世界が見えた世界・11話


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 階段を下りると、混沌とした香りが鼻腔をくすぐった。くすぐるっつーか抉った。
「美優のやつ、失敗しやがったな」
 呆れ、それでもまあ進歩はしているしその辺は認めないとなぁなどと胸中で呟きながら扉を開ける。
「よう、もう二人とも起きてたのか」
「おはよー兄貴。今日は昼まで寝てるかと思ってたけど」
「せっかくの休日を寝て過ごすのはもったいないだろ」
 ま、それはそれで素敵な過ごし方だけどな。それよりも今問題にすべきはこの刺激臭だ。
「美優はどのくらいキッチンに閉じこもってんだ?」
「二時間……くらい?」
 えーっと、今八時半だから、大体六時半くらいからか。嘘こけ。
 ほれほれ本当の事を言いなさい。言わないと今漂ってくる匂いの元を全部お前の胃袋に流し込むぞ。
「……五時くらいに、すでに物音が聞こえてました」
「美優ー!!!!」
 うきゃあぁぁぁっ!! などという悲鳴と共にどんがらがっしゃんと何かが崩れる音。
 ため息ひとつ、俺は魔窟と化しているであろうキッチンへと踏み込んだ。

 


 俺は人の努力を否定したりなどしない。頑張ることはいいことだ、うん。方向性を間違っていたり度を越していたりしなければ、の話だけど。
「というわけでジャッジタイム。本日の美優は度を越していると思う人」
 判決、二対一により有罪。
「ふ、不当採決だよぉ!」
「ほほう……じゃあお前の背後に広がる天外魔境はどういうことだ?」
 朝っぱらから美優に占拠されたキッチンは、その様相を大きく変えて今や――ああいいや、なんか説明したくない。ていうかこの状況を説明できる人間がいたら尊敬する。
 水が重力を無視して宙に浮いてんだがどうやってんだこれ。魔法か、おい。
「美優、お前の努力は認める。確かにお前はここしばらくでその料理の腕を伸ばし、確実に進歩を遂げている」
「だ、だよね、だよねっ!?」
「しかしそれに伴って失敗時の被害も乗数的に拡大しているのはどういうことだっ!?」
「そ、それは、その……」
 おう、なんだ言ってみろ。
「ち、ちゃれんじスピリット?」
「いやアタシに聞かないでよ……」
「だからって二人揃ってこっちを見るな! 一番聞きたいのは俺なんだよ!!」
 結局台所を片付けるのに一時間近くかかってしまった……。
「だからさぁ、お前はあまり時間をかけすぎると逆に失敗するんだってば」
「で、でもほら、酢豚はおいしくできたよっ!!」
 ああうん、確かにこの酢豚はうまい。ちょっと感動してしまうレベルだ。店で出てきても俺はがっつり食うね。
「けど何で朝から酢豚よ」
「なんかいつの間にかできてた」
「酢豚か? これ本当に酢豚なのか!? 実は何か得体の知れないものなんじゃないだろうな!?」
 今まで自分が食べていた酢豚(?)を凝視する。大丈夫か、これ実は魔界の生命体だったりしないだろうな?
「兄貴、ちょっと疑いすぎだよ」
「といいつつなぜこっそり皿を俺のほうに寄せてきているのか詳しく説明してもらおうか」
 美羽は答えず、ただ親指をぐっと立てていい笑顔を浮かべた。敵前逃亡か貴様っ!
 食卓をはさんで火花を散らしていると玄関のチャイムが鳴った。誰だ、こんな時間……て時間でもないか。でも誰だ?
「あ、たぶん陽菜ちゃんだよ。さっき事情を話しておいたから」
「事情って?」
「美優が朝食作るために台所に入っちゃったんですよーって。そしたら笑って『それじゃあ朝ごはん作ってもっていくよ』だって」
「あ、あれぇっ!?」
「それは助かる。さすがに酢豚(?)だけじゃ腹は満たされないしな。片付けで疲れて何かを作る体力もないし」
「いやほんとほんと、持つべきは隣に住む幼馴染だよねー」
 美羽が駆け足で陽菜を出迎えに行く。美優の視線がこちらへ向いてきた。はてさて、何か言いたいことでもあるのだろーか。
「ね、ねぇ、その会話、おかしいよね、ね? 何でワタシがご飯作ってるのにそんな話になるの?」
 なにやら美優が必死になっているけど聞こえません。あーあーきこえませんきこえませーん。
 都合の悪い事実には耳を貸しませんとも、ええ。
「大丈夫だよお兄ちゃん、かえって耐性がつくよっ」
 ……何に対しての? て言うかそれ認めてるぞ、自分の製作物の毒性。
「みんなー、おっはよーっ! 待ちに待った陽菜ちゃんのご登場だよ、オマケつき!!」
「げほっ! ごほっ! がほっ!!」
 青い顔をしたエーデルの襟を引きずりながら陽菜が賑やかに入ってきた。すごい、完全に気道が絞まっている。
「陽菜、そいつはなんだ?」
「朝散歩してたら見つけたから拾ってきたんだよ、相変わらず不健康そうな顔してたから!」
 ナチュラルに酷いこといわれたアホ王子涙目。不健康というよりは貧弱なだけだと思うけど。
 じたばたと暴れているエーデルの動きがだんだん鈍くなってきた。
「陽菜、そろそろ放したほうがいいんじゃないのか、それ」
「え、何が?」
 本気で理解なさっていない模様。
 別にエーデルがどうなろうと知ったことではないけどうちで人死にが出るのもいやだし陽菜を殺人犯にしてしまうわけにもいかない。
「ほら、お前が引きずってるエロい物体だよ」
「んにゃっ? のぉぉぉっ!? え、えーちんが何者かの手により瀕死の状態にっ!?」
「俺の目の前に犯人がいるんだが」
「えぇっ、美羽ちゃん!?」
「なぜそこでアタシが出てくるんですかっ!?」
「んー、流れ的に?」
「流れでいきなりアタシを殺人未遂の犯人に仕立て上げないで下さい! どこから見ても陽菜ちゃんのせいでしょう!」
 陽菜はおもむろにエーデルから手を放すと、すすす……とすり足で俺の隣まで寄ってきた。
 そして、びしぃっ! とポーズを決める。
「今えーちんに一番近いのは美羽ちゃんだよ! つまり犯人は美羽ちゃ――い、痛い痛い痛いよー!?」
「ええもう犯人なら犯人らしく強硬手段に出ることにいたしましたので……!」
「ヒロ君助けてー!!」
「えーっと、あ、これが持ってきてくれた食事か。ありがたく頂くぞ、陽菜」
「華麗にスルー!?」
 あいにくと怒りの美羽には歯向かうつもりなどゼロだ。勝ち目云々以前に勝負にならない。
「げほっ、ごほっ……と、言うかだね。君たちは僕のことをもっと気にかけるべきではないのかい?」
「殺しても死ななそうだしなぁ……」
 貧弱なのに。
「大体君、なんだい? 唐突に人のことをエロいなどと……失礼にもほどがあるだろう!?」
「おいおい、勘違いするなよ。俺は褒めたんだぜ?」
「……何?」
「つまりな、エロかっこいい=セクシーって伝えようとしたんだよ。んで、エロかっこいいって長いだろ? だから『エロ』かっこ『い』いっていう風に文字を取って略したわけだ」
 ま、嘘だけど。
 しかしエーデルはそんなほら話を真に受けたらしい。
「ふむ……そうか。エロかっこいい……セクシー、エロい、か。ふ、貧相な庶民にしてはなかなかのネーミングセンスだね!!」
 なにやら一人で納得している。
 とりあえず新学期からのあだ名はエロ王子で定着しそうだな。ていうか定着させてやるから覚悟しとけ。
 俺とエーデルは互いに不敵な笑みを顔に浮かべてにらみ合う。くくく、庶民の力というものを思い知らせてやる。
「お兄ちゃん、ワタシもエロい風味に……」
「なれないっつーかならなくていいから」

 


 そんなこんなでなぜだか大所帯での食事になった。
「っつーかエーデルはこっちのほうあまりこないだろ。何でノコノコ出歩いてんだよ」
「僕だって散歩くらいはするさ。それに……」
 エーデルが目を細める。
 この中では、俺にしかわからない意味を、込めて、
「あれから、ちょうど一年だからね」
 言った。

 一年。その言葉が表すものは、大きい。
 一年前の八月三十一日、世界規模で起こった天変地異が、日本時間の九月一日になった途端にその全てが収まった。
 原因不明の大災害。地震に津波、吹雪竜巻火山の噴火。本気で世界の終わりを想像した人も、いただろう。
 ……多くの人が、犠牲になった。
 それがほんの数人の人間によるものだということを知っている人間は、少ない。事実、今も世界中の研究機関や学者や、魔法使い達までもが原因の解明に奔走している。二度とあんなことが起こらないように。

 ニュースでは、ちょうど一年となる今日を祝って世界各地で催し物が行われていると言っていた。まだ完全に全てが元通りになったわけではないし失ったものも多いけれど、それでもこの一年、この世界は多くのものを取り戻してきた。
 今日は平日で本来なら学校があるべき日なのだが、そんな日なので休みになっている、というわけだ。
 ……俺としては、ありがたい話だ。
「それにしても、あれから一年かぁ。長かったようで、短かったよねぇ」
 陽菜はしみじみと天井を見上げた。
「まさか二学期始まってすぐに旅に出るなんて言い出すなんて想像もしてなかったもんね」
 うんうん、と姉妹が揃って深く肯いた。
「まったくだ。世話をするこちらの身にもなって欲しかったものだよ、まったく」
 偉そうに髪をかき上げるエーデルはそういうが、お前自分から買ってくれたじゃん、お前の世界の地理や風土の勉強。その辺のことは素直に感謝してるんだがなあ。
 口が裂けても言わないけど。
「まあこうしてヒロ君がちゃんと無事に帰ってきたからいいけどさー」
「お前それこの前からずっといってるのな」
「いいじゃない、嬉しかったんだもん。嬉しい事は何度思い返しても嬉しいんだよ」
 そーね。ありがとね。
 最後の旅を終えて帰ってきた俺を、美羽や美優だけでなく、陽菜や貴俊も盛大に祝って出迎えてくれた。新手の嫌がらせかと思うくらいに盛大なものだったので正直思い出したくないが。何で家の前に戦車が止まってて号砲鳴らしてんだよ意味わかんねぇよ。
 ま、帰る家があるってのは、うれしいことだけどな。
 ふと、視線を感じる。
 そちらをむくと……エーデルと、視線があった。ああ、わかってるってば。わかってるんだよ。
「あー。その話はまた今度な! 俺今日学校に行かないといけないんだよ、もう行かないと。あとお前はもう出てけ」
 そういいながらエーデルを引き摺って居間を出る。
「あ、ちょっと待ってよ、アタシも行くから!」
「何かあるのか?」
「生徒会には、色々とね」
「あ……わ、ワタシも行くよ」
 なんだ、結局全員出撃か。
「陽菜はどうする? どうせだし、一緒に行くか?」
 陽菜は顎に指を手を立てて考えて――いや、これは、
「ううん、陽菜はいいよ、ヒロ君」
 考えている、ふり。
「大事な用事、なんでしょ?」
 まるで心を見透かすようなその視線に、俺は何も答えられなかった。
「それじゃあアタシは制服に着替えてくるから先に玄関で待っててよ」
「あ、ワタシも」
 二人は階段を駆け上がっていった。
「……んじゃ、行ってくる。留守番、頼んでいいか?」
「はい、頼まれたよ。だから、ゆっくりしてきてね。陽菜はちゃんと待ってるから、ヒロ君を」
「ああ……ありがと」
 俺は小さく笑って、部屋の扉を――
「ヒロ君!」
 呼び止められて、中途半端に開いた扉から顔を出した。陽菜は座ったまま、真剣な顔で、
「陽菜たち、一年前に何もなくして、ないよね?」
「…………」
 何かを、感じているのか。
 陽菜の魔法の影響か、彼女は特に世界の変化に敏感だ。他の誰にも理解できない変化を感じ取っていたとしても、不思議ではない。だから、
「……ああ、大丈夫」
 まだ、何もなくしていない。これから、失いに行くんだから。

 一年前のあの日。ユリアが消えた後、世界は少しだけ残酷な顔を見せた。
 ユリアという存在の消失。その結果、ユリアはこの世界に存在していなかったことになっていた。この世界の人間でユリアのことを覚えていたのは、た俺だけ。レンとエーデルは異世界に属していたおかげか、この世界の干渉を受けることはなかった。
 なぜそんな事になったのかはわからない。こんな時乃愛さんにでも尋ねれば答えが返ってきたのだろうか。だが彼女の姿も、この一年間一度として目にした事はなかった。

 俺は静かに、居間の扉を閉じる。
 何も知らないはず。でも、何かを感じてくれたんだと思う。それが純粋に、嬉しかった。
 無言のエーデルと共に玄関の扉を潜る。照りつける白い陽射しに顔をしかめた。
「世界は――」
「あん?」
「世界は、あれだけのことがあったというのに、ほんの一年でこれほどまでに元の姿を取り戻す」
 ……何を語っていらっしゃるのでせうか、この人は。
「それに対して人の心の複雑で単純な事だとは思わないかい? 一年もかけずに新たな想いを抱くこともできれば、何年経とうとも想いを断ち切れないこともある」
「人間がそういう風にできてるんなら仕方ないだろうさ」
 日差しに手をかざす。どれだけ地上が騒がしくなっても、この空だけは一年前と何も変わらない。
 そのことが少し、嬉しい。
「僕は永遠に君という存在と相容れないだろう。僕は君のことが大嫌いだ」
「そりゃ気が合うな。俺もお前のことはこの上なくだいっ嫌いだ」
「だが君のその想いだけは認めよう。誰が忘れても……たとえ君自身が忘れても、君がその一途な想いを背負って生きてきたそのことは、この僕は忘れない」
 なんとなく、こいつはそれが言いたいがためにうちにきたのかと、そんな風に思った。
 尊大で自己中心的で人の話を聞かないやつだったが……まあ、悪いやつじゃない、よな。
「ま、俺もお前のことは認めてやらなくもないさ。お前がいなけりゃ、この世界の今はもしかしたら違うものになってたかも知れないしな」
 エーデルは不満そうにふんと鼻を鳴らすと、そのまま歩き出した。
「? お前学校に帰るんじゃないのか?」
 ちなみに、今はエーデルは学校の敷地内に立派な一軒家を建ててそこに住んでいる。許可が下りたらしい。なんでやねん。
「ヒナ嬢が言っていただろう。ゆっくりしてくるといい」
「……ああ」
 礼は言わないでおいた。なんとなく、アイツはそれを嫌がるような気がしたから。
 歩くエーデルが角を曲がりその姿が見えなくなったとき、玄関が開き二人が並んで外へと出てきた。
「おう、遅いぞお前ら」
「こ、これでも急いだんだよ~」
 わたわたと駆け寄ってくる美優。きょときょとと辺りを見回す。
「サフィールさんは?」
「さあ。どっかいった」
「適当ねぇ」
 適当で結構。肩肘張って生きるのは疲れる。
 俺達は並んで歩き出した。
 そういえば、この一年で俺達の生活の中で大きく変わった部分もある。そのひとつが学校だ。この春から、学校にいわゆる通学路というものが生まれた。
 体が沈むような浮くような感覚に包まれ、瞳を開けば長い坂道の入り口だった。去年までなかった『通学路』も、今ではすっかりおなじみの光景だ。とはいえ、通るたびに何か建物が増えていくのを見るのはやはり面白い。ここがある程度形になるのは、まだ随分と先だろう。
 今までは学内に直接転移していたが、今では学校の前の長い道の入り口に転移させられる。なぜこんな風になったのかといえば、これも一年前のあの災害によるものといっていいだろう。
 後ろを振り返る。すっかりと平穏を取り戻した町並みが、そこにはあった。
 一年前のあの光景を、俺は忘れることはない。特に二度目に礎を解き放ったのは俺だ。その影響がどれほどのものだったのかはわからないが、それが原因で何かを失った人も、やはり、世界にはいるんだろう。
 だから、この平穏な風景は俺にとっての免罪符であると共に、罪の証でもある。この痛みは少しばかり、重い。けれどこの痛みを忘れないようにしようと思う。
 その痛みから続いているのが、この長い坂道だと思うから。
「この景色も、随分と見慣れてきたわね」
「うん。屋上から見る街も好きだけど、ワタシは坂道の途中から見る街のほうが好きかな。出店でお兄ちゃんがたこ焼き買ってくれたし」
「まったく、あんまり甘やかさないでって言ってるのにねぇ」
「とか言いつつしっかりとカキ氷おごらせたのはどこのどいつだこんちくしょうめ」

 話題になっているのは今年の文化祭の話だ。今年の文化祭は坂道に街の有志の出店まで並び普段以上の大盛況だった。
 この期間に合わせて旅から帰ってきていたのだが、旅よりもずっと疲れる日程だったのはどういうことなのだろうか。
 とはいえ、生徒会副会長としてこれまで以上に活発に活動する美羽と、おっかなびっくりながらもそれを懸命に助ける妹達の姿を見ることができたのは僥倖だ。
 俺が過保護にしすぎていたことを強く思い知らされた。俺が守るなんて息を荒くしなくとも、二人はちゃんとやっていける。俺は必要な時だけ、ちょっと手を貸す程度でいいのだ。
 俺の存在なんて、そのくらいでちょうどよかったのだろう。全部を無理矢理背負おうとする必要は、なかったんだ。

 美羽はきょときょととあたりを見回している。
「一応ここで待ち合わせなんだけど……」
 待ち合わせ?
 はて、と首をかしげた時、二人が現れた。
「うぃーっす、乙カレー!」
「久しいな、三人とも」
「貴俊、レン」
 待ち合わせてたのは二人だったのか。
「お前も一緒に見回りすんのか? 意外としっかり仕事してんだな」
「ふっ……これも、愛の力の為せる技だ。お前が帰ってくる頃にゃ面白可笑しく舞台設定しておこうと思ってな!」
 ああなるほど、超絶巨大に余計なお世話か。
「美優、塩撒いとけ」
「え、う、うん!」
 ごすがすごすぅっ!!
「ぎゃぁぁぁぁっ!?」
「うぉお? い、岩……いや、岩塩かっ!?」
 大量の岩塩が貴俊に降り注いでいた。
「いやまて、何でお前岩塩なんか持ち歩いてるんだっ!?」
「え……は、伯方の塩のほうがよかった?」
 ちゃうねん、そういう意味で言ったんじゃない。つかポケットに塩を常備しているのがおかしいと思う。冗談で言ったのに。
「けどまあしかし、攻撃力は必要ないんだし伯方の塩のほうがよかったって言えばそっちのほうが――ってどばーってかけてる!?」
「あ、あれ? だ、だめだった!?」
 だめっていうか。いや確かに俺が言ったんだけど、本当にするとは思わなんだ。て言うか俺撒けって言ったんだよ? そんな袋さかさまにして五袋も六袋もぶっかけろとか言ってないよ?
「お、俺はもうだめだ……塩塗れになって干からびるんだ。あ、あとはみんなに任せて、俺はここで大翔の膝枕で休んで――」
「美羽、水ぶっかけろ」
「言われなくても準備できてるから」
「ごぼがばごべ!!」
 うわー、俺地上でおぼれそうになってる人初めて見たわ。水揚げされた鯉みてえ。爪先サイズの可愛げもないが。
 二分くらいで静かになった。
「それじゃあアタシ達は見回り行ってくるね」
「ああ、気をつけて」
「い、行ってきます!」
「美優、張り切るのはいいけど緊張しすぎるのもよくないぞ。それと、美羽のことを頼むぞ、こいつがもし暴れてる人間を勢い余ってついやっちゃいそうになったらあががががっ!?」
 脇腹が痛い! 刺す様な締め付ける様な痛みがっ!?
「あーにーきー? ちょおぉっと、静かにしようかぁ?」
「静かにしたくてもお前の攻撃が……あああああ、します、いつまでも静かにしていますからっ!!」
 ようやく解放された。な、なんだったんだ今の痛みは。かつて味わったことのない種類の痛みだった……。
 どこであんな技術を身につけてくるんだろうなぁなどと思いながら、貴俊を引き摺って歩く美羽とその後ろをついていく美優を見送った。
 ……俺の周りの男は女に引き摺られる運命にあるんだろうか。となると次は……俺?
「? どうしたヒロト殿、何か怯えているように見えるが」
「ああいや、なんでもない」
 いや、大丈夫だよな、うん。レンは理由もなく俺のことを引きずりまわしたりなんか……理由、理由、ねぇ。
 今日という日を考えるとその理由に心当たりができるんだんが。
「えーっと、久しぶり、だな。文化祭が終わってからだから二ヶ月ぶりくらい?」
「およそそのくらいかな。お元気そうで、何よりです」
 レンの恭しい礼に背中がむずかゆくなる。
「なあレン、その敬語やめない?」
「従者が主に礼払うのは当然のことですが」
「だったらその意地悪な目をやめてくれ」
「了解した」
 ふっとレンは笑顔を浮かべると、いつもの態度に戻ってくれた。
「この二ヶ月はどうだった? 顔つきは多少変わっているようだが」
「人数が一人減るだけで負担が全然違うってのがよくわかったよ。ま、面白かったは面白かったけどさ」

 文化祭の前までの旅はいつもレンと一緒だった。エーデルに基本的な知識は叩き込まれたがさすがに貴族が旅にまでついてくるわけがないし、俺もそれを頼むつもりはなかった。そんな俺の面倒を見てくれていたのがレンだ。
 正直最初は一人で旅をするつもりだったのだが、いやはや、考えが甘かった。
 そんなこんなで旅をして、二ヶ月前にようやく一人でも大丈夫だろうと太鼓判を貰ったわけだ。

「それで、無用な責任感も少しは和らいだか?」
「相変わらずストレートな物言いだな……まあ、自分なりに解消はできたと思うよ」
「ふむ。ま、この世界で事の顛末を正確に把握しているのは我々しかいないのだから、あまり気負う必要はないと思うが」
 なぜレンやエーデルが俺とユリアの事情に詳しいかと言えば、実況生中継されていたのだと言う。エラーズによって。どうも感知の魔法全開で覗き見していたようだ。
「誰かが知っているから償うんじゃない、俺が納得するために償うんだ」
「わかっているさ。そういうあなただからこそ協力した」
 そう言って、レンは紋章を取り出した。ん、どこかで見たやつだな。えっと、これは……
「騎士団の紋章?」
「それがあれば騎士団寮に自由に出入りできる。団長がぜひとも一度全力で手合わせしたいそうだ」
 人というか熊にしか見えない騎士団長の姿を思い出す。うん、全力で拒否願いたい。
「けど俺は……」
「姫様のことは関係なくあなたという人間に対しての要望だ、気にすることはない」
 そこまで言われると、断り辛いものがある。
 けどなあ、あの騎士団だろ?
 一日訓練に参加させられただけで三日間まともに動けなくなった、あの地獄の。体力よりも、精神的にきつかった。詳しく思い出すと胃の中のものが口からナイアガラリバースするので思い出さないでおくが。
 ていうかさ、もう体力的精神的に限界の人間を魔法で操って意地でも動かすって悪魔のすることだよね?
「まあなんていうか、過ぎてみれば全部思い出になるのが怖いな」
「出来事とは得てしてそういうものだ。辛い苦しいと思ってみても、過ぎてみればそれでも良かったと思い返せる。もっとも、世の中には都合のいいことしか思い返そうともしない人間もいたりするが」
「ええほんとにねぇもう!」
 ちくちくと人の弱点をピンポイントで! そういうことすると泣いちゃうぞ!?
「……っと、それよりも今日は俺に会いに来たのか?」
「ああ、今日が最後、なのだろう」
「そうだな、今日で最後だ」
 息と共に感慨を吐き出す。虚空に溶けた気持ちは、果てない空へ上っていく。限りなく薄く透明に広がりながら、それでも、消える事無く。
「長かったようで、短かったな、やっぱり」
「ヒロト殿……」
 レンの視線を避けるように空を見上げ、歩き出す。学園までは、もう少し歩く必要があった。

 巡った世界の数は両手の指の数を超えた。その中にはユリアの世界も入っている。
 というよりも、この旅の目的の大きな目的のひとつだったのだから当然だ。
 ユリアの父――つまりは一国の王様なわけだが、その人にユリアの最期を俺の口から伝えたかった。俺の見た、感じた全てを知って欲しかった。それがようやく叶ったのは、およそ半年前。ファイバーの故郷を訪れた直後だったか。
 彼は静かに俺の話を聞いてくれた。すでに詳しい報告は受け取っていたはずだが、それでも俺の言葉の一つ一つ、単語の欠片に至るまでの全てを受け取ってくれた。
 彼は俺の肩に手を置いて肯いた。深い光を宿した瞳が、優しく俺を見ていた。それだけで俺は、何か許されたような気持ちになったんだ。
 そして彼はこんなことを言った。
『ところでレン、君は国ではなくユリアに仕えていたな』
『は、恐れながら』
『それは構わない。ところでユリアに子供ができたなら、その娘にも仕えるつもりだった』
『相違ございません』
 唐突に目の前で始まったやり取り。なんだろうと軽い気持ちで見ていた。
『そうなると、その娘の父親……つまりはユリアの旦那に仕えることになるわけだ』
『……ええ、そうなりますね』
 げっ。
 その時点でどういう話になりつつあるのかを察した。察したが、まさか王様の前から全速力で逃げ出すなんて真似もできるわけがない。レンの悪巧みをする越後屋みたいな顔が恨めしかった。
『さて、君という剣は今仕えるべき主をなくしているわけだが……ちょうどいいことに、そこにいずれ仕えることになったであろう青年がだね』
 いやっほう好きな人の父親に認められたぜい! なんて単純に喜べるかぁっ!!
『というわけで、レンのことは任せたよ』
『そういうわけでよろしく頼むぞ、ヒロト殿』
 何がそういうわけなのかさっぱりわからないうちに結論が出ていた。
 そういうわけで、なぜかレンと俺が何故か主従関係になった。ユリアの頑固なところは父親譲りかもしれない。

「そういえば……あれから、エラーズたちには会ったのか?」
 首を横に振る。エラーズたちとはあれきり……ファイバーの故郷で再会してからというもの会っていない。まあ、向こうもこちらも世界をあちこちに飛んでいるのだから出会うほうが奇跡的な確率といえる。
「彼女はともかく、エラーズとポーキァは色んな世界の連中から目を付けられてるだろうしな」
「そうだな。まあ、彼女と出会えただけでもよかったか」
 肯く。
 ファイバーの故郷が何処なのかが判明したのが半年前。その話を聞いた俺たちはすぐさまそこへと向かった。
 たどり着いた土地は酷い有様だった。その地域に詳しい老人に話を聞いたところ、三十年近く雨が降り続いていると言った。
 三十年。それだけの間雨が降り続けば、そこはもう生き物の住める世界ではなくなる。一面が沼地となり、所々に見える腐れた組木が、かろうじてそこがかつて村であったことを主張していた。
 その沼の真ん中に、真新しい木で組まれた十字架が突き立っていた。
 レンを残し、一人でその光景を見ていた俺の背中に声をかけてきたのが、エラーズだった。
――おや、珍しい。こんなところに人がいるかと思えば、まさか君だとは
 エラーズの話によれば、それはつい最近までファイバーの姉が磔にされていたものだという。三十年、ただひたすらに大地が、木々が腐り続け、命の気配が消えていく様を見せ付けられる。
 俺は何も言わず……何も言えず、ただその光景をずっと見ていた。日が落ち、月が昇り、星が輝いても、ずっとそれを見ていた。
 それを何十年も一人で見ていたのだという。
「しかしまあ、あなたの魔法で束縛を切ることができたとはな」
「と言っても礎の破片のおかげだけどな。元の俺の力じゃあ、あんなもん貫くことはできなかった」
 礎の力によってその力の威力ばかりか効果の適用範囲までも広がった『貫抜』は、世界とファイバーの姉の繋がりを貫いた。
「それで、その人とはどんな話を?」
「挨拶をしただけだよ。向こうは三十年の束縛が解けたばかりだったし、俺も正直、何を言ったらいいのかわからなかったしな」
 ただ、一言だけ。搾り出すように紡がれた言葉は、今でも耳の奥にこびり付いている。
「そうか……あなたが納得する為の旅だ、私は何も言わないさ。さて、そろそろ学校だな」
「ん、レンは学校まで行かないのか?」
 レンの足が唐突に止まった。並んでいた肩が、一歩分だけ前に出た。
「あなたの戦いに水を差すつもりはない」
 レンは一歩身を引き、剣を垂直に掲げた。
「私はあなたの剣だ、これは私が私自身に誓ったことだ。たとえあなたが姫様の事を忘れても、その事に変わりはない」
 レンはまっすぐに俺を見ていた。
 信頼と、優しさを込めて。
「あなたの生き方を誇るといい。ユリア様が守りあなたが手に入れた今日は、いつも変わらずここにある」
「――――――」
 ああ、本当。俺はいつも、周りの人たちに助けられている。
 この人たちと、今日という日をこの世界の上で歩けることを、本当に嬉しく思う。

 そこに、君がいないことだけが悲しい。

 


 ぎょっとした。心臓が止まるかと思った。
 校内を歩いていたら沙良先生の背中が見えて、その向こうには変なお面をつけた男と、制服姿の女子の姿があった。
 逃げよう。
 その場で反転し、全速力で――
「やあ、君ですか。まさか今日会えるとは思っていませんでしたよ」
「早っ、回り込むの滅茶苦茶早っ!?」
 逃げ出そうとしたらいつの間にか回り込まれてた。ああそうか、こいつ変な体術使うんだっけ。迂闊だった!
「なんでお前がここにいるんだよ、ていうか、あの制服の女の子ってまさか……!?」
「そのまさかですよ」
 うわー、やっぱりだよもう。
「つかてめえは何でこんなところにいるんだよ。いくら事情を知っている人間が少ないからって、お前らに襲われたコミューンの人たちがお前を見たらただじゃすまねえぞ」
 どちらがただではすまないのかはさておき。
 ていうか、俺だって正直複雑だ。そもそも俺とこいつの関係はいまいち微妙なんだよな……。俺がエラーズに対して嫌悪感にも似た感情を持っているのは陽菜やユリアを攫ったからというのが大きい。が、その仕返しとばかりにこいつらの長年の計画をぶっ壊してやったから、結構腹の虫は収まっていたりするのだ、個人的には。
 俺としてはこの男相手に一戦やる意志は薄い。殴っていいなら殴るけど。全力で殴るけど。赤い狐になるまで。
「大丈夫ですよ、これでも私も色々と修行をしているんですから」
「修行ねえ……」
 そもそもお前の心配なんかしてないけどな。
「この世界の漫画というもので学んだんですよ、行きますよ。フタエノキワ――」
「アーーーーーーッ!!!!」
 なんかヤバい表現が出てきそうな雰囲気だったので全力で止める、体張って止める。
「危ないですね、いきなり魔法を使うなんて」
「貴様の発言もいろんな意味で危ないんだよ、自重しろ!」
 世の中には! 触れちゃいけない領域ってもんがあるんです!!
「あんたら、仲ええなぁ……」
「いえいえそんな、隙があれば八つ裂きにして氷海に鎮めてしまいたい気分ですよ」
「爽やかに毒吐いてんじゃねえよ、穴開けるぞ」
 あ、やっぱこいつ嫌いだ。エーデルは性格の不一致だが、こいつは明らかに俺に対して敵意、というには拙いか、とにかく隔意を持ってる。
「で、何してんだ、変態仮面」
「彼女を見ればわかるでしょう、転入……というよりは入学ですね、その手続きですよ、穴掘り小僧」
 ほう……いい度胸じゃねえかこのヤロウ。そういえばエラーズには一度背後から不意打ち食らってたな。その借りを今ここで返すのもいいかもな。
「こーら」
「だっ!」
「む」
 危険な考えが浮かんだとき、頭の上に柔らかく、しかしそれなりの重量のある物がのしかかってきた。
「なんだ……ん、柔らかくふわふわしたこの手触りは……まさか大福か!?」
「ましゅまろや!!」
 ごはっ!? ぜ、全力で蹴りいれられた……。
「久しぶりに顔を見せたと思えば、しょーもない事でいざこざおこしおってからに。誰のおかげで即日休学なんて無茶ができた思うとるんや」
「いやー面目ないです」

 俺が休学届けを出したのは、二学期が始まって二週間が経った頃だった。
『っつーことで、よろしくお願いします』
『……世界を見て回りたい、なぁ。世界を股にかけた災害復興でもするつもりか? ま、うちは構わんけどあんたはそれでええんか? 乃愛もおらんし妹達二人っきりになるで?』
『あいつらだってもう子供じゃないんだし、俺なんかがいなくてもしっかりやれますよ。むしろ俺がいないほうがしっかりできそうで怖いし』
 ちなみに俺がいないと食事は壊滅的な事になっていたけどそれ以外はきっちりやっていた。どうやら俺が今まで全部やっていたのが悪かったらしいと反省して、今では家事はそれなりに分担している。
 食事も。おかげで毎日がスリリングだちくしょう。
『ふーん、あんた、ちょっと変わったなぁ』
『そすか?』
『なんていうんやろ、余裕ができたな、いい具合に。ちゃんと周りが見えとる、見えたままに周りを受け入れとる、そういう風に見えるわ』
 言葉に詰まった。そんなに俺は変わったんだろうか。
 変われたんだろうか。
『にしても、話が急にも程があるやろ。いくら学園がその辺が大らか――言うよりは手抜きやからて、すぐになんて無茶もええとこよ?』
『すみません』
『ま、ええわ。タヌキに頭下げるんもしゃくやしちょいと裏技でも使うしかないやろな』
 休学届けを出すのに三十分もかからなかった。たいした悶着もなく俺は一年間の猶予を得たわけだ。
 無論、それだけの苦労を買って出てくれた人が居たからこそだと言うことはちゃんと理解しているつもりだ。

「ったく、アンタ等だけで会話しとるからあの娘がおいてかれとるやろ」
 そういって沙良先生が示したのは、エラーズと一緒に立っていた制服を着た女子だった。パリッとのりの利いた一年生の制服に身を包み、世界に対して戸惑うように視線を漂わせている。
 少女と目が合った。俺は思わず気まずさから視線をそらした。こんなところにいるなんて思いもしない人物。
 レイネ。ファイバーの、姉。
「……ま、いきなり仲良くなんかできんか。それはおいおい、てことで」
 沙良先生はレイネの手を引く。彼女が背を向けたことにほっとしている自分を知り、嫌悪感を覚え、これじゃだめだと思った。
 ……ちゃんと、向き合おう。お互い、痛みから目をそらすだけじゃ何も変われない。
「あの!」
「――っ」
 う、焦ってつい大きな声を。
 レイネが怯えを含んだ視線を、それでもそらす事無く向けてきた。
 ……あ。何を言うのか考えてなかった。
「あー、えー」
 ど、どうしよう。
 困っていると、レイネの横に立つエラーズがなにやら仮面を外して……って、嘲笑ってるのを見せ付けるためだけかよ! すぐに仮面元に戻しやがった!
 く、沙良先生もニヤニヤ見てるし! とにかく、ここは俺一人の力で乗り切らないと。大丈夫、俺はできる子だ……たぶん!
「その、何でこの世界に?」
 出てきたのはただの質問だった。けど確かに疑問だった。なぜわざわざ、この世界に? 世界の穴がほとんど閉じている今、世界を渡るのも相当の苦労が必要なはずなのだが。
「……弟」
「は? ファイバー?」
「弟の不始末は姉の不始末よ。あいつがこの世界でやらかした事、とても償えるものじゃないけど償わないわけにはいかないから」
「君が弟の代わりに、この世界でその罪を償う、と?」
 レイネはこくんと小さく首を立てに動かした。本当に小さな動き。それでも、その意志の強さは伝わった。
 エラーズは仮面で表情を隠している。沙良先生は壁に寄りかかって目を閉じていた。
「あの子は私のためにあんなことまでしてくれたから。今度は私が、あの子のために何かをしてあげようと思う」
「償いが、ファイバーのためになるのか?」
「私の知るあの子はそういう子だったわ」
「あいつが、か。まあそうかもな、そういう人間だからこそ、思い詰めちまったのか」
 ファイバーの純粋すぎた想いがやがて全てを犠牲にすることへ走り出したことは確かに許されないことだったろう。そこにノアの運が絡んでいたとしても。でもその想いそのものは、誰かを想う気持ちだけは、きっと尊いものだと想う。
「ファイバー、か。メルヘンオヤジなんていって悪かったかな」
「言ったの、そんな事?」
 全力で言ったな、しかも勢いのままに無意識に。
 ……というかファイバーの姉なんだよな、レイネ。つー事は何か、年齢的には沙良先生よりも上になるのだろうか……ロリ年増決定戦?
びゅごうっ!!
 首筋を鋭い何かが撫でていく感覚。驚きに振り返ってみると、沙良先生が据わった目でこちらを見ていた。うん、女性の年齢をネタにするのはよくないよね!!
「あなたは……少し、変わった」
「え?」
「雰囲気が。そう思っただけ」
 それ以上説明する気はないのか、口をつぐんでしまった。
 ……会話が途切れてしまった。
「じ、じゃあ俺はもう行くよ。先生、それじゃあ」
「ん。ああそや、明日は朝は早めにな、あんたはあんたで色々準備があるから」
 沙良先生の言葉を聞きながら、レイネとエラーズの間を通り抜ける。
「――――――――」
 小さく呟かれた言葉に立ち止まりそうになったけど、そのまま俺は階段を上った。
 初めて会った時に呟かれた言葉。それに連なる、その言葉を、俺は深く胸に刻んだ。
『私はあなたを、許せないかもしれない。理不尽だけれど、弟を止めてもらって、感謝できないかもしれない』
 それでも。
『生きていてくれて、ありがとう』
 生きていれば。生きてさえいれば。
 変わっていくことができるから。

 


 屋上への扉を開け放つ。夏の湿った風が室内の凪いだ空気を押し分ける。押し寄せる熱気に顔をしかめながら、広がる青空へ飛び込んだ。
「あっつ……」
 わかっていた事でも声に出さずにはいられない。
 誰もいない屋上。遮るもののない世界に光は降り注ぐ。時刻は正午に近い。物影なんかあるわけなかった。
 ため息をついて、フェンスに腰掛ける。静かな世界に、金属のきしむ音が小さく響いた。
「…………、はぁ」
 空。青い空。この町で一番広い、空。まぶしくて、手をかざす。指の隙間から漏れる輝きが、目を焼いた。
「世界、か」
 変わらない世界。そう、世界は何一つ変わっていない。
 一人の少女が失われた現実は、事実としてここには存在していないのだ。
 俺の大切な人たちが失われて、その傷は癒えることなく、それでもゆっくりと痛みは和らいで。
「なぁーに黄昏てやがんだ?」
「うううおあぁぁっ!?」
 唐突に視界に割り込んだ黒い影に思わず大声を上げてしまった。
「貴俊っ!」
「いよう、何してんだ?」
「それはこっちのせりふだ! お前通学路の見回りじゃなかったのか!?」
「あ・き・た!!!!」
 ……だめだこいつ、早く何とかしないと。あ、もう手遅れか。
「っつーか何でお前が生徒会長になれたんだ……」
 そう。驚愕すべきことに、何故かこの男、生徒会長に立候補して当選していた。まあ対立候補がいなかったらしいのだが。
 ちなみにそういう場合は信任投票が行われるわけだが、賛成票と反対票がほぼ一対一だったらしい。半分の人間が冷静な判断をしたととるべきなのか半分の人間が無謀な賭けに出たと取るべきなのか、非常に判断に困る。
 ていうか今すぐでもいい、やめさせろ。
「ひっでぇなー、これでも一応ちゃんと仕事してるんだぜ?」
「美羽に引っ張り出されなけりゃまともに会議にも出席しないと非常に好評だが」
「てへっ☆ ごはっ!?」
 鳥肌が立ったので思わず殴ってしまった。
「酷ぇなぁ。っと」
 どかりと勢い良く腰をおろす貴俊。痛くないのか、そんな勢いで座って。
「で、見回りのほうは実際問題ないのか?」
「大丈夫だろ。何かあってもあの二人なら大抵の問題は解決できちまうし」
 だからってお前が行かなくていい理由にはならないと思う。
「それにお前に会うのも久しぶりだしな。いや返ってきた時には会ったけどそれきりだしな」
「そうだな、こうしてゆっくり話すのは久々だ。ま、それまでもちょくちょく帰ってきてはいたけど」
 それでも貴俊と会う機会は本当に少なかった。別に望んで会いたいと思うようなやつでもないし、貴俊もそれは一緒だろう。だからこうしてじっくり話す機会を設けるのは、それこそ一年ぶりということになる。

 一年ぶり。
 ああそういえば、一年前家に帰った俺は真っ先にこいつを殴りつけた。
 何しろ安全なところにつれてけと言ったのに家には美羽や美優、陽菜たち一家どころかクラスメイトをはじめ俺の知る限りの知人友人が集まって大宴会を開いていたのだ。
 混乱する俺は貴俊を探して引きずり出して河川敷へ向かった。
『お前、なんだあれ!?』
『ああん? そりゃお前みりゃわかんだろ、宴会だよ宴会』
『そういう事言ってるんじゃねえよ! 何でこの状況で宴会なんだよ意味わかんねぇぞ!?』
『ナニにイラついてんだよお前、意味わかんねぇぞ? お前が言ったんじゃねえか、安全なところに匿えって』
 それが何で宴会に繋がってるのかと聞いてるのだが。
『この世界であの二人や沢井にとってお前の傍以上に安全な場所があるかよ。核シェルターの中にいたってテメェがいなけりゃあのこらにゃ意味ねーだろうがアホか』
『そういうのを屁理屈って言うんだよこのケダモノが!』
『あっはっははははっ! ほんとにどうしたんだよテメェそんなに感情むき出しにして。性格変わってんぞそういう事されると手ぇ出したくなるじゃんか』
 それから先は余り覚えていない。
 ただ探しに来た美羽たちによって喧嘩が強制的に中断されたことだけは覚えている。何しろ全身の力という力を根こそぎ奪っていきやがった。

「ところでお前、何か考えてるみたいだったけどどうしたんだ? 例の俺達の知らない彼女のことか」
「ああ。それに関係すること、かな」
 貴俊には、ユリアのことを少しだけ話してある。別に信じてもらえなくても全然構わなかったんだが、何故かあっさり信じた。逆にこちらが戸惑うくらいだった。
 理由を聞けば酷く簡単な答えで、
「目ぇみてりゃわかるんだよ、そういうのは。お前に好きなやつができたことぐれーな」
 にしても、だ。
「何度目になるかもわからん問いかけだが、そんなにわかりやすいのか俺は」
「あー? はは、まさか、このことに気付いてんのは俺と沢井ぐらいだろうぜ。美羽ちゃん美優ちゃんは気付いてねーだろ、家族だしな」
「……家族だと気付けないのか?」
「視点が違うんだよ。お前の根本の生き方自体はアプローチが変化しただけで変わっちゃいねーんだ。内側から見てりゃ判断し辛いだろうよ。それに、同じ愛でも家族愛じゃあ見えてこねぇもんもある」
 愛って……。
「愛、ねぇ……」
「おー? なんだよ、元気ないのはそれが原因か? なんだ、情熱思想理念気品頭脳優雅さ勤勉さに加えて愛まで足りてないのか?」
「どんだけ足りてねぇ人間だよ俺!?」
 ていうかそれだけ足りないものがあったらもう人としてどうかと。本能くらいしか残ってないだろ、それじゃあ。
「んで、愛の何について悩んでたんだ? このラヴマニアの俺に話してみろよ」
「お前が愛を語れるなんざ初めて知ったぞ」
「『知らねーならとりあえず騙ってみろ』って言ったのはお前じゃん。そら、語ってやるから言ってみろ」
 とか言いながら顔が好奇心まみれなんだが。
 まあいいか。俺はため息をひとつつくと、空を見上げた。
「俺はちゃんと、ユリアを好きでいられてるのか、少しわかんなくてな」
「ほうほう」
 ……相槌の打ち方もなんかムカつく。
「ユリアと最期に約束したのは、話したよな」
「ああ、あのエグイ約束な」
「人の約束エグイゆーな」
 そりゃ、精神的にかなりきついものがあったが。
 何が辛かったかといえば、一年間ひたすらユリアのことを思い続けることではなく、今日という日を迎えること。今日という日に怯え続けること。それが何よりも、辛かった。
「この一年間、一日たりとも無駄にしないために必死だった。ユリアの記憶を抱えた俺が、その想いと一緒に居られる時間が、何よりも大切だった。けど……一日が終わり、眠りにつくのが怖かった。一日が終わっていくのが恐ろしかった。この思い出の全部を失う日が確実に近づいているのが憎かった」
 一日が四十八時間あればいいとか、一年が七百三十日あればいいとか、そんなくだらない事を真剣に考えたこともある。でもそうなったところで結局、俺は次はこう思うだろう。
 一日が九十六時間あればいい。一年が千四百六十日あればいい。
 今日がずっと終わらなければいい。一年が、永遠に続けばいい。
 けれど世界は変わらない。昨日も今日も変わらずに朝日が昇り夕日は沈み、月は闇夜を薄く照らし星は夜空を彩りやがて朝日が昇り明日が来る。そして、そんな世界こそを、ユリアは守り、願い、祈った。その世界のありのままの中で俺が生きることを、望み、夢み、叶えた。
 でも。
「そうして俺は、ユリアに執着してるだけなんじゃないか、未練があるだけなんじゃないかって。好きだった記憶にすがり付いて、好きだと自分に言い聞かせて、どうにかこの罪悪感から逃れようとしてるだけなんじゃないのかって」
 日の光が網膜を焼く。瞼を閉じれば、白い闇が広がる。
 足の裏から這い上がる恐怖。肺を締め付けるような苦痛。今日までずっと抱えてきたもの。
「俺は、ちゃんと、あの人を愛してるのかな」
 わからない。どれだけ考えても答えは出ない。
 信じるに足る根拠のない気持ち。真偽の確かめようのない想い。
 俺は――
「お前……バカ? いやバカなのはわかってたけどそこまでバカだったとは……」
「おいこら、人がせっかくまじめに……」
「まじめに悩むようなことじゃねーだろうが、そんなの。執着? 未練? おいおいバカ言ってんじゃねーよ、お前の愛が何でできていようがそれが愛であることに変わりはねーだろうが」
 貴俊は勢い良く立ち上がると両手を広げ、空を抱えるように体を仰け反らせる。
「時間は人を変える。人が変われば想いも変わる。想いが変われば愛だって変わる。けどな、どれだけ変わってもお前がお前であるようにお前の抱えた愛はお前の愛だろうが。お前が誰かを想う事に変わりはねーよ。それに、お前にその人をどう想ってるかなんて、俺からしてみりゃ丸わかりだぞ。いかにも好きな人がいますって幸せそ~な顔しやがって」
「あだっ、いだっ! 蹴るな、蹴るなっつーの!」
 ていうかそんな顔してたのか俺。いや、それ以前に。
「俺この一年でお前と何回会ったよ」
「五回だな。ちなみに合計時間は十六時間二十八分だ」
「何でそんな細かく覚えてるんだよ!?」
「愛の力だぁーっ!!」
 お前の愛は何製だ。というかたった五回でわかるくらいにふ抜けた顔してたのか、俺は。
「まああれだ。頭痛薬だって半分は優しさでできてるわけだし」
「話のつながりが読めないぞ」
「何でできててもいいだろって事。愛なんざ口で説明できるもんじゃねーんだよ。それなら思い込んだもんがちだ」
「そいつはまた随分と強引な解釈だな。そういう考え方が暴走してストーカーになったりするんじゃないのか?」
「度を越したらそうなるんだろうよ。ま、俺は年中限界突破、いつだってクライマックスだがな!」
 肉片残さず掃除したほうがよさそうな人が目の前に居ます。
 普段ならどうにかしてやろうと思うところだが、いい話……都合のいい話を聞かせてもらったのでよしとしよう。
「まあつまり、あれだな。俺はユリアが好きだと、そういうことか」
「それでいいだろうがよ。ったく、変なところで自信がないのは相変わらずだな」
 ほっとけ。
「んじゃ、俺はそろそろ行くぜ。いつまでもお前の邪魔するわけにもいかねーしな」
「ああ。……それにしても、まさかお前から愛について聞く日が来るなんて思ってもみなかったよ」
「俺もまさか自分が誰かに愛を語る日が来るなんて、思いもしなかったぜ」
 貴俊は踵を返す。
 俺はその背中を見ながら、ふと、今まで聞こうとも思わなかったことを聞いてみたくなった。
「なあ、貴俊」
「あん?」
 貴俊は肩越しに振り返り、
「お前、俺のことどう思ってるよ」
 目を細めて、肩をすくめて前を向いて歩き出した。
「ブッ殺してぇ。超愛してる」
 金属製の扉の閉まるやかましい音に重なった癖に、その言葉はしっかりと届いた。
 ……不幸にも。
「しかしまあなんだ、世界にはいろんな考えのやつがいるよなぁ」
 人を理解したり、誤解したり、嫌悪したり、好きになったり。
 幾千幾万の人の想いが繋がり、重なり、反射して、拡散して、集まって、世界を覆う。人の想いのかたちは無限。人の想いの重なりも無限。烈火のごとく燃え盛るもの、雲のように不定形に漂うもの、水のようによどみなく流れるもの、氷のように冷たく凍りついたもの。全てが層を成して降り積もり、重なり、ひとつになる。
 世界は、たぶんそうしてできている。人の想いが、記憶が、感情が、世界を形作る。世界の、礎になる。俺達は、その上で、その下で、その中で、生きている。
 だから自分の気持ちを封じてしまえばその中に加わることはできなくなる。
 一年前の、あの日。
 俺に泣くことを許してくれた、悲しむことを望んでくれた人が居て、俺はようやく世界を見ることができた。世界に、居ることができた。

 風が、秋の到来を予感させる風が、服を静かに撫でてゆく。弱い風、それでも、確かな風。
 見上げた空には雲。透き通る、抜けるような青に散らばる、形を持たない白い塊。
 俺はここに居て、ここに生きている。生きていたいと、そう思う。そう思わせてくれた人を、愛おしく思う。
 だらりと力の抜けた体。滲む汗はシャツを濡らし、寄りかかったフェンスは小さく軋み、ずるりと、仰向けに寝転がる。
 空だけが、そこにある。
 背中には、屋上の床。その数メートル下には、大地。大地と空。
 無限に広がる、二つの舞台に挟まれて、今日を生き、過去を抱きしめ、明日を目指す。

 右腕を動かす。拳が静かに、耳の横へと押し付けられる。

 わずかな風が、草木を揺らす音。
 巻き起こった砂埃は、小さな粒子となって光の海を踊る。

「ああ……」

 ありふれた世界。生きる毎日。変わらない日常。ひとつとして同じ日のない日々。
 大切なものがあって、失ったものがあって、その全てが、今に繋がっていて。
 たぶん、きっと、こんなものが。奇跡だった。
 無限の想いが、愛しさが、切なさが、悲しさが、際限もなく込み上げて。
 何となく、理由なんかなく、左手を、空へ伸ばす。空を、掴む。届かない空は、けれど、それだけで掴むことができる。

「ああ…………」

 意味のない呟きがもれる。そこにこもったのは無数の思い。
 言葉にすることのかなわない、今ここにある確かな気持ち。
 限りない人の想いと奇跡とが折り重なる世界をあらわすには、俺には言葉が足りなすぎた。

「悔しいなぁ」

 なんで、隣に君がいないんだろう。
 なんで、君が笑っていてくれないんだろう。
 それだけで、この世界は輝きを増すのに。潤いが満ちるのに。

「悲しいなぁ」

 約束がある。
 忘れたくない。
 誓った。ここで誓った。
 忘れたくない。
 この日のために、一年間頑張った。
 忘れたく、ない。
 君の願いを、叶えに来た。
 忘れるために、この一年間を必死に生きてきた。この大切な思いを抱えた日々を、輝かしいものにするために。

「忘れたくないなぁ」

 意地。
 好きな女の子の願い事を聞いてあげたい、ただそれだけの、ちっぽけな男の意地。
 忘れたくないのが本当の気持ちだ。けど今の俺の存在はこの世界にとっては狂った歯車なのだ。ありえない存在を心にとどめ続ける矛盾した存在。そんなものをいつまでも抱えておけるほど、世界は優しくも単純でもない。
 この大切な思いを忘れずにいれば、他の大切なものが更なる危険に晒されるかもしれない。再度の崩壊と言う形で。それは誰も望まない結末だ。

「伝えたかったなぁ」

 言いたい言葉が、伝えたい気持ちがある。世界中に響き渡るくらいに叫びたい感情がある。
 一年じゃ足りない。十年でも短い。百年ごときじゃ満ち足りない。
 一生かかっても伝えきれない気持ちが、ここにある。この胸にある。

「無くさないよ」

 たとえ忘れても。この想いを忘れて、君との記憶を忘れて、この感情さえも忘れても。
 きっと無くさない。君を好きになって手に入れた、この気持ちは忘れない。
 この世界がある限り。この世界にいる限り。
 愛は姿を変えて、俺の中に在り続ける。

 だから、今は。

「さよなら、ユリア」

 俺はきっと。
 目を覚ました俺はきっと。

 涙を、流す。

 純粋な、力。貫く、ただそれだけの魔法。
 ただ君の記憶だけを、その記憶だけを貫く。
 君との全てを、まっすぐに。
 まっさらに。

「さようなら、一番、大切な人」

 拳に、力を込めて。
 その、一撃を――

 とんっ。

 力が、抜け。
 空一面が飛び込んで。
 意識が。

ツールボックス

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