2月18日〜26日までの辺野古高江報告です。

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1. (転送メールより  改行しています)
田場祥子です。2月18日〜26日までの辺野古高江報告です。

18日:
辺野古の浜はキャンプシュワブとの境の鉄条網がすべて取り払われ、白い壁が立てられ、壁と壁の間に一部金網部分がありました。その先、海に向かって大きな土嚢がいくつも2段重ねで積まれていました。金網を通して見えたのはショベルカーで砂を袋に詰め込んでいる風景でした。

その壁より少し辺野古の浜側に簡単な造りの立て看板のようなものにリボンを貼り付けて抗議を表していました。

詰め込まれた袋は波打ち際に並べられ防波堤の役割をするようです。詳しいことは判りません。
もう辺野古の浜からはキャンプシュワブ側の浜は見ることができないということです。

その壁も前の有刺鉄線より少しシュワブよりに建てられているので壁のこちら側もシュワブの土地があり、壁ぎりぎりに行くと監視カメラで見張っているので捕まるとかそんな話もあるようですね。

3日目、2月20日(日)に高江に向かいました。高江は雨模様でした。N4ゲート(受付)から県道70号線を北上してN1ゲートに行くとテント側(辺戸岬に向かって右側)は赤茶色のネット(動物の侵入を防ぐ網)で覆われていました。土嚢の搬入が始まっているので搬入阻止のために張ったものです。支援者から送られた横断幕を横に繋いで固定し、その上にネットを縦2段に張ったのですがテントを越して土嚢(7kg)が投げ入れられるので、さらにその上にもう1枚ネットを張ったそうです。ガードレールがないところを補強するのに1日費やしました。

21日、朝7時半より補強作業開始
防衛局を待っていてもなかなか現れず、南のN4ゲート(N1テントから4キロ)の方に動きがあったとのこと。N4では木がだいぶ切られているそうです。(私はN1にいます)

12時を10分ほど過ぎた頃北の安波ダムを防衛局の一団が通過と情報が入りました。10分後防衛局の車を先頭に一行が到着。このメガネの人が辺野古浜通信で知っていた課長さんだ。10tも土嚢を積める大型ダンプや2t車、4t車、ユニック、後で聞いたところではこれがいつもの1セットのようです。

ダンプを止めさせまいと支援者は中央ラインに等間隔に立ちます。ダンプは反対車線にとどまっていられないので
先に進まざるを得ず、それに合わせて支援者も走ります。途中ででとめさせないで走り過ぎてもらいます。後方では作業員が多数車から降りて、前の週に作業場所に入れられず道路において行った土嚢(網がかかっています)を森の中に入れる入れないの攻防が始まっていました。

正面ゲートには防衛局が造った頑丈な門扉があります。そこの真ん前には支援者の車を2重に止めてあるので入れません。その前後も作業車が入れないよう支援者の車を前後15センチ以下で空けて止めています。ほとんど神業か?

支援者の数が多くないので作業員は前に行ったり戻ったりで支援者をかく乱して突破口を探します。やっと見つけて入り込んでもゲートからは遠く離れてしまい、彼らも土嚢運びが大変、私たちも走りまわされて大変でした。

午後瑞慶覧長敏衆議院議員が来訪、「与党として心苦しいが自分は反対、真部防衛局長に工事の中止を申し入れてきた」が、局長は自分の権限ではないといったそうです。

2tダンプ1台分の土嚢が搬入されましたが、それ以上は下ろせず帰って行きました。夕刻、西表の方よりいただいたイノシシ(西表では「カマイ」というそうです)でN4ゲート前でしし鍋とチャンプルーをご馳走になりましたした。臭みがなく、やはり「豚の仲間」と納得しました。

住民の会の方いわく「ネット作戦成功(網)、世界中の人がネットで観ている」「お互いに人間なのだから口汚くやり合うのはやめよう」もっともなことです。煽らず、煽りに乗らずにいきましょう。沖縄の歴史を語り沖縄だけがなぜ
引き受けなくてはならないのか、若者たちに人殺しの手伝いをさせてはならないと語りかけましょう。強い言葉をできるだけ使わずに接しようと皆で話し合っています。

22日も午前中は補修作業、途中ダンプの上に作業員に乗られ土嚢を車の上からネット越しに投げいれようとされ、私の頭にも敗れたところからばらばらと降ってきました。年寄りに泥をかけてどうするのと抗議、投げてはいけない、下におろすことを県警の前で約束させました。高江のブログによるとN1地区、午後1時前頃に沖防車3台、作業員の車両7台、10トンダンプ1台、4トンユニック1台、2トンダンプ3台、総勢約80名で作業に来た。
県警交通課のバス1台、パトカー1台も来たそうです。(現場で1か所で守っていると全体の様子が判りません。)

この日は7kgの土嚢を10袋ぐらい下ろされたでしょうか。

23日、朝5時半、もうひと眠りと思ったところへ突然の沖防南下の知らせで飛び起きました。防衛局が大挙して北からやってくる。もう近くまで来ているというのです。あわてて布団もあげずに現場へ。

6時半に沖防・作業員の車両20台、10tダンプ3台、4tユニック1台ほか、100名ほどの人員が到着。10tダンプ2台分が下ろされました。それを搬入、させる、させないで攻防が続き、私もあっという間にガードレールに押し付けられてしまいました。2×2.5(cm)大の青あざが右の上腕についていました。もう4日が経とうとしていますがまだ痛く、そこだけ熱を持ち、あざの色は少し薄くなって広がっています。この程度で済んでほっとしました。

作業員に危ない作業をさせるのにヘルメットや軍手も装備させず、子ども・・・高3でまだ卒業していない子たちが使われているのです。防衛局の二人の職員にあなたは安全なところにいるのだからヘルメットを脱いで彼らに貸してあげたらどうですかといっても眼をそらすだけでした。

沖防の職員にあなたたちの今日のような早出の割増賃金は?と聞いたところ、「まあ2割増しでしょうね」という答えでした。作業員の人たちにはどのくらいの割り増しが出るかしら、まさかただの時間給という形にして早出をうやむやにさせないでしょうね。5割はあげないと・・・。防衛局職員「私たちが雇っているのではないので・・・」 防衛局が国民のの税金からお金を払っているのに。彼らを使っている親方風の人にきいたところ「じゃあ3割増しか」(この人は出すつもりはないと見ました)。 作業員に3割増しで出るかきちんと確認してみてね。ただ働きにならないようにと話しかけました。

数慶子参議院議員が来訪、沖防に工事を止めるよう要請しました。残りの10t4台は下ろせずに12時前に彼らは現場を離れました。

午後、海勢頭豊さんが来られ、ギターを爪弾きながらあの「喜瀬原(きせんばる)」を歌いました。前にも辺野古のテントの前で聴いたことがありますが大好きな歌です。1972.12.9のコザ暴動「コザ基地ロック」そして「月桃」。「非戦の聖地にアメリカを引き入れて戦争の地として・・・許されるはずがない。軍隊に守られてきた歴史はどこの国にもない。九条に守られてきたその恩義も忘れて暴力を持ち込んで・・・。」静かですがきっぱりと語りました。

24日(木)この日は早くから待てど暮らせど沖防は姿を現しませんでした。イノシシのブ—坊が現れ写真タイム。国会議員や名護議会の動きを見てあちらは作戦タイムのようでした。

25日(金)前日休んだので強行が予想されるので午前6時までに現場へ。7時ごろ大挙してやってきました。防衛省職員と作業員で100人以上です。彼らの車も20台ほど、急を聞いた人たちがダンプとユニットをスクラムを組んで囲み作業員を車に乗せまいと頑張っています。防衛課長はイライラして同じところを行ったり来たり、ついていくと露骨にいやな顔をみせます。議員が来ると表情が変わるようです。

支援者が車の周りに結集し後方が手薄になっていたのを見たのか、作業員は2日前に道路の反対側の藪に突っ込んであった土嚢をとり出して作業場側の森の中を手渡しリレーで運んでいました。3人ほどダンプとユニットの土嚢の上に乗り込まれましたが受け取る作業員が車に近づけないのでお手上げ状態でした。日差しが強く、双方とも疲れ気味です。

膠着状態がだいぶ続いた後、玉城デニ—衆議院議員が来訪。国会で3月から6月の工事の中止要請をすると約束して帰った後沖防も帰って行きました。今日はやはり途中で帰らなくてよかった。(当初の予定は24日に東京へ) とうとう2泊延泊です。

今日ほど「人がいれば止められる」を実感したことはありませんでした。26日(土)7時15分(土曜・休日・祝日ダイヤ)のバスで名護に向かいました。

今度は7月、それまでは来られないでしょうね。暑いけれどまた体力をつけて緑輝く高江へまた戻ってきましょう。
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