■ 銀子パニッシャー ■

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 ■ 銀子パニッシャー ■  カシャカシャカシャカシャ カチカチッ カシャカシャカシャカシャ・・・  カタッ  軽やかなキータッチの音が、少し強めに叩かれたキーの音を最後に途切れる。  「ふう・・・」  眼鏡を外し、パッドが当っていた鼻筋の部分を軽くマッサージ。多分、赤く型が付いてるだろ うが、今日はもうあのバカや崩月先輩と顔を合わせる事はない。だから跡など気にする必要は 無いのだけれど。  眼鏡は剥き身の瞳を隠せる様で何となく気に入っている道具の一つ。ただ、こういうところ には不便さよりも原始的なものを感じる。可燃ガスの混合気を爆発させる毎に車軸を一回転さ せる、考えてみると結構乱暴な駆動方式の内燃機関とも似た野蛮な感じ(この現代に、というあれ だ)。とは言え自分の眼鏡はかなり手間暇をかけて選んだ軽量で品の良い、オーダーメイドの 逸品。その分、皮膚にかかる負担は少ない筈だった。  「ま、傘と同じ様なもんか」  誰に言うともなく、つぶやく。傘は6世紀に渡来して以降、短い変遷を経て和傘のスタイル に落ち着いた。現在よく目にするのはいわゆる洋傘だが、基本的な構造は和傘とそう変わらない。 恐らく傘は、既に道具としての最適解に近いのだろう。だから雨に濡れない代わりに腕が疲れ るのも、視力を補う代わりに鼻筋に赤い型が付くのも仕方がない訳だ。まあ傘の場合、ホネに 髪が引っかかるのは何とか出来そうなものだけれど。  銀子は取り留めない思考を止め、コーヒーを淹れに階下の台所へ下りた。家族を起こさない様、 音に気を配りながら薬缶をコンロにかけ、冷凍庫から粉状のコーヒー豆を取り出す。計量匙で数杯 掬ってペーパーフィルタに入れ、熱湯を注ぐと、程なく濃い目のコーヒーが出来上がった。ミルクを 入れるかどうかで少し迷い、結局ブラックにする。  部屋に戻ってベッドに腰かけ、カップに口を付けた。美味しい。深煎りが銀子の好みだった。  そうして小さな幸福感を味わっていて―――唐突に今朝の電話を思い出す。やはり、自分は思った 以上に、あの会話を気にしていたらしい。  「・・・銀子、あのさ」「愛してる」  まったく溜息しか出ない。鼻から魂が抜けて出そうだ。何なのだ、あのバカは。似合いもしない 台詞を幼馴染に言いたくなる季節でもあるのか、最近とみにその手の言が増えている。地味な ナリで色男気取りなど、失笑を飛び超えてハラワタも煮えくり返るというものだ。小生意気な・・・っ!  どうせあのバカの事。相手が崩月先輩だったら同じ真似はとても出来やしないだろう。それに 先輩なら真九朗の言葉が冗談であろうが何であろうが、それを口実に本当に婚約まで押し切って しまいかねない。そういう鬼気迫る何かを、あのバカもバカなりに薄ぼんやりと感じている節が ある。もっともそれはデリカシーなどという上等な代物ではなく、アメーバの接近を察するミジ ンコの本能の様なものなのだが。  「でも私なら冗談で済むだろうと。つまり、そういうことね」  まったく安心の上に胡坐をかいているという訳だ。バカのくせに。あの電話では適当に切り返し はしたが、しかしそれでこちらの気が済んでいる訳ではない。それはもう、全くない。何度かあの バカにも会話上のオチと物事の行方は別だと説明した筈だが、未だその辺りの機微が分らないと 見える。ここらで適切な教育指導を行っておくのも、あいつの為というものだろう。  「うふふふふふふ・・・見てなさい、紅真九朗くん。愛で地ベタに這いつくばらせてあげるわ」  何やら思いついたらしい銀子は当人的には酷薄を模した、しかし、そのぎこちなさが傍目に微笑 ましいという特殊な表情を浮かべた。この種の顔は彼女の父、銀正の大好物だ。  それは唐突な、ある日の午後。  「この間の告白について、真面目に考えてみたけど」  「・・・え?」  「私もあんたの事が好きよ。だから今週末、デートに行きましょう」  ここは星領学園の体育館裏。向かい合う男女生徒一組と、それを見つめる・・・食い入る様に見つめ る女性が二人。勿論、向かい合っているのは紅真九朗と村上銀子で、あんぐりと口を開け、半ば 放心しているのは九鳳院紫と崩月夕乃の二人だ。  「あの時の言葉、本当はとても嬉しかった。だから―――」  唐突に携帯が鳴る。調子外れなテンポにして、不穏なサウンド。  『銀子あのさ、愛してる――キスしていいか?』『銀子あのさ、愛してる――キスしていいか?』  この物騒な音を喚きたてる携帯は遺憾にも鞄の奥に入り込んでしまった様で、銀子は取り出しに 手こずっている。もたつく手付きで鞄の奥を探りながら「やだもう恥ずかしい」などと言う、その輝く ような白々しさ。しかし、今やその棒読みさえもが奈落に向かって加速する真九朗への潤滑油だ。 勿論、絶妙な頃合に携帯が鳴る様、事前の仕込みがあった事は言うまでもない。  小学校で先に授業が終わる紫が真九朗を迎えに来る曜日と時刻を、人を介してそれとなく夕乃に リークし、誰にも疑問を抱かせる事なく、この場に集わせたのは情報屋・銀子の手腕。全員各々の意思 と理由で来ているにも関らず、正確な意味で目的を遂げているのは銀子一人だった。  実のところこれは紫と夕乃、二つの強力なトラバサミを用いた真九朗を狩る罠だ。そして獲物は 実に呆気なく、かつ自然に狩り取られる。まるで罠以外に行き場が無かったかの様な有様だ。  剣呑な沈黙の中、思う存分着信音を響かせた後で、ようやっと携帯に出た銀子は相手に軽い口調 で応じる。  「ああ、母さん・・・ホウレンソウとハンペンね。分った。直ぐに買い物を済ませて帰るから。」  ふと振り返ると、信号機の様に激しく色を変える紫と夕乃の顔。両者とも、今にも顎が地に落ち そうだ。その影で真九朗は岩と化していたが、脳内では警報が激しく鳴り響いているのだろう。足 が微かに震えている。  しかし銀子は、一切に気が付かない体。いつもの実直な口調で真九朗に告げる。  「じゃ、週末」  凍りつく三つの像にスっと片手を挙げる会釈を残し、銀子はその場を後にする。遠からず、あの バカは二人への弁明と証言を求めて来るに違いない。  ただ、今回取り扱う情報は乙女の純情を多量に含んでいる。真九朗の払える対価が労働しかない 場合、その換算レートは控えめに言って酷く高いものにつくだろう。せいぜいお高く売りつけてや る事にする。未払いの情報料も溜まっている事だし、その利子と今回の件を穏便に済ませるための 情報料、ついでに慰謝料を加えて、取敢えず今週末の48時間を自分への奉仕労働に費やさせるのは、 まあ適当な処置だ。勿論、楓味亭でコキ使うのは当然として。  携帯の呼び出し音から例の音を外しながら、スーパーに向かって歩く。うっかり外し忘れて、父に 知られでもしたらコトだ。間違いなく半年以上はからかわれる。それにしても、あの時のあいつの情 けない顔ときたら。  「何か楽しくなってくるわね」  揉め事処理屋なんて馬鹿な真似を、よりにもよってあのお人好しが始めた時。大怪我したり命を 落としたりしない様、サポートするには自分は体力が無さ過ぎた。だから始めた情報屋稼業だったが ――当初は自分でも馬鹿な真似をしている、と思ったものだった。  今も忘れられない、幼い頃に店に殴りこんで来たやくざ達の暴力。大切にしていた玩具や家具を バットで壊された。日常の中の平和な時間と最悪な時間。その落差を交互に味わわせる為に、わざ とランダムに、しかも執拗に脅しをかけてくる彼等の遣り口。  そして真九朗が柔沢紅香に出会った、あの事件。自分もその日、その場に居た。誘拐組織の人間が 自分達に向ける厭らしい視線や、乱暴な手の感触は思い出すと悪寒がはしる。そして抵抗した自分を 指す、銃口。それは自分に向けられる前、泣き喚く男の子の頭を吹き飛ばしたものだった。  なのに高校に入学するなり、あのバカは。真九朗は――そんな連中相手の仕事をすると言い出した のだ。それを聞いた時の激しい眩暈と、吐き気を覚えるほどの怒り。今もそれは続いている。殊にあいつ が大怪我を負った時など、空港テロの犯人も柔沢紅香も崩月家の人間達も、一切合財を全部まとめて 地獄に叩き込んでやりたくなる。  明滅する古い記憶。崩月家に入ってからの真九朗は、学校を休みがちになった。心配して見舞いに行 っても、そういう時の崩月家の門は堅く閉ざされ、呼び鈴や電話の対応も曖昧。普段は大らかな崩月家 だけに、その雰囲気には隠し難い違和感があった。  そして時に数ヶ月にも及ぶ休学。その末に登校した真九朗の体には、必ず酷い怪我の痕があった。包帯 だらけの真九朗の異様な姿は当初、クラスメート達のからかいの的になったが、それが益々酷く、長期に 及ぶに至って誰もその事に触れなくなった。当初はDVの可能性を疑い、訝しんでいた小学校や中学校の教師 達も、決まってある日を堺に沈黙。真九朗のそんな状態は、高校に入学するまで続いた。  だから柔沢紅香が自分にとっても命の恩人にあたり、崩月家が傷付いた真九朗の心の多くを癒し、鍛 え上げた事を理解していて尚、銀子はそうした感情の燻ぶりを完全には打ち消せないでいる。  彼等個々人の人間性の問題ではない。しかし真九朗を危険な裏世界に留めているのは、彼等との繋がり そのものに思えてならないのだ。真九朗は彼等との関わりを大事にするあまり、そこから抜け出せなくな っているのではないだろうか。  柔沢紅香は確かに凄腕の揉め事処理屋だ。知る限りに於いて、仕事選びの傾向も総じて悪くないと思 う。だが、その内容には人の死を窺わせる、血生臭い事件も数多く関係している。そして崩月家は、かつて 裏社会で猛威を振るった鬼の家系だ。先代当主の代から殺人稼業からは足を洗った様だが、自衛の為に も未だ殺人の技は現役の域にある。言い換えれば状況次第で、何時元の姿になるかも分らないのだ。  「絆(きずな)」という語には「ほだし」という別の読み方がある。これは家畜を繋ぎとめておく為の綱 の事。  銀子は今の真九朗が小口径の拳銃弾くらいでは死なない事を知っているが、それでも時折正視し難い 大怪我を負う真九朗の姿を見ていると、堪らなくなる。柔沢紅香や崩月家は、本当に一個の少年として の真九朗を認識しているのか。彼等には彼等の為に存在する真九朗しか、見えていないのではないのか? 真九朗が信じている彼等との絆には、本当に「ほだし」の側面はないのだろうか。  この気持ちは、あいつがあの馬鹿げた稼業を諦めない限り、消えることはないのだろう。  だが一方で真九朗のフォローから始まった情報屋の仕事は、何時の間にかその域を超えて自分の 生活の一部になり、今やある種の自負すら感じる稼業の様な状態になっている。今日のこんな小さな 事でさえ、それと無縁ではないのだ。  例えば、あいつも他の星領学園の学生達も詳しい事情を知らないが、自分が新聞部室を私物化して いる件。これ一つ取っても、実は見掛け以上に大きな力学構造が背景にある。まあ、それを構成して いる情報/要素の一つ一つはそれほど大仰なものではなく、バラけても居る為、強力な人為的操作でも ない限りは大事には至らないだろうが―――それでも縦糸と横糸の手繰り方次第では星領学園はおろか、 県の教育委員会を丸ごと引っくり返す事も不可能ではない。現状がそうなっていないのは、単にそれ を知る自分にその気がないからだ。  状況に流されるのではなく、情報を先取して状況を作る側に立つ。始める以前は知らなかった、この 力の強さと有用性。そして付きまとう、その脆さと怖さ。強固な防御対策を講じてはいるが、自分の体 は只の女子学生に過ぎない。素人の男に殴られただけでも、軽くない怪我を負うことだろう。  それに自分が情報収集の過程で冒している危険の規模は、実のところ、あの能天気のそれとはランクが 違う。詳細を知れば、間違いなく真九朗は己の事を棚上げにして自分を止めようとするだろう。  でも揉め事処理屋があいつの仕事なら、情報屋はわたしの仕事。意見するなら先ず、こちらの条件を 飲んでもらわねばならない。幼い頃に交わした、小さな約束の履行。それが叶うまでは全てが“一先ず・ さておき”だ。  それにしても―――  「あまり考えた事無かったけど・・・わたし、こういうのも向いてたのか」  この体を流れる血も情報基盤も、伝説の情報屋にして銀子の祖父・銀二から受継いだもの。ともあれ、 何とか今の位置に居られる事を感謝しなくてはなるまい。  ありがとう、お祖父ちゃん。お陰で週末、あいつをコキ使えます。  何か楽しみな事でもあるのか、軽く弾むような足取りで銀子は帰路に就いた。

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