光さんのバレンタイン 2

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54 光さんのバレンタイン そのじゅうご sage 2008/04/24(木) 18:36:14 ID:WzEnUb/M   「え……」  地面に投げ出されて、頭を上げると、あたしを掴まえてたやつが、よろよろと後ずさりして尻餅を付くのが見えた。そのまま、顔を押さえて呻きながら、横倒しになる。 「大丈夫か。光」  声がした方を振り仰ぐと、あいつだった。右手に、凶悪なくらいごつい腕時計を巻いてた。後ろに、円堂先輩の姿も見える。 「え……なんで」  訳も分からずぽろっと言ったら、あいつは、ちょっと肩を落とした。 「おまえ……なんで、はねえだろ。助けに来たのによ」  そう言いながらも、あたしを抱き起こしてくれる。さっきのやつと同じくらいがっしりしてて、でも全然違うあったかい手が、あたしを支えてくれた。 「あ、あの、ごめん。あ、ありがと。で、でも」 「円堂がな。伊吹なら空手部員を寄越すはずなのに、って気付いてよ」  円堂先輩は腰に手を当てて、小さくため息をついてみせた。 「わたしは不思議に思っただけだったんだけど。この人が、それを聞くなり駆け出しちゃって」 「そ……うなんだ」  あたしがもう一度あいつを見上げると、あいつは鼻の頭を掻いた。 「この学校、おまえを嫌いなやつもいそうだからよ。にしても、ちょっと時間が経ってたからな。見失いかけたんだけど、ちょうどうまいこと、おまえを呼び出しに来たやつを見つけてよ。締め上げて吐かせた。運がよかったよ」  それを聞いて、今更のようにあたしの膝が笑う。ほんと、間一髪だったんだ。 「そうね。でも、間に合ってよかったわ。男なんて信用しちゃだめ、って、いつも言ってるとおりでしょ」 「……そうですね」  こんな状況なのに、あまりにいつもの円堂先輩らしくて、つい吹き出しちゃった。たがが外れたみたいにくすくす笑うあたしを見て、あいつが呆れ顔になって何かを言いかけたところへ、鏑木たちがどやどやと駆けつけてきた。あたしたちの姿を見るなり急停止する。 「お……おまえら」 「おやおや」  あいつが呆れ顔のまま、そっちを向いて言った。 「誰かと思や、あんたか。懲りねえな」 「う……うるせえっ」  鏑木は一声吠えてから、人数の差を思い出したみたいで、にたりと笑った。 「ちょうどいいや……おめえらにも、借りがあったよな」 55 光さんのバレンタイン そのじゅうろく sage 2008/04/24(木) 18:37:34 ID:WzEnUb/M   「また、痛い目にあいてえのかよ」  あいつは平然と答えたけど、あたしの背に回された手からは、ぴりぴりした緊張感が伝わってきた。一方の鏑木は余裕たっぷりに、 「そりゃあ、こっちのセリフだよ。この人数に勝てると思ってんのか」 「負け犬ばっかだろ。軽いね」 「なんだとおっ」  一瞬逆上しかけたけど、ふとあたしたちの背後に視線を投げて、舌なめずりした。 「円堂か……こりゃあいい。おめえのせいで、俺の推薦もぱあ、だ。それなりのお返しはしてもらわねえとな」  円堂先輩は、大きなため息を吐いて、 「あなたの推薦がだめになったのは、わたしのせいじゃない。自業自得でしょう。……と言っても、信じないんでしょうね」 「ああ。信じられねえな。おかげで、何もかもがおじゃんだ。浪人するくれえなら働け、だとよ。冗談じゃねえ。それでよ。せめて、高校生活の最後に、ちっとはいい思い出の一つも作りてえんだよ」 「ずいぶん、乱暴な思い出づくりね」 「何とでも言えよ。ヤリマンだけじゃなくって、おめえもいてくれるたあ、ありがてえ。いっぺん、その澄ました面の皮ひんむいて、ひいひい泣き喚くとこ見たかったんだよ」 「下劣な趣味ね。耳が汚れるわ。ここで立ち去るなら、聞かなかったことにしてあげてもいいけど」 「聞こえねえな」  鏑木がにたりと笑うのと同時に、仲間がばらばらと左右に広がる。と、あいつがあたしを背後に庇い、それに抗議しかけたあたしの腕を、円堂先輩が掴んだ。 「伊吹を呼んできなさい」  耳に、小声で鋭く囁かれる。あいつの背中の陰で、はっとして円堂先輩の顔を見やると、円堂先輩は鏑木たちに目を据えたままで、再びあたしに顔を寄せた。 「早く」  ためらってる暇は、なかった。一対一を強いることのできる狭い場所ならともかく、この開けたスペースじゃ、さすがの円堂先輩とあいつでも、この人数を相手に勝てっこない。あたしは小さく頷くと、身を翻してダッシュした。 「お……てめえっ」 「てめえらの相手は、俺だよっ」  背後で上がった罵声と乱闘の音にも、振り返らない。渡り廊下から隣の校舎に飛び込む時、視界の隅に、あいつらを足止めしてる円堂先輩とあいつがちらっとだけ映った。幸い、まだあの二人を突破できたやつはいないみたいだった。  見た感じ、あたしに追いすがろうとするやつを円堂先輩が片っ端から蹴りで沈め、そんな円堂先輩に飛びかかろうとする相手からは、あいつがしっかりガードしてた。あの二人いつの間にあんないいコンビになったんだろ、という疑問が、一瞬だけ、頭をよぎって消えた。 56 光さんのバレンタイン そのじゅうなな sage 2008/04/24(木) 18:38:50 ID:WzEnUb/M    空手部の練習場は、遠かった。そもそも出発地点からして、あまり馴染みのないところで、放課後も遅い時間だったから残ってる生徒も少なくて、道も分からないまま、ずいぶんあちこち迷ったような気がする。その間ずっと、焦りと恐怖で頭がどうにかなりそうだった。  どうか。どうか。あの二人が、無事でいますように。どうか。あたしのせいなのに。ぜんぶ、あたしのせいなのに。どうか。どうか。お願いです、神様。どうか。  半分泣きそうになりながら、それでも、たまに行き交う人に道を訊いたり、建物の形で方角を見定めたりした挙げ句に、なんとか練習場にたどり着いたとき、あたしはその場にへなへなと崩折れそうになった。  誰もいない。なんで。なんでよっ。激しい呼吸のあまり、喉と肺に張り裂けそうな痛みを覚えながらも、あたしは練習場の中を見渡し、更衣室の扉に目を止めた。気のせいか、話し声がする。いや、きっと、そうだ。  靴なんか、脱がなかった。そんな暇、なかった。あたしは、転がるようにして床の上を駆け抜け、更衣室の扉に取り付くと、ためらいもなく、大きく開け放った。  中に、いた。練習を終えた男子部員が。ほとんどパンツ一丁みたいな姿ばっかで。向こうは全員、時間が止まったみたいに固まって、あたしに視線を集中させたけど、そんなこと、どうでもよかった。その中から、伊吹先輩のハンサムな顔を見つけて、あたしは、喚いた。 「お願いっ! 早く、早く来てっ! でないと、でないと、円堂先輩と、あいつがっ。あいつがっ……お願いっ……早くっ……」  伊吹先輩は、あいつって誰のことだ、なんてことは訊かなかった。ただ、表情を引き締めると、頷いてくれた。ああ。ありがとう。でも、お願い。神様。どうか間に合って。 「本当に、ここなのかい」 「はい」  伊吹先輩以下、男子空手部員を引き連れて元の場所に引き返した時、そこには人っ子一人いなかった。あたしは不安で気が遠くなりそうだったけど、伊吹先輩の袖にすがって、何とか持ちこたえてた。しっかりしろ、あたし。今は、そんな場合じゃない。 「どこかへ場所を移したか……」  地面の上に残った、争いの跡を眺めながら、伊吹先輩は顎に指を当てた。ここへ来る道すがら、あらましは説明してあった。といっても、涙まじりの支離滅裂な内容だったから、どこまで伝わったのかはいまいち不安だったけど。伊吹先輩は男子部員たちに向かって、 「お前ら。鏑木さんがいそうな場所に心当たりはあるか」  最初は、沈黙しか返ってこなかった。あたしは必死になって、 「お願いっ。何か知ってるなら、教えて。お願い、お願いだから……でないと、あたし」 「あ……あの」  おずおずと、手が上がる。何となく、見覚えのある顔だった。鏑木があたしを痛めつけたあの日、さかんに囃し立ててた顔。でも、そんなこと、今はどうだっていい。  あたしのすがるような視線に、そいつは顔をややそむけながら、 「その……気に入らないヤツにヤキ入れるときは、よく……あそこの用具入れで」  指差す方に、全員の目が向いた。プレハブの並びの手前にある、コンクリート造りの小屋。あれかっ。  あたしは誰よりも早く小屋に駆け寄り、その鉄扉に耳を当てた。かすかだけど、人の声がする。ここだ。間違いない。あたしは、鉄扉を思いっきり押したり引いたりしたけど、開かなかった。ちくしょう。中から鍵かけてんだ。 57 光さんのバレンタイン そのじゅうはち sage 2008/04/24(木) 18:40:04 ID:WzEnUb/M   「こらっ! 開けろっ! 開けてよっ! 中にいんでしょ! こら、開けろっ!」  がんがんと扉を叩くけど、中からは何の応答もない。そこへ、伊吹先輩たちが追いついてきた。あたしの肩に、伊吹先輩が手をかける。 「堕花さん、落ち着いて。中にいるのか」  そんな悠長なやりとり、してらんない。あたしは伊吹先輩の手をふりほどき、建物の周りを回った。と、裏手の上の方に、明かり取りの窓があって、少し開いてるのが見えた。あそこからなら。あたしなら、いける。 「お……堕花さん」  伊吹先輩が、あたしの横にやって来た。あたしは、無言で明かり取りの窓を指差し、それから小声で囁いた。 「あそこへあたしを上げてください。中から鍵を開けますから」  伊吹先輩は、窓とあたしを見比べて、 「いや、でも……いけるのか。それに、もし君まで」  そんなこと、言ってる場合じゃない。あたしは、両手で伊吹先輩の胸ぐらを掴んで、引き寄せた。伊吹先輩の目を正面から覗き込んで、 「やるの。だから、表で騒いで、あいつらを引きつけてて」  それから、さすがにちょっと我に返って、一応、付け加えてみた。 「お願い」  伊吹先輩は、数秒間だけ、あたしをじっと見てた。それから、にっこり笑った。 「仕方ないな。ちょっとだけ待ってくれるかい」  言うと、あたしの頼んだとおりに部員の人たちに指示を出しにいったのか、建物の表側へと走っていく。ほんの十秒くらいの間だったと思うけど、あたしがじりじりと待つうちに、伊吹先輩は急いで戻ってきてくれた。  そのまま無言で、壁に背を当てると、体の前で両手を組んでステップを作ってくれる。あたしはそこに足をかけ、伊吹先輩の肩の上に立った。スカートだから、伊吹先輩がちょっとでも見上げたら中が丸見えだけど、気にしない。伊吹先輩がそんなことするはずもないし。  問題の窓へは、伊吹先輩の肩の上でつま先立ちになって届くくらいだった。あたしは、ゆっくりと音を立てないよう、指先で窓を完全に開く。それから、懸垂の要領で体を持ち上げ、中を覗き込んだ。  いた。ちらっと見ただけで、細かい状況までは分かんなかったけど、確かに、鏑木のやつが見えた。間に合ったろうか。つい心細くなるのを抑え込みながら、再び伊吹先輩の肩に足を下ろすと、そこで呼吸を整え、力を溜める。  夫レ剣ハ瞬息。心・技・体ノ一致。剣も拳も、極意は同じ。なら。よし。 「いきます」  伊吹先輩に声をかけた時には、あたしの体は宙を舞ってた。 58 光さんのバレンタイン そのじゅうきゅう sage 2008/04/24(木) 18:42:24 ID:WzEnUb/M    鉄棒競技の、蹴上がりの要領だった。いったん体を後方へ振り、体を二つ折りにする。足を地面に平行にして壁につき、そこを支点にして、上体を窓の中へと振り上げた。そこで動きを止め、中の状況を確認する。  あいつらは、壁際の数人が何かを取り囲んで、蹴りを入れたり金属バットで殴ったりしてた。残りは、それを少し遠巻きにして見てる。伊吹先輩の指示どおりに、表の扉の外で男子部員が騒いでくれてるせいで、こっちに気付いた様子はない。  それで、円堂先輩と、あいつはどこに……あの、あいつらが蹴ったり殴ったりしてるのは、もしかして。 「おめえよう」  鏑木の、嘲るような声がする。 「そんな、がんばんなよ。いいかげん、諦めてくんねえかな」  あいつらが、ちょっと息を入れるためか手を休めたところで、丸くなった背中が見えた。何かを抱きしめるみたいにして、うずくまってる。その下から、 「柔沢くんっ。離れなさいっ」  円堂先輩の声だった。円堂先輩の、そんなに必死な声を、あたしは、初めて聞いた。  鏑木がせせら笑う。 「な。円堂もそう言ってんだ。そいつを抱きたいのは、おめえだけじゃねえんだからよ。そろそろ、順番と行こうや。お外にゃ、ヤボなヤロウどもも来てるんでな。やるこた、さっさとやっちまいたいのさ。ま、どうせ、おおっぴらになんかなりゃしねえ。おい」  鏑木が顎をしゃくると、一人が金属バットを振りかぶり、思い切り、あいつの背中にうち下ろした。あいつは、うめき声すら立てずに、それを受けた。それを見たあたしの視界が、真っ赤に染まる。  なにするんだ……あいつに。あいつにいっ!  体が、勝手に動いた。鉄棒の前転の要領で体を室内に投げ入れ、窓枠を掴んだ手を支点にくるりと回転して、壁についた足を思いっきり蹴る。落下地点は、まずは積んであるマットの上、それから一跳びして、あいつを殴ったやつの目の前。 「え……?」  いきなり飛び込んできたあたしに愕然としてるやつの水月に、あたしはためらいもなく、落下の反動を全て乗せた猿臂を叩き込んだ。そいつが吹っ飛ぶのには見向きもせず、一目散に扉へと向かう。 「て……てめえっ。つかまえろっ」  事態を理解したらしい鏑木が喚くけど、遅い。あたしはターンキーを解錠し、あいつらがあたしの肩に手をかけて後ろに引き倒す勢いを利用して、足で扉を蹴り開けた。夕暮れどきの残照が、薄暗い室内に差し込む中、誰もが動きを止めた。 「……鏑木さん」  扉が開いた向こうには、居並んだ空手部員たちの前で、伊吹先輩が仁王立ちになってた。ゆっくりと室内を見渡して、 「これは……説明を聞く必要は、なさそうですね」 「へ……へへ。伊吹。いやこりゃあ、ちょっとした遊びなんだよ。なあ」  往生際の悪い言い訳を口にする鏑木に、伊吹先輩は無言で歩み寄る。鏑木は卑屈に腰をかがめながら、 「い…伊吹。分かってるだろ。こんなことが公になったら、おまえらだって」 「鏑木さん。俺はね。決めたんですよ」  伊吹先輩は、鏑木と胸を突き合わせるくらいの近さまで寄って、そこから何が起こったのかは、あたしにも見えなかった。 59 光さんのバレンタイン そのにじゅう sage 2008/04/24(木) 18:43:50 ID:WzEnUb/M    掌打……だと思うんだけど、何の予備動作も運足もなく、ただ、こっちの下腹にまで響く衝撃と共に、鏑木が白目を向いて崩折れたのだけが見えた。  前のめりに倒れようとした鏑木を、伊吹先輩は迷惑そうに手で押しやり、そのまま地響きを立てて仰向けに倒した。誰も、言葉一つ発しない中、伊吹先輩は淡々と呟く。 「こいつらの前で、自分が恥ずかしくなるような真似は、もう金輪際しない、ってね。……お前らも、動くんじゃない。じき、警察が来るからな」  その迫力の前に、鏑木の仲間は、次々と床にへたり込んだ。うわあ……伊吹先輩、カッコいいよ。つい、ほけっと見とれちゃってたあたしは、 「柔沢くんっ」  背後で上がった声に、はっと我に返った。慌ててそちらへ目をやると、円堂先輩が、仰向けに横たわったあいつにおおいかぶさるようにして呼びかけてた。あたしもそっちへ行こうとして、体が動かないことに気付いた。なんで。なんでなのよ。あたし。動け。動いてよ。 「柔沢くんっ。返事しなさいっ」 「う……あ」  円堂先輩の必死の呼びかけに、かすかだけど、呻き声が上がる。それで、あたしの体も、ようやっと目に見えない呪縛から解き放たれた。がくがく震える手足を何とか動かして、円堂先輩とあいつのところへ這い寄る。 「あ、あの……こいつ」  円堂先輩は、あたしのかけた声に返事なんてしなかった。あいつの目を至近距離から覗き込んで、 「柔沢くん。今から触るところで、痛いところがあったら言いなさい。やせ我慢はダメ」  そう言うなり、骨や内臓に異常がないか探る手つきで、あいつの体を調べ始める。その時になって、円堂先輩自身、右の足首が異常に腫れ上がっているのに、あたしは気付いた。道理で、さっきからあいつに寄っかかるような姿勢だったわけだ。 「せ……先輩。その、足」  おそるおそる手を伸ばしたあたしに、円堂先輩が顔を上げる。その真剣な表情はすごく綺麗で、あたしは言葉を失った。 「光。救急車を呼びなさい」 「え……」  ぎこちなく応じたあたしを叱咤するように、 「早く」 「は……はい」  答えたあたしに、円堂先輩はすっかり興味をなくしたように、またあいつに目を向ける。あたしはふらふらと立ち上がりかけ、誰かに肩を押さえられたのに気付いた。目を上げると、伊吹先輩だった。 「心配ない。救急車も呼んだよ。すぐに来る」 「そ……うですか」  もう、力なんて体のどこにも残ってなかった。あたしは、そのまままた、あいつの傍らに、へなへなと腰を下ろす。そのまま、二度と立ち上がれないんじゃないか、って思ったくらいだった。 60 光さんのバレンタイン そのにじゅういち sage 2008/04/24(木) 18:45:30 ID:WzEnUb/M   「う……」  円堂先輩の、けっこう手荒な触診のせいか、あいつが少し大きめのうめき声を上げた。心なしか、薄目も開けてる気がする。あたしは、力の抜けた体にむち打っていざり寄ると、あいつの顔を覗き込んだ。  あいつは、最初は朦朧としてたと思う。でもそのうちに、瞳に強めの光が戻って、かさついた唇が動いた。 「……光、か……」 「そうよ……あたしよ……」 「無事……だよな」  一瞬、何を訊かれたのか、分かんなかった。それから、猛烈に腹が立った。こいつ、こんな時まで……こんな時までっ。あたしのことなんかっ。 「バカっ……無事に、決まってるわよっ……このバカっ」 「……わめくなよ……」  あいつは、ちょっと顔をしかめた。 「無事なら……いいんだ」 「よかないわよ。あんた。こんな」  あいつは、薄目ながらも、あたしをしっかりと見据えた。それから、 「だな……ったく……遅えよ……」  そう呻いたあいつは、痛みのせいかぎこちなかったけど、それでもはっきりと笑っていて、あたしは奥歯を噛み締める。 「なによ……間に合ったでしょ」  ぎりぎりだったけどさ。あたしの強がりに、あいつは、目を閉じた。 「ああ……ありがとな。待ってた」  そう言われた瞬間、あたしの目から熱いものが溢れ出てしまって、あいつの顔に二、三滴したたり落ちた。あいつが、ちょっとびっくりしたように、再び目を見開く。 「あ……」  あたしが慌てて拳で顔をぬぐうと、あいつはそろそろと手をあげて、あたしの頬に手の甲を当てた。あったかくて、大きな手だった。 「泣くなよ……ったく、姉ちゃんと……おんなじだな」  ……ええと。  そうなんだ。こいつは、こういうやつだった。  いや。いつもならね。嬉しいよ。お姉ちゃんと似てるって言われるのはさ。  でもね。こういうシチュエーションで、いくらお姉ちゃんとはいえ、他の女の子のことなんか引き合いに出す? おかげで、涙も引っ込んじゃったよ。そもそも、こいつなんかにゃ、もったいなさすぎるよね。あたしの綺麗な涙はさ。うん。  だから、あたしはあいつの肩にあたしの額をうち下ろし、大げさに「痛ッ」と唸ったあいつのことなんか無視して、あいつの上に顔を伏せたまま、呟いた。 「……バカ」  額に感じるあいつの体温があったかくて、それでなんだかどっと気が抜けちゃって、思わず、ふふっと笑っちゃった。ああ。ほんと、しまらないね。何となく、あたしたちらしいけど。 61 光さんのバレンタイン そのにじゅうに sage 2008/04/24(木) 18:47:04 ID:WzEnUb/M   「全く。それにしても、あきれた頑丈さね」  その夜遅く、二人の手当が終わってから、警察病院の地下駐車場で、円堂先輩の家から差し回された車に三人揃って乗り込んだところで、円堂先輩が何度目かの嘆息を漏らした。  あいつがどうやら深刻な状態にないことを確認した円堂先輩が、携帯でどっかに連絡したところ、この病院で最優先の対応をしてもらったり、なぜだか警察の事情聴取は受けなくてもいいことになってたり。ほんと、円堂先輩って、一体何者なんだろ。  あたしも二人の手当が済むまで待ってて、ずいぶん遅くなっちゃった。あたしの家にも、事件のことは伏せて連絡を入れてもらってある。下手に事情を話すと先に一人で帰されそうで、でも二人を置き去りになんかしたくなかったから、ワガママを通させてもらった。  まあ、近いうちにお姉ちゃんには話しておかないとね。どうせ、隠し通したりなんかできっこないんだから。 「そうかな。体中、ひでえもんだよ」  円堂先輩に向かってそう応えるあいつは、にこりともしない。本人曰く、体の至るところが悲鳴を上げてて、下手に笑ったりすると悶絶しちゃうんだそうだ。うーん。そう言われると、くすぐってやりたくなっちゃうなあ。  ちなみに、あたしたちと円堂先輩は、後部座席で向かい合わせになって座ってる。これって、リムジンっていうんだよね。あたし、こんなの初めて。円堂先輩の家って、噂には聞いてたけど、やっぱスゴいってのを実感する。  車内をきょろきょろ見回すあたしに苦笑しながら、円堂先輩は、あいつに向かってあらためて首を振ってみせた。 「あれだけやられて、内蔵にも骨にも異常がないなんて。しかも、回復が妙に早いし。あなた、何者?」 「別に、普通の高校生だけどよ。……まあ、多少はタフにならざるを得ない環境で育ったけどな」  なんかこいつ、さらりと凄いことを言った気がする。口調も、苦々しさにちょっと誇らしさが混じった感じで、あたしの興味を惹いた。どういうことだろ。お姉ちゃんなら何か知ってるかもしんないけど、いつか、こいつ自身の口から聞いてみたいな、と思う。 「それよか、円堂の方が大変だろ」  それは、こいつの言うとおりで、ケガの度合いから言えば、円堂先輩の方がよっぽど重傷だった。足首の骨に亀裂が入ってるとかで、今はギプスで固められてる。ほんとは入院しないといけないところなんだけど、平気な顔で退院してきちゃうところが、円堂先輩らしい。 「まあね。すぐに治るわよ」 「それにしても、あいつら、汚えよ。円堂の足ばっか狙いやがって」  あいつは、まだ憤懣やる方ないって感じで、こぼした。円堂先輩は薄く笑って、 「わたしの足を止めるのは、あの際、正しい戦法ね。非難することはないわ」 「でもよ……」  そうなんだ。円堂先輩の足が利かなくなったもんだから、あいつが円堂先輩をガードするしかなくて、最後にはああやって亀みたいに円堂先輩を抱きすくめて、あたしが伊吹先輩を連れて戻ってくるのをひたすら待ってたらしい。  これはあたしの想像だけど、そうなるまでにあいつ、円堂先輩よりも自分の方に鏑木たちの注意を引きつけるようなことを言ったりしたりしてたんじゃないかと思う。あたしがそれとなく訊いてみたら、「まあ、なんとかなったしよ」とか、ごまかしてたけど。  それでも……やっぱり、ぎりぎりだったんだろうな。あのまま、長いこと保ったとは思えないし。思い出しても、体に震えが来る。こいつ……ほんと、バカだよ。バカ。大バカ。ド級のバカ。人の気も知らないで、無茶ばっかり。お姉ちゃんも、苦労する訳だ。  あたしに横目で睨まれて、少し身じろぎをしては痛みに呻いたあいつに向かって、円堂先輩はゆったりと頬笑んで、 「別に、あいつらを弁護するつもりはないわよ。そうね。もう二度と、陽の当たる場所に出ることはないでしょう」  観音様みたいな笑顔で、そら恐ろしいことをさり気なく口にしてた。あたしとあいつは顔を見合わせ、それ以上詳しいことを訊くのはやめておくことにする。 62 光さんのバレンタイン そのにじゅうさん sage 2008/04/24(木) 18:48:42 ID:WzEnUb/M    その後、それぞれが物思いに耽るような沈黙があって、少ししてから、円堂先輩が車窓の外を眺めながら、ぽつりと口を開いた。 「昼間の話だけど。気が変わったわ」 「え……」  あいつが顔を向けるのに、ちらっと視線だけをよこして、 「空手。指導してあげる。ケガが治り次第、うちの道場に顔を出しなさい」  それから、あいつが何も言わないもんだから、円堂先輩はちょっと目をすがめた。 「どうしたの。あなたから頼んだことでしょう」 「い、いや。ありがたいけどよ。急だな」 「そう? 今日みたいなことがあるとね。そうそういつも、うまく騎兵隊が駆けつけるとは限らないし」  そう言って、あたしを見てから、今度はにっこりと笑った。 「騎兵隊というより、そうね……三銃士に加わったダルタニャン、ってところかしら。光は」 「は……はあ」  なんだ、その三銃士って。それに、ダルタニャンって、だれ。首を傾げるあたしの前で、円堂先輩は何がおかしいのか、くすくす笑い出した。 「わたしたちはともかく、光は結構ハマリ役かもしれないわね。直情熱血で頑固で不屈のガスコン。せいぜい、王様のために尽くしてちょうだい」 「はあ……」  あたしとあいつは、また顔を見合わせて、肩をすくめた。何のことやら。なんかツボにはまったらしく、肩を震わせ続ける円堂先輩に対して、あいつは憮然としながら、 「まあ……とにかく、OKしてくれて、助かる。よろしく頼むな」 「そうね」  円堂先輩ときたら、目尻から涙なんか拭ってた。どうでもいいけど、人の顔見て、そんなに笑わないでほしいなあ。それも、円堂先輩ともあろう人が。なんか、イメージが崩れたよ。  あたしが少しむくれたのを見て、また笑いかけた円堂先輩は、無理矢理に真面目な顔を作った。それと同時に、声まで厳しくなって、 「ただし。あなたには、防御しか教えないわ。生半可に攻撃を覚えると、ケガの元だから。今日だって、もうちょっと巧く立ち回れたはずよ。全く、側にいたこっちの身になってほしいわね」 「ああ。すまねえ。毎回のこったけど、ぶざまだろうな。円堂から見たら」  あいつは、素直に頭を下げた。ふーん。こいつ、こんなとこもあるんだ。そう思いながら、円堂先輩に目を転じたら、なんだか、微妙にそっぽを向いてた。怒ってるみたいな、でもどことなく照れくさそうな、いわくいいがたい表情に見える。ふーん?  あいつは、そんな円堂先輩には気付かない様子で、 「防御だけってのは、俺も思ってた。でも、円堂らしいな。いいんじゃねえか。それで、よろしく頼む」 「そう」  円堂先輩は素っ気なく答えると、いきなり、運転席に通じるインターホンに向かって「止めて」と命じた。リムジンが停車すると、きょとんとしてるあたしたちに向かって、 「ごめんなさいね。ちょっと待っててちょうだい」  一言断るなり、さっさと松葉杖をついて車の外へ出てしまう。同じく車を降りた運転手さんに向かって何かを話すと、運転手さんはどこかへ行ってしまい、円堂先輩はそのままドアに寄りかかった。運転手さんに何か用事をお願いして、それを待ってるらしい。 「なんだ?」  あいつが訊いてくるけど、あたしだって分かんない。そのうちに運転手さんが戻ってきて円堂先輩に何かを手渡し、先輩は再び車内に戻った。そして、小綺麗にリボンのかかった小箱を、あいつに向かって投げてよこした。 「それ、あげるわ。わたしが買ったものなら、文句はないわね」 63 光さんのバレンタイン そのにじゅうよん sage 2008/04/24(木) 18:50:36 ID:WzEnUb/M    最初は、何のことだか分かんなかった。なんか、ありえないことが起こった、という印象だけが先行して、それから、じわじわと今目にした事実があたしの頭に染み込んできた。  えええ円堂先輩。これって。これって。これって、あのその。やっぱり。そういう。ことなんでしょうか?  円堂先輩は、冷静きわまる表情で肘掛けに寄りかかりながら、目を白黒させてるあたしたちを、ゆったりと眺めてた。 「どうかしたの。今日はそういう日なんでしょう」 「いや……それはそうなんだろうけどよ……」  あいつが呻くように言い、そっちを見ると、なんか爆弾でももらったみたいな顔してた。ある意味、こいつのこんな顔ってそれはそれで見物だったけど、こっちにもそれを楽しんでる心の余裕なんてない。なにせ、あの円堂先輩が。男に。バレンタインチョコを。  うわあ……これは、スキャンダルだよ。スクープだよ。写真撮ったら、怒られるかなあ。いやもう、このニュースが各方面に巻き起こすであろう一大センセーションを思い浮かべただけで、頭がくらくらしてきた。そんなこんなでぼうっとしてたら、 「光?」  非の打ち所のない完璧な微笑を浮かべて、円堂先輩があたしを見てた。はい。分かりました。口外無用ですね。分かっておりますとも。あたしが、そんなに口が軽いお喋りなわけないじゃありませんか。信じて下さいよ。あはははははは。  円堂先輩は、ふっと息を吐いて、 「別に、大した意味はないわよ。今日のお礼って受け取ってもらえればいいわ。それでも不足なら、入門祝いってことにしときなさい」 「ああ……」  あいつは、それでも納得しかねるかのように、仏頂面でチョコの箱をひねくり回してる。それを見ながら、円堂先輩は少しだけ目を細めた。 「せいぜい、お返しに精進してちょうだい」 「そうだな……なんかこう、すごく肩に重しが乗った気がするよ。しかし、初めてもらうのが、こういうのたあな。まあ、うちのババアにもらうよりゃ、ましか」 「あら」  円堂先輩が、首を傾げた。あたしも、横目であいつの顔を盗み見る。初めて、って……こいつ、今、そう言った?  円堂先輩は、あるかなきかの笑みを浮かべて、たずねた。 「そうなの。初めてがこういうので、ご不満かしら」  そんな訊き方をされたら、あいつはふるふると首を振るしかない。その横で、あたしは、ゆっくりと満足げに頷く円堂先輩にバレないよう、こっそりため息をついた。  全く、こいつときたら……油断も隙も、ありゃしない。どっからどう見ても女にだらしなさそうな不良のカッコしてるくせして、なんでそんなに未体験のイベントがいろいろ残ってんのよ。  えっと。デートは、たぶんお姉ちゃんが最初だよね。でもこいつの場合、それをデートって認識してるかどうかが問題だなあ。あとは……その、キキキキスは、あたしだし。チョコに比べりゃ、これはかなりポイント高……って、うわあっ。あたし何考えてんだっ。  なんかもう、頭ん中ぐるぐるになってきたあたしの目の前に、不意に、あいつの手が伸びてきた。 「ほらよ」  見ると、円堂先輩のチョコの包みを開けちゃって、そん中から二、三個をあたしに差し出してた。ああああんたっ。ななななんてことをっ。慌てて円堂先輩の表情を窺ったら、仏様みたいな笑顔だった。うわあああ。あたしに、どーしろってゆーのよっ。 「食べねえのかよ。今日のお礼っつうんだから、殊勲者のおまえにも権利はあるだろ」 「そうね。光。よかったら、どうぞ。ごめんなさいね。気が利かなくて」 「ほら、円堂もいいって言ってくれてるしよ」  はうー。あんたには、あの言葉にびしばし生えてた棘が見えんのかっ。この、鈍感大バカ野郎っ。もう、知らんっ。  あたしはヤケ一二○%くらいの感じで、チョコをつまんで口の中に放り入れた。もちろん、味なんて分かるわけないけど、なんとかかんとか呑み下す。うええん。死ぬかと思った一日の終わりに、一体これは何の罰ゲームですかあ。  チョコの一口だけでげっそりしたあたしは、いきなり頭を撫でられるのを感じて、飛び上がった。 「ななな何よっ」 「いや」  あたしの頭上に手をかざしたまま、あいつは、ゆっくりと、笑って見せた。 「チョコだけってのも何だな、って思ってよ。ほんとに、おまえ、頑張ったよな。助かったよ。ありがとな」 64 光さんのバレンタイン そのにじゅうご sage 2008/04/24(木) 18:52:03 ID:WzEnUb/M    あたしは、顔を伏せた。嬉しいとか、照れたとか、そんなんじゃ、全然なかった。  あたしは、こいつに、そんなこと言ってもらえる資格なんて、ない。だって。 「……そんなこと、言わないでよ」 「は?」  あたしが押し殺した声で言ったもんだから、よく聞こえなかったらしい。あたしは顔を上げて、もっと大きな声で言った。 「そんなこと、言わないでよ。だって、ぜんぶ、あたしのせいじゃない」  情けないことに、声が震える。ええい。しっかりしろ。あたし。 「あたしが……もっと気を付けてたら。あんなに、ほいほい騙されてついてかなかったら。あたしが、無神経に伊吹先輩に近づいたりして、鏑木なんかに目をつけられなかったら。そしたら、こんなことになんか」 「おまえ……」  あいつは、あたしの頭の上の手をどうしようか迷ってるふうだったけど、結局、背もたれの上に下ろした。あたしは涙を抑えるのに必死で、とにかく思いついたことを言い募る。もう、自分が何を言ってるのかも分からないくらい、滅茶苦茶だった。 「あんただって、分かってるでしょ。あたしのせいで。あんたも。円堂先輩も。あんなこと。あたし。あたしのせいで」 「おまえ。それはな……」 「柔沢くん」  静かな声だった。なのに、鞭で打たれたみたいに、あたしの全身に響いた。そのおかげか、少し気持ちも鎮まった気もする。声の方を見ると、円堂先輩が、生真面目な顔でこっちを見てた。 「光の言うことは、正しいわ」 「いやそりゃ……でもよ」  円堂先輩は、少し手を上げて、あいつを制した。あたしを真っ直ぐに見ながら、 「光。それだけ分かっているなら、自分がどうすべきか、分かるわね」  あたしがすべきこと。あたしはどうすべきなんだろう。こいつや、円堂先輩や、お姉ちゃんや雪姫先輩と一緒にいたいと思ってる、このあたしは。  あたしは……賢くならなきゃいけない。強くならなきゃいけない。二度と、同じ過ちを繰り返さないように。次は、もっとうまくやってのけられるように。  ああ。この人たちに……こいつに関わるってことは、そういうことなんだ。単に、すぐ側にいるってだけじゃ、何にもならない。それじゃ、全然足りない。あたしみたいに、まだ何にもできないお子様がまとわりついてても、足手まといでしかない。  お姉ちゃんは、あたしと違う。こいつの傍らにいても、お姉ちゃんなりの物の見方とか、お姉ちゃんにしかできないことを、ちゃんと持ってる。雪姫先輩や円堂先輩にしても、同じだ。こいつとは違う世界に、自分なりの足場をきちんと確保してる。  そんな確固とした自分があるからこそ、それをテコにして、こいつと関わったり、こいつを助けたり、できるんだ。あたしじゃ……今のあたしじゃ、まだ、だめだ。だから、あたしは、これから、そんな自分自身を、造り上げなければならない。  こいつの近くにいるべきかどうか悩むなんて、そっから先の話なんだ。あたしは、まだスタートラインに立ってさえいない。こいつの横に……お姉ちゃんたちと一緒に並び立つ資格なんて、今はかけらも持っちゃいない。  でも……いつかは、きっと。あたしも、そこに、立ってみせる。  ……正直いうと、怖い。怖いよ。不安でたまらない。できるなら、逃げ出したい。あたしなんかに、できるだろうか。今日みたいなことが、またあるんじゃないだろうか。  それでも、目指すところが、はっきりと見えたから。見えてしまったから。あたしは、それに背を向けられない。そんなことしたら、あたしは、たぶんあたしじゃなくなる。二度と、こいつの前で胸を張れなくなる。そんなの、イヤだ。だから、あたしは前へ進もう。 65 光さんのバレンタイン そのにじゅうろく sage 2008/04/24(木) 18:53:45 ID:WzEnUb/M    あたしは、円堂先輩に向かって、微笑んだ。円堂先輩も、目元だけで笑ってくれた。 「あたし……まだ、望みはありそうですか」 「そうね。雨の妹だから。素質は十分だと思うわよ」 「……ありがとうございます」 「俺も、一言言わせてもらっていいか」  あいつに目を向けると、いつになく真摯な眼差しと口調があたしを迎えた。 「円堂はああ言うけどよ。全部が全部、おまえの責任なんてこた、ねえ。全部、おまえが背負いこまなきゃならないなんてことも、ねえんだ。だから、いつでも必要な時は、頼れよ。俺じゃなくたって、姉ちゃんとか、円堂とか、雪姫とか。いつでもな」 「うん。ありがと」  どういうわけだかその時は、素直にそんな言葉が出た。でもね。今言われたこと、あんたにもそっくり返すよ。何でも背負い込みたがるの、あんたの方じゃない。だからこそ、あたしは、強くなろう。そんなあんたを、ほっとけないから。そうだよ。だからね。 「あたしね。あの学校に行くよ。円堂先輩んとこ。決めた」  いきなり話題を変えたあたしの前で、あいつは何度か目瞬きした。そんなあいつに、あたしは、にかっと笑ってみせる。  うん。あんたと違う学校で、あんたが知らないうちに、あたしは、いろんなことを学ぶだろう。円堂先輩や、伊吹先輩や、他のいろんな人たちから。そしていつか、あんたがびっくりするくらいスゴい女になってやるんだ。だからそれまで、首洗って待っててよ。  そしたら、その時は……こいつも、ちょっとは違った目で、あたしを見てくれるかな。 「そうか」  あいつが何を思ったのか、知らない。ただ、励ますように笑ってくれた。ふん。あのね。それで済むと思ったら、大間違いなんだからね。 「それでね。合格発表は来月の十四日だから。あたしとお姉ちゃんで合格祝いに出かけるから、付き合いなさいよ」 「え……」  あいつは間抜け面で口をぽかんと開ける。つい笑っちゃいそうになったのを、何とか表情を引き締めて、威厳をこめて言い渡す。 「何よ。あんた、そんくらいの義理はあるわよね?」 「いやそりゃ構わねえけど……合格すんの前提かよ」 「んー? なんか言った?」 「……いや、何も。ああ、けどその日は雪姫が」  そうだよね。それは昼間に聞いた。だから、その日にするんじゃない。 「だったら、雪姫先輩も一緒でいいから。いいでしょ?」 「あー……まあ、いいけどよ」  ふふん。そう言うと思った。なんか、それはそれで、雪姫先輩と二人きりにならなくてすんで、ちょっとほっとしてたりしない? 全く、救いがたいね。朴念仁。鈍感バカ。エセ不良。ヘタレ金髪。  ふと円堂先輩の方を見ると、無言で、でもちょっと面白そうな目つきで、こっちを見てた。何となくだけど、この人も、来月の十四日には当たり前のようにその場にいそうな気がする。まあ、それはそれでいいんだけど。  そんな光景は、すごく楽しそうで素敵に思えて、だから、あたしは家まで送り届けてもらうまでの間ずっと、幸せな笑いを浮かべてた。  ちなみに翌月の十四日。どっかのバカが話しとくのを忘れたらしく、あたしたち(やっぱり円堂先輩もいた)が一緒と知らずに、待ち合わせ場所に現れた雪姫先輩は、極上の晴れやかな笑顔を浮かべながら、ほれぼれするくらいに見事な肝臓打ち一発で、あいつを沈めた。 .

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