世界が見えた世界・7話 C


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 目を覚ますとファミリーに囲まれていた。
 おう……ぱーどぅん?
「えーっと、これはどういう状況だ?」
 疑問を素直に口にする。美羽が猛然と怒りだした。
「どういうもこういうもないでしょ!? 聞いたわよ黒須川先輩に! 何危ないことしてんのよ!!」
 あー、なるほど。だんだん記憶が戻ってきた。
 つまりあれか。気絶した俺を貴俊がうちまで運んできたのか。この間遊びに行ったときに俺の家の場所はばれてるしな。
 いつつ……体を起こすのも一苦労だ。こりゃしばらくは日常生活も苦労しそうだな。
 リビングにはかつてない人数が集まっていた。美羽、美優、ユリアさん、レンさん、乃愛さん、沙良先生、貴俊。俺の顔見知りはほとんど集まっている。
 それにしても何年ぶりになるんだろう、美羽がここまで怒りを露にするのは。
「なんだ、貴俊もいたのか。あ、沙良先生もありがとうございました。それで、どこまで?」
「全部話したぜ。そうでもしないと納得してくれそうになかったからな」
 まあ、そうだろうな。それは仕方がないか。
 美羽、美優、レンさんそして――ユリアさん。それぞれ思うところはあるだろうが、全員が共通しているところは、俺に対して少なからず怒りを感じているという点だろう。この表情を見てそれを察せないなら、そいつは鈍いとか通り越してる。
 さて、どう答えたものか。
「えーっと、とりあえずごめんなさい?」
 逆鱗に触れた。美羽の平手が頬に炸裂した。きれいに吹き飛ばされて床にごろんと転がってしまう。
 美羽……か、仮にも怪我人に対してその仕打ちは酷いのでは……おや? か、体に力が入らないぞ。てこれはまさか!
「美羽さん!? あなたもしかして俺の体力根こそぎ奪ってませんか今!?」
 視線だけを美羽に向けると、鬼の形相で手の平をこちらに向けていた。怖い! あの目は俺を殺す目だ!
 美羽の魔法『弦衰』は、触れた対象と自分に不可視の糸を繋ぎ、その糸を介して対象のエネルギーを吸収するというものだ。この吸収するエネルギーはなんでもいいらしく、熱エネルギーから運動エネルギー、位置エネルギーなどさまざまなエネルギーを吸収してしまう。もっとも、巨大なエネルギーを吸収すると美羽の肉体のほうが持たないから限度はあるが。
 んで、そんな魔法を使って美羽は俺のエネルギーを根こそぎ奪っているのだ。勘弁! 勘弁して!! それ結構生死に直結しちゃうから! お兄ちゃんマジ冷たくなっちゃうから!!
 おのれよもやポーキァではなく妹の手で命の危機を迎えることになるとは!?
「無茶する兄貴にはこれでいいのよ、少しは反省しなさい! なんなら今後動けないように常に体力一定ずつ奪っていこうか!?」
「お、鬼子じゃあ、ここに鬼子がおる! ていうかお前今のは人の子の発言としてどうかとお兄ちゃんは思うわけですが!? 人権って言葉知ってるかお前!?」
 恐ろしいライフプランに背筋が凍る。この歳でベッドで介護生活は本気で勘弁いただきたい。あと指先がそろそろ本格的に動かなくなってきたんでやめて。なんかまぶたも重くなってきたんで本当にやめてくださいお願いします美羽様!!
「お姉ちゃん、このままだとお兄ちゃん明日には燃やさないといけなくなるから、もうやめよう?」
「葬式をやたらと遠まわしかつ恐ろしく表現するのはやめて下さい!」
 美羽の怒りを灼熱の烈火とするなら美優の怒りは極寒の氷河。
「ねえ、お兄ちゃん。みんながなんで怒ってるのか、わかる? あ、ふざけるのはダメだよ?」
 殺される。
 俺は今日、ここで殺される。本気でそう思った。
「……なんとなく、わかる。俺が、美羽の話を聞いたときと同じ理由、だよな」
 何よりも許せないこと。それは、自分の大切な人が、どこかで傷ついてしまうこと。自分に何の相談もなく、危険に飛び込んでしまうこと。自分が何もできないと思われていること。他にもいろいろあるかもしれない。一言じゃ説明できない、山ほど積み重なった泥沼みたいに重くて深い、いろいろな感情。
「うん、そうだよ。でもね、ワタシはそれ以外でも、ものすごく怒ってることがあるんだよ、お兄ちゃん」
 美優は俺の顔に手を当て、まっすぐに視線を合わせた。静かな深い怒り。その中にある、俺を思ってくれている気持ち。
 ああ、重いな。そう思う。その重みに押しつぶされないように、視線を合わせる。
「どうして言ってくれなかったの。言おうとも考えてくれないの。最初から最後まで、ワタシ達に少しでも話すことを相談することを、欠片も迷わずに選択せずにやってしまうの」
 静かな目。俺だけを静かに映す瞳。湖を覗き込んでいるような錯覚にとらわれる。水鏡のように。
「何でだろうな。性分ってことでも、ないと思うけど」
 ただ思考と感情がポーキァに限定されたとき、そのように体が動いていた。やるべきことを自分の中で考えて、それだけをひたすらに実行するように動いていた。
 人に説教しておきながら自分が同じことをするのは、まったくもってガキくさいと思う。やった後に気づいても意味がないけど。
 俺の言葉に美優がため息をつく。俺を見る瞳が――なんだろう、普段よりも柔らかくなっている。もしかしたら、美優は俺の行動の理由を俺よりずっとわかっているのかもしれない。
「ともあれ、ヒロト殿が無事で何よりだった。今後は同じようなことがないように願いたいものだがな。さすがに君が傷だらけでクロスガワ殿に抱えられてきたときは私も驚いた」
「すみません、心配かけまして」
 素直に謝る。
「本当だよ」
 ぎうぅぅぅぅっ!!
「いったい痛い痛い! ちぎれる、ほっぺが千切れる!!」
 今回のことは失敗だらけだったと思う。彼女達の日常を守るために、その不安要素を捕らえようとして失敗。話も何も聞けなかった。その上、こんな有様で帰ってきたものだから酷く驚かせただろう。
 日常を守ろうとして、日常にひびを入れてしまったわけだ。本末転倒てのはこういうことを言うんだろう。
 貴俊と目が合う。苦笑していた。
 乃愛さんと沙良先生は同じような表情で見ていた。説明は難しいが、なんかこう、見守られているというか、そんな感じだ。こそばゆい。
「ともあれ、これでこの件を知ってしまった人間がまた増えたわけだ。さらに複数の襲撃者も確認されたわけだな」
「ていうか、乃愛さんがバカ兄貴のことを止めてくれればよかったんじゃないですか?」
 美羽は頬を膨らませる。怒りは当然ながらまだ収まっていないらしい。まあ、まだまともに謝っていないしな。
 俺は美優の手を借りて、どうにか体を起こす。ああもう、美羽のヤツ。きれいさっぱり体力を抉り取っていきやがって。
「今日のことは、本当にすまなかった。俺一人でどうにかしようなんて思って、悪かった。心配をかけて、本当に、ごめん」
 謝罪の言葉を述べ頭を下げる。体がぐらつくけど根性で押さえ込んだ。
「……今度同じようなことしたら、うちの敷居はまたがせないからね」
「ああ……ありがとう」
 そっぽを向いたままの美羽の言葉に苦笑する。みんなの顔を見渡して、ああ、帰ってきたなと実感した。
「さて、今後の方針だが私は今後も君達を見守る立場を取り、同時にヒロト君の意思を尊重する。何しろ彼は放って置いたら勝手にしでかすからね。それならば協力をして万全の体制を整えた方が安全だ」
 まったくもっておっしゃるとおりなのでぐうの音も出ない。いつもながらきっついなぁ、この人は。
「ま、事情を知ったのがサラとタカトシ君というのは不幸中の幸いだといえるね。サラはこれでも様々なことに精通しているし、タカトシ君は……ま、これは私が言うことではないな」
「雑学を溜め込むいい機会だと思ってんで、まあテキトーに巻き込んでくれると嬉しいね」
 というよりは、久々に全力で暴れる機会ができて嬉しいだけだろう、お前は。
 貴俊の性格をある程度把握しているはずの乃愛さんは、貴俊の建前に苦笑する。嘘は言っていないけど本当は言ってないからな、否定しない。
「それで、私の提案だが……この三人ももう調査に加えるべきだと思う。というか、ある程度固まっていたほうがいい。何しろ敵は姫を狙ってきているしヒロト君とタカトシ君は相手に顔を覚えられている。それを夏休みの間中単独で行動させるのは、多少危険が伴うと考えられる」
 乃愛さんの言葉に納得の表情を見せるみんな。確かに、そのとおりかもしれない。特にポーキァは俺達に対して敵愾心を強く持っていてもおかしくない。あれだけ罠にはめてはめてはめてやったんだし。
 あれだけ罠にきれいにはまってくれるとこっちとしてはものすごくやりがいがあったのは事実だけど。
「というわけで、夏休み中タカトシ君は彼らとなるべく行動をともにしてくれ」
「ういーっす。まあこっちとしても四六時中一緒にいられるなら願ったりっすよ」
 おい、こら。なぜこっちを見る。体にしなを作るんじゃない、気色悪い。
「サラは保健室にいるのだろう? なら彼らを……特に、ヒロト君達と一緒にいない人を気遣ってくれ。敵の顔がわかっているのはこの中では君達だけだからね」
「ん、まかしとき。ましゅまろも、がんばろな」
 ぽんぽんと跳ねるましゅまろ。だからどういう原理で動いてるんだ、それ。
「今後は敵の存在にも気をつけながらの調査となるから、君達それぞれがよく気をつけてくれよ。こちらも、一応各所と連絡をしてはいるが色々と難しいことになってきているからね」
「ああ、わかった。調査はもう数日もかからないうちに詳しい結果が出せると思う」
 レンさんの話によれば、数日前に仕掛けた探査の魔法で詳しい魔力の配分や量の分析ができるので、その結果をみればどんな原因があるのかを特定できるということだ。
 後数日。それで調査は終わり。
 その結果しだいで、今後の動き方が決まってくる。




「今日はお兄ちゃんのこと、ありがとうございました」
「それが教師の仕事やからな。あんたも見送り、ありがとな。馬鹿兄貴はしっかりベッドに縛りつけておくこと。治るもんも治らんくなるからな」
 まさか生徒と共に命を賭けて戦うのが仕事の教師など聞いた事がない。沙良の言葉に美優は小さく笑った。沙良はその意味を悟りながらも何を言うでもなく、美優に背中を向けた。
「それより黙っててええんか、あんたがあの場に来たことは」
「言っても仕方ないですし、本当に、私は見に来ただけ、ですから」
 その声だけでわかる。美優が嘘をついていると。しかし沙良の知る限りでは美優がポーキァとの戦いに参加した事実はない。となれば……。
「ヒロト君たちが見たという、狐の面の男、かな?」
「あははは、何のことでしょう」
 その余りの白々しさに、乃愛も眉をひそめた。
「……ミユ、君は何を考えている?」
「『何も』」
 小さな声で、それでも力のこもった声で。けれども視線は合わせずに。美優は小さくくちびるを噛む。乃愛はそれを見て続けようとした言葉を飲み込む。
 美優は嘘をついていることを隠そうとしていない。そもそも隠しごとができるような性格ではないのだ。それでも嘘をついていると示すことで、相手の意思を拒絶している。
 はぁ、と大きなため息が場の空気を破った。貴俊だ。
「ま、いいんじゃないすか。今後はみんなまとまって行動するんですし、特別美優ちゃんが危険になるってこともないっしょ」
「しかしだね……」
「どーせ何も言いませんって。あいつの妹なんですよ? こういっちゃあなんですが、美優ちゃんは美羽ちゃんよりずっと大翔よりの性格してると思います」
 その言葉に乃愛も大きくため息をついた。あまりといえばあまりな言い分だが、妙な説得力を持っていたからだ。
「血よりも濃いものに毒されとるんやなぁ、ましゅまろ」
「サラ、星を見上げながらしみじみ言わないでくれ」
 三人を見送った美優は小さく肩を落とした。
 美優がエラーズとの接触について語らなかった理由はただひとつ。彼の魔法あるいは能力についての話になることを恐れたからだ。そうなれば、自分の魔法についても語る必要性が出てくるかもしれない。
 結城美優の持つもうひとつの魔法――ユリアたちの世界の通常魔法。
「魔法、かぁ……」
 手を月にかざす。柔らかな光が遮られ、指の隙間から淡い輝きが漏れた。
 その指先に小さく光がともる。蛍の光のような、幻想的な小さな光。
「美優ーっ、何してるの?」
「うひゃあっ!?」
 突然の背中からの声に急いで振り返れば、そこには姉の姿が。いつも通りの元気な姿に見えるが、美優にはそれが無理をしているのだと当然のように理解できる。
「ううん、なんでも」
「それなら早く家に入りなさい、もう、夜も遅いんだから」
 そしてそれは自分も同じだろうな、などという考えがふと浮かんだ。
 失いたくない。ただその一心が美優を衝き動かした。だからこそ、もう一度手にしたこの力。しかしそれでもやはりそれを打ち明けることには恐怖が付きまとう。
 だから、
「……うん、お姉ちゃん」
 笑顔で忘れる。そうすれば心に残るのは、今ここにある全てだけになる。
 失いたくないこの全てに包まれることができる。




 ベッドには貴俊に運んでもらった。食事する気力もなかったので、ブロック型のバランス栄養食をジュースで無理やり喉に流し込む。体は疲労でもすぐにでも眠ってしまいたかったが、やっぱり戦いのことが響いているのか寝付けない。
 暗い部屋の天井を見上げ、ぼんやりと今後のことについて考えていた。
 俺は明日からの調査に参加。とはいえ、俺達のやることはほとんどないだろう。護衛……するのかされるのか微妙なラインだな。まあせいぜい、ポーキァや変態仮面がいないか注意するくらいだろう。
 相変わらず、何もできないな。はぁ……。
 そのとき、きぃ、と扉の開く音がした。静かな足音がゆっくりと近づいてくる。
「ん、誰……?」
「ごめんなさい、起こしてしまいましたか?」
 ユリアさんだった。そういえば、さっきの話し合いの間中ずっと暗い顔をしていた。何か気になることがあったんだろうか。
 首をめぐらせてユリアさんを見ると、どこか落ち込んでいるような雰囲気だった。どうしたんだろう?
「立っていないで、その辺にある椅子でも座布団でも、好きに使いなよ」
「はい……あの、ベッドに腰掛けてもいいですか?」
 ……いや、いいけども。いいけども! なぜか胸の鼓動が高まる。おいおい、別に他意はないんだって落ち着けよ結城大翔。
 俺は体を少しずらして、ユリアさんが座るスペースを空ける。体を起こそうともしたんだけど、寝ていてくれといわれたのだ。まあ確かに体はしんどいままなのでお言葉に甘えさせてもらうことにした。
 すっと、やさしい手つきで柔らかなユリアさんの指が、俺の腕の火傷のあとをなでた。それだけで、痛みが少し引いたような気になってしまうのはどうしてだろう。
「痛かった、ですか? こんなに酷い怪我をたくさんして、辛くはなかったですか?」
「いや、痛かったし、辛かったよ。あんなに痛い思いをしたのは、そんなにないと思う」
 火傷もそうだが、打ち身や切り傷もいくつも負った。全身、傷を負わなかった場所はないくらいにいろんな場所に傷を残した。
「それでも、ヒロトさんは少しも泣こうとは思わなかったんですか?」
「うーん、泣こうとは思わなかったなぁ」
 泣くことはできないと、なんとなく思う。
「そうですか……ねえヒロトさん。あなたにとって、泣くって、どんなことですか?」
 不思議な質問をするなと思う。でもなんか声が心地いいし、疑問なんかどうでもいいか。
「泣く……かぁ。どうなんだろうな。そういえば、もう結構な間、泣いてないような気はするけど」
 ぼんやりと、意識が朦朧としてくる。まるで子守唄を聞いているみたいだ。
「ヒロトさん。私があなたが帰ってきたとき、その姿を見て、そしてあなたが何をしていたのかの話を聞いて、すごく、悲しかったです。寂しかったです」
 柔らかな暖かさが手を握る。眠りにつこうとする体で、小さく握り返した。
「ヒロトさんは、きっとこんな気持ちだったんですね。あなたが時々浮かべていた辛そうな笑顔の意味が、わかった気がします」
 あれ。そんな顔、してたんだ。参ったな、今度からは、もっと、気をつけ、ないと。
「どうしよう、ヒロトさん。私には我慢できないよ」
 握った手が引き寄せられて、熱い雫が指を打った。
 どうすることもできなくて、ただ、その手を強く握り返す。
「どうしてそんなに、あなたは強いのかな」
 そんなことない。強いなんて、そんなこと。
 俺は、ただ……。
「意地……はってる、だけだから。もう自力で立ってられない、気がするから。だから、強いんじゃなくて、怖がりなんだ、俺」
 もう、眠いな。何を言ってるのか、自分でも、もう……。
「泣くのが、怖いんだ……あの、」
 ああ、なんだろう。この暖かい雫が、なんだか懐かしい。
「雨の日から」
 ――耳の奥で、雨がざあざあと、大地を叩いていた。




 いつの間にか、彼は寝てしまっていました。
 あの雨の日。それが、果たしてあの日なのか、それはとても気になったけど、でも結局聞けませんでした。怖くて。
 ねえ、ヒロトさん。
「私は、あなたの傍にいていいのかなぁ」
 この胸にこみ上げるのは、小さな希望? それとも絶望?
 湧き上がる涙を堪え切れなくて、私は彼の手をただ握り締めるしかなかった。暗いこの世界で、それだけがただひとつの暖かな光に思えた。




 ざあ、ざあ。ざあ、ざあ。
 灰色の景色の中、透明な雨が体をぬらしていく。すべてが終わった今、俺の心にはうすぼんやりとした疲労感だけが残っていた。
 あたまはぼうっとして、何を考えているのか自分でもよくわからない。目を閉じると浮かんでくるのは、親父の安らかな顔だった。同じような顔は、四年前に見た。そのときは、母さんだった。
 結局、俺の両親は俺達兄妹の制服姿を見ることができなかったことになる。それを、俺は寂しいと思う。両親も妹達も、とても寂しいと。
 だから、俺ががんばろう。
 親父と母さんの代わりなんてできないだろうけど、せめて親父達ができなかったことを代わりにしてあげよう。料理も、洗濯も、掃除だって全部できるようになってやる。妹達が入学して卒業するのも、全部お祝いする。俺が全部やってやらなくちゃいけない。
 今日からは、やることがたくさんある。だから休むのはこれで最後だ。
「立たないと」
 口に出して、歯を食いしばる。頑張ろう。その決意を込めて立ち上がる。
 ブランコが、きぃ、となった。
 そういえば親父と数日前に、なぜかブランコに誘われた。この年にもなってなんて思ったけど、親父に無理やり引っ張られて。あのときから、なんとなく今日という日を迎えることはもうわかっていた。ううん、ずっと前から、本当はわかっていた。
 思い出が、心を押し潰す。
 あんなに楽しい思い出たちが、笑顔がいっぱい詰まった思い出たちが、こんなに、苦しいんだ。
 空を見上げる。瞳の奥が加熱したから、それを冷やさないといけない。零れそうになるものを、無理矢理押さえつける。
 突然、誰かから声をかけられた。
「ねえ、なにをしてるの?」
 俺と同じくらいの、女の子の声だった。
「別に。空を見てただけ」
「どうして空を見てるの?」
「理由なんかないよ。ちょっと、見たくなっただけ」
 強い雨が顔を流れていく。額を流れていく。あごを流れていく。頬を流れていく。目じりを、流れていく。顔に当たって暖かくなった雫たちが、流れていく。
「そうなの。でもあなた、まるで――」

 ――泣いているみたい。




 はっと目を覚ますと、朝日が顔を差した。どうやら昨日はあのまま寝てしまっていたらしい。
 全身に残る疲労感を感じ、昨日の一連の出来事が頭をよぎった。今日の朝食は多めに取っておいたほうがよさそうだな。普段よりも空腹な気もするし、今日もまだしんどい一日になりそうだ。
 心なしか体も硬い。いや、体が硬いというよりは、まるで全身を締め付けられているようだ。さらに言えば、布団とはまったく別種のぬくもりに包まれている。これがまたなんとも安心できる暖かさなのだ。そして柔らかい。うん、まあ、なんだ。
 視線を、横に移すのがこんなに怖いことだとは知りませんでした。
 はっはっは。まあまあ落ち着きたまえよ結城大翔。いいかい、いくらなんでもそんなことがそうそうあってはいけないに決まっている。これは俺の気のせいだそうに違いない。そんな、美優みたいなこと、ねえ?
 ぎぎぎ、と顔をゆっくりと回転させると、そこにはほら。
 ユリアさんの寝顔がありました。ていうか抱き付かれております、ハイ。
「う――わ」
 いやいやいやいや、え、なにこれデジャブ? 結構前に美優が同じようなトラップを仕掛けていったことがあった気がするけど、あれ、今度は、あれ?
 と、とにかく落ち着くんだ結城大翔。動悸を抑えろ、そう、心臓が停止するほどまでに抑えるんだ!
 死ぬやん。
 まずは落ち着け、冷静になれ! そう、落ち着け、落ち着いて……はぁぁ、今日もいい天気だ。いい終業式になりそうだなぁ。
 違ぁー! 落ち着きすぎても意味がないんだよ、なんだ今の、縁側のおじーちゃんか!? とにかく、ユリアさんを起こさないと!
 ユリアさんの顔を見る。そういえば、学園案内のときにもこんなに近くになったっけ。やっぱり、綺麗な顔立ちをしていると思う。朝日に輝く髪も見事だった。その唇からは、ゆっくりと呼吸が漏れている。
「…………………………………………はぁっ!?」
 だから! 見とれてる場合じゃないんだってば!
「ユリアさーん! おきて、起きてくださーい!」
 小声で強く訴えかけるという器用な技を編み出した。人間やれば何でもできる。
 何度か声をかけているうちに、ようやくユリアさんがゆっくりと目を覚ました。
「……………………ぇ? ええぇええぇええええ!?」
 がばぁっ! ごちんっ! と布団から飛び起き、ベッドから転げ落ち、ずざあぁぁ! とすさまじい勢いで壁まで後ずさる。
「お、落ち着いてユリアさん! ほら、大丈夫、俺は何もしていませんから!」
 ……してないよね? ちょっぴり自信が持てない俺だった。
 だが、ユリアさんはどうやら思い当たることがあるらしく、すぐに冷静になる。
「ふぅ……よかった。この光景を人に見られたらどうなっていたことか」
「どーなるの?」
「そりゃあお前、やっぱりいつものパターンとしてはどつかれ……っておい!? 陽菜、お前そんなところで何してる!?」
 陽菜が部屋の窓枠に座っていた。いつの間にっていうか、見た? 見られた!?
「いやぁ、陽菜ちゃんビックりだね。まさかヒロ君が朝から野獣にトランスフォームしちゃってるなんてねー」
「おおおおおちおち、落ち着け陽菜! おおお、俺は何もややや、やましいことはしていないぞっ!?」
「うん、とりあえずヒロ君が落ち着こうね? ところでヒロ君、本日の朝の感想は?」
「とても柔らかかったです」
 焦ったせいか、口が勝手に動いていた。
 しまった、と思ったときにはもう遅い。鋼の拳が、吸い込まれるように顔面へ。
「ぶげふぅっ!?」
 朝日を受け、華麗な放物線を描く俺。ああ、朝からなんでこんなことって、着地点にユリアさんが! 危ない、危なーい!
 どしん、と重苦しい音を立てて、ユリアさんにぶつかってしまった。音の割に柔らかいというか気持ちいい感触が広がる。
「う……ユリアさん、平気?」
 まともに受身を取れなかったせいで、ユリアさんに覆いかぶさる形になってしまった。いつかとは逆の光景だ。
 つまり近い。
「ひ、ひゃい! だいじょうぶれふ!」
 お互いに顔を真っ赤にして硬直。
 そんなこんなでもたくさしていたのがいけなかった。
「ちょっと兄貴ー。朝から何ばたばた……何してんのよこのバカ兄貴ぃぃぃぃ!!!!」
「お、落ち着け美羽! これは陽菜の大いなる陰謀がってあのやろういつの間にか姿消しやがった!?」
「言い訳は結構よ! 今日はもう許さないわ、その体中の変態エネルギー、枯渇させてやるから覚悟しなさい!!」
「とか言いつつ目は、目潰しは――ッ!? うぎゃあああああああ!!!!」
 お父様お母様へ。今日も妹は無闇に元気です。
 追伸。
 近々そちらへいくかもしれません。
ツールボックス

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