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*第七話 *[[前へ(第六話)>聖なる侵入 第六話]]   [[目次へ>聖なる侵入]] ---- もう見ることのない。 ―――――――――聖なる侵入7  寝たような寝てないような感覚で目が覚めた。時刻は六時二十分、シャワーを浴びなくてはと、重い体を起こした。 「部屋…」  仮眠室ではなく、自分の部屋だった。 「…そうよね」  忌々しげに白んだ空を見つめた後、浴室に入った。まだリンは寝ているだろうと、細心の注意を払ってドアを閉めた。  古い家屋だが、風呂場だけはそれなりに新しくしたらしい。それでも一昔前のバランス釜だ。レバーを廻すと、金属を叩く音がして種火がつく。  あれほど細心の注意を払ったのに、派手な音だ…。風呂釜の小窓から種火がついたのを確認すると、シャワーヘッドからお湯を流した。  両手首にぼんやりと手の跡が付いている以外は、身体に跡は残っていなかった。 「明日には消えそうね」  わざと安心した口振りで声に出した。嗚咽をのど元で堪え、全身を清め始めた。  髪を流していると、一段階暗くなった気がした。照明は付けてない、ちらりと片目でドアを見た。  磨りガラス越しにぼんやりと黒い影が見えた。動悸がした。  髪を流し終えると、もう一度ドアを見ると、入った時と同じ光景だった。  落胆とも安堵とも言いしれない、沸き上がった感情を紛らわすために下腹部を洗うと、ひりつく痛みが走った。 「…痛い…」  痛みを堪えて指を入れると、リンの残滓がどろりと溢れた。綾子の涙も溢れた。 「…くっ…うっ…うっ…」  頭をタイルの壁に押しつけ、肩を震わせて泣いた。  磨りガラスがまた黒くなった。  片付けは昨日の内に麻衣達が殆どしてしまったようだ。手荷物だけ纏めると、仮眠室に忘れてきた巫女装束を思いだし、ベースに向かった。 「…おはよう…」  ベースではリンがワンセグ携帯でニュースを見ていた。会釈しながらゆったりと振り向いた。  既に上下背広で身を固めていた。爛れた匂いはしない、夜の内にシャワーを浴びたのだろう。  ただ、ネクタイがなかった。調査中、リンのネクタイの柄や色が変わったところは見ていない、あの拘束に使ったネクタイしか持ってきていなかったのか、だとしたら合点がいく。既に使えない状態になっているのだろう。  顎あたりにはポツポツとヒゲが生えていた。毎朝リンはヒゲを剃っている、何故今日に限ってと思った。 「…ごめん、占拠してて」  疑問にはすぐ答えが出た、脱衣所と洗面所が同位置にあったからだ。剃刀も洗面所に置きっぱなしだった。 「…朝食を摂って下さい」  第一声がそんなものかと拍子抜けした。そして、覚悟していたとおり、事務的な声だった。  仮眠室にある座卓の上にコンビニエンスのビニール袋があった、お茶とおにぎりが何個か入っている。ひとりで食べるには多すぎる量だ。 「買ってきてくれたの?ありがとう」  調理器具関連は昨日の内に麻衣達が片したのだろう。そう思いながら席に着くと、リンも綾子と向かい合うように座卓を囲んだ。 「待っててくれたの?」  返答は無かった。目を合わせることも出来ず、互いにおにぎりのセロハンを剥いて、もそもそと食べ始めた。  沈黙が痛い…。さっきから何か当てつけのように感じる。ジャケットを着ていなければまださほど感じなかった違和感も、かっちり身につけていることで、ネクタイがないのも、ヒゲが生えているのも、これみよがしに非日常を主張する。  朝食だって、リンも昨日は夕飯を食べなかったはずだ、空腹を我慢してまで綾子を待つ理由はない。そもそも待つような男ではないと、2年近く見てきただけわかる。  ともかく、ネクタイがないのも、ヒゲを処理していないのも、待たれることも、今まで無かったのだ。夜を境に、自分は異次元に迷い込んでしまったのではないかと不安に陥った。 「松崎さん」  思い詰めていると、声をかけられた。慌てて顔を上げる。 「予定では10時出発の予定なのですが、このままなら8時半には出れそうです。それとも少し休んでいかれますか」 「いいわ、早く出た方がいいでしょう?」  立ち上がるとさっさと自分の部屋に引っ込んだ。  綾子は体育座りになり、がらんとした部屋を見回した。 「松崎さん…か」  男は愛情が無くてもそういうことが出来るとは知っていた。一晩限りの仲だろうと薄々は感づいていたが、実際目の当たりにすると心臓が絞られるような痛みを訴えた。  洗面所から、リンが歯磨きをする音が聞こえる、そのうちひげも剃るのだろう。  プラス思考に考えれば、滝川を慕う自分に、逃げ道を与えてくれたのではとも思い浮かぶ。だからといってそれを受け入れられるほど自分は脳天気でもない。 「夢だったら…よかったのに」  夢ではない。体内に残っていた残滓も、腕の跡も、当てつけのようだったリンの変化も…。『夢と思うなよ』とリンに釘を刺されているんじゃないかとさえ思い始めた。 「そろそろね」  答えのでない思考に溺れないよう、支度をし始めた。そして車にわずかな荷物を詰めに行った。  普段機材を詰め込むバンは、昨日とうに滝川達が運び出したようで、ポツンとセダンタイプの白い車が止まっていた。恐らくリンの私用車だろう、バンでは輸送量が足りないから出したようだ。 「フーガの450GTか…維持費だけで相当よね」  これ以上、昨日のことは考えたくない、綾子は無理矢理思考を車に移した。自分個人としては直列6気筒の方が思い入れがあるが、最近は中身よりテールランプ等のデザインセンスの方を重視したいので、V8エンジンでもまあいいかもなと、一人ごちた。  使えと言わんばかりにベースに放置されていた車のインテリジェンスキーでトランクを開けようとすると、後ろからリンの制止がかかった。 「いつのまに…」  ひげはそのままだった。 「東京駅の八重洲降車口であなたを降ろします。荷物を出し入れする時間がない、後部座席に」  後部座席を見ると、片方は既にリンの旅行カバンで埋まっていた。  助手席には座りたくなかったが、致し方ない。空いている席に荷物を置くと、促されるように助手席に座った。  忘れ物があった気がする、しかし、出発前に全室を確認したが、何も落ちてはいなかったのを思い出す。  運転席にリンが着いた。フロントガラスに映ったリンの姿は、ネクタイがなく、ひげが生えている。どこかでみたことがあるなと思えば、報道やワイドショーでみかける、逮捕された…まるで…  咎人のようだった――――――――  運良く高速は空いていて、山々の風景をあっという間に駆け抜け、見慣れたビルの街並みが飛び込んできた。  どんなに飛ばしても3時間はかかるだろうと、出発時は気が重かったが、いざ走り出すと、昨日の疲れが一挙に溢れ、殆ど寝て過ごせた。不思議と夢は見ずに済んだ。 「あと15分程で八重洲降車口に着きます」  眠たそうに欠伸をした綾子に向かってリンは機械のように呟いた。  降車口――八重洲乗客降り口とは、東京駅地下に直結する首都高速の降り口で、高速を下車することなく、同乗者を東京駅に降ろすことが出来る場所だ。降車専用とあって降車用の車寄せはせいぜい2~3台程度しかなく、もたもたしていると後ろに車が溜まってしまう。  高速で15分などすぐだ、手荷物のようなボストンバッグを足元に移した。  苦痛だったふたりの時間も、残り少ないと思うと途端に胸が締め付けられる。リンの横顔を見た。 「…何か?」  不愉快とも何ともとれない無機質な声は、綾子をさらに追いつめた。 「…ぁ…」  うつむいた綾子に更に問うこともなく、車は地下トンネルに入った。  再開発だ何だと騒がれているのに、八重洲口につながるトンネルはぼこぼこしていて鍾乳洞のようだ、古い字体で書かれた緑色の案内板も、違う時代に来てしまった感じを植え付ける。降車口はそれだけひそやかな場所なのだ。  あったことが幻のように感じる、しかし幻ではない。八重洲降車口は自分とリンの関係に似ていると綾子は思った。  薄暗いトンネルの途中、地下鉄のホームを小さくしたような降車口が見えてきた。  ハザードランプが点灯し、車は左に寄った。 「ありがとう、リン…付き合ってくれて」  リンを見ず、降車口に向かって呟いた。 「…綾、段差がある、気を付けて…」  びくんと背が張った。振り向くと、右手にハンドル、左手は助手席の背もたれに手をやり、身を乗り出したリンがいた。  その表情は半分前髪に隠れていたが、あの夜の顔だと判断がついた。  何か言いたげに唇が動いたが、気づかない振りをして綾子はドアを閉めた。  薄暗いトンネルへ白のフーガが吸い込まれてゆく。赤く丸いテールランプが見えなくなるまで、綾子は人のいない降車口に立っていた。  右でも左側でも、歩いていけば扉にぶつかる。なんとなく習慣で左に向かった綾子は、利用客を迎えるとは到底考えつかない重い扉を開けると、急すぎる横幅の狭い階段を登った。降車専用だから、上から降りる客はいないのだ。  階段を昇ると、あまりにも面積の小さい危険な踊り場に立った。従業員通用口のような小さな扉を開けると、八重洲地下街に出た。今までの静寂が嘘のように、喧噪にかき消えていった。  改札に向かって歩みを進めていると、ふと、朝思い出せなかった《忘れ物》を思い出した。 「巫女装束…」  部屋中探してもなかった、ということは…  後ろを振り返った、既に八重洲降車口への扉は見えなかった。  綾子の胸に、闇に溶けてゆく赤いテールランプが篝火のように赤々と燻り始めた―――――――  〈完〉 ---- *[[前へ(第六話)>聖なる侵入 第六話]]   [[目次へ>聖なる侵入]]

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