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第一話

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 初めてリンに触れたのは、いつの日のことだっただろうか。
 何時だったのかは憶えてはいないが、たまたま手に触れた時、酷く冷たかったのを憶えている。
 けれども、あの夜のリンの手は、腕は、触られた部分が溶解する程の熱を帯びていた。吐息も、眼差しも、全てが熱かった。
 思い出すだけで、熱が伝染する。

「だめ、思い出したら…」
 頬を伝う涙でも、熱は冷ましてはくれなかった。



 二週間ぶりのSPRは、綾子を暖かく迎えてくれた。
「綾子久しぶり~」
「この間は迷惑かけてゴメンね、これ、お詫び」
 ケーキの入った箱を渡すと、麻衣は小躍りをしながら給湯室に運んだ。
「松崎さん、僕も心配してたんですよ~」
 唇をとがらせながらおちゃらける安原に笑うと、周囲をぐるりと見回した。
「今日はあんたたち二人だけ?」
「所長とリンさんは外出中、今日のお客様は松崎さんだけですよ」
 ため息が出たのは落胆か、安堵か…、気にする間もなく、ケーキと紅茶が出てきた。
「トイレに行くかケーキ食べるかどっちかにしたら?」
 落ち着かない様子を麻衣に指摘されると、綾子は無意識に動いていた足を押さえた。
「トイレはあっち」
「トイレじゃないわよ」
 綾子はバツが悪そうな顔で、ケーキを食べ進めた。
 ナルとリンが帰ってきたら、この間のことを詫びるだけだ。何も特別なことは…
「……あ」
 ドアの向こうから聞こえる足音を確認すると、そそくさとトイレに移動した。
「やっぱトイレじゃん」
「こだわりますね、谷山さん」
 トイレのドア越しに聞き耳を立てると、予想通りカウベルの音に追従してナルを迎える麻衣の声が聞こえた。
 リンが近くにいる、そう思うと総身が切なく軋んだ。
「じゃあリンさんの分は部屋ね」
 リンが資料室に入ったことを確認すると、水を流して部屋に戻った。


「結局ローレルやめちゃったの」
「ええ、ビートルにしました」
 頭を照れくさそうに掻く安原を、綾子はあきれ顔でみつめた。
「ビートルって、あの丸っこい可愛い車だよね、ルパンが乗ってるのだっけ?」
 車に詳しくない麻衣にも、ビートルの形は分かった。
「なーんで『男は直列六気筒~』とか謳ってたあんたが、よりにもよってビートルなの」
「知り合いが安く譲ってくれるって…」
 少年らしくない、まごついた口調だ。
「…そーいやさぁ、あの車って真砂子がかわいいっていってたのじゃない」
 したり顔で麻衣が言うと、安原はまいったなという顔をした。
「少年~、あんたも意外とケナゲよねぇ」
 あれほどエンジンにこだわっていた男が、真砂子の好みだけで車種を決めたのか。呆れを通り越して、逆に愛情の深さへ感心してしまう。
「やだなぁ松崎さん…僕は」
「いいじゃないいいじゃない、そういう軟派な男の方が、女には丁度良いのよ」
 好きな女の為に、車を選ぶというのは、如何ほどの愛情なのだろうか。一度でいいから、それだけ愛されれて見たいものだと、綾子の口から思わずため息がこぼれた。
「はいはい、僕の話はここまでっ! それより今もっともタイムリーなのは助手席の話ですよ」
「助手席? もうそんなのにこだわってるの安原さんだけだよ」
「助手席? 何よそれ」
 安原に尋ねると、安原は口に手を当ててひそひそと話し始めた。
「気持ち悪いわね」
「本人がいるんですよ、松崎さんもほら、ボリューム下げて」
 眉をひそめながら、安原の話に耳を傾けた。
「ほら、リンさんが年始に車を買ったじゃないですか」
 リンという単語に心臓が飛び出しそうになる。安原に感づかれないように平静を装った。
「それが何よ」
「絶対助手席に人や荷物を乗せないんですよ」
「…はぁ?」
「所長ですら乗せないんです、あの所長に絶対遵守なリンさんがですよ」
「あっそう」
 そんなことはよくある話だ、バンならともかく私用車なら、色々こだわるところもあるのだろう。買ったばかりなら愛着もひとしおだ。
「それで所長がへそ曲げて大変なことに」
「そんなことでへそ曲げてる暇があったら、ナルも免許取ればいいのに」
 麻衣が膨れ面で拗ねた。その姿に笑っていると、急に違和感が鎌首をもたげた。



「ちょっと待って、リンが買った車って…」
「フーガですよ、白の。この間の調査で持ってきてたじゃないですか」
 色々なことが綾子の頭の中を駆けめぐる。あのナルですら拒絶した助手席、そこに自分は何時間も座っていた。
 それも自主的ではなく、リンに促されるように乗せられたのだ、あの席以外に座れないようにもなっていた。人はおろか荷物すらリンが乗せなかった席、なぜそこに自分が…。
「いよーっす! あ、綾子じゃん」
 滝川の脳天気な声が事務所に響くと、麻衣がアイスコーヒーを淹れるために席を立った。
「なんだよ、連絡一つよこさないで、心配してたんだぜ」
 綾子の頭をくしゃくしゃと撫でると、麻衣からアイスコーヒーを受け取り、そのまま綾子の隣に座った。
 急にリンとの夜が再生され、頬が熱くなる。何度もリンは滝川を引き合いに出し、羞恥と苦悶に身を焦がしたあの夜。
「わ、悪かったわよ」
「そんな言い方ねーじゃん、俺さ、あの日心配だったから残ってやろうと思ったんだぜ」
「うそ」
 意外な一言だった。目を丸くして滝川を見ると、滝川は頭を掻いて天井を見上げた。
「でも、リンがいいって言ってたし、俺がいたところで出来ることは限られてるしな、結局東京に戻ったんだけど」
 なんと言うことだろう、もしあの夜滝川がいたら…。
「そういや、綾子を動かさないで一泊させるってのもリンの提案だったよな」
「うんうん、すごい気を遣ってたよね。久々にリンさんやっさしーウェーブがアタシの中で巻き起こったわ」
「綾子、リンにちゃんと礼いっといたか?」
 リンはそんなことおくびにも出していなかった。ただ、自分が倒れたから、仕方なく看病を引き受けただけだと思っていた。どういうことだ、さっきの助手席といい、今の話といい…。
「あれ、リン?」
 滝川の声に反応し、資料室に目をやると、ドアが少し開いていた。
「あれ~、まただ」
「そろそろ修理しないといけませんね」
 滝川と綾子の疑問の顔に、安原が応えた。
「最近、資料室のドアが馬鹿になっちゃって、すぐカパカパ開くんですよ」
 声に反応したのか、資料室のドアがパタンと閉められた。
 ふと、あのドアはいつから開いていたのだろうかと不安がよぎった。

 ハンカチを事務所に忘れたと気づいたのは、八時も半を廻っていた時だった。
 用事で渋谷にいた綾子は、まだ事務所は開いているかと麻衣にメールを送った。案の定麻衣達は帰っているという連絡が届く。
 大したものではない、次来たときにでもと思っていると、麻衣からまたメールが入った。
『リンさんならまだいると思うよ』
 息を呑んだ。



 アルミのドアノブを引くと、部屋の暗さに驚かされた。
(鍵をかけ忘れたの? でもメールでは…)
 暗闇に目が慣れてくると、一筋の光が見えた。
(資料室…リンか…)
 会いたい気持ちはある、しかし、まだ二人きりで会う決心はつかない。
 身体だけの関係、一夜限りの関係…。リンはそういう関係を望んで自分を抱いたのだろうか。
 だとしたら、今会ってもリンは眉をひそめて不快を顕わにするだろう。そうしたら自分は二度と立ち直れない。
(でも、これは恋なの?)
 綾子自身も、リンに抱いている感情が何であるのかは特定できなかった。リンが与える快楽をもっと貪りたいだけなのかも知れない。
(どうしたらいいの)
 滝川への慕情が消えたわけではない、綾子の心は揺れ動いていた。
(リン…)
 声をかける勇気はない。せめて姿だけでも…。救いを求めるような目で、綾子は資料室を覗いた。

 椅子に腰掛け、右手に握った布をしげしげと眺めている男が見えた。右半分を覆う前髪で表情は分からない。
 しばらく眺めていると《ある事》に気づき、金縛りにあった様に身体が動かなくなった。
(あのハンカチ…私の…!)
 何故リンが持っているのか、何か特別な意味があるのか、表情が見えない分、想像は加速する。
 右手に持っていたハンカチは、いつのまにか左手に持ち替えられていた。
(まさか、落ちているのを拾っただけよ、誰のだろうかって………………ぁ)

 ハンカチを、赤い何かがなぞった。

(………………うそ) 

 舌。
 赤く見えたのは、舌だ。

 気づいた瞬間金縛りが解け、咄嗟に後じさった。
 微かにヒールと床が当たって音がしたことは、綾子には分からなかった。それよりも心臓が早鐘を打つ音で頭は一杯になった。
 見てはいけないモノを見てしまった。嫌悪感や、怒りは沸いてこない。ただ、禁忌を犯した様な恐怖に包まれた。
 明るいところを見てしまって、夜目が利かなくなってしまったが、早急にここからでなければならない。
 綾子が玄関側に身体を向けると、廻りは更に一段階暗くなった。
 疑問に思うこともなく、玄関まですすっと、すり足で近づいた。
 気温がさっきよりも暖かく感じるのは、早鐘を打っている自分のせいか。
 手探りで、ドアノブを掴んだ。


(?)

 やわらかい感覚だった。いや、具体的に言えば硬いのだ。
 ただ、《アルミのドアノブ》の硬さには程遠い。
 そして、金属とは到底思えない《温もり》を感じた。
 だから、やわらかい以外の形容が出てこなかった。
 形状も、普段使い慣れているドアノブと形状が異なっている。
 握れない、握れるほどの薄さではない、平坦なはずのノブが、ごつごつしている。

 広いはずの部屋なのに、狭く、息苦しく感じた。
 なぜ、さっきから気温が上昇しているのか。

 早鐘を打つ心臓、よくよく聞いてみれば、音が二重に聞こえる。

 ちらりと横目で後ろを見ると…
 ―――――――資料室の一筋の光は消え て い  た   。



「ヒッ」
「誰だ」
 抑揚のない声を聞くと同時に、後ろからはかい締めにされた。
 先程までぴったりと綾子の後ろに張り付いていた人間は、ドア横のスイッチを慣れた手つきで切り替え、ドア横の白熱灯だけをぼんやりと点かせた。
「…松崎さん」
 声の主は、さぞかし驚き、安堵した様な演技をしながら、綾子に声をかけた。
「ああ、驚いた。泥棒かと思ったんですよ。」
 綾子の総身はぶるぶると震え、呼吸もままならなくなった。
 演技を演技だと教えている様な口振り、未だに解かれない拘束、腰あたりに伝わる膨大な熱。何もかもが怖かった、恐怖のあまり失禁しそうだ。
「どうしたんです、寒いのですか? …ああ、失礼」
 背後の男も白々しすぎるのかと思ったのか、容易に拘束を解いた。綾子は初めて後ろを振り返った。
「…リン」
 口元だけ嗤っている。
「忘れ物…しちゃって…それで」
「なら、一緒に探しましょう」
「いいの、たいしたものじゃないから」
「遠慮しないで下さい、松崎さんらしくない」
 リンはゆったりとドア側に回り、施錠した。
 トリガーを引く様な音に聞こえた。
「で」
 リンの顔から嗤いが消えた。
「何を、見たんです?」

「何も…」

「見たんですね」

 この世の終わりに逆上する様な表情を浮かべ、カツ…カツ…と靴音が綾子に歩み寄った。
 後じさっても応接スペースがあるだけで、出口にはいけない。しかし、足は勝手に後ろに向かう。
「ねえ…」
 泣きそうな声だった。しかし、リンは表情一つ変えずにじり寄ってくる。
「きゃっ」
 ヒールが地を這う配線コードの束に躓くと、倒れる前にリンの腕ががっちりと綾子を掴んだ。
 掴む腕からは優しさが滲んでいるのに、この恐怖は何だろうと、泣きそうになった。しかし、ここで泣いたり助けを求めたら、恐ろしい結末が待っていそうだ。
 リンは腕を捕らえると、そのままソファーに押し倒した。
 リンの足元ばかり見ていた綾子は、恐る恐る顔を見上げた。
「リン…」
 やるせない男の顔だった。置いてけぼりを喰らって、全てに見放された子供のように、泣きそうな顔だった。

「私を、ハンカチと同じ目に遭わせて」

 本当はそれを望んでいたのだ。二週間、ずっと―――
 目を見開いた男の頬に両手を添えると、慎ましやかに唇を合わせた。



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