ABCまとめ13


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「ああ、くそ!」
夏の夜は蒸し暑く、汗で体に張り付く服のおかげで、俺の中の不快指数は振り切れっぱなしだった。
恥も外聞も無く、制服を着たツインテールの女がいなかったかなんて聞きこみをして、無視されたり鬱陶しがられたりしながら探し回って一時間。
警察に任せた方が早いんじゃないかとも思ったが、癇癪を起した状態の美羽が警官相手に怯えて更にパニックに陥り、状態が悪化することも考えられる。
「貴俊辺りに応援頼むか……」
最善の策とは言えないが、次善の策くらいにはなるだろう。
携帯を取り出してアドレス帳から貴俊の番号を出そうとするのと同時に、マナーモードにしてあった携帯が震えた。
「うちから……?」
見覚えのある番号が、自宅からの電話であることを告げている。
あの状態で美優からかかってくるとは思えない、そうなるとユリアかレンしかいないが、あの二人電話使えたっけか?
「もしもし」
「ヒロトさんですか!?」
受話器の向こう側から、叫びにもにたユリアの声が届く。
「あ、ああ……そうだけど。どうかしたのか?」
「……はあ……やっとつながりました……」
溜息の深さからして、相当かけるのに苦労したんだろうな。
扱いは何度か教えた筈なんだが、どうにも耐性がない人には難しいらしい……と、そんなことを考えてる場合じゃないな。
「って、そんな場合じゃないんです!」
どうやら考えていたことはあちらも同じらしい。
「ああ、もう……でも、何から話せばいいのかしら……!」
どうやら相当パニくっているらしい。離れていてもユリアが目を回してあたふたしている姿が想像できる。
「ユリア、落ち着け。深呼吸して人と言う字を手のひらに書いて飲み込め」
「ひ、人? 人ってどういう字でした?」
どうやら余計に混乱させてしまったらしい。
「ごめん、忘れて。とりあえずゆっくりと一つずつ話してくれればいいから」
「は、はい……。あ、あの、ミウさんが……ノア・アメ……ノア教諭に、保護されたようです」
「ノア先生が!?」
「そうです……頃合いを見て迎えに来てくれ……とのことです」
どうにも口を濁すような言い方が気になったが、ノア先生が美羽を助けてくれたのなら当面安心だろう。
「それと……」
「ああ、まだ何かあるのか?」
次に耳にしたユリアの言葉に、思わず街中で怒声を上げてしまう。
「美優がいなくなっただあ!?」
ったく、あいつら……姉妹揃ってなにやってやがる!!
「今、レンが探しに出てはいますが……。それより、今回のことでわかったことがあるのです」
「何が!」
俺としては、このまま早く捜索を続行させたいところなのだけれど。
ユリアは何を躊躇っているのか、息を呑むばかりで何も言おうとはしない。
「ユリア! 何が言いたい!?」
「私達はずっとリビングにいて、ミユさんが降りてきたらすぐにわかる筈なのに……様子を見に行った時には既にいなかった……」
「だから何だ!」
「ミユさんはおそらく、先天的な――」

「お兄ちゃん」

「!?」
すっと背後から細い腕が携帯電話に忍び寄り、何かを言いかけたユリアの声を遮るようにして、通話を無理やりに中断させた。
背筋に何故だか悪寒が走り、飛び退くように振り向く。するとそこには、自然と俺の携帯を奪いとったまま虚ろに笑う美優が立っていた。
「美優」
だが俺には美優の様子が少しおかしいことよりも、ただ美羽も美優も無事だったということがわかっただけで満足だった。
「良かった……!」
細い体を抱きしめようと近づこうとして、「お兄ちゃん、駄目だよ」と美優が呟く。ただそれだけなのに言葉で壁を作られたかのように、近寄れなくなってしまう。
「私は……もう、後回しでいいから」
「? 何言ってんだ、美優」
まだそれほど深くも無い夜、人通りもまばらながら全くないと言うほどでもない。
だけれど通りかかる全ての人間が、俺達をまるで認識できていないかのように通り過ぎて行く。

美優も、周りの人間も、何かがおかしい。

「お兄ちゃん、お姉ちゃんを迎えに行くんだよね?」
「あ、ああ。そのつもりだ。美優……あのことについては、またゆっくり話すから」
ちゃんと解決できるとは、考えていないけれど。
俺の嘘が二人を幸せに出来るとは、思えないけれど。
どれだけ恨まれても、家族を死なせるわけにはいかないんだ。
「でも、今お姉ちゃんに会いに行ったら……。また、あの時みたいになっちゃうよ?」
「……ならないよ。気をつけるから」
そのことはあまり口に出さないでほしい。思い出すだけで全身が軋む錯覚に襲われる。
周囲の世界がスローで動いて、骨が折れる音まではっきりと聞こえて、床に無理やりキスを迫られて唇が切れ、強い衝撃と共に意識が暗転していくあの記憶が。
「気をつけても無駄だと思う。お姉ちゃん、怒ると手をつけられないし、今ではお兄ちゃんより強いでしょ?」
「ば、ばっか。俺が本気出したらあいつが泣いちゃうだろ? いつもは手加減してるって」
実際は、美優の言う通りなのだけれど。
「でもね……私は、もうお姉ちゃんにあんなことさせたくないし、お兄ちゃんが苦しんでるのも見たくない……」
「…………」
美優の言葉は憂慮の言葉。俺達を気遣う本気の心。
だけど……。
「お兄ちゃんだって、もうあんな目に合いたくないでしょ?」
「だから、そのことはもういいって。あんまり思い出したくないんだ」
痛いんだ。
体が、心が、まだ罪を覚えている。
「……忘れたいのなら、そうさせてあげることもできるよ? だけれどその前に、しっかりと向き合ったうえで考えてほしいことがあるの」
美優の発言の節々から、不自然な単語がぽろぽろと出てくる。
……お前は、何を言ってるんだ?
そう問いかけたくなってしまう程に。
「ちゃんと、思い出して?」
ざわめき始めた心に、更に小石が投じられる。
「お互いに傷つけ合うなんてこと、もうあっちゃいけないよね?」
一度出来た波紋は、納まることなく拡散していく。
「やめろ……!」
「お兄ちゃんっ!」
「やめてくれっ!!」

美羽は、悪くない。
俺が、悪い。

――そう、全て俺の責任だ。



三年前。
両親が死んでから一年後のこと、俺も美羽も美優も、まだ中学生だった頃。
当時は葬式やらのゴタゴタが多く美羽の精神も不安定になることも多かったが、一年経てば表面上は取り繕えるようにはなった。
親が死んでどうやって暮らすのかと周囲の人々には心配されたものだが、親父達の遺産は俺達三人が大学に行っても余裕で暮らしていける程に残っていたので、俺は将来にそれほど悲壮感を持ってはいなかったのだ。

しかし子供三人ではいろいろ大変だろうと、親戚の叔父さん達は「うちに来るか」と親切に申し出てはくれた。
だけど、俺達はそれを受け入れなかった。美羽にとって幼少の頃何度か会っただけの大人の世話になることは、混乱を招くと判断したから。
叔父さんはそれでも良い相談役として俺達の手が届かないことをいろいろとフォローしてくれた、それだけでも俺達三人にはありがたすぎるほどだったのだ。

後は、俺が家族の長として美羽と美優を引っ張っていく。
そう心に定めたけれど、親の庇護から離れて暮らすということがどれほど大変か、俺たちはあの頃まだわかっていなかった。





秋。
夏が暑さを忘れて行ったのか中途半端に気温が上がり、半袖を着るべきか長袖を着るべきか悩んでしまうような日のことだった。

「……それで、どうした?」
「だから……三年生の男の人と、喧嘩して……」
「…………」
美羽は、ソファの上でクッションを抱え込んだまま蹲っている。
「あ、で、でもね。私が悪いの! 私がお姉ちゃんを置いたままトイレに行ったりしたから……!」
美優は姉を庇おうと必死になっているというのに、当人はまるで関心も無いように黙ったままだ。
……いや、何も言えないだけってのはわかってる。ここで責めても仕方ないってのも、わかる。だけれど……。
「美羽。ちょっとしたナンパだったんだから軽くあしらえば良かっただろ?」
「……気持ち悪かったから、触るなって払いのけただけ……」
「お、お兄ちゃん。だから、その……」
「美優はいい、少し黙ってて」
美優が「あう」と謎の呻きと共に声を潜め、俺はもう少しだけ美羽を問いただすことにする。

原因は、大したことではない。
美優がトイレに立ってすぐ後に、美羽のことを狙っているらしき三年生から呼び出された。
美羽は最初は断ったのだが、どうしてもと言われて少しだけならと押し切られてしまったらしい。
……この時点で間違いだ、教室ならば仲の良い友達がいる。
だが、人気の無い廊下はNG。
教室の前くらいならば、まだ良かったのに。
美羽も必死に抑えていたのだろうけれど、三年が肩に手を置こうとした瞬間に……感情が爆発した。

「触るな!」

大人しくしていた後輩にいきなり口汚く罵られれば、相手がどれだけいい人だろうと多少はカチンと来るだろう。
だが、普通そんなことだけで相手に暴力を振るおうなんて思わないだろう、普通人間にはリミッターがある。
人を傷つけようとする時、相手の痛みを考えて躊躇してしまう精神のタガというものが。

しかし、癇癪を起した美羽にそんなものは存在しない。
相手が身構える前に戦う気力が萎える程の打撃を加え、上級生を昏倒させた。
……そして、騒ぎを聞きつけた教師がやってきてその騒ぎは終わり。

「美羽、お前は知らない人と一緒にいたらああなるのはわかってた筈だよな?」
「…………」
「なのに、なんで一人でほいほいとついていったりしたんだよ」
「…………」
「美羽!」
返事が無いのに業を煮やし、つい声を張り上げてしまう。
「知るか馬鹿兄貴っ!!! 阿倍サダオみたいにアレ切って死ねっ!!!!!」
だが、それがいけなかった。美羽を怒鳴りつけてはいけないということは良くわかっていた筈だったのに……。
「あ、アレ切ってって……! おいっ、待て!」
弾かれたように立ちあがり、美羽が部屋から飛び出してゆく。呼びとめても当然あいつは聞く耳を持つ筈もなく。
バタン!
家中に響く程の音と共に、戸は閉められた。
「……あーもう」
ああなったら今日一日は部屋から出てこないだろう。箸にも棒にもかからない。
今までもこういうことは度々あったし、その度に天岩戸作戦やら。呂布が来たぞ作戦などを試してはみたのだが、俺がフルボッコにされるだけだった。
呂布作戦は美優の発案だっていうのに、いやまあそれは関係ないんだけどね。
「お兄ちゃん」
「……何?」
どうしたものかと頭を抱えていると、美優は「こんなこと言うのも、おかしいかもしれないけど」と前置きをしてからおずおずと話し出す。
「やっぱり、お姉ちゃんを責めすぎるのは……良くないと思う……」

「…………責めてるわけじゃない。あいつだって、いつまでもああしておくわけにはいかないだろ」
どこか刺々しい口調になってしまう。だがそれも仕方のないことだ。
こういった出来事は今月に入って既に三度目なのだから。
家族なんだから助け合うのは当たり前。だが、決してストレスが溜まらないわけではない。
……いつまでたっても一緒にいられるわけじゃない。あいつは社会に出てからも、べったりと俺や美優にくっついていくつもりなのか?
「でも、お姉ちゃん……少しずつは、戻ってるわけだし……頑張ってると、思うよ……」
戻ってる。心の傷が『治る』とは美優は言わない。
それは美羽が自分の心が病んでいるのだと認めないせいだ。
病院に連れて行こうとすると、今日の騒ぎなんか比較にならない程凶暴化し、誰の手にも負えなくなってしまう。

「私はおかしくない」

そんな美羽の言い分を、誰が認めるのだろうか?
例え俺と美優が認めても、他人は認めてくれないだろう。

あいつが守ってくれというのなら守ってやる。
美羽も美優も、俺の大事な妹なのだから。
でも、だけれど、もう――!




切り替え:現在




「お兄ちゃん、あの時はもう疲れちゃってたんだよね」
「……ああ、そうだ」
俺はあの時疲れ切っていた。
常に美羽の為に時間を割かねばならず、自分の時間が取れない。
遊びたい盛りの中学生が、部活動にも参加せずに妹のお守り……。

美優だってサポートしてくれている。
だけれど当時ほとんどの家事は俺がこなしていた。
勉強、家事、美羽のケア。この三つの両立が中学生にまともに行えるわけがなかった。むしろ一年程もよく持ったと思う。
……でも、全部俺が自分で決めたことなんだ。
叔父さんの世話にならないことを決めたのも俺、美羽を守ると決めたのも俺。

そうだとしても、割り切れない心労は心の奥底に堆積していく。


場面切り替え:過去



「先輩の家にお詫びしに行ったらさ、先輩はすぐに許してくれたよ。『自分にも責任はあるから』って」
「いい人、だったんだ」
そう、怪我をさせられたにも関わらず快く許してくれた。
先輩が出来た人間であることに安心したのだけれど……問題は、親の方だった。
「だけどさ、先輩の母親がこう言ったんだよ。……ったく、どこから情報仕入れたのかも知らないけどさ……『これだから、親のいないとこの子供は……』って」
「っ……!」
「親がいないからなんなんだよって、言いたいよな」
しかしお詫びにきたという建前、手のひらを返して相手を罵倒するわけにもいかない。
「なんでだよ! なんでんなこと言われなきゃならねえんだよ! 別に一度や二度ならいい、だけどな……似たような台詞、もうこの半年の間に何度聞いたと思う!?」
親父たちが死んで、更に荒れた美羽が暴れる度に、矢面に立つのは俺だった。
美羽が暴力を振るった人間から、報復を受けることだってあった。
妹に迫ろうとしている悪意を常に水面下で受け止めて、顔には傷がつかないよう体をまるめて、リンチに耐えた。
何度も、何度も、何度も。
だるそうにしているのは、寝不足だから。
服で隠しきれない傷は、ぼーっとしてて転んだから。
美羽にも美優にも、それは秘密。

それは仕方のないこと、当然のこと、自分で決めたこと。
だけれど一介の中学生が、人を……心に傷を持つ人を支えながら、悪意に耐えながら生きていくことの辛さを知るはずもなく。
親と分担していた苦労を、暴力を一身に受け、ただ疲弊していた。
「美羽も、おとなしくしてくれればいいんだ。だけどあいつ、わざわざ火中の栗を拾うようなことばっかりして……!」
その栗が撥ねた時、被害を被るのは美羽以外の人間。

そして、原因は俺の監督不行き届きとされる。
……全て俺のせい。
ああ、自覚しているさ。
美羽が一人でいられなくなったことについては、ずっと負い目を感じているのだから。
「あいつはな、あの日から心に傷を負ったままなんだよ。
時間が癒してくれない程の深い傷を。そして……その傷をつけたのは俺なんだ。俺が、手を離したから……!」
時間はほとんどの傷を癒合してくれる。
だけれど、いつまでたってもふさがらない傷もある。
そこからは、じわじわといつまでたっても少しずつ血が滲み出て、体を蝕んでいく。
「だけどな、いつまでもこうしてはいられないんだ! 少し医者に診てもらうことさえも何で嫌がる! あいつはガキのままなのか!」
苛立ちに声を荒げてしまい、美優がどう反応していいのかと困った顔を浮かべているのを見て、我に返った。
「……悪い、こんなこと言っても仕方ないよな」
美優は、わずかながらでも良くサポートしてくれている。
「お兄ちゃん、ごめんね」
「え?」
「ううん、何でも無い。……ご飯の準備するよ」


場面切り替え:現在



「お兄ちゃんがそこまで思いつめてたなんて、私にはわからなかった……」
自分の身を抱くようにして、美優は言った。
俺を慰めるように、自分の存在を確かめるように。
「俺が、弱かっただけだ」
自嘲する。
まさに今の俺に相応しい行為だ。過去の自分を詰り、今の自分を正当化する。
「俺が、あんなことさえしなければ……!」
「………………」



:過去


三連休を使って山に行こうと、俺は言った。
美羽は目を丸くして驚き。
美優は落ち窪んだ瞳でこちらを見ていた。
俺の浅はかな考えは、全て見通していると言わんばかりに。

ピクニックだと説明すれば美羽は納得はしたが、美優だけは首を縦に振らなかった。
「用事があるから」との言い訳も、空々しく寒々しいものにしか思えない。
――あの目を見た後では。

恐らく、美優は本当に俺の浅はかな考えなんて見通してたんだろうな。
山に行くのは本当だが、そこで開かれるのは精神科医が開く合宿のようなものだ。
自然との触れ合いによるセラピ、個人との話し合いから始まる癒し。
そう言った触れ込みだったと思う。
……ようは、俺は美羽をそこに一人で放り込もうという魂胆だったのだ。
その時俺は、だましていることからの罪悪感はあったが……このくらいのスパルタ教育、許されるだろうだなんて甘いことを考えていた。
何より、その身に溜まった苛立ちが引き金になったのは間違いない。




がたがたと、不規則な揺れを刻みながらバスが山の斜面を登って行く。
合宿の場に向かうバスの中に、俺と美羽は隣り合って座っていた。
「美優、本当に遅れて来るの?」
「ああ……。何か、用事があるらしくてな」
今日三度めの嘘。
ここまで誘導するのに既に二回も嘘をついている。
「ふーん」
美羽はつまらなさそうに溜息をつき、窓の外を見る。
ゆっくりと後に流れていく景色は鬱蒼とした森だけであり、見ていて面白くなるものではない。
もう少し上に登れば、森も途切れてさっぱりした景色が見えてくる筈なのだが。
「……変じゃない?」
「何が?」
「その、こういうのも悪いんだけどさ。なんか、他に乗ってる人達皆暗い感じだし……」
そう。
美羽がつまらなさそうにしているのは、面白みのない景色のせいだけではない。
出発からろくに言葉も交わされないバス内の沈んだ空気のせいでもある。
「みんな、寝不足なんじゃないか?」
「…………そうかなあ」
このように沈んだ空気になるのも無理はないだろう、皆多かれ少なかれ、どこから心を病んでしまっている人達の集まりなのだから。
「そうだよ。つかさ、俺たちが話せばよくね?」
「はあ? 何いきなり」
美羽に、これ以上不審に思わせるようなことがあってはならない。
多少不自然でも会話をして、気を逸らすべきだと考えた。
「今も話してるじゃない」
「いや、それはそうなんだが……なんというか……」
煮え切らない俺の態度に苛立ちを感じたのか、語気を強めて美羽は問い返してくる。
「何? 言いたいことでもあるの?」
「……あのさ、もし……一人でお化け屋敷に入るか、茄子を食べるかって言われたらどっちを選ぶ?」
「はあ?」
わけがわからない。
美羽はそう表情で訴え、俺はばつが悪くなって頭をぽりぽりとかく。
「それ、どういう意味?」
「どういう意味って聞かれても……そのまんま……かな」
俺は何を聞いているんだろう。
自分でもわけがわからなくなってくる。
これで、美羽が茄子を選んだらどうなる? 俺は同情して一人で行かせるのをやめる?
……いや、そんなことは出来ない。今回だけは、情にほだされるわけにはいかないから。
「………………」
美羽は少しだけ考え込んで、すぐに「やっぱダメ」と頭を垂れた。
「どっちも無理! っつかなに、兄貴は私を一人にさせたいわけ?」
「そういうんじゃない、けどな」 
「じゃあ何よ。せっかくの旅行……合宿? まあ、どっちでもいいけど……楽しいイベントの前に水差さないで」
楽しくは、ならないんだよ。
「あんまり、楽しくないかもしれないぞ?」
「そんなことないね、絶対楽しいよ」
美羽らしくない……そういうことを妹に言うのは酷いか。
美羽は普段あまり見せないような朗らかな笑顔をこちらに向けながら、
「だって、家族皆で遠出だなんて久し振りだし。……どんな所に行っても、絶対に楽しいって。兄貴はそう思わない?」
修学旅行の行きがけ、クラスメイトとの歓談を楽しむように俺に語りかける。
「探検とかしようかな……」
「…………」
俺は、美羽という太陽から目を背け灰色の床に目をやる。
バスの中で下を見ているのはよくないのは知っているが、俺が座っているのは通路側の席、窓の外を見つめるわけにも、反対側の席の人の顔を睨むわけにもいかない。
「兄貴、どしたの? もしかして酔った?」
俯く俺を気遣う美羽に、「大丈夫」とだけ返し、バス内の時計と事前に確認していた到着予定時刻とを照らし合わせる。
「あと、五分ってところか……」
「楽しみだね、兄貴」
「…………ああ」

――お前は。間違ってる。

(ああ)

――妹を騙すなんて、妹を苦しめるなんて、妹を悲しませるなんて、あってはいけない。

(そうだな)

――美羽だって真摯に向き合えば自ら医者と会ってくれるかもしれないだろう?

(無理だよ)

――何で決めつける。お前は美羽の成長を信じてないのか。

(信じるだけで成長するのなら、医者はいらない)

――そう急くことはないと言っているんだ。まだ中学生なんだろう?

(もう、中学生だ。親がいない子供は早く大人にならなきゃいけない……わかるだろ)

――もういい、一生後悔してろ。

(ああ。どうせ地獄に行くのは俺だけだ)

精神の内奥で繰り広げられたディスカッションは、結局意思を曲げることなく終わった。
いつかは医者に診せなければいけないだろう、ただそれが速いか遅いか、無理やりか騙し打ちかの違い。
どのみち、俺には美羽に嫌われる選択しかとれないのかもしれないな。


「おお、ついたね~」
「…………ああ」
施設の玄関前にバスが横付けされ、わずかな時間を同じ車内で過ごした人々はぞろぞろと降りていく。
俺は「最後に降りよう」と提案し、美羽も「そうね」と頷いた。
そうしてしばらく待ち、ようやく最後の二人としてバスの出口に向かう。
「兄貴?」
そして、俺はバスのタラップで足を止めた。先にバスから地に足をおろした美羽が、不思議そうに振り向く。
「美羽、医者のいうことをきちんと聞けば、大丈夫だからな」
「……兄貴、何言ってんの?」
美羽の表情に、うっすらと不安が宿る。
バスの中と外に通じる扉は開かれている、精一杯足を延ばしてジャンプすれば飛びこめる。
だけれど、それが出来ないのは無意識のうちに心が恐れているからだろう。
次に何が起こるかわかっているのに、何も出来ない。
人は得てして恐怖に支配されるもの。

「…………ごめん、疲れたんだ」
運転手に手で合図を送り、扉は気の抜ける音と共に閉じられる。
それと同時に、弾かれたようにバスに縋りつこうする美羽を、後ろから大人達がやってきて危険だと制止する。
それでも美羽は、涙を玉のごとくぼろぼろと流し、職員に肘を入れ、脛を蹴り上げ、怯ませた所を振り払う。
だけれど走り出したバスには追いつけない。いくら人並み外れた身体能力を持っていても、人間である限りは。

涙で顔をぐしゃぐしゃにした美羽が、諦めて膝をつき見えなくなるまで、俺は最後尾の窓から後ろを見ていた。
「………………………………………………そこまで、なのかよ」
俺なんかに、執着しないでくれ。
それは、俺の重荷になるから。


帰路の途中、俺はヘンゼルとグレーテルの童話を思い返していた。
食糧も尽きかけ、夫婦は食いぶちを減らす為にヘンゼルとグレーテルを森の中に置いていく。
その内に迷い、飢えて死ぬだろうと思えば何度でも戻ってくる。

何度も、何度も、何度も。

だが、どんどんと深いところに連れていく内、双子はひとつの家にたどりつく。
そこには優しいおばあさんが住んでいて、ヘンゼルとグレーテルに食事を食事を与えて養ってくれる。
だけれど、二人はおばあさんを窯で焼き殺し、宝だけを奪って自分の家へと帰っていく。

そして、いじわるな継母は殺される。

――悪魔の子供。

(何が、悪魔だ。……むしろ悪魔は、俺の方だろう)
いじわるな継母の役割は、俺に相応しい。

そんな罪悪感に苛まれながらも、俺は心の奥底に僅かな開放感を感じていたことを付け加えておく……。


駅前でバスから降り、俺は何をするでもなく祝日の街中をぶらついていた。
本屋に寄って週刊漫画を立ち読みし、ゲーセンで1クレジットだけ格闘ゲームをやってみたり。
ようは暇な中学生らしい行動で時間を潰した。

しかし、漫画の内容なんてさっぱり頭には入ってこなかったし、ゲームでも2ステージであっさりとやられてしまった。
何をしても、美羽の泣き顔が脳裏に張り付いて離れない。
あの涙が、俺の心をちくちくと刺激するんだ。

(……自分で決めたことだろ。今回のことだって、美羽にはいい薬になるはずだ……!)

必死になって、自分にそう言い聞かせたけれど、決して気分が晴れることはない。
俺の望んだ自由な時間というのは、こんなにもつまらないものだったのか?
「……くそ」
隔靴掻痒、そんな言葉が浮かんで消えた。


つまらなくなって自分の家に戻り、ドアを開けて固まった。
「……美羽の靴が、なんで……」
久しぶりの遠出だ、別の靴を履いて行ったのかもしれない。
……そう思ったが、記憶を探る内にその可能性は否定された。
今朝美羽が履いていた靴は、やはり今ここにあるものと、同じ――。

つまり、その状況が導き出す答えなんて驚くほど単純なこと。

「……お帰り、兄貴」

階段を上ってすぐ、二階の踊り場から、見下ろされていた。
美羽は、怒り、蔑み、憐み、あらゆる負の感情をないまぜにした瞳を、俺に向けている。

「お前、なんで……!」
「私だよ」
美羽の影から生まれ出たように、背後から美優が姿を現した。
「お兄ちゃんがしようとしてたこと、全部調べてたの。……それで、タクシーで先回りをして……」
弁解にもとれそうな口調で行われる説明に、俺は俯く。
美優はそんな俺の姿を見て、「ごめんなさい」と呟くように言った。
「でも、私……お姉ちゃんを一人になんてさせたくなかったの……! お兄ちゃんが、どれだけ辛いかも、わかってたけど……!」
「……っ」
美優は、悪くない。
悪いのは、俺。
結局二日後にはこうなってたはずだろ?
それが早いか遅いかの話。

……だけれど、美羽は医者と話をする時間さえも無に帰したんだ。
俺は、そのことをまず怒ればいいのか、騙したことを謝ればいいのかわからなくなる。

「……兄貴、上って来てよ」
「え?」
「こっち、来て」

美羽が、おいでおいでと猫をおびき寄せる手つきで俺を誘う。
「……ああ、今、行く」
俺は、こちらに向けられたままの蔑すみの目に多少委縮しながら、ゆっくりと、階段を一段ずつ踏みしめて上っていく。
いつもなら数秒で上りきれる階段が、今では妙に長く感じられた。

「お疲れ、兄貴」
踊り場には美羽と美優が立っているので、必然俺は階段の途中で立ち止まる形になる。
「どうしたの? 早く上がってきなよ」
こちらを誘っていた手が、ゆっくりと差し伸べられる。
俺を引っ張り上げようとしているのかはわからないが、今は刺激しないように言うことを聞くのがいいだろうと思い、その手を取った。
「っ……!」
万力を連想させられるほどの力で、手を握り締められる。
「痛いぞ……」
このまま握られ続ければ、痣が出来るのは避けられない。
だが、この狭い階段で無理やりに振りほどこうとすれば、足を踏み外して転げ落ちるだろう。
妹の細い腕が、筋骨隆々とした男の腕に見えてくる。
「お、おい美羽! 痛いって……」
美優からフォローは期待できそうもない、俺はなるべく穏やかな声音でそう語りかけたのだが。
「絶対に離さないって、言ったよね」
「……え?」
ああ、これは駄目だなと、直感が、深層意識が、アニマが、もうなんでもいいけれど……とにかく、もう手がつけられないだろうことを、悟った。
「ずっと一緒にいてくれるって言ったのに!! 嘘吐き!!!!!」
固く結ばれていたはずの手が、振り払われる。
足場の狭い階段でそんなことをされれば当然バランスを崩すに決まっていて。だけれど、まだ壁に手をつけば――そう、思ったのだけど。
「ぐっ……!?」
そうするよりも早く、美羽の蹴りが、俺の胸に叩き込まれていた。

ふわり。

わずかな浮遊感、美羽から見ればそれは刹那の時間だったかもしれないけれど、俺は少しだけ、空を飛んだ。
ああ、蹴られたんだなということは理解できたけれど。
(……でも、飛んでるってことは……)

人間に翼なんてある筈がない。

それを自覚した次の瞬間、俺は地球の引力にたたき落とされて。

ごっ。

そんな鈍い音と共に、意識を失った。


全身に関節技をかけられたかのような痛みに責め立てられ、暗闇から追い出されて覚醒する。
「…………」
どうやらベッドに寝ているということは体の感覚で把握できた。
……次に確認するべきは、場所だ。
薄目を開き、ぼやける視界のピントを合わせながら自分がどこに寝ているのかを確認する。
「病院、か」
全体的に白が目立つ部屋、ベッドを囲むカーテン、プリペイドカード式のテレビ。
少し前に、例の件で入院した際の記憶とぴったり重なった。

……そう、ベッドの横で俺を見守る美優の姿以外は。

「あ…………」
目覚めた俺を見て、美優は驚きのまま口をぱくぱくと開閉し何か言おうとするが、結局一言も喋らずに黙りこんでしまう。
でも、顔を見ればわかる。
美優の今の表情は、ごめんなさいと言いたがっている顔だ。
(いざとなればの行動力はある癖に……こういう時は駄目なんだよな)

美羽は、俺を断罪した。
美優はその様子を傍観していたけれど、実際は俺にこんな怪我を負わせるつもりはなかったんだろう。

いくら怒っていても、まさか俺を階段から突き落とすような真似をするとは思わなかったから、好きにやらせていたんだ。

だけれどそれは、仕方ないこと。
あの一瞬で俺を掬いあげるなんて、誰にだって出来る筈もない。

当然ながら、美優が背負うべき罪なんて微塵も存在しない。
だから、そんな悲しそうな顔をする必要なんて、ない。

「大丈夫だよ、美優」
「え……?」
頭に巻かれた包帯、左腕に無骨なギプス。
それと全身が、まだずきずきと痛む。
でも、大丈夫。

「怒って、ないの?」
「怒ってる」
「っ……」
「言っておくけど、美羽に対してだからな」
「え?」
情けは人の為ならず、因果応報。
結局、良いことも悪いことも、まわりまわって自分に戻ってくる。
だけど、その戻ってきた結果を素直に受け入れるかどうかは、別の問題だ。

「だけど、美羽とはお互い様ということにしておく……」
俺は、どうすればいい?
謝ればいいのか、怒ればいいのか。
美羽には、謝ってから怒るなんて中途半端な真似は出来ない。何かを伝えるならば、どちらかに態度を固めなければ。
「それでいい、かな?」
だけど、俺にはそんな度胸がない。一度崖から突き放した美羽を抱きしめてやれるほど図太い人間でもない。
大怪我を負わされて、全てが自業自得と受け入れるだけの器もない。
……だから、保留。




「私が決めることじゃ、ないと思う……」
それはそうだ。
美優は中立、向かい合うべきその人じゃない。
「お姉ちゃんと、話してあげて?」
「美羽、いるのか?」
「うん、病室の外にいるよ」
音をたてずに立ち上がり、病室の扉を開いて美優が何か話している。声が小さくて聞き取れはしないが、そこに美羽がちゃんといる、それだけがわかれば、心を落ち着けることが出来た。

「…………じゃあ…………」
美優が何かを決心するかのように頷いて、廊下にいるであろう美羽と俺の間で何度か視線を往復させた。
そして、美優が病室を出ていき、入れ替わりに美羽が足を踏み入れてくる。
「…………」
今、ここが個室であってよかったと思った。
財政的に問題は無いとは言え、わざわざ個室にするような怪我でも病気でもないと思ったのだが……。
他人もいるような部屋に、こんな目を赤くして泣き腫らした顔をした女の子を連れてこられるわけがない。
美優はその辺りを織り込み済みで個室を選んだのだろう。

「………………」
美羽は俺と目を合わせようとしてくれない。
いや、たまにこちらをちらちらと伺うようにするのだけれど、すぐにぷいと逸らしてしまう。
「なあ、美羽」
「……何」
「………………今回のこと………………」
美羽は、俺の言葉を聞いて怒るだろうか?
「お互い様にして、忘れよう」
「………………」
美羽は、俺と目を合わせない。
「美羽」
俺は、美羽を見ているのに。
「…………兄貴は、それでいいの?」
「…………え?」

その一言で、気がついた。
俺は、本当に美羽を見ていたのだろうか?

「……ううん、それがいいんだと思う。兄貴がいいって言うなら、そうするよ」
「美羽……」
「もう、いいよ。……もう……」
結局最後まで目を合わせないまま、美羽が踵を返して病室から出て行こうとする。
俺は咄嗟に声をかけて呼び止めた。
「み、美羽っ!」
声が裏返ってしまったけど、そんなことを気にしている暇はない。
「……絶対に裏切らないから。絶対に、お前達を守るから。どんなことがあっても耐えてみせるから! だから、もう一度……もう一度だけ……」
俺を、兄として信じてほしい。
「………………」
美羽は、俺の訴えを背中で聞いて。
そしてどれ程の時間が経っただろう。

……五分か、十分か、あるいはたったの一分だったかもしれない。
時計の確認なんてしないまま、無言で佇む美羽の背中だけを見つめる時間が過ぎていく。
「…………むしがいいね」
不意に、美羽がそう呟いた。
そしてくるりと軽やかに振り向いて、やっと目を合わせてくれた美羽は、いつもの快活な笑みを浮かべていて。
「仕方ないなあ、兄貴は本当にしょうがないんだから」
やれやれと、肩を軽く揺らして鼻で笑う。
馬鹿にしている仕草でありながら、美羽の言葉から親愛の情を感じ取ることができる。
「でもね、兄貴にひとつだけ言っとくよ」
「なんだ?」
ピッと人差し指を立て、
「今度裏切ったりしたら、その時は――」
「――ああ。その時は、俺も何をされても文句は言わない」
「ん、わかってるならよし!」

ぐだぐだで、美羽の情に甘える結果になってしまったけれど。
それは、とても兄として情けないことだけれど。

この時は、ただ美羽と仲直りできたことにほっとしていた。

これからだ。
これから、本当に強い人間に。逞しい兄になって、その時にちゃんと謝ろう。

この先続く未来、きっと美羽が、心の傷を克服することが出来ますように。









「お兄ちゃん……あの時から変わってないよね……?」
「……!」
「お姉ちゃん、今度は許してくれないよ?」
わかってる。
あの時はまだ未来に希望が持てた。まだこれからがある、これから成長していけばいい。
そう思っていた。

だけれど、今度はそうも行かない。
この世界に未来なんてなくて、俺がしたことだって許す許さないなんてレベルの裏切りじゃない。

だけれど、どうしろって言うんだ? 
美羽と美優を守るのに、他に方法があるっていうのか?


「だから、私に任せて欲しいの」
「え?」
胸に手を当て俺に語りかけるその仕草からは。「私なら出来る」という、いつも弱気な美優にはない自信が感じてとれた。
「私なら……お姉ちゃんを説得できる。もう一度話し合いの場につかせられる」
その結果がどうなるかはわからないけど。美優はそう付け足した。
「だけど、俺は……」
「お兄ちゃんが行くよりは、余程いい結果になると思う」
「っ……」
なんでこんなことをしているんだろう。
もっと切羽詰った状況の筈だろう?
後数日で全てが滅びるっていうのに、こんなところで悩んでいる場合じゃない!

1 自分がやる
2 美優に任せる

1 自分がやる

「……駄目だ」
「お兄ちゃん」
「俺が直接向かい合わないと、駄目なんだっ!」
「ひっ……」
声を張り上げすぎて、美優が怯える。
……しまった、意識していないとはいえ美優を脅かしてしまうなんて……。
「で、でも……」
普段ならば美ゆうはここで引き下がってしまうだろう。
しかし、今回は違った。
「お兄ちゃん、何か考えはあるの? お姉ちゃんがまともに話を聞くと思ってるの!?」
「…………」
初めてこうまでして食い下がる美優に、俺は少なからず驚いていた。
……いや、俺たちの生き死に、ひいては世界の崩壊がかかっている事柄だ。そう簡単に引き下がれる筈がない。
だけど、……いいや、だからこそ俺も引くわけにはいかない。
そう、美羽に対しても。
「……ん?」
引くわけには、いかない?
それがいけないのか?

美羽が、真っ向から対立して自分の主張しか行わないのであれば。
こちらは、その揚げ足をとってやろう。

「美羽は、とんでもない天の邪鬼だ」
「え?」
追い詰められた状況からの苦肉の策。
「だから、いっそのことあいつの願いを聞き届けてやろうじゃないかと思う」

――俺と美優の、二人で。



「もしもし、先生ですか?」
「ああ、結城兄か」
ノア先生とは多少プライベートでの付き合いもあり、携帯の電話番号を交換していたおかげですぐに連絡をとることができた。
「……えーっと、まずはお礼を言います。美羽を保護してくださってありがとうございました」
「何、雨に濡れている捨て猫を見つけたら、傘を置いていってやるくらいの慈悲なら私にもあるさ」
それは、美羽が捨て猫のように小さな存在に見えたということだろうか。
……実際、そうだったんだろうな。
美羽は一人になると、泣くか暴れるか、何もせずにうずくまるということしかしない。
「それで、美羽は今どうしてます? 何か失礼なことしてませんか?」
「いいや? ただ一緒にカップ麺を食べて、今はシャワーを浴びているところだ」
見つけてくれたのがこの人で、本当に良かったと思う。
「そうですか……えっと、それでですね、これ以上迷惑をかけるわけにもいきませんし、美羽を引き取りに行きたいんですけど……」
「……本人はどう言うかな。兄が来ると言えば真っ先に逃げ出しそうな気がするが」
「あー」
そうか。まず会う前に逃げ出されるという可能性を考えてなかった。自分の詰めの甘さ……いや、計画性のなさが嫌になる。
「ま、そこはなんとか私が誤魔化してやろう。そうだな……今が八時か、ならば九時に君の家の近くの公園に連れていく。それでいいか?」
「あ、ありがとうございます!」
電話越しには伝わらないけれど、ついつい頭を下げてしまう。
ノア先生は、まるでその仕草を見ているかのように苦笑して、続けた。
「しかしな、結城兄。私がこう言う心配をするのは余計な御世話なのかもしれないが、策はあるのか? 想像以上に厄介な事態だと思うのだがね」
「……大丈夫、だと思います。白馬の王子様としての役割は、はたして見せますよ」
「墓場の王子様にならないよう、気をつけることだな」
皮肉まじりのジョークが少し心に刺さったけれど、気の利いた反応を返す前に電話は切れていた。
「……九時、か」



真夏の夜の夢。
今の状況とは全く関係がないけれど、じっとりと服を汗で湿らせる暑さがそんな言葉を連想させた。
俺達の問題も、あの話みたいにハッピーエンドで終わればいいのだけれど……。
「あるわけない、か」
目の前に用意されているいくつかの選択。
どれを選んでもハッピーな結末には辿りつけそうもない。
だけれど最善でなくていい。次善くらいの結末は、掴んでみせる。
「お兄ちゃん」
俺の後ろに控えていた美優が、心配そうに声をかけてくる。
「どうした?」
「お姉ちゃん、来たみたいだよ……」
はっとして公園の入り口に目を向けると、丁度ノア先生のエリーゼが到着したようだった。
物思いにふけっていたせいか、エンジン音に気付かなかったようだ。

そうして助手席から降りてきた人物のシルエットを見るに……間違いない、あれは美羽だ。
あんな特徴的なツインテール、鳥目になったとしてもわかる自信がある。
「……ノア先生は、来ないか」
車から降りてきたのは美羽だけだ。
ノア先生は兄弟喧嘩に首を突っ込むようなことはしない、か。
あの人は、踏み込むべき境界を弁えている人だからな。
「兄貴……」
美羽は公園の中に踏み込み、俺の姿を視認しても、別段驚く様子は見せなかった。
どうやら最初から俺がいるということがわかっていたらしい。
(誤魔化してもらう必要なんてなかったってことか)
「兄貴、美優も、……何か言いたいことでもあるの?」
今さら何を言っても聞くつもりはないけど。
そんなオーラが滲み出ている。
俺はとりあえずいきなり殴られたりしないよう、美羽の動きに注意しながら話を始めた。
「ああ……なんつーかな……本当に、悪かったって思ってる」
「嘘吐き、絶対にそんなこと思ってないでしょ」
「いや、本当に思ってる。だから俺も考えを改めたよ」
「え……?」
信じられないと言いたげな表情に、少しだけ期待の色が浮かんでいるのが見て取れる。
「……美羽は、俺と美優に生き残ってほしいって言ったよな」

あの晩の話し合い。
世界が崩壊するという話を、美羽はまずくだらない冗談として受け止めた。
そして、何度も信じてくれと繰り返す俺に、「あまりしつこいと怒るよ!」と食って掛ってきて。
それでも一歩も引かない俺の目を見て、ようやく話し半分には信じてくれるようになった。

もしかしたら、俺と美優に釣られて出た偽物の言葉なのかもしれない。

俺はそれを逆手に取る。

「い、言ったけど、それが何?」

「ありがとう。俺は美優と一緒に生き残るよ」

ぐっと美優の肩を引き寄せて、精一杯のいやらしい笑みを作って、告げた。

「え?」
美羽の顔が一瞬で絶望に染まり、俺はさらに追い討ちをかける。
「やっぱり、死ぬのは怖いからなあ。……家族思いの妹を持って、俺は本当に幸せものだ」
「待ってよ……そんなの……!」
「お姉ちゃん、自分で言ってたことでしょ?」
「それは二人とも同じじゃない!」
「だから、私達は考えを改めたんだよ? お姉ちゃんのせっかくの心遣いを、無駄にしない為に」
美優、意外と演技派だな……。
「俺たちも、お前と別れるのはつらいよ……」
「あ、兄貴……!」
「でも、美羽の分もしっかり生きていくからさ、見守っててくれよな」
「行こう? お兄ちゃん、ユリアさん達に報告しないと」
美優が、まるで恋人のように俺の腕を取る。
……少し演技過剰じゃないか?


「ごめんなさい、お姉ちゃん……。さようなら」
そして、二人で美羽に背を向ける。

「ちょ、ちょっと、待ってよ。兄貴……美優!」
懇願する声も届かない風に装い、俺達は歩く。
「いやだ、いやだよ……また置いて行かれるの……? そんなのやだ……! 兄貴っ……」
ほんの少しだけ背後に目をやれば、美羽が膝をついてその瞳にたくさんの涙を浮かべていた。

もう、いいかな?

美優に目くばせをして合図を送ると、ぐっと、組んだ腕に力が込められた気がした。
(……美優?)
まだ駄目ということか? でも、これ以上やると……。
「私だって、死にたくない……しにたくないよぉ……!」
……なるほど、そうか。
決定的な一言が、まだ出ていなかったから。



「ごめん、美羽……」
美優の腕を解いて、美羽の元に歩み寄る。
「あっ……うぅ。ひっく……」
「辛い思いをさせて、ごめん」
追い詰めて、追い詰めて、『死にたくない』という、人間ならば誰でも持っている本能を引きずりだす為に。
俺はまた、妹に嘘をついた。
こんなことで許してもらえるとは思わないけれど、美羽の震える体を精一杯抱きしめた。

「誰だって、死にたくないよ」
「っく……ぅ……ぅん……」
「俺だって、あの選択をするのになんの躊躇もしなかったと思うか?」
……本当は、何度も躊躇った。
世界の崩壊を知った日から、俺の心から死への恐怖が消えない日なんてなかった。
「だけど、これは……」

情けなくて、妹に頼ってばかりだった俺が。
妹を傷つけてしまった俺が。
嘘ばかりついてきた俺が……!

「俺が、兄としてお前達にしてやれる唯一のことなんだ!」
「そ……んな……そんなの……いらない……!」
「ずっと悔やんできた。……あの時からずっと成長もできず、ろくに家族を守り切れていなかったことを」
美羽が、俺の胸に顔をうずめて首を横に振る。
親の言うことを聞かないだだっ子のように。
「いいか? お前らは俺の妹だ。黙って幸せにされて……いいや、黙って生き延びろ。俺は草葉の陰から見てるから、さ」
こんなこと、足を震えさせながら言っても、格好つかないだろうな。

「ちが……う……!」
「え?」
「違う……! しにたくないとか、そういうことじゃない……!」
「なにが違うんだよ?」
「私は……私が……う……うううぅぅ…………!!」
胸倉を掴んで縋るように泣きついたと思えば、ばっと俺の顔を見上げて――。

――新たな修羅場を生む、とんでもないことを叫んだ。

「私が兄貴を一番好きなんだもんっ!! だから、兄貴と一緒にいたいんだよぉっ!!!」
「なっ!?」
「えっ……?」

三人の時間が、今止まる。




「なかなか、面白そうなことになっているじゃないか……」
車体にもたれかかって煙草を吸い、街角の小劇場での演劇を眺めるかのように、ノアが呟く。
もちろん、声までは聞こえない。
だが外灯に照らされた三人の姿から、相当な修羅場になっているだろうことは伺えた。
しかしノアは他の家族の事情にまで口出しするほど野暮な人間ではない。

「何が、面白いというのですか?」
醜悪な物を見る目で、唾棄するかのような言葉が投げかけられた。
――この世界にそぐわないドレスを身にまとい、剣を携えた従者を引き連れた姫、ユリアから。
「おやおやこれは元第二皇女様このような道端で出会うとは偶然ですね……おっと!」
ノアが最後まで喋りきる前に、レンが剣を抜き放ち切りかかる!
だが、当たらない。数秒前までノアがいた空間を裂くのみに終わる。
「ノア・アメスタシア。貴様が何かを企んでいることは明白! 王国に害を成すものは全て排除する」
「全く、とんでもない没交渉だな……。警告もなしに死刑執行とは恐れ入る」
「黙れっ!」
レンの剣には本気の殺意が宿り、月の光を受け鈍く輝く。
「……ヒロトさん達が気づく前に、終わらせるのです。レン!」
「御意に」
「互いに干渉しないというルール……それを破るか」
ならば、と。ノアが懐に手を入れ、レンが身構える。
ノアは魔力を封じられており、飛び道具はない。だとしたら短刀か……鈍器か、何にせよ接近戦用の武器を出してくるものと考えていた。

「殺されても文句は言うまいな!」

――が、しかし。

ぷしゅっ。

そんな間の抜けた音と共に、レンが膝をつく。
「がぁっ……!」
何が起きたのか、レンには理解出来ない。
(右足から、出血が……!?)
剣を杖に顔を上げると、ノアの右手には見慣れぬ物体が握られている。

――いや、あれを見るのは初めてではない。てれびという物の中に流れている映像の中でのみ、その存在を確認していた。



「なあ、ヒロト殿」
「なんだ?」
「この悪党どもの持つ……この、穴のあいた黒い物体はなんだ? 火花が出ているようだが」
「ああ、それは銃って言ってな。なんつーか……強力な飛び道具だ」
「ほう」
「目に見えない速度で鉛の弾丸が飛んでくるから、たぶん人間に避けることは不可能なんじゃないかな」
「ふむ、それほどまでに早いのか! 一度私の剣で防げるのかどうか試してみたいところだ。良し、銃とやらを買いに行こう!」
「いやいやいやいやいやいやいやいや、銃ってのはこの国では普通手に入らないんだよ」
「……あれは武器なのだろう? この世界では護身の為に武器を持つことはいけないことなのか」
「何度も説明したよな、レン。まずこの世界のこの国で護身の為に武器が必要になる状況なんてそうそうない」
「む、むう……」
「まあ最近物騒だからわからないけど……でも銃はやり過ぎだ」
「何故だ?」
「誰でも扱える割に、威力が強すぎるからさ」
「いい武器ではないか」
「……大きな力を持つと、つい試してみたくなったりするだろ? 強力だからこそ、自分をしっかりと律することができる人間以外に持つべきじゃないんだよ。身の丈に合わない力は自分を駄目にするから」
「…………なるほど。ヒロト殿の言わんとする所はわかる。私も力に溺れて死んでいったものを幾度となく見てきたからな。
私の剣もたゆまぬ努力の結晶、騎士として大切な人を守る為にある。持つべき者以外が使う道具ではないということか」
「そゆこと」


レンの右足――ふわりとしたスカートを貫き、ふくらはぎの辺りを、弾丸がかすめていった。
鋭い痛みと驚愕に一度は膝をついたが、立てなくなるほどの傷ではない!
「レン、大丈夫ですか!?」
「も、問題ありません。姫様はお下がりください! あれは、危険な武器です!」
ノアは不適な笑みを浮かべたまま、楽しそうに話す。
「ふむ、足をうまく狙って無力化するつもりでいたが……その長いスカートでは狙えないか」
今度は外さないとばかりに、銃口をレンの体に向ける。
「全く、くだらないと思わないか?」
「何を……!」
「こんな平和な世界の、平和な街の道端で、メイドと教師が殺し合いだよ。……本当にくだらない、この世界ではあってはならないことだ」
さっさと、終わらせる。
ノアが引き金に掛けた指に力を込める。
レンはノアの動きを注視しながら、次にやってくる攻撃をどう捌くか考えを巡らせる!
(……先ほどは、不意打ちを受けた。だが……次は!)

耳を澄ませ、瞬きもせず、次に飛んでくる弾丸を待ち受ける。

――ぷしゅっ。

「はぁっ!!」
金属同士がぶつかり合う音が響き、弾かれた弾丸は民家の塀に突き刺さる。
ノアは目を丸くして、普通の人間には不可能な芸当をやってのけたレンを見つめていた。
「……良くやる」
射撃の修練はそれなりに積んでいた。
だが、レンにそのようなことは関係ない。どこを狙っているのかという視線と銃口の向きから予測をつけ、音速の剣で弾丸を防いだのだ。
「レン・ロバイン、君は規格外の存在だな」


感嘆するノアのつぶやきを聞き流し、道路にほんの少しの血溜まりを作りながら、レンは言う。
「ノア・アメスタシア。それが貴様の言う力か?」
「これだけではないがね、復讐を支える為の大きな柱の一つだよ。……君には防がれたがね、あちらの世界の人間は魔法の詠唱もする間もなく殺すことができるだろう」
「そのような武器は、貴様が持つべきものではない!」
剣を構えなおし、切っ先をノアの喉に向ける。
次は、撃つ前に切る。
そうレンが放つプレッシャーが告げていた。

「怖い怖い……。では、こちらも最終手段をとらせてもらうとしようか」
ノアは、右手を伸ばす。
……ただし、レンやユリアに向けてではない。外灯の光の下、口論を繰り広げている大翔達に向けて、だ。
「動くなよ。動くと彼らが死ぬことになる」
ノア達の姿は暗闇に紛れ、大翔達から確認されることはない。
それ故の、最終手段。人質。
……そしてこれはハッタリでもあった。

けん銃の射程距離というものは、それほど長くはない。
正確に当てられる範囲というものは思ったよりも限られるものなのだ。
今、ノアと大翔達の距離は四十から五十メートルほど離れている。
銃をにぎっているのがノアでなく、軍人のような射撃のプロだったとしても、百発百中とはいかないだろう。

だが、銃の知識などまるでないユリアやレンがそんなことを知るはずもなく。
「本当に、私が撃つ前に動けるかな? もしかしたらという可能性は、捨てきれまい。……彼らが大事なら、武器を置いて後ろに下がれ」
ツールボックス

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