世界が見えた世界・10話 B


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 八月三十一日。
 八月の終わりはつまり俺たち学生にとっての長い休みの終わり、そして新しい学期の始まりとの境目でもある。ユリアにとっては初めての夏休みで、俺たちが一緒に過ごした最初の――そして最後になる、夏休み。
 が、今年は少々事情が変わってしまったようだ。
「沙良先生、電話、なんですって?」
「ああ……なんか始業式を一週間遅らすんやと。学校も壊れたままやし、状況が状況やからな。これから生徒達全員にも連絡が回るはずや」
 受話器を置いた沙良先生はどこか不機嫌な様子だ。なんでも学園長が沙良先生の居場所をいつの間にか掴んでいたことが気に食わないんだとか。何故そこまで学園長を毛嫌いするのだろうか。
 さておきこれで夏休みが一週間ほど延びてしまった事になる。普段なら喜ぶんだろうがあいにくと今の俺たちの状況はそれを許さない。一週間の延長だってそれまで世界があればの話。
 ノアから俺に渡された知識からして――期限はおそらく今日一日。さらに乃愛さんの傾向鑑みるに日付の切り替わりと同時に世界を崩壊させると考えて間違いないだろう。
 さて……貴俊はうまいこと俺の依頼を成し遂げてくれるだろうか。




 ユリアがなにやら本とにらみ合っていた。後ろから覗き込むと、それは我が家のアルバムで、幼い俺や美羽が親父、母さんと一緒に映っている。
「随分懐かしいものを見てるじゃないか」
「うひゃうっ!? ひ、ヒロト、いつからそこに!」
「いや、たった今だけど……」
 何か都合がよろしくなかったのだろうか、目の前のユリアは明らかにほっとした表情を浮かべていた。気になるじゃない、そんな反応されたら。
「この頃の美羽はやたら元気がよくてなぁ。俺なんか一日の大半はアイツに泣かされていた記憶があるぞ」
「あはは、そうなんですか。でも可愛かったですよ、泣いているヒロト」
 見たのか。見たのかその写真を。
 ちょうど小学校に入学するかしないかあたりだから無闇に元気いっぱいな時期だからなぁ。写真の中の俺たちもさぞかしはっちゃけて……。
「……ユリア、見たな?」
「え? な、何の写真をでしょうかっ!?」
 きょどる。見た、絶対にこいつはあの写真を見た。俺にとって最大の禁忌であるあの写真を!
 じ~~~~。
「きょときょと」
 視線があちこちを泳いでいる。ふむ……。
「ところでこのアルバムの中だと俺の従姉妹の女の子の写真があったろ、俺に似てる人」
「あああれ従姉妹の方だったんですね! ヒロトかと思ってしまいましたよ、すっごく可愛くて似合っていま……し、た……」
「うわああああやっぱりみられてたあああぁぁぁっ!!!!」
 俺の! 幼い頃のものとはいえ!!
 真っ白なふりふりドレスとレースのリボンを身にまとった、あの写真を!!!!
「え、あ……あの、ヒロト大丈夫です! 私はたとえあなたがどのような趣味を持っていても蔑んだりなんか!!」
「その心遣いは間違っている上にとどめになるから!!」
 違う、俺にそんな趣味はねえ!! あれは母さんのワルノリだったんだ!! 褒められてまんざらでもない顔ではにかんでたりするけど本当にそれだけだったんだああああ!!
 ああ、今からでも過去に戻ることができたなら全力で殴ってでも止めて――あかん、母さんに返り討ちにあう。
「で、でもほらとっても似合っていましたよ!!」
「ありがとよちくしょう!!」
 もはややけくそになって叫ぶしかなかった。
 青春に乾杯!!




「で、なんでいきなりこんなもんを引っ張り出してきたんだ?」
 このアルバムは意図的に棚の奥のほうにしまっておいたはずなのだが。ついこの間アルバムをひっくり返したばかりだからその記憶に間違いはないはずだ。
「つい引っ張り出しちゃいました。本当はいかがわしい本を隠していないかを調査いえなんでもないです冗談ですから」
 ひと睨みきかせておいた。そもそもそういった類の本は美羽や美優によって定期的な撲滅運動にさらされるのだ。そのため極端に生存率が低い。
 ……生存率が低いだけで決して絶滅しない、させないのは俺の意地といえるだろう。ちなみにそのアルバムの二つとなりのケースの中身がそういった本と入れ替えられていたりする。
「まあ見るのは構わないけどな……にしても楽しいか、そんなの見てて?」
「楽しいですよ。私の知らないヒロトがいて、こんな風に笑ったり、泣いたりしていたんだってわかって、なぜかすごく嬉しい気持ちになるんです。今のヒロトに繋がる積み重ねの日々の欠片を、少しでも感じていられるからでしょうね」
 今の俺に繋がる日々、か。そうだな……そうして積み重ねてきたものがあるからこそこういう風になったんだし。
「そうだ、せっかくだしみんなで写真でも撮ってみるか。いい記念になるだろうし」
「いいですね、そうしましょう!!」
 ぱっと思いつきそうな話だったが今までにみんなで揃って写真を撮ったことはなかった。単純に俺の気がきかないだけなんだが。
 ユリアにみんなを集めてきてもらうことにした。場所は家の前。
 どのような結果が出るにしろこれが最後にみんなが揃う写真になる。この場に乃愛さんがいないことだけが、ひとつの心残りといえば心残りだが。
「ふむ、仲良くしているじゃないか」
「っ!?」
 振り向きざまに距離をとる。ぞっとした。何の気配もなく背後にノアが立っていた。そんなバカな、いくらユリアと話していたからといって、この距離まで近づかれて気付かないなんてっ!?
「なに、気にすることじゃないさ。私が現れたのはたった今、声をかけた後なのだからね」
「そんな事までできるのかよ。本気で反則だな……」
 緊張に喉が干上がる。一瞬でもその動きを見逃すまいと全身の神経を尖らせる。
「そんなに緊張しなくていい。今はただ、知らせに来ただけだから」
「いったい、何を知らせに来たって言うんだ?」
「終わりまでの時間を、さ。君の予想通り、今夜で世界が終わる。私がこの手で終わらせる。残り時間にしておよそ十三時間、それが君に残された時間だということをよく自覚しておくことだ。その中で君が何を成すのか、あるいは成さぬのか」
 想像通りのことだったとはいえ、さすがにショックだ。明日世界が終わるという現実が、背後から確かな恐怖を伴って迫ってきている気がした。
「……絶対に、そんな事はさせない」
「そう思うのなら止めてみるといい」
 言葉の終わりと同時にまるではじめからその場所にいなかったかのようにその姿を消した。痛いくらいの沈黙だけが部屋に残された。俺は固まったまま指先をピクリとも動かせずに立ち尽くしていた。
 ふと、視線を床に戻した。
「乃愛、さん……」
 俺、美羽、親父、美優、乃愛さん。五人で笑っている写真だけが、場違いに輝いて見えた。
 酷く、心が乾いた。
「ヒロト?」
「うおっ!? ど、どうしたんだ?」
「いえ、皆さん、集まりましたよ? さっきから呼んでいたのに気付かなかったのですか?」
「あ、ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしててつい」
「もう、ヒロトが言い出したことなんだからしっかりしてくださいよ」
 悪い悪い、と謝りながら苦笑を浮かべた。ぎこちなさを自覚しながら。




 時代は便利になったもので。
 フィルムカメラからデジカメ主流になったのは果たしていつの頃からだろうか。俺が小学生くらいの時なんかはデジカメなんて少数派だったのに、いつの間にかマイノリティが逆転していた。
「うわっ、これアタシ目つぶっちゃってるよ、しまったぁ~」
「あはははは、お兄ちゃんなんて半目になってるよ」
「ヒロ君これなんか心霊写真っぽくない? テレビに送ってみようか」
「何でお前そんなに嬉しそうなんだよ……」
 などと普段からカメラを使い慣れている側の反応。反対に、
「わわ、本当に撮れてます……うわー、こちらの技術はすごいわね、レン」
「うーむ、書いて字のごとく写真、か。テレビもそうだが、やはり驚きは隠せませんね」
「おお……か、鏡以外にこの僕の美貌を寸分の狂いもなく映し出すとは!」
 と、初めての反応の人たち。
 実は遊園地の時にも使い捨てカメラでちょくちょくとってはいるのだが、忙しすぎて存在を忘れ去られ、現在棚の奥で眠っている状態だ。今度現像してもらおう。
「しかし黒須側がこんな時におらんのも珍しいなぁ。あいつならどっからともなく現れそうなもんやけど」
 沙良先生の言葉に俺は肩をすくめた。あいつなら今頃忙しく動き回ってくれていることだろう。そのための借りひとつがどれだけ高くついているのかはあまり考えたくない。
「……? うわっ!」
 ふと視線を感じてそちらを見ると、ユリアが凝視していた。
「ユリア?」
「え? あ、あれ、もしかして私、ずっと見てました?」
 自覚、していなかったようだ。
「何か気になるのか?」
「いえ……なんでしょうね?」
 聞き返されても答えられませんよ? ユリアは首を傾げながら、それでもちらちらとこちらを見ていた。
 うーん……なんなんだろう。



 そして日がくれ、最後の夜になった。
 みんなには『明日に結果を出す』といってある。嘘は言っていない。明日には世界が続いているか終わっているか、その答えが出ていることだろう。単に俺が一人で行くという事実を隠してあるだけだ。
 結局、最後の最後まで卑怯者か。
「情けないなぁ、俺。結局親父や母さんにはみたいにはなれそうもないよ」
 暗闇の中、ろうそくの小さな明かりだけが揺れる。その明かりのおかげで、ほんの少し、親父と母さんの顔が見えた。
 仏壇の前で――親父と母さんに向かってちゃんと目を合わせて挨拶をしたのは、果たして何年ぶりだろうか。ずっと心の奥にしまっていた過去を取り戻してようやく、俺はこの場所へ戻ってこられた。
「というか俺は周りの人間に負い目作りまくりなんだけどすっごい凹むよねこの事実!!」
 思い返せばきりがない。親父のことを忘れたこともそうだし母さんに教わった魔法のノウハウも全部忘れてたし。美羽にも美優にも山ほどあるし陽菜なんか存在そのものを忘れてたし。
 というか先日の戦いもあれはあれででっかい借りだよなぁ。あああ……俺って……。
「ま、まぁともかく! 今からちょっと、乃愛さんを取り返してくるから。だから――家のこと、妹たちのこととそれから……ユリアのこと。ずっと、守ってやって欲しい」
 手を合わせる。心はひどく穏やかで、波ひとつない湖のよう。その湖は澄み切っていて、水底までも見通せるのだ。
 うん。
 大丈夫。
 俺は、やれる。迷いはない。
 家族を、みんなを守ってみせる。
 たとえこの命と引き換えになろうとも。




 足音と気配を殺し、自分の部屋から木を伝って外へ出て、家の塀に足をかける。家の中から美羽たちの話し声が聞こえてきた。
 いつも通りのその声に隠された不安に気付かないフリをしていた。みんなそうだ。だから。
 そんな不要な努力をしなくていい日々を、彼女らの手に。
 音もなく道路に飛び降りる。
「よお、遅かったじゃん」
 そこに貴俊が立っていた。その肩にかかったかばんが放り投げられる。受け取って中を見てみると、グローブが入っていた。
「……これは?」
「うちの研究部に作らせたんだよ。お前だけに合う形で作られた特注品だ」
 手にはめてみる。しなやかな布の材料はわからないが、手に吸い付くようだ。ためしに近くの壁を軽くたたいてみるが、驚くほど反動が少ない。とても布一枚を隔てただけとは思えない。
「って、やっぱりこれも最新技術だったりするのか?」
「らしーぜ? 素手で殴りあってると痛めやすいだろうって事でな。単純にテストも兼ねてんだろうが」
 貴俊は片側だけ口を吊り上げて笑った。ふむ。
 ひゅばっ!!
 空を切る音。貴俊の笑顔がぶれ、次の瞬間眼球を狙った何かが突き出される。軽く首を傾げてかわし、勢いに乗せた裏拳を叩き込む。
 ぱしんっ!
 音が弾け、貴俊の視線が正面からぶつかった。裏拳は貴俊の手によって止められていた。
「お前右腕イカレてるだろ」
「ありゃ、ばれたか?」
 左の蹴りを右に避け、左手で目潰しを狙ってきた。そのくせ、俺の裏拳を止めたのも左手だったのだ。おかげで裏拳は貴俊に直撃はしていないものの、その頬に軽く触れていた。
「バカが……黒爪はそもそも一人で運用するようなもんじゃないってわかってただろうが」
「それでもやるのが男の子って奴だろ」
 貴俊はけろりとしている。まったく、俺なんかは美羽が黒爪を撃ったなんて聞いた時には全身の血の気が引いたというのに。
 あれは反動が酷すぎるのだ。貴俊の魔法次第だが、場合によっては射出速度は音速を超える。美羽が無事だったのは『弦衰』で反作用をある程度押さえ込んだおかげだろう。
「確かにそれで助かったのは助かったけどな。けどそこまでやることはなかっただろうに」
 貴俊なら他にもやりようはいくらでもあったはずだ。
「いいんだよ、俺はこれで。大体そこまでしなくてもってんならお前もだろうが」
「? 俺が何したよ」
 俺の質問に貴俊は答えない。鼻で笑うだけだ。その仕草の腹立つこと腹立つこと。
「ちっ、まあいいや。それでわかったのか?」
「当たり前田さん、このメモにある場所にいけばいいぜ」
 貴俊からメモを受け取り目を通す。場所を確認して、メモを返した。貴俊はそれをポケットに仕舞いこむ。
「さて、それじゃあ行ってくる……ああそういえばお前に借りあるけど、どうするんだ?」
「んん? おー……まあ、お前が帰ってくるまでには考えておくさ」
 その言葉に、
「っておいおい、なーに微妙な顔してんだよ。お前の大体の考えはわかってるけどな、結果はまだわかんねぇだろ? じゃあ俺はお前が死なずに帰ってくるほうに賭けるさ。そのほうが、楽しいじゃねぇか。楽な考えじゃ、ねーけどな」
「…………そうかよ」
「そうだよ」
 その言葉に喜ぶべきか呆れるべきか、はたまた怒るべきなのか。少し迷って俺は結局何も返さないことにした。
「んじゃあそのついでっていったら何だけどさ」
「おいおい、まだあんのかよ?」
「ユリアたちの後のこと、頼む。それと何が起こるかわからないから、できればみんなを安全なところに匿って欲しいんだ。それとわかってるとは思うが、あいつらに余計な事は言うなよ」
「――へいへい、まかせとけ」
 そういう貴俊の表情は不機嫌なものだった。さすがに頼みすぎたか?
「大翔、俺がテメェにムカついてんのは都合のいいことばかり言ってくれてることに対してじゃねぇよ」
「だったらなんだってんだ?」
 貴俊は、
「それがわかってねぇから俺はテメェの敵なんだよ。最高じゃねぇか」
 目をぎらつかせて、血に飢えた獣のように、
「何でもかんでも、貴様の思い通りになるとか思うなよ? ああいいぜ、俺はお前の思惑通りに動いてやるさ。けどな、」
 どこまでも人間臭く、
「お前は思い知るよ、お前の本当の強さを」
 笑った。
 貴俊は言葉を失って立ち尽くす俺にひらひらと手を振る。行け、ということなのだろう。
 仕方ない。
 俺も自分の進むべき方向へ歩き出した。
 互いに無言。
 まあ、そんなもんだろう。




 やがて大翔の背中が見えなくなった頃。
「まあ俺は大翔との約束は何があっても破ったりはしねぇさ」
 虚空に向かい、貴俊は言葉を発した。
「けど俺だって万能じゃねぇからな、こっそり出て行かれたんじゃあどうしようもねえ。な、ユリアちゃん」
 闇が音もなく歪み、ユリアの姿を形を成してゆく。闇から歩み出たユリアは、それこそまるで闇そのもののように暗い、悄然とした表情を浮かべていた。
「……いつから、気付いていたんですか」
「気付いてないよ、ただの勘。よく当たるんだよ俺の勘は」
「そうですか」
 答えるユリアの声には張りがない。貴俊は小さくため息をついた。
「ヒロトは」
「さっきも言ったように大翔に口止めされてるんでね、聞かれても答えらんねーよ」
 ユリアは口をつぐむ。
「けどまあさっきも言ったように、こっそり出て行くってんならとめらんねぇし探しにも行けねぇ。いやなに、うちの人間を使えば見つけられないこともないだろうけど、そのためには電話を使わないといけないんだよ。けど俺は電話が嫌いだ。かといってこの家から離れるわけにも行かない。こっちのことも頼まれているからな」
 ユリアが眉をひそめる。貴俊の真意を測りかねているのだろう。
「ちなみにあいつの行き先はこの紙に書いてある。そこにいる奴に聞けばその先もわかるってわけだ。んで、俺は今からこの紙をこの道端に『落とす』から、その後どうなろうが知ったこっちゃない」
 つまりそれがどういうことなのか理解できないわけがない。
 自由にすればいい。貴俊はそういっているだけだった。




 なぜだか、ヒロトの様子が気になってしまう。どこかおかしい、そういう風に感じずにはいられない。
 それを皆さんに相談したのですが、やはり皆さんの誰にもわからないそうでした。
 妙な胸騒ぎに衝き動かされ、結局私はヒロトの部屋を訪れました。そしたら……
「…………いない?」
 空気はかすかに暖かいので、先ほどまでいたと思うのですが。そう考えて、家の中をくまなく探してみることにしました。
「ユリアさん、何してるんです?」
「ヒロトを探しているのですけど、知りませんか?」
「兄貴? う~ん、ちょっとわかんないなぁ」
 ミウさんにもわからないとなるとちょっと難しいかもしれません。ミウさんはヒロトさんの気配というか空気というか臭いというか、とにかくヒロトさんに敏感なので期待していたのですが。
「兄貴に何か用でもあるんですか?」
「いえ、用というわけでもないのですけど。すこし気になってしまいまして」
「そうですか……」
 ユリアさんはなにやら考え込んでいる様子です。どうしたんでしょう。
「あのー、つかぬ事をお聞きしますが、ユリアさん、兄貴のことをどう思ってます?」
「ヒロトさんですか? そうですね、優しくて強くて、それでもどこか頼りないといいますか、危なっかしいところがありますよね」
「いえ、そうでなく」
 ミウさんは何か難しい顔になってしまいました。私の答え、何か間違っていましたでしょうか?
「えーっとですね……ああそうだ、ユリアさん、こっちの世界に残ってくれましたよね」
「……ええ」
「どうして、ですか」
 たずねられて――言葉に詰まってしまいます。だって、それは私にもよくはわかっていない事だったから。
 ただそう、ヒロトを少しでも守りたくて。少しでも、傍に居たくて。
「ユリアさんはこの世界がどうなるにしろ、明日帰っちゃいますよね」
「ええ……」
 確かに、ヒロトにはそういいましたし、皆さんにもそう説明しました。
 でも……はたして本当に、私にそんな事ができるのでしょうか。この世界がもはや助かる見込みがないとわかったとき、私は彼らだけを残してこの世界を去って……それで?
 そんな事をしても、失う事実は変わらないのに。
 その痛みは決して軽くなることなんてないのに。
 この身は私一人のものではない。それは痛いほどによく理解している。でも、だから。
 私は生まれて初めて私という存在を呪わずにはいられなくなってしまった。この身がただの娘であったのなら、あるいはこの世界の最後のときを、ヒロトと共に迎えられたかもしれないのに。
「どちらにしても、たぶんずっと会えなくなっちゃうと思うんです。私たちって結局普通の人だから、ユリアさんみたいなお姫様には会えないと思うんですよ。ユリアさんもさすがにこっちにこれないと思うし」
「…………え? そ、そんなことありません! 確かに私からは来ることはできないかもしれませんけど、あなたたちが来てくれるのなら私は――!!」
「ユリアさんがよくっても、国のほかのえらい人たちとか、わかんないじゃないですか。兄貴もユリアさんに迷惑かけたがらないと思うし」
 それは。
 とてもありえる話でした。むしろ考えて当然、至らないほうがおかしいくらいの結論に。
 なぜか私はたどり着いていなくて。
 なぜか私は凍えるほどの孤独を感じて。
「それは仕方ないと思ってるんですけど、やっぱり色々と感情は、ちょっと」
「……そう、ですね」
 こちらに来る前、私はどう思っていたのかを思い返しました。
 私が私の世界の危機を知り、この世界の危機を知ったとき、すぐにでもこの世界へ来るつもりでした。けれど実際には魔力をためる時間やお父様を説得する時間などが必要で。その間私が気にしていたのは、私を救ってくれた人の息子であるヒロトのこと。あの日、タイヨウさんの葬儀の後に公園で出会った少年は今どうしているのか。
 私を守ってくれた恩。そのために、大切な人を奪ってしまった償い。ようやく彼らに報いることができると、そう思っていました。
 ところが、この世界へ来た私にノアさんから告げられたのは、ヒロトの記憶が封じられていることと魔法の制御を失っていること。それらがあの事件が原因のひとつであること、でした。
「なんていうんだろ、アタシは二人が後悔しないようにしてもらいたいんです。ううん、後悔してもいい。ただ、その思い出を苦しみにして欲しくないんです」
「苦しみに、ですか。それはヒロトのような?」
 ミウさんはまっすぐな目をして肯きました。ミウさんもミユさんも、ヒロトのことをこんなにも愛している。それがとても嬉しくて。
 ……?
 嬉しい、ですよ? なのに、なんだか。ちょっと心が、苦しいです。
「ユリアさん?」
「な、何でもありません! そう……ですね。そういうことも考えないと、いけませんよね」
 急いでその場から離れた。ミウさんの心配そうな視線がこちらを見ていることは感じていましたが、今の私はそれどころではなくなっていました。
 最初はただ、ヒロトのためになればとただそれだけを思っていたのに。
 どうして、今になってこんなことに気付いてしまったんでしょう。
 今はもう、ヒロトのためだけではなくなっていた。ヒロトに、私の傍にいて欲しい、そう、思ってしまっている自分に気付いてしまった。
「どうして……そんな事を……っ!!」
 自分で自分がわからない。こんなに心が苦しいのなんて私は知らない。
 誰か教えて……私はどうなってしまったの?
 気がつけば、一階の隅にある部屋の前に来ていました。
「ここは……」
 特に何かを言われたわけでもなく、入ることを禁じられたわけでもなく、それでも一度も入ったことのない部屋……。
 なぜでしょう。
 なんだかとても、懐かしい。
 私は扉に手をかけ、ゆっくりとそれを開いていきました。

 ふわ、と香るのは経験の無い匂い。
 優しさと寂しさを混ぜ合わせた、知らない、でもどこか懐かしい匂い。

 女の子が二人、部屋の隅で泣いている。二人は男の子の両腕にそれぞれしがみ付いていた。その男の子はまっすぐに前を見ていた。
 違う。
 頭を振って過去を追い払う。すると目の前に残ったのは暗い部屋。かすかに揺れる赤い光はろうそくの輝きだけ。
 たった一度だけ、この部屋に入ったことがある。ここは……
「お父さんとお母さんのお部屋です」
「ミユさん」
 はっと振り返る。ミユさんは微笑んで、部屋へと入っていった。
「って言っても、ワタシはお母さんと直接にあったことはないんですけどね。でもお兄ちゃんとお姉ちゃんのお母さんだから、ワタシもなんだかお母さんの子供みたいな気がして」
 ミユさんは眩しそうに写真を見ていました。
「……このお線香、ユリアさんがあげてくれたんですか?」
「え? 違いますけど……」
 ミユさんの視線の先には小さな火が灯っていました。過去にかいだ香り。この匂いで、昔の記憶が蘇ったのでしょう。
 タイヨウさんの、葬儀の日を。
「じゃあ、お兄ちゃんかな。お兄ちゃん、ちゃんとお線香あげられるようになったんだ」
 その言葉に疑問を感じた。どういうことなのか説明を求める。何でもヒロトはつい最近まではこの部屋の写真を見ることもできなかったのだといいます。おそらく記憶を封じていた弊害なのでしょう。
 けれど、どうして今このタイミングで? こちらの文化に明るくない私ですが、私の国での行いと照らし合わせることはできます。例えば親しい人の墓前に立つのはどのような時でしょうか。
 ……少し、不安が胸をよぎる。
 私が誰かの墓前に立つのは、その人のことを思うとき。そして、その人に自分の思いを――それも特に強い決意の類を伝える時です。
 ヒロトはタイヨウさんとミクさんという二人を前に、明日に全てを終わらせるという時に、何を思ってこんなことを?
「あの、ユリアさん」
「ごめんなさい、すこしぼうっとしていました。なんですか?」
「その……こんなことお願いしていいのかどうか、わからないんですけど。お兄ちゃんが何かしそうだったら両手足使え無くしてでも止めてくれませんか?」
 なんでしょう。
 今なにか恐ろしいことを告げられた気がします。
「えーっと、それはどういう?」
「お兄ちゃん明日にどうにかするって言ってたけど、すごく無茶をすると思うんです。お兄ちゃんはワタシたちを極力巻き込まないようにすると思うし……ワタシじゃあ、お兄ちゃんについていけないんです。ついていけるのって、ユリアさんとかレンさんとか先輩とかだと思うから」
 ミユさんの感じている不安はワタシの抱えているものと同じでした。ヒロトは私たちを危険から遠ざけるためなら自分を犠牲にすることを厭わないでしょう。
「わかりました。私も、ヒロトに置いていかれるのはご免ですから」
「ありがとうございますっ」
 ミユさんの顔から不安が消えて安堵の色が咲いた。それにほっと胸をなでおろし、
「ユリアさんってお兄ちゃんのこと好きなんですか?」
「なななななななあっ!?」
 胸が爆発しました。ええもう唐突に何の前触れも脈絡さえもなく。
「なにゃっ、何を言い出すんですか、ミユさん!?」
「いえ、何となく」
「ななな、何となくでも変なこといわないで下さい!!」
 なぜだかその場にいられなくなって、また部屋を飛び出しました。廊下を走り階段を駆け上がり、部屋の扉を開けてやかましく閉じて深呼吸をひとつ。そこまできてようやく私は落ち着きを取り戻しました。
 落ち着きを取り戻して辺りを見回せば、
「……私は何をしてるんですかぁぁぁ」
 ヒロトの部屋にいましたよ、ええ。なぜか。なぜかも何も私が駆け込んだからに決まっているのですが、自分の部屋でもなくよりにもよってヒロトの部屋だなんて。いえヒロトの部屋が嫌いというわけではないのですよ決して、むしろ逆に落ち着いたり楽しい気分になっ
「落ち着きましょう、少しおかしいですよ私」
 もう一度深呼吸。
 あ、ヒロトの香り。
「…………」
 自分の情けなさに思わずへたり込みました。ため息をついて、ベッドに腰掛けます。ごろんと仰向けに寝転がると、自室とは違った天井が見えました。そういえば、ヒロトはよくこうしている気がします。
 なんとなく布団にくるまってみました。ふんわりとした手触りとどこか安心させる香りに、とろんと思考がとろけそうになりました。
 こうしていると、なんだか自分の悩みなんて小さなものに思えてきてしまうから不思議。悩まないで自分の思うままにやってしまえばいいんじゃないかなんて考えが浮かびます。私のやりたいように。
 私が、望むもの。
 ヒロトと一緒にいる事。
 ああ、なんだ。そんなに簡単なことだったんだ。
 過去とか恩とか償いとか、そんな色んなものに脚色された思いの最後に残ったのは、真っ白な純粋なたった一つの願いでした。
 けれどそれだけに難しいこと。自分のしがらみを全部振り切って思うままに振舞うなんて、とても難しいです。
 ああ……でもそうできたら。
「……………………? 声?」
 リラックスしていたおかげでしょうか。その声が耳に届きました。
 外から聞こえてきたように思えたので窓を開けてみると、それは確かに人の話し声。それも、私が今まで探していた人の声でした。
 すぐに窓から飛び出そうとして、
「…………少し、気になりますね」
 魔法で姿を隠しました。そうして音を出さないようにして、ゆっくりと声の方へ近づきます。どうやら、ヒロトとクロスガワさんが話しているようですね。一体何を――え?
「ユリアたちの後のこと、頼む。それと――――」

 ヒロト? ねぇ、あなたもしかして。

 私を、おいていってしまうの?
 ひとりで、どこかへいこうとしているの?
 またあなたはそうやって……全部をひとりで背負い込んで、それで。
 それで、誰も満たされない結末を迎えるつもりなの?

「で、どうする?」
 クロスガワさんは私をじっと見ていました。どうするのか? ヒロトを追うのか、それともここで待つのか。
「あなたは……ヒロトの勝算をどう見ていますか?」
「さあ。今回ばかりはあいつも分が悪い。少なくとも俺は今回ばかりは大翔を勝たせるつもりはないね」
「それにしては随分と親切だったように思いますが。あんな靴まで用意して」
 あれではかってこいと言っているのと同じではないでしょうか? そもそもヒロトを勝たせないのはどういう意味?
「あいつにとっての勝ちは自分の大事な人たちが生き残ること、負けは死んだり傷ついたりすること。勝つために必要ならあいつは簡単に死んで見せるさ。だからといって戦いに負けても死んじまう。じゃあせめて戦いには勝って、その上で負けてもらわねーといけねぇんだなこれが」
 全身が粟立った。だってそれに間違いはないと感じたから。
 こうして一人で出て行ってしまったのも、私に何も教えてくれないのもきっとそういうこと。
 一人で全部を抱え込んでもって行ってしまうつもりなんだわ。私たちに何一つ見せる事無く。それで私たちを守れるのだと、そう信じて。
「……酷いわ、そんなの」
「あいつも変化してはいる。だからこの前の戦いには俺らを巻き込んだ。が、変わっただけだ。まともになったわけじゃねぇ。壊れたところは壊れっぱなしさ」
 クロスガワさんは夜空を見上げて乾いた笑顔を浮かべました。その瞳は夜空よりも遠く、過去を見通しているように思えます。
 その手の中から、白い紙切れがふわりと風に乗って私の足元へと飛んできました。
「……行って、私に何かできるでしょうか」
「君にできなきゃ他の誰にもできないだろーさ。そんときゃま、あいつの一人勝ちだ。癪に障るけどな。ただし言っとく、たぶん死ぬぜ。大翔か乃愛さんか、君の誰かが。ただの勘だけど」
 私は。
 私にできること。
 いいえ。
 私が、やりたいことを。

 そっと、紙切れを手にとり、ゆっくりと開きました。




 ぶわり、と風が舞ったと思った次の瞬間には貴俊目の前から姫君の姿は消えていった。
 空を見上げれば、流星のように一直線に白い光が夜を切り裂いていた。
 貴俊は大翔がどうするかなんてさっぱりわかってはいない。可能性として最もありえると踏んだことを述べたに過ぎない。ゆえに、これからどうなるかもわからないし、考えることもしない。
「へーい、こんっばんはー!!!!」
 なぜなら、やるべきことがここにあるからだ。
 大翔を生かすためならばその大切なものを犠牲に払うことも厭わない。故に、結城大翔の敵。
 愛と憎悪は紙一重などというが、貴俊には同義である。その執着が、一人の少女の無垢な心を利用した。ただそれだけの話でしかない。
「先輩? こんな時間にどうしたんですか!?」
「コンバンハー、ちょっと君の兄貴にお願いを頼まれたんでね、それをしにきたわけよ」
「はぁ……兄貴が。それで、何をしに?」
 貴俊は笑って答えない。ただ行動で示した。
 家に上がり電話を手に取り、よく知った――しかしめったにかけない番号を叩く。
 ワンコールがなりきる前に相手の受話器が取られる音がして、
「いょう、クソ親父。ご機嫌はよろしいかああぁぁぁんだとこの死に損ないがメイドを土産に冥土に送られテェかおいこらァ!!」
 周りの人間がドン引きする顔と声で受話器を締め上げながら電話線を引っこ抜く寸前まで暴れるような電話を始めた。
 後に結城家の人間達は語る。
 奴に受話器を持たせるな、と。




「今日は千客万来ですねぇ」
 空を見上げたエラーズが呟く。その声に顔を上げたのは、弱々しい……というか異様に衰弱した様子のポーキァだった。
「おいエラーズ! 言われた通りに魔力込めたぞ! これでいいのかよ?」
 息を切らせながら掲げたのは、エーデルの家に伝わるものであるはずの赤い宝石。
「構いません。どうやら彼女のご到着ですよ」
 ポーキァが疑問を返す前にその姿が天空から降ってきた。隕石のように。
 ずごぉんっ!!
 夜の街の一角で迷惑極まりない破壊音が響き渡った。もくもくと立ち込める砂煙のおくから現れたのは、その光景に似つかわしくない美しい少女。
「……なんでかすっげぇこの上なく魔王にしかみえねーんだが」
「奇遇ですね、私もそのように思っていたところでした」
 若干どころか本気で引いていた。しかしユリあはそんな事を気にする様子もなくずんずんと歩み寄ってくる。その迫力に、百戦錬磨のふたりでさえ気圧されてしまっていた。
「あ、えー。ご機嫌麗しゅう、姫君」
「無駄口はいいのでヒロトがどこに向かったのか答えなさい」
 一蹴されたエラーズの背中に哀愁が漂うのをポーキァは見た。
「……まあ教えるのは構いませんが、あなたではどう足掻いてもたどり着けませんよ?」
「何故ですか!?」
 ばちばちっ、と雷光が散る。ポーキァさえも青ざめるほどの強大な魔力がユリアの怒りに呼応して放出されたのだ。二人が知ることではないが、空を飛んでいる間にふつふつと大翔に対する怒りが醸成された模様である。
「彼は私にノア・アメスタシアの居場所を尋ねました。私の感知の力は世界を覆うほどですし、あれほどの違和感であれば逃すはずもありません。彼女は今、この世界でありながらほんの少し次元をずらした空間にいます。そこへたどり着くためには、世界を越えるためほどとは言いませんが、それでもかなりの量の魔力が必要になります。まあ、彼の魔法ならどうにか突破できるようですが、数日前に全力で戦闘したばかりで魔力を温存していないあなたではどう足掻いても届きはしないでしょう」
 その言葉に。
 ユリアの怒りがより一層高まった。
「――つまりあなた方がいなければそのような事になることはなかったわけですね?」
 完全に八つ当たりだった。いつものユリアとは違った様子にエラーズも戸惑う。後ろのポーキァに助けを求めようと振り向いて、端っこのほうで体操座りして振るえている姿をみてそれを諦めた。
「方法がないといっているわけではありません。これを」
 エラーズが宝石を取り出す。
「なぜ、あなたたちがこれを?」
「彼に行き先を教える事の交換条件ですよ。昨日からずっと監視された上に何の利益もないのではやっていられませんからね」
「……それを私に渡してしまっては意味がないのでは?」
 エラーズは首を横に振る。
「いいえ。彼の嫌がる顔を見ることができたので十分です」
 まじめにそんな事を言った。今度はユリアが顔を引きつらせる番だった。この上なく本気が伝わってくる声だったからだ。
「……え、ええと。ありがとうございます……って本当に随分と魔力が込められていますね」
「ええ、ポーキァが十分でやってくれました」
 そのおかげで干乾びかけていたわけだが。
「とにかく助かりました。この件に関しては、感謝をしておきます」
 硬い表情で告げるユリアに大翔の行先を告げると、その姿は一瞬で風と共に去っていった。その際にゴミ箱やらダンボールハウスやらが吹き飛ばされていたが、それを気にする二人でもない。
「…………エラーズ」
「なんです?」
「女怖い」
 一人の少年が心に傷を負った。しかしながらエラーズもその意見に全面同意せざるをえない。
(ノア・アメスタシア……何を考えているんですかね)
 大翔から宝石を受け取り魔力を満たし、それをユリアに渡す。それを指示してきた人物こそが他でもない、ノアだ。エラーズの強大な知覚能力を逆手に取り、彼に一方的な命令を送りつけてきた。
 従うのは癪だったが従わなくては命の保障もない。そんなわけで言うとおりにしたのだが……。
(彼女からは待っていればいいとだけ言われて、本当にそうなるとは。どうやら、面白いことになりそうですね)
 仮面の奥で小さく笑う。
 エラーズにとっては先の戦いの勝敗はさして重要ではない。なぜなら、ここにもいたからだ。バカな男が。
(さあ、あなたの結末を見せてもらいますよ。ユウキヒロト)




 いつも学校へむかうための転移場所。注意深く意識を向ければ、そこから普段とは違う違和感を感じることができました。
「ここね。間違いないわ」
 私は宝石を手に取ると、その中に込められた膨大な魔力を自分の力に上乗せし、空間に向けて解き放つ。無音の衝撃が広がり、視界が瞬時に色を失い景色が消え、最後には重力も。しかしその数秒後、今度はその逆の順に世界が知覚されて、あらわれたのは予想もしなかった景色でした。
「……どう、いう?」
 目の前に現れたのは、先ほどと全く同じ景色でした。しかし空は明るく、透き通るような青空が広がっています。一瞬だまされたのかとも思いましたが、全身をなでるような違和感が付きまとって離れないところをみると、どうやら完全に異世界にやってきたようですが。
 ゆっくりと道を歩いていきます。まったく同じ景色の違和感、なんてどんな悪夢かと思ってしまいます。これが、次元のずれた世界ということなのでしょうか。
 それにしては、どうにもその程度の話とは思えない不気味さが感じられるのですが。
 怪訝に思いながら歩いていると、向こうのほうに人影が見えました。この世界にも人が――
「な……なん、ですかっ、これは……!?」
 人影が。
 人の、影が、歩いてきます。確かな厚みを持った存在感のない、黒い、透けた、人間の形をしたものがひと組。それらは私の存在に気づくことなく通り過ぎて行きました。
 なにやら楽しそうに会話をしながら……といっても、影なので声は出ていないのですが。
 その楽しそうな様子が。
 あまりにも、幸せそうな様子が。
 ひどく、腹立たしくて哀れに思えて。
「……空へ」
 ふわりと空へと飛びあがれば、そこかしこに黒い影は見ることができました。誰もかれもが楽しそうで幸せそうで。けれど。
「幸せに満ちた世界……幸せしかない世界。でも、この世界は私をあの香りほど幸せにはしてくれない」
 だから、腹立たしかった。だから、哀しかった。穢された気持になった。
「ヒロトに、会いたい」
 この世界はどんな冬の空よりも寒々しい。
 急速に黄昏てゆく幸せの世界で、私の心は孤独に震えていた。
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