「彼と彼女の非日常」

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「彼と彼女の非日常」 -作者 伊南屋 ◆WsILX6i4pM -投下スレ 2スレ -レス番 617-621 692-696 740-743 -備考 電波 続きもの 617 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/06(日) 23:04:08 ID:HurUj8aI  人との出会いは何時だって唐突だ。  突然に、理不尽に、こちらの都合なんてお構いなしにやってくる。  例えばそれは――なんて事ない休日の昼下がりだったりする。  † † †  柔沢ジュウの昼寝を妨げたのは、自宅の玄関から響く、安っぽい呼び出しチャイムの音だった。  ジュウはまどろみに沈んでいた意識を強制的に浮上させられ、反射的に舌を打った。  対応に出るのが面倒で、呼び出された事実を忘却の彼方に追いやり、再び枕に頭を埋める。  だが、来客はそれを許してはくれなかった。  まるで推し量ったかのような正確さで、頭が枕に着地した瞬間にチャイムが鳴らされる。  そこからは一定のタイミングでチャイム音が連続した。  余りに迷いのない鳴らしっぷりに、来客は中に人が居ることを確信しているのではないかと考える。  そんな事に思考を回す間にも甲高い音がジュウの鼓膜を震わせ続ける。  再び舌打ち一つ。仕方なしにジュウは対応に出る事にした。  適当なジーパンを履いて玄関へ。不機嫌さを隠しもせずにジュウは扉を開けた。 「はい、どちら様?」  来訪者は気の弱い人間ならそれだけで身を竦ませそうな声音に、実に短い言葉で返した。 「柔沢紅香さんのお宅はこちらでしょうか?」  その言葉にジュウの不機嫌さは極まる事になった。  あのろくでなしの母親、その関係者。  そう思うとジュウの中に、目の前の人間に対するネガティブな興味が湧いた。  改めて客人を眺める。  少女――それも美を付けてなんの文句もない少女だった。  歳は自分と同じくらいだろう。見た目には、あの母親との関係を疑いたくなるような清純そうな雰囲気だ。 「確かにここは柔沢紅香の家だが、あいつなら居ない。何処にいるかも分からないし、何時帰るかも分からない」  どんなリアクションを取るか窺いながら、やはり不機嫌な声で吐き捨てる。  すると少女は意外にも顔を綻ばせて言った。 「不在であることは知っています」 「は?」  ともすれば聞き流してしまいそうな程の自然な物言いに、ジュウは間抜けな返答をしてしまう。 「私は紅香さんにここの部屋を借りていいと言われて来たんです」 「は……? な?」 「しばらくお世話になりますね? え~と……柔沢ジュウ……さん?」 618 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/06(日) 23:05:21 ID:HurUj8aI  † † †  こいつは私の知り合いだ。しばらく家に置いてやれ。  こいつに関わる金銭的な部分は本人から遠慮なく徴収して構わない。  部屋は私の部屋を使わせるように。  手を出しても構わないが、やるからにはそれなりの覚悟をするように。  母より。  たったそれだけだった。  少女から渡された手紙には、ジュウの母親である紅香からのメッセージがそれだけ書かれていた。  ぞんざいに書き殴ったであろうにも関わらず、やたらと達筆な文字で書かれたその手紙は、字面も合わせて紅香らしさに溢れていた。  ジュウは手紙を握る手に力を込め、くしゃりと握り潰す。  沸き上がるのは怒りと呆れだった。  ろくな説明のない手紙。自分に対する言葉など何一つなく、それでも最後に思い出したように書き加えられた「母より」という言葉。  他に言うことは無いのかという想いと、せめてもう少し分かり易く事態を説明しろという苛立ちに、鹿目面を作る。 「あの……」  文面に目を通す間、ずっと黙っていた少女が声を上げた。 「分かって頂けましたか?」  さっぱり分からないし、分かりたくもない。そう言って彼女を追い返すのは容易だろう。  しかし、訳も分からぬまま頭ごなしにそうするのは気が引けた。 「……手紙には目を通したか?」 「……見ていませんけど」  小首を傾げ答える少女に手紙を突き出す。 「……」  しばらくの沈黙の後、少女は紙面に走らせていた視線を上げると、少し――いや、かなり困ったような苦笑を浮かべた。 「なんていうかその……紅香さんらしい手紙ですね」  ――まったく、どうしろってんだ。  内心で呟き、ジュウは黙考に耽る。  追い出すのは容易いが、それと同じくらい置いておくのも容易い。手紙の文面を信じるならば金銭的にも問題はないようだ。  言ってしまえばどうだって良いのだ。ジュウに関わってきさえしなければ。  唯一追い出す理由足り得る感情は、母親の適当な指示に素直に従うのが癪だということだ。  だが、これにメリットが無いわけでもないと思う。  事情は知らないが、それにさして興味が在るわけでもない。鬱陶しいと感じたら追い出せば良いだけだ。  ここで彼女を預かればあの母親に貸しを一つ作れると考えれば別段悪くはない。ならば――。 「……勝手にしてくれ」 「え?」  ぞんざいに、しかしあっさりと許可をだしたジュウに、逆に少女が面食らう。 619 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/06(日) 23:07:50 ID:HurUj8aI 「その、事の経緯とかきかないんですか?」 「不必要な干渉さえしなきゃしばらくここに住んで構わない。何があったかも俺は問わない。部屋は――」 「紅香さんの部屋、でしたよね?」  少女は瞬時にジュウの意志を汲んだらしく、とりあえずなるようになったと笑顔を浮かべた。 「じゃ、俺は出掛けるから後は自由にしてくれ」 「え? 何か用事でもあるんですか?」  ――お前には関係ない。  そう言うようにジュウはさっさと自室へと戻り扉を閉めた。  つまるところ、ジュウは不干渉条約を自らも積極的に実行しようという事だ。  幸い時間潰しの術は心得ている。  着替えながらジュウはこれからどこで隙を潰すか考える事にした。  † † † 「柔沢紅香……か」  彼はそう呟いて苦い表情を浮かべた。 「相手取るには厳しいな」  自分の目的、すべき事。それに対する障壁としては些か難易度が高い。  そう考えて、しかし彼は口元に笑みを浮かべた。  妨げがあったとして目的やすべき事が変わるわけでもない。例え柔沢紅香を敵に回してもそれは変わらなかった。  むしろ―― 「さて、どこまで通用するか」  彼は、柔沢紅香と張り合える事実に少々の歓喜すら感じていた。 「……待ってろよ」  呟く声は虚空に消えて、誰の耳にも届かない――。  † † † 「あれ? ジュウくんじゃん」  ふと立ち寄った書店でかけられた声に、ジュウはしまった、といった表情で振り返った。  そう言えばこの辺はこいつの学校からわりかし近い場所だったな、と気付いて、ジュウは自分の迂闊さを呪った。 「なになにどしたの? この辺にいるなんて珍しいね。あ、まさか休日に私の事をストーカーとか?」 「違うから黙れ」  鋭く言い放って、声をかけてきた相手――雪姫を睨み付ける。  雪姫はジュウの厳しい視線を受けて尚、満面の笑顔を返した。 「やだな~、もう。ちょっとした冗談だって」  ケラケラと笑って見せる雪姫に、ジュウも眉間に刻まれた皺をほぐし、代わりに脱力の溜め息を吐く。 「で、こんなとこでどしたのジュウくん?」 「……別に、なんでもねえよ。暇潰しに適当に歩いてただけだ」  覗き込まれるような体勢に、若干背を反らして互いの距離を離しながらジュウは答える。  雪姫はその答えに笑みを深めた。 「暇なんだ?」 「……そうだが」  次の言葉が容易に想像出来て、ジュウはまたも自らの迂闊さを呪った。 620 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/06(日) 23:10:13 ID:HurUj8aI  雪姫は雪姫で暇なんだろう。それを同じ暇をしている自分を巻き込んで遊ぶつもりに違いない。 「じゃあさ、一緒に遊ぼうよ」  ――ほらな。  内心でそう呟いて、ジュウは考える。  別に断る理由はない。いくつか用意していた選択肢が増えるだけ。そしてそれを選ぶのは悪い考えでもない。  そこまで黙考して、ふとジュウは気付く。  かつて――雪姫や、もう少し前に雨と出会う以前の自分なら、こんな誘いは一考の余地もなく切り捨てていた。  弱くなった――というよりは単純に気を許していると云うことかもしれない。  あんなに独りが良いと、そう思っていたのに。  もっとも 「分かった。付き合おう」  ――今感じるそれを否定したいとも思わない。  ジュウは雪姫に手を引かれ歩き出した。  † † † 「柔沢ジュウ……か」  そう呟いて彼女は楽しそうな表情を浮かべた。 「面白そうな人間だったな」  柔沢紅香の息子。  弱い、とても弱い人間だと母親である柔沢紅香は言っていた。  そんな彼は、彼女に不干渉を求め、不干渉を与えた。  ――それも名前を聞くことすらしない徹底ぶりだ。  彼女にとってそれは真新しい対人関係であり、不思議な感覚をもたらした。  もしかしたらそれは、彼女が本当の意味で対等に扱われた瞬間だったかも知れない。  家族も家族に似た人達も、彼のようにはしなかった。  良きにしろ悪きにしろ重要視されて扱われてきた。  だから、どうでも良いと切り捨てられて、逆に楽しいというか、面白いと感じた。 「ふふ……」  小さく声を零して彼女は笑む。 「彼は……柔沢ジュウという人間はあとどれくらい私を楽しませてくれるだろう?」  見慣れぬ部屋。彼女は束の間の自由を謳歌する―――。  † † †  時の流れを早いと感じたと言うことは、案外自分は楽しんでいたらしい。  付き従うままに街を歩き回り、買い物に付き合い(自分も買ったが雪姫は倍以上買っていた。しかも持たされた)、喫茶店で雑談に興じた。  やがて陽が暮れ始めたあたりでようやくジュウは時間の経過を意識した。  腕に付けた馴染みの時計を見れば、示す時間は午後の六時をやや過ぎた辺り。 「もうこんな時間か……」  ぽつりと零した呟きに、先を歩く雪姫が振り向く。 「あっと言う間だったね」  小さな微笑を浮かべ、再び前を向く。 「ご飯どうしよっか?」  問われ、ジュウは考える。 621 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/06(日) 23:12:42 ID:HurUj8aI  財布の中に大した額は入れずに出て来た為、外食するには若干心許ない。  ならば選択肢としては家に帰り自炊が推奨される。  ――そういえばアイツはちゃんと飯食ったのか?  自宅に置いてきた来訪者を思い浮かべる。  如何に不干渉を決め込んだとはいえ長い間の放置は気になる。  疑わしい訳ではない。しかしそう考える事が紅香に全幅の信頼を寄せているみたいで不愉快だということもある。 「俺は帰ってから飯を食う」 「そっかー。私はどうしよっかなー?」 首を斜めにして考える素振りを見せてから、雪姫はくるりとジュウに体ごと返した。 「ねえねえジュウくんジュウくん柔沢くん。私もジュウくんの作ったご飯が食べたいな?」 「……は?」  咄嗟にジュウは反応出来なかった。 「ほら、いつだったかジュウくんが作ったフレンチトースト食べたでしょ? あれが美味しかったからさ。他にもジュウくんの手料理食べたいなーって」  そう言って雪姫は手を合わせ、ねだる仕草を取る。  これが平時であれば別に構わなかった。どうせ文句を言った所で、何だかんだで押し切られただろう。  それに一人分作るのも二人分作るのも大して手間の差はない。  しかし今は家に人がいる。紅香が連れてきた少女が。  あの少女を見られたら、雪姫はどんな反応を示すだろう。とりあえず面倒な事になりそうな事だけは予想出来る。 「……来客がある」  返した言葉はそれだけだった。偽りはなく、断る理由としては十分。流石に雪姫も諦めるだろう。 「ありゃ……。ん~、そっか~」  ジュウの思案通り雪姫は、不承不承といった面持ちで納得した。  納得してもらった所でお開きとなり、途中まで雪姫と帰り、少しの世間話をして別れた。  ――その後、独りきりの帰路、夕暮が薄闇に呑まれかけている空を見上げたジュウが、雪姫の荷物を持ちっ放しだと気付いたのは既に自宅のアパートが見えてからだった。 続く 692 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/19(土) 23:09:21 ID:UudWZnrn 『彼と彼女の非日常・Ⅱ』  結論から言ってしまえば、ジュウの心配は杞憂だった。  ジュウ自身は夕飯くらい作ってやっても良いかと考えていたが、居候少女にとってそんな心配は無用だったらしい。 「あ、ほふぁえりふぁふぁひ」  寿司だった。高級らしかった。それを、リスのように食べていた。  ジュウが帰ったきた事に気づくやいなや、傍らにあった茶で口の中のものを流し込む。  ごくりと寿司を喉に通すと、少女は改めて口を開いた。 「案外、早かったですね。もっと遅くなるかもと思ってお寿司一人分しか取ってないんですけど……」 「いや、それは構わないんだが……」  今朝、初めて見たときの清楚なお嬢様という印象は、すっかりなりを潜めていた。  服は動き易そうな普段着のようだし、寿司を食べながら見ているのはバラエティー番組だ。  むしろ今ある印象は活発そうな少女で、変わらず丁寧な口調や、洗練された仕草が実は無理をしているのではないかと思う。  行儀が良いんだか悪いんだか分からない所作。その結果としてあるのが庶民派のお嬢様という中途半端な印象であり、それがどうにも妙なチグハグ感を演出していた。。 「俺が出ていた間、何をしてたんだ?」  なんとなくジュウがそう尋ねると、少女は優雅な動作で茶をすする。それは別に取り澄ましたような態度ではなく、実に自然な挙動だった。 「別に何も。一日中家に居ましたし」  笑顔で答える少女に、ジュウは呆れてしまう。 「何もしてないって、本当にか?」 「強いて言うなら部屋を眺めてましたけど」  少女の返答に、ますますジュウは呆れる。 「それは……退屈だったろ」 「いえ、案外そうでもないですよ?」  その答えをジュウは俄かには信じられなかった。  正直、この家に見るようなものは何もない。  必要最低限のものだけで暮らしているのだ。ジュウ自身がゲームをやらないので当然ゲーム機の類は当然ないし、また本も読まないので置いていない。  強いて言うなら紅香の衣類だろうか。  紅香の部屋には大量の衣類が保管してある。女の子であればそういった物に興味が湧くかも知れない。  ただ、紅香の服はどれも派手なものばかりだ。この少女の趣味に合うとは思えない。  いや、だからこそ好奇心に駆られるという事も考えられるか。  そう考えるならば、まあこの家にも見るものはある事にはなる。  ジュウがそう自己解決すると、少女が別な話題を切り出した。 693 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/19(土) 23:10:58 ID:UudWZnrn 「そう言えばジュウさん、晩御飯の方は?」  少女の問いに、ジュウは答える。 「これから食おうかと思ってた所だ」 「……やっぱり二人分取っていれば良かったですね、お寿司」 「気にすることはねえよ。そもそも互いに干渉しないって条件だ」  ――言ってしまえば、こうして話していることですらジュウにとっては予定外なのだ。気が付けば少女のペースに呑まれ会話などをしていた。  油断していたと見るべきか。得体の知れないという意味では彼女はそう分類される対象だ。少し迂闊だったかも知れない。  この所見舞われた幾つかの事件を経て、ジュウは以前にも増して他人に懐疑的な視線を向けるようになっていた。  無論、いくらか見知った相手なら疑ったりはしないのだが、だからと言って彼女の事を知ろうとも思わない。  ――改めておかしな事になったと思う。  見ず知らず、名も知らぬ少女と一つ屋根の下。今朝方、唐突にしかも半ば一方的に決まった事とは言え、余りにも現実味に欠ける話だ。  そして少女。どうにも一筋縄ではいかなそうだと、そんな雰囲気をジュウはなんとなくだが感じていた。  ただ、それを決して嫌がっていない。むしろどこか居心地の良さを感じ、面白がってすらいる自分が居る。  それが一番不思議だった。  自分が、誰かと共に過ごす事を楽しんでいる――望んでいる。  昼間、雪姫と共に居た時にも感じた思考が甦る。  弱く――なったのだろうか。  独りを望んで、孤立を選んで、ただ一つの完成された強さを目指して。  それが今やこんな見ず知らずの相手にすら心を許すような態度で接している。  こんな姿を見て、あの母親は何を思うだろう。強さを体現したようなあの女は。  見下すだろうか、嘲弄するだろうか、愚かだと切り捨てるだろうか。 「――――は」  思わず苦笑が漏れる。 「どうしたんですか?」 「いや、何でもねえよ」  自分はもう知ったのだ。一人ではないという事を。だから、今はそれを守る為に精一杯になろう。柔沢ジュウという人間は、そんな大層なものではないかも知れないけれど。  自虐的な考えを振り払ってジュウはキッチンに向かう。冷蔵庫の中身をざっと見ると大した食材は無く、簡単な物しか作れそうにない。  そう言えば炊飯器の中に炊いた白米が幾らか残っていたのを思い出す。それから組み立てられるメニューは実に簡単なものだ。  卵、豚肉、幾らかの野菜。 694 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/19(土) 23:13:22 ID:UudWZnrn  中華の基本であり、手軽に作れる料理の代表格。 「今からチャーハン作るけどお前は――」  要らないよな。そう言いかけて、しかしそれは少女の返事があっさりと打ち消した。 「是非とも頂きます」  ――まったく。よく食うお嬢様だよ。  笑顔で更に食べると宣言した少女を見て、ジュウは内心で呟き、溜め息混じりの苦笑を浮かべた。  握る包丁は手慣れた挙動。  チャーハン数食分の食材を刻む音が、部屋を満たした。  † † †  チャイムが鳴る。  今朝の事がデジャブする。来客を伝えるそれにジュウは苦鳴を漏らす。 「くっ……」  ジュウの左手にはフライパン。右手には菜箸。  チャーハンの仕上げに入った今、その呼び出し音は最悪のタイミングと言えた。  あと三十秒。それだけあれば完璧な出来で皿にチャーハンを移せる。  今すぐ対応に出るか、少しだけ客を待たせるか。  幾ばくの逡巡の後にジュウが選んだのは後者であり、結果としてそしてそれは失敗だった。 「手が放せないようですし、私が対応に出ますね」  そう聞こえたのは居間の方から、少女の声で。  自分がこの家のものでないことを忘れているような言動にジュウは焦りを隠せなかった。 「ちょ、おま、待て!」  そう叫んでも時既に遅し。その時点で扉は既に開け放たれ、それ故に来訪者にもジュウの声は届いていた。  ジュウは来訪者に予想がついていた。忘れられた荷物。その中身、そして持ち主がそれを一時でも早く読みたがっていた事実。  慌てて玄関へ(それでもチャーハンは律儀に皿に乗せ)向かう。 「ジュウくーん?」  ゆっくりとした口調――そこに怒気が含まれているのは気のせいか。  声の主は――雪姫。  予想通りの来客。しかし、来客は雪姫だけではなかった。 「――ジュウ様、こちらの方は?」  自らを称する事ジュウの奴隷、従者、守護の騎士。  ジュウに一方的に前世からの忠誠を誓った少女。  堕花雨がそこにいた。 「なんで……雨が居るんだ?」  思いも寄らない登場に狼狽えつつ問うと、雪姫が答えた。 「帰りがけに行きあってね? それで今日買ったものを見せようと思ったらジュウ君に持ってもらったままだって気付いてさ」 「雪姫がジュウ様のお宅まで取りに行くと言うので付いてきたのです」  雨が返答を引き継いだ。  ジュウは小さく溜め息を吐く。 「今日は来客があると雪姫には言っただろうが」 695 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/19(土) 23:14:52 ID:UudWZnrn 「うん。でも荷物を取りに行くだけなら良いかなって」 「……分かった。今取ってくる」  仕方なし、と奥に向かおうとしたジュウを雪姫の声が押し止める。 「待ってよ」  どこか冷え冷えとした声音に、ぎくりとして立ち止まる。  ――いや、ちょっと待て。なんで脅えてるんだ俺は。 「そう言えば聞いてなかったよね。来客って、どういう来客なのかな? 来客ってそこの女の子の事でしょ?」 「いや、どういうって……」  どう説明したものか、ジュウが答えあぐねていると、それまで黙って様子を見ていた少女が口を割った。 「来客というか、同居ですよね?」  ――何で俺に同意を求めやがる。しかもその発言は誤解を招くだろ。 「へぇ……同居、ねえ」  ジュウの予想通りの誤解をしたらしい雪姫がすっ、と目を細めて言う。気のせいか、其処に刃を持った時の鋭さを垣間見た。 「いや、ちょっと待て。こいつは名前も知らないような相手で」  やたら棘のある口調に、知らずジュウは怯んでしまう。 「名前も知らない女の子と同居なんか出来ちゃうんだ、ジュウ君は?」 「そうなのですか? ジュウ様」  真っ直ぐな二人からの視線。物理的な圧力すら伴いそうなそれに晒され、精神的に追い詰められていく。  良く考えれば全くの無実なのに、なんだこの状況は。  まるで自分が、浮気していた事が露見したろくでなしみたいだ。  無言のプレッシャーに屈し、ジュウは深々と溜め息を吐き出して室内を指した。 「……取り敢えず中に入れ。順を追って説明する」  いつもの自嘲でも何でもなく、今の自分はさぞ情けない姿を晒しているのだろう。  そう思うとジュウは自らの心が深く沈み込んで行くのを止める事は出来なかった。  † † †  簡潔な説明。  今日の朝、彼女がここを訪れたこと。  手渡された母親からの手紙のこと。  打算と意地を天秤に掛けて出した答え。  ジュウから不干渉条約を定めたこと  そして――今に至る経緯。 「なる程ね」 「お話は理解しました」  頷いて答える二人にジュウは安堵の吐息を零す。 「だけど」 「ですが」  それをひっくり返す声が重なる。 「少し、不用心過ぎじゃないかな?」 「少し、不用心過ぎはしませんか?」  突き刺さるのは猜疑の瞳。向ける矛先はジュウと少女の両方に。  たじろいで受けるジュウと、平然と受ける少女。 「一つ、問います」  雨が少女に声を掛ける。 696 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/19(土) 23:16:20 ID:UudWZnrn 「貴方は一体――誰ですか? ジュウ様の味方ですか? 敵ですか? それとも無関係な人間ですか?」  返答如何によっては容赦はしない。  言外にそう込めて、雨は問う。  少女は――答えない。 「少し、友好的にいこうか? まずは名前から。私は斬島雪姫。この子は堕花雨。――あなたの名前は?」  笑顔の下に疑いを隠しす。  あくまで穏やかに、雪姫が問う。  少女は――笑いだす。 「は……はははっ、あははははっ!」  雨も雪姫も、それをただ眺める。 「ははは……本当に、本当に面白いな柔沢ジュウ。お前は私の想像以上だ」  口調が――変わる。  傲岸にして不遜、偽る事を止めた声。 「堕花に斬島か。紅香の事だ、何も知らせていないだろうな。なのに、出会ってしまうか――皮肉だな」  全く面白い。そう呟いて、少女はジュウを見た。  ――真っ直ぐに。 「名乗ろう。ここで名乗らねば失礼に当たる――先に名乗ったその二人に最大級の敬意を表さねばな」  少女は、高々と名乗りを上げる。 「私は紫。――九鳳院紫だ」  反転。  ちょっと変わった日常は非日常に。 続く 740 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/02/02(土) 11:24:58 ID:hu10TCWB 「彼と彼女の非日常・Ⅲ」  ――九鳳院。  その名を知らない人間は、物心がつくかつかないかの幼子か、最早周囲を認知出来なくなった老人か位のものだろう。  その程度には、九鳳院という家系の存在は強く、大きく、異彩を放っていた。  実質上、この国に置ける支配者であり、もしかしたら世界ですら彼らの持ち物であるかも知れなかった。  つまり九鳳院は、王者――そう呼ばれる一族だった。  † † †  誰も、何も口にしない。  ジュウは驚きの余り頭が真っ白になっていたし、雨と雪姫は思考に集中する事で沈黙していた。  少女――九鳳院紫と名乗った彼女は反応を伺っているらしい。まるでからかっている相手を観察しているようでもあった。  からかっている――。  からかっている? 「嘘だろ?」  思考に浮かんだ疑念を言葉にする。  だが、それを否定したのは他でもない。忠実なる従者たる堕花雨だった。 「いいえ、恐らくは本当かと」 「なん……で?」  何故そう言えるのかとジュウが問おうとすると、いち早くそれを察知した雨が答える。 「テレビはご覧になりませんか?」 「一応見てるが」 「ではテレビで九鳳院の息女を見た事は?」 「たまに……」  うろ覚えだが、何かの式典に出席した九鳳院家の面々の中で同年代の少女が豪奢なドレスに身を包んで着飾った姿がイメージとして脳裏に浮かぶ。 「テレビに映る九鳳院家の息女とはメイクと服装が違いますが、人相はほぼ一致します」  そうなのだろうか?  言われてみればそんな気もする。 「しかし、ほぼであって完璧ではありません。ですがそれはとある仕掛けで解決出来ます。即ち――影武者」 「どういう意味だ?」 「影武者は本物に似た人間を使っているはずです。ならば逆にも考えられます。つまり、本物は影武者に似ている」 「ふむ。だがそれでは私が本物である証明にはならないのでは?」  紫が疑問を差し挟む。 「はい、あくまでこれは仮説です。信憑性は全くありません」 「ではなぜ本物だと?」 「勘です」  実にシンプルな、しかも無茶苦茶な理由だった。 「勘ですが――確信はしています」  暫くの沈黙。それを紫が崩す。 「ははっ! 全く面白い。飽きないなお前達は」  無邪気に笑う紫を見ながらジュウは考える。  ――本当にこいつはあの有名な一族の一人だって言うのか?  ジュウには判断する材料がない。故に判断を雨に任せるしかない。 741 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/02/02(土) 11:27:47 ID:hu10TCWB 「付け加えましょう。貴方は私達に対して興味を持った――正確には名前にでしょうか。それが証になります」  紫は無言で頷く。口元には笑み。本当に無邪気な、心からの笑みだった。 「信じて貰えるならばなんでも良い」  あっけらかんと言ってのける。 「ところで」  不意に、笑顔に若干の申し訳なさを浮かべ紫が言う。 「チャーハンが冷めてしまうから早く食べたいんだが」  † † † 「ふむ、ふまい」 「はふ、はふ、はふ」 「ジュウ様。口元に御飯粒が」 「んぁ、悪ぃ」  団欒。その光景はそう呼ばれるものだった。  気が付けば四人で食卓を囲み、皆が一様に箸を動かしている。  多めにチャーハンを作っておいて良かった、とジュウはなんとなく考えた。  加えて考える。  目の前の少女――紫は九鳳院の一族らしい。  それがどれだけ途方もない事か、正直ジュウには理解が及ばない。ただ“多くなるかも知れない。少なくとも今は呼び捨ての方がジュウにはしっくり来た。 「その割には雨には様付けで呼ばせてるよね」  雪姫が皿から顔を上げジュウをからかうような調子で言う。  ジュウは眉根をしかめるとぶっきらぼうに反論した。 「呼ばせてる訳じゃないさ。雨が勝手にそう呼ぶだけだ」  ――嫌がってもいないくせに。  雪姫の小さな声はジュウの耳には届かない。 「ふふ」 「なんだよ、いきなり笑い出して」  微笑んだ紫を、ジュウが問い質す。 「いやなに、中々に複雑な人間関係のようだと思ってな」  懐かしむような表情を浮かべてそれだけ言うと、紫は再びチャーハンを口に放り込む。 「……そろそろ本題に入っても宜しいでしょうか?」  切り出したのは雨だった。 「まず貴方が誰であるかは分かりました。ではその次です。何故貴方は此処に来たのですか?」 「……ふむ」 742 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/02/02(土) 11:29:03 ID:hu10TCWB  雨の質問に紫は暫く黙り込む。紫はなんとか言葉を探して探しているようだった。 「簡単に言えば、追われている」  暫く悩んだにしては単純な答え。  しかし、意味の重さは大きい。 「追われて……る?」 「そうだ。私を追う者がいて、私はそれから逃げている」  さも当然であると言うように紫が話すのを見て、何故そんなに平静であるのかと考える。  日常化しているのだろうか。誰かから狙われる事を。  それを当然と受け入れているのだろうか、彼女は。 「どうして追われてるんだ?」 「――悪いが話す事は出来ない。身内の恥を晒すことになる」 「そんなの――」  関係ないだろう。  そうは言えなかった。  とてもではないが、言える筈がなかった。  彼女と自分では今まで生きてきた、見てきた世界が違い過ぎる。それを無責任に否定する事は出来ない。  頂点に立てば、敵は増える。いつだって誰かがその頂点に取って代わろうとする。  権力争いの中で、紫という少女の利用性はどれだけ高い事か。常に危険と隣り合わせだったはずだ。  そして彼女は言った。  ――身内の恥を晒すことになる。  九鳳院家の中ですら争いの種はあるのかもしれない。それに紫は巻き込まれたのだろうか。  途轍もない世界の闇を突きつけられた気分だった。  お前の知る不幸など、数多ある地獄の欠片でしかないのだとあざ笑われている気がする。 「なに、すぐに出ていくから安心して欲しい。迷惑は掛けない。今欲しいのは時間だ。思い知らせる時間。自分が何をしたのか思い知らせねばならない」  そう言って紫は笑んだ。真っ直ぐな、力強い笑みだった。 「ジュウ様」  雨がジュウを覗き込む。その瞳は問うていた。  ――柔沢ジュウはどうするのか? 「…………」  考えるまでもない。自分は――柔沢ジュウという人間は、なんとかしたい。そう思っている。  理由ならそれで十分だ。 「俺に、なにか出来ることはないか」 「気持ちは有り難く受け取ろう。だが、すまないがこれは私の問題だ。ここに置いてもらう以外、ジュウにして貰える事はない」 「……そうか」 「すまないな」 「いや、だったらこっちは勝手にやらせてもらうだけだ」 「……は?」 「時間を稼ぎたいんだろ? 追いかけてる奴から逃げたいんだろ? だったら俺が何とかする」  食卓を見渡す。信頼できる従者の少女と、その友人を見つめる。 「手伝ってくれるか?」 743 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/02/02(土) 11:29:58 ID:hu10TCWB 「ジュウ様が望むのであれば」  即答する雨。 「……私はパス」  否定する雪姫。 「……そうか」  強要は出来ない。危険かも知れないし、元々雪姫はドライな人間なのだ。返答は当然だ。 「分かったか? 俺と雨は勝手にやらせてもらう」  紫は大きな溜め息をつく。 「……分かった。勝手にするがいい」  仕方ないというように肩を竦める。 「まったく、こんな風になってしまっては本当の事を言えないじゃないか」  小さな小さな呟きは、誰の耳にも届かない。  † † †  携帯。通話する声。 「――ああ、分かった。ありがとう」 「――――」 「分かってるよ。じゃあまたメールで……え?」 「――――」 「そう言うなよ。仕方ないんだ」 「――――」 「……なんでそうなるんだよ」 「――――」 「……あぁ。じゃ、切るからな」  プツっ。  ツー、ツー、ツー。  ……ピロリロリン。 「っと来た」  着信。 「……まったく、メールにまでこんな事を書くか普通? ――えっとデータは……」  メールに添付された地図データを展開する。 「なるほど、ここか」  画面に映る地図。その中央にポイント付きで表示される建造物。 「なんだ。案外近いじゃないか」  なんの変哲もないアパート。  ――ジュウの住むアパート。 「待ってろよ。紫」  歩き出す。動き出す。  目的を目指して、淀みなく。  進み出す。動き出す。  ――“彼”が、追跡を再開した。 続く .
「彼と彼女の非日常」 -作者 伊南屋 ◆WsILX6i4pM -投下スレ 2スレ -レス番 617-621 692-696 740-743 798-800 805 -備考 電波 続きもの 617 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/06(日) 23:04:08 ID:HurUj8aI  人との出会いは何時だって唐突だ。  突然に、理不尽に、こちらの都合なんてお構いなしにやってくる。  例えばそれは――なんて事ない休日の昼下がりだったりする。  † † †  柔沢ジュウの昼寝を妨げたのは、自宅の玄関から響く、安っぽい呼び出しチャイムの音だった。  ジュウはまどろみに沈んでいた意識を強制的に浮上させられ、反射的に舌を打った。  対応に出るのが面倒で、呼び出された事実を忘却の彼方に追いやり、再び枕に頭を埋める。  だが、来客はそれを許してはくれなかった。  まるで推し量ったかのような正確さで、頭が枕に着地した瞬間にチャイムが鳴らされる。  そこからは一定のタイミングでチャイム音が連続した。  余りに迷いのない鳴らしっぷりに、来客は中に人が居ることを確信しているのではないかと考える。  そんな事に思考を回す間にも甲高い音がジュウの鼓膜を震わせ続ける。  再び舌打ち一つ。仕方なしにジュウは対応に出る事にした。  適当なジーパンを履いて玄関へ。不機嫌さを隠しもせずにジュウは扉を開けた。 「はい、どちら様?」  来訪者は気の弱い人間ならそれだけで身を竦ませそうな声音に、実に短い言葉で返した。 「柔沢紅香さんのお宅はこちらでしょうか?」  その言葉にジュウの不機嫌さは極まる事になった。  あのろくでなしの母親、その関係者。  そう思うとジュウの中に、目の前の人間に対するネガティブな興味が湧いた。  改めて客人を眺める。  少女――それも美を付けてなんの文句もない少女だった。  歳は自分と同じくらいだろう。見た目には、あの母親との関係を疑いたくなるような清純そうな雰囲気だ。 「確かにここは柔沢紅香の家だが、あいつなら居ない。何処にいるかも分からないし、何時帰るかも分からない」  どんなリアクションを取るか窺いながら、やはり不機嫌な声で吐き捨てる。  すると少女は意外にも顔を綻ばせて言った。 「不在であることは知っています」 「は?」  ともすれば聞き流してしまいそうな程の自然な物言いに、ジュウは間抜けな返答をしてしまう。 「私は紅香さんにここの部屋を借りていいと言われて来たんです」 「は……? な?」 「しばらくお世話になりますね? え~と……柔沢ジュウ……さん?」 618 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/06(日) 23:05:21 ID:HurUj8aI  † † †  こいつは私の知り合いだ。しばらく家に置いてやれ。  こいつに関わる金銭的な部分は本人から遠慮なく徴収して構わない。  部屋は私の部屋を使わせるように。  手を出しても構わないが、やるからにはそれなりの覚悟をするように。  母より。  たったそれだけだった。  少女から渡された手紙には、ジュウの母親である紅香からのメッセージがそれだけ書かれていた。  ぞんざいに書き殴ったであろうにも関わらず、やたらと達筆な文字で書かれたその手紙は、字面も合わせて紅香らしさに溢れていた。  ジュウは手紙を握る手に力を込め、くしゃりと握り潰す。  沸き上がるのは怒りと呆れだった。  ろくな説明のない手紙。自分に対する言葉など何一つなく、それでも最後に思い出したように書き加えられた「母より」という言葉。  他に言うことは無いのかという想いと、せめてもう少し分かり易く事態を説明しろという苛立ちに、鹿目面を作る。 「あの……」  文面に目を通す間、ずっと黙っていた少女が声を上げた。 「分かって頂けましたか?」  さっぱり分からないし、分かりたくもない。そう言って彼女を追い返すのは容易だろう。  しかし、訳も分からぬまま頭ごなしにそうするのは気が引けた。 「……手紙には目を通したか?」 「……見ていませんけど」  小首を傾げ答える少女に手紙を突き出す。 「……」  しばらくの沈黙の後、少女は紙面に走らせていた視線を上げると、少し――いや、かなり困ったような苦笑を浮かべた。 「なんていうかその……紅香さんらしい手紙ですね」  ――まったく、どうしろってんだ。  内心で呟き、ジュウは黙考に耽る。  追い出すのは容易いが、それと同じくらい置いておくのも容易い。手紙の文面を信じるならば金銭的にも問題はないようだ。  言ってしまえばどうだって良いのだ。ジュウに関わってきさえしなければ。  唯一追い出す理由足り得る感情は、母親の適当な指示に素直に従うのが癪だということだ。  だが、これにメリットが無いわけでもないと思う。  事情は知らないが、それにさして興味が在るわけでもない。鬱陶しいと感じたら追い出せば良いだけだ。  ここで彼女を預かればあの母親に貸しを一つ作れると考えれば別段悪くはない。ならば――。 「……勝手にしてくれ」 「え?」  ぞんざいに、しかしあっさりと許可をだしたジュウに、逆に少女が面食らう。 619 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/06(日) 23:07:50 ID:HurUj8aI 「その、事の経緯とかきかないんですか?」 「不必要な干渉さえしなきゃしばらくここに住んで構わない。何があったかも俺は問わない。部屋は――」 「紅香さんの部屋、でしたよね?」  少女は瞬時にジュウの意志を汲んだらしく、とりあえずなるようになったと笑顔を浮かべた。 「じゃ、俺は出掛けるから後は自由にしてくれ」 「え? 何か用事でもあるんですか?」  ――お前には関係ない。  そう言うようにジュウはさっさと自室へと戻り扉を閉めた。  つまるところ、ジュウは不干渉条約を自らも積極的に実行しようという事だ。  幸い時間潰しの術は心得ている。  着替えながらジュウはこれからどこで隙を潰すか考える事にした。  † † † 「柔沢紅香……か」  彼はそう呟いて苦い表情を浮かべた。 「相手取るには厳しいな」  自分の目的、すべき事。それに対する障壁としては些か難易度が高い。  そう考えて、しかし彼は口元に笑みを浮かべた。  妨げがあったとして目的やすべき事が変わるわけでもない。例え柔沢紅香を敵に回してもそれは変わらなかった。  むしろ―― 「さて、どこまで通用するか」  彼は、柔沢紅香と張り合える事実に少々の歓喜すら感じていた。 「……待ってろよ」  呟く声は虚空に消えて、誰の耳にも届かない――。  † † † 「あれ? ジュウくんじゃん」  ふと立ち寄った書店でかけられた声に、ジュウはしまった、といった表情で振り返った。  そう言えばこの辺はこいつの学校からわりかし近い場所だったな、と気付いて、ジュウは自分の迂闊さを呪った。 「なになにどしたの? この辺にいるなんて珍しいね。あ、まさか休日に私の事をストーカーとか?」 「違うから黙れ」  鋭く言い放って、声をかけてきた相手――雪姫を睨み付ける。  雪姫はジュウの厳しい視線を受けて尚、満面の笑顔を返した。 「やだな~、もう。ちょっとした冗談だって」  ケラケラと笑って見せる雪姫に、ジュウも眉間に刻まれた皺をほぐし、代わりに脱力の溜め息を吐く。 「で、こんなとこでどしたのジュウくん?」 「……別に、なんでもねえよ。暇潰しに適当に歩いてただけだ」  覗き込まれるような体勢に、若干背を反らして互いの距離を離しながらジュウは答える。  雪姫はその答えに笑みを深めた。 「暇なんだ?」 「……そうだが」  次の言葉が容易に想像出来て、ジュウはまたも自らの迂闊さを呪った。 620 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/06(日) 23:10:13 ID:HurUj8aI  雪姫は雪姫で暇なんだろう。それを同じ暇をしている自分を巻き込んで遊ぶつもりに違いない。 「じゃあさ、一緒に遊ぼうよ」  ――ほらな。  内心でそう呟いて、ジュウは考える。  別に断る理由はない。いくつか用意していた選択肢が増えるだけ。そしてそれを選ぶのは悪い考えでもない。  そこまで黙考して、ふとジュウは気付く。  かつて――雪姫や、もう少し前に雨と出会う以前の自分なら、こんな誘いは一考の余地もなく切り捨てていた。  弱くなった――というよりは単純に気を許していると云うことかもしれない。  あんなに独りが良いと、そう思っていたのに。  もっとも 「分かった。付き合おう」  ――今感じるそれを否定したいとも思わない。  ジュウは雪姫に手を引かれ歩き出した。  † † † 「柔沢ジュウ……か」  そう呟いて彼女は楽しそうな表情を浮かべた。 「面白そうな人間だったな」  柔沢紅香の息子。  弱い、とても弱い人間だと母親である柔沢紅香は言っていた。  そんな彼は、彼女に不干渉を求め、不干渉を与えた。  ――それも名前を聞くことすらしない徹底ぶりだ。  彼女にとってそれは真新しい対人関係であり、不思議な感覚をもたらした。  もしかしたらそれは、彼女が本当の意味で対等に扱われた瞬間だったかも知れない。  家族も家族に似た人達も、彼のようにはしなかった。  良きにしろ悪きにしろ重要視されて扱われてきた。  だから、どうでも良いと切り捨てられて、逆に楽しいというか、面白いと感じた。 「ふふ……」  小さく声を零して彼女は笑む。 「彼は……柔沢ジュウという人間はあとどれくらい私を楽しませてくれるだろう?」  見慣れぬ部屋。彼女は束の間の自由を謳歌する―――。  † † †  時の流れを早いと感じたと言うことは、案外自分は楽しんでいたらしい。  付き従うままに街を歩き回り、買い物に付き合い(自分も買ったが雪姫は倍以上買っていた。しかも持たされた)、喫茶店で雑談に興じた。  やがて陽が暮れ始めたあたりでようやくジュウは時間の経過を意識した。  腕に付けた馴染みの時計を見れば、示す時間は午後の六時をやや過ぎた辺り。 「もうこんな時間か……」  ぽつりと零した呟きに、先を歩く雪姫が振り向く。 「あっと言う間だったね」  小さな微笑を浮かべ、再び前を向く。 「ご飯どうしよっか?」  問われ、ジュウは考える。 621 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/06(日) 23:12:42 ID:HurUj8aI  財布の中に大した額は入れずに出て来た為、外食するには若干心許ない。  ならば選択肢としては家に帰り自炊が推奨される。  ――そういえばアイツはちゃんと飯食ったのか?  自宅に置いてきた来訪者を思い浮かべる。  如何に不干渉を決め込んだとはいえ長い間の放置は気になる。  疑わしい訳ではない。しかしそう考える事が紅香に全幅の信頼を寄せているみたいで不愉快だということもある。 「俺は帰ってから飯を食う」 「そっかー。私はどうしよっかなー?」 首を斜めにして考える素振りを見せてから、雪姫はくるりとジュウに体ごと返した。 「ねえねえジュウくんジュウくん柔沢くん。私もジュウくんの作ったご飯が食べたいな?」 「……は?」  咄嗟にジュウは反応出来なかった。 「ほら、いつだったかジュウくんが作ったフレンチトースト食べたでしょ? あれが美味しかったからさ。他にもジュウくんの手料理食べたいなーって」  そう言って雪姫は手を合わせ、ねだる仕草を取る。  これが平時であれば別に構わなかった。どうせ文句を言った所で、何だかんだで押し切られただろう。  それに一人分作るのも二人分作るのも大して手間の差はない。  しかし今は家に人がいる。紅香が連れてきた少女が。  あの少女を見られたら、雪姫はどんな反応を示すだろう。とりあえず面倒な事になりそうな事だけは予想出来る。 「……来客がある」  返した言葉はそれだけだった。偽りはなく、断る理由としては十分。流石に雪姫も諦めるだろう。 「ありゃ……。ん~、そっか~」  ジュウの思案通り雪姫は、不承不承といった面持ちで納得した。  納得してもらった所でお開きとなり、途中まで雪姫と帰り、少しの世間話をして別れた。  ――その後、独りきりの帰路、夕暮が薄闇に呑まれかけている空を見上げたジュウが、雪姫の荷物を持ちっ放しだと気付いたのは既に自宅のアパートが見えてからだった。 続く 692 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/19(土) 23:09:21 ID:UudWZnrn 『彼と彼女の非日常・Ⅱ』  結論から言ってしまえば、ジュウの心配は杞憂だった。  ジュウ自身は夕飯くらい作ってやっても良いかと考えていたが、居候少女にとってそんな心配は無用だったらしい。 「あ、ほふぁえりふぁふぁひ」  寿司だった。高級らしかった。それを、リスのように食べていた。  ジュウが帰ったきた事に気づくやいなや、傍らにあった茶で口の中のものを流し込む。  ごくりと寿司を喉に通すと、少女は改めて口を開いた。 「案外、早かったですね。もっと遅くなるかもと思ってお寿司一人分しか取ってないんですけど……」 「いや、それは構わないんだが……」  今朝、初めて見たときの清楚なお嬢様という印象は、すっかりなりを潜めていた。  服は動き易そうな普段着のようだし、寿司を食べながら見ているのはバラエティー番組だ。  むしろ今ある印象は活発そうな少女で、変わらず丁寧な口調や、洗練された仕草が実は無理をしているのではないかと思う。  行儀が良いんだか悪いんだか分からない所作。その結果としてあるのが庶民派のお嬢様という中途半端な印象であり、それがどうにも妙なチグハグ感を演出していた。。 「俺が出ていた間、何をしてたんだ?」  なんとなくジュウがそう尋ねると、少女は優雅な動作で茶をすする。それは別に取り澄ましたような態度ではなく、実に自然な挙動だった。 「別に何も。一日中家に居ましたし」  笑顔で答える少女に、ジュウは呆れてしまう。 「何もしてないって、本当にか?」 「強いて言うなら部屋を眺めてましたけど」  少女の返答に、ますますジュウは呆れる。 「それは……退屈だったろ」 「いえ、案外そうでもないですよ?」  その答えをジュウは俄かには信じられなかった。  正直、この家に見るようなものは何もない。  必要最低限のものだけで暮らしているのだ。ジュウ自身がゲームをやらないので当然ゲーム機の類は当然ないし、また本も読まないので置いていない。  強いて言うなら紅香の衣類だろうか。  紅香の部屋には大量の衣類が保管してある。女の子であればそういった物に興味が湧くかも知れない。  ただ、紅香の服はどれも派手なものばかりだ。この少女の趣味に合うとは思えない。  いや、だからこそ好奇心に駆られるという事も考えられるか。  そう考えるならば、まあこの家にも見るものはある事にはなる。  ジュウがそう自己解決すると、少女が別な話題を切り出した。 693 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/19(土) 23:10:58 ID:UudWZnrn 「そう言えばジュウさん、晩御飯の方は?」  少女の問いに、ジュウは答える。 「これから食おうかと思ってた所だ」 「……やっぱり二人分取っていれば良かったですね、お寿司」 「気にすることはねえよ。そもそも互いに干渉しないって条件だ」  ――言ってしまえば、こうして話していることですらジュウにとっては予定外なのだ。気が付けば少女のペースに呑まれ会話などをしていた。  油断していたと見るべきか。得体の知れないという意味では彼女はそう分類される対象だ。少し迂闊だったかも知れない。  この所見舞われた幾つかの事件を経て、ジュウは以前にも増して他人に懐疑的な視線を向けるようになっていた。  無論、いくらか見知った相手なら疑ったりはしないのだが、だからと言って彼女の事を知ろうとも思わない。  ――改めておかしな事になったと思う。  見ず知らず、名も知らぬ少女と一つ屋根の下。今朝方、唐突にしかも半ば一方的に決まった事とは言え、余りにも現実味に欠ける話だ。  そして少女。どうにも一筋縄ではいかなそうだと、そんな雰囲気をジュウはなんとなくだが感じていた。  ただ、それを決して嫌がっていない。むしろどこか居心地の良さを感じ、面白がってすらいる自分が居る。  それが一番不思議だった。  自分が、誰かと共に過ごす事を楽しんでいる――望んでいる。  昼間、雪姫と共に居た時にも感じた思考が甦る。  弱く――なったのだろうか。  独りを望んで、孤立を選んで、ただ一つの完成された強さを目指して。  それが今やこんな見ず知らずの相手にすら心を許すような態度で接している。  こんな姿を見て、あの母親は何を思うだろう。強さを体現したようなあの女は。  見下すだろうか、嘲弄するだろうか、愚かだと切り捨てるだろうか。 「――――は」  思わず苦笑が漏れる。 「どうしたんですか?」 「いや、何でもねえよ」  自分はもう知ったのだ。一人ではないという事を。だから、今はそれを守る為に精一杯になろう。柔沢ジュウという人間は、そんな大層なものではないかも知れないけれど。  自虐的な考えを振り払ってジュウはキッチンに向かう。冷蔵庫の中身をざっと見ると大した食材は無く、簡単な物しか作れそうにない。  そう言えば炊飯器の中に炊いた白米が幾らか残っていたのを思い出す。それから組み立てられるメニューは実に簡単なものだ。  卵、豚肉、幾らかの野菜。 694 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/19(土) 23:13:22 ID:UudWZnrn  中華の基本であり、手軽に作れる料理の代表格。 「今からチャーハン作るけどお前は――」  要らないよな。そう言いかけて、しかしそれは少女の返事があっさりと打ち消した。 「是非とも頂きます」  ――まったく。よく食うお嬢様だよ。  笑顔で更に食べると宣言した少女を見て、ジュウは内心で呟き、溜め息混じりの苦笑を浮かべた。  握る包丁は手慣れた挙動。  チャーハン数食分の食材を刻む音が、部屋を満たした。  † † †  チャイムが鳴る。  今朝の事がデジャブする。来客を伝えるそれにジュウは苦鳴を漏らす。 「くっ……」  ジュウの左手にはフライパン。右手には菜箸。  チャーハンの仕上げに入った今、その呼び出し音は最悪のタイミングと言えた。  あと三十秒。それだけあれば完璧な出来で皿にチャーハンを移せる。  今すぐ対応に出るか、少しだけ客を待たせるか。  幾ばくの逡巡の後にジュウが選んだのは後者であり、結果としてそしてそれは失敗だった。 「手が放せないようですし、私が対応に出ますね」  そう聞こえたのは居間の方から、少女の声で。  自分がこの家のものでないことを忘れているような言動にジュウは焦りを隠せなかった。 「ちょ、おま、待て!」  そう叫んでも時既に遅し。その時点で扉は既に開け放たれ、それ故に来訪者にもジュウの声は届いていた。  ジュウは来訪者に予想がついていた。忘れられた荷物。その中身、そして持ち主がそれを一時でも早く読みたがっていた事実。  慌てて玄関へ(それでもチャーハンは律儀に皿に乗せ)向かう。 「ジュウくーん?」  ゆっくりとした口調――そこに怒気が含まれているのは気のせいか。  声の主は――雪姫。  予想通りの来客。しかし、来客は雪姫だけではなかった。 「――ジュウ様、こちらの方は?」  自らを称する事ジュウの奴隷、従者、守護の騎士。  ジュウに一方的に前世からの忠誠を誓った少女。  堕花雨がそこにいた。 「なんで……雨が居るんだ?」  思いも寄らない登場に狼狽えつつ問うと、雪姫が答えた。 「帰りがけに行きあってね? それで今日買ったものを見せようと思ったらジュウ君に持ってもらったままだって気付いてさ」 「雪姫がジュウ様のお宅まで取りに行くと言うので付いてきたのです」  雨が返答を引き継いだ。  ジュウは小さく溜め息を吐く。 「今日は来客があると雪姫には言っただろうが」 695 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/19(土) 23:14:52 ID:UudWZnrn 「うん。でも荷物を取りに行くだけなら良いかなって」 「……分かった。今取ってくる」  仕方なし、と奥に向かおうとしたジュウを雪姫の声が押し止める。 「待ってよ」  どこか冷え冷えとした声音に、ぎくりとして立ち止まる。  ――いや、ちょっと待て。なんで脅えてるんだ俺は。 「そう言えば聞いてなかったよね。来客って、どういう来客なのかな? 来客ってそこの女の子の事でしょ?」 「いや、どういうって……」  どう説明したものか、ジュウが答えあぐねていると、それまで黙って様子を見ていた少女が口を割った。 「来客というか、同居ですよね?」  ――何で俺に同意を求めやがる。しかもその発言は誤解を招くだろ。 「へぇ……同居、ねえ」  ジュウの予想通りの誤解をしたらしい雪姫がすっ、と目を細めて言う。気のせいか、其処に刃を持った時の鋭さを垣間見た。 「いや、ちょっと待て。こいつは名前も知らないような相手で」  やたら棘のある口調に、知らずジュウは怯んでしまう。 「名前も知らない女の子と同居なんか出来ちゃうんだ、ジュウ君は?」 「そうなのですか? ジュウ様」  真っ直ぐな二人からの視線。物理的な圧力すら伴いそうなそれに晒され、精神的に追い詰められていく。  良く考えれば全くの無実なのに、なんだこの状況は。  まるで自分が、浮気していた事が露見したろくでなしみたいだ。  無言のプレッシャーに屈し、ジュウは深々と溜め息を吐き出して室内を指した。 「……取り敢えず中に入れ。順を追って説明する」  いつもの自嘲でも何でもなく、今の自分はさぞ情けない姿を晒しているのだろう。  そう思うとジュウは自らの心が深く沈み込んで行くのを止める事は出来なかった。  † † †  簡潔な説明。  今日の朝、彼女がここを訪れたこと。  手渡された母親からの手紙のこと。  打算と意地を天秤に掛けて出した答え。  ジュウから不干渉条約を定めたこと  そして――今に至る経緯。 「なる程ね」 「お話は理解しました」  頷いて答える二人にジュウは安堵の吐息を零す。 「だけど」 「ですが」  それをひっくり返す声が重なる。 「少し、不用心過ぎじゃないかな?」 「少し、不用心過ぎはしませんか?」  突き刺さるのは猜疑の瞳。向ける矛先はジュウと少女の両方に。  たじろいで受けるジュウと、平然と受ける少女。 「一つ、問います」  雨が少女に声を掛ける。 696 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/01/19(土) 23:16:20 ID:UudWZnrn 「貴方は一体――誰ですか? ジュウ様の味方ですか? 敵ですか? それとも無関係な人間ですか?」  返答如何によっては容赦はしない。  言外にそう込めて、雨は問う。  少女は――答えない。 「少し、友好的にいこうか? まずは名前から。私は斬島雪姫。この子は堕花雨。――あなたの名前は?」  笑顔の下に疑いを隠しす。  あくまで穏やかに、雪姫が問う。  少女は――笑いだす。 「は……はははっ、あははははっ!」  雨も雪姫も、それをただ眺める。 「ははは……本当に、本当に面白いな柔沢ジュウ。お前は私の想像以上だ」  口調が――変わる。  傲岸にして不遜、偽る事を止めた声。 「堕花に斬島か。紅香の事だ、何も知らせていないだろうな。なのに、出会ってしまうか――皮肉だな」  全く面白い。そう呟いて、少女はジュウを見た。  ――真っ直ぐに。 「名乗ろう。ここで名乗らねば失礼に当たる――先に名乗ったその二人に最大級の敬意を表さねばな」  少女は、高々と名乗りを上げる。 「私は紫。――九鳳院紫だ」  反転。  ちょっと変わった日常は非日常に。 続く 740 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/02/02(土) 11:24:58 ID:hu10TCWB 「彼と彼女の非日常・Ⅲ」  ――九鳳院。  その名を知らない人間は、物心がつくかつかないかの幼子か、最早周囲を認知出来なくなった老人か位のものだろう。  その程度には、九鳳院という家系の存在は強く、大きく、異彩を放っていた。  実質上、この国に置ける支配者であり、もしかしたら世界ですら彼らの持ち物であるかも知れなかった。  つまり九鳳院は、王者――そう呼ばれる一族だった。  † † †  誰も、何も口にしない。  ジュウは驚きの余り頭が真っ白になっていたし、雨と雪姫は思考に集中する事で沈黙していた。  少女――九鳳院紫と名乗った彼女は反応を伺っているらしい。まるでからかっている相手を観察しているようでもあった。  からかっている――。  からかっている? 「嘘だろ?」  思考に浮かんだ疑念を言葉にする。  だが、それを否定したのは他でもない。忠実なる従者たる堕花雨だった。 「いいえ、恐らくは本当かと」 「なん……で?」  何故そう言えるのかとジュウが問おうとすると、いち早くそれを察知した雨が答える。 「テレビはご覧になりませんか?」 「一応見てるが」 「ではテレビで九鳳院の息女を見た事は?」 「たまに……」  うろ覚えだが、何かの式典に出席した九鳳院家の面々の中で同年代の少女が豪奢なドレスに身を包んで着飾った姿がイメージとして脳裏に浮かぶ。 「テレビに映る九鳳院家の息女とはメイクと服装が違いますが、人相はほぼ一致します」  そうなのだろうか?  言われてみればそんな気もする。 「しかし、ほぼであって完璧ではありません。ですがそれはとある仕掛けで解決出来ます。即ち――影武者」 「どういう意味だ?」 「影武者は本物に似た人間を使っているはずです。ならば逆にも考えられます。つまり、本物は影武者に似ている」 「ふむ。だがそれでは私が本物である証明にはならないのでは?」  紫が疑問を差し挟む。 「はい、あくまでこれは仮説です。信憑性は全くありません」 「ではなぜ本物だと?」 「勘です」  実にシンプルな、しかも無茶苦茶な理由だった。 「勘ですが――確信はしています」  暫くの沈黙。それを紫が崩す。 「ははっ! 全く面白い。飽きないなお前達は」  無邪気に笑う紫を見ながらジュウは考える。  ――本当にこいつはあの有名な一族の一人だって言うのか?  ジュウには判断する材料がない。故に判断を雨に任せるしかない。 741 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/02/02(土) 11:27:47 ID:hu10TCWB 「付け加えましょう。貴方は私達に対して興味を持った――正確には名前にでしょうか。それが証になります」  紫は無言で頷く。口元には笑み。本当に無邪気な、心からの笑みだった。 「信じて貰えるならばなんでも良い」  あっけらかんと言ってのける。 「ところで」  不意に、笑顔に若干の申し訳なさを浮かべ紫が言う。 「チャーハンが冷めてしまうから早く食べたいんだが」  † † † 「ふむ、ふまい」 「はふ、はふ、はふ」 「ジュウ様。口元に御飯粒が」 「んぁ、悪ぃ」  団欒。その光景はそう呼ばれるものだった。  気が付けば四人で食卓を囲み、皆が一様に箸を動かしている。  多めにチャーハンを作っておいて良かった、とジュウはなんとなく考えた。  加えて考える。  目の前の少女――紫は九鳳院の一族らしい。  それがどれだけ途方もない事か、正直ジュウには理解が及ばない。ただ“多くなるかも知れない。少なくとも今は呼び捨ての方がジュウにはしっくり来た。 「その割には雨には様付けで呼ばせてるよね」  雪姫が皿から顔を上げジュウをからかうような調子で言う。  ジュウは眉根をしかめるとぶっきらぼうに反論した。 「呼ばせてる訳じゃないさ。雨が勝手にそう呼ぶだけだ」  ――嫌がってもいないくせに。  雪姫の小さな声はジュウの耳には届かない。 「ふふ」 「なんだよ、いきなり笑い出して」  微笑んだ紫を、ジュウが問い質す。 「いやなに、中々に複雑な人間関係のようだと思ってな」  懐かしむような表情を浮かべてそれだけ言うと、紫は再びチャーハンを口に放り込む。 「……そろそろ本題に入っても宜しいでしょうか?」  切り出したのは雨だった。 「まず貴方が誰であるかは分かりました。ではその次です。何故貴方は此処に来たのですか?」 「……ふむ」 742 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/02/02(土) 11:29:03 ID:hu10TCWB  雨の質問に紫は暫く黙り込む。紫はなんとか言葉を探して探しているようだった。 「簡単に言えば、追われている」  暫く悩んだにしては単純な答え。  しかし、意味の重さは大きい。 「追われて……る?」 「そうだ。私を追う者がいて、私はそれから逃げている」  さも当然であると言うように紫が話すのを見て、何故そんなに平静であるのかと考える。  日常化しているのだろうか。誰かから狙われる事を。  それを当然と受け入れているのだろうか、彼女は。 「どうして追われてるんだ?」 「――悪いが話す事は出来ない。身内の恥を晒すことになる」 「そんなの――」  関係ないだろう。  そうは言えなかった。  とてもではないが、言える筈がなかった。  彼女と自分では今まで生きてきた、見てきた世界が違い過ぎる。それを無責任に否定する事は出来ない。  頂点に立てば、敵は増える。いつだって誰かがその頂点に取って代わろうとする。  権力争いの中で、紫という少女の利用性はどれだけ高い事か。常に危険と隣り合わせだったはずだ。  そして彼女は言った。  ――身内の恥を晒すことになる。  九鳳院家の中ですら争いの種はあるのかもしれない。それに紫は巻き込まれたのだろうか。  途轍もない世界の闇を突きつけられた気分だった。  お前の知る不幸など、数多ある地獄の欠片でしかないのだとあざ笑われている気がする。 「なに、すぐに出ていくから安心して欲しい。迷惑は掛けない。今欲しいのは時間だ。思い知らせる時間。自分が何をしたのか思い知らせねばならない」  そう言って紫は笑んだ。真っ直ぐな、力強い笑みだった。 「ジュウ様」  雨がジュウを覗き込む。その瞳は問うていた。  ――柔沢ジュウはどうするのか? 「…………」  考えるまでもない。自分は――柔沢ジュウという人間は、なんとかしたい。そう思っている。  理由ならそれで十分だ。 「俺に、なにか出来ることはないか」 「気持ちは有り難く受け取ろう。だが、すまないがこれは私の問題だ。ここに置いてもらう以外、ジュウにして貰える事はない」 「……そうか」 「すまないな」 「いや、だったらこっちは勝手にやらせてもらうだけだ」 「……は?」 「時間を稼ぎたいんだろ? 追いかけてる奴から逃げたいんだろ? だったら俺が何とかする」  食卓を見渡す。信頼できる従者の少女と、その友人を見つめる。 「手伝ってくれるか?」 743 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/02/02(土) 11:29:58 ID:hu10TCWB 「ジュウ様が望むのであれば」  即答する雨。 「……私はパス」  否定する雪姫。 「……そうか」  強要は出来ない。危険かも知れないし、元々雪姫はドライな人間なのだ。返答は当然だ。 「分かったか? 俺と雨は勝手にやらせてもらう」  紫は大きな溜め息をつく。 「……分かった。勝手にするがいい」  仕方ないというように肩を竦める。 「まったく、こんな風になってしまっては本当の事を言えないじゃないか」  小さな小さな呟きは、誰の耳にも届かない。  † † †  携帯。通話する声。 「――ああ、分かった。ありがとう」 「――――」 「分かってるよ。じゃあまたメールで……え?」 「――――」 「そう言うなよ。仕方ないんだ」 「――――」 「……なんでそうなるんだよ」 「――――」 「……あぁ。じゃ、切るからな」  プツっ。  ツー、ツー、ツー。  ……ピロリロリン。 「っと来た」  着信。 「……まったく、メールにまでこんな事を書くか普通? ――えっとデータは……」  メールに添付された地図データを展開する。 「なるほど、ここか」  画面に映る地図。その中央にポイント付きで表示される建造物。 「なんだ。案外近いじゃないか」  なんの変哲もないアパート。  ――ジュウの住むアパート。 「待ってろよ。紫」  歩き出す。動き出す。  目的を目指して、淀みなく。  進み出す。動き出す。  ――“彼”が、追跡を再開した。 続く 798 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/02/23(土) 23:36:43 ID:fg1doZbd 「彼と彼女の非日常・Ⅳ」  ――時は若干遡って、ジュウと雪姫が遊んでいた頃、同じ街。 「あーゆーくほーいん?」  突然聞こえた声に、光は振り返った。背後から女性が光を見ている。  相手がこちらを見ていることに気付いて、自分に話しかけたのだと理解する。 「あーゆーくほーいん?」  再度の問い掛けに、光は首を傾げる。  ――Are you クホーイン?  問われた言葉の意味が通じず、少々困ってしまう。  クホーインって何だろう? 何かの英語だろうか。だとしたらまだ習ってない単語とか? いや、でも何か聞き覚えあるし。  などと考えていると、質問が変えられた。 「あーゆーむらさき?」  あなたは紫色ですか?  ――いや、意味分からないし。 「……えーっと」  改めて、問い掛けの相手を見る。  若い女性。美人だけど小柄。首が埋まるようなマフラーを巻いている。ぼんやりとした表情――虚ろな瞳。  ゆらゆらとして不安定な印象。  ――もしかして変な人に捕まった?  浮かんだ疑念から、狼狽えて咄嗟に周囲を見渡し、逃れるきっかけを探す。  しかし、今の自分を助けるものなし。  ――こんな時に“アイツ”が居たら、いつかの時みたいに恋人のフリでもして逃げられるのに。  そんな考えが浮かんで、それを少しでも期待している自分に気付き、浮かんだ思考を振り払うように慌てて頭を振る。  ――あんな奴が居ること期待するだなんて、絶対に有り得ない。有り得てはいけない。ましてや、恋人のフリだなんて。  そう自分に言い聞かせる。 「……ふーあーゆー?」  思考に囚われる光の意識を引き戻し、質問が変えられる。  ――Who are you?  今度は理解できた。  逡巡して、迷いに迷ってから光は質問に答える事にした。 「え、えっと……あいむオチバナひか――え?」  相手に合わせて英語式――つまり名字を先に名乗ろうとした光を、鋭い眼光が貫いた。 「あなた……堕花、ですか?」  それまでの間延びした話し方が嘘のようなはっきりとした声。  一片の容赦すらない圧迫感。  女性が不意に、懐に手を差し込んだ。  ――女性が嗤う。口端を吊り上げる獰猛な笑み。  それは、獣が牙を剥く様子にも似ていた。  漂い始める剣呑な雰囲気。  差し込んだ手が、何かとんでもない物を取り出すんじゃないかという直感で、光は後ずさった。 「えっと……あの?」  脅えた瞳で問い掛ける。   799 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/02/23(土) 23:37:51 ID:fg1doZbd  女性は答えない。  ただ、爛々とした瞳の輝きを増すだけ。  まるでその二人の周囲だけ世界から切り離されたような静寂と緊迫感。  光はただ得体の知れない恐怖に冷や汗を流し、気圧されるだけ。 「――あぁ」  急に何かに気付いたのか。唐突に女性は危険に満ちた空気を霧散させる。そのまま、再びそれまでの姿が幻だったかのようにぼんやりとした表情に戻っていく。 「……いっつみすていく。忘れてました。これは約束に反します。それに――」  懐から抜き出される手――何も掴んではいない。  その手をポケットに無造作に突っ込んで言う。 「あなたは堕花ですけど“こっち側”じゃないみたいですし」 「え? あの?」 「失礼しました。それでは」  ふらふらとした所作で女性が立ち去ろうとする。  それを無意識に光は、咄嗟に肩を掴んで止めていた。 「……なにか?」  振り向いて、やはりぼんやりと女性が問う。  何故自分でもそうしたかは分からない。一度冷静に省みて、光はその答えを今更になって得た。 「誰か、探してるんですよね?」 「はい。でもあなたは違うし、知らない」 「そうなんですけど、その……なんていうか」  意を決して光は言う。 「手伝わせてくれませんか? その人捜し」  ――光がそう言ったのは、目の前の女性がまるで道に迷った子供のように頼りなかったから。  つまるところ、堕花光という少女はどうしようもなくお人好しなのだった。  † † †  ――時計の針を再び進めよう。 「差し当たっての問題は九鳳院さんの寝床であると私は判断します」 「……俺の母親の部屋だろう?」 「分かってないねージュウくんは。そんな危険な状況に出来る訳ないでしょ?」 「……すまん。何が危険なのか分かり易く言ってくれないか」 「一つ屋根の下に若い男女が二人きり。ジュウ様の情操教育上よろしくありません」 「いつから俺はお前に教育されてたんだっ!?」  ――というようなやりとりがあって。  間違いなんて起きないと主張するジュウと、そんなの分からないと譲らない雨、雪姫の二人の意見がぶつかった。  結局多数決にのっとり一対二でジュウが敗退(それまでの間紫は傍観するだけだった)。  結果として何故か雨と雪姫もジュウの家に泊まる事になり、紫が紅香のベッド、雨と雪姫がジュウのベッド、そしてジュウがソファ(これは頑としてジュウが譲らなかった)という配置になった。 805 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/02/24(日) 00:30:24 ID:XK/pP5UX  † † † 「ジュウくんのベッドー!」  ぼふっ、と音を立てて雪姫がベッドにダイブする。そのままベッドの上を転がる。 「雪姫。ジュウ様のベッドになんて事を」  大の字に広がり、窘める雨に悪戯っぽい視線を向けて雪姫が笑みを浮かべる。 「良いじゃん。雨もおいでよ」 「そんな事……」  ちら、と背後に立つジュウに視線を向ける。その内にあるもの――幾ばくかの期待。 「別に俺は気にしないけどな。だからお前も気にしなくて良いぞ」 「……そうですか?」 「ああ」  ジュウは期待に気付かず意図しないままに期待に応える。  雨の表情が微かに綻ぶのには気付いて軽く頭を撫でてやる。本当に撫でやすい位置にある頭だと考えてから、ジュウは自分のしている事に気付いた。 「……っと、悪ぃ」  急に気恥ずかしくなって手を降ろす。  こんな子供をあやすみたいな真似は自分らしくないし、なにより雨に失礼だ。 「あー……リビングに行くわ」  なんとなくバツの悪さを感じて、逃げるように退出する。  後ろ手にドアを閉めてから、ジュウは盛大な溜め息を漏らした。 「なにやってんだか……」  本当に自分らしくない。知らず苦笑してしまう。  のろのろとソファに歩み寄って、そのまま身を沈ませる。もう一度だけ、自嘲の溜め息を吐き出してから、ジュウは雑多な思考を放り捨てた。  † † † 「あーめー?」  からかうような雪姫の声に、雨は隠しきれない躊躇いを見せていた。 「フカフカだよ?」  ぴく。 「あったかいよ?」  ぴくり。 「それに――ジュウくんの匂い」 「~~~~っ!!」  誘い文句に、ついに耐えきれなくなる。ベッドに歩み寄ると、しばらく耐えてから決心する。 「え、えいっ」  ぽふっ、とぎこちなく、その小さな体躯をベッドに踊らせる。  それを、雪姫は溜め息混じりに見ていた。 「もったいない」  小さく呟いて友人の恋路を愁う。 「……そういう所、ジュウくんの前でも見せればいいの……に…………」 「……」 「いや、ダメだ。やっぱり見せられない」  ただ無言で、何も答えない雨。 「すーはー、すーはー」  ――熱心に深呼吸を繰り返していた。  それはもう何度も、何度も。  † † †  毛布にくるまり、紫は考える。  ――少し、“彼”に似ている。  自分の正しさを信じきれない所とか。そのくせ真っ直ぐ過ぎる所とか。 800 伊南屋 ◆WsILX6i4pM sage 2008/02/23(土) 23:41:49 ID:fg1doZbd  意図せず妙に人を惹き付けてしまう所とか。  そんな姿が、今は傍に居ない“彼”と重なって、少し――ほんの少しだけ切なくなる。  ぎゅっとその身を抱くように、縮こまる。  来てくれているだろうか。見つけ出してくれるだろうか。不安になる。 「駄目だな、私は。私はまだこんなにも弱い」  会いたくなる、縋りたくなる、その胸に飛び込みたくなる。  だけど、それは出来ない。 「来るなら来い。私は許しはしないのだから」  大きな決意を小さく呟いて、紫は瞼を閉じた。直ぐに意識を帷が覆って、紫を眠りの淵へと運んでいった。 続く .

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