おいしいお水

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515 名前:おいしいお水[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 03:29:19 ID:EApb8LVs  十二月二十六日。土曜日。  夕飯の献立は白菜鍋。加えて夕乃と銀子が持ち寄ってくれた料理が少々。  それはあるいは一日遅れてのクリスマスパーティーだった。 「よーし、今夜は真九郎くんたちも飲め飲めー!」 「俺たちは未成年です」 「気にしない、気にしない、ここには通報する人誰もなんていないんだからさぁ」 「まあ、じゃあ今日くらいは…」  二日前の出来事。十二月二十四日。クリスマスイブ。即ち『KILLING FLOOR』での死闘。上手く立ち回れたなんて微塵も思っていないが、結果として失わずに済んだものはいくらかあった。  柔沢親子も、瀬川姉妹も、きっと今は安らかな時を過ごしていることだろう。そしてそれは、自分自身にも当てはまるかも知れないことだった。  今鍋をつつきながら座卓を囲むのは、環に闇絵、夕乃や銀子、そして隣りにいる紫。また彼女たちと一緒に笑えることが真九郎にはたまらなく嬉しいことであった。そしてその喜びが、真九郎の気持ちをいくらか寛容にさせていたとも言える。  普段なら絶対に食い下がらない真九郎だったが、今夜はぐらいはいいかもしれないとふと思った。 「よぉし、今夜は紫ちゃんも特別だぞぅ」  などと言っている環の顔は赤く、彼女の周りには空いた缶ビールが十数本転がっていた。本人は既に出来上がっているようで、紫のコップに日本酒をつぐその手元も若干おぼつかない。 「環、これはなんだ?」  コップに注がれた透明な液体を眺めながら紫が尋ねた。 「ん、お水だよ?」 「ただの水とは違うにおいがするのだが…」 「ちっちっち、ただのお水じゃないんだなぁ、これが。これはおいしいお水なのだよ、紫ちゃん」 「おぉ、そうなのか。ありがとう、環!」 「どういたしまして。あ、銀子ちゃんもどうぞー」 「いただきます」  満たされたコップを流れるような動作であおる銀子を見て、紫もまたそれを真似てコップに口をつけた。ほんの少し口に含んだかどうかというところで、紫はコップを口から離し、顔を歪めた。 「ぅ、なんだこれは…。辛いし熱いし全然おいしくないぞッ!」 「あー、紫ちゃんにはちょっと早かったかなぁ…」 「どういう意味だ?」 「これはね、大人が飲むためのおいしいお水なんだよねぇ」 「そうなのか、銀子?」  環の発言の根拠を自分のとなりで平気な顔をしている銀子に求めようとする。  銀子自身適切な言葉が思い浮かばなかったのか、少し困ったような笑みで紫の頭を撫でた。 「んー、私も紫ちゃんぐらいの時は全然おいしいと思わなかったかな」 「……つまり、銀子は大人と同等の味覚をもっているのだな?」 「…そうね。紫ちゃんも大きくなったらきっとわかるようになるわ」  一瞬問いの意図を図りかねた銀子であったが、なんであれそれを肯定したのがまずかった。 「なんだと。私だって子供じゃない。こんな水、簡単に飲めるんだからなッ!」  勢いよくその場で立ち上がる紫。右手に掴んだコップの中身を睨むこと数秒、風呂上がりに牛乳を飲むような勢いでその液体を身体の中に流し込んでいく。  子供は基本的に子供扱いされることを嫌う。中でも紫はその気が強い方だった。  それをよく知っている真九郎はこの状況を憂いながらも、それ以上にこの賑やかな時間が楽しくて仕方がなく、本気で紫を止めるということをしなかった。  それは周りも同様で、環のように紫をはやし立てるようなことはしなかったが、その光景を微笑ましいものとして黙認していた。 「よぉし環、もう一杯だ!」 516 名前:おいしいお水[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 03:32:45 ID:EApb8LVs  強引に空けたコップを突き出す紫。流石にそれは止める環。酒に酔ったのかこの場の空気に酔ったのか、騒ぎ暴れる紫をなだめる銀子。  そんな最中真九郎は肩に重みを感じる。その方を振り返ってみれば自分の左隣に座っている夕乃が自分にもたれかかっていた。 「えっと、…夕乃さん?」 「はい、なんでしょうか、真九郎さん」 「あ、いえ…あの…」 「……私、重たいですか?」 「いえ、決してそんなことは…」 「そうですか、それはよかったです」  夕乃の満面の笑みに、引きつりながらも笑顔を返す。彼女の顔からやや視線をずらしてみれば、その手元には既に空になったコップが握られていた。   いつの間にか彼女もまた環から酌を受けていたのだろう。その頬が若干紅く染まって見えるのは酒故か。 「くぉら、真九郎ッ、私の目の前で夕乃といちゃつくんじゃない!」  真九郎と夕乃のやりとにに気付いた紫が叫ぶ。その場全員の視線が集中。もの凄くいやらしい笑みを見せる環。「おやおや」なんて言いながらも構わず酒を飲む闇絵。なんだかもの凄く冷たい視線を送ってくる銀子。 「……やらしい」  やっぱり言われた。 「とにかく私の真九郎から離れろ!」  吠える紫。 「…『私の』?いいですか、紫ちゃん。真九郎さんは八年もの間崩月の家に住まい、修行してきました。しかもその間ずっと私と時間を共有してきたのです。真九郎さんは既に崩月の人間であり、崩月の人間である真九郎さんは当主代行を務める私のものです」  応じる夕乃。  こういった場面で一歩も譲らないのは、子供相手に遠慮しない大人げなさか、相手を子供扱いせず対等に見る誠実さか。  銀子はそれを前者ととり、我関せずと鍋をつつく。 「それが何だ、私と真九郎は相思相愛だぞ!」  そう言えばそんなことを以前言われた気がする。なんてことを悠長に考えていられるのは真九郎自身も酔いが回ってきたからなのか。  『おいしいお水』の力を借りて、それぞれが思い思いに騒ぎ立てる中、順調に夜は更けていった。 間。  心地よい微睡みの中で、真九郎は水音を聞いた。続いて大きないびき。熱のこもった身体を風が通り抜ける。  ゆっくりと目を開けば、徐々に脳が世界を認識し始めた。  大きないびきは環のもの。そして水音は、台所から。よく聞けば水音に混じってがちゃがちゃと陶器やガラスがぶつかり合う音がする。  それらの音を立てる主は、真九郎が一番古くから知る人物、即ち 「銀子…」  村上銀子その人であった。 「ああ、目が覚めたの。そこの水、飲んでいいから」  首だけをひねって、真九郎が目覚めたことを確かめると、銀子はまた視線を流し台へ戻した。そう言えば座卓の上がガスコンロを除いてキレイさっぱり片付いている。  他に置かれているものと言えば、四つのコップ。それぞれいっぱいに透明な液体が注がれている。  銀子の言葉に従うならそれは水であろう。言われてみれば酷く喉が渇いていた。四つのうちの一つを飲み干して、改めて銀子の後ろ姿を眺める。寝起きのせいか、アルコールのせいか、これら事実から現状を推理するには数秒を要した。 「あ、ごめん、銀子。俺も手伝うよ」 「いいわよ別に。この狭い流し台じゃ二人で並ぶなんて無理でしょう」 「でも…」  立ち上がろうとするも、身体に抵抗があってそれが出来なかった。見れば左側では夕乃が真九郎の肩を、右側では紫が真九郎のあぐらをかいている足を枕代わりにして眠っていた。  その背後ではカーテンがなびいているのが見える。恐らく銀子が換気のために玄関の扉と一緒に開けてくれたのだろう。 517 名前:おいしいお水[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 03:35:08 ID:EApb8LVs 「大丈夫よ、慣れてるから。あんたはそこで大人しく枕になってなさい」  もし無理に立ち上がろうとすれば、恐らく二人を起こしてしまうことになるだろう。二人の寝顔は起こしてしまうのは申し訳がないぐらい安らかで、この場は銀子の言葉に甘えることにする。  止まない水音。陶器とガラスがこすれる音。眠気はなかったが、目を閉じて、耳を澄ましてもう一度聞き入ってみた。環のいびきも含めて、不思議とそれらは心地よく真九郎の心に響いた。  ああ、帰って来られたんだ。  改めてそう思った。まだ体中痛むし、右腕の痺れは酷いし、お世辞にもよくやったなんて自分に言ってあげられないけれど、ここに戻ってこられたことは素直に喜ぶべき幸せの一つだと思う。  銀子がいて夕乃がいて紫が笑っていて、五月雨荘の面々がいて、時々紅香が問題ごとをもってきて。  それはとても優しい時間だ。  何度も手放しそうになったけど、その度に誰かがここにつなぎ止めてくれた。感謝すべきことだ。  こんな時間は長く続きはしないと思う傍ら、少しでも長くこんな時間が続いてくれればと、自分の中の片隅で願う自分がいた。 「なあ、闇絵さんは?」  沈黙はむしろ心地よくもあったが、ふと気になったことをなんとなく口にしてみる。 「帰ったわよ。自分の部屋に、自分の足で」 「そっか…。あれ、今何時ぐらいなんだ?」  真九郎の言葉に反応して銀子は視線を手元から横にずらした。洗い物をするために外した腕時計でも置いてあるのだろう。文字盤を忠実に読み上げる。 「11時27分16秒」  目が覚めてからいくらか時間が経ったからか、今度の思考は先ほどよりも早かった。 「11時って、お前こんな時間に何やってるんだよ!?」 「皿洗い」 「いや、それはそうだけど…。そうだ、紫の迎えは?」 「9時過ぎに騎場さんが迎えに来たけど、真九郎も紫ちゃんも寝てますって言ったら明日の朝また来ますって」 「そっか…。じゃなくて、夕乃さん、起きてください。早く帰らないと冥理さんが心配しますよ」  何とか動く右腕で軽く夕乃の肩を揺するが、何度か小さくうなるだけで全く起きる気配を見せない。  そんなやりとりを繰り返していると、洗い物に一段落をつけた銀子が身につけているエプロンの裾で濡れた手をふきながら座卓に戻ってきた。どうやらガスコンロを片付けるつもりらしい。 「それも多分大丈夫」 「なんでわかるんだよ」 「あのバッグ」  ガスコンロの汚れをキッチンペーパーで拭き取りながら銀子があごで指したのは、夕乃が料理と一緒にもってきたバッグだった。料理を手伝うためのエプロンを入れるためにもってきたものだと真九郎は思っていたが、銀子はそれを否定する。 「それもあったろうけど、エプロン一着入れるためにしては大きすぎると思わない?」  言われてみれば確かにそうだ。あの大きさは手荷物を入れると言うよりむしろ、2,3泊する小旅行に使えそうなもの。それはつまり、 「どこまで本気かは知らないけど、そういうことを想定していたって言うことかしら。…やらしい」  そういうこと、というのは、やはりそういうことなのだろうか。 「今の今まで崩月先輩の携帯は一度も鳴っていないし、あちらも了承済みなんじゃないの?」  年頃の娘が年頃の男の部屋で夜を明かすなど普通の親であれば絶対に許しはしないだろうが、そこはあの法泉の娘である冥理だ。許すどころか推奨さえしたかもわからない。むしろ冥理の差し金か。 「布団の数は間に合ってるでしょ。泊めてあげなさいよ」 「俺は?」 「廊下」  当然でしょ。とは口で言わず目で語る。 518 名前:おいしいお水[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 03:37:32 ID:EApb8LVs 「布団は後で敷くとして、とりあえずあんたは武藤さんを部屋に連れて行ってあげて」  そう言う銀子はガスコンロをしまう代わりに、枕を二つ抱えて真九郎の横まできた。  眠っている二人を真九郎からそっと剥がし、床に寝かせる直前に頭との間にそっと枕を挟んでやる。その姿はまるで保育園の保母さんそのものだった。  思わず笑ってしまう真九郎を銀子は睨むが、それを受け流して、二人から解放された真九郎はやっと立ち上がる。座卓を挟んで反対側で大の字に寝転がっている環の元へ歩いて近づき、肩を揺すって声をかける。 「環さん、起きてください。寝るんなら自分の部屋でお願いします」 「んー、真九郎くんがお姫様抱っこして連れて行ってくれるなら考えてもいいかなぁ」  言って、両手を空に突き出す環。唇をタコのように突き出しているのは何を意図しているのか。  環の提案を一蹴し、真九郎は環の右腕だけを掴んで自分の首に巻かせる。 「ぶー」 「そういうことは彼氏にでも頼んでください」 「だから真九郎くんに頼んでるじゃなーい」 「はいはい、そういうのはいいですから」  肩を組むようにして立ち上がらせ、環のおぼつかない足取りを支えながら6号室へ向かった。 「仲の宜しいことで」 「茶化すなよ」  座卓で頬杖を突く銀子が冷ややかな視線で6号室から帰ってきた真九郎を出迎えた。 「で、お前はどうするんだ?」 「帰るわよ、もちろん。私は崩月先輩と違って泊まる用意はしてこなかったしね」 「こんな時間に?」 「そればっかりは待ったところでどうにもならないでしょう」 「外は寒いぞ?」 「冬だものね」 「なんでそんなに不機嫌そうなんだよ」 「何でだと思う?」 「…あー、とりあえず布団敷こうか。手伝ってくれよ」 「…敷き終わったら帰るわ」 「あぁ、わかったよ、ありがとな、銀子」  真九郎には原因がよくわからない気まずい空気の中布団を敷き始める二人。  銀子が紫を抱きかかえている間に真九郎が紫の分の布団を敷く。銀子に抱きかかえられても起きようとする素振りを見せない紫を銀子は優しい微笑みで見つめる。  それだけでなんとはなしに、銀子は良い母親になるのだろうと真九郎は想像した。それが一体誰の妻で誰の子供を産むのかまでは考えもしなかったが。  真九郎が夕乃を(お姫様抱っこで)抱きかかえている間に銀子(不機嫌な顔で)夕乃の分の布団を敷く。真九郎に(お姫様抱っこで)抱きかかえられても起きようとする素振りを見せない(むしろ幸せそうな顔をする)夕乃を真九郎は苦笑しながら見つめる。 「………。」 「なんだよ」 「……別に。じゃあ、私はこれで」 「送ってくよ」 「酔っぱらいが?」 「酔ってないって」 519 名前:おいしいお水[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 03:39:06 ID:EApb8LVs 「ふぅん…、まあ、一人で帰るよりはマシかしら、揉め事処理屋さん?」 「任せとけよ」  心なしか銀子の表情がやわらかくなる。半開きの窓を閉めて施錠して、コートを羽織り、靴を履き、部屋を出て、後ろ手に扉を閉めようとしたところで、しまり掛けの扉の隙間から起き上がった紫の姿が見えた。  放っておく訳にもいかなかったので、銀子に少し間ってもらう旨を伝え、部屋の中へと戻る。 「紫?」 「むぅ…、真九郎か?」  眠ってしまった原因はアルコールにあったとしても、今頃の時間になればそんなものは関係なく7歳の少女にとって起きているのは困難であろう。  何とか目を開こうと努力する様子が伺えるが、その実まぶたは半分も上がっていない。今の紫にはせいぜい真九郎の顔だけがおぼろげにしか見えていないだろう。 「ごめん、起こしちゃったな。喉乾いてるか?」 「うん」 「そうか」  紫の返事を受けて、台所の乾燥棚からコップを一つ掴み、浄水を注ぐ。  コップを片手に戻ってきた真九郎から手渡されたそれを紫はお礼を言って受け取ると、喉を鳴らしながらそれを飲み干した。 「明日の朝騎場さんが迎えに来るから、それまで休んでろ」 「わかった…」 「歯ブラシもパジャマもいつもの場所にしまってあるから、自分で出来るよな?」 「ああ、できる…」  と言いながらもまぶたは完全に閉じていて、あごの先は胸元にくっついていた。多分このまま寝てしまうだろうと思いながらも、真九郎は紫の頭を撫でながら言った。 「偉いぞ、紫。俺はこれから銀子を家まで送ってくるからな」 「うむ、真九郎。目をつむれ。いつものだ」 「……こうか?」  いつのもってなんだ?言葉の意図を掴めぬまま、けれども紫の言うとおりに目をつむる。衣擦れの音。両頬に小さな温かい感覚。恐らく紫の両手だろう。子供独特のぽかぽかな掌は、彼女がどれほど眠たいか主張していた。  一体何をする気なのかと構えていたところで、真九郎の唇になにか柔らかい何かが触れた。  それは、紫の唇だ。 「なっ、紫ッ?」 「ふふ…、いってらっしゃい、おやすみ、真九郎」  いたずらが上手くいった子供のように、愛おしいものを見つめるように、微笑んで見せたその少女は次の瞬間にはもう眠りの中にあった。  恐らくは今の行動自体寝ぼけてやってのけたものだろう。次に目覚めたときにはキレイさっぱり忘れてしまっているような、そんな意識と行動だ。 「…真九郎」  そして、その一部始終を見ていた人の発言。 「銀子ッ、見てたのか!?」 「何を?」  開けっ放しになっていた扉の型枠にもたれかかり、腕を組んだまま真九郎を見下ろすその表情は、先ほどにも増して険しかった。 「何って…」 「やらしい」 「いや、これは別に」 520 名前:おいしいお水[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 03:39:56 ID:EApb8LVs 「『いつも』そんなことしてるんだ」 「してない、してないって。それは紫が寝ぼけてやっただけで…」  いつもは唇にではなく頬にだ、とは話が余計にこじれそうなので言わないでおくことにした。 「……。」 「………。」 「…………真九郎」 「はい、すみません」 「やっぱり私も泊まっていくわ」 「はい………はい?」  それはあまりにも思いがけない言葉だった。勢いで答えてしまったが、今になってその意味が真九郎の頭の中を巡り始める。 「えっと、銀子?」 「何?」 「布団は二つしかないんだけど?」 「座布団ぐらいはあるでしょう?」 「冷えるぞ?」 「冬だからね」 「そんなんで寝たら風邪ひくって」 「寝なければいいのかしら?」  言い合っている間にも銀子は機敏に動き、靴を脱いで再び部屋に上がり、壁際のまだ畳が見えているスペースに座布団を4つほど敷き詰めていく。 「真九郎」 「はいッ」 「ここに座りなさい」  言って四つのうちの一番端の座布団を軽く叩く。言われるままにそこであぐらをかく。 「あぐらじゃ疲れるでしょ。足伸ばした方がいいわよ」 「はい…」  一応は思い描いたとおりの現状になったのか、「よし」と一度頷いてから、靴下を脱ぎ、外した眼鏡を真九郎の足下に置いたかと思うと、着ていたコートを布団のように上からはおり、最後に銀子はそっと真九郎のモモの上に頭を乗せた。  予想もしなかった銀子の行動に、あわてふためく真九郎。それをうざったそうに銀子が見る。 「何か不満?」 「いや、別に…」 「紫ちゃんや崩月先輩は泊めても私は泊めたくない?」 「そんなこと言ってないだろ」 「どうだか」  真九郎に背を向けるように寝返りを打った。真九郎からは銀子の横顔が見えるが、銀子の視界に真九郎はもう映っていないだろう。それはあるいは、もう話をする気はないという意思表示なのかもしれない。 「なんだよそれ」  目は開いているから、眠っているわけではない。かといって返事をする気もないらしい。  仕方なく銀子から視線を外し、自分がもたれているのと反対側の壁を眺めながら考えるのは明日のこと。  明日は日曜日。そうでなくとも冬休みなわけだから学校はない。とりあえず起きたら四人分の朝食を作って、みんなで食べて、紫を見送り、銀子と夕乃の予定を聞いてそれに従い可能ならばそれぞれの自宅へ送り届ける。  銀子の家なら銀正に、夕乃の家なら冥理になにかしら冷やかしの言葉をかけられることは必至だろうが、そこは甘んじて受けよう。  今回の件に関しては環の暴走を受容してしまった自分にも責任があるのだから。  いや、そもそも未成年の俺たちに、それどころか真っ先に紫に酒を飲ませようとした環が全ての元凶じゃないのか。いや、そうだ。全部環が悪い。よし、明日起きてきたらとりあえず絞めよう。 521 名前:おいしいお水[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 03:42:02 ID:EApb8LVs 「…ねぇ」 「…あ、あぁ、どうかした?」  てっきりもう声をかける気はないものと思っていたが、しかし銀子は再び真九郎と会話をする気になったようだった。回転させていた思考を放り投げて銀子の言葉に応じる。 「志具原理津を調べてくれって言った日の次の日。あんたなんて言ったか覚えてる?」  それは確かゲームを称した《ギロチン》こと斬島切彦の行動を阻止するために病院に直接乗り込んだ日のことだ。あの時は確か、リン・チェンシンに電話を没収される前に一度だけ電話をかけてもいいと言われ、銀子に電話をかけた。そして、 「しばらく学校を休む」 「それもあるけど、それじゃない」  確かその後に言ったのは… 「今度ノート貸してくれ」 「その次」  その後は、確か軽い冗談でも言ってやろうとして、そうだ…。 「『銀子、あのさ』」 「………。」  その沈黙は続けろという意味なのか。 「『愛してる』」  瞬間、銀子の頬が一気に紅くなった気がした。 「じゃ、じゃあ、瀬川早紀を調べてくれって言っていたときのことは?」  珍しく歯切れの悪い銀子の口調を疑問に思いながらも、真九郎は思考を巡らした。こちらの方はより最近のことだからよく覚えている。 「仕事を頼みたいけど手持ちがない。俺に投資してくれ」 「そう、それで?」 「『キスしてもいいか?』」  今度はモモを擦り合わせるように足をもぞもぞと動かす。一体銀子は何を意図してこんなことをさせているのか真九郎には全くわからなかった。  そしてその銀子といえば上になっている自由な方の手の甲を自分の口に押しつけて何かを堪えているようであったが、それもしばらく経ってから、意を決したようにもう一度寝返りを打って真九郎と視線を合わせた。  当然、真九郎には現状が全く理解できていない。 「…真九郎」 「え、…何?」  言うやいなや、銀子は真九郎よりの腕を彼の首に絡ませ、自分に引き寄せる。予期せぬことにされるがままに頭を下げる真九郎に向かって銀子自身も身体を浮かせる。  そうなれば必然的に二人の頭は空間のどこかでぶつかるだろう。事実そうなった。銀子と真九郎の唇が、ある空間の一点で接触した。 「ん…」  それは触れるだけであったが、それは間違いなく、 「キス」 「…え?」 「したかったんでしょ?」  真九郎と目を合わせないように、そっぽを向きながら銀子はそう言った。  そうだ。確かに自分は銀子に向かって言った。『キスしてもいいか』と。  でもそれは冗談のつもりで言ったことであって、銀子もまたそれを理解していたからこそ冷静にそれを受け流した。少なくとも真九郎はそういうやりとりであったと思っていた。 「…なぁ、銀子」 「………何よ」  しかし銀子はそれを実行した。それはつまり、彼女は、銀子は… 「お前、酔ってるのか?」  今夜の鍋パーティーの後片付けや、騎場への対応、寝床の準備まで完璧にこなしてくれた彼女であったが、やはり彼女の身体にも少なからず酒が回っていたのかも知れない。気丈に振る舞ってはいたが、本当はもの凄くだるかったのかも知れない。  それなら歩いて家に帰るなど相当つらいものとなっただろう。そんなことにも気づけなかったというのか、紅真九郎は。 「ごめんな、銀子。そんなことにも気づいてあげられなくて…」  何が幼なじみか。何が一番古くから知る人物か。こんなことさえもわかってあげられずに紅真九郎は何を気取っているというのか。 「…………………。」 「辛いんなら眠っていいぞ。朝飯の用意は俺に任せてくれていいからさ」 「……………………………………。」 「ん、どうかしたのか?」 「…別に。酔ってるのよ。おやすみ、真九郎」 「お、おい…」  3度目の寝返りでもう一度真九郎に背を向けて、今度はちゃんと目を閉じた。それから何度か真九郎は銀子に声をかけたが、彼女がそれに応答することはなかった。 「なんなんだよ、一体…」  訳がわからないといった調子でシミだらけの天井を眺める。それから部屋を見渡してみる。電気はつけっぱなし。もうこれは諦めよう。  夕乃は銀子同様真九郎に背を向けて眠っていた。紫は銀子と向き合うように、夕乃とはお互いに背を向けて眠っていた。恐らく銀子も眠っている。  明日の朝、まともに立てるかなぁ…。  こんな体勢で一晩明かせば、間違いなく足は痺れに痺れていることだろう。まあそれでも、銀子が気持ちよく眠れるというのならそれもいいだろう。  そう考えて、真九郎もまた目を閉じた。最後に本当に今年はいろんなことがある一年だったよな、と思いを馳せて。 522 名前:おいしいお水[sage] 投稿日:2008/10/26(日) 03:43:40 ID:EApb8LVs  もちろんそれは早過ぎた。  紅真九郎が自分の一年を振り返るには、まだ早過ぎた。  あと5日も残っているのに、そんなことをするべきではなかったのだ。  大きな試練というものは、得てして油断した頃にやってくる。  それはちょうど、恋愛ドラマの最終回に、一番の修羅場が待っているように。 「そ、そんな…村上さんどころか、紫ちゃんまで…真九郎さんと、キ、キキ、キスを…ッ。う、うふ、うふふふふ………」 .

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