アルモドバル_抱擁のかけら

 自身の故郷であるラマンチャを舞台として「生と混じり合った死」を描いた前作『ボルベール〈帰郷〉』を撮り終えた後のインタビューで、「いま、自分の気持ちにあくまで正直に映画を作るとしたら、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』のような作品をもう一度撮るんじゃないかな」と話していたアルモドバル。『神経~』(87)は、彼のキャリアの中でもっとも洗練されたコメディだ。
 しかし、アルモドバルはコメディ映画を撮らなかった。本作『抱擁のかけら』は、アルモドバルの映画作家としての成熟が、『オール・アバウト・マイ・マザー』以降(『トーク・トゥ・ハー』『バッド・エドゥケーション』『ボルベール』)の重要で完成度の高い4作の域から更に進んでしまった、という印象さえ受ける幾重にもメタフィクショナル(映画内映画)で、深い深い感動を残す作品だ。
 『オール~』以降、孤独や死を様々な形でテーマにしてきたアルモドバル。本作でも孤独や死は登場人物に取り憑いているが本作の主となるテーマは「映画」である。ルイス・オマール演じる盲目の脚本家は、以前は著名な映画監督として活躍していた。一人の青年の訪問をきかっけに、最後に撮っていた映画にまつわるエピソードを回想していく。ペネロペ・クルス演じる、女優になる夢を捨て資産家の愛人として生きる美しすぎる女性=レナを主人公に迎えた“映画”だ。
 『バッド~』も映画を撮ることを中心としてストーリーが進んだが、本作では、その撮った作品自体にもフォーカスされる。映画内で撮っているのは、先の『神経~』におおまかに基づいた映画だ。冒頭に引用したアルモドバルの願いは、映画内の主人公たちにおいて実現した。映画にまつわる映画は珍しくない。映画を撮っている映画も少なくはない。しかし、アルモドバルは、メタフィクションと引用が複雑に絡み合った、映画内で自身の過去の作品(を彷彿とさせる作品)を作中で撮影していくという過去前例のない映画を作ってしまった。極めて技法的でありながらも、極めて感動的な作品。成熟した映画作家が丁寧に作り上げればこそ、その相反しがちな映画の2つの魅力が両立している。
 もう1つ映画内で重要な役割をもつ映画がある。ロベルト・ロッセリーニ監督の『イタリア旅行』だ。劇中、主人公とレナが、身を寄せ合いながら観て涙する。アルモドバルが、劇中で見ている映画や演劇、聴いている音楽に重要な役割をさせるのは、得意とするところだが、2人が観るのは、溶岩によって留められていた寄添って眠る男女の死体を掘り返す場面。数千年前の男女の不滅の愛に、レナは涙し、主人公は2人の抱擁を写真に収める。永遠の愛が確かにそこにあったが、それから間もなく……。
 『トーク・トゥ・ハー』では、カエターノが劇中歌う「ククルクク・パロマ」が重要な意味を持っていたことを覚えている方も多いだろう。友人関係でもある2人だが、新作『ジー・イ・ジー』を作るカエターノと『抱擁のかけら』を撮るアルモドバルには、共通点があった。ブログで制作状況を発信しながら制作していたというところである。ブログ自体は珍しくなくなっていた時期だが、彼らの年齢や確立している立場を考えると挑戦的なことで、一流のアーティストが、本人のペンで制作現場をレポートしているのは、本当に読み応えがあった。両ブログとも残念ながら今はもう続けられていないが、アーカイブとしては新作にまつわるエピソードが沢山残っている。(アルモドバルのブログは→http://www.pedroalmodovar.es/
 また、本作では「映画」に重要な役割を担わせている分、「音楽」がストーリー上で意味をもつことはないのだが、エンドロールでのミゲル・ポベーダの歌うテーマ曲「シエガス(盲目たちへ)」は、最後に強烈な印象を残す。各国老若男女の歌手に自身のメッセージを託してきたアルモドバルが、今、若いフラメンコ歌手の歌に託すメッセージにも、耳を澄ませたい。







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最終更新:2010年10月27日 07:04