世界が見えた世界・9話 E 前

 守りたいものというものがある人は幸せで、それを守り続けられたのなら、それはきっとこの上ない幸運だと、沙良は考えている。

沙良「か……はっ、はっ、はっ」

 震える手で壁を支えに立ちながら、荒い息とかすむ意識の向こうでふと昔を思い出す。
 守りたい命があって、守れなかった自分がいたこと。絶望は泥沼のように深く、這い上がることは苦痛を伴った。それでも自分はこうしてここにいる。今度こそ守ると誓ってここにいる。

沙良「やったら……諦めるわけには、いかんよなぁ、ましゅまろ?」

 もう何年も共に過ごしてきた相棒を見つめる。しかしその姿はいつものように柔らかそうな印象はなく、くたりとくたびれていた。
 ましゅまろはただのぬいぐるみだ。他のぬいぐるみと違う点は、沙良の感情に呼応した動作をするようにパターンをひたすらに学習させたという点だった。
 ましゅまろの中には水が詰まっている。正確には、水の通るチューブが筋繊維のように張り巡らされている。その中を流れる水の動きによってましゅまろは多彩な動きをするのだ。
 その水の流れを、沙良は常に操ってきた。いまや意識せずともましゅまろは操れる……というより、半ば彼女の意志を離れて動き出す。もしかしたら何かの意志が生まれているのかもしれない。それを確かめる術はないが。
 そんなましゅまろも、結局は彼女の力が尽きれば動かなくなる。もはや沙良に残された力は、微かなものだった。

ガザベラ「ったく、しぶといわね、あんたも。そんなナリの癖して」
沙良「こんなナリで、悪かったなぁ。せやかてうちだって好き好んでこんなんちゃうんやで。成長なんて、人それぞれや……と」

 ふらつくが、壁から手を離す。両足で立っていないと、いざという時に動きだしが遅れてしまう。
 成長、か。小さくつぶやく。
 本当は、沙良の体格は人の成長の差だとか言うものじゃない。実際、昔はまだ年相応の体つきをしていた。

沙良「行くで?」
ガザベラ「何度でも、かかってきな」

 ざぁっ!
 沙良が動き、その後を追うように水が割れる。人の目にはとてもじゃないが追えない速度。だが――

沙良「くはっ!?」

 ガザベラの体を囲むように、細い針が無数に発生した。人の目に追えない速さも、魔法の自動補足ならば捕らえられる。
 血の針は次々と沙良の体に突き刺さる。

沙良「う、ああぁぁぁっ!!」

 その口から血が零れた。ついに膝から力が抜け、沙良は崩れ落ちた。
――あかんわ……もう、力が入らん。
 意識は朦朧とし、もはや『流理』を扱う力も残ってはいなかった。

ガザベラ「まあ実際、たいしたものだったけどねぇ。でもここまで、アタシを倒すには、あんたじゃ役不足って事さ。にしてもその疲労の仕方はちょっとおかしいねぇ、ま、大方例の高速移動が体に負担をかけてたって事かしら?」

 沙良は答えない。答える体力も、もはや残ってはいない。
 ガザベラの言葉は正しかった。沙良の高速移動の正体――というより、肉体強化の正体。
 沙良は、全身を流れる血流や電気信号の流れでさえも操っていたのだ。脳に流す情報の取捨選択、心拍数の強制加速、肉体限界を超えた筋力の出力の指示。それらを彼女は、随意的に行っていた。
 無論そんなことをすれば体にどれほどの負担がかかるかも分からない。それに魔法というものが体にどんな作用を及ぼすかも分からなかった。事実彼女の成長が逆行したのも、この方法を使い出してからだった。
 いつかその身を滅ぼす事は知っていた。それでも戦うために使い続けた。全ては、

沙良「守りたいもんが、あったんやけどなぁ……」
ガザベラ「アタシにはそういうのは、わかんないね」

 ガザベラは沙良を右腕で持ち上げる。ナイフを取り出し、その喉元に突きつけた。

ガザベラ「あんたはよくやった方さ。もう死にな」

 沙良はナイフが振りかぶられたのを見て、静かに目を閉じた。
――結局、うちにはなんもできんかった。せっかく泥沼の底から這い上がったと思ったのに、また同じ結果や。ごめんな、みんな。
 心の中で、誰かに向けて謝罪し……

ガザベラ「うわ、ちょっと、なんだいこいつ!?」

 突然振り回された。薄く目を開くと、そこには……

ガザベラ「ああもう、邪魔するんじゃないよっ!!」
沙良「ましゅ、まろ……?」

 ガザベラにまとわりつくましゅまろの姿があった。
――なんでや。うち、あんたを動かす力もないんよ、もうなんもでけんよ? なのに、何であんた、うごいとるん?
 ましゅまろはしつこくガザベラにまとわりつく。どれだけ手ではねのけようとも、一向に引き下がる様子はない。

ガザベラ「ええい――しつこいんだよ!!」

 苛立ったガザベラは沙良を手放し、己の手の平にナイフを突き立てる。そこから血が溢れ、鞭のようにしなり、ましゅまろに襲い掛かった。

沙良「ましゅ――!!」

 ずたずたに引き裂かれ、ごみのように放り棄てられる。

沙良「ああ……」

 もう何年も、共に歩んできた相棒だ。
 元は贈り物だった。彼女が守れなかった子供達が生前、彼女にプレゼントしてくれた、手作りのぬいぐるみだった。それにちょっとした仕掛けを施して動かして見せた時の子供達の驚きと喜びの顔は、今でも忘れていない。

沙良「あああ……」

 共に絶望を這い上がってきた。くじけそうな時、逃げ出しそうな時、それを抱けばそれだけで勇気がわいてきた。かけがえのない、相棒だった。
 ぱしゃん、と。落ちた。

沙良「あああああああああああああ!!!!」

 絶叫した。もはや自分の限界だとか力の限度だとかくだらないことは関係なかった。残った全ての力を右足に集める。血管が切れ神経は焼け筋繊維は弾け飛ぶ。知ったことかそんなこと、この怒りの前には関係ない!
 この女は、許されないことをした。それを黙って見過ごすことなどできるはずがない!!
 これまでのどの一撃よりも早く、重い一撃。

ガザベラ「くあぁっ!?」

 ガザベラの肋骨が砕け、同時に沙良の足の骨にも罅が入った。

ガザベラ「いい加減に――しろぉ!!」
沙良「がっ!!」

 ガザベラの血の鞭が刃となり、沙良の左手を貫いた。首を掴まれ、壁に押し付けられる。

ガザベラ「ちょっと油断したけどね、あんたはもう終わりさ……」

 ガザベラは注意深く当たりを見回す。近くにましゅまろも、他のぬいぐるみもない。目の前の沙良はもはや水を操る力もないのは明白。首を締め上げる彼女の腕に抗する力はあまりに弱々しい。今度こそ、彼女の勝利はゆるぎないものとなった。
 沙良はぎらついた瞳でガザベラを睨みつける。ガザベラはそれを鼻で笑うと、右手から生えた血のナイフを振り上げる。
 息を荒げながら、首を締め付けられそれでも懸命に酸素を取り込みながら、その弱々しい左手で右手を受け止めるつもりなのか、真っ赤に濡れた左手をこちらに向けた。
 それを滑稽だと嗤いながら、彼女は右手を振り下ろした。

 シュッ!

 空を裂く音が走り、沙良の背後の壁に血が散った。荒々しかった呼吸音はなくなり、廊下が静寂に包まれる。
 ずる、と。力の抜けたガザベラの手から、沙良の体が水の中へとうつぶせに落ちた。ゆっくりと、血が水に流され広がっていく。
 ちろちろと、どこからか水の流れる音だけが、響いていた。
 どれくらいの間そうしていただろうか。
 やがて、ずる……と、沙良がその身を起こした。

沙良「う、う……ああぁぁぁっ!」

 今度は仰向けに倒れる。

沙良「間にあったん、か?」

 沙良は大きく深呼吸した後、体を起こしてガザベラを見る。ガザベラは――死んでいた。額に小さな穴を開け、その場で事切れていた。
 今度はため息が漏れた。左手を持ち上げ、ガザベラに付けられた傷跡を見る。まさかこれが逆転の一手になるとは思わなかった。
 ウォータジェットというものがある。ダイヤモンドさえも切断可能なこの技術を、沙良は己の肉体と血液を使用して行った。血流と筋肉の圧縮を利用して、爆発的な速度で血液を発射するのだが……その負担は、相当なものとなった。

沙良「あかんわ、もうねむってしまいたい」

 正直、まぶたが重い。むしろ今ここで眠ったらもう一度目を覚ましそうにないというのが彼女の本音だった。
 それでももう、疲れたのだ。よくやったと思う。世界を滅ぼそうとするような連中相手に、よくもまあ限界を超えてやったもんだと。だからもう休んでも、いいんじゃないか。そう思う。
 のだが。それを邪魔する存在があった。

沙良「……うん? って、なんやましゅまろ。あんたほんとに、なんなんや?」

 ましゅまろが、沙良に擦り寄ってきていた。もはや彼女にはましゅまろが動くだけの力を維持する余裕がない。だというのに、なぜましゅまろは動いているのか……正直、さっぱりだった。

沙良「こういうんも、奇跡っていうんやろうか? ああもう、そんなに押したら……はいはい、起きろっていうんやろ?」

 しつこくましゅまろに促され、沙良は立ち上がる。血も体力も足りていない。気力は今にも尽き果てそうだ。
 それでも。

沙良「守るもんがあるうちは、幸せや。幸せなら、どうせなら生きてみらんと、な」

 相棒と共に、上を目指して歩き出した。




 貴俊は残った黒爪を手に思案していた。
 すでに放った黒爪は三発。後一発で半分になってしまう。まあそれは構わない。勝てればいいのだ、結局。だから悩んでいた。

貴俊「さ、て……どうしたらアイツを倒せるかねぇ?」

 叩きつけられた壁から背を離しながらどうにか立ち上がる。幸い刺さったりはしていないようだが、擦り傷切り傷打ち身に打撲。ダメージは存分に蓄積されていた。
 そのくせ、あれだけ黒爪で貫いたというのに、ガーガーはその勢をまったく衰えさせない。右肩、右脇腹、背中から、右の背面。右半身だけでも封じようとしたのに、今でも元気に動き回っている。
 というか、美羽を右足で踏みつけて雄叫びを上げていた。

貴俊「ったく……ケダモノめ。それ以上その娘に傷をつけてみろよ、本気で消し飛ばすぞ」

 獣の表情を浮かべて槍を構えて突進する。一歩一歩床を踏み砕かんばかりの勢いで突き進む。気付いたガーガーが、その口を大きく広げた。ちろりと炎が覗く。
 ボウッ!
 視界が赤で埋まる。炎の塊をかわし、美羽を踏みつける足に槍を突き立てる。

ガーガー「グルァッ!!」

 大きく振り回された腕。ただ振り回されただけのそれに、貴俊は肩が弾け飛びそうな衝撃を受け吹き飛ばされた。床に叩きつけられ、ごろごろと転がる。その勢いのままに起き上がり、にらみ合う。

貴俊「あのなぁ……俺はてめぇごときに負けてらんねぇんだよ……」

 ちらりと、過去の光景が脳裏をよぎった。ああ、あの頃は楽だったなぁなどと思い出す。楽であり……世界の全てが苦痛であった。自分の存在が苦痛であった。そこに現れた――自分の対極。
 それからは楽ではなかった。まさに苦難困難の連続だ。ただ、苦痛ではなかった。それらを乗り越える充実があった。

貴俊「そぉだよ、俺ぁこういう苦難困難ごときにゃ負けらんねぇんだよ。そうじゃなきゃ、俺をこんなところに引きずりだしてくれやがった野郎に申し訳がたたねぇんだよ愛が途切れちまうんだよ!!」

 ずだん! と槍を叩きつけて床を叩き割る。

貴俊「俺を倒していいのは一人だけだ、俺が負けるのは一人だけだ、俺が、負けらんねぇ戦いをするのは一人だけだ。だから――」

 体を弓なりにしならせ、

貴俊「てめぇは予定調和のごとく俺に倒されてろ!」

 なんと、黒爪を投げた。射出するのではなく、投げた。まるで陸上競技のそれのように。
 空を裂きガーガーへ向かうそれは、速くはあるが射出した時の速度とは比べるまでも無く遅い。ガーガーは首をかしげ、目の前跳んできたそれを払おうと手を伸ばした。
 瞬間。

――バチィンッ!!

ガーガー「ギャアアッ!?」

 黒爪が、弾ける! 眼前で射出された黒爪に反応できず、ガーガーの顔面に短い槍が突き立った。黒爪の後から駆けていた貴俊は、はじけて床をバウンドした、更に短くなった黒爪を掴み、ぶん回す。
 重い手ごたえと共に、ガーガーが吹き飛んだ。貴俊は軽く舌打ちする。手元に残った黒爪は、あと二度しか射出できない。
 今の重い手ごたえ。そろそろ遠心力による威力の水増しも期待できなくなってきた頃か、と考える。

美羽「う、く……先、輩…………」
貴俊「おっと、あんまり無理しないほうがいいぜ。後は俺が――」
美羽「意地でどうにかできることばかりじゃ、無いですよ」

 貴俊は言葉を飲み込む。確かに、意地ではどうしようもない。先の射出にしてもそうだ。
 射出は本来、一番下の槍についているボタンのオンオフで電流の切り替えて行う。それを自分で投擲し、中の回路の適当な部分を分離させて電流をカットするという荒業を、ほとんど意地になって行ったものだ。当然、相手の不意をつけるというメリットよりは、威力は半減するし狙いも付けにくいというかむしろあたったのが奇跡だったりするデメリットのほうが大きいわけだ。

美羽「――どうやら、目に当たったようですね。相当苦しんでます」
貴俊「ん、あ、ああ。そうだな」

 ガーガーは暴れていた。目に突き刺さった槍に苦しんでいる。さすがにあの痛みは無視できなかったということか。
 それを見て思案顔をしていた美羽は、言った。

美羽「先輩、突っ込んでください」
貴俊「……へぁ?」
美羽「だから、突っ込んでください。全力で、あいつに」

 美羽は暴れまわるガーガーを指差す。すでに床は穴だらだ。

貴俊「いや、あの……突っ込んで、どうしろと」
美羽「いいから行って下さい。先輩なら分かりますから。――たぶん」
貴俊「……ああもう、分かった、分かったよ畜生! やっぱり君は大翔の妹だな!!」

 最後に視線をそらしてなにやら不穏な事をつぶやいたような気がするが、とりあえずそれを振り切って走り出す。
 美羽は大きく息を吸い――

美羽「ったく、アタシはこういうの嫌いなんだけどな……兄貴の悪いところがうつったかな」

 全力で、生み出せるだけの大量の炎を生み出した。真っ赤な炎は天井に届かんばかりに燃え盛り、それが波のように、ガーガーへと向けてなだれ込む!
 貴俊は背後から迫ってくる熱量に振り返り、

貴俊「は?」

 という表情を浮かべて、飲み込まれた。
 炎に気付いたガーガーは大きく口を開いて天を仰ぐ。

ガーガー「グルゥァァァァァッ!!!!」

 その口に、炎が飲み込まれていく。まるでガーガーを包み込むかの様に炎が殺到するがその全てがその口へと流れ込んでいき……

ガーガー「ガァッ!?」

 突如、その喉に黒い棒が突き立った。飲み込まれかけていた炎が自由を取り戻し、舞い散る。炎が雪のように荒れ狂う世界の中心で、炎の中から現れた貴俊はところどころに火傷を負いながら、ガーガーの肩に足をかけ、その口に黒爪をつきたてていた。

貴俊「ったく、あの兄にしてこの妹ありたぁよく言ったもんだ。思わず愛を振りまきたくなるが……その前に、手前は極刑だ」

 ズダン! 黒爪が射出され、びくりとガーガーが体を震わせた。もう一度。ズダン!
 喉から入った一撃は体を突き破り、背中を突き抜けた。どぉん、と重い音を立てて倒れるガーガー。一足先に飛びのいた貴俊は、苦笑しながら美羽を振り向いた。

貴俊「まさかいきなりあんな目に合わされるとは思わなかったよ……大翔といい君といい、なんつーか君んちの家系はとんでもないやり方が好きなのか?」
美羽「さあ、そんなことは無いと思います……け、ど……」

 ぽかん、と。だらしなく口を開いた美羽は、

貴俊「んー? どうした、美羽ちゃ、ごふぁっ!?」

 ぐしゃり、と嫌な音を立てて、貴俊が横殴りに吹き飛び血を撒き散らしながら床に叩きつけられるのを、ただ見ていることしかできなかった。
 ずりゅ、と血を滴らせ衝撃波でぐちゃぐちゃになった顔に虚ろな眼球でこちらを見ながら、ガーガーが歩み寄ってくる。

美羽「な……なんで、生きて…………!?」

 まるでホラー映画のような、それでも現実の光景に美羽は怯えた。まさか喉から背中までを貫かれて生きているような生き物がいるなどと誰が想像できようか。しかも二度もその衝撃を食らっているのだ。内臓にどれほどのダメージがあるのか。
 それでも、その獣は立っている。そのぎらついた瞳は、美羽の血に飢えていることは明白だった。

美羽「い、い……いやぁぁぁ!!!!」

 悲鳴を上げた瞬間、ガーガーが飛び掛ってきた。牙をむき出しにしてくらいついてきたその顔を、両手で押しとどめる。それでも、じりじりと血の滴る牙がじりじりと迫ってくる。

美羽「ふ、うあぁぁ……」

 今にも泣き出しそうになるのを堪えて、何かできないかと辺りを見回して……。

美羽「……………………」

 ぐっと、覚悟を決める。ガーガーを押しとどめている両手の力を、不意に抜いた。

ガーガー「ルァッ!?」

 落ちてくる巨大な顔をかわして、その顔面に突き立った黒爪を掴む。そして、全力で電気を生み出す。

ガーガー「ウルウウァァァッ!?」

 バチバチと青い火花が散り、ガーガーが顔をぶんぶんと振るが、美羽はその手を離さない。しがみ付く。意地でもこの手は、離さない!!
 顔ごと床に叩きつけても引きずっても離れないことを悟ったか、ガーガーは拳を作り、美羽へと向け――

美羽「先輩!!」

 美羽は叫び『弦衰』で雷を帯びた黒爪から一切の『磁力』を吸収した。
 生まれたのは、音ではなく衝撃。大気は撓み、歪んだ。
 光の尾を引いて射出された黒爪は、ガーガーの上半身を粉々に吹き飛ばし、天井の一部を吹き飛ばしてどこかへと一瞬で飛んで行った。
 美羽は半分の長さになった、いまだ電気を帯びてぱちぱちとなる黒爪を、力なく放り投げる。呆然とぼろぼろになった体育館を見回して――

美羽「先輩、ありがとうございました」
貴俊「いいええ、こっちこそ、生きていてくれてサンクスー。これで、大翔に殺されないで済むわ」

 冗談めかした言葉だったが、貴俊は口の端から血をたらし、全身少々どころかかなりやばい感じに痛めつけられていた。

美羽「ギリギリでしたねー……」
貴俊「ああ……にしても、悪かったなぁ。後味悪い役目任せちまって。本当は、俺がやるつもりだったんだけど……」
美羽「いいですよ。少し、兄貴の気持ちが、分かりましたから……」

 守るためとはいえ。命を奪うことが。どういうことなのか。
 かぶりを振り、ふらつきながらも立ち上がる。まだ射出の反動が全身に残っていた。
 最後の射出。ガーガーの頭に突き立っていた、二本繋がったままの黒爪に美羽が電気を流し磁力を発生させ、貴俊が『分離』をかけることで射出の条件を整えたのだ。まさかあれほどの威力が出るとは美羽も思っていなかったが。黒爪、どこまで行ったのかと心配に思う。まさか人に命中などしなければいいのだが。
 そんなことを心配しながら、まずはもっと心配しなければならないことを思い出す。

美羽「さ、先輩、行きましょう。兄貴がちゃんとできてるか、採点してやらないといけません」
貴俊「……俺としちゃあ、もうここで待っときたいくらいの感じなんだけどなぁ」

 などといいつつ立ち上がる貴俊。二人は体を引きずりながら、それでも前をむいて歩き出した。




 二人して投げ飛ばされた先は、理科室だった。
 陽菜はとにかくありとあらゆるものに擬態してどうにかダメージを回避しているが、エーデルはそうはいかない。加えて、いくらこの数ヶ月で多少鍛えたとはいえ元々が貧弱だったのだからその打たれ弱さも推して量れるというものだ。

エーデル「ぐっ……やれやれ、この僕がこんな肉弾戦を行う羽目になるとはね。まったく、美しくない話だ……!」

 机に手をついて立ち上がる。周囲を見回すが陽菜の姿は無い。机の影に倒れているのかもしれないと考え、ドアの外に視線を向ける。今敵から注意を離すわけには行かない。ただでさえ追い込まれているのだ。これ以上、隙を作って付け入られては、本当に勝ち目は無い。
 その巨体は、臆する必要などありはしないといわんばかりに、堂々と扉を開けて入ってきた。

エーデル「せぇいっ!!」

 蛇口が撥ね飛び水が噴き出す。その流れを操り、加速し、研ぎ澄まし雨のように矢のようにバードックに叩きつける。だが、いくら傷つけてもその傷は次々に修復されていく。異常なまでの回復速度。
 ぎり、と奥歯をかみ締めるエーデルの横を、机の上を飛び移りながら走り抜けていく影。

エーデル「ヒナ嬢、何を!?」
陽菜「えーちん、水止めて!!」

 エーデルは言われたとおりに、魔法を解除する。両腕を交差させてそれを防いでいたバードックは、ふと顔を上げて――その顔面に、陽菜は黒いビンを放り投げた。ガラスの割れる音がして、中の透明な液体がバードックに降りかかる。

バードック「ぎゃあぁぁぁぁっ!?!?」

 顔面を押さえもがき苦しむバードック。割れたビンのラベルにはこうかかれていた。H2SO4 硫酸。それを見たエーデルは顔を引きつらせた。彼も一応生徒として授業を受けていたおかげで、多少の知識は身についていた。それがどんな危険な代物かも。
 そして、更に陽菜がもうひとつのビンを取り出して見せた時、彼はくらりとよろめいた。
 それを――陽菜は、躊躇いなくバードックの体に叩きつけ、全力で避難した。陽菜の背後から眩い白い炎が立ち上る。あまりの輝きに目が焼けそうになり、エーデルは思わずその場に身を伏せた。陽菜もその隣に滑り込んでくる。

バードック「ぐあぁぁぁぁ!!!!」

 その叫びを聞きながら、エーデルは呆れた口調で陽菜に言った。

エーデル「まったく、過激な事をするな。硫酸に加えて金属ナトリウム粉末。どちらも危険な代物だ」
陽菜「これでも、化学の成績は悪くないんだよ?」

 的外れな受け答えに苦笑するエーデル。その顔を引き締める。

エーデル「しかし、それでは決定打にはならないな」
陽菜「うん、まあね。あくまで時間稼ぎだから」

 硫酸は洗い流さなければ取れないし、ひたすらに再生し続けるバードックの体にそれなりの効果はあるだろう。そして、あの眩い光は目くらましになる。しばらく、まともには動けないはずだ。その間に、何か策を練らなくてはならない。

陽菜「問題なのは、肉体の強化よりも再生だよね」
エーデル「ああ。どれだけダメージを与えたところで回復されたのでは意味がないからな」
陽菜「うーん……それにしても、あの再生を打ち止めにできればいいんだけど……エネルギーの元を断つとか? でも、魔法のエネルギーの元なんてわかんないわけだし……」

 そもそも、だからこそあのような歪な存在になったのだから。
 と、そこでふとエーデルは思いついた。エネルギーの元を断つことはできないが、エネルギーそのものを……魔力を枯渇させることができれば?
 無論、それは簡単な話ではない。見たところ、バードックはエーデルたちの世界の平均魔力の数倍を抱えている。それが二人分ともなれば相当な量になる。一般人でも、魔力を枯渇させるなんてこと滅多に起こらない。
 だが……もしかしたら。そう思ってポケットを探る。取り出したのは、一族に伝わる宝石。ただし空っぽ。しかしこの場合はそれでいい。

エーデル「この中に彼の魔力の全てを封印できれば――問題は、二つで足りるのかということだな」

 分の悪い賭けだ。軽く目算するが、正直足りそうにない。その場合はバードック残りの魔力が枯渇するまで戦う羽目になる。だが、やるしかない。覚悟を決める。

陽菜「……んー、ちょっとまってえーちん、それを使えば、あの人を倒せるの?」
エーデル「可能性は低いが、賭けてみるしかないだろうね」
陽菜「それじゃあ、陽菜にいいアイデアがあるんだけど」

 陽菜のアイデア。それを聞いたエーデルは目をむいた。本当にそんなことが可能なのか、いや、可能だとしてもそんなことをしたら陽菜の身の安全が保障できない。

陽菜「えーちん、迷っちゃだめ。それじゃあ陽菜が困るよ。せっかく、ヒロ君の助けになりに来たのに」
エーデル「む……。しかし君は、それでいいのかい? 君はその、ヒロト君のことを……」
陽菜「いいんだよ、それで。ヒロ君ね、陽菜のことを心配してくれてるんだけど、それってやっぱり、友達としてなんだよね。ユリアちゃんのそれとは違う。それはちょっとっていうかすっごい悲しいけど、でもやっぱり、嬉しいんだよね」

 そういって、陽菜は笑う。綺麗な笑顔だった。エーデルは何も言わずに、彼女に肯いた。
 ふ、と。背後から白い輝きが消えた。と同時に、バードックは怒りの咆哮を上げる。

バードック「おおおお! さすがに、僕も我慢の限界です! もはや容赦はない!!」

 立ち上がった二人は、その光景に愕然とした。バードックの上半身が更に盛り上がり、両手を床に突き刺している。ばき、と床全体が嫌な音を立てた。じり、と後ずさる。

バードック「うおぉぉ!!!!」

 バリバリバリィ!!

 教室の床が、その上のもの全てと一緒にめくれ返った。コンクリート片や木片や螺子やよくわからない金属など、あらゆるものをばら撒きながら砕けた床が二人に襲い掛かる。狭い教室の中に逃げ道はない。
 陽菜はくちびるを噛み、エーデルの前に出る。

エーデル「待ちたまえ!!」

 エーデルの言葉を無視して、その身を鉄塊に擬態させエーデルの身を守らんと瓦礫の嵐に立ち向かう。苦し紛れに水を呼び寄せて何とか身を守ろうと足掻きながら、二人は瓦礫に飲み込まれた。
 荒い息をつきながら、バードックはその光景を見ていた。瓦礫が落ちる寸前、隙間から見えたのは陽菜がエーデルをかばって前に出る姿だった。
 いくら鉄塊に擬態したとはいえ、瓦礫の中には同じ素材でできた鋭い破片も混じっていたし、何よりこれだけの質量が落ちてくれば鉄塊とはいえ無事ではすまない。おそらく二人は無事ではないだろうと、そう判断した。
 しかし。

エーデル「貴様ぁ……ただでは、済まさんぞ……!」
バードック「……何?」

 瓦礫の中から声が聞こえたと思った瞬間。青い輝きが全てを吹き飛ばした!

バードック「これは!?」

 水を纏ったエーデル。その腕に抱かれていたのは、腹に鉄の棒を生やして、ぐったりと力のない陽菜。その体を一度強く抱きしめ、床にそっと寝かせた。死んでいる。呼吸をしていない。明らかに、死んでいた。

エーデル「我が友を奪ったその罪――この名において、断罪する! 家名解放、我が名はエーデル! 我が背負うは、高貴なる青!!」

 青い輝きが、世界を覆う。それは光であり、同時に水であった。バードックは困惑する。触れていないのに、まるで触れているような感触の光。正体不明の現象に、どういう対応をしたらいいのか分からないのだ。
 それを睥睨し、静かに告げる。

エーデル「貫け、青き死神」

 光が弾け、辺りに闇が戻る。今まで光だったそれはバードックの周りで渦をなし、水へと変じ、刃と槌と矛と槍と斧と昆と死となりて、バードックに無限に襲い掛かる。一瞬で無数の武器に囲まれたバードックは、その身を削られ、しかしそれでも傷はすぐにふさがる。

バードック「負け……ぬ、ぐ……負けられないのですよ、僕は!!」

 重い水を振り切って、渦から抜け出す。受ける傷など気にかからない。どうせ再生されてしまうのだから。だから、大丈夫。
 そう考え、渦の中から水を滴らせながら上半身だけをどうにか抜け出す。ここまで抜け出せば、後は腕力で下半身を引きずり出せば……

陽菜「だめ、それ、無理だから」
バードック「え?」

 死んだはずの人間の声が聞こえた。それに気をとられた、それがまずかった。思わず、力を抜いた。
 ドッ!
 渦の中から現れた陽菜は。腹に鉄の棒を生やして青い顔をしながら、それでも懸命にバードックにしがみ付いていた陽菜は、『擬態』を解除する。
 水が、陽菜を形作った。バードックが信じられない、と表情をうかべる。エーデルも驚いている。二人が時を止めた瞬間、陽菜はその手を――宝石を握り締めたその手を、いまだ再生途中の傷へと突き入れた。

陽菜「えーちん! やって!!」
エーデル「あ、ああ、分かった!!」

 エーデルが手をかざした瞬間、バードックの体から凄まじい勢いで魔力が抜け出していく。エーデルの宝石に、吸収されているのだ。

バードック「ぐ、うあぁぁぁっ!? く、ぼ、僕の魔力を吸収するつもり、ですか……!? いい、考えですね、でも、この勢いじゃ、残念ですが少々容量ぶそ、くうぅぅ!?」

 突然、魔力を吸い出す速度が加速した。このままでは全身の魔力がなくなってしまうほどの勢いで。それにあわせて、全身の傷の癒える速さが目に見えて落ちていく。血が、パタパタと床に散った。

バードック「い、一体、なにが……!?」

 理解できないバードックは、視線を己の背中に向けて驚愕した。陽菜の体が、薄く、赤く輝いている。
 陽菜の魔法は『擬態』。その通り、その存在そのものへとなりきる魔法。つまり、陽菜は己の体を宝石へと擬態させている。

バードック「は、はは、は……まさ、か、こんなこと、が…………」

 エーデルの魔法によって付けられた傷はどれもが致命傷。それをふさぐ力がなくなっている今、魔力を吸い尽くされればバードックの命は終わる。
 ここまでか。くやしいとは思わなかった。ただ、諦めが体を支配していた。やがて……バードックは、静かに事切れた。
 それを見た陽菜は手を抜き、立ち上がろうとしてふらりとよろめく。

陽菜「お、っとっと。うぅ……気持ち悪い。あたた、えーちん、ちょっとこの棒、抜いてくれない?」
エーデル「あ、ああ。それは構わないが……失礼だがヒナ嬢、君は、確かに死んでいたと思うのだが……」

 ずりゅ、と嫌な音を立てて陽菜の腹から鉄の棒が抜き出された。あとが残るかなぁ、残ったらやだなぁ、などと考える。

陽菜「ああ、うん。あれね、ちょっと陽菜の死体に『擬態』してみたの。うまくいったけど、とりあえず二度とやりたくないや。あれは」

 死体への擬態。それは可能ではあるが非常に危険な行いだった。何しろ『擬態』の魔法はそのものになりきるのだ。つまり、少し間違えればそのまま本当に死んでしまいかねない。もっとも、陽菜はそんなことに気付いてはいなかった。ただ、危険だということを本能が察知したのだ。

陽菜「あうう……でも本当に気分が悪いよ、なに、これ?」
エーデル「君は我々の世界の魔力に適応していないからな。拒絶反応のようなものだろう。おそらく、明日まではまともに動けないはずだ。とりあえずこのまま、ここで休んで――」
陽菜「ちょっとちょっと、本気でそんな事いってるの? やだなぁ面白くない冗談だなぁ」

 などと冗談っぽい口調だったが、目が本気だった。置いていったら後でどんな目に合わされるか分からない。エーデルはため息ひとつ、陽菜に肩を貸して歩き出す。
 倒れたバードックを見下ろして、陽菜は少し考えるようなしぐさをしたあと、

陽菜「がんばったね。おやすみ、なさい」

 そうつぶやいた。
最終更新:2007年09月09日 01:03
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