世界が見えた世界6話 C

 ぼけーっと港から水平線と空を眺めていた。アホの子みたいに、貴俊とエーデルと三人並んで。
 なぜ突然こんな所に来ることになったのか。そのきっかけは、文化祭が終わった数日後の話になる。

 


 朝食の最中に、いきなり美羽が立ち上がった。
「兄貴、今度の休みに遊びに行こう!!」
 唐突にそんなことを言われても、俺としては反応の仕様がない。というか、みんなびっくりしている。
「とりあえず落ち着け美羽、食事中に急に立ち上がるんじゃない。……ていうか、何でいきなりそんな話が出てくる」
「なんでって、みんなで思いで作るんでしょ?」
「「――――っ!?!?!?」」
 俺とユリアさんが同時に味噌汁を噴きそうになってむせる。
 ちょ、おま……!? な、何をいきなり!? っていうか、何でそれを!!
「黒須川先輩に聞いたんだけど、どうしたのよその反応、何か問題でもあった?」
「な、ななな、ないですみょっ!? なんでも!!」
 ユリアさん噛んでる。あと顔がすごく赤い。そしてこっちをちらちら見ないで、なんか照れる!
 しかしそのおかげで俺は冷静さをすぐに取り戻すことができた。
「? まあよくわからないけど、そんなわけだからみんなで遊びにいこう。ちょうど調査も一区切りついたし、しばらくは暇ですよね?」
「ふむ……確かにしばらく期間を置かなくてはならないが……調査対象からあまり離れるのも少々危険があるかもしれない。姫様、どういたしますか?」
 レンさんは相変わらず冷静な判断を下している。確かに、いくら調査で今やることがないからといって、その場所から離れると何かあった時に対応し辛いだろう。何せ世界の命運がかかっているのだ、失敗は許されない。それにしても、今どういう状況なんだろうな。調査で何もしない期間ってできるもんなのか?
 ところが、ユリアさんはというと、
「え、あの、あ、遊びにですか、そ、そうですね、どうでしょうねっ!?」
「ユリアさん、まずは落ち着いて!」
 顔を真っ赤にしているユリアさんをなだめるのに十分ほどを要した。思い返すと、あの状況であの言葉ってすごく恥ずかしいんだが。
 貴俊のやつ……どこから俺たちのこと覗いてたんだ?
 そんなわけで遊びに行くことが決定。メンバーは我が家の面々と陽菜と貴俊とアホ王子。乃愛先生が残って学校周辺の見回りで、引率がなぜか沙良先生ということになったのだった。

 


 沙良先生はどこから借りてきたのか、ちょっとしたバスのような車を持ってきた。ていうか、免許持ってるんだ。警察に見つかったら問答無用でとめられそうだけど。
 なんてことを俺が思っていたら、そのまま口に出していた貴俊が全身の関節をすごい方向に曲げられていた。口は災いの元って本当だと思う。
「それにしても、沙良先生の車の運転は凄かったなぁ……あれは絶対元走り屋だよな」
 沙良先生の車の運転は荒いなどという次元を遥か遠くに置き去りにするようなすばらしいものだった。生きていることを実感させてくれる運転だ。
 ちなみにその運転によってユリアさんとレンさんとアホ王子の三人に車に対すして常軌を逸した恐怖と誤解が植えつけられてしまった。大丈夫、あんな運転をするのはごく一部だから。
「しかしいくら人気があるとはいえ平日だと人は少ないのな、やっぱり」
 俺たちがやってきたのは港湾地区に建設されたテーマパークの集合施設。遊園地に水族館、動物園などがひとまとめになった施設だ。ここなら丸一日を過ごすのに不自由はしない。むしろ一日じゃまわりきれないくらいだ。
「これは好き放題できそうだよな。どうだ大翔、百獣の王と雌雄を決してみねぇ!?」
「黙れ野獣そんなナイスアイデアみたいに言うな。というかアホ王子もいつまでも震えてるな」
「はっ!? ボ、ボクがいつミス・サラの運転に怯えたというのだね!?」
 そうは言っても足がガクガク震えてるぞ、お前。虚勢ってバレバレだ。
 向こうの世界の人たちは嘘つくのがヘタなんだろうか。いや、嘘つくのがヘタって言うよりは無闇に素直っていうか正直なところがあるような。そういう気風なんだろうなぁ、きっと。
「しかし帰りもあの運転で帰るのかと思うと、さすがの俺もちょっと気が重いな」
「はっ!? そ、そうか……帰りも彼女の運転で……っ!! く、歩いて帰るしかないのか……!?」
 いや、俺の家からここまで直線距離で50キロ以上あるんだけど。歩いて帰るつもりか、その距離。
「俺はお前とだったらどんな距離だって構わない。共に歩いた距離に比例して愛が深まると信じて!!」
「ああもう気持ち悪い暑苦しい、そもそも深まる愛が存在してねー!」
 そんな風にじゃれて(?)いると、
「ちょっと、気持ち悪いから白昼堂々と男同士いちゃつくのやめてくれる?」
「やかましい! 俺だってそんな風な視線で見られるのは嫌に決まってる!」
 受付を終えた美羽が戻ってきていた。本来なら俺が行くべきだったんだろうけど、情けないことに沙良先生の運転で膝が笑っていたのだ。
 あの運転で大爆笑できる美優は将来大物になると思うよ、うん。
「お前も震えてたくせに、無理なんかしやがって」
「む、無理なんかしてないわよ! 妹が平気だったんだから姉が平気なんて当たり前でしょ!」
 どういう理屈だ。
「どうする……どうするエーデル・サフィール……っ!!」
「お前ちょっと海で頭冷やして来い」
 カードで自分の行動決めるな鬱陶しい。
「がぼ、ごほっ……げほっ!? こ、殺す気か君は!?」
「うだうだうだうだ鬱陶しいんだよ、長い髪を振り乱すな獅子舞かお前」
 水を魔法で器用にあやつり戻ってきたアホ王子は必死の形相だった。近い、顔が近いって。
 わめきながら詰め寄るエーデルの鼻に鯖を突き刺す。
「んで美羽、手続きは全部終わったのか」
「うんばっちり。何故か今三人分を海に捨てたくなってきたけど」
 そういいながらすでにチケットは美羽の手の中で無残に握りつぶされていた。

 


 異世界からの来訪者達はぽかーんと口を丸く開いて呆気にとられていた。それもそうだろう、俺たちも少なからずの驚きを抱かずにいられなかったのだ。元の世界にこんなものが存在しない彼女達が驚かないわけが無い。
「綺麗……本当に水の中を歩いているみたいです」
「このような施設があるのか……この世界は我々の想像を絶しているな」
 ユリアさんとレンさんは驚きつつ目の前の光景に心を奪われているようだった。
 しかしながら、アホ王子はといえばなにやら納得の行かない表情。
「……むんっ!」
「って何をしようとしている」
 もはや慣れすら感じるようになった悪寒。アホ王子の手の平が淡く輝いた瞬間、膝の裏を蹴り飛ばす。
 すぐに突っかかってくるかと思われたがそんなことも無く、アホ王子は両手をついたままなにやら唸っている。
「納得がいかない……このような事、この僕ですら困難を極めるというのに……」
 ……どうやらへんな対抗意識を燃やしているらしい。なんでこんなことにまで対抗しようと……ああ、なるほど。俺はアホ王子の視線を追う。その先の彼女は、ただひたすらに幻想的な光景に心を奪われている。ここ最近は普通の少女のような笑顔を見せることもあるユリアさんだが、今日の笑顔は格別だった。
「だからってお前が同じことをしても意味無いだろ。ユリアさんが喜んでるのは」
「ふん、馬鹿にしないでもらえるかい。これでも僕は彼女を君よりも長い間ずっと見てきたんだ、彼女がああして笑っている意味くらいわかって当然だ。先のはまあ、ちょっとしたお茶目だ」
 お前のどこに茶目っ気があるんだと。
 アホ王子は立ち上がり軽くとズボンを払い、髪をと両手を大きく広げ歩き出した。妙に変態チックなくせに、腹立たしいことにその歩みは優雅で一部の隙もなく、目の前の幻想的な光景に見事にマッチしていた。
 わかっている、理解はしている。ただ納得できないだけだ。結局のところ、エーデルが生きてきた世界というのはそういう立ち居振る舞いが必要だったのだと。それはきっとユリアさんにも言えることだ。俺にはたぶん一生、理解のできない世界。
 それはある意味、超えようと思えば超えられる異世界という壁よりも、分厚いものだ。
「だからってうだうだ考えるのも性に合わんがな」
「よおどうした大翔、何か悩みがあるのなら俺に話してみたらどうだ。どこまでもツキアウぜ、性的な意味で」
 唐突に肩に手が回されたかと思うと、ぐいと引き寄せられて首を絞められた。貴俊のほうが多少背が高いとはいえ、脇に頭を抱えるようにされてしまえばどうしても体をかがめるしかない。
 おいこらはなせ、て言うか今ツキアウの部分に軽くない違和感を覚えたぞこら。ため息をつきながら顔だけを動かす。
「お前に悩みを話したところで事態が好転するとは思えない」
 それ以前に、何を話せばよいのやら、ということになるのだが。そもそも陽菜や貴俊には何一つ事情を話していないのだから。
「そんなのやってみねぇとわかんねーだろ。安心しろって、俺ならお前なら考え付かないような解決法を導き出せること請け合いだぜ」
 その言葉の中のどこにも安心できる要素が見当たらないのはどういうことだろうか。
 貴俊は指をくるくると回している。指先に何かを引っ掛けてくるくると回しているような仕草だ。いや、想像の中で貴俊は確かにそれをまわしている。貴俊が何をまわしているのか、俺には容易に想像がついた。いや、俺以外の誰にも、それを想像することはできないだろう。
 幻視できるほどに脳裏にこびり付いた、それは忌まわしい記憶。俺と貴俊のみが共有する、傷だらけの過去。
 思わず自分の手へと視線が延びた。いまだに消えない、刃によって付けられた傷跡が残っている。貴俊の刃によって付けられた傷跡だ。あの時も、こんな風に指先をくるくる回していた。その指先にあのナイフを引っ掛けて。
「刃物を持ってきたところで、水族館の魚は食べられないぞ」
「ん? おお、いかんいかん、つい癖が出てたな。ああでもこいつら食えたらさぞかし腹いっぱいになるだろうなぁ。あのサメとか丸焼きにしてさ」
 サメは普通食わないよ。いやでも貴俊ならあるいは……? いやでも、まさかなぁ。いくら貴俊でもそこまで非常識な事は――しそうで怖い。ていうか貴俊ならサメとタイマンはれるんじゃなかろーか。それを考えるとこいつを水槽の中に突き落とすのも面白いと思えてきた。やらないけどね。
「とりあえず手を離せ、ったく。何を言われようがお前には何一つ相談するつもりは無い」
「ひでーなあ。まあそれでこそ大翔なんだけどな、ここでいざ相談されたら思わず水槽に飛び込むとこだったぜ」
 ……惜しいことをしたかもしれない。
「ま、俺が役立ちそうになればいつでも呼べよ。特に、お前の敵なら俺が代わりに全部薙ぎ払ってやるから」
「お前それもう俺の敵じゃないだろ」
「いいんだよ、それで」
 貴俊は笑う。これ以上は無いといわんばかりに、はちきれんばかりの愉快を込めて。
「お前の敵は俺だけだ」
 なるほど。
 つまりそれだけを言いに来たんだ、こいつは。今さらにも程があるというものだが、それでも口にせずにはいられなかったんだろう。自由奔放で破天荒を絵に描いたような男の癖に、妙に細かいことにこだわる。ふとした時に臆病になる。
 自分の立ち位置を、例えばエーデルに奪われはしないかと心配しているのだろう。
 まったく、心底あきれ返ってしまった。何を今更そんなことを確認しているんだろう、この男は。
「わかってるよ。俺だって、お前以外に敵を増やせるほど手は余ってないんだから」
 その答えに満足したのか、貴俊の拘束が外れた。あー、苦しかった。
「おっけーおっけー、それだけわかってりゃあとは問題ないさ。俺の愛はいつでも絶好調だ」
 貴俊は上機嫌で前を行くアホ王子に向かって跳び蹴りをかました。アホ王子は派手に倒れ、貴俊がそれを見て笑う。怒りを全身からほとばしらせたアホ王子とバカ代表の火蓋が気って落された――。
「……アホくさ。さっさと次いこ」
 泥沼の殴り合いを始めた二人を放置して歩きだす。他のみんなはいつの間にか先へと進んでいて、最後まで残っていたのは俺たちだけになっていたのだ。
 ……男三人で何トロトロしてんだか。せっかく女の子と一緒なんだからそっちと一緒に行動したほうが楽しいに決まって――うーん、微妙に気を使いそうだ。
 気苦労を背負っているような気もするけど、俺が望むのはきっとそういうことだから。

 


 それでもついていけるかどうかは別問題ですよ、ええ。
 ベンチに深く腰掛けた。
「……お兄ちゃん、へいき?」
「そうみえるのか、お前には」
 ふるふる。首が小さく、しかしはっきりと横に振られた。うん、俺もうくたくた。それというのも暴走気味なユリアさんレンさんは当然ながら、異様にテンションの上がった美羽にいつでも元気いっぱいの陽菜も加わればもう誰も止めることなんかできないのだ。というか問題は沙良先生。煽る煽る。おかげでみんなの暴走に拍車がかかってしまった。
 美優はテンションとともに行動が過激化することもないのだが。
「あ、それじゃあワタシ、お土産見てくるね」
「おー、行ってこい、ゆっくりしてきていいぞ」
 ぱたぱたと駆けていく美優。行動は過激にならないが買い物の消費が半端ない。将来あいつと付き合うことになる男性には心底同情することになるだろう。
 天井を見上げる。何も見えない。目を閉じてみる。何も見えないのは同じだ。こちらのほうがよりはっきりとした暗闇だが。よくよく考えてみるとはっきりとした暗闇ってのも変な表現だな。
 ……このまま寝てしまいそうだ。
「はぁ……ってうお!?」
 視界を開くと目の前にかわいらしい笑顔が。
「あ、ヒロトさんおはようございます」
 いや、寝てないんですがね。確かに疲れてはいるけども。
 そもそもなぜいきなり人の顔を覗き込んだりしているのか問いかけたい。目と鼻の先とはまさにこのこと。さすがにこの距離感は気恥ずかしい。過去にこれよりもっと、それこそ触れ合うほどの距離にまで近づいたことはあるが、あれはそもそも事故なのだし。
「どうしました、ぼうっとして。やっぱりはしゃぎすぎてしまいましたか、私たち」
「そりゃあ今までに見たことないくらいにはしゃいでたとは思うけど、それで問題なんてないと思うよ。ここはそういう場所で、俺たちはそうしに来たんだから。俺がへばってるのは単に不甲斐ないだけだよ。誰かのせいだなんてとんでもない」
 事実そうだろう。俺を除いたメンバーはみんなぴんぴんして土産物を物色している。ところであいつらはまだこれから回る場所があることを理解しているんだろうか。とてもじゃないが持ち歩ける量じゃないぞ、特に美優の持つどでかいぬいぐるみはロッカーにも入らないと思うんだが。そもそも水族館にきてエビフライのぬいぐるみをチョイスするのはどんなセンスなのかと小一時間問い詰めたい。
「……本当にそう思っているんですか?」
 ユリアさんはどこか呆れているようだった。
 それにしても土産を選んでいるだけなのに本人の性格ってよく出るよな。美羽はさっきからずっとキーホルダーとにらめっこしている。数やらを気にしているところをみると、おそらく生徒会の面々へのプレゼントなのだろう。美優は先ほども言ったように背の丈ほどもあるエビフライのぬいぐるみを気に入ったようだ。陽菜はクッキーやチョコレートに釘付けになっている。このハラペコさんめ。レンさんは真剣な顔でその良しあしをチェックしている。量産品なんだからどれでもそんなに変わらないと思うけど。貴俊はネタになりそうなものを見つけてはいちいち大笑い。アホ王子は見た目派手なものばかりを見ている。
 沙良先生は……ああ、寝てた。向こうのベンチで寝ていました。
「いやー、だってほら俺お土産を選ぶ余裕すらないもんね」
 俺の体力は沙良先生と同年代並ということになるんだろう――ってそれもどうなんだ? あの人見た目だけなら俺らとタメどころか年下にさえ見えるんだぞ。しかも実年齢は不明。うーむ。
「ヒロトさんと私たちでは疲れ方が違うのは当たり前です。だってヒロトさん、ずっと誰かのそばにいたでしょう」
「えぇ、そうだっけ?」
 自分の行動を思い返してみる。確かに、誰かと一緒に行動してることが多かったような。
「あなたは私たちが望めばそうしてくれるから。だからつい頼ってしまうんです、だからつい、こちらへ引き寄せたくなってしまうんです」
「俺はそんな大層なもんじゃないんだけどな、頼られたからって応えられるとも限らんし。まあ、俺で役に立てるのなら呼んでもらうのは構わないんだけど」
「……そういうところが、ずるいんですけれどね」
「え?」
「なんでもありません」
 小さな笑顔が離れていく。なんだったんだろう。駆けていく後姿を眺めながら首をかしげた。女心は何とやら? やれやれ、難しいことを考えられるほど立派な脳みそは持ち合わせてないんだけどな。
 ユリアさんの後を追って立ち上がる。そろそろ暴走を止めないと家の中が余計なもので溢れかえってしまいそうだ。
 そうやって、流されているんだろうと自覚はしているけれども。

 


 水族館に入ってから二時間もたっていないはずなのに、太陽の光がやけに眩しい。別に日光を浴びるととけるなんて言うつもりはないけど。
 さて、これからどうするかだが広い園内、全部を回るのはまず不可能だ。となれば取捨選択が必要になるわけだが、その取捨選択にも個人での優先度というものがあるだろう。
 というわけで。
「じゃあひとまずはここでみんなわかれて、五時になったら観覧車前に集合、それでいいな?」
『はーい!!』
 威勢の良い返事にうん、とうなずく。
 俺たちは数人ずつのグループに分かれて行動することにした。人が少ないとは言ったもののあくまでも普段と比べての話だ。混雑するほどではないにしろそれなりに人はいる。数人で行動すれば迷うことも無いだろうという判断だ。
 ……いやまあそれ以前にこんなところにきてひとりで遊びまわる勇気なんて持ち合わせていないがな。
「やっぱ俺は絶叫系だな。ククク、どれほどのものか楽しみだ」
「お前その顔で乗るのやめろよ、周りの人が別種の恐怖に襲われるから」
 やる気って言うか殺る気にしか見えないぞ、その顔じゃあ。
 ぐるりとみんなを見回すとそれぞれにどこに行くか話し合っていた。当然ながらユリアさん達は何がなんだかわかっていないので、沙良先生に丁寧な説明を受けている。それにしてもあの人、いつでも手放さないんだな、あの大福饅頭。たしかましゅまろとかいったか。
 周囲の視線を集めてやまないあのぬいぐるみの正体はなんなんだろうな。さっきからぴょこぴょこ飛び跳ねているけど、まさか本当に生きているなんてことはないだろうし……中に何か別の生物でも入ってるんだろうか。
「なんや結城、さっきからじっとこっちを見て。ウチは攻略対象にはいっとらんよ」
「俺にはあなたが何の話をしてるんだかさっぱりわかりませんよ」
「兄貴、アタシ達はそろそろ行ってくるよ」
 美羽と美優、それに陽菜はすでに待ちきれない様子だ。今にも駆け出そうとしている。
「ああ。大丈夫だと思うけど変なのにつかまるなよ。もしもの時は容赦なく――うん、手加減してやってくれ」
 この三人なら変に絡まれたりしても問答無用でなぎ倒してしまいそうだ。少なくとも実力的にはまったく問題ない。
 美羽の日々の俺に対する仕打ちが、陽菜のあの鋼鉄ぱんちが記憶の底から浮き上がってくる。あの日の痛みを俺は忘れない。
「美優……この二人がやり過ぎないように気をつけてやってくれ」
「う、うん、わかった。つぶすだけで済ませればいいんだよねっ」
 何をだ。
 もしかしたら一番危険なのは美優なんじゃなかろうか。目が本気だからなおさら怖い。こいつならそうする。間違いなくそうする。何をつぶすのかは知らないが。
 知らないったら知らない。わかんないってば。
「まあ、なんだ……気をつけてな」
 けが人を出さないように。
 内心ハラハラしながら三人を見送った。おかしいな、今日は息抜きのようなもののはずなのになんでこんなに心労が。
 忘れよ。それがいい、うん。あまり気にしすぎるのは良くないよね、禿げるから。
 さて、ユリアさんとレンさんはどうするつもりなんだろうか。
「ヒロトさん、ご迷惑でなければ一緒に回りませんか?」
「むしろこっちからお願いしたいくらいだから全然平気。貴俊、お前も一緒にどうだ?」
 ていうかこんな場所で貴俊やアホ王子から目を離す事は社会平和に対する挑戦以外の何ものでもないから首に荒縄括りつけてでも引きずり回しておきたいところなのだが。
 しかし二つ返事をするものとばかり思っていた貴俊は、驚きと呆れの間の表情を浮かべた。
「お前……いや今更だからもういいや。俺はアホ王子連れて人類の限界に挑戦してくるから」
「な、おい!? は、離したまえ、なぜ僕が君のような者とああぁぁ……っ!!」
 アホ王子は抵抗むなしく貴俊に引きずられていってしまった。
 貴俊は見た目のガタイの良さ以上に腕力があるからな。それこそ人類離れして野生じみている。貧弱を絵に描いたアホ王子では対抗できるはずも無いだろう。
「なんだったんだ、あいつらは。えーっと、それじゃあ四人で回りますか」
「はぁ? 何いっとるんや、うちはずっと休憩やからうごかへんよ」
 いやその発言にこそ俺は疑問を禁じえませんが。今から五時までって何時間あると思ってるんですか。
 しかし沙良先生はましゅまろの上に座ったまま動こうとしない。ていうかましゅまろのサイズが三倍以上にぷっくりと膨らんだのはどういう原理だ。実は宇宙生物とか新種の生命体とかなのか。
「さすがにサラ殿一人を残すわけにもいきません。私がここに残りますので、姫様とヒロト殿で行ってきて下さい」
 あれ?
 俺が生命の神秘について考察しているとなんだか変な方向に話が進んでいっているような?
 別にいやだなんてことはなくてむしろちょっと嬉しかったり……だから何を考えてるんだ俺は。
「そう? それじゃあ行きましょうか、ヒロトさん」
「あれ、意外とあっさり? まあいいんだけど……それじゃあ、行ってきます」
 レンさんと沙良先生に見送られて、俺たちは動物園の方面へと歩いていった。

 


 沙良は深いため息をつく。込められた感情は呆れと怒り。その感情の殆どは大翔の異常ともいえる鈍感さに向けられたものである。
 しかしほんのの一部、怒りの少しは今この場にいない、彼女の同僚に対して向けられていた。
「どうかしましたか、サラ殿」
「ちょっと文句を言ってやりたい相手が見つかっただけや。きにせんでええよ。そんなことよりあんたはよかったんか、あのお姫様を守るのがあんたの一番の役目、なんやろ?」
「仮にここで何か問題が起こったとしても、あのお二人で解決できないようなことならばそもそも私の出番はありませんよ」
 レンの言葉に一応は納得の表情を見せるが、それだけではないことぐらいは理解していた。なるほど、この少女は騎士でありメイドであり、何よりもユリアの理解者であるのだ。
 本人は否定するだろうが、それはまさしく絆によって成り立つ友人同士のような関係。
 つまるところレンは気を使ったのだ。彼女の主の命を守るのみならばその傍を離れるような選択肢は最初から存在しない。それを選ぶだけの余裕が彼女の中に在る、ということはつまり、彼女にとってユリアは主である以上に、ユリア・ジルヴァナという『親友』なのだろう。
 おそらくそれを理解し甘んじて受けるユリアも、同様に感じているはずだ。
「うん、あんたらのそういうところは、うちは気にいっとるわ」
「? はぁ」
 レンは唐突な言葉に面食らったが、悪く思われていないということは理解できたらしい。
 沙良は考える。この二人の関係を見たからこそ際立つ、結城大翔という人物の内包した歪んだロジックを。沙良は大翔との付き合いは長いとはいえないがそれでも分析は立っている。
 その必要があると彼女の無意識が悟ったのだ。故に
「立場に拘るのはかまわん、立場に縛られるのはいかん。そういう話や」
 自分が何者であるのかを自覚するのは構わないし、それを己に課すこともあるだろう。沙良もまたそういう人間のひとりだ。
 しかし結城大翔と虎宮沙良の在り方は全く違った構造をしている。少なくとも沙良は、劇中のキャストになるつもりはない。
「乃愛、あんたはそれでええと、本気で思っとるん?」
 疲れを感じさせるつぶやきは、レンの耳に届くことなく虚空へ沈んだ。
 しばし空を見上げ、沙良は立つ。
「沙良殿?」
「ほら、せっかくこんなところにおるんやしじっとしとったらもったいないよ。さっき面白そうなもん見つけたんや、ちょっと行ってみようか」
 しかし考えに沈むことはしない。彼女は教師であり、今日は保護者としてここへ来たのだ。自分の勝手に教え子をつき合わせることはしない。
 そういう沙良の生き方なのだ。

 


 考えてみたら動物園に来たのも久しぶりだ。少なくとも中学以降に来たという記憶はない。そう考えると、多少心が弾む。
 年甲斐もなくとは思わない。思ったら目の前の人がまた拗ねてしまいそうだから。
「わあ、ヒロトさん、見てください! なんですかあの生き物、首がすごく長いですよ!!」
「あー、あれはキリンって言ってね」
「あれがキリンですか!? 私知っていますよ、ゾウサンに負けちゃうんですよね!!」
「いやまてそれ違う」
 だからあなたはテレビの影響を受けすぎですってば。それはあくまでCMなんです。
 ユリアさんは動物園に入ってからというものずっとこの調子だ。彼女らしいといえば彼女らしいとも思うけど。
 俺はと言えば目を輝かせて園内のあちこちを駆け回る彼女に引っ張り回されてばかりいるけど、それがむしろ楽しいのはなんでだろうね。
「そっちの世界にはこういうのはないんだ?」
「そうですね、野生の獣は危険ですから。人の下にある獣はすべて家畜や狩猟用です。愛玩動物も、こちらの世界のような数も種類もありません」
 なるほど、確かに言われてみればその通りだ。いわゆる現代の形式の動物園ができたのも一九世紀以降らしいし。もっとも、彼女の世界の文明がさらに発達していけば、このような形態の動物園ができることも考えられる。
 うん、異世界の動物たちの動物園か。それは確かに心が躍る。
 この世界には、彼女の世界にはないものがある。
 彼女の世界にも、この世界にはないものがある。
 そのどちらもが、そこに暮らす人にとってはただ一つの、世界。
「……なんか、今更だけどすごく不思議だな」
「どうしたんですか?」
 ふと、心をよぎった不可思議な思い。幾重に重なった偶然が、今ここにあるというその事実。
 その眩しさ、その儚さに、少しだけ寒い思いを抱いたのだ。
「たぶん俺たちは、本当は一生出会うことはなかったんだろうな、とか、思った」
 それはきっと、たとえば地球の裏側にいる人にも言えることなのだろうけど。
 それでも、同じ地球の、同じ世界の上にいるという事実は、異世界という壁に比べていかにも薄っぺらい。
 世界一つを超えられる出会いなんて、そうそうあるものではないし、あるべきでもないと思う。
「でも……それでも出会えた――あるいは出会えてしまったのですから、それはきっと素敵なことですよ。そこに意味や理由があろうとなかろうと、その事実も今の現実もすべてまとめて。だからこそ、私は心から守りたいと思います」
 守る。
 彼女はその笑顔で、何を守るといったのだろうか。世界を? そうかもしれない。いや、普通に考えるのならばそうなるに決まっている。
 けれど、このとき。
 俺は彼女が守るといったものが、それとはまったく違うものを指していたように、思えたのだ。

 そしてそれはきっと間違いじゃなかったと、最後にようやく俺は気付く。

 


 なにやら向こうのほうが騒がしい。
 なんだろうと耳を済ませるまでも無く、その悲鳴が届いた。
「君ー! 今すぐその檻の中から出るんだ! ゴリラと戦うなんて無茶苦茶だ!!」
「いーややめねぇ! こいつ俺にガン飛ばしてきやがったんだ、ただじゃすまさねぇ!!」
 動物園の係員の声に答えたのは、あまりにも聞き覚えがありすぎて逆に記憶の中から引っ張り出すのが困難な声だった。むしろ知らない人の声だ。うん、そういうことにしておこう。
「つーわけで、行こうか、ユリアさん」
「あの、でも今の声はクロスガワさんの声では……」
 いやまあそうなんだけども。
 あの野郎、こんなところに来てまでで何をバカな真似をしているんだ。いや違う、来たからこそバカをせずにはいられないのか。難儀な生物だ。
 その被害を一方的に被るのが主に俺だということさえなければ他人事で済むのだが。
 というわけで。
「お前ね、もうちょっと慎みをもって行動しろよ。ニューヨークのイギリス人なんかすげぇ気ぃ使ってんぞ」
「さすがにそのネタはわかりにくすぎると思うぞ、年代的に」
 どやかましい巨大なお世話だ。
 ゴリラとガチンコ相撲を繰り広げていた貴俊をやっとこさ引きずって係員に謝って、精根尽き果てた。原因であるこの男に怒る気力はもはや沈みに沈んでマントルに到達して跡形も無く消滅していた。意味不明だ、疲労は思考を無軌道にする。
「それにてもよく無事でしたね」
「フフフ、日ごろの行いがいいからな!」
 その意見に関しては全力で反対意見を申し立てる。
「お前そもそもアホ王子と一緒に絶叫マシン制覇に言ったんじゃないのか。そうだ、アホ王子はどうしたんだよ?」
 さっきから姿が見えないが。
「ああ、たぶんまだブラックコースターに乗ってんじゃないのか」
「まだって……どれだけ乗ってるんだ?」
「もう三十分は乗りっぱなしだと思うぞ」
 そ、そんなに乗ってるのか!?
 ブラックコースター。上下以外の視界が封じられて周囲の風景がまともに見えない中、急激な加速減速、先の読めない左右の動き、縦回転横回転を楽しむもの、らしい。何が楽しいんだか俺にはわからないが遊園地の方では一番人気なんだとか。
「あいつそんなに気に入ったのか……」
 耳を澄ませばその絶叫はここでもどうにか聞き取れる。この中に奴の声も含まれてるんだろうか。
「いやありゃ気絶してるだけだ」
「今すぐ拾って来い!!」
 そして係員も止めろよ! 降りない客がいたら不審に思えよ!!
 かけてゆく貴俊の背中を見送り、ようやく解放された気分になる。同時にどっと疲れが押し寄せてきて、その場にへたり込んでしまった。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫なような、そうでないような」
 何が一番恐ろしいって、貴俊のやることに対してもはや怒りも驚きも感じなくなっている自分が一番恐ろしい。
 人はこんなバカな事にまで馴れる生き物なんだね、母さん、俺またひとつ賢くなったよ。一生知りたくなかった自分の一面だけど。
「お二人はとても仲が良いですね、羨ましいです」
「それ本気で言ってるのならお願いだからやめてくれ」
「そ、そんなにいやなんですか?」
 嫌なんてもんじゃない。もはやおぞましい。
「なんというか、ヒロトさんとクロスガワさんの関係というものがいまいち見えないのですが……」
「関係……関係、ねぇ……」
 それを言ったら俺自身もよくわかっていないんだが。
 しかしながらユリアさんはいつの間にやら俺の話を聞く気が満々だ。目を輝かせている。
 ……仕方ない。
 本音を言えば思い出したくない部類に入る思い出を記憶の奥から引きずり出す。
「そうだな、あれは俺が中学二年生の頃だったよ」
 ……ていうか。
 何でせっかくユリアさんと二人きりで動物園にいるのに、あの阿呆の話をせにゃならんのか。
 あとで一発殴っとこう。
 ひそかに心の奥でそう決めた。

 


 集合の十五分ほど前に俺とユリアさんは観覧車の前に並んでいた。
 あれから動物園をぐるりと回った俺たちは、残った時間を遊園地でのんびり過ごして少し早めに集合場所へやってきたのだった。
「今日はとても楽しかったです、ありがとうございました」
「元々提案したのは美羽だからな、お礼は美羽に言ってあげてくれ」
 それに。
 俺も、こんな風にただみんなで遊ぶというのは久しぶりだったから。感謝したいのは俺も同じだった。
 きっと、今日という日がこんなにも輝いたのは、隣に立つ少女のおかげだから。
 もっともそれを正直に口に出せないのが、俺がヘタレである証でありゆえんなんだけどな。まったく情けない。こんな時ばかりは、アホ王子の饒舌さが羨ましい。
「……ヒロトさん」
 そんな鈍い+甲斐性なしの俺は。
「ん?」
「まだ少し時間もあることですし、せっかくですから最後にあれ、乗りませんか?」
 その時の、彼女のその表情にまったく気付くことはなかった。緊張と、期待と、不安が入り混じった、その顔に。
 ユリアさんが指し示したもの。それは、巨大な歯車のようにゆっくりと回る、観覧車だった。

 


 ゆっくりと視界が高くなる。夕焼けに染まる一面が、やがて遠くまで見渡せるほどに。
 臨海ということで、赤く輝く海と水平線が一望できた。その美しさに思わず息を呑むほどに、その光は心をうつ。
「綺麗、ですね」
「ああ」
 ありきたりな言葉。ありきたりなやり取り。
 ありきたりな関係とはいえない俺たちにできたのは、そんな反応だった。たぶん、それでいい。
「あれ、あそこにいるのって美羽たちじゃないか? それにあっちにはレンさんと先生も。みんな集まってきたな」
 まだ頂上まではそれなりにある。あらら、ちょっとタイミングが悪かったな。もう少し待ってみんなで乗ればよかったかな。
 などと考えていると。
 ぐいっ。
「お……っとっとぉっ!?」
 袖を強く引かれてバランスを崩して、思わず大きな声を上げてしまった。今この場にそんなことができるのは一人しかいない。
「ユリアさん?」
 突然のことに戸惑う。引っ張った当の彼女は、不満を少しだけ口元に浮かべていた。
 その視線に居心地が悪くなる。睨んでいるのではない、ほんの少しだけ責めるように、首を小さく傾げて見上げるようにこちらを見ていた。
 う。なんだかただ怒られるのよりも訴えかけてくるものを感じる。
「ヒロトさんはもう少し、周りを忘れてくれてもいいと思います。あなたはいつだって、誰かを探している。誰かの傍にいても、別の誰かを、あなたを必要としている誰かを。悪いとは思いませんけど、それも時と場合によります。というか、ですね――」
 はぁぁ、と深いため息。
 俺はびくびくと次の言葉を待つことしかできなかった。
 彼女が次に顔を上げたときにはもう表情から険は抜けており、優しい諦めが変わりに浮かんでいた。ていうか、呆れられているというのか。
「ずるい人。以前にそう言いましたよ?」
 ずるい?
 その言葉に一瞬考え込み、すぐに思い至った。学園祭の日の帰り道。白い月の下歩いた静かな夜。あの時に確かに言われた言葉だ。
 何でも俺はずるくて悪い人間らしい。あれ、よく考えなくてもすごくタチ悪いじゃん。
「ていうか、今の状況にそれがかかってくるわけ?」
「今の状況そのものですよ」
 まずい、まったくわからん。
 しかし彼女はそんな俺の様子を見てむしろ楽しんでいるようだった。
「むぅ、なんか釈然としない」
「そんな調子ではいつか刺されますよ?」
「怖いなおい!?」
 そんなサスペンスは人生になるべく持ち込みたくないのだが。
「それにしてもユリアさんはテレビの話が好きだよね」
「私たちの世界ではとても実現できそうもないことですから。少なくとも、私が生きている間には不可能でしょう?」
 それもそうだろう。
 俺だって彼女の魔法をはじめてみたときは心底驚いたのだし。知らないものを知れば興味がわくのは、当然のことだ。
 あるいは親父も、その旅についていっていた俺も、そういうことを知るために旅をしていたのかもしれない。
「その刺されるっていうのは何かのドラマ?」
「ええ、どこの世界の人間も、心模様に大きな違いはありませんね。ああいった物語は私の世界でも存在しますから。いくつも」
 確かに変わらない。そんなものなんだろう。目の前の少女とこうして普通に過ごしていることがその何よりの証明だ。
「俺は昔はヒーロー番組の主人公なんかに憧れてたな。本気でああいう風になりたいって思ってたよ」
「今は違うんですか?」
「……どうだろうなぁ」
 違う、と言い切れないことはない。俺に全てを救える力があれば、それを存分に振るって見せるだろう。そして今の状況こそ、そういう力を望まずにはいられないはずだ。
 だが知ってしまった。知ってしまっている。
 俺の力の程度を。俺の、魔法の程度を。
 所詮魔法使いなど魔法がなければただの人だ。いや、違うな。魔法使いもただの人、少しばかり変わった特技を持つだけの人に過ぎない。しかも俺は魔法が使えない魔法使い。これ以上の役立たずはない。
 だから目指すことさえも諦めてしまう。辿りつけないのだと、俺では足りないのだと。結果よりも先に結論が出てしまう。
 強くなった弱くなったで言えば、間違いなく子供の頃よりは強くなった。それでも、できないと思うことはたぶん、今のほうが沢山抱えている。
「どうにもな、俺じゃあどうしようもないことばかりなんだよな」
 空っぽの口の中に味はない。それでも顔は歪む。とびきり苦い何かを噛み潰したように。
「……ヒロトさんは、何を成せば満たされるんでしょうね」
「え?」
「あなたはきっとどれだけ言葉を尽くしてもわかってくれない。私が、私たちがどれだけあなたに助けられたのか、導かれたのか、こうして今救われているのか。あなたはきっとそれを認めない、それはあなたの成した事だと受け入れない。それはとても、寂しいことなんですよ」
 私たちにとって。
 ささやくように紡がれた言葉。そこに込められた感情は判然としないが、それでも何か切実な響きを帯びていた。
「こんなに、伝えたい気持ちが溢れているのに。あなたには届かない。あなたに届けても、受け取ってくれない。どうすればあなたの真ん中に私の想いは伝わるんでしょうね」
 ぐるぐる回る巨大な歯車の頂上で、輝く夕日に照らされて朱色に染まる。ただその一色のみに染まった彼女は笑っていた。
 くすくすと笑う彼女の笑顔の儚さに――ああ、やっぱり俺は自分の力のなさを痛感する。
 どうすればさっきまでの満面の笑顔を彼女に取り戻すことができるのか、俺にはわからなかったから。

 


 観覧車もあと少しで一番下へたどり着く。会話はない。重苦しい雰囲気も、いつかのようなくすぐったい空気も。ただそこに、二人でいた。そうすることしかできなかったから。
 少なくとも俺はそうだ。ほんの何分間かなのに、考えるべきことがどっさりと生まれてしまったんだ。仕方ないだろう。
「最後にわがままに付き合ってくれて、ありがとうございました」
「え……ああ、いや。ぜんぜん、そんなの」
 ぼうっとしていたせいで中途半端な受け答えになってしまった。おい、しっかりしろ結城大翔。
「なんだかドラマみたいで楽しかったです」
「ははは……ドラマね。やっぱりそういうのに憧れたりするんだ」
「ええ。女の子ですから」
 その通りだ。シンプルってのは良いね。最近特に思う。
「じゃあやってみたいシーンなんてのもある?」
「そうですね……ドラマではないのですが、ちょっぴり憧れるシチュエーションなんかが」
「ほほう、それは実に興味があるな。ぜひとも聞かせていただきたいところだ」
 彼女ははにかんで、口を開いた。夢みるように。
「雪の日に、好きな人を膝枕してあげるんです。私、雪の日に外に出たことないんですよ。それに、私の国はそんなに雪が降る地方でもなかったのでつもったりもしないんです。だから、薄くつもった雪の絨毯の上に座って、好きな人を膝枕して、空を見上げて、いろんなことを話せたらなぁって、そんなことをこの間、考えたりしました」
 そりゃあまた。
「乙女な話だ」
「乙女ですから」
 うむ。
 難儀な話だ。
 しかしなんだな。
「それにしてもドラマみたいって、そのドラマってどんな話だったんだ?」
「ええと、ひと組の男女の禁断の恋、といった内容で、観覧車での会話はクライマックスのシーンだったんです。ミウさん達と一緒にみながら感動してしまいました」
 その話を聞いて、ふと悪戯心が沸いた。
「あはは、じゃあ今の俺とユリアさんは恋人同士か」
「――――――――」
 目が点。まさしくその表現を体現した顔つきは、なんとも愉快で可愛らしい。
 笑いを押し殺していると、その顔が見る見るうちに赤く染まって涙目になって――って、は?
「い――――」
「い?」
 瞬間。
「いやぁぁぁっ!?」

 


 集合場所にはみんな集まっていた。
 十五分前にすでにこの場所へ来ていた俺たちが十五分遅れてしまったわけだ。
「兄貴ー、遅いよ?」
「いやすまんすまん、意外と長かくてな、観覧車」
「あ、あの……」
「一周にかかる時間はちゃんと書いてあるんだからチェックしてよ……」
 ああ、あれな。
 俺は気付いてたんだけどユリアさんが全然気付いてなかったあれな。
 あんなにわくわくしているユリアさんを止めるなんて残酷な真似ができる奴がいたらそいつは人間じゃねえ、貴俊だ。
「今銀河誕生レベルの愛を感じたんだが気のせいか?」
「お前の直感は日常生活では役に立たないからドブの底に捨てとけ」
「え、えと……」
「おかしいなあ、確かに感じたんだが……」
 大体どんな表現だよ、銀河誕生レベルの愛って。規模がわからん。
「いやー、今日は楽しかったね! 伝説の五人抜きを達成しちゃってちょっといい気分だよ!」
「五人抜き?」
「お、お兄ちゃ……」
「ちゃらけたナンパ君たち五人抜き! いやー人間ってあんなに空を飛べるものなんだね」
 しみじみと空恐ろしいことを呟く陽菜に背筋が寒くなる。なにをしたのか非常に気になるが、絶対に聞きたくない。
 ……つ、潰してないよね?
「ほらほら、こんなところで大声で騒ぐのはやめやめ。揃ったんならちゃちゃっと帰るで」
「む、しかしサラ殿まだノア殿への土産の品を買っていないのですが……」
 レンさんの指摘に沙良先生が額を打つ。
「ああ、すっかり忘れとったわ。それ忘れたらまたノアが手を付けられんことになるからな。助かったわ、ありがとな」
「礼には及びません」
 そういうレンさんの両手には巨大な紙袋がぶら下がっていた。中身は見ようともせずともわかる、何しろ溢れかけだ。溢れそうなほどのぬいぐるみは果たしてレンさんのものなのか沙良先生のものなのか。
 そして――
「お、お兄ちゃん……ほ、ほっぺたに真っ赤なヒトデが」
「これはヒトデじゃない、もみじだ」
「じ、じゃあそれでいいから。それど」
「残念だったな、これはヒトデでももみじでもない、星だっ!!」
「いや、それはさすがに無理があると思うなー、アタシ……」
 美羽の冷静なツッコミ。そういうテンションを下げるようなことを言わないでくれるかな。
「そ、それどうしたの……?」
 おい美優。
 空気読め。
「う、ううう……」
「あーユリアさん、そんな落ち込まないで。ほら俺全然平気だったから」
 ひとり離れた場所でちぢこまっていたユリアさんがついにしゃがみこんでしまった。
 俺の悪戯心からのちょっとした一言の結末がこれだ。いやもう、女心は宇宙の法則よりも乱れやすいんだと思い知った。
 あのあと、ユリアさんは顔を真っ赤にして奇妙な悲鳴のようなよくわからない声を上げながら、魔力をこめた手の平で俺の頬を全力ではたいた。その衝撃は俺の脳だけでなく観覧車そのものさえも豪快にシェイクし、爆弾でも爆発したのかと思うほどの爆音を奏でた。
 もちろん観覧車は停止。すぐに運転を再開したものの、一時は園内が騒然となった。
 ちなみにその音によって俺たちの存在に気付いたみんなはといえば、生暖かい視線で遠くからこちらを見ているにとどまっていた。どうも事情をすぐに察したように思える。美優以外ね。
「すみませんでした、本当にすみませんでした! 突然あんなことを言われて、思わず手が出てしまって……!」
 そうかあ、俺と恋人同士はそんなにいやかぁ。
 あ、なんかちょっと泣きそうですよ。結構落ち込む。最近テンションのアップダウン激しいなー。

 


 それからユリアさんをなだめて乃愛さんへのお土産を買って、結局家へ帰る頃にはすっかり夜になっていた。
「うーん、今日は楽しかった。それじゃあ二人とも、バイバイっ」
「ああ、気をつけて」
「あははは、ヒロ君、お隣なんだから大丈夫だよ」
「それもそうだな。……そのとき彼らは、この会話が最後の会話になるなど想像もしていなかったのだ」
「変なナレーション入れないでよ!? もー、それじゃあまた明日、ヒロ君」
 陽菜は大きく手を振って、俺の家と陽菜の家の短い距離を全力でかけていった。
 そうして、ここに残ったのは俺たちだけ。
「『また明日、ヒロ君』……か」
「え?」
「陽菜さんにとって一番当たり前の挨拶、なんでしょうね」
「ユリアさん?」
「何でもありません」
 そういった彼女は、本当になんでもないように見えた。
「さあ、家に入りましょう。みなさんだけに片づけを任せては後で怒られてしまいます」
「あ、ああ……」
 最近、たまにユリアさんはよくわからない表情を見せる。たぶん彼女自身も気付いていない、刹那の合間に見せる表情。なぜかそれを見るたびに、目を離せなくなる。目が惹きつけられる。
 いかんいかん、どうしたんだ俺は。もっとしっかりしないと。そうすると決めたんだから。
 ひとつ息をついてふと視線をめぐらせ――
「――ユリアさん、ごめん。ちょっと用事ができた」
「用事?」
「すぐ戻るから、家のことちょっと頼めるかな」
 できるだけ自然を装う。不自然極まりないが、だからといってそこから心情を悟られない程度に。
 案の定ユリアさんは怪訝な表情を見せたが、一応納得してくれた。
 さて……
「また面倒な事になんなきゃいいんだけどな」
 がりがりと頭をかく。
 まあなんだ。
 俺とアイツがサシになって面倒な事にならないわけがないんだが。

 


 思えば最初に出会った頃からそうだった。気に食わない、受け付けない。一瞬でそう思えた。
 改めて考えると、俺たちの関係もまたいまいち判然としないものだ。はっきりとした線引きも定義もおそらくは存在しない、そんな曖昧な間柄で今まで何気なく過ごしていた。
 決して相容れないと、どこかで知りながらもそうしてきた。
 だがその小さな摩擦はやがて大きな欠落を呼ぶ。そうする前に互いの立ち位置をはっきりさせるというのも良い考えだろう。
 敵ではないが味方でもない、そんな面倒な存在を身近に抱え込んだまま、より凶悪な連中を相手にする事の不安よりは随分ましだろう。
「最後の最後まで比較論、まったく根性のない話だな」
 やっぱり俺はヒーローにはなれそうもない。
 とはいえ、
「お前はお前でそういう役柄じゃないよな、アホ王子」
「君が何を言いたいのかがよくわからないのだがね」
「気にすんな、今更の話、意味のない話だ」
 そう、意味はない。
「それで? 人様を遠くから魔法で狙撃しようなんて随分と悪質じゃないか」
「やはりか。それが君の不相応な自信の源かい?」
 その唐突な言葉に眉をひそめる。不相応な自信、だと? 何を言っているんだ、こいつは?
「あの距離の狙撃を気付くことができるのはそれに特化した特殊魔法を持つものくらいだ。だが君は違う。つまり、君は何故か我々の魔法を感知できるという体質を持っているわけだ。それがあるから、あのポーキァに対抗できると高を括っているのかと聞いているんだよ」
 いつもの芝居がかった仕草で髪をはらい、理解していない俺にわざわざ説明を施してくれる。
 それにしても、俺がポーキァに対抗できるだと? 何をバカな事を言っているんだろうね、こいつは。俺がアイツにまともに勝負を挑んで勝ち目なんかあるわけないだろうに。
「お前が何を考えてそんな勘違いをしているのかは知らんが、別にこのくらいでアイツに対抗できるなんて思ってないぞ」
 ポーキァの魔法の厄介さは理解している。速さ、威力、範囲。どれをとっても必殺と呼んで申し分のないものだ。一度の対峙でそれは嫌というほど味わった。一瞬でも判断が遅れてしまえば即死亡、そうでなくても全身が麻痺してしまえばもう戦えない。
 そういう、勝ち目のない存在だ、あれは。それこそ対抗しようと思えばアホ王子レベルのバカ威力で押し返すか、超遠距離から狙撃するか――乃愛さんのように特殊な方法で絡めとるか。いずれにせよ俺にはどれも不可能だ。
 俺の魔法は正体不明だが効果はある程度わかっている。穴を開ける、貫く、それだけだ。それもどれほどの威力を出せるのか、どれほどの距離を貫けるのか俺自身にもわからない。これでは使い道なんてないも同然だ。
「それならば君のその余裕はどこから来る? 君は知ったはずだ、この世界があと一年足らずで崩れてしまうと。自分の力では叶わぬ敵がそこへ迫ってきていると。なのになぜ君はそうも普通でいられる? ミウ嬢、ミユ嬢も普通を装ってはいるが、僕が見ていてもわかる程の違いは見て取れる。ノア嬢などは世界中と協力しているそうじゃないか。そして姫様たちは、見ての通りだ」
 見ての通り。ああまさしくその通りだ。二つの世界を救うために日々奔走し、この世界になじむために必死で日常に溶け込んだ。その必要があるから、それが絶対であるから。
「なのに君は変わらない。意識してそうしているのかい? いや、僕にはそうは見えなかった。君は世界の終わりを知りながら、それでも今までどおりに過ごしている。なぜそんな真似ができる?」
 なぜ俺が今までどおりなのか。
 今までどおり? 俺が? 今のこの俺が、今までどおり、だって? お前には俺がそう見えるのか、エーデル・サフィール。もしそうなら、それは。
「……最高の褒め言葉じゃないか」
「何だと?」
 そう、これ程までに最高の褒め言葉はない。思わず笑顔が浮かんでしまう。
 ……美優が見たら泣いてしまいそうなほど、凶悪に顔が歪みだしてしまう。
「怖くない」
 吐き出す。自分の今を。
 おそらく他の誰にも言わない言葉を。それは、こいつだからたぶん聞かせられる気持ちだ。
 俺のことを知ろうが知るまいが一向に構わない、どうでもいい存在だから吐き出せる言葉だ。
「――んなわけないだろうがこのクソバカアホ王子がっ!!」
 ああ、情けない。その情けない雄叫びをただ叫ぶ。吠える。そうしなくては、声が震えてしまいそうだったから。手も足も肌も骨も血管も全身が震えていても、声だけは震えずに。
 その程度の虚勢も張れずに男の子なんてやってらんねえんだよ。
「けど俺には何もできない、そういったのはお前だ。じゃあ何もしない、今までどおりに! あいつらが今までどおりに生きられるように、俺が今までどおりに生き続ける、そうするしか俺にはできないだけの話だ!」
 もう自分でも何がなんだかわからなかった。怒っているのか、悲しいのか、悔しいのか。
 たぶん、その全部だ。俺の全部だ。
「俺の全てを賭けてそうしてるんだ、それ以外に何もできないからそうしてるんだ! 不相応な自信? バカを言うな、俺のどこにも自信なんてありはしないんだよ!」
 答えのない俺の今できる過程。必死にただ今あるものを守る。それがみっともなくしがみ付いているに過ぎないのだとしても、それはしがみ付く価値のあるものだ。
 少なくともそこでは、みんな笑っていられるのだから。
「だが君は戦うつもりのはずだ、あのポーキァと。何故だ!?」
「言ったはずだ、俺はあいつらの普通を守るって。美羽も美優も命を危険に晒す様な真似なんかしたことないんだよ。そういうのは俺の役目だ」
 そうだ、そのために強くなったはずだ。路地裏で、どこかの公園で、不良たち相手に意味のない喧嘩をするためのものじゃなかったはずだ。
 少なくとも親父はその俺の気持ちを汲んだからこそ、その強さを俺に分けてくれた。
 守れるかどうかなんて関係ない、勝ち目なんて知ったことか。そのための力をそのために使わなくていつ使えというんだ。
「戦わないと守れない。守れなくて生きていたって、俺にとっちゃ死ぬのと同じだ」
「そうか――それは実に、迷惑だな」
 エーデルは。
 静かに、殺気と水を、両腕に纏う。ああそうだよなそんなこったろうだとは思ったよ。わざわざ河川敷なんて水が大量にある場所までおびき寄せるんだもんな、やっぱり面倒な事になるだろうさ!
「君の存在は彼女にとってもはや百害あって一利なし。たとえ彼女の感情がこれからどこへ向かおうとも、それはもはや彼女を苦しめることに他ならないと判ずる。彼女の騎士が、友がそれを見守ろうとも、龍たる我はそれをただ見ているだけにはいかない。彼女はあくまで異世界の住人なのだ」
「ちょっと待ておい、俺にもわかるように説明しろ」
「要するにムカつくから死んでくれということだ」
 うわーい、最近の若者って切れやすいよね。
「わかりやすすぎて逆に意味不明だアホ王子! お前結局何がしたいんだよ!?」
「僕にとってはこの世界よりも重要なものがある。それを守るためなら、守るべきものに憎まれようと恨まれようと、成すべきこともある」
 きら、と空に一瞬のきらめきが走った。本能のままにその場から飛びのく。小さく空を切る音が響き、足元の草が小さくはじけて千切れ飛ぶ。
「お前――っ!?」
「君との決着は預けていたな。今ここで君の力を見せてもらうのも一興だ――死にたくなければ、立ち上がれ」
 上等だ。
 火がつくのを感じる。常々感じていた不満を燃料に爆発的に燃え上がる戦意。どちらかが倒れるまで尽きることのない炎が上がる。
 全身の熱が疼く。早く、早く動け。それに従い、地を蹴る。
「さあ、決闘だ」
 決闘? そんな上等なもんじゃない。これはただの、
「喧嘩だ!」
 水が龍のごとくうねる。それが勢いに乗る前に拳で粉砕する。月明かりを弾き光の粒となって舞うその中を一気に駆け抜け、まっすぐにエーデルに拳を叩きつける。
 重い衝撃が拳を伝う。しかしその感触は柔らかい。拳を受けた水の防護膜は刃へ姿を変え襲い来る。
 体ごと回りながらかわしざまに蹴りを放つ。が――
「ぐうっ!?」
「ちっ!」
 呻くエーデルは、それでも俺の蹴りを肩で受け止めていた。なれてこそいないが、それが偶然などではないことは明白。
 以前戦った時には体裁きに関してはまったくの素人だったというのに。つまり――
「お前もただ遊んでたわけじゃないって事か?」
「ふ――君に馬鹿にされっぱなしでは僕の、ひいてはサフィール家の沽券に関わるというもの、だっ!!」
 宙より襲い来る水の弾丸を受けからだが弾かれる。その開いた距離をエーデルは逃さない。
 この距離こそが、己の必殺の領域だと。無尽蔵の武器庫がそこにある。
 ぱしゃん! 水面が音を立てる。そこに混じる甲高い空を切る音と肌を刺す悪寒を頼りにその場に這う。しかしその俺を狙い、エーデルの生み出した水の鞭がしなる。
「さあ、身動きが取れなくなるぞ、ユウキヒロト!」
 その意思によって動いているのか、鞭は縦横無尽に宙を駆け巡り、鎌首をもたげる。いまだ川からは鋭い水の針が無尽蔵に吐き出されている。
 動かなければ。しかし、どうやって?
 簡単な話だ。さっき自分で言ったばかりだろう、なあ。怪我をするのが怖いなんて、眠たい事を言うつもりじゃないだろうな。さあ。
「おおおおおあぁ!!」
 だんっ!
 全身のばねを使って跳ねるように立ち上がる。
 だだだだだだっ!!
「がっ!?」
 体の半分に次々に突き刺さる水の針がもたらす激痛に息が詰まる。意識が痛み以外の何も認識できない。
 終わり――か? こんな、あっさり?
 ぼんやりと、視界が歪む。脳が強制的に意識を閉じようとしているのがわかる。
 くそ、こんな、これくらいで……。
 意識が空転する。熱が冷えていく。醒めたエーデルの瞳が、無言で俺を見ている。それさえも、熱を取り戻すには足りない。
 こんなわけのわかんないままに、こいつの思い通りになっていいのかよ、なぁ。
 わけのわからない喧嘩を吹っかけられた。そんで負けた。言ってしまえばそれだけの話。そう考えてしまえば、まあ仕方のないことと思わなくも――
「あ」
 月が見えた。
 白い月。輝く、夜を静かに照らす月が。
 熱はもうない。
 だが。
 火は、そこにある。火種があれば、炎は一瞬で立ち上る。
 心を燃やす『想い』が『ここ』にある限り。その火が消えることはない。
「あああああっ!!」
 消えかけた意識が真っ赤に染まる。視界の全てが真紅に染まる。月さえも、ただその一色に染め上がる。
「馬鹿なっ!?」
 馬鹿が馬鹿なと馬鹿な顔で言う。はっはっは。ザマアミロ。
 俺の馬鹿っぷりを甘く見るなよ、アホ王子。
「ぃああぁっ!」
 大地を叩きただ前へ。
 痛い苦しい体が重い。それでもこの足は止まらない。止まる理由がないのだから止まるわけがない!!
「それでも立つか、その歩みを止めないか! なるほどこれが彼の後継、それが君の道! さあ向かってきたたえユウキヒロト、君は今こそ、この僕の敵となった!!」
 ヤツの言葉を理解することもできない。だが、なぜだかその表情が歓喜に染まったのだけは理解した。
 だから、ああ。
 応えてやろうと、そう思う。
 だだだっ!
 水弾を全身で受ける。痛みはあるが耐え切れないほどではない。すでに痛みは全身に充満している。これ以上増えたところで違いなんかあるか。
「ぬうっ!」
「がふっ!」
 防護膜を突き破った拳がエーデルの顔面を捉える、確かな手ごたえが残る。しかし同時にヤツが放ったがむしゃらな拳は、こちらの腹部に突き刺さった。拳に纏われた水が渦を巻く。腹が捻じ切れそうになる。
「う、ぐ、ああああああ!!」
 歯を食いしばり、至近からエーデルを睨みつける。全身の体重を拳に乗せ、相手の体に押し付ける。エーデルも負けじと拳を押し出してくる。
 ざ、ざ。
 地面に突き刺さった両足がじりじりと後退する。少しでも足の力を抜いたら、一息に吹き飛ばされてしまいそうだ。そうなったらもう立ち上がれない。今ここで、こいつを叩きのめさなければ俺に勝ち目はない。
 勝つ。そうだ、勝つんだ。
「耐えるじゃないか、庶民……しかし、その体ではもう限界だろう。もはやポーキァたちにも関わらず、彼女らにも深く干渉しないと誓えば、ここで終わりにしてやる!」
 その言葉に、思わず口元が歪んだ。なんて事を言うのか、この男は。ばかばかしいにも程がある。
「ふ、ざけろよエーデル・サフィール。何度も同じ事を言わせんなよ? 俺は何もできないから、今までどおりにするって言ってんだよ」
 あるいは、彼女達の今までどおりを守らなくてはならない。そのためならば。
 それこそ、憎まれようと恨まれようと、というヤツだ。
 そのために命を賭けろと、燃やし尽くせというのなら、俺は迷わず差し出してみせる。今ここで勝たなくてはならないというのなら、何が何でも勝ってみせる。
「ポーキァに関わらないなんて無理だ、ユリアさん達と距離を置くなんて不可能だ。もうそれは、俺たちの普通になってんだ、これがもう、俺が守らなくちゃならないことになってんだよ!!」
 それは彼女が手に入れたもの。この世界での、なんの変哲もない当たり前の日々。必要に迫られて手に入れたものだとはいえ、彼女は確かにそれを大切だと思ってくれているのだ。彼女の態度が、言葉が笑顔がそれを教えてくれている!
「しかしそれは、いずれ失われるものだ――」
 ぐんっ!
 エーデルの体がさらに前に出る。腹に、全身に圧力がのしかかり、視界が薄く色を無くす。
「この世界に馴染むという事は、それだけの想いをこの世界に抱くという事だ。君も別離の痛みは知っているだろう。いくら彼女の力が並外れているとはいえ、世界の壁なんて簡単に越えられるものではない。この出会いはおそらくこれきりのものになる! その心の痛みを彼女に味合わせるつもりか、君は!!」
 はっとする。
 それは間違いなく、真実の言葉だったから。本来あるはずのなかった出会いは日々をこんなにも輝かせて、しかしその出会いは必ず別離をはらんでいる。どんな出会いにでもいえることでありながら、つい忘れてしまう事実。
 そしてこの別れはきっと永遠。二つの世界という巨大な壁に遮られた、一瞬の出来事。
「彼女があるいはただの人であれば、数年あるいは十数年おきにでもこちらの世界を訪れることは可能だろう。しかし彼女の身分がそうはさせない。それは君たちにも言えることだ、この世界の魔法系統では僕らの世界に渡ることは非常に困難だといえる。しかしてその可能性を見出しても、君たちのような異世界の平民を、無条件に迎え入れることなど到底できはしないのだ!!」
 壁、壁壁壁。この世界はあらゆる壁に遮られる。海や山のように目に見えるものから、国境や人種、言葉そして身分のように目に見えないもの。その壁が世界を区切り、世界のカタチを決めている。その壁は容易に超えられるものじゃない。
 もちろん、超えられないわけじゃない。事実過去にその壁を飛び越えていった人はごまんといるだろう。だがしかし人には限界があるのだ。そしてその限界が見えてしまったとき、人は膝を曲げてしまう。
 もっと頑張れば届くかもしれない、届かないかもしれない。けれどそこでもう一度立ち上がる力は、その意志は。絶望的なほどに、全身に重く圧し掛かる。その重みはきっと、魂までも消し潰してしまう。
「でも――それでも……」
 抜けた力を再び込める。まだ俺は立っている、この膝は、折れていない。
「その日々は心に残る、残ればそれは力になる! その痛みも悲しみも、全部飲み込んで力になる!!」
「そしてもう二度と届かぬ日々に苦しみながら生きろというのか、君は!!」
「だったら――笑って思い出せる思い出をいっぱい残してきゃいいだけの話だろうが! 思い出したらずっと笑ってしまえるような、そんな思い出で埋め尽くしてやればいいだろうが!!」
「それは子供の発想だ!」
 ぱんっ!
 全力の拳が振り切られ、腹部の水が爆発する。
 月が光の尾を引いて流れ――ぐっ!?
「げ、ほぉ、ええええええっ!!」
 いつの間にかうつぶせていた地面の上、草をむしり腹の痛みを吐き出す。ふらふらと力の入らない両足を叱咤して立ち上がる。
 振り向けば、エーデルも険しい表情で立ち上がったところだ。その周りを水流が囲む。もはやそれが最後の力なのか、川からの狙撃はもうない。息苦しさと痛みの中、俺たちが同時に浮かべたものは――笑顔。
「これで終わりじゃないだろうな」
「これで終わるわけがないだろう」
 上等。
 俺は拳を、ヤツは水を。己の武器をまっすぐに構える。
「君の意地も理解はできる。が、僕の正義は譲れるものではない!!」
「お前の正義はわかるけどな、だからって言って、俺の意志を曲げてやる義理はない!!」
 もう力なんて残っていない。それでも立ち上がるのは、子供じみた最後の意地だけだ。要約すれば、
「てめーにゃ負けたくねえ」
「君に負けるのは我慢ならん」
 何のために戦うのかなんて、曖昧な答えしか持っていない。妹達の、彼女達の日常を守る明確な方法なんて俺にはわからない。さらには、その先で俺が手にしたい結末もよくわかっていない。別に戦わなくたっていいだろうとも思う。実際、もっと賢くなればこんなところでエーデルと戦う必要なんてないんだろう。
 それでも戦うと決めたのだ、勝つと決めたのだ。だから……勝つ。
『あったかいに、きまってるじゃないですか』
 そんな、ささやかな夢がそれで守れるというのなら、いくらでも、戦える。
「そうだ……俺がずっとやってきた過程だ。今更変えられるか、今更変えるつもりもない!」
 あの日に誓ったのだ。俺がようやく、俺であるために何をするべきなのか思い知ったのだ。そのあと歪んだり曲がったりしても、それでもその道を間違うことだけはしなかった。
 その道を――貫いて来た。

 そう、それこそが――。

 どくん、と心臓が脈を打つ。かすむ意識の奥で、声がささやく。
 そう、知っている。俺はこの感覚を知っている。忘れるはずはないのだ、何しろそれは俺が生まれたときからずっと一緒で。今は忘れてしまっているけれど、共に同じ道を歩んでいるのだから。
「さあ――この戦いに幕を引こう!」
 一筋の水の鞭がしなり、その先が二股に分かれる。分かれた先はさらに別れ、計四つ。それがさらに分かれて、八つ十六三十二。瞬く間に数え切れない数となり、雨となってまっすぐに降り注ぐ。
 それを、どこかのんびりとした気持ちで眺めながら。
「貫く、そうすれば……」
 きっと。
 誰かが笑っていてくれると。
 違う。俺が、誰かと、一緒に、笑っていても――
「家族を、守っていけるんだあぁぁぁっ!!」
 その果てにあるものこそが、きっと。

 広がったのは重く、しかし心地のよい空を切り裂いた響き。
「ば、かなっ!?」
 結果はこの目の前にあるとおり。全ての鞭が砕け散り、月光を受けて光となって散る。小さな輝きの中に混じる黒い粒は、掲げた拳から飛び散った血の涙。
 全てが一瞬だった。それだけでよかった。最後の力は残っている。振り絞り、夜を駆ける。
 呆然としたエーデルの顔に拳を叩き込み。
 強烈な衝撃に意識がブラックアウトした。

 


 気絶していた時間は、そんなに長くないようだ。ふらつく頭を振り、意識を覚醒させる。遠くからは、まだ花火の音が聞こえている。
 エーデルは、というと、まだ伸びていた。
「…………ああもう! おいこら、おきろエーデル!!」
「う……くっ! 気絶していたのか……ボクの最後の攻撃はどうなったんだ?」
 ここでうそをつくのは簡単だが……
「モロに入ったよ、ったく、最後の最後で隠し玉かよ」
 激烈に効いた。おかげでまだ頭がふらふらしている。どうやらエーデルは最後の力を振り絞り、宙に散った水たちをまとめて俺に叩きつけたらしい。おかげで全身びしょぬれだ。
「ふん……やれやれ。君とは決着がつかないな。まさかあそこで魔法を使ってくるとは思わなかった。魔法には頼らないんじゃなかったのかい?」
「そんな事一言も言ってないっての。必要があれば使うに決まってんだろうが」
 もっとも、使えるという確信があったというのもあるけど。なんでそんなことを思ったのかはわからないのだから困りものだ。自分の魔法ながら、いまいちわけのわからない力だとつくづく思う。
「んで? まだやるのか?」
「……いや、その必要はないさ。そもそも君がどんな行動をとったところでもはや彼女が君をほうって置くまいし」
 おいこら。
 だったら今のこれはなんだったんディスカー!?
「不満そうだね、ヒロト君」
「これで不満を抱かないほうがおかしいっての! じゃあなにか、俺は単純にお前の鬱憤晴らすのにつき合わされただけか!?」
「ミス・ノアに少し話を聞いたんだよ」
 そこで何故唐突に乃愛さんが出てくるか。
「ミス・ノアによると、君は調査には加わらず調査の環境を守るほうに重点を置くらしいとねね。それはつまり、君はもう一度あのポーキァと戦う可能性を考えているということだった、勝ち目なんかないくせに」
 いや。一応卑怯な手段を使ったりすれば勝てる可能性くらいはあるんだが。いやそりゃまともに対抗なんてできるとは思ってないけどな?
「誰かを守るためには信念が必要だ。何かを為すためには執念が必要だ。姫はその両方を持っている。その理由まではボクは知らないが、それだけの意志と覚悟をもって姫はこの世界に来た。何をもっても砕けないその心こそが、彼女をこの世界に向かわせた。ゆえに彼女は引かないだろう。己の身の危険を知ったところで、彼女は決して逃げはしないだろう。ならば、その身に迫るあらゆる危険を排除するものが必要だ。信念と執念を持った露払いが必要だ」
 露払いって。つまり俺のことか。
「このボクの意思と向かい合っても引かず、立ち向かって来た点は評価しよう。あの場面において自分の意思を捨てぬその意志を評価しよう。それが家族のためというのは――まあ、実に君らしいといったところだが」
 だからなんでお前はいつも偉そうなんだっつーの。
 いつもいつも人のことを試しやがって。そんなにテストが好きですか? お前この前の定期試験そんなに楽しかったかこら。終わった後地味に青い顔して教室から出てきたのしっかり見てたんだぞ。
「お前に認めてもらおうがもらうまいが、俺のやることは変わらないんだよ。邪魔する奴はぶっ飛ばす。昔からそうやってきたんだ」
「君は奇妙な人間だな。状況に流されやすいくせに頑なだ。頑ななまま流されている。実に変わり者だ」
 心底変だと思ってるんだろう。目つきが未知の生命体でもみてるようなものだ。
「巨大なお世話だ、馬鹿。……ほら、手をかせ。どうせ力が入んないんだろうが」
 座り込んだままのエーデルに左手を差し出す。しばらくその手を不審なものを見る目つきで眺めていたが、
「ボクが庶民の手を借りるなどめったにないんだ。感謝したまえ、ヒロト君」
「俺が男に手を貸すことだってめったにないんだよ。そっちこそ感謝しろ、エーデル」
 ふん、と同時に鼻を鳴らす。肩を貸してやろうかとも思ったが、やめた。男なんかと肩を組んだところで何も楽しくなんかない。
 エーデルを立ち上がらせて、さっさと身を翻してみんなのところへと歩き出す。服はよれよれで水浸しで、右手なんかは結構傷が入ったりしているけどもう気にしない。気にするようなことじゃない。
 目の前に、やるべきことがあるんだから。
 後ろから砂を踏む音がついてくる。エーデルも歩き出したらしい。ゆっくりだが、その足取りはしっかりしている。結構きれいに入ったはずだが、思ったよりも根性はあるらしい。
 横目に月を見る。空の月はいつも通り。このいつも通りが、いつまで続くのか。いや、いつまでも続かせるためにこの世界にやってきた人が居る。きっと待っているであろうその人のいる、俺たちの家へ歩いていく。
 一歩一歩、日常をかみ締めながら、歩いていく。

 


 数百メートルの距離を置いてその様子を見ていた存在がいたことに、さすがの大翔たちも気付いてはいなかった。
 その人物は興味深そうに深い息をつくと、双眼鏡をぽいと放り捨てた。両腕を組み、窓枠に腰掛ける。
「ふーむ、世界異世界、世界の崩壊、ねぇ。何かの隠語か? にしちゃあちょっとセンスがないよなぁ。じゃあ事実……つっても、それにしちゃあ語ってることが姫様のことやら家族の事ってのは、いかにもスケールが小さいし。ああでも大翔ならそれもありか」
 うんうん、と肯く。月明かりに照らされた表情は、実に愉快だといわんばかり。少年――貴俊はポケットに手を突っ込み、そのまま動きを止めた。
「……まー俺にしたって嫌いなだけで、別に使わないなんて一言も言ってないんだよな。でもなぁ」
 ため息をつき取り出したのは、小型の携帯電話だった。使われた形跡はほとんど無く、新品同然の姿といってもいい。しかしながら貴俊がこれを受け取ったのは、実に一年以上前にもなる。その間この携帯電話が使用された回数は、片手の指の数よりも少ない。
 電気機器――先端技術嫌いとでも言うべきか。貴俊の性癖のひとつだ。
 いや、あるいは反発か。彼は目の前の川をその瞳に映す。夜の川は昼のそれとは違い、暗く深く、その底を知ることはできない。
「大事の前の小事。優先事項は決定的。なんて、俺は大翔じゃねえんだよなぁ、比較論に持ち込んでも踏ん切りがつかねぇ」
 携帯電話を指先でくるくると回しながらひとりごちる。しかしその指がぴたりと止まる。窓枠から下り、ポケットに携帯電話をしまうと、腰にぶら下げたホルスターから大振りのナイフを両手に一本ずつ抜き放つ。
「ま、そんならもっと俺っぽく事情を聞けそうなヤツから聞きだしゃいいんだよな。かはは、世の中ってなうまくできてんなぁ」
 愉快愉快と笑う声の中にかすかに凶暴な響きが混ざったことに、ここに大翔がいたのならば気付いただろう。
 くっくとのどの奥で小さく笑う。大翔と居ると退屈しない。貴俊にとってこれほど興味をそそられる人間は居なかった。自分と大翔が出会ったのは運命だったとさえ思っている。ありえない偶然を引き当てたのなら、それはもう運命だと。
 まさか戯れに身につけた読唇術を活用する日が来たのも大翔がいればこそだ。
「だから、なぁ、大翔……お前だけは、俺の愛に押しつぶされるなよ?」
 じろりと夜の奥を睨みつける。夜の暗がりの奥、こちらを監視している気配にかすかな焦りが生まれる。まさか気付かれるとは思っていなかったのだろう。
 獣が嗤う。獰猛に。何を愚かな。自分にとってはこの世界の全ての他者など狩りの対象でしかないというのに。
「安心してろ、俺の牙はとっくの昔に折られてる」
 両手の刃をカチンと鳴らす。
「そんでもって爪はいましばらくは完成しねぇ」
 いや、あるいはすでに完成しているか。もしも今回の件が事実なら、それも入り用になるだろう。
 それを確かめるためにも。
「だから今夜は甘噛みで勘弁してやる。骨の髄まで恐怖で噛み砕いてな」
 たんっ。
 獣のように跳ねた体は、やすやすと空き家からから飛び出してまだ見ぬ目標へと突き進む。
 刃が月の光を受け銀に輝いた。

 数分後、結城家を警備する警備員の一人が何者かによって負傷させられ、彼らの上司――つまりは苅野乃愛の存在が聞き出されることになる。

 


 だんまりでとおした。何があったのかと聞く美羽や美優、ユリアさんがしつこく聞いてきたが、とにかくだんまり。
 だってどうやって説明しろというのだ、あんなわけのわからん喧嘩の過程を。克明に説明しようもんなら俺のセリフも吐かされそうだし。そんな恥ずかしい真似誰ができるんだと。
 うわ、今考えてみたらさっきの俺結構恥ずかしいこと叫んでないか? だめだ、絶対に誰にも言わないぞこのことは。墓の下まで持っていく!
 それに美羽も美優も、俺が学校以外で魔法を使うと嫌な顔をするし。久々に魔法を自分で使った感があったなんていったら、それこそ泣き出しかねないぞ。
 そんなわけでなんだかもうひとつの習慣のようになった針のムシロ状態だったわけだ。
 今はみんな寝静まっている。俺はといえば、エーデルの放った一撃が地味に残っていて眠れないのだ。腹がいてぇ、ちくしょう。
 だがしかし俺もそれなりの一撃を見舞ってやったのだ、あいつも今頃同じような思いをしてるのだと想像して溜飲を下げることにする。いやもう情けないことは理解してるんだけど。
「……ヒロトさん?」
「あ、ユリアさん。どうしたの?」
「それはこちらのせりふです。怪我をなさっているのですから早く休んでください、そういったはずですよ?」
 う、この顔はまだ怒っている。
「ちょっと怪我が火照って……いや、すぐに寝る、寝るから」
「もう、見送ってそんな怪我をして帰ってこられては、見送った私が馬鹿みたいじゃないですか」
「いやー、馬鹿なのは俺だと思うけど」
「自覚があるのなら直してください、すぐに、この場で」
 本当にね、そうですよね! でも馬鹿は死んでも直らないって言葉があるんですよねこの国!
 ていうかさっきも胸中とはいえ俺の馬鹿さを甘く見るななんて馬鹿丸出しな啖呵切ってきたばっかりだし。うわ本物じゃんか俺。
「あの、ヒロトさん? 久々に遠くへ旅立っていらっしゃるようですが」
「はっ!? あ、ああいや、ただいまユリアさん」
「おかえりなさい?」
 思わずぷっと吹いてしまった。彼女がむっとした顔をする。
「いや、なんだか変な状況だと思ってさ。今のやり取りとか」
 家の中でただいま、おかえりなさいって。なんじゃいそら。
「……ふふっ、たしかにちょっぴりおかしかったですね、今の私たち」
 夜のリビングで顔を見合わせて笑う二人。はは、なんだこれ、変な奴ら。それが実に、ああうん、気持ちいい。心地いい。まるで時が止まってしまったかのような静けさに揺られて、世界が小さく切り取られてしまっているかのように。
 壁なんてここにはなかった。

最終更新:2008年03月04日 10:55
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