過去メモ_集積2ラ米における国民国家の成立についての歴史的考察


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ラ米における国民国家の成立についての歴史的考察 東京外国語大学大学院 地域研究コース 鈴木茂研究室所属 花田勝暁(5209028)
出版語、国民意識、国民国家のあいだの連結の不連続を説明するには、1776 年から 1838 年にかけて西半球に起こった一群の新し い新しい政治的実体、そのすべてが自覚的にみずからを国民として、また、ブラジルを興味深い例外として、(非王朝的)共和国と定 義した、この新しい政体に目を向ける必要がある。これらの国々は、歴史的に、世界の舞台に登場した最初の国民国家であり、それ故、 必然的に、国民国家とは「どのようなものか」、その最初の現実的モデルを提供したばかりでなく、複数の国民国家が同時代に誕生し たことによって、比較のための実りの多き地歩を提供しているのである。[『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン p86]
ベネディクト・アンダーソンは、新大陸の各国を最初の国民国家だと断言し、「巡礼」や「出版資本主義」という説明で、当時ラテ ンアメリカに次々と独立国家が誕生した背景を『想像の共同体』の中で説明した。塩川伸明氏は、著作『民族とネーション』の中で、 ラテンアメリカのナショナリズムについて、基本的にアンダーソンの論理を踏襲し、ラテンアメリカのネイション形成にはエスニシ ティが関係なかったことを特に強調する。
新大陸におけるネイション形成はエスニシティとは基本的に切り離されている。ナショナリズム論の古典とされるアンダーソンの 『想像の共同体』がもっぱらネイションについて論じていて、エスニシティに触れていない──彼の後の著作ではエスニシティが新た に取り上げられているが──のは、同所が新大陸とりわけラテンアメリカを重視していたことと関係する。[『民族とネーション』塩
川伸明 p71] (インドネシアのナショナリズムを解説する一節内で)
このように、前近代から引き続く文化伝統という意味での統一性をもたない多様なエスニシティが、にもかかわらず「1つの国民」 とされたのは、植民地行政によって1つの行政がつくりだされたという事実によるところが最も大きい。『想像の共同体』段階のベネ ディクト・アンダーソンがもっぱらネイションを論じ、エスニシティに触れんかったのは、彼の最初のフィールドがインドネシアだっ たことと関係している(彼がインドネシアと並んで重視しているラテンアメリカも、ネイションがエスニックな基盤をもたないもう 1つの例だということについては、第II章第3節で触れた)。[『民族とネーション』塩川伸明 p121]
塩川氏は、「純粋かつ模範的な近代」「純粋な国民国家」のモデルとされがちなフランス革命についても、「民族」としての統一性は 後づけだったことを強調する。
革命を経験する中で「、共通の法律の下に生活し、同じ立法機関によって代表される共同生活体」という「国民」(ナシオン)観が広がっ た。これと表裏一体をなして、革命の主体とみなされた「第3身分」(平民)が「国民」そのものと等置され、それに属さない貴族階 級は「異邦人」「革命の成果を脅かす敵」とみなされた。そのような「敵」──革命に反対する国内の敵と戦争の相手となる外国の双 方──に対抗して「国民」全体の統一と連帯を重視する観点から「国民の一体性」が強調された。  ここでいう「国民の一体性」は、その時点では、言語・文化などの共通性に基づくものではなかった。フランス革命当時、住民の 言語は統一されておらず、後に標準フランス語とされる言語を話す人たちは全人口のおよそ半分程度だったといわれる。第I章で使っ た言葉づかいでいえば、ここでのネイション/ナシオンはエスニックな統一性を基礎としておらず、従って「民族」ではなく「国民」 と訳すのがふさわしいということになる。「国民」統一の基礎としては、エスニックな一体性ではなく「共和主義」という理念が何よ りも重視されたのである。  しかし、ではフランスにとって「民族」としての統一性がまったく不要だったかといえば、そうはいえない。実際、フランス革命 後の長い期間を通して、フランス全土に「標準フランス語」が押し広められ、フランス語を共有するフランス国民がつくりだされた。 つまり、先に「国民国家」が一種の外枠として形成され、その後に、上からの政策によって言語的統一が推進されていったのであり、 それがある程度以上達成された後の「フランス国民」は「民族」的な意味をも帯びることになった。[『民族とネーション』塩川伸明 p43]
ここで『想像の共同体』と『民族とネーション』を読んでもわからなかったのは、フランスと同じくエスニシティに無関係に国家 が形成されたラテンアメリカ各国において、どのように「国民の一体性」が獲得されたかということだ。両書では、新大陸については、 独立時の様子は説明されていたが、「国民の一体性」の獲得の過程については、説明されていなかった。出身地を異にする移民たちが 先祖の伝統から切り離された環境の中で新しい国家を形成するという経緯を経た新大陸の各国では、どのように「国民の一体性」を 獲得していったのか? ラテンアメリカ世界での獲得過程についての理解を深めていくのが本稿の主題だ。ただこの問題を突き詰めれ ば「ラテンアメリカとは一体何であるのか」「何に基づいてその文化的アイデンティティを確立するのか」といった現在まで繰り返さ れている究極的な問題が関わってくるので、本稿の思索は、「国民の一体性」獲得までの歴史的な大枠を掴むことを目的としたい。
ラテンアメリカにおいて、新生国家にむけてクレオールたちが、「巡礼」と「出版資本主義」を通じて、想像の共同体意識を育んで
治がなされるようになってきた。教育が重視されるようになるが、まだまだ政治の主体は知的エリート層である。
フランス革命を準備した啓蒙思想の後に、ヨーロッパで支配的となった思潮はロマン主義だったが、ラテンアメリカでも 1830 年代 にその影響が認められるようになる。とくに、1810 年前後に生を受け、30 年頃から政治や文化の世界で活躍し始めた知識人のなかに その支持者が多数出現した。彼らはロマン主義と、またそれと深く結びついた歴史主義(国や地域の歴史・伝統を重視する立場)を 受容してゆく過程で、地域の個性、すなわち、国民性やそれが文化や政治にもたらす影響といった問題を追求した。彼らのこうした 独自性への関心において注目に値するのは、それが進歩への意欲を含んでいたことだった。というのは、彼らにとって進歩とは、他 国の制度を模倣することではなく独自なものを発展させることだったからである。彼らは、自由主義者と保守主義者の内戦、経済的 後進性、暴力とカリスマ性に基づく権力形態としてのカウディーリョ支配に直面し、これらの地域に独自の現象が、文化と精神の面 での独立が達成されていないこと、つまり伝統的メンタリティを克服していないことに起因するとした。その意味で当時の歴史主義 は反スペイン主義であり、反カトリック的であった。かつての支配者スペインは社会的、政治的に全く遅れた国家とみなされ、反ス ペイン主義はヨーロッパの先進諸国、とくにフランス、英国への礼賛と結びついていた。したがって、この世代の人々は、自国独自 の路線をとるべきであることは認めながらも、スペイン的モデルを排し、フランス、英国のモデルと採用することを進歩とみなした のであった。[「政治思想の歩み」松下マルタ:『ラテンアメリカ 政治と社会』p57]
歴史主義では、一国の政治体制は歴史的、地理的状況から生まれる国民性の結果であるとされた。しかし、スペイン系アメリカで 支配的だったのは、現実の国民性を受動的に受け入れるのではなく、法によって現実を変え、教育によって強制的に国民に近代的メ ンタリティを植えつけ、結果としてフランス型の国民性を作りあげねばならないとする立場であった。アルゼンチンではこの歴史主 義的思想の先達たちは、1837 年にブエノスアイレスの文学サロンに集まり、国家が直面している問題を議論し始めたので、「1837 年 の世代」と呼ばれている。彼らの多くは当時の独裁者ロサスに反対したために国外追放された結果、「ウルグアイの 1840 年の世代」 や「チリの 1842 年の世代」の形成に大きな影響を与えることになった。これらの思想家の考え方は細部において多様であったが、主 要な点では一致していた。まず、彼らは現実を否定的に捉え、この現実を生み出したのは、スペイン的伝統と独立革命を指導した世 代のユートピア的な思想であるとした。さらに、この現実を変えるためには国民の意識を改めることが必要であり、その手段を教育 に求めた。また、労働の習慣を身につけさせるために、模範としてヨーロッパ移民を奨励した。  彼らは自由主義者と同様に、スペイン系アメリカ諸国において民主主義は近未来には実現不可能で、将来の目標であるとみなし、 民主主義は政治だけでなく経済や文化にも必要不可欠なものであるが、経済的進歩と大衆の教育が達成されて初めて適用できるもの とした。したがって、その段階に至るまでは知的エリート層が国民のために政治を行わねばならず、政治が大衆によって牛耳られて はならないとした。[「政治思想の歩み」松下マルタ:『ラテンアメリカ 政治と社会』p58]
19 世紀後半まで、寡頭支配層は、経済発展を遂げるために外国資本を導入し、ヨーロッパ移民によって未開の国土を開発させるこ とでひたすら近代化めざした。支配者層の帰属意識はヨーロッパにあり、彼らはヨーロッパの一員として近代ラテンアメリカの形成 を目指した。しかしこのような近代化政策は、自国の国民統合を遅らせ、厳しく階層化された社会を温存させ、国家の総合的な開発 への展望を欠いた外国資本や特定の個人に、広大な土地や資源を独占させることになった。しかし、外国資本による近代化は、ラテ ンアメリカ各国に中間層を出現させた。クレオール白人と少数の混血メスティーソやムラートたちのエリート層以外の層が政治の表 舞台に出てくることで、国民国家形成という視点を欠いたラテンアメリカ諸国の近代化の過程で、ようやく主流派の中に、民族意識 が現れてくる。
1880 年代から急速に拡大したこの中間層は、伝統社会の下層階級から中間層へと社会上昇を果たした新しい中間層を含んでいた。 彼らは外国資本に支配された自国のあり方に疑問を抱くと同時に、抑圧され、搾取される下層労働者や農民層に注目し、国家のあり 方を模索した。とくに彼らは、19 世紀末から急速に台頭してきたアメリカ合衆国をラテンアメリカの最大の脅威であるとみなした。 キューバ独立の父マルティは、19 世紀末に合衆国の野心を指摘し、ラテンアメリカ諸国の団結の必要を説いた一人であったが、少な からぬ知識人たちがアメリカ帝国主義の危険性を早くから警告していた。ラテンアメリカのナショナリズムは、このように外国資本 による経済発展の中で拡大した中間層の出現に伴って、寡頭支配層がもたなかった民族意識として高まり、反米主義へのその性格を 明確にしていったのである。  第一次世界大戦は、世界の他の地域と同様にラテンアメリカの民族主義運動にとっても大きな転換期となった。民族意識が高まる と同時に、労働運動をはじめとして社会改革を目指す大衆運動が組織され、寡頭勢力に対する大衆の挑戦が開始された。そして巨大 な外国資本に支配されたラテンアメリカ諸国の大衆運動は、必然的に反帝国主義運動へと発展していった。その反帝国主義を最も集 約的に表現したものが、すでにとりあげたメキシコ革命の成果としての「1917 年憲法」である。同憲法は第 27 条で地下資源と水を 根源的に国家の所有とし、外国資本や特定の個人が独占することを排除したが、その理念に基づいてメキシコは外国資本の接収を含 む急進的な改革の政治を実行した。メキシコ革命に刺激されたペルーのアヤデラトーレは 1924 年にアメリカ革命人民同盟(アプラ運 動)を結成し、ラテンアメリカ各国で反米運動を開始した。アプラ運動はアメリカ帝国主義に反対し、ラテンアメリカの政治的統合 を目標に掲げた急進的な民族主義的社会改革運動への発展した。[『概説ラテンアメリカ史』国本伊予 p200]
いったというアンダーソンの『想像の共同体』の論理の主軸には、納得させられる。その2つの説明をベースにすれば、独立した国々 の国境線が植民地時代の行政区分にほぼ沿っていたという事情もすっきりと納得できる。しかし、同書内のラテンアメリカの独立の 説明について、私にはどうしてもアンダーソンの論理は「国家形成」を説明してはいるが、「国民国家」の説明には十分ではないので はないかと感じてしまった。フランスにおける、〔「国家形成」≠「国民国家」〕という点については同書内でフォローしているが、下 で示したようにラテンアメリカに関して〔「国家形成」=「国民国家」〕を成立させるために、強引な解釈を行っていると思われる。  アンダーソンは『想像の共同体』内で、解放者サン・マルティンが、1821 年に原住民やインディオに対しても「ペルーの市民である」 と言った発言を何度も取り上げているが、この一言を取り上げて、「クレオール人の共同体が、かくも早く、ヨーロッパのほとんどど の地域よりもずっと以前に、我々国民という観念を発展させた」(p95)、つまりラテンアメリカにおいて〔「国家形成」=「国民国家」〕だっ たと評価するのは、行き過ぎていないだろうか。独立当時、国民の概念はあいまいなもので、実際的に市民の権利をもっていたのは、 もともとのエリート層だった。
憲法では国籍、市民権、市民の権利と義務が明記されていたが、新生国家における国民の概念はきわめてあいまいであった。住民 の圧倒的多数を占めた農民は国民としての権利を保障された市民とはならなかった。彼らはアシエンダやプランテーションまたは村 落共同体の中で生活し、国民である前にそれぞれが所属する小世界の中で生まれ、一生を終えるものたちであった。彼らは国家とほ とんど無関係で、地主や地域の有力な支配者に完全に従属し、また一方では保護されていた。そして一定の財産があり租税を支払う 能力のある識字者のみが市民(シウダーノ)であり、政治参加の道が開かれていた。独立と同時に奴隷制を廃止したハイチのような 国もあったが、多くの国では独立後も 19 世紀半ばまで奴隷制は残った。[『概説ラテンアメリカ史』国本伊予 p139]
また、独立後にも国家間で国境を争うことがあった。
主権国家として独立した国々の国境線は植民地時代の行政区分インテンデンシアにほぼ沿っていた。しかしその境界線は厳格なも のではなく、非常にあいまいであった。その結果、のりに天然資源の発見などによってそれまで両国が無関心であった国境線が注目 されると、領土紛争が多くの地点で発生した。それらのいくつかは戦争へと発展しており、ラテンアメリカ諸国間で争われた領土紛 争は少なくない。  この国境線の例でみるように、独立国家の形成は実はきわめて大まかなもので、独立戦争に多くの農民が動員され多くの犠牲者を 出したとはいえ、独立の影響を受けたのは植民地社会の一部にすぎなかった。住民の多くは新生国家の誕生に具体的な関わりをもた なかった。とくにメキシコ北部やアンデス地域のように国境線が引かれたあとも、国境に関係なくその地域一帯で独自の生活を続け る先住民の世界がその後も存続した。彼らにとって、国家は何の意味もなかっただけでなく、むしろ新たな権力として戦わねばなら なくなる対象であった。[『概説ラテンアメリカ史』国本伊予 p140]
上記2つの引用を真とするならば、アンダーソンが捉えている程には、クレオールたちの運動によって誕生した新生国家は、クレオー ル以外の人たちには大きな変化はもたらさなかった。ただクレオールたちの思想が、国家の方向を決めるようになった。またそもそも、 独立に際しても、「出版資本主義」の時代であり、ヨーロッパから伝わった自由主義の影響をクレオールたちは大きく受けていた。独 立期におけるクレオールたち思想についての描写を引用したい。
19 世紀初頭のラテンアメリカの独立期において、政治に大きな影響を与えた思想はヨーロッパの啓蒙的自由主義だった。この思想 は 18 世紀以降のフランスや英国の思想、米国の独立運動、スペインの改革主義を通してラテンアメリカに伝わり、スペインからの 独立運動を鼓舞した。同時に、自由主義とともに合理主義も伝わった。合理主義とは、個人の人権を守りつつ、行政においては公正 化と効率化を図り、宗教や政治の分野においては権力や専制に反対するというものであった。経済の分野では、英国のアダム・スミ スやジェレミー・ベンサムといった自由主義学派の思想を受容して、政治活動の自由を最大限認めることが理想とされた。そこから、 スペイン植民地下の絶対主義体制や中央集権体制を払拭して、国家は改革しうるという確信が生まれた。[「政治思想の歩み」松下マ ルタ:『ラテンアメリカ 政治と社会』p54]
19 世紀初頭に中南米諸国が独立した後も、王室とその行政官がいなくなったことを除けば、政治と経済の支配階層は変わらなかった。 ただ、それまでは絶対的な権威だった王室がなくなり、経験したことのない米仏流の三権分立制度が導入されたために、政治の表舞 台に立ったクレオール(現地生まれの白人)達は、誰が政府の実権を握るのかをめぐって激しく争うようになった。王室や教会の家 父長的な支配をなつかしむ保守主義者に対しては、共和主義と国教分離を唱える自由主義者が対峙した。首都を握る中央集権主義者 に対しては、地方の分権主義者が対抗した。こうして独立後の半世紀間、中南米は内戦と政治不安に満ち満ちた年月を送ったのであっ た。[『比較政治──中南米』恒川惠市 p43]
独立後のラテンアメリカは、カウディーリョ支配に直面したが、長期的な視野のないままで、内戦と政治不安の日々を呼び込んで しまった自由主義思想の世代から、ロマン主義~歴史主義の影響を受けた世代へと、クレオールの政治主体は移っていく。反スペイン、 親フランス、親イギリスを目指すが、このころから、西欧のそのままの受容ではなく、自国の国民性を意識し、国民国家を目指す政
「地下資源の開発や国境近辺の土地の所有は、メキシコ人にのみ認める」という 1917 年憲法は、明らかなナショナリズムの発露であり、 また、バスコンセロス文化大臣の下での壁画運合も国民統合をめぜす時代になった事の代表例として忘れてはならない。
1920 年代を通じてメキシコ革命は、国民統合に向けた民族主義運動を強力に推進した。バスコンセロス文部大臣の下で現代メキシ コの国民意識形成に大きく貢献した壁画運動が、リベラ、オロスコ、シケイロスのような現代メキシコが世界に誇る画家たちを中心 に展開された。この壁画運動は公共建造物の壁に描いたメキシコの歴史や風物を通じてメキシコ民族意識を国民に植えつける役割を 果たすと同時に、ヨーロッパ文化から脱却したメキシコ絵画の創造でもあった。メキシコ民族主義の台頭は、メキシコ革命が農民・ 労働者・軍部などの各勢力を政治力として統合するにあたり大きな力となった。[『概説ラテンアメリカ史』国本伊予 p198]
メキシコ以外の多くのラテンアメリカ各国でも、政治はポピュリズムの時代になり、ラテンアメリカ各国の支配層が国民統合をめ ざす時代になる。
ポピュリストは、経済的ナショナリズムと並んで、独自の文化価値の見直しをめざす文化的ナショナリズムの傾向を示した。これ は寡頭支配層がフランス、イギリス、アメリカといった先進国の文化を進歩的ととらえ、混血や先住民やアフリカ人の文化を遅れた ものとしたことへの反動でもあった。ナショナルな独自文化の主張は、雑多な階級を統合する機能も果たした。ただしポピュリスト がめざしたのは、個々の民族集団の文化伝統の尊重と共存を謳う文化的多元主義ではなく、先住民的要素やアフリカ的要素を含んだ 混血文化の称揚であった。先住民系住民やアフリカ系住民に対しては、教育による「国民化」、「同化」がめざされたのであった。[『比 較政治──中南米』恒川惠市 p47]
ポピュリズムの時代になって、ブラジルにおいても国民意識が追求されるようになった。
ブラジルの国民統合を意識的に追求したのもヴァルガスだった。1934 年には移民制限が導入されたほか、地下資源開発、船舶の所 有と運行、電源開発などの経済活動がブラジル人に限られることになった。  ブラジルの中央集権的統合を強化することを狙うヴァルガスは、1935 年になって共産党とファシズム団体による暴力事件を口実に 戒厳令を施行、37 年には大統領制を中止し、国会を解散、全権を掌握した。この年のヴァルガスが作らせた憲法は、大統領の権限を 大幅に強化するものだった。
1937 年から 45 年にかけてのヴァルガス政権は「新国家体制」と呼ばれ、国家主導の工業化と内陸開発、労働者保護による国家へ の統合、そしてブラジル・ナショナリズムの称揚によって特徴づけられる。ヴァルガス政権が中南米のポピュリスト政権の1つに数 えられるのは、そのためである。ヴァルガスは関税や為替レートを操作することで工業部門を保護すると同時に、基幹産業の確立の ために国家資金をつぎこんだ。典型的な例がヴォルタ・レドンダ国営製鉄所の建設である。ヴァルガス政権はまた、内陸部へ向けて 道路や鉄道の建設を進めた。労働者のための年金・失業保険などの制度を整え、労使紛争を調停する労働裁判所を整備し、労働省の 指導下で垂直的な労働組合ネットワークを作り上げたのもヴァルガスである。最後にヴァルガスは、ブラジリダーヂ(ブラジル的精 神)を掲げて、初等・中等教育における外国語教育を禁止したり、外国語での新聞発行を制限したりもした。[『比較政治──中南米』 恒川惠市 p107]
メキシコやブラジル以外の、アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、ボリビアといった国でも 20 世紀初頭~前半にポピュリスト政権 が力をもちはじめた。ポピュリスト政権は、寡頭支配層による統治によって特徴づけられた 19 世紀的秩序から、大衆民主主義と工 業化経済への転換を図ったが、一般大衆を政治に引き込んだという意味で、新しい時代の政治形態だった。この新しい時代になって
「国民の一体性」を社会のより広い層が感じるようになったというのは、納得できる。ただ、ラテンアメリカにおいてポピュリスト政 権が誕生しなかった国もあり、それは比較的規模の小さな国だ。中間層が登場する程度に経済基盤を持たなかったこれらの国では、「国 民の一体性」の獲得は、より後の時代に持ち越されることになったのだろうか? この問題についてもう一つ踏み込めたいが、本稿 での結論は、ラテンアメリカではポピュリスト政権の登場によって、20 世紀初頭に社会の主流派が「国民の一体性」を獲得したと結 論づけ、ポピュリスト政権誕生以降の問題は今後の課題として研究したい。  ラテンアメリカで、支配層ではなく主流層が「国民の一体性」を得るようになったのを 20 世紀初頭だとした場合、独立から1世 紀程度かかった。この見方をすると、ラテンアメリカにおける実際の「国民国家」の誕生は、決して世界的にそれほど早いものでは ない。『想像の共同体』において重視されたラテンアメリカが、アンダーソンを多分に引用しつつ展開される『民族とネーション』に おいては重視されていないが、その理由は「エスニシティ」という現代のナショナリズムにおける最重要事項を重視する視点に立っ た場合、ラテンアメリカにおける「国民国家」の誕生は、その理想とその現実との乖離が大きい時代が長過ぎたからであろう。


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