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1970年代に、まだ国会議院だった時から、ジョゼ・サルネイは、税の控除のメカニズムによる文化支援を機能さえる方法を模索していた。

セルソ・フルタード(Celso Furtado)大臣の時代に、法令第7505号(Lei n.7505, de 2 de julho de 1986)が承認され、文化的或は芸術的性質のある事業への支援で、所得税が控除される恩恵を生む法律が誕生した。この法は、サルネイ法(Lei Sarney)と呼ばれ、知られるようになった。



メセナ法





1960年代70年代の間、文化の問題は、
公共計画の分野内で、大きな重要性を得て、
社会発展の問題に繋がりをもつ役割に担うようになっていく。

そんな中、
1961年にConselho Nacional de Culturaが内閣のもとに設置された。
38年のものとは全く無関係であった。

新たな規律の中での根拠があることは、
政府内に文化政策専門の機関を創設する必要性の根拠でもあった。


クビシェッキの後任を決める1960年の大統領選挙の結果、カリスマ性のあるサンパウロ出身のクアドロス(Quadros)が
、560万票を超える高い得票数を得て当選した。
クアドロスは61年に1月に就任すると、農地改革計画や外資利潤送金制限法案など急激きな改革案んを打ち出し、
外交面ではキューバの閣僚チェ・ゲバラに最高位の南十字星勲章を贈るなど第三世界への接近を強めた。これが軍部や保守層の反発を招き、
就任して7ヶ月余りで辞任に追い込まれた。

62年にCNCは、MECの行政下の組織になる。

CNCは様々な文化活動を提案し、全国規模いくつかは実現したが、予算不足が、大きく活動を制限した。

1966年年には、ジャーナリストのフランクリン・ヂ・オリヴェイラ(Franklin de Oliveira)が、大手新聞のグローボ(Globo)で、公共文化機関や、文化遺産の状況の悲惨さを告発するキャンペーンを行った。


1955年から65年の間、多くの他の文化機関も、国からの資金援助が
ない状態にあった。
進歩主義のJK政権で、
国の予算は、他の分野を優先させた。


映画の分野では、
1961年に設立されたGeicine Grupo Executivo da Indústria Cinematográficaが、予算不足の状況に対応。
初めは、内閣直下の組織であったが、
Ministerio da Industria e Comercioの管理下に移った。


"INC Instituto Nacional de Cinema"は、国内映画を発展させるための様々な規定
p67


1964年に軍事クーデターで誕生した軍事政権は、誕生当初から、文化面での心配を示していた。
検閲や、文化機関の廃止で。

1966 CFC

1968 Primeira Reunião Nacional dos Conselhos de Cultura

それ以前のConselhoと違いCFCは機能し、70年代半ばまでの全ての決定は、CFCの同意のもとに決定を下された。

CFCは、自分たちのプロジェクトを行う以外に、申請があったものへの資金支援も行っていたが、予算は限られたものだった。

Arthur Reis Presidência do CFC
1968年から1973年までCFCの委員長を務めた退任に際の講演で、
アルトゥール・ヘイスは、文化に関する国の有効な方向性がないことで、プログラムの実行が困難だったと話した。

映画に関して
66年に設立されたO Instituto Nacional de Cinemaは60年代はほとんど機能しなかった

69年設立Embrafilme Empresa Brasileira de Filmes S.A.

70年代に大きな役割を果たした

1970年代は、ブラジルにとって経済的発展と、国家体制の近代化の時代だった。
厳しい検閲と、政治活動の弾圧の下で

1970年に、MECの構造に変更が加えられ、Departamento de Assuntos Culturais(DAC) が設置された。
技術面での補佐機関で、補助的な活動を行う部門で、文化に特化した唯一の部門だった。
同じ条例で、IPHANの管理が保証された。
DACの設置で、CFCは、より機能的に役割を担うようになった。

1973年に、大臣のジャルバス・パッサリーニョ(Jarbas Passarinho)は、CFCに、文化についての国の行動指針を作りあげることを依頼した。
CFCは、同年「文化についての国家政策についての行動指針」と名付けられたドキュメントを完成させ、これは1975年に公表された「文化についての国家政策」(Política Nacional de Cultura)に繋がっていった。

ジャルバス・パッサリーニョ(Jarbas Passarinho)の在任期間に、Plano de Ação Cultural(PAC)も発効された。文化イベントの財源に関するプロジェクトだ。
1973年に発布されて、様々な分野での文化イベントが実現した。
MECの中での文化部門の重要性は高まり、PACは、Fundo Nacional de Desenvolvimento da Educação(FNDE)を財源にした。が、1960年代以来、文化に特化した基金の提案は実現していなかった。

文化大臣Ney Braga 1974年の講演にて、
ブラジルのような若い国は、
今日のような世界では、
文化遺産をないがしろに、ナショナル・アイデンティティーを弱める方向に進む可能性が非常に高い

Ney Bragaの在任期間に、
CNDA
...
などの機関を新設

Nay Bragaは、ガイゼル政権の社会発展の政策の目的の中に、文化を組み込んだ。共和制時代に、
文化の分野で、活動を方向付けるまとまった行動指針を完成させた唯一の政権だった。

Isaura Botelho
PNCは、過去の文化政策と決別した分岐点だった

ガイゼル政権は、政策のデタントの開始点である。
遅くゆっくりした幕開けの
政府は、芸術家や知識層へ好意をもって支援しようとし始めた。


Ney Braga
ブラジル国民の性質を尊敬すること
つまり、
ブラジルの文化と協力し、
ブラジル文化を支援し奨励し、
様々な国民の融合を目指して、地域的な特徴を保護していくこと







■1-1 ブラジルの文化政策の変遷

●1-1-1 ブラジルの文化政策の変遷

1930年に、Getúlio Vargasが、Ministério da Educação e Saúdeを設置。
初代の長官はFrancisco Camposで、
34年からGustavo Capanema 45年まで。

Gustavo Capanemaの時代は、
カルロス・ドゥルモンド・ヂ・アンドラーヂ、マリオ・ヂ・アンドラーヂ、ホドリゴ・メロ・フランコ・ヂ・アンドラーヂ、アニズィオ・テイシャイラ、フェルナンド・アゼヴェード、エイトール・ヴィラ・ロボス、マヌエル・バンデイラといった芸術家たちに協力を要請しながら、
国が文化に関わる制度を作りはじめた時代と言えるが、
文化に対する意識よりも、
教育、公衆衛生や社会保障を重視した。

Carlos Drummond de Andrade
Mário de Andrade
Rodrigo Melo Franco de Andrade
Anísio Teixeira
Fernando Azevedo
Heitor Villa-Lobos
Manuel Bandeira

1931年にConselho Nacional de Educaçãoが設置され、
その設立目的は、「ブラジル文化の水準を高める」ことだった。

ブラジル国民は、芸術作品やハイ・カルチャーへのアクセスと知識の不足に起因する低い文化水準にあり、このような状況を変える責任は国家にある。

MESが、文化に言及した初の法律であった
Decreto n 19.850, 11 de abril de 1931

ブラジルに文化に特化した行政機関が作られたのは、1935年のことだったが、
行ったのは連邦政府ではなく、サンパウロ市であった。
1935年に、Departamento de Cultura e Recreação da Cidade de São Pauloが設置された。
モデルニスタとの議論を経て、作られたものだった。

アントニオ・カンヂドによると、この試みは、文化活動を方向づけるだけでなく、特権階級から文化を解放し、人類の財産にする意識的な試みだった。

Departamento de Cultura e Recreaçãoを牽引したのは、マリオ・ヂ・アンドラーヂだった
1935-38
37年にクーデターがあり、政府の変化の中で、38年に退いた

連邦レベル
1936年に、Serviço do Patrimônio Histórico e Artísticoの設置に際し、
マリオは呼ばれた
文化遺産を守ることは、
モデルニスタたちの要請であった

この時代、
実業家の時代、
アシス シャテアウブリアンドAssis Chateaubriandが、際立っていた。
ラジオ局ネットであった
ヂアーリオ・アソシアード・グループの社長だった
サンパウロ美術館を作り、
サンパウロにTupiという最初のテレビ局を創設した。

45年に、年に3本の国内映画の上映を義務付けた。
その結果、国内で製作される映画の数は
47年に8作、
48年に14本、
49年に20本と延びていった。
義務化は、国内映画製作を伸ばした。

ブラジル地理院によると、
49年と50年を比較すると、国内製作映画のフィルムの長さが、
181218mから357565mと、2倍に伸びた。

どの映画を上映するかで、映画製作者と上映主の間で
激しい論争となったが、
50年には、年間6本の映画を上映が義務付けられた。

49年には、
Companhia Cinematográfica Vera Cruzが、設立され、ハリウッドに引けをとらない映画製作が目指されたが、
54年に同社が閉鎖されたことは、ブラジル映画の危機を象徴していた。

Ince Instituto Nacional de Cinema Educativoは、設立以来、精力的な活動を続けてきただ、
第二期ヴァルガス大統領政権(1950-54)に、大きく予算が削られ、同時期に、ヴァルガス大統領は、
教育性とは無関係に、長編映画に予算を投じた

これは、テレビの登場によって、教育的な映画の役割が代わったからであり、当時Inceを率いてた映画監督のフラーヴィオ・タンベリーニ(Flávio Tambelini)は、同組織の古い体質を取り除きながら、1967年に新設された映画機関
INC Instituto Nacional do Cinema設立の下地を作った。


演劇
TNC Teatro Nacional de Comédia 1956
Companhia Nacional de Teatro		1958


ポプリズモの時代

第二次世界大戦の連合国勝利を受けて、独裁者ヴァルガスは、1945年10月に軍の圧力により辞任した。
陸軍大臣から46年に新大統領として就任したヴァルガス派のドゥトラは、直ちに憲法制定議会を召集し、
大統領の直接選挙制や行政権の制限、司法権の強化などを定めた民主的な新憲法を46年9月に公布した。
これによって、都市労働者階級を基礎とする大衆動員的政治運動ポプリズモ(ポピュリズム)への準備が整った。
ドゥトラの政策は、親米反共主義の徹底と社会的間接資本の充実を特徴としていた。

1946年に民主主義体制が確立されると、
ブラジルにおける国家と国民の関係の政治的コンテキストが変わった。
何が「大衆的」であるかについての2つの大きな解釈が出来上がった。


まず1つめは、モデルニスタの伝統を再び立ち返りながら、過去のナショナル・アイデンティティー源を価値付けるという考えで、
2つめは、植民時代の過去は越えなければならず、
都市化と産業化は、新たなブラジル国民、新たなブラジル大衆文化をつくり上げなければならないという考えだった。

マリオ・ヂ・アンドラーヂが支援して、
CNFL Comissão Nacional de Folcloreは
Ⅰ Congresso Brasileiro de Folcloreを開催した。
マリオ・ヂ・アンドラーヂの提案を基に、
「Carta ao Folclore Brasileiro」
がまとめられ、それはブラジルのフォルクローレ運動の規範となった。

その会議での提案の中で、
フォルクローレの遺産や、大衆芸術(artes populares民芸?)を保護する連邦機関の創設への要求があった。

Ⅲ Congresso Brasileiro de Folcloreにおいて、
Juscelino Kubitschek大統領は、artes popularesの保護を目的にした計画を決定するためのグループの結成の意志を明らかにした。


Iseb Instituto Superior de Estudos Brasileiroの回りには、2つ目の意味で、「大衆」文化の発展に取り組む知識人が集まった。
大衆文化の目的は、国民に意識conscienciaを供給し、触媒になることだった。



MEC	Ministério da Educação e Culturaが1953年に出来る。

Divisão(部局) de Educação Extraescolar do Departamento Nacional de Educação e Cultura
この部局は、2つの役割があった、
学生たちが様々な活動を行うことを監視保護すること
普遍的文化を目指した活動を支援すること


Dutra、Vargas JK政権の時代に、国家は文化の分野で特筆すべき事業を行わなかった。
しかし、創造的な芸術活動が行われなかったわけではなく、モデルニスタたちは、はっきりとその偉大な名前と作品を残した。


45年から60年代中盤までは、
文化市場に直結した文化活動に、民間からの巨大な投資があった時期として特徴付けられている。

ヘナート・オルティス(Renato Ortiz)にとって、
1950年代から1960年代中盤までは、政治と文化の関係は補完的なものであると表現され、この意味で、文化人たちのグループは、文化を作ることを、政策を作ることを繋げた。





1946年から1960年の期間は、ブラジルにおける文化産業の発展の黄金期であると認識することができる。
しかしながら、そんな中で、推進役としての国家の直接的な存在感はとても限られたものだった。

1964年の軍事クーデターの以前から、60年代に入ると、政府は文化に対する政策を構築するこを目指したいくつかの行動を実行していた。

軍事政権期に行われた文化政策は、3つの時期に分けることができる。
1.1966年から1973年 CFC連邦文化審議会が大きな影響力をもっていた時期
2.1974年から1979年 公的機関の創立と改革が、文化行政に関わる制度化に貢献した
3.1974年からフィゲイレド政権の終わりまで(85年3月15日) 以前に作られた制度が国家規模で効果的に機能することを目指した

1985年から2002年まで、
政策の作成や文化に関わる資金支援における国家の存在は、次第に減少していった。
この約20年間に、メセナ法(leis de incentivo)が中心的役割を担い、
決定機関としての政府の役割は、除かれていった。

第1期ルーラ政権において、文化分野の再制度化と拡大のための新たな行動がとられるようになった。



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文化政策について議論する際、どんな議論においても、「文化」とは何かという議論が生じるが、

研究者の多くが、
市民の総意としての文化的必要性を満たすことを目的にしながら、
官(poderes publicos)、市民組織、発展を象徴する分野での共同グループなどが
連結された方法で、
考えられ実行された行動の集合であるということに同意している。

政策を作り上げるために、このような必要性の大きさは、
地域の文化的多様性を考慮するような、民主的な行政様式で測られることもあれば、
独裁的な民主的でない行政様式で決められることもある。

このテーマ(文化政策)の現代的は解釈は、公共政策の問題であり、
関わりある多くの団体の要請を必ず考慮し作り上げられなければならず、国家が一方的に決めてはならないものだということだ。


ブラジルにおける文化に関する公共政策の作成のプロセスのより一般的なビジョンを構築することである。


1988年に、ブラジルは新憲法を発布した、第215号には、文化的権利の完全な行使と、国の文化財源へのアクセスを保障し、文化的表現の普及を支援することが明記された。


1991年に、サルネイ法の替わりとして、
文化奨励国家プログラム(Programa Nacional de Incentivo à Cultura)を制定した法律(Lei nº 8.313, de 23 dezembro de 1991)が制定された。時の文化大臣であったセルジオ・パウロ・ルアネー(Sérgio Paulo Rouanet)の名前に由来し、一般的にはルアネー法として知られている。ルアネー法は、サルネイ法で顕在化してした問題点や不平等を正す必要があった。

Programa Nacional de Incentivo à Cultura

サルネイ法の廃止を、ルアネー法の発効の間に、サンパウロ市において、芸術家とプロデューサーによる、同市に文化奨励のメカニズムを獲得するための運動が起こった。その運動は成功し、1990年の12月に、サンパウロ市内におけるメセナ法であるメンドンサ法(Lei Mendonça:Lei nº 10.923,de 30 de dezembro de 1990)が制定されることに繋がった。
メンドンサ法は、サンパウロ市が前もって認定した文化プロジェクトへの支援に対して、IPTUとISSを控除できるという仕組みを持っていた。

Imposto sobre a Propriedade Predial e Territorial Urbana (IPTU)
O Imposto Sobre Serviços de Qualquer Natureza(ISS)


1985年から1992年にかけてのジョアン・ピニェイロ基金の調査によると、同期間において、州政府においては文化予算が年々増えていったのに対して、連邦政府においては反対に年々減り、文化省が設けられている全期間において、92年が最も少なかった。

ルアネー法は、3つの異なる文化奨励のメカニズムを備えている。制定当初においては、システムが定着するのに、多くの困難があったが、次第に文化活動の新たな推進力をなった。
1.支援(patrocínio)や寄付(doação)。メセナとしてよく知られている。
2.FNC Fundo Nacional de Cultura
3.Ficart Fundo de Investimento Cultural e Artístico

FNCには、資金の公正な分配を推進するという、設立意図があった。
1.州を越えたヴィジョンを強固にする。
2.文化遺産の保護に貢献すること。
3.集団の要求に応えるものであり、かつ、プロジェクトが自助努力で資金を集められる可能性が少ないプロジェクトを支援すること。

FNCは、申請者の意図との協力体制を確立しながら、
基金は、必要額の80%までの資金提供を行い、
残りは控除の形式で、提携組織によって支援されなければならない。

フランシスコ・コヘア・ヴェフォート(Francisco Correa Weffort)の在任期間、文化に関わる政策の導入や立案についての議論や提案に、政府は関わろうとしなかった。2つのメセナ法の仕組みを仕上げるための期間だった。
多くの国営企業を民営化したことに代表されるような、フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領が導入していた新自由主義の政策とも、この方向性は一致していた。

ルアネー法の改正の目的
 文化活動の活性化に関わる民間企業の行動を促進かつ拡大し、文化プロデューサーが民間の資金を獲得する能力を伸ばし拡大すること。

Luiz Roberto do Nascimento e Silva文化大臣の在任期間に、視聴覚法(Lei do Audiovisual(Lei nº 8685, de 20 de julhoe de 1993))が制定された。
この分野は、Embrafilmeの廃止以降、厳しい資金不足の状況が続いていた。
1992年に公開された、ブラジルで制作された映画は、2本だけであった。
視聴覚法は、視聴覚作品(主に長編映画)への支援に対する100%の所得税控除のメカニズムを規定し、その効果はすぐに現れた。
例えば、長編映画に関して、1994年には7作が公開され、1995年には12作の伸び、2000年には24本のブラジル制作の映画が公開されてた。

p117
Jose Alvaro Moisesによれば、
Weffortが在任期間の運営意図は、ブラジル文化の全ての多様性や複雑性の上の、単一のブラジル文化の必要性に応えることができる文化への資金面での支援システムと確立することだった。

そのために企業が文化支援の姿勢で、ビジョンを形成をすることを求めた。
そのビジョンとは、文化活動へのメセナ法を通じた資金支援は、マーケティング・クルトゥラルの視点と同様に、地域社会と企業との約束でなければならない。


企業についての政府の中心的な考えは、企業に、税制面での寛大な恩恵を提供することであったが、その恩恵は、企業が、国内の文化の発展により多くの資金を投入するような、制度環境や慣習を生むものでなければならなった。

政策は、条件を満たした支援への控除が規定しているが、企業に会計面での恩恵を提供するという限定的な意味をもつだけでなく、文化活動の創造を目指して、政府と文化プロデューサーと企業の間の協調する意識(uma mendalidade coletiva favorável)ができるような状況を生むことを目指していた。

1999年の改正で、100%控除されるプロジェクトの条件が追加
p117
どんなプロジェクトが支援されるのに相応しいかがはっきりした

政府がやったことは、
企業の興味の下で支援できるように、
公的な財を解放したことだった。

表から明らかなように、フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ政権の時代に、政府が発効した約3分の1の法がメセナ法に関わることであり、フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ政権のメセナ法への関心の高さがはっきりする。しかしながら、同政権は、文化分野への政府の行動について、提案をしたり、計画や行動指針をつくることをしなかった

この事実は、フランシスコ・コヘア・ヴェフォート文化大臣とフェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領の下の文化省で、メセナ法が文化政策になっていたことを確認させる。


●1-1-2 ブラジルのメセナ法

メセナとは〜
「mécénat」は、フランス語で「文化の擁護」を意味する。これは、ローマ帝政時代の初代皇帝アウグストゥスの政治的助言者であったガイウス・マエケナスの名に由来するものである。彼は経済的に恵まれないウェルギリウスやホラティウスといった若い詩人たちの後援者としても知られ、文化の擁護や育成に尽力した。

ブラジルで、文化に投資する政治の始まりに遡ると、1810年に、ブラジルで即位したポルトガル王ジョアン6世(D. João VI de Portugal)が、国立図書館を建設したことに辿ることができる。
20世紀の中頃から、知識人たちは、文化への支援の必要性について、熟慮していたが、彼らの考えが組織的に実行されることはなかった。公的な政策が欠けていた。当時の連邦の公的機関の戦略的な失敗である。
90年代の後半になって、ようやく文化への支援の公的政策が機能しはじめた。


アメリカでは、1917年に、メセナ法を採用した。文化に関わる投資額の減税の仕組みを持っている点で、ブラジルのメセナ法が参照した法律の一つである。この法律は、約70年の施行の後に廃止されたが、この法律は、アメリカにおいて民間が文化を支援するという基礎を作った。カーネギー、モルガン・スタンレー、ヴァンダービルトやフォードといった個人として文化に寄付を行った人がいるだけでなく、ロックフェラー財団、シカゴ大学、グッゲンハイム財団といった継続的な文化支援を目的とした団体は、この時代に起源を持つ。
 アメリカ政府は、第二次世界大戦後に、控除額の枠を拡大し、86年に、文化市場が確立されたとして、当初の控除額の枠に戻した。

このモデルは、ヨーロッパのモデルと大きく異なる。ヨーロッパでは、国による支援が中心である。
アメリカの法は、企業に強力に訴え、文化活動にせよ、フィラントロピー活動にせよ、企業家が支援や投資をすることを要求した。
1995年にアメリカの寄付は1兆500億ドルに達し(これは合計? それとも年間?)、その7%は芸術活動の支援や文化遺産の保護を目的に寄付された。
この合計額のうち、約80%は個人からされたものであった。(アメリカでは個人と企業で寄付控除のパーセントが違う)

アメリカはどうして国の文化政策に、このような寄付控除の仕組みを取り入れたのか。
1917年当初、文化的な財産が当時国内に何もなかったアメリカ合衆国に、ヨーロッパから文化財を買って、アメリカ国内に残していくことが目的だった。当時の富裕層は、合衆国国内に、「普遍的な宝」があったらと願っていた。当初の目的は、地域の文化のためではなく、ヨーロッパから文化財を購入し、コレクションを集めることであった。
実際、その政策意図は成功し、現在アメリカには世界各地からの芸術作品が集まっている。
ただ、この法も目的はこれだけではない。

衣類や飲料や流行といった、アメリカ的な文化が、世界の各地に広がり、それによってアメリカが、大きな経済的な利益を得ることとなる基礎も作った。

ブラジルにおけるメセナは、1940年から1950年に
企業家のフランコ・サンパリ(Franco Zampari)とフランシスコ・マタラッソ・ソブリーニョ(Francisco Matarazzo Sobrinho)が
サンパウロ近代美術館(MAM:Museu de Arte Moderna de São Paul、1948年)や、テアトロ・ブラジレイロ・ヂ・コメヂア(TBC:Teatro Brasileiro de Comédia)や、シネマテカ・ブラジレイロ(Cinemateca Brasileira、1948)、ヴェラ・クルス映画会社(Companhia Cinematográfica Vera Cruz、1948)を設立した。
また、フランシスコ・マタラッソは、1951年に、サンパウロ・ビエンナーレ基金と、サンパウロ現代美術館(MAC:Museu de Arte Contemporânea)を設立した。
MASP()の建設の際には、新聞社を中心としたメディア企業家であったアシス・シャテアウブリアンドが、新聞広告と交換で寄付を募った。
以上はサンパウロでのことだが、リオデジャネイロでも、リオデジャネイロ現代美術館(MAC-RJ:Museu de Arte Contemporâneo do Rio de Janeiro)の設立に際して、同様の方法が取られた。新聞社の取締役であったパウロ・ビテンコルチとニオマール・モニス・ソドレーの2人がMCA- RJの設立に深く関わっていたからである。
1950年からはブラジル国内でメセナ活動を行う企業も現れはじめ、他国籍企業のシェルや、ブラジル国内の政府系民間企業であるペトロブラスやブラジル銀行といった企業に代表される。

この当時の動機は良心からではなく、見栄から....


この素晴らしい一連のメセナ活動を、資源を定着させるために、法的に支援する仕組みを作る必要があった。

86年になって、ようやくサルネイ法が採用され、文化支援への所得税の控除を経験した。しかしながら、その仕組みは簡単に悪用できるもので、
90年にサルネイ法は無効になった。
提案者の簡単な登録で管理されるそのシステムは、汚職の温床となったからだ。 使い道のわかっていない資金の存在が次々に明らかになった。Jose Alves Moises教授は、110億レアルの使い道のわからない資金が、サルネイ法を通じて投資されたと、見積もっている。

"Um Olhos sobre a cultura brasileira"Jose Alves Moises

用途のわからない資金が450億レアルだとする説もある。


Lei Sarney(lei n.7.505,aprovada em 2 de julho de 1986)

サルネイ法の所得税控除の段階には3段階あった。
寄付に対して(para doadores)には100%、支援に対して(para patrocinadores)は80%、投資に対して(para investidores)は50%。
ブラジル初のメセナ法の有効期間内に、
サルネイ氏本人の発言によれば、4700件のプロジェクトが行われた。

90年に、コロルが政権につくと、政府の文化的機関は全て廃された。財源がなくなり、サンパウロの芸術家やプロデューサーたちは、法律の立案に動いた。この動きはサンパウロ市の文化支援に対する所得税控除の仕組みを取り決めたメセナ法であるメンドンサ法(Lei.n.10.923, de 30 de dezembro de 1990)として結実した。

1991年に、文化局の長官(Secretário da Cultura da Presidência da República)だったセルジオ・パウロ・ルアネー(Sérgio Paulo Ruanet)は、連邦レベルのメセナ法を成立させ、その法律は、以降にブラジルの多くの自治体で成立することになるメセナ法のベースとなっている。セルジオ・パウロ・ルアネーの名前に由来するルアネー法という通称で呼ばれている。
この法は、サルネイ法の失敗から、行政によるプロジェクトの審査過程と、各プロジェクトの予算審査の透明化の法整備が必要とされる中で立案されたが、プロジェクトの登録と内容の分析、決算報告において、大変に厳格なフォームを要求する内容になっている。
成立したが、同法に対する社会的な認知が低く、1992年から1994年の間には、個人からの支援はなく、72の企業が、同法を通じた文化支援を行っただけだった。

1995年にフェルナンド・エンヒキ・カルドーゾ(Fernando Henrique Cardoso)が大統領に就任すると、文化大臣にフランシスコ・コヘア・ヴェホート(Francisco Correa Weffort)が就任した。文化省の中に、文化支援委員会(Secretaria de Apoia à Cultura)が設置された。

それから、大統領や各大臣のルアネー法をによるメセナを促す動きが出てきた。特に大きな役割を果たしたのは、当時の通信大臣だったセルジオ・モッタ(Sérgio Motta)であった。彼の働きによって多くの通信系の会社がメセナに取り組み始めた。
プロジェクトの審査は脱官僚化し、申請者側も支援者側も仕組みへ素早くアクセスできるようになり、
またプロジェクトの提案や資金調達の活動の職業化も後押しし、
ルアネー法は、将来の成功のための基本的な特徴を備えた。

このような政府の重要人物のメセナへの後押しは、各州や各自治体の指導者を刺激した。

2001年には、準備法2228-1号(Medida Provisória n.2.228-1)は、国家映画エージェンシー「ANCINE」(Agência Nacional de Cinema)を設置し、視聴覚(audiovisual)作品の分野に大きな変化をもたらした。それとともに、映画産業を支援する多くの新しい仕組みが導入された。ANCINEが機能するのに多くの時間は必要とせず、近年の国内の映画産業の発達の中心となった。

2003年に、カルドーゾ政権からルーラ政権に変わると、文化大臣には、音楽家であるジルベルト・ジルが就任した。ジルは、ルアネー法の改正に着手し、民間も巻き込んだ大きな議論の後に、2006年に法令5761号で、仕組みをよりよくするための改正を行った。
ジルが行ったことは、文化省が取り扱う“文化”の範囲を広げ、また文化省の行動の範囲を広げた。文化に対する支援は、リーマンショックの影響による2008年の減少を除けば、2009年まで、はっきりと順調に増加してきた。

数のデータを挿入。

文化の歴史的社会的価値は、永遠に市場の中での商としての価値に優る。
今求めているのは市場と政府に支援される環境で、以前は知られることがなかった表現が、大衆に知られる機会が、構造的に増えことである。


Antecedentes do Marketing Cultural
Por Candido José Mendes de Almeida
http://www.gestaocultural.org.br/pdf/1-marketingcultural-candido.pdf

●1-1 ブラジルの文化支援優遇政策の歴史(含む:ブラジルの公的文化機関の歴史 )
 ○ "Guia do Incentivo a Cultura" Fabio de Sa Cesnik 内の「Introduca e Historico do Incentivo Fiscal a Cultura no Brasil」
 ○ CADERNOS DO NOSSO TEMPO "Cultura e desenvolvimento" Elizabeth Jelín, Enrique Iglesias, Hernán Crespo Toral, José Sarney, Lourdes Arizpe, Roberto Da Matta, Sérgio Paulo Rouanet 内の「Estratura Institucional de Setor Cultural no Brasil」
 ○ "dicionário crítico DE POLÍTICA CULTURAL" Teixeira Coelho