ホムンクルス騒動b

「大翔くーん。お前、中々いい根性してるぜ」
 机の上で突っ伏していた俺は顔を僅かに上げてみせた。
 眠くて死にそうだ。
 黒板を見てみるとどうやら二時限目の数学が終わったらしい。頭がどっかいきそうな数式がずらずらと並んでいる。
 昨晩、三匹のホムンクルスを倒し、帰ってから二時間ほどしか寝ていなかった。そのせいで学校に来た瞬間に即夢の中へ直行。
 ホムンクルス討伐に関しては今のところ問題はない。ホムンクルスとの相対で色々と規則性が見えてきたし。まぁ、多分ノープランでもそれなりに何とかなるのだろうけど、孫子の言葉には従わなきゃ。『ノープラン愛好者は死ね』
 美羽や美優は俺よりも寝ているはずだったが、あんまり長い間やらせられないな。睡眠不足は美容の敵だし。
「二時限目の数学で教師に当てられた時、寝ぼけたお前が何言ったか覚えてるか?」
「そんなことあったっけ?」
「ありましたとも」
 貴俊は薄ら笑いで俺を見ていた。
「相当たがの外れた答えを言ったんだろうな」
「他の教科の話だったら、まだ理解できたよ。数学の時間だぜ? うろ覚えだが、お前はこんなことを言い始めたんだ。『法則と法則が寄り集まった同空間内では何が起こりますか?』だぜ? 答えじゃなくて、質問で、さらに意味わかんねぇよ。アホか」
 あぁ、多分あれだ。世界が崩壊することに対して、乃愛先生に質問でもしてんだろうなぁ、夢の中で。
「どう考えても笑いどころじゃなかったけど、数学の佐々木は笑いながら『知らんな』って言ってた」
「そりゃ、誰もわかんねぇだろうよ」
 精霊の力……つまり、法則がこの世界に流れるせいで現世界、異世界共に危機的状況なんだそうだ。それにしても、夢の中の俺はどんなことを考えてたんだろう。質問の内容のピントがずれてるだろうに。
「まるでお前は理解できるいい方だな」
 貴俊が机の上に顎を乗っけて、俺の目線に合わせてくる。
「まぁな。俺は貴俊と違って天才だからさ。悲しきことに」
「悲しきことに、総合成績は俺の方が上だがな」
「そりゃ、悲しきことだ。学校的な意味で」
 そして俺はまた腕を枕にして机に突っ伏した。
「寝るんならしっかり寝た方がいいぞ。どうせ、このままじゃまともに授業受けられんだろ。保健室行って来い。先生には言っといてやる。昼には迎えに行ってやる。フライパンとおたまを持ってな」
「そう……だな。お言葉に甘えようかな……」
 若干重い頭をフラフラさせながら、俺はようやく立ち上がった。

 保健室のドアをノックして、返事も待たずにドアを開ける。
 四つのベッドを有する、中々広い保健室の中では、女子三人と養護教諭である虎宮沙良(とらみや さら)が談笑していた。ここは談話室か。
 虎宮沙良先生は、大分低い身長の持ち主だ。そのくせ、大き目の白衣を着ているので、袖から手が出てきてない。ピンクと白が混ざった巻き毛でボブカットの関西人。そして、いつも何だか分からないヌイグルミを頭に乗っけてたりする。これは、ある意味凄いバランス感覚の持ち主なのかもしれない。
「なん~? お客さんがきよったよ」
 ここ、保健室だよな?
「あー、結城くんだー」
 同じクラスの女子の言葉は軽やかにスルーすることにした。どうせ誰だったか思い出せない。
 四つのベッド、二つのソファとテーブル。端には沙良先生専用の机とイスがあり、机の上では今現在頭に乗っけているヌイグルミのミニバージョンがあったりする。一通りのものは揃えてあるし、他の学校の保健室とは物はそう違いはないだろうが、どうもファンシーに見えるのは全体が薄いピンクとヌイグルミたちで構成されているからだろうか。沙良先生にいたっては自身が履いているスリッパが頭に乗っけてるヌイグルミを模している。どんだけ好きなんだろう。
「すいません、気分悪いんで、ちょっと寝かせてください」
「お茶飲まへん?」
 沙良先生が手を振って見せたが、実際には手は見えず余った袖を旗のようにヒラヒラさせていた。
 この人、話聞いてたのかな。
「いえ、いいです。それに紅茶派なんで」
「そら、調度ええわ。昨日ルフナ貰ってきてなー今日ミルクティで飲もうとしてん。今入れるわ」
 しまった、地雷踏んだ。寝たいのにカフェインモノ飲むことになろうとは……。
 沙良先生がにゃははと笑った。それでなくても、細い目の彼女は常時笑っているような感じだ。
 頭の上のヌイグルミを落とさないように、たまに首を右や左に傾げながら紅茶を入れる。女子三人は紅茶を楽しみにしているようだったが、しばらくして授業開始のチャイムがなったせいで慌てて出て行った。名残惜しそうに沙良先生を見ながら。まぁその調子なら、いつでも飲めるだろうよ。
 俺は、空いたソファにとりあえず座った。ぬくもりが残っているのが気に入らなかったが、まぁ我慢しよう。
「しかし、あんま見ない顔やな」
「そりゃ健康優良児ですから」
「なーに言ってん。保健室は身体だけやないよ。心も、そう心も助けるんやで」
 そうですか。寝かせてください。
「『てめークサいとか思ってんじゃねーぞ』」
 ドスの聞いた声がして、俺はしばし固まった。
「ん? あぁ今の? この子が喋ってん」そう言いながら上の物体を指差した。「ましゅまろ言ってなー私も認める毒舌吐きですわ」
 腹話術!?
「せやから、カチンときても流してあげてー。ほいっと。紅茶入ったで」
 おいおい。本音吐き機なのか、このヌイグルミは。
 沙良先生が笑顔で紅茶を入れたカップを俺に渡してきた。俺は素直に受け取ると、ルフナと呼ばれた紅茶を飲んだ。中々美味いかもしれない。関係ないが、沙良先生の砂糖を入れないセンスが気に入った。
「乃愛先生ー? 乃愛先生も飲みますー?」
 乃愛先生!?
 カーテンで仕切られたベッドの奥から、「うーん」という声が聞こえた。
「乃愛先生がいるんですか」
「もちろん。ほぼ毎日寝に来るわ」
 意外な人物の登場に俺は少し驚いた。
 沙良先生はツカツカと歩き、カーテンをおもむろに開けた。そして、寝ている乃愛先生の布団を剥ぎ取り、「ほらほら、飲むの? 飲まへんの?」と追い込みをかけはじめる。
 おいおいマジか? なんという非道を! というか、嫌がらせにしか見えない。
「い……ただき……ます」
 少し目を開けた乃愛先生はかなり眠そうにしながら、かろうじてそう答えた。
「よし!」
 その答えに満足したのか、より一層の笑顔になって紅茶を入れ始める。
 しばらくすると、片手で頭を支えた乃愛先生がゆっくりとベッドから起き上がってきた。二日酔いの人に似ていた。
「おはようございます、乃愛先生。いい夢見れました?」
 俺は皮肉交じりにそう言ってみた。それでようやく俺の存在に気づいた乃愛先生が少し驚いて俺を見る。
「やぁ。私はまだ夢を見ているようだ」
 それは褒め言葉と受け取っていいんだよな?
「いつもここで寝てるようですね」
「なに、ほんの一時間か二時間程度だよ。やっぱ人間、寝ないとね」
「えらい親しいな、自分ら。乃愛せんせがそんなまともに生徒と話してるの見るの初めてやわ」
 乃愛先生は俺の横に座ると、一気にうな垂れた。
「沙良先生と乃愛先生は親しそうですね」
「親しー……せやな。最初は寝る場所提供してただけやったけど。案外話してみると、イケル口やん」
「それには同意しときましょう」
 乃愛先生は何もコメントしなかった。
 それから少し経ってミルクティを入れたカップを沙良先生が乃愛先生に渡す。一つ大きな欠伸をすると、かなりゆったりとした動きでカップに口をつけた。
「それで? 何でヒロトくんがここにいるの?」
「寝に来たんですよ」
「授業放り出して? 生徒はいいなぁ」
 そこで沙良先生がカラカラと笑った。
「たまにおるんよねー。授業がダルくて保健室に逃げ込む奴。ま、保健室はいつでもオープンやからええんけどね。私の暇つぶしにもなるし」
 沙良先生は専用イスに座り、ミルクティを啜った。やっぱ、ルフナはミルクティやなーと言いながら袖をプラプラさせている。座っているイスにはクッションにあのヌイグルミが乗っかってたりする。
「寝に来たってことはそれなりにハードなのかな。順調に進んでない?」
 俺はミルクティをちょっと啜ると言葉を選んで口を開いた。
「いえ、順調ですよ。計画なしでも多分問題ないでしょうから。大体の特徴も掴みましたしね」
「なになに? なんの話?」
「ちょっとしたゲームですよ」
 俺はそう答えたが、どうも自分が会話に入り込める内容ではないと即座に感づいたようで、沙良先生は露骨に頬を膨らませてみせた。容姿と相まって子供にしか見えない。
「なんやいやいもー」
 何言ってるんだ、この人。
「へぇ、特徴ねぇ」
 乃愛先生はまるで気にせず話を続ける。あんまり興味なさそうなのは気のせいだろうか。
「ただ一つ。気になることがあるんですよねぇ。ホムンクルスは姫様殺害のために送られたものなんですよね? それにしては、少しお粗末が過ぎると思うんですよ」
 乃愛先生がこちらをチラっと見た。
「対象は絶対に姫たちでしかないのに、他の人を襲う点。そして、姫もいるのにそれを積極的に狙ってこない点」
「どうかな。ホムンクルスは顔や背格好で姫を選んでるわけじゃない。魔法を使う――」
「それが、おかしいんですよ。じゃあ、ユリアやレンが魔法を使わない場合を考えなかったのか。ここがユリアたちの世界と同じように精霊で構成されているとは考えなかったのか。粗はまだまだありますよ。そんな可能性も無視したお粗末な連中なら、もうとっくにそちらの国が相手を叩いてると思うんですよ。まさか、それも出来ないほどの無能とは思えない」
 乃愛先生はしばらく俯いたまま動く様子はなかった。
「なるほどね。でも、ホムンクルスが弱体化する前なら、もしかしたらそういう粗はないかもしれないよ」
「では、この討伐はいつ頃終わると思います?」
「そうだな……夏までには終わると思う」
 俺はその答えでそれ以上言及するのを止めた。
 何かおかしい。乃愛先生は何かを隠しているような……俺の気のせいだろうか。それとも、本気でそう思っているのだろうか。
「重そうな話やなーそれホンマにゲームの話なん?」
「え……ええ、まぁ」
 やばい。少し話過ぎたか? 俺もやっぱり抜けてるなぁ。
「ゲームってことは敵おるんやろ? どんなん?」
 この人も貴俊と同類かもしれない。とりあえず、喋っとこうという人。
 俺は上手く説明出来なかったので、乃愛先生に頼んだ。
「ええっとですね……。トリアデント・ドールっていう組織で、トップが六人いるんですよ。その六人が決起して世界を滅亡に追いやろうとする感じですかね」
「その六人の詳細を教えてくださいよ」
 俺が言うと、何故か乃愛先生が顔を上げて沙良先生を見た。沙良先生は手で先を促す仕草をする。
「六人の中で一番頭がイカれてるのが、ファイバー・サザンライ。冷静だが、破壊願望が物凄い奴だ。実質的に六人の中ではリーダー格だな」
「そら、おっかないわな」
「次がエラーズ・チェストリア。普段無気力だが、頭は切れる。ファイバーとは旧知の仲で、軍師的な役割だ。いつも犬の仮面をかぶってるよ」
「賢いわんちゃんやね」
「三番目がバードック・シェルマー。怪力主義者。身体はデカイが弱気な奴だ。ただ仲間のことになると異常に凶暴になる」
「弱気な、なんとかサップってとこかな」
「四番目がガザベラ・キャルメル。色情魔」
「エロいわー」
「五番目にポーキァ・パッドテイルズ。クソガキだが、計算高いところがあるな。いつもニット帽をかぶってる」
「あかんよ、教師がクソガキなんて」
「すいません。最後、六番目がガーガー。六人って言っといてなんだけど、あれはペットだろうな。凄く趣味の悪いペット。人型だが、獣の割合の方が高い。比較対象が思い浮かばない」
「モンスターやね!」
 沙良先生は乃愛先生の言葉すべてにリアクションを取ってみせたが、疲れないのだろうか。
 しかし、それでも大体のことは分かった。これが後々役に立つかどうかは分からないが、知っておいて損はないだろう。
 トリアデント・ドールか……奴らがすべてを仕掛けた。そう乃愛先生は言っているが、乃愛先生が言っているだけだ。俺にそれを確認する術は今はない。本当に夏までに終わるか? その基準は一体何なのか? 駄目だ。どうしてもそういう部分ばかりが目に付く。何も出来ないからなおさらだろう。
「そうそう、モンスターと言えば! ヨーロッパのどっかで変な生物出たね」
「変な生物ですか?」
 ホムンクルスのことかと思い、俺はドキっとした。だが、違った。
「ニュースで見たんやけど、トカゲに羽が生えたみたいなんよ。そう、まるで、ドラゴンみたいな」
 ドラゴン……。
「最近は本当に飽きんわ。テレビつければ、変なニュースばっかり見るもん。こら、きっと天変地異の前触れやで!」
 変なニュース……そういえば、貴俊もそんなことを言っていたな。重力定数だの、電磁がどうのとか。
 いや、まさか。そんな――
 俺はちらっと乃愛先生を見てみる。乃愛先生は酷く真面目な顔をして、こちらをじっと凝視していた。


「ヒロ君! さぁ起きるのだ!」
 重いまぶたを開けると、陽菜がベッドの横で「よっ!」という感じで片手を上げていた。
 マジ勘弁してくれ……。
 保健室で乃愛先生からトリアデント・ドールの話を聞いてから、三日が経った。その間もホムンクルス討伐に精を出していたのだが、奴らは日曜だろうが土曜だろうが関係なく出てきやがる。おかげで日曜の今日も俺は酷い寝不足だった。低血圧なんだって、俺。
「今日は陽菜とデートでしょー?」
「そうだねー。でも、男の部屋に普通に入る精神ってどうよ?」
「大丈夫。美羽ちゃんから許可は貰っているし」
 第三者から貰ってどうするんだ。
 俺は頭だけ動かして、目覚ましが止められた時計を見た。針は八時半を指している。
「もう少し……あと三十分ほど自重してくれると助かったんだけどな」
「何言ってんの! さぁ行こう、魅惑のワンダーランドへ!」
 このテンションについていけないと感じてはいたが、腕を引っ張る陽菜に負けて、俺はようやく仕度を始めた。
 洗面所へ行き、多少頭をすっきりさせた俺は、グダグダと着替えていた。その間、陽菜はユリアや美優相手に楽しそうにお喋りしている。よく疲れないよなぁ。
 仕度を終えた俺は逆に陽菜を引っ張るようにして家を出た。特に理由はなく、住宅街を駅に向かってひた歩く。
 白いキャミソール姿の陽菜を隣に、俺は「恋人っぽいな」とどうにも抜けたことを考えていた。もしそれを陽菜に言うとこう返すだろう、「その通りだよ!」ってな具合に。
 考えてみれば、俺は陽菜をそういう対象に見たことがなかったかもしれない。ガキの頃の……しかも、ただ遊んでいれば良かった幼稚園時代からの仲だからかな。その上で俺が思うのは、陽菜は空気みたいな存在だなと。誰かが言っていた。人は空気があることを当たり前だと思っていると。空気がなくなると、途端に死んでしまう。
 陽菜の存在は、依存や自分が生きている理由とか言う大層な話よりも、もっと自然な感覚だと感じていた。当たり前というか……もしかしたら、これも乃愛先生が言った「法則」なのかもしれない。陽菜はいつでも隣にいてくれてると俺は勝手に勘違いをしているのだ。
 だが、同時に俺はそれが急になくなることを知っている。親父とお袋が身を持って教えてくれたからだ。
 ――失ってから気づくことが多いからこそ、俺は今を大事にすることしか出来ない――
 そうだな、親父。あんたの言うとおりさ。悲しくなるくらいにな。
 デパートに着いてからの三時間は、悲しくなるほどにユリアとレンが初日に来たときと似ていた。陽菜に引っ張られるように服を見て、感想言って、買わずに次に向かう。どんなに俺が「それ凄くいいよ」と絶賛したところで「とりあえず保留」と言いながら色々回るのだからマジ死ねる。
 ただ、美羽なんかとは違って、陽菜はある程度空気の読める人間だった。俺が疲労困憊し始めると、休憩所に赴き雑談を交わし、回復したところでまた向かうのだ。
 そんな感じで毎度、陽菜は服をヒラヒラさせながら俺に感想を求めてくる。相変わらず、いいんじゃない? と言っている俺にブラウスを手に取っている陽菜が不満の色を浮かべた。
「ヒロ君、なんかテキトー」
「青や黒みたいな似合わない色をお前は選ばないからな。批判が欲しけりゃそっちに飛んでくれ」
「何それ?」
「ナチュラルハイのお前は明るい系の色が一番似合うってことだよ」
 その答えとばかりに、にゃはは、と八重歯をチラつかせながら笑って見せてきた。
「本当に不思議だ。そのテンションを維持してて、よく疲れないよな」
「テンション高くなったのはヒロ君のせいだよ。小学生の頃は陽菜泣き虫で鬱っ子だったじゃん」
 そういえば、そうだったような記憶はある。
「じめじめした雨が降ってた夏の日にいつもみたく泣いてた時にヒロ君が何て言ったか覚えてる?」
 俺は記憶をひっくり返して思い出そうとしたが、結局何も出て来ず、「いいや」と言った。
「『俺は元気で笑顔のお前が好きなんだ。俺の前では笑ってくれよ。笑えるように俺も頑張ろう』って言ったんだよ?」
「それ、絶対脚色しただろ……」
 それを省いても昔の俺は相当青臭いことを言っていたらしい。どっかのドラマ辺りのセリフをそのまま吐いたか、その頃はまっていた小説か、漫画か……とにかくそんなところだろうけど。
 それにしても酷く恥ずかしい気分になるな。特に小学生でそんなセリフ吐くなんざ、どんなマセガキだよ。
 というか、それ本当に俺が言ったのか?
「脚色なんかしてないよ。駄目だねー記憶力のない人は」
「俺はユダヤの超人じゃない」
 しばらく歩いて、ようやく服を買った陽菜は、俺の腕を引っ張って「映画見に行こう!」と言い始めた。
 最も近いリーブル映画館は百人を収容する一室を十個持ち、マイナーな映画もカバーしている、俺のお気に入りのところだ。貴俊と何度も行ったことがある。そこでの一押しは、やはりポップコーンにバターをたっぷりかけたものだろう。カロリーは高そうだが、俺も陽菜も食っても太らない体質なので問題はない。
 それより問題の映画だが、陽菜は悩む間もなく、アクション映画を指差した。安易に恋愛物や感動物に走らないのは陽菜らしいと言えば陽菜らしいが、やっぱり空気が読める女だと思う。
 シリーズ物としては四作品目になる、主人公は髪の毛が大分なくなったオヤジだ。
「お前、中々センスいいぞ」
「陽菜のセンスはクリスタル級ですから」
 陽菜……その表現はセンスないぞ。
 まさに王道とも言えるポップコーンとコーラを手に、六番スクリーンに向かう。映画に向かってる間は、とりあえず話題作りに事欠かなくて済むので好きだ。
 俺の持っているポップコーンを陽菜がつまみ食いしようとした。その時だった。
 バカデカい地鳴りと同時に床がぐらっと揺れる。床が傾く。
 持っていたポップコーンとコーラを床にぶちまけたが、何とか転ばずに済んだ。逆に陽菜は派手に転んだが、二つとも死守したようだ。
「地震だ!」
 誰かが叫ぶ声がする。そこでようやく、周りが悲鳴を上げていることに気づいた。壁に身体を預けて踏ん張っている人もいれば、転んだまま立ち上がれない人もいる。
 その地震の長さは脅威だった。十秒以上も床が不安定に揺れ続ける。そこで俺は踏ん張らずに座ることにした。隣でうずくまる陽菜を庇うようにする。幸いだったのは、周りに倒れるような物が置かれていないことだった。
 ようやく地震が収まったのは一分以上経った後だ。ヒューズが飛んだのか、電線が切れたのか分からないが、ほとんど通路は暗い。非常用の明かりがぼうっと薄く光っている。
「だ、大丈夫」
 陽菜がちょっと震える声でそう言った。どこが大丈夫なんだよ、半べそ状態じゃないか。
「落ち着いてくださーい! 非常階段はこちらです! 押さないでください!」
 映画そっちのけで出てきた人たちで通路はすぐにいっぱいになった。俺は、陽菜を抱き上げると逆に上映している場内に入っていった。スクリーンでは、黒人と子供が笑っているシーンが映されている。陽菜をとにかく座らせ、俺はどうするべきか思案した。
 このまま、大多数と一緒に逃げるのは得策じゃない。ただでさえ混乱状態の中で腰の抜けている陽菜を抱えて行くのは無理だ。ドミノ倒しになったら、目も当てられない。
 ふと周りを見ると、同じように考えている人がちらほら見えた。また地震が来る可能性もなくはないが、今は大人しくしていた方がよさそうだ。
「あ……」
 興奮しているのか、びびってるのか、俺の手が微かに震えている。そこで俺は何故かふっと笑った、というか笑えた。
 陽菜の隣に座り、肩に手を回して抱き寄せる。そこで、陽菜がようやく口を開いた。
「ごめんね。陽菜が腰抜けたせいで……」
「どっちにしても、あんな中にはいけないさ。外の状態がちょっと気になるけど、少ししたら救助隊みたいのが来るだろう」
 あまり現実的ではないことを口にした。被害が大規模化してるなら、ここまで助けが来るのは相当後になってからになるだろう。やっぱり、落ち着いたら、外に出ることにしよう。出られればだが。
 地震は揺れが長く、それなりに大きかった。でも、オンボロじゃなければ建物を全壊させるほどではないとは思う。中身は程よくシャッフルされてるかもしれないが。
 美羽や美優、ユリアやレンは大丈夫だろうか。家も……そうだな。多分、住めなくなるほどではないはずだ。いや、希望的観測か。床が一度傾くほどだぞ?
 時間が経って、落ち着いてくると、今度は別のことが頭をよぎり始めた。
 昨晩、ユリアが言っていた――精霊の力が急速にこの世界で広がっていると。連鎖されるように保健室での出来事も思い出す。
 変なニュース……天変地異……そしてこの地震。
 俺は、もしかしたら本当にバカなのかもしれない。それとも、世界が崩壊するわけないという願望を持っているのか。
 ふぅ、と息を吐いて天井を見上げた。数えるほどの明かりが俺たちを照らしている。
 なんだよ。何なんだ? 本当にか。本当にこの世界は崩壊するのか。どう崩壊する? これは序章か? ふざけるな。
「ねぇ……」
 陽菜が呟くように言ったので、最初は気づかなかった。数秒後、問い返す。
「どうした? 気分でも悪いか?」
「んーん。それは大丈夫」
 俺は陽菜の次の言葉を待った。外は相変わらず騒がしそうだ。
「ヒロ君さ……最近凄く眠そうだよね。ごめんね、無理矢理誘って」
 何故か酷くネガティブ思考になっている。陽菜は多分、自分が無理矢理連れてこなければこんなことに巻き込まなかったと考えているだろうか。
「無理矢理じゃないさ。俺の性格はよく知ってるだろ? 嫌なことはあらゆる理由をつけてしない主義だ。無理矢理ってのは、乗り気じゃない人間にこそ使うべきだろう」
 陽菜が首を振った。
「ヒロ君優しいもん。……あーなんか上手くいかないなぁ」
「どうしたよ? お前がそこまでネガティブになるのを見るのは久しぶりだな。前言ってた大玉の上でダンスでもしてみせようか? それでちっとは笑顔が拝めるだろ」
 出来るだけ明るくなるように言ったつもりだったが、やっぱり俺は貴俊の言う通り、そっちの才能はないな。口に出しながら後悔した。
 陽菜はううん、と言うと首を俺の肩に乗せ、少し寄りかかってきた。
「陽菜ね……陽菜――」そこで一旦切る。たっぷり十秒ほどの間を空けて、「ううん。なんでもない」と言った。
「俺は陽菜や貴俊みたいに察しが良くないんだ。口に出してくれると嬉しい」
「いいの。今はいいの。ふふ、ちょっと元気出た」
 なんだそりゃ?
 俺はそこで何かを問うのは止めた。どうせ言ったところでこいつは何も言わないだろう。ただ、ちょっと頭を撫でてやった。
 ああ、そういえば、小学生の頃も泣いてる陽菜に同じように頭を撫でてたなぁ。やらなくなったのはいつ頃だろう? 陽菜が泣かなくなったからだったか? 分からない。
「お前がふさぎ込んでいるのを見るのは、俺の精神衛生上悪い」
「お互い様。ヒロ君、危ないことしてるでしょ?」
 じっと陽菜が俺の顔を見てくる。普段はない、凄く真剣な顔だ。嘘は見破られるだろうな。俺は正直に白状した。
「そう……だな。危ないかどうかは甚だ疑問だけど、健康的でないことは確かだ」
「陽菜に出来ることはないよね」
 凄く悲しそうにうつむく。
 ここでないよ、と一蹴するのを躊躇った俺は、「そうでもないよ」と言っていた。
「へぇ?」
 陽菜がちょっと笑ってみせた。
「勉強についていけないからさ、教えてくれると助かる。貴俊は……そういうのに向いていないしな。そういえば、陽菜も向いてなかったか?」
「ヒロ君よりも、総合成績はいいよ」
 俺はどうも頭が悪いんだなぁ、と改めて思ってしまう。
「じゃあ、家庭教師をやってあげよう。二秒もあれば着くもんね」
「窓から飛び移るつもりか? さすが陸上部は違うね」
 それで、俺も陽菜もくすくすと笑った。どこか、酷く平和的だった。地震が起きたこともちょっとの間、忘れるくらいの。
 十数分くらい言葉を失った。他の人もたまに声を発するくらいで、辺りは静寂に包まれている。俺は、その間外の様子を想像していた。火事やら、地面にひびやらが入ってるだろうか。救急車がせわしく鳴り響き、消防車がビルの前辺りを陣取る。電車は動いてないだろうなぁ。でも、歩いて帰れない距離じゃないか。いざとなれば陽菜をおぶって帰る。
 美羽や美優は大丈夫だろうか。まぁユリアもレンもいるし……いやいや、これは高をくくってるだけだ。確証がない前提を作って安心するわけにはいかない。気疲れしない程度には。貴俊は……大丈夫なら俺の家に来る気がする。いや、足を折っててもきそうだから困る。――あぁ、出来るだけ早く帰ろう。
 俺の思考と静寂を遮ったのは、ドアの開閉と「大丈夫ですか!」という大声だった。
 見るとオレンジ色の服を着たレスキュー隊員が三人が入ってくる。
 変だった。服が不自然に綺麗だった。その隊員たちの誰もに余裕の表情が伺えた。もしかしたらどういう関係か、そうなったのかもしれないが、それを差し引いても可笑しなモノがドアに居た。ただの普通のスーツ姿の男だ。
 刑事? まさか。意味が分からない。一般人?
 レスキュー隊員は俺と陽菜の腕を取るとゆっくりと立たせた。
「大変だったねぇ。大丈夫かい?」
 大変だった、だって? 何を言っているんだ、この男は。俺は本気でレスキュー隊員の正気を疑った。
 連れられるようにして、外に出た俺はその様子にしばし唖然とした。
 酷かったからではない。
 地震直後にしては特に大した変化が見られなかったからだ。
 確かに、そこら中にレスキュー隊員の車らしきものはあったりする。だが、焦りも何も感じられない。人々の喧騒も、時折笑い声が聞こえる。ベンチに座って、平和そうにパンを貪っている男。喧嘩をしている男女。プカプカと煙草を吹かしながら、うざったそうにレスキュー隊員を見る男。泣いてる人も、怪我している人もいない。
 しかもなんでも、あと二時間後には電車が動けるらしい。
 立ってられないほどの地震で? 一度床が傾いたのも俺の気のせいとでも? 
 しかし、俺が感じている薄気味悪さを、実況しているテレビ局のアナウンサーが口に出していた。おかげで俺は、とりあえず頭がイカれてるのではないと場違いな安心をした。
 隣の陽菜も不思議そうな顔をしているが、俺ほど状況はよく飲み込めていないだろう。
「変だねぇ。まるで夢だったみたい」


最終更新:2007年09月10日 23:44
ツールボックス

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