世界が見えた世界・7話 B

 夜の学校ってほんと怖いのな。
 夜の教室で一人ぽつんと座ってるとあまりの寂しさに身投げしたくなってきた。わけわかんない衝動だと思わないでくれ。俺が一番わけわかんない。
 加えて割と本気でこっちの命狙ってるやつがいつ襲ってくるのかわかんないんだ。胃がきりきりと叫んでいる。あー、何で俺昼にあんなこと言ったんだろ。こんなことならかっこつけてないで乃愛先生の手助け借りればよかった。
 なんて泣き言を言っても仕方がない。俺は自分の席から立ち上がると、音を立てないようにゆっくりと廊下に出る。
 ポーキァとは時間の指定をしていない。時間の指定がないということは、相手がいつ来るかわからないということでもある。同時に、場所の指定も学校としか言っていない。つまり、学校のどこに俺が潜んでいるのかポーキァにはわからない。
 お互いに目隠しの状態からスタートするサバイバル。ポーキァは俺の話を聞いた瞬間にゲームだといったが、確かにゲームの要素が強いかもな。かけるものが自分の命って点を考えなけりゃまだ楽しめるのに。
 校内の警報の類はすべてストップしてある。どこに何があるのかもすべて把握してあるし、罠も仕掛けてある。それらをうまく使い、圧倒的戦力を誇るポーキァを封じ込めなくてはいけない。
 緊張で喉がからからに渇いている。暗い廊下のその角からヤツが出てくるんじゃないかという恐怖が頭の隅から離れない。
 あいつも馬鹿じゃないだろうから、忍び込む形で校舎に入ってくるだろう。もう入っているのかもしれない。俺はそいつを先に見つけ、一気に決着をつける。
 時計が、10時を刻む。その瞬間!!
「うおぉぉっ!?」
 突如学校全体が揺れた。地震……じゃない! これは、昼間と同じ揺れだ!
 かがんで窓から外をこっそりとのぞく。すると、校舎の一角に煙が上がっていて、たまに電気がばちばちと放電している。どうやら派手に突っ込んできたらしい。
 えーっと。うん、どうやら相手は馬鹿だったらしい。ていうか問答無用で馬鹿だろあいつ。自己主張の強いタイプだな。
「オラァ! どこにいやがるっ!?」
 月夜にむなしくお馬鹿さぁんの声がこだまする。カルシウム取ってる? なんか調子狂うけど、相手のあの様子も余裕からくるものかもしれない。事実戦力差は歴然としているんだから、俺が慎重に事を進めることに変わりはない。
 おそらくというか間違いなく、馬鹿なだけだろうけど。
 さて、はじめるか。結城大翔、人生二度目の命を賭けた生存競争だ。

 


 ポーキァの居場所は離れていてもよくわかった。常に電気を纏っているせいで蛍か何かみたいにピカピカ光っているからだ。とはいえこれは困る。何しろ俺があいつに付け込む唯一の隙が魔法の照準から発動までの間しかないのだ。それなのに、常に発動状態で後は照準をつけるだけとなると、付け入る隙が格段に短くなってしまう。
 そこまで考えてポーキァがあの電気を纏っているとは思わないけど。さっきからぎゃあぎゃあ煩い事この上ない。おかげで夜の学校の緊張感なんか銀河の果てまで飛んでいってしまった。
「まあとにかく、うまく仕掛けを使ってどうにかするか。あとは……これだな」
 乃愛さんを通じてエーデルから無理やり借りた例の魔力をためる宝石。聞けば、魔力をためるだけでなく放たれた魔法も多少ならば吸収できるらしい。もしものために、首から提げておく。魔力の開放に異世界側の魔力が必要らしいから完全に防御用になるが、それでもないよりはぜんぜんマシだろう。保険は多いに越したことはない。
 こんなことをしておいて、安全も何も無いけど。自分の支離滅裂というか矛盾だらけの考えに苦笑するしかない。
 ポーキァは学園中を順番にしらみつぶしに回っているから先回りは容易だ。さて……それじゃあ予定通り、あそこで仕掛けるか。

 


 ポーキァは誰も居ない廊下をずんずんと歩いている。全身から怒りや苛立ちといった感情が撒き散らされている。俺は階段に伏せて、影に隠した鏡からその様子を見ていた。
 あのポーキァの言動から推測されるのは、頭の回転は悪くないが精神的に未熟だということだ。思考が安定していないし目先の目的にひきつけられやすい。俺と似ているかな、俺はあそこまで突撃思考はしてないけど。
 なのでヤツへの罠は俺がよく引っかかってしまうものを選べばいい。オーソドックスなタイプだ。思考をある一点に集中させ、別の方向から襲撃をかける。
 鏡に映った向こうの廊下から明かりが近づいてきている。俺が仕掛けようとしている罠は学校という建物を戦場とすると仮定したとき、おそらく誰でも考え付くタイプのものだ。だがそれだけに、その部屋を警戒する人間は多くなり、罠にかけるのは難しいだろう。
 この世界の人間ならば、という前提が入るが。
 この世界に来た当初の――いや、今でもそういう場面を見るが、ユリアさんの行動を思い返せば、彼女達の世界と俺達の世界というのはまったく違った文化を持っている。科学の発達の差とでも言うべきか。常識が違う。俺達ならば常識として知っている事柄の危険性を、ヤツは知らない。そこを、突く。知識の、経験の完全な死角を突く。
 雷を纏った人影が、角から出てきた――瞬間。
「そこかァー!!」
 歓喜と狂気の叫び。それに続く閃光。バチンと音が弾け、窓ガラスの割れる高く細い音が廊下を埋め尽くした。恐る恐る目を開く。鏡に映った光景は、こちらの意図通りのものだった。
 ポーキァは黒い物体の前に立ち、しばらく沈黙したままそれを眺めていた。
「なんだ、これ?」
 廊下の真ん中あたりに放置された人型のオブジェ。それは俺があらかじめ置いておいた人体模型に適当な布をかぶせた物だ。それが外側の窓際に置いてあり、ポーキァの電撃を受けて焼け焦げていた。人形の周囲の窓ガラスが粉々に砕けているのを見て慄然とする。やっぱり、攻撃力が桁外れだ。
「クソッ、変なもの置きやがって……やる気あんのかよ、あんたは!?」
 人体模型を蹴り飛ばすポーキァ。完全に頭に血が上っている。そうだ、それでいい。俺は鏡でポーキァの位置がまだ動いていないことを確認して素早く立ち上がり、カッターで背後の窓から伸びている糸を断ち切った。
「なんだっ!?」
 続いて廊下の向こうでガラスの割れる音が連続し、ポーキァが声を上げる。どうやらボウガンは避けたらしい。俺は急いで階段を駆け下り、下の階へ逃げる。その背中に
「そこかああああ!!!!」
 獲物を見つけた肉食獣が口を利けるのなら、きっとこんな声を上げるに違いない。
 白い閃光が弾け、次の瞬間。
 ドォォォォォン!!!!
 激震と轟音。上階から吹き付けてきた激しい熱風と振動に体を煽られ、俺はその場に伏せた。想像以上の衝撃だな、これ!
 揺れは一瞬だったが、轟音のおかげで耳がわんわんと残響を響かせる。軽く頭を振り、階段を慎重に上っていった。上階の光景は悲惨なものだった。
 炎と黒煙が立ち上り、廊下のガラスのすべてが吹き飛んでいる。熱風が体を舐めて嫌な汗が流れる。自分がやったこととはいえ――いや、だからこそ、目の前の光景に苦いものがこみ上げてくる。さすがに、死んだかもしれない。
 俺の作戦は単純なものだ。ポーキァに対しての最大威力での攻撃を行った。化学準備室そのものを爆弾とすることで。化学準備室のガス栓をすべて開けて教室を密封。ポーキァの電撃で引火させ爆発を引き起こす。誘導のために人形を置いてポーキァの意識を固定し、そこに不意を打つ形で準備室の中から糸で仕掛けを作ってボウガンを発射することで反撃を誘う。小道具の準備に手間はかかったが、それだけにまさしく必殺の威力を備えた罠になる。
 さすがに、これほどの威力になるとは思いもしていなかったが。
「にしても、ひどい有様だな……これで俺も、人殺しか、くそ」
 覚悟はしていた。だが、実際にそうなると……なんだか、自分というものが酷く醜悪なものに感じる。
 けど、目をそらすのはもっと醜悪だ。とにかく、どんな状態になっているのかだけでも確認を――、
「へ、人を勝手に退場扱いかよ、いくらなんでもそれは酷くないか。そりゃ、かなりびびったけどさぁ!」
 ぞくり、悪寒が体の芯を貫く。懐から取り出し放り投げた金属塊に閃光がぶつかる。おいおい、マジか……。
 煙の向こうからゆっくりと歩いてきたのは、ポーキァだった。多少衣服が焼け焦げていたりするが、怪我をしているようにも見えない。あの爆発を防いだのか、こいつ……。
「ったく、なんだよ今の爆発。もうちょっとシールドを張るのが遅かったら死んでたぜ? まあ、それくらいやってくれねーと俺もやりがいがないけどさぁ」
 くっくと嗤うポーキァ。余裕。あのタイミングの攻撃を……自爆を誘発させる攻撃を、余裕で防いだのか!
 あの罠の最も重要なポイントは、相手に発火させるという点だ。こちらが爆発させるのでは、相手は防御に集中するタイミングを得るかもしれない。だが、この場合ポーキァは攻撃の最中に目の前から大火力の攻撃を受けることになるのだ。
 恐るべきはその反応と意識の切り替えの早さ! 攻撃を受け、反撃。そこから反撃を受け、防御。わずか数秒の間に連続する必殺のやり取りを見抜く、その思考と直感。これに驚かずに何に驚くというのか。
 これが乃愛さんの言っていた、戦場で生きてきた人間の力、てやつなのか。
「あん? なにあんたその顔、ひょっとして俺が生きてて安心してんの?」
「……そうかもな。あいにく俺は、人を殺したことなんかないしこれからも殺したくはないしな」
 俺の言葉をポーキァは嘲る。
「はああぁぁ。じゃあなに、あんた俺を殺すつもりナッスィン? おいおい、それじゃ俺のワンサイドゲームになるじゃん、それつまんねーぜ」
 あいにくと俺には目の前のクソガキを楽しませる義務も予定もさらさらないので問題なし。そんなことするくらいなら今日の晩飯になに作るかでも考えてるほうが億千万倍マシだ。
「やかましい。別にお前に殺されるつもりもないし、お前に負けるつもりもない」
 殺す殺さないだけが全部だと決め付けてるヤツに負けるつもりはない。
 現金な話だが、ポーキァが生きているとわかって体に活力が戻ってきている。ほっとした。ポーキァが生きていたことじゃなく、俺が人を殺していないことに。さっき一瞬脳裏をよぎった、妹達の姿を思い浮かべる。
 さすがに、人殺しの兄は嫌だろうなぁ。
 だから、俺は誰も殺したらいけない。その上で、妹達を、ユリアさんたちを守らないといけない。家族を、守らないと。威力のわからない罠に頼ったのは、その辺よくなかったな。
 男の喧嘩は、拳だろう。
「覚悟はいいか、ポーキァ。本気を出した俺は、悪いが結構手ごわいぜ?」
「やってみろよへたれ。全身の血液沸騰させて血煙吹かせてやるぜ」
 ポーキァは今は雷を纏っていない。あれはあれで準備に時間がかかるのか、それとも別の理由があるのか、はたまた別に理由なんかないのか。それにさっきシールド張ったとか言っていたし通常魔法もどんな風に使うのかわからない。
 不利だが――退く理由には、ならない、足りない、なり得ない!
 床を強く踏みしめ、低い姿勢のまま駆け出す。ポーキァの両腕が光を帯び、こちらに駆け出してくる。距離は一瞬で詰まる。格闘技の心得があるのか、ポーキァの動きは滑らかで隙がない。鋭く突き出された左の手刀を右腕で弾く。パチンと小さな弾ける音がして、右腕に痺れが走る。
 なるほど、両腕の雷は放つためじゃなくてエーデル同様打撃の補助か! 厄介な真似を!
 続いて繰り出される右の手刀を、今度は受けることなく体を右によじってかわす。そのままポーキァの右に旋回し、腰の回転を利用して拳を肩に打ち込む。
「ってぇ! はっはぁ、やるじゃん、あんた!」
 手ごたえはあった。ポーキァの顔が一瞬歪み、それでも狂気の笑みを浮かべてこちらめがけて突進してくる。俺は構えなおし、迎え撃つ形で拳を打ち出す。すっとその姿が消える。真下からの殺気に視線を向ける。小さく屈んだポーキアが鋭い手刀を突き出す。
 そんなもの、受けてたまるか! 左ひざでポーキァの右腕を蹴り飛ばし、体を左手で倒す。ぐっ! 脇腹が焼けるような痛みに襲われる。かわし切れなかったか!
 いったん距離を離す。いつの間にか場所は入れ替わり、俺は瓦礫の中に立っていた。足元に溶けた人体模型が転がっている。
 さらに追い討ちをかけてくるポーキァとの応酬。くそ、格闘ならどうにかなると思ったが、相手の両腕に触れられないからどうしても深く踏み込みきれない!
「ほらほらぁ、どうした!? そのままじゃあ俺に殺されるか負けるかしちまうぜっ!?」
 黙ってろ今すぐぶっ飛ばしてやる! 今すぐは無理でもそのうち絶対ぶっ飛ばす! てめえのその顔がどこかの馬鹿とかぶるからな、普段できないっつーか二度と貴俊とはやりあいたくない分本気でぶっ飛ばす!!
「な、なんかあんたいきなり顔つきが凶悪になってねーか?」
「うるせえヤクザ顔! お前の目つきに比べたらミシシッピアリゲーターのがまだ可愛げがあるわ!」
「あぁ!? なんかよくわかんねーけど馬鹿にしやがっただろ、あんた!」
 足元の瓦礫を蹴り飛ばす。いくつもいくつも蹴り飛ばす!
「うざってんだよ!」
 ポーキァが大きく距離をとり、両腕を頭上で交差させる。エーデルと打ち合った、あの大技か! 全身が恐怖と悪寒に締め上げられる。だが、俺もこの対策を考えていなかったわけじゃない!
 転がった人体模型に飛びつくと、股から裂いて中から絶縁体の包みを取り出す。包みの中には、ガソリン入りの瓶。一瞬の躊躇いを切り捨て投擲したそれはまっすぐに電気のドームにぶつかり――爆発。今日のうちに何度爆発を起こすんだろうな、この学校は。
 爆風で吹き飛ばされた俺は素早く立ち上がり……おい、こら。
「ったく、ほんとあんた小細工好きだよなぁ……油断出来ねえじゃんか」
 ポーキァは立っていた。その周りに、炎の槍を従えて。こいつ、あの爆発で生まれた炎をそのまま利用したのか、防御と攻撃を同時に行うために。
 ニヤニヤと嫌味たらしい顔がむかつくが、そんなことを言っている場合じゃない。
「じゃあ、そろそろ終わらせるぜ?」
 ポーキァが腕を振り下ろすと同時、数条の赤い輝きが高速で襲い掛かってくる!
 悪寒に従い炎の隙間をぎりぎりでかわす。が、そのとき俺は致命的なミスに気づいた。ポーキァが、いない!?
 瞬間、背後から白い輝きと不吉な光と弾ける音。大気が一斉に灼熱して。
 ま、ず――
「吹き飛べええあああああ!!」
 がっ!?
 振り向こうとした俺の胸の中央に、衝撃。同時に、全身の筋肉が破裂したような痛みに襲われる。
 白黒に明滅する視界。気づけば、俺は床に力なく横たわっていた。全身の痛みが理性を砕く。
「がっ……は、く。げぇっ!」
 吐き気と眩暈。喉が焼ける。く、そ。意識が、まとまら、ない! 俺は今、どう、なって!?
「おぉ、生きてる生きてる! いやー、あんた頑丈だなぁ……ま、それももう終わりだけど」
 冷たい廊下に反響する足音。震える腕で体を起こそうとするが、力がうまく入らずにすぐに倒れてしまう。くそ、立てこのポンコツが! こんなところでへばってる場合じゃないだろうが、結城大翔! 俺は何のために、ここにいんだよ!
「ふぅううぅ、ぐ。あ、ぐ……お、れ。ぐぁっ」
 全身が痺れて舌もうまく回らない。ふざけんな、このくらいで、倒れてる場合じゃないんだ!
「はいはい、もう諦めなって」
 すぐそばで気配がとまる。残酷な無邪気さが、牙をむき出しにしている。まだだ、まだどうにかして――、
「面白かったけどな、あんたを生かしとくのはあぶねーわ。つわけで、死ね」
 何か、何か手段は、方法は――!
「ひぃぃぃあうぃぃぃぃぃぃ、ごぉぉぉぉぉぉ!!!!」
 妙に聞き覚えのある馬鹿っぽい声が、ガラスを突き破る音とともに登場した。なんだよ、おい、どういうことだ!?
「愛に呼ばれて、俺参上! 悪いけど、こいつはいただいてくぜ、俺の好みじゃねぇクソボーズ!」
「おい、なんだおま――うわっ!?」
 その声の主は俺を担ぎ上げると、煙幕のようなものをばら撒いてその場をあっという間に退散した。見事な手際だが……なんでお前がこのタイミングで出てきやがるんだ、貴俊。

 


「え……お兄ちゃん、今日は遅いんですか?」
「ああ、面倒な役目を自分から買って出てね」
 嘘は言っていない。美優は肩を落とした。
 その様子を見ながら、乃愛は心の中で謝罪する。
「そう、ですか……もう、それなら連絡してくれたらいいのに」
 その様子に疑った気配は見えない。まあそれもそうだろう、へまをしない限りばれない自信が乃愛にはあった。なにしろ美優は前提として兄や乃愛を全面的に信頼しているからだ。それにつけいることに罪悪感を感じないことはないが、彼女らの身の安全を考えれば仕方がない。
 ただし油断はできない。逆を言えば、僅かなヒント――いや、ヒントとさえいえないような些細な事から、彼女が何かに勘付く可能性はあるのだから。
 そのとき、電話のベルが鳴る。すぐ傍にいた美優が受話器をとる。
「もしもし。あ、陽菜ちゃん、こんばんは。え、お兄ちゃん? なんで? うん、うん。……へぇ、そう」
 美優の声のトーンが下がると同時にすぅっと乃愛の背筋が凍る。どうにも彼女の予想外からの方向で何らかの情報が最もばれたくない人物にもたらされたらしい。
 彼女は失念していた。確かにこの家の住人の勘の冴えは素晴らしい。だがしかし、それでもある一点において、その全員を凌駕する勘の持ち主が存在している事を。
 陽菜が気付かないわけがないのだ。これまで十年以上の時を共に過ごし、会わなかった――否、会ってはならなかった数年間の間でさえひと時も大翔の事を忘れず、思い続けていた陽菜が大翔の不安、緊張を見逃すはずがない。
 乃愛はそっと音を立てずに気配も消して、ゆっくりと玄関を目指す。会話はまだ続いている。そのトーンが、どんどん冷えていく。ドアノブに手をかけ、そうっとまわし――カチャ。背後で受話器を置く音が聞こえた。
 ぴたり、と乃愛の動きが止まる。乃愛は振り返らない。ただ前を見て、その身を強張らせる。美優も動かない、受話器を置いたまま、じっと電話を見つめている。
 しかし乃愛には聞こえていた。無言の圧力がひしひしと語りかけていた。
 話せ。
 事情を話せ。
 私に、私のお兄ちゃんが今何をしているのか聞かせなさい。
 ゆっくりと、視線を美優へ。
 ちょうど顔を上げた美優のそれとぶつかった。
――ああ。
 今度は心の中で大翔に謝罪する。
――すまん、ヒロト君。やはり彼女には、敵わない。

 


 全身の痺れはある程度回復した。まあそれでも普段より体の動きにぎこちなさが残るけど。それでもこの程度で済んだのは、エーデルから借りた宝石のおかげだろう。事実、胸の辺りには火傷はできていない。
 はぁ。自分の油断が招いたこととはいえ、さすがにしんどいな。
 それにしてもポーキァのやつ、センスありすぎるだろ。攻撃の最中に防御どころか、攻撃の最中に別の攻撃にシフトするとか。俺にはできないぞそんな芸当。通常魔法のことを意識していなかった俺が一番馬鹿だけどさ。
 そんなことよりも、今は目の前にいる二人だ。
「今日は校内には誰も残っていないと思ってたんだけど」
「俺のお前への愛はこのくらいじゃ引き裂けねーって事……はいはいわかったわかった。説明するから落ち着け」
 睨む俺に苦笑を浮かべる貴俊と、それをあくびしながら見ている沙良先生。危機を救ってくれたのはありがたいが、乃愛先生に頼んで今日は誰も学校に残らないようにしてもらっていたはずなのだ。
 だが、貴俊の説明を聞いて頭痛を覚えた。相変わらずむちゃくちゃなヤツだな、おい。
 なんと、貴俊は独自に事情を掴んでいたというのだ。俺とエーデルが河川敷で戦ったあの日の会話を全て読唇術で読み取り、さらには自分を監視する存在――ちなみにこの人は俺の家を警護している乃愛さんの部下のような人だったらしいのだが、その人を締め上げて乃愛さんの情報を聞き出したのだとか。
 そこまでされた乃愛さんは仕方無しに貴俊に事情を語ったのだという。
 そこで今日のことも乃愛さんから聞いて、放課後以降は保健室に潜伏。当然、その主である沙良先生にもある程度の事情を語ったらしい。
「お前そんな与太話よく信じたな……」
「一応実家にも確認はとったしな。さすがにこんだけの事態だとなかなか口は重かったけど。ま、おかげで爪の進捗状況も聞けたから結果オーライってな」
 ああ、なるほど。
 貴俊の実家については詳しくは聞いていないが、ある程度予想はついている。確かに情報を集めるのに適しているだろう。とはいえこいつは実家というか父親と親子喧嘩の真っ最中だからそれさえも嫌だったとは思うが。
「まあウチは乃愛が何か企んどるなぁ位にしか思ってなかったけどな。まさかあんたがここまで無茶するとは思ってなかったわ」
 そういう沙良先生はどうやら呆れているらしい。やはり、大人から見たら俺の行動は無謀なんだろう。いや、誰から見ても、そうなんだろうな。
「俺としてはお前が勝つならずっと見ててもよかったんだけどな。さすがにヤバげだったんで割り込んだぜ」
「それは……まあ、助かったよ。けどアイツがやばいのはわかっただろ、お前さっきので目をつけられてるかもしれないぞ」
 けど貴俊はそんなことどこ吹く風。沙良さんは俺の背中を触って体の状態を確かめている。痺れが取れたのもこうして応急処置を受けられるのも全ては沙良先生の、そしてその魔法と医療知識のおかげだ。
「ま、こんなもんやろな。あんまりウチの魔法で干渉すると影響残るし、とりあえず治療はこれで終わりや。んで、今からどうするん? まだ続けるんやろ、どうせ」
 沙良先生の質問というより確認の言葉に、苦笑がもれる。脱いでいた上着を着て、腰掛けていたベッドから立ち上がる。
「ですね。このままアイツを帰すわけにもいかないんで」
 沙良先生はため息をついた。その頭にましゅまろがぴょんと乗っかる。今日のましゅまろは小さいな。それともあのくらいが普通なのか?
「ならしゃあないな。黒須川もどうせ手伝うんやろ。生徒だけにんなことさせるわけにもいかんからな。ウチも手伝ったる」
「いや、けどそんな。ここまでしてもらったんだし、これ以上危険に引き込むわけにも……」
 沙良先生は俺の言葉を鼻で笑う。ガキが粋がるな。そういわれた気がした。
「ここまできてお前をほったらかしていけるほど非人間じゃねーし、何よりも俺の愛が許さねーに決まってんだろー?」
 沙良先生の頭の上でぴょんとましゅまろが跳ねた。貴俊も俺のほうをじっと見ている。
 どれだけいってもこの二人が引かないのは一目瞭然だった。確かに、俺一人でポーキァに勝つ算段は、すでにほぼゼロに等しい。
 俺は卑怯だと思う。こうやって、相手の厚意を一方的に受けて危険に引っ張り出し、そして何も返さない。それがわかっていて、自分のために協力を頼むんだから、卑怯ここに極まれりだ。
 そして俺が考える策も卑怯なことこの上ない。そのうち唇が青紫になっちまうんじゃないか俺。たまねぎ頭の友人はいないけど。
「じゃあ、今から言う作戦をお願いします。特に貴俊には危険な役割になるけど……よろしく頼む」
「おう、任されたぜ。お前への俺の愛のためにもな」

 


 心地よい夜風が髪をなびかせる。が、そこに立つ二人の空気はお世辞にもよいとはいえなかった。というより劣悪極まりない。
 全てを語った乃愛は、美優の反応をじっと見ている。美優は話の途中から目を閉じて、くちびるを小さく噛んでいた。
「じゃあ、今学校にいるのは、お兄ちゃんと、黒須側先輩と、虎宮先生だけ、なんですか?」
「ああ。その三人で異世界からの襲撃者を相手に大立ち回りを演じているはずだ」
 もっとも、貴俊と沙良が出てきたのは大翔が一度敗北してからだ。
 美優は両腕で体を抱える。その体は小さく震えていた。
 やがてその口が、ためらいと共に開かれる。
「乃愛さん、ワタシの封印、解いてください」
「駄目だ。それだけは受け入れられない」
 美優の願いを、乃愛はすぐさま却下した。しかし美優は引き下がらない。
「駄目だというのなら、このままでも行きます」
「そんなことをして何になるというんだい? ヒロト君は君たちの身を案じてこういう作戦を取ったんだ。少しは彼の気持ちを汲んであげて――」
「そんなの、ワタシは知らないっ!」
 普段の美優からは想像できない大きな声が水面を振るわせる。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。体を抱える両手からは、小さく血が滲んでいる。
「それが優しさなら、ワタシは優しくされなくていい! それが優しさなら、ワタシは優しくなくていい!!」
「もう待っているだけなんて嫌、守られるだけなんて嫌、頼りにするだけなんて嫌! ワタシだって行きたい、守りたい、頼られたい! お兄ちゃんばっかりずるいよ、どうしてワタシには守らせてくれないの!?」
 張り裂けんばかりの悲鳴だった。魂からの叫びだった。その言葉にどれだけの苦悩が、後悔が秘められているのか。乃愛にもそれはわからない。
 乃愛が美優の過去について聞かされているのはただひとつ。全てを失った、と。
 その記憶が、悲しみが、美優にとって何よりの恐怖の根源に他ならない。己の目の前で失われていく、大切な人たちの命。それをただ見ているだけだった弱い自分自身。
「信じろというのなら信じるよ、でもその上でどうするかはワタシが決める! お兄ちゃんは負けない、お兄ちゃんは頑張って明日一緒に終業式を迎える。お兄ちゃんがそういうのなら、そうなるよ。でも、ワタシはそれでも行くの、そうしないと、ワタシがお兄ちゃんをお兄ちゃんって呼ぶことをもう許せなくなっちゃうの!!」
 ただ待つだけだった自分。それこそが、美優が抱えた罪の意識。生きていることを後悔するわけではない、みんなして自分を守ってくれたことを嬉しく思わないわけがない。だが、それでも自分で自分を許せるかどうかは別の話だ。
 行かなくてはならない。美優があの家にいることを自分に許すためには。
「それが駄目だって言うのなら、ワタシはもう、あの家には帰りません」
 その静かな瞳には強い光だけが残っていた。涙のあとを拭い、夜の風に吹かれ、しっかりと、まっすぐに前を向いて。
 今ここで乃愛が彼女を止めれば、美優は本当にあの家には帰らないだろう。
 命を危険にさらしてまで行くべきではない。たとえあの家に帰らなくても命があることのほうが大切であるはずだ。
 だが乃愛には痛いほどにわかってしまった。今ここで、美優がそちらを選択してしまえば、美優はもう生きてはいけまい。生きるというのは、命があるというだけではない。魂がそこにあってこそ、初めて人は生きているといえると彼女は考える。帰る家を失った彼女が生きる気力をなくし、悲惨な末路を辿るであろうことは容易に想像がついた。
 乃愛は大きく肩を落とした。
「君は、なんというか、三人の中で一番ミクさんに似ているよ」
「それって……えと、おかあ、さん、ですか?」
「ああ。何故だろうね、君と彼女は直接の面識はないというのに」
 結城美玖。大翔と美羽の実の母親であり、乃愛にとっても尊敬する人物。美優が結城家に来たのは美玖が亡くなってしばらくしてからなので、美優はその人物のことを話でしか聞いたことはない。
 それでも今の美優の姿は、生前の美玖と重なるものがあった。乃愛は眩しそうに目を細める。
「……わかったよ。ただし、再度の封印は不可能と考えていて欲しい。そもそもこれは私の専門ではないし、成熟した君の精神に干渉するのは非常に危険を伴う」
 乃愛の手の平が美羽にかざされる。
「ありがとうございます、無理を聞いてもらって」
「なに、何てことはないさ。ただしこれだけは守るんだよ。全員、無事で帰ってくると」
 美優は笑って肯く。乃愛もそれに微笑み返し――。
 光が弾けたその瞬間。一陣の風が吹いた。
「……行った、か」
 夜が闇を取り戻した頃には、そこに残ったのは乃愛ひとりの姿。
 いや。
 乃愛が視線をぐるりとめぐらせると、暗闇の奥に佇む少女がひとり。いつもの活発な雰囲気はそこにはなく、どこか沈んだ表情の陽菜が立っていた。
「やあ、どうしたんだい」
 白々しさを自覚しながら、乃愛はたずねる。
「えーっと、美優ちゃんが突然いなくなったのは、聞いちゃってもいいんでしょうか。美優ちゃんの魔法は、そういうのじゃなかったと思うんですけど」
「ふむ、聞かないでいてくれると助かる、といえば、聞かないのかい?」
「そりゃあもう」
 乃愛はそれを意外に思った。先ほどまでの距離からでは会話が聞き取れなかったのは確かだが、それでもただ事でない雰囲気は伝わっていただろう。
 陽菜がここへ来たのは、間違いなくあの電話をしたときの美優の様子がおかしかったからだ。そこから導き出せば、今の状況が大翔が何か切迫した事態に陥っていることは予想がつくはず。いや、陽菜ならば直感でそこまで答えを出していてもおかしくはない。
 となれば当然、陽菜は問い詰めてくるものだと乃愛は思ったのだが。
「ヒロ君が陽菜に話したくないのなら陽菜はそれでいいです。ヒロ君が陽菜を守りたいのなら、陽菜はおとなしく守られてあげます」
「そういう、ものかい?」
「ええ、そういうものなのです。陽菜はヒロ君が元気でいてくれるのが一番ですから。だってそう思ったから、陽菜の事を忘れてもらったんだもん」
「かわらないな、君は」
 苦笑を浮かべる乃愛に、陽菜はいつものように明るい笑顔を見せた。

 


 俺は電灯で照らし出された廊下のど真ん中に仁王立ちしている。炎と電撃によるやけどの治療はすんでいるが、皮膚がひりひりと痛むのはどうしようもない。疲労も激しい。すぐにでも倒れてしまいたいくらいだ。
 だからさっさと終わらせよう。そして帰って寝る。何しろ明日は終業式だ。そうすれば夏休みが始まる。おそらく、ユリアさんたちとの最初で最後の、夏休みが。
「よう、あんた。さっきのお友達はどーしたんだ?」
 ポーキァは警戒しているらしい。確かに、さっきからの俺の罠を思えばこの部分にだけ電灯がついているのは怪しく思うだろう。そして当然、これは罠だ。ここに俺がいることをアピールすると同時に、ポーキァの動きを封じるための。
「教えるわけがないだろ。それに、そんな余裕があるのか、お前に。今お前の前に立ってるのは、お前の敵だぜ?」
 挑発的な視線を向ける。ポーキァの表情が狂気を内包した歓喜へと変わる。やっぱりだ、こいつは戦いを好む性質にある。
 その表情には覚えがある。過去に貴俊が、あるいは俺が見せていた表情と同質のものだ。思い出したくない類の記憶。
 つまるところ、あれだ。俺と貴俊が混ざったらこんな風になるんだろうな。あるいは、俺や貴俊が馬鹿なまま成長していたら、こうなっていたのかもしれない。
 自分の見たくもない面を無理やり見せつけられている気分だ。なるほど、ムカつく。自分勝手な意見で悪いがムカつくぞポーキァ。
「だからなんであんたはいきなり邪悪な顔になるんだよ!?」
「やかましい! 四六時中邪悪な顔してるヤツに文句言われる筋合いねえよ!」
 バチン! 足元で電撃がはじける。体を引くのが遅かったら直撃していた。それが交戦の合図。
「さあ、もう夜も遅い。ガキは力ずくで寝かしつけてやろうか!」
「上等だ。心臓止めてやるから年寄りは一生寝てやがれ!」
 雷が光の尾を引いて迫る。恐怖を意志の力で抑え込み、腹に力を込めて迎え撃つ。
 フェイントを織り交ぜた拳は空を切る。視界の端に映った光を追う。
 ぱんっ!
 高い音と共に手の平に走る痺れと痛み。
「……あん?」
「どうした、カミナリ小僧っ!!」
 受け止めた拳を引きつつ、蹴りを放つ。もろに食らったポーキァは大きく飛びのいた。その顔に、初めて苦痛の色が宿る。ようやく、一矢を報いることができたらしい。
 ポーキァは怪訝な表情を崩さない。俺はいかにも嫌味な笑顔を浮かべた。
「何で俺が痺れないのか不思議か? これだよ、これ」
 ぷらぷらと両手両足を見せ付ける。両足の甲と脛、両手の手の平と甲をそれぞれぐるぐると黒いテープが巻いてある。
「絶縁テープっていってな。電気を通さない素材でできたテープだ。俺達の世界にはいろいろと便利な道具が転がってるんだよ」
 無論限度はあるがないよりは断然ましだ。物質文明バンザイ。
 ポーキァは俺の言葉に呆然として――笑みを浮かべた。どうやら、狩りの難易度が上がったことにやる気を見せたらしい。
「なるほどなぁ……そりゃあいいや。足りない力を道具や知恵で補おうってか、面白い!」
 そうか、よかったな。俺はぜんぜん面白くないっつーの! 胸中で毒づきながらポーキァの猛攻をしのぐ。いくらテープで防いでいてもそれは一部の話。無防備なところに食らえば終わりだ。体の動きを阻害しないために最小限のテーピングしかしていない。
 よって攻撃のほとんどは避け、どうしても避けきれないものだけを手の平を使って弾く。先ほどよりはやりやすいが、それでもじわじわと追い詰められていく。焦りが背中を這い上がる。
 だけど、それでも!
「ちぃっ! しぶてェ!」
「当然だろうがぁっ!」
 打撃、打突。いなし、かわす。打ち込み、捻じ込む。加速する攻防と加熱する意識。体は熱に浮かされたように浮き立ち、更なる先を目指してひたすらに奔り続ける。世界がひたすらに加速し続ける。
 右左、右左。拳の連鎖。進み退き、回り込み潜り込む。ただひたすらに愚直に、己の鍛錬の結果と信念の突き進むままに肉体が鼓動を刻む。
 そして――、
 ガツンッ――!
 俺の掌打がポーキァの眉間を捉え、ポーキァの拳が俺の胸を貫いた。同時に体が弾き飛ばされ、床を滑り転がる。
 さすがに……そろそろ、限界がきたか。
 起き上がろうとしても膝が立とうとしない。もはや肉体が限界を訴えてきている。これまでの損傷疲労に加え、たびたび受け流しきれなかった攻撃とともに打ち込まれた電撃。それが確実に、俺の体力を奪っている。
 ここまで、か……。
 俺は力なくうなだれる。ポーキァが、今度は周りを注意しながらゆっくりと歩み寄ってきた。荒い呼吸音は俺のものかポーキァのものか。まあおそらくは両方によるものだろう。
「へへへ……やるなぁあんた。けど、これで終わりだ」
「ああ、終わりだな。けどお前も終わりだ――貴俊、やれ!」
 俺の叫びと同時に、世界が暗黒に包まれた。月明かりさえも届かない、完全な暗黒。光はただ、ポーキァの四肢にまきついた電撃の弱々しい明かりのみ。
「な、んだぁ!? いったい何――がぁっ!!」
 突如ポーキァが苦しげなうめき声を上げた。闇に目を凝らせば、その首に何かが巻きつき締め上げている。さらにそれから伸びている紐がぐんと引っ張られ、ポーキァは俺の体を飛び越えて暗闇に飲まれる。
「ひゃっはははははぁっ!!!!」
 愉悦のこもった笑い声を上げて紐を引っ張っている声は貴俊。短く持った紐をこの狭い廊下の中でぐるぐると振り回す。振り回されるポーキァが壁やら床に引っかかってもガラスが砕けてもお構いなし。そして仕上げに、『分離』。
「うおぁぁあぁ!?」
 勢いのまま吹き飛ばされたポーキァは廊下の突き当たりの壁にぶつかる。そこでさらに貴俊が分離の魔法で学校の天井の構成を分離。バラリと天井の一部が割れるように抜け落ち、ポーキァの上に落下した。貴俊、元気過ぎ。そこまで派手にしろなんていっていない。
 悪態をつきたかったが口はまともに開かない。歯を食いしばり、壁に背を預けてどうにか立てるような状態だ。まったく、情けない。
 壁を支えに足を進める。貴俊はいつもの調子で瓦礫の山に近づく。無用心に見えるが警戒はしているだろう。そもそも野生の獣並の感覚の持ち主だ、心配するだけ損というものだろう。
 ちろちろと水の音が聞こえる。水がどこかからあふれているんだろう。さて、最後の詰めだ。
「おーい坊主。俺のハニーを痛めつけてくれたお礼は気に入ったか? だったらそのまま寝ててくれるとお互いにハッピーだぜ」
「っ、ざけんなああぁぁぁっ!!」
 暗闇を純白に埋め尽くす閃光が爆発する。熱が肌をちりちりと焼き、殺意が一瞬で廊下を満たした。その光の奥、全身から雷を上げるポーキァの姿が薄く見えた。
 これが、こいつの本気か。存在そのものが雷。ごくりと喉が鳴る。なるほど、これは――勝てる気がしない。
 恐怖を押さえ込む。震えるのは後回しだ。まだやることが残っているんだから。
「へ、へへへへ……いやぁ、やってくれるぜ、あんた等! いいぜもうこうなったらオッサンのいうことなんざ構うか! この辺一帯焼き尽くしてやるよ!!」
 空気が悲鳴を上げる。もはやその音を例える言葉は見つからない。視界の全てを雷が覆い、破壊の連鎖が繰り広げられる。その現象の中心にいるポーキァからは更なる力の高まりを感じる。いったいどれほどの力を解放しようというのか。俺は自分の考えの甘さを呪う。こいつの力は、学校を全開させる程度で終わるようなものじゃない!
「貴俊! アイツをとめるぞ!」
「当たり前だマイハニー! あんなガキに俺達の愛の巣を壊されてたまるかよ!」
 貴俊の意味不明な言葉は聞き流し、同時にポーキァへ跳びかかる。
「うぜぇっ!」
 衝撃が胸を貫いた。一瞬で息がつまり、意識までが消し飛びそうになる。
 どん、と背中に衝撃が走り、消えそうな意識が繋ぎとめられる。力なく廊下に這いつくばりながら、それでも立つ。立たなければ、ならない。この力を抑える方法は確かに俺たちにはない。もはやこの破壊の渦は俺たちでは手出しができない。
 け、ど。
 俺たち以外ならいいわけで。
「ポーキァ。お前にいい言葉を送ろうか」
「あんだよ、命乞いしたって手遅れだぜ」
「いやいや、いいからこういうんだよ。いいか、一緒に言えよ? せーの、バイバイキーン」
 はぁ? とポーキァが怪訝な顔を浮かべた瞬間。
 荒れ狂う龍が、その姿を丸ごと飲み込んだ。

 


 ざっ。砂を踏む音が、夜のグラウンドに響く。普段は静かなはずの夜の学校からは、時折度を越えた破壊の音が聞こえてきていた。
 それをききながら、彼は少し首を傾げる。随分と、苦戦をしているようだ。
「まさか彼が負けるとは思えませんが――いやいや、そういう可能性も考慮しなくてはなりませんね。こういう時期だからこそ」
 その声は少しこもっていた。それも当然だろう、何しろ男は狐の面を被っているのだから。
 一見変わった風貌の男は、いかにも自然な動作で校舎に足を向ける。
「学校は、部外者は立ち入り禁止、ですよ」
 その前に少女が現れた。ふ、と景色の向こう側から。怪訝そうに首を傾げる仮面の男に応えるように、少女は種を明かす。ちん、と何もない空間を指で弾く。するときらきらと星屑のように何かが輝きながら崩れ去っていった。
「鏡、ですか?」
「はい。後ろの景色を投影して自分の姿を隠していました」
 少女、美優は隠すでもなく、当然のように応える。男はなるほどと小さく肯くと、体を半身に構え、少女へと向かい合う。
「私が部外者であるというのは……まあこの仮面を見ればわかることですね。しかしあなたは? 夜間は生徒も校舎への立ち入りは禁止されているのでは?」
「いいえ、今夜はある人たち以外は全員、校舎を退去するように言われています。別に生徒に限ったことじゃないです」
「それならなおさら不自然ですね。あなたは……?」
 美優は。
 静かに微笑みながら、その瞳を冷たく燃やす。
「あなたのお仲間と戦っている人の、妹です」
 ザザザザッ!!
 言葉と同時、向かい合う二人を中心に無数の鏡たちが大地に突き刺さる。美優は最後にその手にもうひとつ小さな鏡を生み出した。ちょうど顔を隠せるサイズの鏡を顔の前に掲げる。二人の視界が、一枚の鏡によって遮られた。
「ワタシの魔法は『鏡界』といいます。カガミのセカイと書いて、『鏡界』です。自由に鏡を生み出すだけの能力ですが……この鏡には、ひとつの特性があります」
「ほう、それは?」
「他者の魔法を、弾く」
 狐の面が唸る。
 美優の魔法『鏡界』。その能力は形も大きさも自由自在な鏡を生み出し、操ることにあるが、その鏡には美優の言葉の通り、他者の魔法を弾くという特性が付与されている。
 故に、美優は魔法使い相手に対しては絶対的な防御力を有する。
「工夫次第で色々な鏡は作れますけど、最も強固で、最も単純な特性がそれだと、理解していてください」
「なぜ、それを私に?」
 狐面の疑問は当然だった。一見しただけでは美優の魔法の特性を見破ることは到底不可能だろう。それをあえて、よりにもよって敵に教えるのはどう考えてもおかしい。
 だが美優はそれを笑う。
「『今の話、信じちゃったんですか?』」
「――――」
 男が言葉を失った。
 美優は言葉を続ける。緊張を己の胸中に押し込めて、不安も震えも全て飲み込んで。
「『駄目ですよ、初めて出会った人の言葉を簡単に信じたりしたら。もし私の魔法にそれとは違った効果があったらどうするんですか? あ、でもそれも実は嘘で、本当に魔法を跳ね返す鏡かもしれません。でもでも、もしかしたらただの鏡、なんて可能性もありますよね』」
 抑揚のない声で感情をカケラも織り交ぜずに。鏡を顔に当てているせいで、その表情も読み取れない。
 やられた。男は面の下の顔を苦いものに変える。可能性の取捨選択、自分が言葉の罠にはめられたのだと知る。
 美優の言葉を信じるのなら、この鏡に対しての魔法攻撃は自殺行為だ。しかしそれが嘘で、本当は魔法であっさりと割れる性質のものであり、それとは違った――例えば攻撃的な性質を秘めていればどうなる? 魔法を放つための隙を作るわけには行かない。実はそれも嘘でやっぱり魔法を弾く効果があれば? ただの鏡であるのなら恐れる必要はないが、果たして。
 すでに鏡は無数に生み出されている。そこに動きは見えない。だが、先ほど少女は鏡を使って虚空から現れたように見せかけた。同じ手法で、死角に鏡が隠されているとも限らない。
 だが――
「ふむ。しかしこれではどうです? 『実は私は魔法使いではない。よって、魔法を跳ね返す鏡など何の脅威でもない』」
「『それならその鏡を割ってみたらどうですか? 爆発してしまうかもしれませんけど』」
 つい、と男の前に一枚の鏡が空を滑ってきた。しかし男は無言。
「『鏡の庭園へようこそ、きつねさん』」
 美優の言葉を号令に、いくつかの鏡が鋭い切っ先を男へと向ける。
 これもひとつの魔法戦。ただ力と力をぶつけ合うだけではない、嘘と真で相手を陥れる、深く静かな魔法の戦い。互いにそれが必殺の一撃となりえることを知っているからこそ成り立つ勝負。
 静かに、しかし激しく二人の意思がぶつかり合う。
 男は静かに佇む。が、何も考えぬままにそうしていたわけではない。男は無言で、このあと訪れるであろう瞬間を待ち続けている。
「ひとつ――お名前を、お聞きしても?」
「……結城、美優、です」
 ほ。と男が息を吸った。その響きはどこか感心したようでもあった。美優は鏡の向こうで眉をひそめる。
「なる、ほ、ど。私の名前は、エラーズといいます。可能であるのなら、もう二度と、会わずに済ませたいものです」
 言葉が終わると同時だった。
 どん!
 校舎が割れる音が響き、美優の視線が一瞬そちらを向く。水が昇り龍のごとく、校舎の一角から天へと上っていた。その隙に男は力強く地を蹴ると、鏡を踏み台にして庭園から抜け出した。その勢いのままに駆け出し――。
 パンッ!
 はじける音と共に、動きを止めた男のすぐ脇にあった小さな樹木が音を立てて倒れた。
 男はそれを見届け再び駆け出す。美優はその背中を呆然と、見送った。
「……なん、で?」
 自然と、疑問が口をついた。
 自分が今無意識に放った普通魔法は、それだけに間違いなく男――エラーズをしとめるタイミングだった。
 美優にはそもそも傷つける意思などなかったのだ。しかし最後の魔法だけは違った。それを男は、背後からの魔法を当然のようにかわした。
「お兄ちゃんと、同じ……?」
 しばらく呆然とそこに立ち尽くしていたが、はっと自分を取り戻す。
「お兄ちゃん……っ!!」
 鏡が光と消え、その中を駆け出した。
 ただ、大翔の無事を祈って。

 


 突如視界を埋め尽くした黒い流れは、轟音と共に天井を突き破っていった。膨大な量の水流。それが昇り龍の正体だった。
 窓から見上げれば、流はその勢いのままに天へとのぼり再び加速しながら校舎へ向かい、そのまま――
 ゴウンッ!!
 思わず首をすくめてしまうほどの轟音が響き、天井をつきぬけ大量の水が廊下を暴れまわった。やがて水が収まってくると、その中からポーキァの姿が現れる。さすがに、気絶してしまったらしい。
「やれやれ、キメ台詞も口にしないくらいびっくりしたらしいな」
 倒れるポーキァを見てほっと息をつく。どうにか、すべての作戦はうまくいったらしい。なんともお粗末な作戦だったが、まあよしとするか。
 とにかく、これで貴重な情報源が手に――
「大翔、危ない!」
 え――ぐあっ!?
 悲鳴を口にすることもできなかった。唐突に全身を貫いた痛みに、限界寸前だった精神がそれを飛び越える。
「やれやれ……よもやと思ってきてみれば、まさかポーキァが負けているとは。この世界の魔法使いも、なかなかやるようですね」
 慇懃無礼な言葉。閉じようとする意識を無理やりこじ開け、声の主に視線を向ける。声の主は――変わった姿をしていた。
「へ……変態……っ!」
 どうにか口を開いて感想を述べる。相手の雰囲気がなんとなく悪くなった気がする。なんだよ、正直者のヒロ君ですよ?
「この状況でどうにか口を開いたかと思えば、出てくる言葉がそれですか。余裕なのか怖いもの知らずなのか」
 いや、むしろ呆れていやがる。
「さて、私はポーキァを助けに来たわけですが……できることなら、今ここではあなた方とは争いたくはない。互いにけが人を抱えているわけですから。どうです、ここは引き分けというわけにはいきませんか?」
「……俺はハニーを助けに来ただけだからな、その小僧は俺の愛には関係ないね」
 俺はもう口を開く気力を使い果たしていたため、判断を貴俊に委ねる。貴俊はポーキァにこだわりはないので、その提案をあっさりと受け入れた。仮面の男はポーキァを軽々と抱えると、窓枠に足をかけて飛び出す――と思いきや、振り返る。
「そういえば自己紹介をしていませんでした、私はエラーズ、彼の仲間です。お互い、もう出会わないことを祈りましょう。ああそれから、私としては個人の嗜好に口を挟みたくないのですが……同性愛は、道が険しいですよ?」
「うるせえ変態仮面誰が同性愛だ、そこの馬鹿の言葉を真に受けてんじゃねえ! さっさと消えないと真っ赤に塗りつぶしてうどんにのっけるぞ!」
「おお、怖い怖い。ああそれと……あなた達、妹がいたりしますか?」
「そんなことをいちいちお前に、」
「俺はいないぞ」
 …………おいこら、貴俊。その言い方はもはや答えをを言ってるようなもんだろうが!?
「ふむ、なるほど、君が……」
「何だよ」
「いえいえ」
 それでは、と男はそのまま窓から飛び去った。どうでもいいけど、一応ここ、三階なんだがな。まあ大丈夫なんだろう、変態だし。何となく貴俊を見ながらそんなことを考えた。
 その視界が、じんわりと滲んでいく。
「貴俊……俺、もう限界らしい。後、頼むわ」
 その言葉だけを残し、俺はその場に仰向けになる。床の冷たさが心地良い。
 結局これだけの破壊と苦労をしてもポーキァを捕らえることはできず、よくわからない存在の出現があったというだけだった。
 やれやれ、どうにも、なんか、なぁ。
 深いため息をついて、
「お、お兄ちゃんっ!!」
 こんなところで聞こえるはずのない声を聞きながら、静かに、瞼を閉じた。

最終更新:2008年03月04日 11:01
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