の配下に捕まれば、真九朗としては庇う訳にもいかない。現時点で弥生の干渉を退けて、
ようやく定まりかけた彼女の安全はなくなるだろう。

 また、弥生が真九朗のやりようを見過ごす事にも理由があった。実は今回の件を企て、それを悪宇商会に持ち
込んだ依頼者は既に真九朗の情報網から割れていたのだ。彼等がルーシー達の実行を食い止めるのに幾分遅れた
のは、紅香が息子に施した情報面での防御・隠蔽が強固であったが為だった。



 問題の依頼者の名は、草加聖司。かつて「えぐり魔事件」の主犯だったこの男も、今は全盲となり、独力では話す
事すら出来なくなっていた。しかし、彼はジュウ達に募らせた狂的で一方的な恨みを晴らすべく、高価なハイテク
身障者器具を購入。これを駆使して何とか悪宇商会とコンタクトを取ると、多額の金を積んで柔沢ジュウの誘拐を
依頼した。

 実際、ジュウの身柄に狙いを定めた事は、彼自身や雨を破滅させるのに最適なスイートポイントではあったが・・・
全てが明らかとなった今は、逆に草加の破滅を意味していた。警察病院から逃げ出す事など今の草加には不可能だし、
海外に隠した彼の資産も既に押収済み。悪宇商会に支払われる筈だった後金も、現在は空手形だ。最早草加の今後は
自分で閉じるか、他人に閉じられるかの二通りしかない。

 それに弥生を含めた紅香の麾下組織は現在、悪宇商会と敵対状態にあり、互いに警戒し合う関係上、接触が薄い
事も今回の判断に有利に働いていた。現状では商会内部に複数のコネを持つ第三者―――真九朗に、ある程度の裁量
を認めざるを得ないのだ。

 彼が言外に滲ませた意味を吟味しながら、ルーシー・メイは冷めた視線を向けていたが―――やがて目線を外すと
投やりな調子で言い放つ。

 「あーあーはいはい!分りましたよ、紅さん」

 不機嫌な声。かつては軽く陥れられたであろう人間に、今は自分の選択肢を握られて居るのだ。面白かろう筈もない。

 「全く・・・つい何年か前までヘタれた青瓢箪だったのが、随分とまあ出世したものですね!いいですよ、仰る通り
の条件で降ります!」

 真九朗は不貞腐れるルーシーに苦笑を返しつつ、やや大げさに肩をすくめた。

 「いやぁ、ホっとしました」

 フンっと鼻を鳴らし、憤懣を隠そうともしないまま悪宇商会の女は言う。

 「交渉成立ついでに、もう一つ!お耳に入れときたいんですけどっ!」

 仰向けた人差し指をシャクトリムシの様に曲げ伸ばしし、真九朗を招く。状況的に見る限り、この女幹部に妙な
真似をする意味も余地もない。だが―――

 不審顔をする真九朗に、今度はルーシーが苦笑を返した。

 「別に変な事じゃありません。ただ―――」ちらりと弥生を見て続ける。

 「プライベートなお話ですので」

 「プライベートな話?」

 「そう、プライベートなお話」



 真九朗は配下に撤収準備を指示。周囲に視線を走らせた後、ルーシーの方に歩み寄った。

 「何なんです?」

 「ちょっとお耳を拝借」

 真九朗が顔を寄せると、背伸びをしたルーシーが耳元に唇を寄せた。囁く様に告げる。

 「・・・ご婚約おめでとうございます」

 言うが早いか耳たぶに噛みつき、ついで舌先でチロっと舐め上げて―――

 「うわぁっ!?」

 あわてて身を離す真九朗に、毒蛇は悪意にまみれた微笑を寄こす。唇と耳の間に一瞬、細い銀線が光って消えた。

 「今回の手打ちは、まあご祝儀です。分が悪いのも確かですし」

 唖然とする真九朗に背を向け、手を挙げる。

 「ただ、部下の生命は保証してもらいますよ。洗い終わったら返して下さい」


 言い捨てて地味なコートをなびかせると、そのまま振り返る事なく不吉な女―――ルーシー・メイは去って行った。
後には香水の香りだけが漂う。


 「紅さん」

 いやに冷たい声を背後からかけられて、真九朗は固まった。

 「その女癖の悪さはどうにかしないと、その内災厄を起します。いい加減になさいます様」

 振り返ると蔑むような目線とぶち当たる。弥生だった。

 「い、今のは俺のせいなんですか・・・?」

 言いながら真九朗はハンカチで耳を拭く。噛み痕に傷はなく、状況的にも何らかの仕込みである可能性は低い筈
だが、何しろ相手は悪宇商会のルーシー・メイ。悪意ある仕掛けを施している可能性も、否定はできない。九鳳院
に向かう途中で山浦医院に立ち寄って、成分分析を依頼することにする。


 真九朗は空を仰ぎ、瞼を指でマッサージした。ここ数日、徹夜仕事が続いている。それに今夜からアルゼンチン
行きで、帰国までは暫くかかってしまうだろう。温められる旧交は、温めておくにしくはなかった。



 撤収作業は着々と進行している。真九朗はそれを確認すると、弥生に告げた。

 「さてと。少し寄るところがあるんで、後は近衛に任せて引き揚げます」

 「紅香様のご子息とは、お会いにならないのですか?」

 「ええ。何となく時期じゃないと思うし―――それに、まだ紅香さんの事が途中ですからね」

 「・・・・・・」

 そこで真九朗は弥生の気持ちに気付き、付け加えた。

 「大丈夫ですよ。情報汚染と誘導は進めてますし、きっと上手くいきます。それまでは我々で、ね」

 「はい」

 二人は暫く、ジュウ達を収容した救急車両を見遣った。やがて真九朗は踵を返すと、弥生に告げる。

 「弥生さんは九鳳院まで彼と同行して下さい。俺は大丈夫ですから」

 「いえ、そういう訳には参りません」

 弥生は言下に真九朗の気遣いを却下すると、その背を追いつつ呟いた。

 「それに、私も時期ではないと思いますので」

 真九朗は苦笑。

 「真面目ですよね、弥生さんは。適当に息抜きしないと持ちませんよ?」

 「あなたに言われたくありません」


 現場から二つの影が掻き消えた。





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