世界が見えた世界・10話 C

 急速に黄昏てゆく世界を学園の屋上から見下ろしながら俺とノアは並んで立っていた。
「うん? ああ……ようやくきたね。ふふ……まったく」
 ノアが突然、フェンスの向こうを眺めながらそんなことを言っていた。
「何か?」
「いやなに。そろそろ決着かなと、思っただけだ」
 決着。その言葉が心に重くのしかかる。
 世界の壁を貫きこの世界へやってきた俺に、ノアはそのすべてを語った。
 ノアはこの世界を滅ぼす。そういう存在でありそうあらなくてはならないから。だがそれにあたり、彼女は宿主たる乃愛さんの願いを可能な限り受け入れることにした。
 それが、新しい世界の創造。
 滅ぼしておいて新しい世界を作るなんてどんなだよと思わずにはいられないが、ノアは世界を滅ぼすという行為さえできればよいのだとか。そして滅ぼした世界の存在の一部を新たな世界に回すことで、俺たちの世界は疑似的にとはいえ存続する形になる。
 無論昨日の続きの世界ではない。新しい歴史、新しい人々の作る世界だ。そこへ俺たちの存在をオーバーライトする。
 この世界はいわゆるその下準備の段階の世界で、俺たちの今への歴史をたどっているところだという。そして、この世界の歴史と俺たちの世界の歴史が重なった瞬間、一つの世界が崩壊し、一つの世界が生まれる。
 生まれる世界は幸せに満ちていて、誰もが笑って暮らせるような、そんな世界なのだそうだ。
 そこには俺がいて美羽がいて。陽菜も、貴俊も、沙良先生もいて。それどころか、親父や母さんもいて。
 しかしユリアたちとの世界のつながりは消える。美優もうちに来ることはないだろう。無論出来上がった世界次第ではあるのだが。
 今あるものが消えて、代わりに手に入る失ったもの。
「それもこれもぜんぶ、乃愛さんの記憶と存在を失うことによって」
「不満かい? 乃愛の望むことなのだがね」
「不満を感じないわけがないだろ。俺は乃愛さんを助けに来たんだ」
 固く握った拳を突きつけた。ノアはそれを見て呆れたと笑って一歩、距離を離す。間合いの外へと。
「そんなに不満か、君の大切なものが奪われることが。そんなに不服か、君の望みが果たされないことが。そんなに不快か、君の世界が侵されることが。まったくもって君も乃愛もそしてこの私も、ずいぶんと腐れ切った勘違いを犯したものだね!!」
 ドンッ!!
 世界が震え、唐突に空が赤から青へと切り替わる。時計の針が急速に回転を早めだす。
「君の狙い通りだ、ああその通りだとも! 私の中の礎は君の一撃で破壊することができるとも。むしろ君にしかできないことだ。だからあえて君にのみ私の知識を伝えた。そして私の予想通り、乃愛の期待を外れ、君は一人でやってきた」
 乃愛さんの期待とノアの予想?
「君も乃愛も気に食わない。君たちはいつだってそうだ、己の箱庭の中にすべてを閉じ込めようとする。自分も、自分の大切なものも。そしてそれを守っていればそれで満足なんだろう。それが私には気に食わないと言っているんだ!!」
「ごぉっ!?」
 衝撃を受けたと理解した時には吹き飛ばされていた。自分が何をされたのか、どこに攻撃を受けたのかも理解できなかった。
「げ……ほっ!? いったい、何を言って」
「そうやって理解しない、しようともしない! 同じところをぐるぐる回っているだけのくせして前を向いたり後ろを向いたり!! 同じ結論にしか辿りつくつもりがないのなら最初から希望を持たせるようなまねをするな!!」
 胸倉を乱暴に掴みあげられる。ごつんとひたい同士がぶつかり、乃愛さんの表情で、乃愛さんでは見せないような烈火の如き怒りのありのままをその顔に浮かべて。
 ノアは、怒っていた。憤っていた。
 何に? 神を名乗るような、事実そのような行いをしている存在が、何を憤る?
「それが君の誤りだ。それが乃愛の過ちだ。貴様ら何様のつもりだ、失いたくないだの守りたいだの。そのためになら自分がどうなってもいい? 別にそれが悪いとは言わないさ、だがね、それを相手が当然のように受け取ると思い込んでいるその傲慢に腹が立つ!!」
 床に叩きつけられた。激痛が脳髄を痺れさせる。だが終わらない。ノアはどこまでも止まらない。
 何だこいつ……こんなの、まるでどころじゃない。この感情が、人間、そのもの以外の、何だって言うんだ?
「立ち向かえよ、阻んで見せろよ! 人間だろう、生きているんだろう!? それともそれが貴様らの生き方か、それが貴様らの死に方か?」
「何を、言ってんのか――わっかんねえんだよ!!」
 後頭部を踏みつける足を乱暴に張り飛ばして立ち上がる。
「聞いてりゃわけのわからないことをごちゃごちゃと……お前は結局何がしたいんだよ!?」
「それを惑わしたのが乃愛で貴様だ! ただ壊すだけでよかった、ただ滅びを与えればよかった。そうして私は消えてしまうだけだった。感情や理性なんて必要なかった! 乃愛と貴様が、私にそれを与えたのだ!! 貴様らを恨んだよ、憎んだよ、愛したよ、慕ったよ。こんなものを与えた貴様らを、恵んだ貴様らを。だから腹が立っているんだろうが、貴様らが何の迷いも無く死を選ぼうとしていることが!!」
 その言葉に。
 一瞬で、全身が鎖に絡め取られてしまったように、固まってしまった。
「ヒロト君、君の考えはこうだろう。『私の中の礎を部分的に破壊することで引き剥がし、それを己の中に取り込んで己ごと貫き滅ぼす』――確かにそれは可能だよ。難しいが不可能ではない。君の『貫抜』はその効果を物理的なものに限定しないからね」
 その通りだった。それだけがおそらく、乃愛さんの命とこの世界、そして家族を守る、唯一の手段だった。
 乃愛さんが俺に与えたヒント。あの人がヒントを与えた以上、絶対どこかに回答があるはずなのだ。世界の崩壊を回避する手段が。
 ノアを殺すことは不可能だ。彼女の運命がそれを阻む。それならば、その中に在る礎だけを破壊すればいい。
 問題は、礎の破壊を行えば乃愛さんまでも消滅してしまうということだった。そして、礎を破壊できるのは誰かに宿っている間のみ。となれば俺が取るべき手段は一つしかなかった。
 それが、ノアが言った事だ。
 それしかないと思った。
「ふざけた考えだ。腑抜けた考えだ。その思考にたどり着くまでにおよそ自分の死というものに対する恐怖が無い。そうして自分の大切なものが守られていればいいんだろう。そうして箱庭に収まっていれば安心なんだろう」
「――んだと?」
 なぜかその言葉に、怒りが呼び起こされた。
「君は誰も守ってなんかいない、君が守りたいのは家族なんかじゃない。君は恐れているだけだ、失うことを。失った自分が壊れてしまうことを。だから真っ先に自分を失おうとする。幸せな箱庭を眺めながら死んでしまっていいと結論付ける。幸せな夢を見ながら最期を迎えようとする」
 その勝手な言葉がいちいち癇に障る。
 ふざけるな。俺はただみんなを守りたいだけなんだ。だから、なのに。なんでこんな言葉に動揺しているんだ。
「君が守っているのは、置いていかれる事に怯え続ける、自分の心だけだ」
「……黙れ」
「無責任な愛情を振りまいて己の幸せに浸っていただけだ」
「黙れよっ!!」
 乾いた音を立てて、俺の放った拳はあっさりとノアの拳の中に納まった。
 冷たい瞳がこちらをじっと見下ろしている。突き放すような、それでいてどこまでも踏み込んでくるような視線。
「母親が自分を置いて逝ってしまったことが、そんなに怖かったのかい?」
「あ……がっ!?」
 気を抜いた刹那に腕を捻られる。腕が後ろに回されがっちりと極められてしまった。
「自分はそうはなるまいと思った。守るべき妹を、家族を君は最期まで守ろうと思った。それは立派だと思うよ。だがダメ押しのように君は父親まで失った。自分の力への信頼を失った。残った自分はただ弱いだけの存在だった」
 耳元でささやかれる言葉は嘘か真か。それさえも正確に判断できない。
 何か自分にとって嫌なものが顔を出しそうな、そんな気配があったから。
「弱い君には家族は守れない。いつか君はもう一度大切なものを失い傷つき絶望する。それをただ恐れるが故に、なけなしの力を振り絞って戦って守って、それでも届かないのなら己の命を投げ出す。せめて自分が傷つかなくて済む様に」
「ち、ちが……」
 そんなこと考えてなんかいない。俺は、そう、みんながちゃんと明日からも生きていけるようにと、それだけを願っている。そこに嘘なんかない。
「ヒロト君、君は私に言ったね。私が死ねば世界が滅んだも同じだと」
 その言葉にはっとして、小さな炎をてのひらに生み、相手がそれにひるんだ隙に拘束を解いた。
 即座に向き合う形に立って、相手の顔をまっすぐに見る。
「……乃愛、さん?」
「ああ。なんだか久しぶりだね、ヒロト君」
 間違いない。その笑顔は乃愛さんのものだった。しかし、どうして……?
「選手交代さ。ノアは言葉がうまいほうでもないし、君も私も人の言葉で己の意志を曲げるような素直な人間じゃないだろう? だから手っ取り早く済ませようと思うのさ」
 時間もないことだしね、と肩をすくめる乃愛さん。間違うはずが無い本来の彼女の仕草だ。相変わらず何を考えているのか読むことはできない。
 彼女はにっと笑って腕を組み、空を見やる。
「私の記憶、か」
「乃愛さん?」
「いや、なんでもない。世界の作り変えの話の詳しい話はしたんだっけ?」
 詳細については聞いていないので首を振った。俺がノアから伝えられたのはこれから行うこととその結果だけだ。
「ならついでだし話しておくかな。本来ノアの役目は世界を滅ぼす事だから、こうして作り変えにも近いことを行うのは本分ではないんだ。が、それを可能にしているのがこの礎だ」
 とん、と己の胸を指した。神経を集中させれば、そこに確かに乃愛さんとは違った力の流れを感じることができる。
「この世界に私の記憶を上書きする。思い通りの世界を想像して創造する。言ってしまえばそれだけさ」
 世界を滅ぼすだけなら、礎以外にももっとスマートな方法があるのさ、と笑って恐ろしいことを口にした。
「その結果、乃愛さんの記憶は全て失われて、さらに乃愛さんという存在自身も消滅する……」
 乃愛さんは笑ったまま肯いた。その己の未来に何の憂いもないとばかりに。聞いている方からしたらワケのワカラントンデモ話なのだが、乃愛さんはそれができると確信している。礎を手に入れたことによるのかそれともノアの知識を共有しているのか。
「止めますよ、絶対に。そのためにここに来たんですから」
「ああ、わかっているとも。君がそうすることくらいわかっていたさ。君と私はとても似ているんだから。ところでヒロト君、同属嫌悪という言葉を知っているかい?」
 笑顔ですっげぇ理不尽な事を言われ始めている気がするのは俺の気のせいか? そして今感じている強烈な殺気はなんだろうか。
「いやなに、ノアがムカついているということは私もわりかしムカついているということなんだよ。うん、私も君の立場なら同じようにするだろうがなるほどこれは、かなりムカつくね」
 笑顔でムカつく連呼されたのは人生初めての経験です。なんだこれ。クライマックスでこんなわけのわからない状況かよ。
「いちいちまじめになるのも馬鹿くさいからね。君は君のやりたいことを、私は私のやりたいことをすればいい。君だって私の選択には少なからず苛立ちを感じているだろう? 私としては、これ以上の結末は望めないと思っているんだけどね」
「乃愛さんが死ぬのにそれが最高の結末なわけがないでしょう」
「最高とは言ってないさ、現状これ以上はないといっているだけだ。こうでもしなければ、何もなくなるか君が死ぬか。君の頭の中にある二択はそれだけだろう? 私を犠牲に世界を救うなんて考えてもいないんだ」
 こちらの考えていることは全部筒抜けだ。乃愛さんの考えなんて俺にはさっぱりわからないのに、不公平にも程がないか?
 この人はいつもそう。こちらの考えのずっと先を見て導いてくれていた。その人が今度は、俺たちの道の先を封じようとしている。
「あなたを殺して世界が続いたってそんなの、辛いだけですよ」
「…………君は、自分のことしか考えないねぇ」
 え?
「私が新しい世界を作ろう、なんて考えたのはね。タイヨウさんとミクさんの二人が、この世界にいないからなんだ。あの二人のいる世界が手に入るのなら、私は今の世界をなかったことにしてもいい。そう思ったんだよ。たとえその世界に私がいなくても、ね」
 語る乃愛さんの瞳には、深い愛しさが感じられた。その声が、表情が、どれだけあの二人を慕っていたのかを物語っていた。
 乃愛さんにとっても、親父と母さんは親だったんだろう。そんな人だから、俺たちを姉のように導いてくれたんだろう。
「ノアの言葉を借りるのなら、私の箱庭は二人がいて初めて完成されるわけだ。もっともこんなチャンスでもなければそんなことを考えたりしなかったろうけどね」
「チャンス、ですか」
 これを、この状況をチャンスと捉えたのか、この人は。
「そう怖い顔をしないでくれ、言葉の綾だ。とにかく、私の考えはそんなところさ。時にヒロト君、君がポーキァと戦って大怪我を負って返ってきた時、ミウやミユがどんな反応をしたのか知っているかい? 酷い有様だったよ。ミウは茫然自失で何を言っても反応しないし、ミユは泣いて暴れて手が付けられないし。つれて返るにも一苦労だったよ」
「つれて帰る?」
「ああ、あの時ミユも一応学校へ行っていたんだよ。戦いには参加していなかったようだが……まあそれだけに責任を感じていたのかな。君が死んでいれば後追い自殺でもしていたんじゃないのかな」
 恐ろしいことをさらりと言われてしまった。
「君の怪我でその騒ぎだ。さて、君がいなくなったら彼女らはどうなるだろう?」
「……でも、あいつらは強いですよ。少なくとも、俺なんかよりはずっと、しっかりしている」
「そうだね、君にとってはそのほうが都合がいいものな」
 随分と嫌味な言い回しをされてしまった。というか言葉からにじみ出る悪意が非常に居心地悪い。時計を見ると、リミットは刻一刻と迫っている。こんなことをしている場合じゃない。
 のだが、なぜか会話を断ち切って無理にでも攻撃をする気にはなれなかった。
「けどなぁ、ヒロト君。君はそうして世界を守るつもりなんだろうが、やっぱり世界は壊れてしまうんだよ、それではね」
 謎かけのような言葉。意外にも、その意味をあっさりと彼女は告げた。
「君は私の死を世界の終わりと同義に答えた。君がそれだけ私を大切に思ってくれていることは実に喜ばしいよ。そして君は君の世界を守るために私を生かす。その結果として、ミウやミユの世界は壊れる。ノアの言っていたことはそういうことさ。無論、君が純粋な想いからみんなを守ろうとしていることは知っているさ。けどね、どうもね。ほら、君と私は似ているから」
 乃愛さんの言葉は、突き出された現実は。驚きも何もなく、ただ俺の心の中に受け入れられた。
 守りたいという意志に嘘はない。失いたくないという言葉に偽りは無い。
 間違っていたのは認識。俺が何のためにこんなところまで来たのか、その意味。
「俺は、自分の願いが叶っている状態に浸っていたかっただけなんですよね」
「私は、自分の願いが叶わない状態で満足することを覚えていたに過ぎんよ」
 笑った。酷く空虚な気持ちで、互いを嘲りあった。
 なるほど。これは酷い。酷い、裏切りだ。
 俺はここへ、みんなを裏切りにきた。守る守ると嘯いて、みんなを傷つけにきた。そうすることが、俺が一番傷つかないから。乃愛さんも守れてみんなも守れて――少なくともその瞬間には誰も傷ついてはいないんだから。
 うん。
「なるほど、こりゃムカつく」
 連呼されても仕方ない。
 仕方ない、が。
「やめるわけにも、いかんでしょうよ」
「諦めるわけには、いかんのだよ」
 ため息をついて。
 肩をすくめてて。
 やっぱり笑うしかないのだ。この喜劇に。バカな道化が二人で踊った、それだけの話。いや、道化のほうがまだましだ。道化は他人に笑顔をくれるが俺たちはみんなの世界を奪うのだ、自分の笑顔のために。
「残って欲しいから、生きていて欲しいから。それが俺が生きている意味だから」
 みんなにも、乃愛さんにも。
「せめて私を切り捨てることができれば、ね。君の強いる痛みは、君自身が耐えられなかったものだよ。それを耐えてくれると信じることがどれだけ残酷だと思う? 少なくともタイヨウさんは、それを君に強いたとは思わないよ」
 それは同感だ。親父が俺を守ったのも、あの世界を見せたことも、最期まで笑ってくれていたことも、全部ただの優しさだ。
 俺にはない最高の想いだ。
「自分が誰かの痛みになるって、親父はわかってた。それでもせめてその痛みを小さなものにしたい、救ってあげたい。親父の考えはたぶんそういう、当たり前のことなんですよ」
 そんな当たり前の優しさを身につけられなかったから、こんなことになった。他人のためを謳い己のためだけに必死になる姿にノアが怒りを覚えるのも仕方の無いことだろう。
「さあ、時間もない。決着をつけよう。勝負は一撃。君の力が私に届くか、私の力が君の力を捻じ曲げるか」
 乃愛さんのかざした手の平を中心に空間が歪む。
「ノアの力と私の力を組み合わせてみたものだ。私の力で世界にひとつの錯覚を与え、ノアの力をより大きく作用させている。つまりこの空間では私への攻撃は幸運にも全てそれていくという、そういう力だ。これを、君の力で破って見せるといい」
 全力の一撃だ。許すのはそれだけ。
 そう告げた乃愛さんを包むように、空間が更なるゆがみを見せていく。まるでピカソの絵画のように前後左右があべこべの空間。半端な攻撃ではこの力を貫くことはできないだろう。
 己の全力をかけて、この空間を、その先の乃愛さんを――その奥の礎を貫かなくてはならない。外せば、俺の負けだ。全力の攻撃を放った後の隙を乃愛さんが逃すはずが無い。
「この俺の魔法が……運命なんかに歪められるものか。どんな悪運だって貫き砕いてやる」
「やってみるといい。神の力と師の力、超えて己の意志を貫き通せるのなら見せるがいい」
 呼気ひとつ。
 下腹に力を込め、一歩を踏み出す。
 残り三歩。力の全てを右の拳に纏い、収束し、撃鉄を起こす。
 残り二歩。体をひねり大きく拳を引き、狙いを定める。
 残り一歩。歯を食いしばり地面を踏みしめ背中のバネに力を込める。
 衝突。
「おおおおあああああああああっ!!!!」
「かああああああああああああっ!!!!」
 ドンッ!
 衝突は物理的衝撃を伴って空間に響き渡った。床は抉れ風が暴れまわり、溢れる力が雷光となって空間を焼く。
 拳は歪んだ空間にぶつかり、その先を目指す。が、固い岩盤に当たったようにびくともしない。だがそれでも力は迸る。前へ、先へ。貫く存在を目指して。
 空間はめまぐるしく映す景色を変える。万華鏡に映った乃愛さんの顔も、全力の力を振り絞っていた。
「はははは! 強い強い、大したものだ。だが私を殺せない、その君の弱さがある限り、この壁を貫くことはできない!!」
「弱くなきゃあなたを失うってんなら弱くて構わない!」
「そして誰もが傷つく! 君が本来成さねばならないのはその痛みから皆を守ることだというのに、だ!」
「でも今までこうしてやってきた。今更それを無理にでも変えろってのが無理な話だ!」
 吹き荒ぶ風は耳にやかましいというのに、どこまでも彼女の声は明瞭だった。
 どこまで……どこまであんたは、俺のことを思えば気が済むんだ!!
「君の世界に彼女達が必要なように、彼女達にも君が必要なことくらい自覚しているだろう! ミウにとって君がどれほどの目標になっているのか、ミユにとって君がどれほどの支えになっているのか、それがわからないではあるまい!?」
 壁が複雑さを増し、腕を押し返す。その勢いに負けぬよう、ひたすらに足で体を支え、拳を前へと押し出す。
「ヒナが君を何年も抱き続けたその純粋な想いはどこへ行く。何の決着も付けられないままに彼女の気持ちを放り出すのか!」
 腕の感覚はすでになく、頬にかかった赤い飛沫で、腕が裂けていることにようやく気付いた。
「姫君の献身と純心はどうなる。タイヨウさんを通して君を見て、純粋に君だけを見るようになって、君だけを望む彼女の想いを切り捨てて!」
 ごきり、という不快な音が耳に届いた。握る拳の指先が抉れ、白いものが顔を出している。だが痛みなど感じない。もっと大きな痛みに隠れてこの程度の痛みは少しも響かない。
「君の彼女達への気持ちはどうなる。君が愛し共に育った妹達、君が信頼し共に歩んだ幼馴染、君が出会い君を変えて君に数多くを気付かせてくれた少女。彼女らへの思いは、私を殺すことよりも軽いと、そういうつもりかユウキヒロト! 君の君自身の大切な想い全てをブチ壊してまで私を生かして本当にそれで満足か貴様!! 彼女らと歩む未来のために私を殺す事もできないのか? これまでの歪んだ自分全てを壊して生きたいと、本当に想わないのか君は!!! それでも私の弟か!!!!」
「っく、ねぇよ」
 歯を食いしばる。血が滲むほどに奥歯を強くかみ締める。腕は震え力は今にも抜けそうで、支える足はギシギシと軋み支える床に体が沈む。
 俺が。
 俺がなんでこんなことをしなくちゃならないんだ。大切な人を奪うのか自分が死ぬのかでしか、大切なものを守れない。絶対に誰かが傷つくしかないんだ。
 理不尽だ。理不尽だけど、どうしようもなくありふれた事だ。
「死にたく、ねぇ」
 大切な人たちを守るつもりだった。最初はそう想っていたはずだった。でもいつからか俺は、自分が傷つきたくないだけになっていた。
 だからか? そんな事を考えたから、こんなことになったのか?
 けど誰だってそうだろ。痛い思いも苦しい思いも悲しい思いも、しなくて済むならそっちのほうがいいに決まってる。
 だから、俺の間違いはそこにあった。
「死にたくなんか、ない!!」
「なら殺せ! 私を殺してその痛みを抱えてそれでも足掻いて生きて見せろ!!」
 自分のために人を傷つけることを意識しなかったこと。それが許されてきたこと。その二つを自覚しなかったこと。
 結局俺は守られていた。母さん、親父、美羽、美優。陽菜に、乃愛さん。俺に関わってくれていたみんな。
 ユリア。
「さあ、さあさあさあさあ! 時間も力も私の記憶も、残りはもはや僅かに過ぎない、迷うな考えろ決断しろ!! その答えを見せてみろ!!」
 それでも、俺は。

 ぐしゃり、と指先が潰れた。押し出す力と壁の圧力に、グローブをもってしても拳が耐え切れなくなったのだ。
 同時、壁がぐにゃりと歪む。綻びの生まれた力の隙間に、体ごとぶつかる勢い全てを拳に乗せた。
「ああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
 拳が壁を突破する。右腕に無数の傷が走り鮮血が弾ける。服が肩まで細かに千切れる。互いの視界が刹那、紅白のまだらに埋もれ――
「「――っ!!」」
 互いの放った一撃が交差し、それぞれの胸に正確に打ち込まれた。体が勢いよく吹き飛ばされる。
 ごきり、と嫌な音が首から響き、したたかに床に叩きつけられ、転がり、めくれた床に弾かれてフェンスにぶつかってようやく止まった。
「がっ、あ、ぐ、あああああっ!!」
 砕けた床の石の破片が刺さったのか、体の前後に刺さるような痛み。加えて今更右腕が焼けるように痛み出す。
 ひときしり叫びを上げて、額を強く床にたたきつけた。左手でフェンスを掴み立ち上がる。
「かはっ! は、ははは……やれやれ、強いなぁ、君は。強くて、強くて……せめて弱さに膝を折ることができたら、生きるために私を殺せたかもしれないのに」
 そう呟く乃愛さんの表情は。
 なんというか、本当に。
 悔しそうだった。
 ああ……この人は本当に、優しい、人なんだ。
 自分の存在が世界を滅ぼすようなものになって果たしてどれだけ苦しんだだろう。その上で自分に何ができるのかを考え、自分のやりたいことを考え、その上で俺のことまで考えてくれた。真剣に悩んでくれたと思う。
 だから少し、心苦しい。
 俺は宙に浮かぶそれを――淡く薄緑色に輝く光を睨みつけた。世界の礎。こんなもんを生み出した馬鹿野郎を口汚く罵りたい。
 礎は大きな核となる部分と、力の切れ端となった小さな部分が幾つとかに分かれて、ふわふわと浮かんでいる。
「結局、乃愛さんにとってはどんな結末が望むものだったんですか?」
 こんなに俺を追い込んで、俺に殺されようとして。それでも本気で、新しい世界を望んで。
「さあどうだろう。たぶん、どっちでもよかったのさ。私にとって大切なものはいつだって目の前にあるのだから」
 深いため息と共に呟かれた言葉は、目的を果たせなかった無念ではなく、すがすがしさを帯びていた。
 遠く、どことも知れない場所から響いてくるのは大地がその身を揺する声か。学園も少し揺れている。いずれはもっと大きな揺れが襲うだろう。
 すぐにでも礎を収めなくては。この身の内に。
 体を引きずるようにして、礎を目指す。ああくそ、しんどいなぁもう。けどそれももうすぐ終わりだ。永遠の終わりだ。
 そう思うと、記憶の箱がひっくり返されたみたいに色々なものが溢れてきて――それを、無理矢理押し込んだ。
 一歩一歩を踏みしめるように歩く。傷口から流れ出る血液の一滴一滴が、俺の命が流れていっているみたいで不謹慎にも笑いが漏れた。
 それでも、歩くことをやめはしない。
 そして、後一歩で手を伸ばせばたどり着く、というところで。
「なぁ、ヒロト君。私ね、君からはじめて聞いたような気がするよ」
「はい?」
 その声はどこか満ち足りていたのに、酷く、悲壮な響きを持って耳を打った。
「『死にたくない』って、初めて、君の口から。それは己の存在の消滅を拒絶する言葉だ、己のための言葉だ。君が始めて口に出した、君のためだけの、言葉だ」
「今まで都合よく隠していただけですよ、守るって言葉で」
「だがそれを口に出せたというだけで、聴くことができたというだけで、私にとってこの戦いの価値は計り知れないものとなったよ」
 そういう割りに、どこか乃愛さんは物足りない様子だった。
「けどそれだけ。君の我が侭はそこで終わり、か。くくく、いやいやそれは私の役目ではなかったのか、欲張りはよくないな」
 乃愛さんは仰向けのまま髪をかき上げ、肩を震わせた。
 俺は無言で、一番そばにあった比較的小さな礎の破片に手を伸ばした。ゆっくり、ゆっくりと指先を近づけ、それが触れた瞬間――
「うっ!? げ、お、が、ごぶっ、ふ……おえ、え、おぶええっ!?」
 世界の色が無限に入れ替わる。赤が白になり緑が黄色で黒が銀で青が茶色で白がオレンジで茶色が朱色で金色が灰色で灰色が極彩色。
 方向が回転する。北は南で南は上で下が左で右は下で北東は南東で正面は背後。
 感覚が万化する。風が肌を焼き夜の冷気が皮膚を破り傷の痛みは甘美な刺激で踏みしめる力はおぞましく舐めるよう。
 匂いが鼻を刺す。甘い匂い辛い匂い腐った匂い肉の焼ける匂い糞尿の匂い。
「はぁ、はっ、はぁっ……」
 気付けば、酷い倦怠感が全身を包んでいた。そのくせ、先ほどまで感じていたありとあらゆる感覚が正常に戻っている。
 なん、だったんだよ、さっきのは……。
「世界になるというのは、世界の持つ全ての要素を抱え込むということ。私にはノアがそのあたりの全てを引き受けていてくれたが、何の素養もない人間が受け入れられるものでは到底ないさ。無理にでも押さえ込むというのなら、突出した力が必要だろうね。あの姫君のような」
 ユリアレベルの力だとさ、笑うしかない。ユリアの世界でも二人といないといわれるほどの傑出した才能の持ち主だというのに。
 対する俺の魔法の素養は実に平凡なものだ。
「ちなみに襲ってくる感覚は破片の大きさによるぞ? しかも核は破片とは密度がまるで違う。ただしその力で狂うことだけは絶対にない。どうだい、諦めて私に礎を戻すつもりは、ないかな?」
 からかうような乃愛さんの言葉に、俺は行動で答えを返す。
「ごがああえおうあっ!?」
 痛みが、嘔吐感が、快楽が、飢餓が、渇きが、息苦しさが、全部が全部押し寄せてくる。視界は明滅と色彩の乱舞に狂い、触覚の全てが知りうる全ての感覚を再現し、知らないあらゆる経験を押し付ける。味覚は突き刺さる刺激のような味から吐き気がするような甘ったるさまでのありとあらゆるを口の中で撹拌させる。嗅覚を刺激するのは芳醇な香りと吐き気を催す香りと既知未知全ての刺激を織り込んでくる。耳の奥でがなりたてるのは優しい木々のざわめきやさざ波の柔らかな音で、それに混じり絶望の悲鳴や天地引き裂く破壊音。
 理解できないような大量の情報を押し付けられ、それでもその全てのひとつひとつをつぶさに理解させられてしまう。
 ぱたり、と意識の全てが正常を取り戻す。うつぶせに倒れだらしなく口を開き、己の吐瀉物とよだれに塗れて息も絶え絶えにもだえ苦しんでいる己を自覚する。
 震える腕で体を持ち上げる。びちゃびちゃという音だけが響いた。意識が絶望を感じさせるほどに透き通っていた。前後不覚にでもなっていればこの苦しみの一厘でも理解できずに済むかもしれないのに。
 そんな泣き言を押し込む。
「なんでその苦しみを受け入れられて私を殺せないか実に不思議だよ」
「じゃああんた、同じ状況で親父を殺せるかよ」
 その言葉に、初めて乃愛さんは口を閉じた。
 三つ目の破片に手を伸ばそうとしたところで、ようやく彼女は静かに口を開いた。
「……ならばやはり、私ではだめだったということだろうね。必要であるという大切さと、失いたくないという大切さ。違いは決定的ということか」
 腕が止まった。
 言葉の響きが若干違うものになったから。
「君にとって何よりも大切なものがなんなのか、しっかり自覚したまえ」
 そう言って、乃愛さんは深く息を吐いて瞳を閉じた。胸の上下は安定しているから、危険な状態になったということではないだろう。
 今の言葉の意味を考えようとも思ったが、思考は鈍くとても考えがまとまりそうにない。加えて時間もない。
 けど……。
「大切な、もの。何よりも大切な」
 何よりも?
 何にも優先するもの?
 わからない。思考は空転し答えは出せない。
 自分にとって何よりも優先するものとはなんだろう? 家族だと思う。でもノアの言葉によってメッキは剥がれ、家族を守ろうとしたのは結局俺自身のためだった。まあ、家族を大切だと思う気持ちに嘘はないけれど。
 なら、俺自身を、その心を何よりも大切にしているんだろうか。ありえる。でもそれなら、この死にたくないという思いに素直に行動しないのは何故?
 結局このふたつに優劣はつけられない。どちらを優先するかは俺のそのときの気分次第にでもなるんだろう。
 だとするなら、本当に俺にとって大切なものって、なんだろう。
 ふと、風が吹いた。見上げた空に月が見えた。
 綺麗な、月だった。心地よい、風だった。
「……そ、か。もう会えないのか」
 連想したのは一人の少女。
 爽やかな風を思わせ、月がとても似合う。真面目で、純粋で、そのくせ妙に恥ずかしがり屋で。
「もう、会えないのか」
 ただその事実が酷く、寂しいのだ。悔しいのだ。悲しいのだ。会えない事実が、あの温もりがもう手の届かない場所にあることが。
 そんな彼女を守りたいという思いと。
 世界も何も投げ出して、そんな彼女と一緒にいたいという思いと。
 そんな相反する想いが渦巻いた。
「ユリアに――会いたかったな」
 せめて最後に一目だけ。
 それだけでも俺はきっと満たされたに違いないから。この寂しさのほんの少しでも埋められたに違いないから。
 などと贅沢を言うわけにもいかない。俺は目の前の欠片に向かって、手を――
「――あ?」
 衝撃。途端に苦しくなる呼吸。両足から揃って力が抜け、膝をついた。
「いし、ず、え」
 手を伸ばす。届かない。後一歩が足りない。その一歩を踏み出せない。
 なん、だよこれ。おいちょっと、なあ。
「が、ふっ!」
 喉が、何か、どろりとしたものが逆流して。あ、鼻の奥を血の臭いが。え、何これ。
 左手で胸に触れる。右の胸。熱い。光の刃が突き立っている。
 い……たい。痛いのに、痛くない。痛みが限界を通り越して感覚が麻痺している。ただ、焼けるような感覚。熱い。胸に全身の熱が集中したみたいだ。
 喀血。咳き込むと胸が痛む。あれ、だって。
 倒れた体で、首だけを、どうにか背後に。まわし――え?
 なん、で?
「ゆ……り、あ?」
 血と共に吐き出されたのは、荒い呼吸を繰り返し、顔を伏せたまま右手を突き出した。
 月の似合う、少女の名前。

 ああくそ。
 息。できな――


 声。
 風にまぎれて、記憶の底から、水底から。
 澱が浮かんでくるように、声が浮かびあがった。


――君のその生き方は、いずれ自分の大切な人と決定的に衝突することになるぞ。
最終更新:2008年03月04日 11:10
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